キューバ 苦悩の十年

ソ連崩壊から経済の自力再生まで

 

キューバ経済についてはいろいろな見方があります。その中でかなりムッと来たのは京都大学のある教授の、「キューバは中国を見習え」というご託宣でした。

一言で言って、キューバは「いじめ」を受けているのです。バチスタ独裁政権を打倒した1959年の革命以来、50年近くにわたってアメリカの「いじめ」を受け続けているのです。共産主義だとか、独裁だとかという話ではありません。キューバがあまりに米国に近すぎるために生じた、まさに理不尽ないじめです。

そしてキューバが「いじめ」に耐え続け、ひざを屈しないことが憎たらしくて、ますます「いじめ」に拍車がかかっているのが、最近の動向です。だから私たちは、思想や主義・主張などではなく、「いじめ」をやめさせるよう運動していかなくてはならないし、なによりも「いじめ」に耐えているキューバの「明日のジョー」たちに敬意を払い、その努力を支持していかなければなりません。それは人倫の問題です。

 

1989年 苦悩の始まり

ソ連・東欧崩壊の引き金となったのは天安門事件でした。天安門前の広場には五月ごろから学生らが集まり始め、解放区のような様相を呈していましたが、これが軍により弾圧されたのが、6月4日のことでした。

しかしその前から崩壊への動きは着実に広がっていました。キューバにおいてその象徴となったのが、四月のゴルバチョフ訪問でした。米国を訪問したゴルバチョフは、米国政府との蜜月関係を強調したあと、その足でキューバに向かいました。

キューバ議会で演説したゴルバチョフは、お得意の「人類共通の価値優先」を基調とするペレストロイカ路線を強調します.しかしこれは話の伏線で、真の目的はニカラグアへの武器援助停止についてカストロの理解を求めることでした。さらにキューバ軍のアンゴラへの派兵についても、これ以上の援助は出来ないと迫ります。

ゴルバチョフはこれと引き換えに今後25年間の技術協力を取決めた友好協力条約を提示しました。貿易先の87%がコメコン諸国で占められていたキューバとしては、飲まざるを得ない条件でした。それは煮え湯を飲まされるような屈辱感を伴ったものでしたが、今にして思えば、それは当時のゴルバチョフ政権が提示できるぎりぎりのものでした。

カストロは「ペレストロイカを受け入れることは,我が家で他人の妻と住むようなもの」と、相当えげつない談話を発表し、憂さを晴らすことになります。それは援助を打ち切られ、野垂れ死にを余儀なくされたニカラグアのサンディニスタ政権へのエクスキューズでもありました。

ちょうどそのとき私はニカラグアの首都マナグアに滞在していましたが、このニュースを聞いても不思議と負ける気はしませんでした。レーガン・ブッシュ政権も相当にへたり込んでいたからです。エルサルバドルでは政府軍のヘリが地対空ミサイルでバンバンと打ち落とされ、ファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN)は「解放の日は近い」として、「最終決戦」を煽り立てていました。

しかし、ゴルバチョフとの会談でカストロが受けた危機感は相当深刻だったと思います。彼は7月の革命記念式典で次のように演説しています。

「もしも,明日,或いはある日,ソ連で大きな内戦が勃発したというニュースで目を覚ますことがあっても,或いは,ソ連が解体したというニュース,それは決して起こらないようには望んでいるが,そういうニュースで目を覚ますことがあっても,そういう状況にあってもなお,キューバは存在し,キューバ革命は闘いつづけ,抵抗し続けるであろう」

いずれにしてもはっきりしていることは、いっぽうでアンゴラ支援、もう一方でニカラグア・エルサルバドル支援という二正面作戦を続けることは到底不可能だということです。そこでとりあえずアンゴラ作戦の終了と迅速な撤退を行うこととなりました。

6月にはオチョア事件が発覚します。アルナルド・オチョア中将はキューバ軍内でもっとも有名で人望のあった将軍でした.アンゴラ進駐軍の司令官,エチオピア,ニカラグアにおける最高軍事顧問を歴任し,逮捕当時はキューバ最精鋭といわれる西部軍の司令官を務めていました.オチョアは軍内強硬派としてアンゴラ撤退に反対していたといわれます.

そのオチョアを先頭とする軍最高幹部14名が麻薬コネクションに関する疑惑で摘発されました。さらに6月下旬には、コカイン密輸への関与の疑いで内務省の幹部グループが逮捕されます。このうちオチョアら首謀者4名が銃殺刑となります。

この「粛清事件」は、いくつかの意味をふくんでいます。彼らの言葉どおりにいえば「今日の世界で,威信も道徳感もない国は無防備だ.英雄的な人民から名誉を奪うことは力を奪うことに等しい」ということでしょう。

しかし軍や内務省内の武闘派が一掃され、カストロ兄弟にますます権力が集中したことも間違いありません。来るべき大変革に向けて国内の一本化が図られたことも間違いありません。

さらに「麻薬」に対する厳正な態度を示すことで、米国との関係修復の動きを水面下で進めようとしたことも間違いないでしょう。たとえば、米連邦議会下院のレインジェル麻薬対策委員長はこの事件も念頭に置きながら,「ブッシュ政権は反共政策をもてあそんでおり,キューバの麻薬対策への協力の意志を無視している」と発言しています.

