キューバ人は野球の宣教師

By PAUL BRINKLEY-ROGERS Miami Herald Staff Writer  

 

この文章は1997年10月24日にマイアミ・ヘラルド(Copyright © 1997 The Miami Herald )に掲載されたものです。結構面白いので、誰かが自分のホームページに転載していました。そこからいただいたものです。

 

リバン・エルナンデス

皆さん、ラテンアメリカにおける野球の草創期を思い浮かべるとき、リバン・エルナンデス(Livan Hernandez)の名前を決して忘れてはなりません。

またの名をネメシオ・ギヨー(Nemesio Guillot)と呼ばれるこのキューバ人は、米国の大学に留学して野球をおぼえました。1866年、彼がハバナに戻ったときラテンアメリカに野球(beisbol)が生まれました。

たしかに、これはひとつのバージョンです。野球がラテンアメリカに定着した道筋については、ほかにもいろいろな物語があります。たとえば、20世紀の初めにニカラグアに侵入した海兵隊が、野球を持ち込んだという説もあります。またメキシコに油田が発見されたとき、掘削にあたった米国石油会社の社員が持ち込んだという説もあります。

しかしキューバにおいては、それらの歴史をはるかにさかのぼります。それは米国で野球が始まってからわずか10年後のことでした。ひょっとしたらそれは、米国の船員がマタンサスの港に停泊したときのことだったかもしれません。そしてそれを見物していたキューバ人が、おそるおそるバットやボールを手にしたのかもしれません。

スペイン支配への抗議の手段

野球をすることは、スペインの支配にたいする抗議のひとつの手段となりました。だからスペインの当局は、キューバで外国風のスポーツがブームになったとき、それを押さえつけようとしたのです。

(訳者注 1868年にスペインからの独立を求める第一次キューバ独立戦争が始まっています。それは10年にわたって続きました)

独立運動に肩入れするキューバ人野球選手は、はるかかなた、当時スペインの植民地だったモロッコへと追放されました。ほかの選手たちも、隣のドミニカや南米大陸のコロンビア、ベネズエラなどの国へと亡命していきました。

今日それらの国は多くのメジャーリーグの選手を輩出しています。その多くがフロリダ・マーリンズやクリーブラント・インディアンズなどに在籍しています。

キューバ人は、野球の宣教師であった

たしかに米国のビジネスマン、船員、学生、一山当てようともくろんだ連中、そしてとくに海兵隊員たちは、野球をラテンアメリカに広めるのに力になりました。

しかしプロ野球に関係する人々の多くは、キューバ人の野球の普及に関する熱意こそが重要な役割を果たしたと認めています。キューバ人は野球をあたかも信仰であるかのように各地に広めて行きました。征服者(conquistadores)の時代、修道士がアメリカ大陸にカトリック信仰を広げたように…

野球スカウトのオスカル・フエンテスは、カラカスの大通りの雑踏の中から携帯電話でこう語りました。

「わが国には2020万の人々が住んでいる。その国から大リーグに33人の大リーグ選手を送り込んでいる。これはドミニカに次ぐものだ。ドミニカはもっとすごい。その国には750万人が暮らしているが、その小さな国から、81人もの大リーグ・プレーヤーを送り出しているというからすごいものだ」

フエンテスは続けます。

「キューバ人は、カリブ海を取り囲む国々に多くのものを与えてくれた。タバコもそうだ。しかし他のどんなものよりも、彼らは我々に野球を与えてくれたんだ」

キューバのメジャーリーガー

米国でプロ野球選手となった最初のキューバ人は、エステバン・ベリャンでした。愛称を「スティーヴ」といった。ベリャンは1870年代にニューヨーク州トロイのヘイメイカーズ球団の捕手を勤めました。

それからキューバ人選手はどんどん増えました。カストロが1959年に権力を握ったとき、60人のキューバ人がメジャーでプレーしていました。

しかし今やキューバ生まれの現役メジャー選手は8人しかいません。メッツのエルナンデスとレイ・オルドネス、オリオールズのラフェエル・パルメイロ、オークランド・アスレティックスのアリエル・プリエトとホセ・カンセコ、ジャイアンツのオズバルド・フェルナンデス、カージナルスのトニー・フォッサスとエリ・マレーロです。

(訳者注 これは10年前の情報で、今や大リーグを代表する打者となったヤンキースのアレックス・ロドリゲスやコントレーラスは入っていません)

長いあいだ、大リーグにはカラー・バリアと呼ばれる人種障壁が設けられていました。白人しか大リーグではプレーできなかったのです。ラテンアメリカのプレーヤーのうちでもメジャーで活躍できる人はわずかでした。

(訳者注 大リーグに入れない黒人プレーヤーは、ネグロ・リーグというグループを結成して、黒人同士で試合をしていました。ジャッキー・ロビンソンはネグロ・リーグの花形選手でした)

1947年、その壁が破られました。ロビンソンがブルックリン・ドジャーズに採用され、プレーすることになったのです。それ以来、門戸が明け放れました。ラテンアメリカのプレーヤーがメジャー目指して殺到するようになりました。

1990年代までに、1万2千の選手が大リーグに籍を置きましたが、そのうち600人はラテンアメリカ出身の選手でした。今シーズン末の時点で、ラテンアメリカ生まれの選手184人がメジャー・リーグの各球団に所属しています。

