最近のキューバ・ちょっと景気のいい話(2007年)

2007年1月の学習会でしゃべった中身です。あまり整理されていませんが、肩のこらない学習会だったので、これでも良いかと考えています。聴衆の反応は結構良かったと思っています。いろいろ世界を見ていると、どうも最近、日本の経済的地位が相対的に沈下しているような気がします。大企業はいいのでしょうけれど、民衆レベルでは、以前のように肩で風切ってドルをばら撒くようなご時世ではなくなりつつあるようです。

 

三年続きの高度経済成長

これは一番ホットなトピックスですが、昨年末の12月22日、キューバの財務省当局は、2006年度のGDP伸び率が12.5%に達するだろうと発表しました。2005年度は11.8%で、革命以来最高の成長率といわれましたが、それを上回る数字です。

まだ確定した数字ではないので、それ以上のコメントは差し控えますが、昨年度実績についてホセ・ルイス・ロドリゲス経済計画相が語ったコメントを紹介しておきます。経済成長を支えているのは、まず観光産業の持続的な発展です。外国人観光客は、200昨年初めて年間200万人を突破しました。これにより外貨収入が大幅に増えました。

成長を支えるもうひとつの要素は石油の潤沢な供給に成功していることです。ベネズエラからは毎日9万8千バレルの石油が友好価格で輸入されています。さらに国内で新たに油田の開発が進み、その産出量は一日7万6千バレルで、国内必要量の45%に達しています。

ニッケル生産も中国向けを中心に順調な伸びを見せています。国際価格の高騰もニッケル景気を支えています。ニッケル国際相場は、06年8月には史上最高値のトン当たり34,750ドルを記録しました。

一方で、これまでキューバ経済を支える屋台骨となってきた砂糖産業には深刻なかげりが見られます。とくに2004年から05年にかけての収穫は、長期に亘る干ばつにハリケーン・デニスが追い討ちをかける形となり、砂糖生産は130万トンにとどまります。

貿易額は2年前の4倍近い約30億ドルに膨らみました。最大の貿易相手国はベネズエラで全体の26%を占めます。次いで15%の中国、9%のスペインと続きます。ソ連崩壊前とはまったく様変わりしています。とりわけ大事なのは、トリセリ法やヘルムズ・バートン法など米国の異常なまでの制裁強化を乗り越える形で、この成長が実現したということです。もはや制裁の強化という方向では、米国に打つ手はないということになります。

「しかし」と、ロドリゲス大臣は指摘します。「それだけの成長にもかかわらず、90年代の経済苦境からまだ完全に脱出したとはいえない」 そして今後の課題として経済効率や労働生産性の向上などをあげました。また「過去2年で35%増となっている食糧輸入の低減が急務」と強調しました。

順調な経済回復を背景に、生活条件の改善にも着手されます。農業・工場労働者ら約165万人を対象に、最低賃金が100ペソ引き上げられました。上がったといっても225ペソ、ドルに換算すればわずか10ドルという信じられないような低賃金です。いまさらながらに経済危機の爪あとの深さを実感します。

またカストロは、5億ドルを投じる大規模な電力設備改善が進行中であることを明らかにし、2年以内にはエネルギー不足による停電が完全になくなると語りました。

 

キューバ産業の光と影

キューバではニッケル産業の急成長が見られますが、これはまだ成長する可能性を秘めています。キューバにおけるラテライト鉄鉱石の埋藏量は20億トン、その中に包含されるニッケルは1.7億トンであり、世界最大の規模といわれています。

ニッケルの輸出はいまや全輸出の46%に達しています。最大仕向地はオランダで28 %、次いでカナダが20 %を占めています。コキントウ主席の訪問以来、対中国輸出も大幅に増加しています。日本はヘルムズ・バートン法以来、輸入ゼロとなっています

これに対し砂糖産業の衰退は目を覆うばかりのものがあります。これは20世紀初頭以来の数字で、かつて革命初期に1千万トンを目指したことを思えば、その落ち込みは深刻なものです。とくに今年は異常な不作で、なんと輸出国から輸入国に転じてしまったのです。これは国内需要によるものではなく、長期輸出契約している国への供給を維持するためですが。

キューバには156カ所の製糖工場がありますが、そのほとんどは1925年以前に設立されたものです。実際に操業しているのは、そのうちの113工場に過ぎません。工場の能力は低く、国際競争力を維持するためには莫大な資本の投入が必要だとされています。

政府は海外からの資金供給を希望していますが、同時に過去の体験から、欧米資本に対する根強い警戒感も残っているといわれます。

 