10月にはソ連のシェワルナゼ外相がニカラグアとキューバを歴訪、カストロと会談しています。おそらくゴルバチョフよりはるかに厳しい提案をしたものと思われます。会談後カストロは、「われわれはすでに若干の影響を被りつつある.われわれは深刻な困難に直面することになろう」と述べています。

1990年 激動、その第一波

89年の末、「ベルリンの壁崩壊」が起こります。そして東欧最後の「社会主義国」ルーマニアではチャウシェスク議長夫妻が民衆の手で「処刑」され、激動を締めくくります。

得たりとばかりにブッシュはパナマに侵攻し、「ノリエガが隠れている」との口実でキューバ大使館やニカラグア大使館まで襲撃します。マイアミの亡命キューバ人は,車に「来年(のクリスマス)はハバナで」とのステッカーを貼り武力侵攻をあおりました.準軍事組織は半ば公然とフロリダ湿原での軍事訓練を再開します.

バチスタ独裁政権が崩壊した日から31年経った90年1月1日、カストロは次のように演説しました。「社会主義陣営の存在はキューバの達成した成果の土台であった.その崩壊により,経済面,特に物資調達の面で深刻な事態に直面している.今年の見通しでさえ定かでなく,ましてや来年からの見通しを立てることは困難な状況にある」

その一ヵ月後には、その「見通し」について「我々は”平和時における非常時体制”の計画を作成しなければならなくなった.最悪の事態を予測して,その対策を立てなければならない」と、さらに踏み込んだ発言をしています。この”平和時における非常時体制”(el Periodo especial en Tiempo de Paz)という言葉が、その後の経済・社会政策のキーワードとなって行きます。

ハーマン号事件

カストロの容易ならぬ決意を世界に示したのが、1月末のハーマン号事件でした。このときハーマン号は、メキシコ湾の公海を、パナマ国旗を掲げクローム鉱を積んでタンピコに向かっていました.

ハーマン号はパナマ船籍の貨物船で,キューバがチャーターしたものです。乗組員のほとんどはキューバ人で、キューバ西部の鉱山で採掘されたクローム鉱石を、海外に輸出する目的に使用されていました。

いっぽう、米国の沿岸警備隊のシンコティーグ号は、このときメキシコ湾で麻薬密輸船の取り締まりにあたっていました。シンコティーグ号は、航行中の貨物船ハーマン号を疑いがあるとして追尾しつつ、沿岸警備隊本部に指示をもとめました.沿岸警備隊はパナマ政府の乗船許可を受けたうえ,ハーマン号に停船を命じました。これを聞いたカストロは、ハーマン号に対し査察受入れを断固拒否するよう指令します.

沿岸警備隊はハーマン号に放水を浴びせ,さらに銃撃・砲撃を加えました.ハーマン号は重大な損害を受けつつも,命令を拒否しメキシコへの航海を続行.ついにメキシコ領海内に到達します。これを見た沿岸警備隊は追尾を断念しました.

タンピコ入港後メキシコ官憲が臨検をおこないましたが、当然ながら麻薬などは発見されませんでした。2日後、ハバナに戻った乗組員たちは市民の熱狂的な歓迎を受けました。

経済非常事態の宣言

 8月29日、政府は、「キューバは疑いなく“平和時の特別期間”に入った」と宣言し、第一次緊縮政策を発表しました.この時点では石油輸入の減少への対応とエネルギー節減政策が柱となっています。

ソ連からの輸入量は2年前の80億ドルから40億に半減しました。原油も54%に減少しましたが、それ以外の部品等が激減したことが大きな痛手となりました。

政策の柱は、個人用ガソリンの3割削減,モアのニッケル工場の閉鎖,生産性の悪い工場や学校の閉鎖、家庭電力の1割自主削減などからなっていました

カストロが演説し、「社会主義の国々との通商は事実上消滅した.現実を直視しよう.いますべてがバラ色とは決していえない.しかしソ連が分裂し崩壊しても,われわれは社会主義を守りぬく」と述べ、国民に対し忍耐をよびかけます。

「すべてがバラ色とはいえない」とはずいぶん強気です。この年、キューバは60億ドル相当の経済援助,10億ドルの軍事援助,1千万トンの原油,60億ドル相当の商品を失いました.前途は真っ暗、というのが本音でしょう。

石油の制限は序の口でした。9月に入ると「チョウ」のつく厳しい方針が次々に打ち出されます。食料品のほとんど,その他の生活用品のすべてが配給制となりました.一人一日あたりパン一切れ,卵は週3個,魚か鳥の肉が月に一度,食用油は一人年1ビン,ミルクは8才以下の児童にのみ配給されることとなりました.

全国紙,地方紙は「グランマ」を除きすべて日刊からはずされました.雑誌も「ボエミア」以外はすべて休刊となりました。「ボエミア」もページ数が2/3に減少します.

国会は米作地の拡大,養豚場・養鶏場の建設,淡水魚漁獲の拡大などの緊急食糧増産計画を決定しました.しかし資材不足のため,計画はほとんど実施されずに終わってしまいます.

国民には自家菜園の奨励,ロウソクや石鹸の製造法などが指導されました。自動車に代わる交通手段として馬車が復活。また中国からは100万台の自転車が輸入されました。要するに日本の戦争末期の状態です。

この頃の中国はまことにビジネスライクでした。ブッシュが圧力をかけると、たちまち対キューバ援助を大幅に削減しました.ブッシュはこれを受け,議会に中国を「最恵国待遇」とするよう提案しています.73年にチリでクーデターが起こると、真っ先にピノチェト政権を承認し、人民連合政府の派遣した大使を国外追放したことも忘れられません。

ソ連の崩壊と未曾有の危機

しかしこれはほんの手始めにしか過ぎませんでした。ソ連も厳しい経済の中から、かなりの誠意を持って貿易の維持にあたっていました。

1990年末に締結された年次貿易協定では、ドル決済が導入され,砂糖価格も1トン800ドルから500ドルに切り下げられました。しかし国際価格は200ドル前後でしたから、なおかつ破格な価格でした.ソ連はこのほかにも約50億ドルの通商と、1千万トンの石油供給,10億ドルの経済援助の維持を約束したのです.

