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9 Nov. 2000 脱稿
1.「相違性」の提示 :グローバリゼーションへの異議申し立て
ビラが最初に提起しているのは,「グローバリゼーションとの対決」です.芸術や映像の話を期待していた人にはビックリだったかもしれません.
しかしビラにとって,文化や人々の価値観は,その人々の生活スタイルと切っても切れない関係にあります.そして,世界の人々の生活がまさに直面している事態はグローバリゼーションをおいて他にない,というのが,彼女の時代認識です.
ビラはグローバリゼーションを,大国による世界の単一的支配ととらえます.文化という視点から,彼女はそれを「否定的な平等化」と表現しています.それはマクドナルド(食文化)やハリウッド(映像文化)などが支配する「平凡で陳腐なモノカルチャー(単一文化)の世界」です.
もちろんビラがグローバル化の流れを全面的に否定しているわけではありません、後に述べる「発展」の考えの中で、ビラは世界規模での人類文化の発展を見通しています。
ビラは,このような「偽りの文化」(単一文化の支配)を,真の文化の対極にあるものだと考えています.ビラは「唯一で統一的な考え方の押しつけは,他の文化を汚し破壊する結果となるでしょう」とまで言っています.そしてその対抗軸として,人々の文化相互の差異性を提起するのです.
人々のグループ(それが国家であれ、地域であれ、言語・人種グループであれ)は、一人一人の人間の顔が異なっているように、お互い異なっているのだということです。その違いはニュートラルなものであり、どちらがよいとか悪いとか言うものではないということです。平ったく言えば「十人十色」ということです。
ここではそれを「相違性」と呼びます.「相違性」はすでに一種の思想を含んでいます。人間とほかの生き物とを比較するとき、その違いはただの差異に違いありません。相違はたんなる差異ではなく、お互いが人間であり、人間の形成する文化的グループとして、対等であることを前提としているからです。
2.キューバは「相違性」を主張し続けてきた
「相違性」の尊重は,過去40年以上にわたって,北の大国、アメリカから野蛮な攻撃を受け続けてきたキューバが,必死の闘いのなかで身につけた教訓でもあります.
グローバル化は、それを推進する側にとっても、押し付けられる側にとってもグローバル化ですが、その意味はずいぶん違ってきます。
キューバはある意味でグローバル化の先進国です.百年以上前から,キューバは北の大国によって属領化されて来ました.それは政治ばかりではありません.アメリカのための砂糖を生産するために,国土のほとんどが砂糖キビのモノカルチャー(単一栽培)となりました.
国の基本的社会関係を砂糖の生産関係が支配する以上、国民の社会生活のシステムも、砂糖の単一栽培に規定された単一なものとならざるを得ません。また砂糖の生産と消費、そして必要な資本の投下をアメリカが担う以上、その文化もアメリカに従属したものとならざるを得ません。
だから砂糖の単一栽培と,ハリウッドの単一支配とは同じ事実の両面です.
41年前に革命が成功したあと,キューバは文化の独自性=アメリカ文化との「相違性」を維持してきました.ビラはこう言っています.北の大国に対して身を守らなければならなかったからこそ,「私たちが私たちであるという素晴らしい「相違性」を維持することができたのです」
アメリカはカストロ政権成立の直後から、この政権を敵視し打倒しようとたくらんできました。1961年には千人以上の雇い兵を送り込みました。翌年には、直接米軍を侵攻させようとしましたが、有名な「ミサイル危機」によってその試みは挫折しました。
そのあと、アメリカは、ただちに兵を送り込むようなことはせず、経済封鎖によって真綿のように首を絞め、キューバの体力が落ちるのを待つことにしました。その間も亡命キューバ人らによる小規模なゲリラ攻撃は続きました。毎年百人を超えるキューバ人が犠牲となりました。
孤立したキューバは、キューバ人自らの手で独自の生産・輸出のシステムを創造する以外に、生きる道は残されていませんでした。思想的にアメリカの影響に打ち勝つためにも、キューバ人自らの手で独自の文化を作り出して、民族の誇りを押し出していくことが否応なしに求められて来ました。
それがキューバにアメリカ文化との「相違性」をもたらした最大の原因だと、ビラは言っているのです。
3.「相違性」の内実としての「独自性」と「多様性」
ここからビラは,「相違性」の考えを一気に内在化させ,独自の文化論として普遍化していきます.かなり解説者の読み込みもふくみますが,その論立てを追ってみたいと思います.
