2007年4月30日

アラン・ロバート・ナイ

 

最近のインターネットの情報はすごいものです。「アラン・ロバート・ナイ」(Alan Robert Nye)と入れると、ちゃんと文章が出てきます。この人は1959年にカストロ暗殺未遂の罪で捕らえられ、死刑を宣告されましたが、「米国に帰り二度とキューバの土を踏まないこと」を条件に、刑の執行を停止されました。

彼の故郷ホワイティングの町のホームページhttp://www.whiting.lib.in.us/Alan%20Robert%20Nye.htmには、この事件の経緯がしっかりと記録されています。見つけついでに、訳文を掲載しておきます。

 

どれだけの人がアラン・ロバート・ナイと彼の行動を覚えているだろうか。1959年1月にフィデル・カストロは、独裁者フルヘンシオ・バティスタの政権を打ち倒した。

まさにそのとき、ホワイティングの青年アラン・ロバート・ナイは、キューバの東の端オリエンテ州にいた。そしてカストロ軍兵士によって逮捕され、牢獄に閉じ込められた。彼の罪はフィデル・カストロの暗殺未遂だった。

キューバの当局は、ナイがバティスタ空軍司令官のカルロス・タベルニーリャ准将から10万ドルを受け取る約束だったと述べた。タベルニーリャはバティスタの右腕と目されていた。タベルニーリャとオルランド・ピエドラ警察長官は、マイアミでダニエル・バスケスを通してナイと連絡をつけた。バスケスはキューバ人亡命者で、革命政府の裏切り者リストに挙げられていた人物だった。

反乱軍の将校が裁判で証言した。証言によると、ナイは1958年12月26日にカストロ派のゲリラに捕らえられた。それはバティスタ政権の崩壊する5日前のことだった。

ナイは11月12日にハバナに到着し、コモドーロ・ホテルで数週を費やした。宿泊費は694ドルに上ったが、それはタベルニーリャによって支払われた。ナイはコモドーロ滞在中「ジョージR.コリンズ」を名乗ったが、関係者には不思議な人物、「エル・ミステリオーソ」として知られていた。

反乱軍将校は証言する。「わが軍の兵士がカストロの予定されたルートに沿って事前チェックをしていたとき、一軒の家の窓から突き出ている銃口に気づいた。兵士が捜索すると、その部屋にはナイがおり、いくつかの武器で武装していた」

アラン・ロバート・ナイは、反乱軍の証言に反論した。「私は12月26日、バヤモ県サンタ・リタの近くで反乱軍の列に加わり行進していた。そのとき二人の兵士が私を拘束した」 さらに彼は証言を続ける。「その二人は彼らの指導者を暗殺しようとしていた。私はそうさせないように試みた」

そして「私はそのとき丸腰だった」と述べ、ライフルと拳銃を隠した場所をスケッチするなど、弁論を展開した。

ナイは1945年にホワイティング高校を卒業した。彼は品行方正で知られ、学校の花形だった水泳チームのメンバーであった。高校卒業後ホワイティング郵便局で二年間勤めた後、彼はアメリカ海軍に加わった。そして、パイロットのトレーニングを受けた。

彼は海軍パイロットとして航空母艦に勤務し、およそ6年を過ごした。その間に朝鮮戦争にも従軍している。

1954年、彼は軍務を去って、フロリダ州コーラル・ゲーブルズに腰を落ちつけた。そこで彼は、農薬散布飛行機のパイロットとして、また飛行機のセールスマンとして働いた。

 

ナイの逮捕のニュースが故郷に到達したとき、ホワイティングの友人と家族はショックを受けた。エドワード・グラボバック、ナイの親友であり旧友でありかつての同僚であった彼は、報告の内容を信じることができなかった。彼は言う。「彼には悪意というものがない。私には、そんなことを想像できない」

ナイは家に、彼の母に伝言することができた。「僕は元気だ心配することはない」と。

しかしナイの母、ヘレン・リンチ夫人は心配せずにはいられなかった。彼女はアランの長年の友人であり、ホワイティングの前の判事であり今の検事であるジョセフ・サリヴァンに相談を持ちかけた。

二人は一緒になって、ナイを家に取り戻すために懸命に努力した。ナイの母はフィデル・カストロに、息子への慈悲を求めて親書を書いた。彼女は言う。「私は愛情深い父であろうあなたに懇願します。私の息子のために仲裁していただけるように。私はフィデル・カストロもふくめて、必要ならどんな人とも会います。まったく潔白で、どんな悪事にも無関係な私の息子が、自由をかちとるためなら…」

手紙はカストロの下に直接届けられたといわれる。しかしナイは裁判に直面されたままだった。

息子が精神的かつ物理的にひどい健康状態に置かれていることを知ったとき、リンチ夫人はジョセフ・サリヴァンとキューバへ飛んだ。二人はナイと会うことができた。リンチ夫人が見たものは、6メートル四方の監房の中に5,6人の囚人とともにいる息子の姿だった。

ナイは彼の母に言った。彼に与えられた食料は「豆の調合物」であると、そして調合されたものは虫と髪の毛であると。彼は言った。「食い物はあまりにひどく、食べるときは目をつぶらなくてはならない」と。

リンチ夫人はまた学んだ。ナイが木箱の上で眠らなければならないということを。そしてそれは、彼女の息子がマットレスの代金を払えるまで続くということを。

その月の終わり、ナイの裁判の日程は決まった。彼を担当するキューバの革命裁判所判事はオスカル・アルバラード大尉、エレディオ・マチン、そしてホセ・アンドレス・エステベス大尉だった。ナイは自らを弁護した。

公判の席で検察官ホセ・スアレス大尉は、公式にナイを「扇動、共謀、暗殺未遂」で告発。もし有罪と判決されるならば銃殺刑に処するようもとめた。

またスアレスは、ナイがキューバ革命に対する反逆者であると告発、カストロ軍に物資を補給する飛行機三機を炎上させたと述べた。スアレスによれば、これらの飛行機は前キューバ大統領カルロス・プリオ・ソカラスによって購入され、フロリダ州フォートローダーデールで出発を待っていた。

熟考の後、裁判所は全ての訴えについてアラン・ロバート・ナイを有罪と判決、死刑を宣告した。しかし判決はその執行を停止された。その条件は、ナイが48時間以内にキューバを去り、二度とふたたび戻らないということだった。

その1日後、ナイはわが家に帰った。そして友人と家族から抱擁で迎えられた。リンチ夫人はナイに家庭料理を用意した。それは、「豆の調合物」に苦しんだナイにとって、神さまの食物のような味がしたにちがいない。

ナイは語った。「我が家に戻れてとてもうれしい。この数か月の間経験したことがなかった、安らかな夜の眠りをとることを楽しみにしている」と。


ついでにホワイティングの町についても、Wikipediaで当たってみました。

 

 

 

ご覧のように、現在はほとんどシカゴ市内といってもよいところです。BPアモコの精油施設が面積の1/3を占めています。

人口は 5,137 人。白人が 87.37% を占めます。黒人は 0.56% といいますから、ほぼ皆無です。白人といっても英国系は6%足らずで、スロバキアとポーランド、それにアイルランド系、ドイツ系の4つで2/3を占めています。

これらのことから、20世紀はじめに発展したシカゴ東南部工業地帯の労働者街で、シカゴに近いにもかかわらず、比較的周囲から隔絶した町と推定されます。