ほっとしたカストロは、このとき、「すべてのキューバ国民は生活の悪化に対する覚悟が出来ている.しかしさほど急激ではなく,深刻なものでもないだろう」と述べています。しかしその見通しはまったく甘いものでした。

91年5月、カストロはソ連からの原材料供給が激減したと発表しました.ソ連からの商品輸入は当初目標の1/4に過ぎず,豆の5割,ラードの7%,植物油の16%,コンデンス・ミルクの11%,バターの47%,缶詰肉の18%,粉末ミルクの22%,魚肉の11%しか入ってきていないことが明らかにされました。

それにしてもこれらのリストを見ると、キューバがいかにソ連に頼りきっていたかが分かります。

原油供給だけはかろうじて続けられましたが、89年の1300万トンから91年300万トンに激減してしまいます.そしてその原油も、12月に入ると完全にストップしてしまいました。昨年末の貿易協定は完全に反故にされてしまったことになります。

9月、ソ連のゴルバチョフ大統領は、キューバ駐留軍の撤退を発表します。キューバは「この決定は,米国が進攻計画を推進することにゴーサインを出すのに等しい」と非難しますが、それ以上にどうするというものではありません。結局、自らの国土は自らの力で守る以外にはないということでしょう。

キューバは米国の侵攻に備え民兵訓練を強化、地下壕づくりをすすめます.共産主義青年同盟大会もわざわざ地下壕内で開催するという念の入れようです.まさに本土決戦、燃えよ一億火の玉です。

こういう危機の中、ハバナで第11回米州競技大会が開催されました.米国を含む39ヶ国が参加.キューバは国威をかけて大会を成功させました.大会では米国をしのぎ最高の金メダルを獲得するという偉業を成し遂げました.
ただしこの大会は、巷では不評さくさくでした。みな大きな声では話しませんが、食糧の配給が一日パン一切れというご時世に、国威発揚もないものだというのが大方の感想だったようです。

そして12月8日、ゴルバチョフがソ連解体を宣言し大統領を辞任しました.ついにソビエト連邦が崩壊したのです.これにともない年間60億ドル相当の経済援助は消滅しました。砂糖価格も500ドルからさらに国際価格の200ドルまで下落しました.いよいよキューバは丸裸となったのです。

カストロはソ連消滅を「キューバとのあいだで維持してきた友好的関係から見て,痛ましく,悲しむべき事態である」と論評.あわせて「来年は非常時が最悪の事態となり,正念場となるだろう」と予告しました。

第二次緊縮政策が発表され、いよいよキューバは「闇の時代」に突入していくこととなります。バスの運行は1/3に削減され、表通りから車の姿が消えてなくなりました。電気は一時停電というより、一時通電という感じで、家々の窓は細々としたろうそくの明かりがゆらめいているだけ、ちょっと郊外に出れば頼りは月明かりのみです。

市場為替レートは20倍近くまで跳ね上がりました。ヤミルートの物資は2000%に高騰.キューバ国民の平均月収はドル換算で40ドルから2ドルまで低下します.もう無茶苦茶です。

 

91年10月 第4回共産党大会

ちょっと時期が前後しますが、10月にサンチアゴで開かれたキューバ共産党第4回大会は、「危機の時代」への基本的な対応方針を決めた大会として非常に重要な意味を持っています。

カストロは冒頭演説で、「キューバは世界の進歩と民主主義,革命の旗手となった。ソ連と東欧のうしろだてはなくなったが,困難の中でも独立と革命を進める」と述べます.さらに中央集権的な計画経済体制を維持すると表明します.

大会は、@イベロアメリカ諸国との関係を強化する.A一党制を維持しつつ、国会・地方議会議員の直接公選制を実施する、ことなどを決議しました。しかしもっとも大事なのは経済決議です。抜粋をホームページに掲載しているので、目を通していただければと思います。

@基礎食料の一日も早い自給体制、Aバイオの分野に力を注ぎ世界市場進出を目指す、B治安の良さ,衛生的な環境などの優位点を生かし、観光を振興する、C従来型の輸出産業をひきつづき重視する、Dスポーツ,芸術などに関連した製品や,サービスの開発、E外国からの投資を奨励する。投資受入れの形態は多様であってよい.

全ての企業は,外国との貿易を振興することなしに,みずからの成長はありえないと知るべきである.輸出できるものはないか,輸出競争力を高めるにはどうしたらよいかを常に念頭においていく構えがだいじである.

今日のように資源がきわめて限られている状況の下では,出来るだけこれを中央に一本化し,計画的に配分しなければならない。社会主義経済(統制経済)の建設は、生き残りのため決定的である.

怠業,稼働率低下,生産・販売のルール違反など各種のあやまった風潮が生まれることは避けがたい.厳正な対処がもとめられるが、労働への情熱を常に高め組織していく努力がまず必要である。この点でとくに労働者党員の役割に期待する.これは党のもっとも崇高な任務である.