とりあえず「相違性」という言葉で表した考えは,一つには独自性=他の文化と差異を持ち,独自のものであることの主張という側面を持っています.そしてもう一方では「独自性」の相互承認,つまり「多様性の尊重」という側面を持っています.ビラの表現で言えば「肯定的で回避できない差異を十分に尊重」することです.
もう一度「差異」の問題から振り返ってみましょう。人間の文化同士には人の顔や肌の色が違うように「差異」があります。それを「相違」と認識するのは、人間がお互いに平等であり、その作り出す文化も平等だという意識があります。
しかし、それは動物との「差異」と変わりはないという考えもあります。これは差別主義につながります。劣った人間の作り出す文化は劣ったものに違いないという生物学主義的な先見です。「未開な土人」も生物学的には人間には変わりないが、その作り出す文化は「野蛮な風習」の域を出ない、ということです。
だから先進文化圏に属する人々は、文化の差異を「否定的で、啓蒙により回避、あるいは克服しうる差異」ととらえるのです。
このような人々に対して、差異の認識を「相違性」の承認にまでもって行くには、こちらの側で「独自性」を主張し、その独自性が「肯定的で回避できない差異」である理解してもらうことが必要です。
そしてそれを「我と汝の関係」だけではなく、世界の諸文化とのあいだに共通する真理として受容してもらうこと、文化というものの多様性を納得してもらって、初めてその認識は普遍的なものとなるのです。
「相違性」の主張は、諸個人の内なる生物学主義、文化的人種主義との鋭い闘いという側面を持っています。しかしその作業なしに「文化の多様性」を実質的に担保することは出来ないのです。
「差異」の認識は感覚的なものですが、それを「相違性」の承認まで持っていくのは結構骨の折れる作業なのです。
4.文化の独自性は、たんなる「個性」ではなく「異質性」の突きつけである
今度は少し立場を変えて、相違性の主張を突きつけられた側からみた「文化の多様性」の概念について考えて見ましょう。この節は、まったくビラの論理立てとは関係なく、私の感想的パラフレーズです。
「文化の多様性」を主張するだけではリベラリストの論調と変わりません.これだけだと結局,「相違性」の主張は,ごく当たり障りのない「多様性の尊重」一般に収斂してしまうことになります.
相違性を主張することのない「独自性」は,形式上は集団的個性として,「多様性」という予定調和的概念のなかに整除されてしまうからです.それは文化人類学者という一群の研究者が好んでとる手法です。
しかし、多様性というのは実際にはビラの言うように、各文化集団がおのれの相違性を主張し、もっとぎしぎしと音を立てながら、結果として成り立っているものなのではないでしょうか。
たとえば最近話題の「異なる文明間の共存」という言葉も、字面だけのことなら多くの日本人にはさらりと受け入れられてしまうでしょう。しかしそれでは、「異なる文明間の共存」の考えが私たちに突きつけている課題の半分も理解したことにはなりません。
文化の独自性(Individuality)は、人間一人一人の個性(Personality)とは違った概念です。文化は諸個人の共通した価値観を体現したものであり、アトム的個性の対極にあります。
相違性を理解するうえでの最大の問題は、個性や多様性の承認にあるのではなく、彼らが突き出す「異質性」を、人間としての同質性を踏まえたうえでいかに受容していくかにあります。
それは、我々とキューバという関係にとどまるものではありません。日本国内の中でも、異質な文化を持つ集団をどう受容するかという問題は同じようにあるはずです。
たとえば、日本ではテレビのチャンネルが10局も20局もあって,放送の「多様性」が保障されるように見えます。しかし、むしろ放送局の数が増えれば増えるほど,その中味は似通ったものになっていっているのが現状です.そこでは視聴率という市場論理が,ニセ「多様性」を貫通していくようになります.