米国に変化の兆し

5年前、ハリケーン・ミシェルへの救援を機に開始された米国からの農産物輸出はこのところ急増しています。いまやキューバはアメリカから3億6000万ドルの農産物を購入しており、5年間の累計では18億ドルに達しています。これは米国農産物の輸出先としては第22位にあたり、もはや無視できない比率を占めるようになっています。

面白いのはこれらの農産物の生産地が、メキシコ湾岸沿いの南部諸州で、政治的には保守派の金城湯池だということです。05年の2月には、共和党の大立者ディック・ラガー上院外交委員長、ラリー・クレイグ議員など20人の上院議員が、農産物のキューバ輸出振興法案を提案しました。

これは財務当局などが輸出代金の送金を複雑化する手段を取らせないようにし、通商目的のキューバ人のアメリカ入国を許可する内容です。提案にあたったクレイグ議員は、「このままではEU、中国などにキューバ市場を譲ることになる」と危機感を強調したそうです。3月にはルイジアナ知事がキューバを訪問。1500万ドルの食料売買契約などに調印していきます。さらに06年の4月には、アラバマ州議会が「連邦政府に対しキューバ貿易と渡航の制限を廃止を要求するよう求める決議」を採択しました。

事態の急激な進展にあせる米政府は、「キューバへの輸出はキューバ側の支払が確認されてからの出港のみ認める」と発表し、各州の勝手な行動に釘を刺します。

 

ドル流通の停止

2005年3月、カストロは兌換キューバ・ペソを7%引き上げると語りました。そのあとドル使用に当たっての課徴金が18 %に上乗せされる措置も発表されます。

この話はちょっと面倒くさいのですが、経済危機がどん底にあった時期には、ペソとドルとの直接交換が可能だったのが、兌換ペソというものを作ることによって遮断されました。しかしこれではひとつの商品に対してドル、ペソ、兌換ペソという三つの価格があることになり混乱します。そこでドルや兌換ペソの国内流通を出来るだけ減らそうという方向で努力が積み重ねられていくことになります。

カストロは演説で、「キューバは不死鳥のように再生した。我々は常に革命を続けている」と成果を誇りました。

また1990年代のドル流通政策について、「これほどの後退と不平等が起きたことはない」と回顧しました。また1990年代の企業自治について、「この制度はお互いに盗りあいをし、我々を地獄に連れて行こうとした」と非難しました。いかにその当時カストロが苦汁を味わっていたかが、しみじみと伝わってきます。彼にとって、そのときの選択は「座して死を待つか、乞食となっても生きる道を選ぶか」というものだったのでしょう。

このあと、国営企業が「中銀外資承認委員会」の事前承認なしに外国企業との取引を行うことを禁止する措置が発表されます。一言で言えば、「自由化に歯止めがかけられた」ということでしょうが、むしろ経済危機の中でとられた緊急避難措置を一つ一つ解除し、経済に対する国家主権を取り戻していくていく過程と理解するべきでしょう。

 

人権と民主主義

これまでジュネーヴの国連人権委員会はたびたびキューバ非難決議を繰り返してきました。もちろんキューバでの人権、とくに政治的自由に関しては重大ないくつかの問題があることは確かです。

しかしキューバのみが名指しで非難されるほどの問題化ということになると、首を傾げざるを得ません。むしろ米国による反キューバキャンペーンのお先棒を担いでいるとの疑問が沸いてこざるを得ません。

そもそも国連人権委員会は国連経済・社会理事会の下部組織ということになっており、その機能や権限についてはかなりあいまいでした。理事国の選出方法も必ずしも民主的ではなかったといわれます。

国連総会はこれに代わるものとして、47カ国からなる人権理事会の創設を提起しました。米国は重大な人権侵害があるとされた国が選出される可能性があるとして、理事会の創設そのものに反対の態度をとりましたが、圧倒的多数で決定されてしまいます。

ライス国務長官は、理事会の選挙に向け「人権を体系的に侵害している国家の選出に反対する」とし、イラン、キューバ、ジンバブエ、ビルマ、スーダン、北朝鮮をあげました。アメリカ自身が入らないのが不思議ですが。

結局、選挙の末キューバも選ばれてしまいました。アメリカのジョン・ボルトン国連大使は、キューバの当選に対し皮肉をこめて「喜び」を表明しました。

 