インフレは労働生産性の向上を阻害し,投機や労働意欲の低下を生むのみである.消費を抑えると同時に,通貨発行量を抑え,経済を軟着陸させなければならない。

とくに最後の項はすごいものです。理屈ではたしかにそうですが、これはまさにハードランディング以外の何ものでもありません。普通はこんなオーセンティックなことをやる政府は、民衆の反乱によりつぶれるのが当たり前です。

もちろん相当強権も発動したのでしょうが、決定を忠実に守る党員が分厚く存在したからこそ、そしてそれら党員が民衆から信頼されていたからこそ、この政策が遂行できたのだろうと思います。

 

1992年 強まる米国の干渉と制裁強化

「来年はハバナで」

1989年12月、米軍は突如パナマ共和国に襲い掛かりました。国家元首ノリエガに麻薬取引への関与があったというのです。パナマもそれなりに米軍侵攻への対処はしていましたが、ステルス爆撃機もふくむ米軍の圧倒的な戦力の前にはひとたまりもありませんでした。

ピンポイント爆撃とはいうものの、その後に現地入りした人の多くは、かつての労働者街「エル・チョリージョ」は一面の荒野と化していると報告しています。推定で数千人の民間人が犠牲となったといわれています。

それは「次はキューバだ」という強烈なメッセージでもありました。マイアミの亡命キューバ人たちは,車に「来年はハバナで」とのステッカーを貼りつけました.テロリスト組織は、フロリダ湿原での軍事訓練を再開します.

ブッシュ大統領は、経済封鎖の一層の強化を訴える演説を行いました.この中で「キューバのうめきを聞いて喜んでいる」と発言したことは、さすがに良識ある人々の顰蹙を買いました.ブッシュの父だけのことはあります。

麻薬への断固たる態度を示したキューバに対し、米国は今度は人権問題を種に揺さぶりをかけます。三月開かれた国連人権委員会で,米国,ポーランド,チェコの共同提案になる「キューバにおける人権侵害」を非難する決議が採択されました.さらに翌91年の人権委員会では、キューバ政府が人権状況視察団を受け入れるようもとめる決議が採択されました.

カストロはキューバだけを特別視する国連決議に従う意志は毛頭ないとはねつけますが、国連機関での反キューバ決議の採択はかなり痛いものでした.米国の攻撃に国際的なお墨付きを与えたようなものだからです。このあと人権問題はキューバ外交におけるアキレス腱となって、カストロを悩ませ続けます。

キューバ民主法(トリセリ法)

「人権決議」を受けた米政府は、これをネタにトリセリ下院議員らに働きかけます。ロバート・トリセリは民主党議員で、それまではキューバとの関係改善を訴えるなどリベラル派の旗頭と目されていました。彼が動いた裏に金があったのか、脅迫があったのか、確かなことは分かりません。しかしこの「人権決議」が「転向」の有力な口実になったことは疑いありません。

92年2月、「キューバ民主主義 '92」法が議会に提出されました。一般にはCDA(Cuban Democracy Act)と呼ばれ,また提案者の名をとりトリセリ法と呼ばれます.その柱は、キューバと経済関係を維持する国への制裁。米企業の海外子会社を通じた取引の禁止、キューバに寄港した商船の180日間の米国内入国禁止などとなっています。

この法案は、これまでマイアミの亡命キューバ人団体「CANF」が主張してきたものと瓜二つであり、いわばトリセリが「名義貸し」をしたようなものです。CANFを仕切るマス・カノーサは、「キューバ経済は東欧やロシアよりさらに深刻な状況に置かれている.カストロは権力から排除されつつある.今年はキューバにとってきわめて重要な年になるだろう」とご託宣を垂れます。

マス・カノーサという人物は相当の大物です。その力の背景は豊富な資金にあり、麻薬カルテルなど裏の世界ともつながっているといわれています。大統領選挙では、ブッシュと対立する民主党のクリントン候補まで巻き込みます。クリントンはわざわざマイアミまで出向き、カノーサと会談しトリセリ法支持の立場を明らかにします。それと引き換えに彼が手に入れたものは27万6千ドルの選挙資金でした。

ブッシュ大統領も負けていません。マイアミの新聞に投稿し、「私の目的はカストロ全体主義を終息させることにある.キューバ民主化の可能性はかつてないほど高まっている.カストロ政権の寿命はあとわずかである.われわれは引き続き経済的にカストロを追いつめていく.同盟国・友好国に対しても協力を要請する」と述べます。ブッシュはこれで55万ドルを獲得しました.

ニューヨークタイムスという新聞は,時々良いことをいいます。「貧しきキューバ人をさらに苦しめるのか」と題する社説でトリセリ法を論評してこう述べています.

「キューバ民主主義法という誤った名の法案は,実体は逆さまだ.法理的にはあやしげで,実効的には残虐で,そこに選挙の年に向けた党略としての醜さが同居している.キューバ系米国人の有力な一派は,いまや傷ついた政権を棒で突っついては歓声を上げている.結局のところ,それはマイアミでのうのうと暮らす亡命者たちが,貧しさにあえぐ故郷の同胞たちにさらに痛みを加えるという心無い仕打ちを手助けするだけのことである。彼らは軽蔑に値する」

これだけだと「赤旗」です。さすがにニューヨークタイムスは、「貿易停止を緩和するのと引き替えに,すべての政治囚の釈放をカストロに求める」よう提案します.こうやってバランスをとるんですね。

経済再建に立ちはだかる難題

第4回共産党大会で、経済再建に向けた基本線は確認されたものの、それだけで話が済むものではありません。やりたくないことが三つあります。ひとつは旧社会主義諸国に代わる新たな市場の開拓です。具体的には中南米諸国とスペインですが、こちらから貿易してくださいと頭を下げるのですから、あまり愉快な仕事ではありません。二つ目は、人権問題での各国の批判に対応して、それなりの政治改革を行うことです。経済がこのように厳しい時期に、国内の不満が噴出するようなことがあっては、たちまち政府は瓦解します。そしてもうひとつが、一番の困難な課題ですが、海外資金の自由化をどこまで認めるかということです。