自由主義市場経済と,たんなる形式的な民主主義の下で,灰色の「多様性」への埋没を拒否しようとすれば,「独自性」は異質性として表現されることになります。場合によっては、その実践は「異端」となる覚悟をする他にないのかもしれません.
多様性は独自性を徹底的に押し出すなかで、結果として実現するものです。多様性を実現するための一つ一つの作業は、場合によっては異端であることの覚悟と宣言を要求します。
5.「多様性」の擁護は階級闘争の本質的な一部である
ビラは多様性の前提として、あくまでも「相違性」を追求します.そして個別の比較における「相違性」を一般化することで「独自性」という考えにたどり着きます。
アメリカに対する文化の闘いは「相違性」として示され、それが世界における自らの存在意義の主張と重なることで「独自性」の考えが生まれるわけです。
この辺は資本論冒頭の交換価値から価値への転換の論理を思い起こさせます。概念とは不断の運動であり過程なのだという信念です。彼女には文化を闘う戦士の襟持といった趣があります。
彼女はその作業の延長線上に,「多様性の尊重」の旗を掲げようとします.問題は多様性一般にではなく、多様性の擁護という実践にあるのだという主張です。だからそれは黙示的に語られるのです.「文化の強化という実践には唯一の考え方の押しつけへの抵抗の要素がある」と.
ビラはこの実践を端的に表現しています.「エリートと庶民のあいだの不自然な壁を放り投げること,市場の存在が文化的産物を汚すのを防ぐために闘うことが必要なのです」
明らかに見て取れることは、初めに相違性という視点から米国支配を糾弾したのに対し、独自性という概念においては、米国を先頭とする資本主義的グローバリズムのシステムが糾弾の対象となっていることです。
精神労働と肉体労働の分離,都市と農村,さらに言語や人種間の格差が、実は多様性を拒否する側の最大の論拠なのです。分裂した社会の片方の側の文化を正統とし、一方を異端とすることで、階級支配を貫徹することがグローバル文化の本質です。
差異の認識を相違性の受容にまで発展させないようにすること、究極的には文化の真の多様性を拒否することが、支配者の文化政策の根底にあります。
これに対し、抑圧された側の独自性を押し出すことによって、支配者の振りまく「選民思想」と対決し、究極的にこれを取り除く作業は、たとえ複雑で息の長い闘いではあっても、多様性を実現し、擁護するために欠かせない戦略的課題です。
6.「多様性」を実践的に擁護する
とはいえ,「多様性」は一種の星雲状況です.そこでは拡散しようとするベクトルに凝集ベクトルが抗い,せめぎあっています.文化を担うものは、異質性を追求することで拡散しようとしますが、多様性を擁護することで凝集しようとします。股裂き状況というほかありません。
はっきりしていることがひとつあります。たとえその運動の本質が拡散であっても、力の凝集なしに、その「多様性」は維持できないということです.ここから話は「多様性」をめぐる一般論ではなく、「多様性」を擁護するための実践論に移っていきます。
ビラは「多様性」という言葉自体にはあまり拘泥していません.たとえば「良い意味での多様性」と言ったり,国連の文書を引用しながら「クリエイティブな多様性」と表現したりしています.
彼女の関心は,むしろ「独自性」を最大限に保障し,そのことを通じて「多様性」を擁護する実践にあります.主要な実践は現状の否定にあります。多様性はその結果にしか過ぎません。
いろいろな言葉が出てきて、もう頭がトーフ状態になってしまった人のために、ここでおさらいをしておきましょう。文化のあいだの差異が相違性として認識されるためには、人間としての平等だけではなく、諸個人の形成する文化が平等の価値を持っていることの承認が必要です。
それは被支配側の人々が自らの固有の文化を突きつけ、「お互いに違ってはいるけど、お互いに尊重しあわなければならない」ことを認めさせる実践があって、初めて成り立つ概念です。そしてそれは、相違性を突きつける側もふくめて、文化の独自性と多様性という共通認識に達するための実践でもあります。
独自性の主張は一方においては、画一化された先進国文明への異議申し立てです。そこには灰色の先進国文明を生み出した社会システムへの批判、その克服の道筋が含まれています。
5.「多様性」を担保する「共同性」と「自立性」
ビラによれば,多様性を擁護するための具体的な実践は次の二つに集約されます.