南を目指して

ロビンソンが人種の壁を打ち破る前、アフリカ系アメリカ人のプレーヤーは、ラテンアメリカのチームによって熱心に迎え入れられました。特にメキシコとドミニカが熱心でした。

たとえば1930年代に、ドミニカの球団「ドラゴンズ」(Dragones)にはドミニカ人を上回るネグロ・リーグのプレーヤーが在籍していました。黒人ばかりではありません。今日のような天文学的な給料となる前の時代には、白人のプレーヤーも南を目指しました。オフシーズンとなる冬、ウィンター・リーグでプレーするためです。

独裁者と野球

ラテンアメリカのチームには、フランチャイズ・シティーに所属していないものもあります。中には独裁者の個人的持ち物であった場合もありました。それは通常のリーグとは別にプレーしていました。

こう語るのは、ニカラグアの首都マナグアにある「ヌエボ・ディアリオ」紙の編集長フランシスコ・チャモロ(左打ちバッター)です。

「私がアナスタシオ・ソモサの時代で覚えていることといえば」と、かつてサンディニスタによって追放されたニカラグアの独裁者について続けます。

「彼が野球チームを所持していたということです。それは“Cinco Estrellas”(五つ星)と呼ばれていました。だから両チームが対戦したとき、もしあなたが独裁者ソモサに反対なら、あなたはマナグアの球団ボエルス(Boers)を応援したでしょう」

ボエルスは今もプレーしています。“五つ星”はもうなくなってしまいました。

“五つ星”と同じようになくなってしまった球団があります。ダントス(Dantos)です。この球団はサンディニスタによって組織されました。でも、大統領選挙でチャモロの叔母ビオレータ・チャモロに負けたあと、球団も消滅してしまいました。

(訳者注 ビオレータは反サンディニスタですが、フランシスコとヌエボ・ディアリオ紙はそうではありません。詳しくはニカラグア年表をご参照ください)

ドミニカ共和国では、独裁者ラファエル・トルヒージョは球団のスポンサーとなっただけではありませんでした。チーム名にも彼の名前を冠したのです。そこで集まったフアンたちは、彼の名前を叫ばなければなりませんでした。

あるときキューバのチームがやってきて「トルヒージョス」と試合をしました。試合はキューバ有利のうちに進み、やがて勝利が目前となりました。

彼はキューバ・チームのメンバーのうち何人かを逮捕するように命令しました。こうしてキューバの勝利は妨げられたのです。

野球と愛国心

米国人はときに、ダイアモンドの上に針のように刺す非難のまなざしを感じることがあります。

チャモロはいいます。

「キューバやニカラグア、ドミニカなどは、これまでしばしば、米国によって占領されました。占領の先頭に立ったのがアメリカ海兵隊です。地元のチームは、海兵隊のチームに試合の誘いを受けます。それは彼らが民族主義をあらわにし、愛国心を鼓舞する絶好の機会でした」

しかし、ドミニカの首都サントドミンゴでスポーツ放送のアナウンサーを務めるトニー・オルテガは別の意見です。

「ドミニカ共和国では野球について悪く言うものは誰もいません。アメリカは良いが、野球はだめだとかね。だから、あなたは“ヤンキーよ、出てゆけ!”と叫ぶことはできても、“くたばれ、ヤンキーズ”とは決して言えないんです。政治はひとつの出来事にしか過ぎません。しかし野球は神聖なものです」

大リーグが変えるラテンアメリカの生活スタイル

レークワースに住むレネ・フランシスコは、ドミニカにおけるアトランタ・ブレーブスのスカウトを勤めています。彼はこう語ります。

「大リーグはカリブ諸国に多くのプレーヤーを求めています。それはその国の生活を変えています。国中の子供たちが野球をしています。小さな子供たちは空のプラスチック・ボトルをバット代わりにして遊んでいます」

多くのメジャー・チームがカリブの国々に野球アカデミーを持っています。それぞれのアカデミーにはおよそ30人が所属しています。

「アカデミーでは、彼らは英語を学びます。そして教育を受けます。たとえ彼らが米国行きにまでいたらなかったとしても、それでよりよい人生を送れるようになるのです」

2007年2月  

追補 もう一人のリバン・エルナンデス

インターネットでリバン・エルナンデスと入れると、もう一人のリバン・エルナンデスが出てきました。1995年にキューバから亡命して、メジャーリーグ入りし、97年にフロリダ・マーリンズをワールドリーグ優勝へと導いた立役者です。その後サンフランシスコ・ジャイアンツなどいくつかのチームを転々とし、現在はアリゾナのダイアモンドバックスにいるようですが、いまも10億円プレーヤーです。

それで、もう一度原文に当たってみると、まさしくその通りで、97年に「もう一人のリバン・エルナンデス」が活躍し始めたとき、マイアミ・ヘラルドの記者が「もう一人のリバン・エルナンデスを忘れてはいけないぞ!」といって書いたのが、このレビューでした。大変不勉強で失礼いたしました。

お詫びかたがた、キューバ野球の年表を載せておきます。ハバナ・ジャーナルの翻訳ですが、もともとは07年4月のサンアントニオ・エキスプレス・ニュースの記事からの転載のようです。

 

 

2007年7月