まず第一の難題、頭を下げる仕事はカストロ自らが率先して行いました。91年の第1回、92年の第二回イベロアメリカ首脳会議は、いずれも出席したカストロの目前で、「キューバ民主化促進」を決議します。あの誇り高く、喧嘩っ早いフィデルがよくも我慢したものだと感心します。さらに各国政府との個別交渉では、ゲリラへの援助停止を約束します。もっともそんな余裕もなくなっていましたが。おかげで、コロンビア、チリ、パラグアイなどとの国交回復に成功します。

第二の難題では相当抵抗がありました。民主主義の核心は何か、この点についての考えが根本から違っていたからです。問題は反政府派が自由に活動できるかどうかという表面的なものではなく、政治が民衆に向かってどれだけ開放され、情報がどれだけ公開され、民衆の政治参加がどれだけ保障されているかである、というのがキューバの考えでした。

もうひとつ、キューバが抱えているのは未曾有の経済危機であって、政治危機ではないという認識です。カルロス・ラヘはこう語っています。「キューバが抱えている問題は経済問題であり,政治問題にすり替えてはならない.われわれは困難なことは承知しているが,革命の性格に対応する人間的な道を選ぶ」

ただ、公開と参加をさらに促すという点ではキューバ側にも異論はないわけで、まさに、大衆的な討議を下から積み重ねる以外にこの深刻な経済危機を乗り切る方法はないという事情もありました。

91年10月、メキシコ,ベネズエラ,コロンビアの三ヵ国首脳会議に招待されたカストロは、国会議員選挙を直接選挙制とし非党員の参加を認めると発言しています.

第三の難題は、半年の討議を経て、92年7月の国会(人民権力全国会議)で141条中76条に及ぶ憲法修正として結実します。主な修正点は、@民営企業の部分的存在を認める.ALAをはじめとする発展途上国との一体性を宣言.B「国家による貿易の独占」を廃止する、というものです.

このほかに、人民解放闘争の支援をうたう条文を削除、政府の公式方針を「無神論」から「世俗論」に変更し,宗教を理由にした差別を禁止。さらに直接秘密選挙制導入を決定するなど、いわゆる「民主化」に関する措置も盛り込まれました.

キューバはいっぽうで、新生ロシアとの貿易再開にも努力を払っていました。11月末ようやくその努力が実り、エリツィン大統領とのあいだに石油・砂糖バーター協定が調印されました.これは230万トンの石油と150万トンの砂糖が交換されるというものです.

150万トンといえばキューバの生産する砂糖の三分の一強。その代価が石油わずか200万トンあまりというのは、これまでの慣行からすれば信じられない条件ですが、これが冷厳な市場経済の掟です。

 

1993年 奈落の底へ

先の見えない経済危機

92年末に発表された貿易統計はすさまじいものでした。ロシアからの原油輸入は年間180万トンに減少.これは89年の実績1,300万トンのわずか13.5%にしか過ぎません.家畜用の飼料は160万トンから45万トンへ,肥料は130万トンから25万トンへ激減しました.ソ連・東欧など旧コメコン諸国との貿易額は89年実績に対し93%減少しました.キューバの貿易収入は45%も減少してしまいます.

緊縮政策はさらにきびしくなり、個人へのガソリン供給は原則的に停止されました.6月には、キューバ最大の発電所が,相次ぐ故障によりダウンしました。ハバナ市内の停電時間は8時間に延長されました。8時間といっても故障だらけの8時間ですから、実質的には止まっている時間のほうが長くなります。卵と砂糖の配給はほとんど停止状態となりました。主として輸送上の問題です.

キューバ産業の命綱である砂糖の生産は,大凶作となりました。前年度700万トンだったのが一気に420万トンへ激減します.中国向け輸出用の砂糖も不足し、それを補うため砂糖をタイから買い付ける事態にまで至りました.砂糖ばかりではありません。89年に比べ輸出総額は4割以下に落ち込み,輸入は厳しい引き締めのためもあり1/4にまで低下しました.

キューバから船に乗って逃げ出す人々の数は急増します。フロリダの沿岸警備隊は,92年度に収容したキューバ難民が2,565名にのぼったと発表しました.しかしこれはまだまだ序の口です。

5月には、3万人の視神経炎患者が発生したと発表されます。米国を中心に多くの眼科専門医と栄養学者が調査に参加した結果、いわゆるトリメであることが明らかになりました.ビタミン不足が原因です。(NEJMという医学雑誌では、もうひとつタバコの煙と書いてあったが、これは私としては信じにくい)

これは野菜不足が原因です。率直に言ってキューバ人は野菜が嫌いです。果物を食べていれば野菜など不要と考えているのかもしれません。ただ「有機栽培」を取り上げた方の文章によると、だいぶ変わっては来ているようですが。
ホテルの朝食はバイキングですが、野菜など見たことがありません。私も日本にいると野菜ぎらいな方ですが、それでも野菜が恋しくなります。レタスの上に肉や魚が乗っているのを見つけて、肉を取っ払ってレタスをかき集めたことを思い出します。

ドル自由化: カストロの決断

外貨の自由化に一番抵抗していたのは、おそらくカストロ自身ではないかと思われます。外国資本に国の経済の根幹を握られてしまったら、これまで築き上げてきた公正と平等の国は消失してしまうということを、これまでの経験を通じて痛感してきたからです。しかし、ことここに至ってはもはやとるべき道はひとつしかありません。