ひとつは自国の独自な文化を大切にする教育です.もう一つは「私たちのなかで強く根付いている大衆文化を,尊敬と智恵をもって扱うこと」です.これは心の中の文化意識に問いかけて,そこに隠された二重性を克服していこうとする自己否定的なストイックな態度でもあります.
ところで上述したような多様性を擁護するべき実践が,かえって多様性をスポイルしてしまう危険はないか? そのような危険を回避する保障は何か? このような議論に,ビラは踏み込んでいきます.
ビラはそれを,一方では「共同性」,他方では「自立性」という概念に求めます.ここは結構,難解なところです.
「共同性」の根拠は次のようなものです.
まず一つは,文化を担う人々が共通の価値観に立つことです.それは,「多様性」を守ることが文化を守り発展させる上で一番大事なことだ,という価値観です.
もう一つは,さまざまな立場の人が共同の価値観で実践することが,結局,「多様性」そのものの担保にもなっているという関係です.
他方,「自立性」は,独自性を持つ各文化的集団が,正統な根拠をもって主体的に行動し,それが他の集団によって承認されることです.
そして独自性を持った一つ一つの文化が,同時に「多様性」を擁護する主体となることによって,たんなる烏合の衆ではなく,共同意志を持つ集団として形成されるのです.
一見すると,論理の堂々めぐりのようにも見えますが,共同性,集団性,自立性,実践性という考えがつけ加わったことが大事なポイントです.
つまり,共同主体による集団的実践が基礎となったとき,初めて「独自性」が生きたものになり,真の多様性すなわち「多元性」が実現するということです.
6.文化的多極論の実践的否定
考えてみると,多様性と共同性は全く逆の立場のようにも思えます.
共同性を徹底的に否定する立場からの「多様性」の主張もあり得ます.それは結局,孤高の論理であり,「相違性」を「個性」一般に解消する立場です.ここではそれを「文化的多極主義」と呼んでおきます.この場合は,個々の文化が相互に無関心でいること,あるいは無関心を装うことを前提とせざるをえません.
ビラは,多様性との関連で文化的多極論をソ上にあげることはしていません.しかし,実践的に文化的多極論を否定しています.なぜなら,彼女はあらゆる文化に対して無関心ではいられないからです.そして変革の立場に立つ限り,多極性一般に止まってはいられないからです.
ただし絶対的個性論は,それはそれとして十分に存立しうる条件を持っており,尊重されなければなりません.従って文化行政のレベルでは,安易な「集団主義」の導入こそ断固として排除すべきであり,話は違ってきます.それは1961年に,革命的文化人相互の激しい論戦(いわゆる図書館論争)を踏まえてカストロが下した結論でもあります.
7.「多元性」とはどんなものか?
このようにして実現される真の多様性たるべき「多元性」はどのような特徴をもっているのでしょうか.それは市場主義経済における形式的な多様性,あるいは文化的多極主義とどこが異なるのでしょうか?
ビラは直接にはこの答えを出していません.彼女が言っていないことを,敢えて,その文脈から引き出すならば,「多元性」とは「生き生きと輝く独自性の集合」と定義できるでしょう.
モノカルチャーに対比される言葉はポリカルチャーということになります.しかし,ビラのいう「多様性」はたんなるポリカルチャーに止まるモノではありません.むしろそれはユナイテッド・カルチャーというべきでしょう.それは多様なものが団結し,支えあうことによって実現されるべき「多様性」です.
同時にそれは,自立し闘う文化主体同志が相互に接触し,接合し,変容を遂げていく過程でもあります.一言でいえば「各々の文化の発展過程における多様性」という考えを,その内にふくんでいます.すなわち「多元性」とは結合した多様性でもあります.すくなくとも結合への意識をはらんだ多様性であります.