アメリカはあきらめていない

メキシコ市の中心部レフォルマ広場に面して、ひときわ大きな建物があります。五つ星のマリア・イサベル・シェラトン・ホテルです。ツァーのページで見ると最低価格が100ドルというから、なかなか手が出ない高級ホテルです。

このホテルでキューバ人の宿泊客が追い出されるという事件が発生しました。追い出されたのはキューバ政府の通商使節団で総勢16人です。3日分の前払い料金も没収されたといいますから、客商売の業界がやるような仕打ちではありません。

マリア・イサベル・シェラトン・ホテル: シェラトン・ホテルの系列だが、直営ではなくフランチャイズ方式をとっており、所有主はアリゾナ州フェニックスを本拠とするスターウッド・ホテルズ&リゾーツ・ワールドワイド社。

その後、米国大使館のジュディス・ブライアン報道官が記者会見し、今回の措置が米国財務省の指示で行われたものであることを確認しました。米国企業にキューバとの取り引きを禁じたヘルムズ・バートン法に違反したためだとのことです。

事実、ラウル・ペレス・デ・プラド基礎産業省第一次官を団長とする使節団は、メキシコ市内で米民間企業ビジネスマンとのエネルギー・ビジネス・セミナーを開催していました。しかしアメリカ国内で法律を適用するならともかく、人さまの国でアメリカの国内法を適用するとはいったいどんな魂胆なのでしょう。

メキシコ国民は憤激しました。メキシコ市当局は衛生環境の不備などの口実をつけて、ホテルを営業禁止処分にします。もっともこれは象徴的な措置でまもなく処分は解除されます。世論を前に連邦政府も重い腰を上げました。フォックス大統領は、ホテル自体に責任があるとして、約11万5千ドルの罰金を科しました。ホテルは今後メキシコ法を順守すると約束して再開をゆるされました。

シェラトン事件があってから間もない4月下旬、今度はロスアンジェルスで別の事件が持ち上がります。こちらはかなり物騒です。ロバート・フェーロという61歳の男が武器の不法販売で逮捕されました。この男の自宅を捜索すると、出るわ出るわ、狙撃用ライフル、サイレンサー付きピストルなど1571挺の火器、手榴弾が発見されました。シュワちゃんも真っ青です。

フェーロはロスアンジェルス・タイムス紙の質問に答えてこう述べています。「自分もふくめ50人のアメリカ市民が、カストロを倒すためにキューバに行こうとしていた。武器はワシントンから供給された。カリブ海の軍事演習に合わせて使うと言われた」

そしてこうも語っています。「自分が生まれたキューバを解放したい。ブッシュとイラクでしたことと同じことをしたのに、どうして私がこのような問題に巻き込まれるのかわからない」

彼はキューバ生まれで、米国に亡命したあと米国籍を取得しています。キューバへの武力侵攻を目指す「アルファ66」のメンバーでもあります。彼なりに話の筋は通っています。とするとこれだけの武器を供給できるのはワシントン筋では、と疑うのも当然です。

当然、ペンタゴンはフェーロの発言を全面的に否定しますが、真相は依然闇の中です。

 

チェルノブイリ・キューバ・プロジェクト

あまり知られていないことなので、ぜひこの機会にお知らせしたいと思います。

チェルノブイリ原発が事故を起こし膨大な死の灰が巻き起こされたのはもう20年以上も前のことになります。多くの人が犠牲になりました。今もなお、白血病や新たな癌が発症し、後遺症に悩む人がいます。しかし、もうおおかた忘れ去られた事件です。

キューバは国家を挙げて被災者の救援に取り組みました。特筆すべきは、このプロジェクトが90年3月、未曾有の経済危機の中で開始されたということです。

ハバナ東方20キロのタララ保養地区で、年間約800人、16年間で延べ1万8546人の児童が、45日から1年滞在して治療を受けています。これまでの死者は15人で、16件の骨髄移植が行われています。

このプロジェクトはキューバの資金負担によって行われ、経済危機の間も維持されました。国民が呑まず食わずの苦しい生活を送る中でも、ついにその構えは崩れませんでした。

そのタララでプロジェクト開始20年を記念する式典が施行されました。

式典に出席したウクライナ大使は、ユシェンコ大統領の感謝のメッセージを読み上げました。ユシェンコといえば親米国派の旗頭でロシアに毒を盛られたアバタ面です。

「キューバ国民はウクライナ国民の苦しみと痛みに初めて応えてくれました。そしてその助けを、最も感じやすく最も保護されていなかった人々、ウクライナの児童に向けてくました」

何かウルウルしてしまうようなメッセージです。これがキューバ革命なのだと、