1993年6月、カストロは国会に向け重大提案を行います。外貨の個人所持の合法化、すなわちドルを持つものと持たざるものとの差別の容認です。もちろんドルを持っていた明けでは何もならないので、これまで外人専用だったドル・ショップへのキューバ人の出入りを黙認、ドルによるヤミ経済を事実上放任することが提案の真意です。

カストロは訴えます。「社会主義そのものを守るのではなく,革命の成果を守ることが重要だ.すべての種類の問題は,大いなる英知を持って現実的に検討しなければならない.我々は賢明でなければならない義務がある.決意や勇気や英雄主義だけでは革命は救われない.我々の心が痛むことがあっても,権威が痛むことがあっても,いろいろな事柄の解決を新たな方法で見出していくならば,英雄主義はより大きくなる」

いま考えてみると、やや大げさな表現のようにも聞こえますが、これを決断したとき、カストロの胸にはその後の「格差社会」の進行が思い浮かばれていたのでしょう。

7月26日の恒例の演説では、「賢明でなければならない義務」の中身を明らかにします。「外貨の所持と使用を解禁することによって、特権が生じることは否定できない。しかし、いまや我々の外貨を獲得する能力は、4年前の81億から17億ドルまで低下している。こうした現状にあってはやむを得ないことだ。我々は自由化一本槍ではない。この措置は我々が経済を現実的に建て直していくために避けて通れない課題だ」

これと決めたら早いのがカストロのカストロたるゆえんです。というよりも外堀はほとんど埋まっていて、カストロが最後の決断をしたということかもしれません。

このあと四つの経済関係閣僚ポストが総入れ替えとなりました.外国資本の投資は全面自由化されました.ドルの流入は事実上放任されました。全国に250の外貨ショップが開設され、そこでの買い物は見て見ぬ振りをすることになりました。

奈落の底を見た経験: 私が二回目にキューバを訪れたのは93年の11月のことです。どうしても話しておきたいことがいくつかあります。ひとつはヒネテラス(jineteras)のことです。メキシコからキューバに行く飛行機の座席は若い男性でいっぱいでした。感心に、キューバに連帯に行くのだと思ったら、彼らは買春ツァーの客だったのです。無論、彼らの行くホテルは私とは違います。しかし私の泊まるホテルでさえも、前庭には灯火に群がる蛾のように若い女の子が鈴なりでした。ほとんどが中学生から高校生といった年頃で、グループサウンズのファンかと思いました。しかしそれは売春婦=ヒネテラスの群れでした。その中から客が指名した子だけが中に入れます。相場は一泊50ドルだそうです。その後だいぶ上がったようですが。
翌朝、ホテルの売店で、疲れきった顔の彼女たちがオイルサーディンの缶詰を買い求める姿を見て、相棒と顔を見合わせたものでした。家に帰れば、彼女たちの父親の1ヶ月の稼ぎはわずか20ドルに過ぎません。これがドル自由化の実態です。

あいつぐ「自由化」政策

9月には輪タク,花売り,宝石修理など117種に及ぶ職種の個人営業を許可すると発表されました.これらは資本主義の芽となる危険があるとして1969年に廃止されていたものです。

さらに農地の7割を占める387の国営農場を2,500の協同組合に分割。独立採算とし,余剰生産物の売却権を与えるなど自主管理を広範に認めました。また家庭菜園で作られた農作物について自由販売が認められるようになりました.

あいついで実施されたドル解禁、個人営業の解禁、農産物の自由販売という三つの措置こそは、社会主義の基礎を掘り崩すものとして、これまでキューバ政府が最も忌み嫌い、避けてきたものです。

とくに平均所得と実勢価格の差が20倍にも開いた今、これを容認することは、たちまちにして社会の中に底知れぬ格差を生み、政権を瓦解させかねない危険をはらんでいます。

しかし背に腹はかえられません。まさに苦渋の決断、賭けに近い判断だったと思います。しかし結果としては、この賭けが見事に成功したことになります。

案の定、12月の国会では激しい議論が戦わされました。

政府は先にあげた三つの解禁策のほか、公共料金の値上げや,各種無料サービスの廃止を提案しました。これは過剰通貨の回収を図るための施策だと説明されました。金はあっても買うものがなく、通貨がたんすの中に退蔵されている。これを引き出そうという狙いです(退蔵しているお金があればの話ですが)。

しかし個人営業の容認は、強い反対があったことから延期されてしまいました.また公共料金値上げに関しては,国会議員だけで決めるべきではないという声が強く、この問題について全国で「労働者国会」と呼ばれる大衆集会を開き、そこでの討議にかけることとなりました.これも一種の延期です。

1994年 難民の爆発的増加

民衆の苦しみはついに大量難民の発生というかたちで爆発します。難民はすでに93年から急速な増加を見せていました。米国沿岸警備隊の発表によれば、船でフロリダに到着したキューバ人亡命者は3,656人に達し,92年度の1.5倍となっていました。しかしその数は94年に入ってから異常な増加を見せ始めます。

話が変わりますが、ハバナも冬は結構寒いのです。寒いといっても昼は半袖なのですが、冷房を入れるほどではありません。夜になると戸外ではちょっと上着が欲しくなるくらいに涼しくなります。ハバナっ子は「フーリオ!」と叫んで毛皮を着込んだり、革ジャンの襟を立てたりします。

アメリカの平原からメキシコ湾をわたって来る北風で海はしけています。ハバナの沖合いもさんご礁がありますが、白波はそれを乗り越えて、マレコン通りの堤防にぶつかり、二階建てほどの豪勢な波しぶきとなって道路に振りまかれます。

そんな海が穏やかになるのは4月頃からです。昔は、この日和を待ち構えたスペイン艦隊が、インカやメキシコの財宝を積んでスペインへと帰っていたものでした。それがいまや難民の船出のときとなったのです。

6月末までにすでに5千人がボートに乗って脱出しました。一種のパニック状態が出現しました。年表を見るだけでも、その勢いのすさまじさが良く分かります。

7月13日にはハバナ港からタグボートが盗まれました.警備艇が出動し、フロリダへの脱出を阻止しようとしましたが、タグボートは警備艇と衝突、港の沖7マイルで沈没してしまいました。この事故で40人以上が溺死したといわれます.