この結合した多様性こそ,キューバ文化の真髄ともいえるもので,もっと詳しく具体的に知りたいところですが,残念ながら,今回の講演の主題ではありませんでした.
ビラの考えでは,多様性を保障する条件としての共同性,自主性,実践性というイメージは,もはやたんなる条件ではなくて,多様性の中味そのものとされているようです.多様性は,共同主体の存在を前提として実現され,保障されることになります.
8.文化的弱者・少数者への眼
以上のごとき総論だけでは,具体的な「多様性の尊重」のイメージはなかなか伝わって来ないかも知れません.やはりビラの現在おこなっている仕事のなかから,彼女の言わんとしていることを汲み取って行かなくてはならないでしょう.
今回上映された二つの映像作品の対象は,一つはトランスセクシャル,もう一つが重度身体障害者です.両者とも文化的マイノリティーであり,特に前者は「異端」ですらあります.
彼女の製作にあたっての立場は一貫しています.それがまさに「多様性の尊重」です.「肯定的で回避できない差異を十分に尊重」する視点が貫かれ,共同性,集団性,実践性という三つのポイントが完全に満たされています.
作品の構成は両者にほぼ共通しています.まず冒頭に彼女の主張,願いが提示されます.続いて彼女をとりまく環境が描かれ,彼女と彼女たちが集団的構造の中に位置づけられます.そして最後に彼女たちの生活と実践が展開されるなかで,もう一度彼女の主張が受けとめられます.
このような展開構成のなかで,ひとつのサブカルチャー主体が,われわれの生活世界の共同主体であることが説明されます.つぎに,それが孤立した異端としてではなく,一つのまとまりと自立的発展の能力を秘めたコミュニティー集団であることが証明されます.最後に,それが一つの文化を創造しつつある能動的な実践主体であることが理解されます.
9.文化の「統合」の意味するもの
文化は多様性のなかにこそあるのであり,安易な統合は文化の発展を阻害するというのが,ビラの考えです.彼女はそのことを,一般論としてだけではなく,具体的にその作品を通じて,説得的に証明していると言えます.
一つの文化の承認は,生活とコミュニティーの承認であり,人権の承認であり,発展の承認をふくんでいます.それは一つの実践的作業です.その作業を通じてのみ「多様性」が真に尊重されるのです.
それにもかかわらず,ビラは敢えて文化の統合を主張します.ビラはこう語ります.「私たちの文化的作業は,よい意味での多様性に関して,思い描いていた統一を得る」ためのものだと.そして彼女は,「文化の統合」を,まさに「よい意味での多様性」を擁護する実践として位置づけます.彼女はその根拠を三つにまとめ,論じています.
一つは,単一な文化の押しつけに対して,団結して抵抗しなければならないから,という理由です.これについては,すでに冒頭に触れましたので,ここではくり返しません.
第二の理由は国家と国民の発展は,文化の発展と同じだから,自国の発展のために人々が団結しなければならない,というのです.いわば国民文化論の視点からの提起です.これは国民のアイデンティティーという概念,「発展」という概念にかかわる大きな問題です.次の項で少し展開します.
第三の論拠は,「育てることを通じてしか文化は発展しない」から,ということです.これは教育,これは公教育のシステムとかかわった発言であると同時に,カルチャー(=文化,耕作)という言葉の二義性を念頭に置いた「文化の生産・創出」というイメージを指しているものと思われます.これについては「文化とイデア」の章で触れたいと思います.
10.「多様性」を内にふくんだものとしての「自主性」の主張
ビラは,冒頭,単一的文化の押し付けの拒否として,「相違性」を提起しました.そして「相違性」を自主性と多様性の側面に分け,内在化してきました.
今ふたたび,豊かな多様性を持つ文化論を得て,ビラは多国間における文化の共存の議論に戻ります.
ここではもはや,グローバリズムと単一文化の押し付けに対抗する概念としてではなく,文化的多様性の発展という観点から国民文化論を論じることになります.
ここでは発展という言葉と,アイデンティティーという言葉がキーポイントになっていきます.