8月4日には、ハバナ港内を横切る通勤フェリーが乗っ取られました。桟橋には「自由」を叫ぶ群集千人が集まり、投石や窓ガラスの破壊などで35名が負傷,300人が逮捕されました.この際防衛にあたった警官一人が死亡しています.

8月8日には、マリエル港で海軍艦艇が奪われ、当直将校が殺されました。船は24人を載せて米国に逃亡しましたが、逃亡犯はマイアミで英雄として歓迎されました.

14日には停泊中のタンカーに,5百人が乱入し亡命を求めました.このときはカストロがマリエルまでおもむき参加者を説得,翌日には全員が自主的に下船しました.

米沿岸警備隊は15日だけで272人のキューバ人漂流者を保護。さらに16日には339人,17日には537人、そしてピークとなった23日には2548人に達しました.まさにラッシュです。押し寄せる難民に対し,米海岸警備隊はついに「ピケ」を張り阻止するようになりました.

たいていの人は、もう少し平和的な手段を選びます。マレコン通りにタイヤのゴムチューブを抱えた若者たちがたむろしています。彼らは別に海水浴をするためにそこに集まっているのではなく、潮の流れの情報を聞いて、いつかは向こう岸まで行くぞと心の準備をしているのです。フロリダ半島の先端までは100キロあまり、先日は泳いでわたった人もいるくらいです。ただし人食いざめにはご注意、「老人と海」に出てくるようなすごいのがいるそうです。

このように難民が大爆発したのには、米国側の事情もあります。米政権はキューバ敵視政策の裏返しとして逃れてくるキューバ人を無条件に受け入れる姿勢をとり続けて来ました。それも正規の出国ルートをとる人に対しては厳しい制限を設け、非合法に出国してくる人は英雄として迎え入れ、ほぼ自動的に市民権を与えるという、法的にはまことに奇妙な態度をとってきたのです。

米国の傲慢な対応に、カストロはついに頭に来ました。8月24日、カストロは「ボート・ピープルを引き留めるつもりはない」と発言.難民の出国を黙認する態度を明らかにします.そして関係部署に対し、実力行使を控えること、必要とあれば援助を与えるよう指示します。

さあ困ったのはクリントンのほうです。結局、米国側が折れることで決着がつきました。両政府間の協議で、米国が年間2万人へのビザ発給を履行すること、キューバ政府が,合法的手段を執らずに個人的方法で米国に渡航することを禁止することで合意しました.

そもそも「つぶしてやる」といきまいて来た相手であるキューバ政府と交渉すること自体が、米国にしてみれば屈辱です。さらに交渉成立に当たっては文章には表現していなくとも、何らかの見返りが必要だったはずです。しかもその裏約束は、もしそれを破ればいつでもキューバが「難民送り出し」を再開できる状況の下では、恒久的なものとならざるを得ないわけです。

カストロもこの数年の憂さが多少なりとも晴れたと思います。

「開放」経済の進展

三つの解禁と公共料金の値上げ策は、94年の1年をかけて着実に実現していきました。生活の厳しさに耐えるだけでなく、貧富の差や社会の不公平にも耐えよというのです。いわば、3年間で国民の負った傷にさらに塩をすり込むような仕打ちをするのですから、痛くないわけがありません。

行政の徹底的なスリム化が実施されました。政府機関は50から32に削減されました.省庁の勤務員は1万2千から5千に,部局数も1000から600に削減されました.率先垂範、「まず隗より始めよ」です。止めさせられたほうにすれば辛い話ですが。

半年かけて積み上げられた「労働者国会」の討論にもとづいて、酒・タバコの十倍化,電話・電力など公共料金の引き上げ,ガソリンは4倍に値上げ。新税の創設,福利厚生補助金の削減などの財政改革案が承認されました.学校給食は有料化され、労働者への給食補助も打ち切られました.野球や音楽会などの入場券も有料化されました。(それまでは無料だった!)

この「労働者国会」には全国の職場で300万人以上が参加したといわれます。この国の人口が1千万人であることを考えると、ほとんどの国民が議論に参加したと考えてよいでしょう。それは「民主主義とは何か」、という問いに対するキューバの答えだったのかもしれません。

しかしいくら民主的に討議したといっても、煮え湯を飲まされることに違いはありません。むしろ真の事情と今後の見通しをを頭に叩き込まれる中で、絶望感が拡大したかもしれません。公共料金が値上げされるいっぽうで、闇ドルレートは1ドル=120ペソにまで高騰します.