11.人民的アイデンティティー:キューバ国民であるということ
ここでいったん「多様性」をめぐる議論の流れは中断します.ビラの講演では,まず発展についての考えを展開するのですが,その前にアイデンティティーの議論を片付けておいたほうが,流れはすっきりするようです.
ビラがさかんに強調するのは,日本でもなくアメリカでもなく,まさにキューバという国に生まれ育ったゆえに持たざるを得ない,特別に強烈なアイデンティティー意識です.それは文化的なものではなく,徹底的に地政学的な事情に由来するものです.
しかしこの点にあまりこだわっていると,論旨を見失いかねません.
問題はこの強烈なアイデンティティー意識が,「文化的アイデンティティー」というものの,一つの研ぎ澄まされた究極の姿=典型なのだということです.キューバ人の人民的アイデンティティーは,決して世界における異端ではありません.それこそが,ビラの言いたいところなのです.
表現こそ激烈ではありますが,そのために「人民的アイデンティティー」というものの本質がくっきりと浮彫になっているところに,ビラは注目するよう呼びかけているのです.
ビラは語ります.「わが国をはじめとする貧しく小さい国々」では,「文化は本質的に民族の解放を意味しており」,「文化的アイデンティティーを守ることは,民族の自決や社会的正義の実現と同じことだと理解されます」
ビラは何度も,アイデンティティーとは文化そのものだと言っています.地理的条件や法律・システムなどの外枠ではなく,そこに住む人々の表出的,あるいは内面的な「キューバらしさ」(クバニダード)がアイデンティティーを規定するのだということです.その規定は,キューバという個別性・特殊性を超えて,普遍的なものとして提起されています.
もうひとつビラが強調しているのは,キューバ人のアイデンティティーは万古の昔から不易のものとしてあるのではなく,とりわけ,この十年間の苦闘の中で形成され,強化されてきたのだということです.
1989年からの最も困難な時期を迎えるにあたり,「私たちは,まず最初に守らなければならないものは文化である,と決めたのです」という感動的な言葉は,「なぜなら,文化は国の魂だから」であり,そして「国の最も重要なたくわえとは豊富な文化」だからであるという揚言へとつながっていきます.
12.それは文化革命だった
ビラには鮮烈な時代意識があります.彼女にとっては,「まず最初に守らなければならないものは文化である」と宣言し苦闘してきた,この十年間こそが,まさに現代です.おそらくその時代意識は,この十年間,革命第一世代に代わり祖国を崩壊から守り抜いたという「歴史の担い手」意識とだぶっているでしょう.
困難な時期を述懐した一文があります.少し長くなりますが引用します.
「(文化・芸術の分野では)混乱した状態になりました.その展望はダンテ風なものでありました.未来という言葉の意味は失われました.これまでの社会プロジェクトの正しさ,長所についての確信も失われました.そして多くの人が降参していきました」
「しかし,私たちはホセ・マルティのように考えることを選びました.“空腹は過ぎ去る.しかし不名誉は過ぎ去ることがない”(日本流に言えば“武士は食わねど高楊枝”でしょうか)」
「私たちは人々の背中を押し,夢中で働きました.そして結果はご覧の通りです.革命の始まりから90年代の終わりまでに,わが国の状況は目覚しく改善しました.特に芸術の分野でそれは顕著です」
「キューバ芸術は世界的に知られるようになり,過去や現代の偉大なるクリエーターが賞賛され,スポットライトをあてられています」
この中に「革命の始まり」という言葉があります.明らかに1989年,あの「特別な時代」の始まりを指して「革命の始まり」といっています.彼女たちはホセ・マルティの革命や,カストロたちの革命とは違う,もう一つの革命を闘ったのだと主張しているのです.
ビラはそれを「真の現代主義」(モデルニスモは前世紀末,ホセ・マルティの提起した考え)を実現する「文化革命」としてとらえています.その内実が多様性を通じての統合,「クバニダード」の多様な展開を意味するのです.
私たちが知っている文化革命といえば,毛沢東の起こした「文化大革命」です.それは「文化」という名の「反文化」であり,文明の破壊でした.それを考えれば,ビラたちの行った活動こそ,まさに文化革命の名にふさわしいものでしょう.