いっぽうで、一人一人の問題として、「このままではいられない、お上任せではこのさき生きていけない」という、焦りにも似た感情が沸き起こってきます。このあとイカダ難民が激増したのもうなずけます.しかし大半の人は、国内で自らが食べて生き抜くための方途を真剣に模索するようになりました。そういう意味では、94年はネガティブな意味も含めて「国民の意識変革」の年だったとも言えるでしょう。

家の中の暗闇にじっと息を潜めて暮らしてきた人々が、腰を上げるようになりました。国会で個人営業の解禁が保留になったにもかかわらず、94年の二月には早くも14万人以上が開業したと報告されています。その十倍くらいはやみ商売を始めたことでしょう。

これに伴い,退蔵されていたペソが一気に市場に出回るようになります。これは激しいインフレとなって給与生活者や年金生活者を襲いますが、起業精神に富んだものにとってはまたとない僥倖です。

三つ目の解禁、農産物の販売自由化は、一番遅れました。ただでさえ不足している食料を自由市場に回してしまえば、ますます食料が不足してしまうという恐れが捨て切れなかったのです。しかし、緊迫した事情はそのような躊躇を許しては置けませんでした。

1994年9月、まずフィデルではなくラウル・カストロが口火を切ります。共産党機関誌『グランマ』は,ラウル・カストロの発言として「農民が作物の一部を自由市場で販売することを近く認める。国家への引き渡しノルマを達成したあとの余剰生産物は(必須食料を除く),新設の農業市場で政府の価格介入なしに自由に販売できることになる」と報道します.

ラウルは最後にこう付け加えます.「今日わが国の政治的,軍事的,思想的問題は,食糧を探すことである.農産物市場の開設は国民の一致した支持を受けており,カストロ議長も支援している」

こうやって観測気球を上げたあと、今度はあまり強硬な反対がないのを見計らいました。そして10月1日に政令191号が公布されます。この政令は、全国130の農・畜産物販売自由市場を開設するというものでした。国会に配慮し、自由市場の指導には議会の行政審議会商業管理部があたることとなります。

これと同時に、政府は国営農場への補助を削減.96年までに利益を出さなければ農場を閉鎖すると宣言します.

同じ10月の末には、政令第192号が発表され、工業製品や手工品についても自由市場を開設すると発表されました.

1995年 経済危機の底打ち

私は、この年の2月に三度目のキューバを訪れています。このときは息子と二人、まったく肩書きなしの個人的な旅行でした。

そのちょっと前、カルロス・ラヘが世界経済フォーラムで演説しています.ラヘは閣僚会議幹事長、首相に当たるポストです。また彼は国家評議会の経済担当副議長でもあり、経済政策のトップに位置しています。そこで94年度の成長率が5年ぶりにプラスに転じたと発表しました。そして経済収縮が底を打ったと宣言したのです。ラヘは、「もはや経済開放政策は後戻りできない」とし,各国の投資を呼びかけました.

もちろん、「観光事業や原油生産が上向くなど積極的な兆候が見られるが,まだ経済は回復期に入ったとはいえない」とするなど、基調は全体としては厳しいものでした。とくに砂糖生産が3年続きの不作となり、経済の基幹となる部門が立ち直れないままでは、到底楽観的な見方は出来ません。

経済が底を打って回復への兆しが見えたとすれば、まず必要なのが資金です。しかしこの時点でキューバの累積債務は91億ドルに達していますから、公的な援助はほとんど望めません.どうしても民間資本の導入が必要です。そのためには外国投資に関する法体系を整備しなければなりません。

9月の国会では、外国投資法改正案が可決されました。すでに昨年末には、ニッケルなどの工業分野では外国企業の全額出資による事業経営が認められていましたが、今回は教育・医療・軍事以外のすべての産業に参入することを認められました.合弁企業の所得税は30%に抑えられました.

いっぽうで、外国企業の活動に慎重な見方もあり、企業に必要な人材は,キューバ労働者派遣公団を通じて確保されることとなりました。従業員への給料は,いったん政府にドルで支払われ,政府が改めてペソで従業員に支払うこととなります.中途半端といえば中途半端ですが、富の不公平に対する警戒感が非常に強いことがうかがわれます。

ヘルムズ・バートン法

ラヘの底打ち宣言は、たんなるキューバの強がりとばかりはいえません。カストロ体制の崩壊は時間の問題と見ていた米政府内にも、まだまだキューバはしぶといぞという見方が広がります。

たとえばペンタゴンのシンクタンクのひとつは,「軍部のカストロに対する忠誠はあつく,キューバの経済改革が進めばカストロは長期にわたり政権を握り続ける可能性がある」と報告しています.

私も93年の末頃、訪問したときと比べてずいぶん人々に活気が出てきたと感じたものでした。カマグエイでネオンサインの点灯しているのを見たときは、「おお、ここまで来たか」と感慨にふけったことを憶えています。

ただ人々の気持ちは、2年前に比べてやや疲れた印象を持ちました。「みんなボートに乗って出て行ってしまった」と、ため息混じりに語ります。ホテルの前にたむろする少女たちの数もむしろ増えたようです。

米国は、キューバの崩壊を待ち望んでいたのにあてが外れて、頭に来ました。そこで出てきたのがヘルムズ・バートン法です。この法律は作成者の人品を疑う非常識な、まさにサディズムの極致ともいうべき法律です。

この法律は、ひとくちで言えば、「キューバ相手にビジネスを行う外国人を対象とする制裁」案です。米国が制裁しただけではほかの国との貿易を止められないので、ほかの国の企業にも制裁を強制しようということです。

ヘルムズは上院外交委員長、バートンは下院外交委員長で、あのトリセリも共同提案者に名を連ねています。

正式名称を「95年キューバの自由・民主主義連帯法」(S−381号法案)というこの法案は、3月に下院外交委員会を通過。その後、クリントン政権の抵抗を押し切って、9月には下院本会議で採択されます。

 

当面、ここで挫折しています(2000年1月)