13.文化活動と経済活動:手段の共通性
文化を創造的活動という側面から見た場合,そこには創造のための物質的手段が不可欠です.美術の場合は,ほとんどそれ自体が一種の物質的生産活動ですが,音楽でも楽器やアンプが必要ですし,演劇でも大道具から照明まで,物質的生産活動の支えなしにはやっていけません.出版社がなければ小説家は首を吊るしかありません.
90年代のキューバは,まさに首を吊りたくなるような状況でした.経済収縮の結果,文化は萎縮してしまいました.そのとき彼らは「まず最初に守らなければならないものは文化である」と決めたのです.
ビラは「文化(の発展)と(経済活動の)発展は同じ体の部分を成しています。もし離れてしまったら、体は死んでしまいます」と述べ、文化の絶対的必要性を訴えています。
しかし食べるものすら事欠くような状況のもとで,資材をどのように分配するか,考えればこれは難題です.消費物資の生産を切り詰めてでも,生産資材を文化のためにまわすという発想はなかなか出てこないでしょう.それは一種の貴族趣味とすら言えます.
キューバには先例がありました.1961年初め,カストロたちは,工場や会社の操業を縮小してまでも,文盲を一掃する運動をすすめると宣言しました.多くの経済専門家は,この運動に異議を唱えました.革命後の困難な時期,生産を維持し人々の生活を守ることこそが優先されるべきだと主張したのです.
しかし多くの反対を押し切って識字運動が展開されました.学校は数ヶ月にわたり休学となり,学生が教師となって,山奥や僻地に入っていきました.工場労働者も革命休暇を取って「十字軍」に参加しました.中には山中に潜む反革命ゲリラの犠牲者となったものもありました.
この識字運動が成功したかどうかについても評価が分かれています.「識字率は一時的には上がったが,文字を使う必要がない人はすぐに忘れてしまった」ことを示す客観的統計もあります.「識字運動」という思想動員を嫌ってキューバを去っていった若者もいます.
しかし文化というものが,手間ヒマかけて作り上げていかなければならないものだ,ということだけは誰の胸にもしっかり落ちたことでしょう.それはいわば「見返りを要求しない投資」です.
14.文化は経済活動の発展に無関心ではいられない
「発展」に関するビラの見解には,ちょっと分り難いところがあります.デサロージョという言葉は,どちらかというと物質的・経済的な発展というニュアンスが強い言葉です.ひょっとすると見当違いになっているかもしれませんが,ビラは文化活動が経済活動を牽引する場合もありうるといっているのではないでしょうか.
たしかにキューバの経済危機を救った主役は観光産業でした.米国からの入り込みこそないものの,逆にそれが売り物になったところもあります.カナダからのツァー,世界一旅行好きだといわれるドイツ人観光客など,いまや年間百万を超える観光ラッシュです.
しかし,カリブの海とサンゴ礁,ぎらぎらの太陽と白い砂浜に椰子の樹となれば,別にキューバが専売特許ではありません.最近建てられたリゾートホテルなど,むしろそういった光景があざとさを感じさせさえします.
ビラはこのことがわかっています.キューバの最大の観光資源は人とその文化にあるのです.お金で評価できない人々の心の豊かさ(7分のき真面目さと,3分のいい加減さ,6:4かも? でも,他の国は絶対に4:6以下だ!)にあります.だから行った人は必ずリピーターになって,やがて中毒者になります.
だからビラは,「国の最も重要なたくわえとは豊富な文化です.なぜなら,それがキューバの国策的課題の維持を保障するものだからです」と述べ,「いまや私たちの文化的仕事のすべてが発展を抱えています」と胸を張るのです.
15.文化と人間的・イデア的発展の展望
おそらくはビラ快心のミレニアム的決り文句がこれでしょう.「文化というものは,あたかも飢えた肉食獣の中から,たった今生まれたばかりの子供のようなものです」
ここに彼女の「発展」観が凝縮されています。これ一発が言いたくて講演をやったようなものです.
文化は「飢えた肉食獣」たる現代人間社会の、正統な嫡男であること、
今の所,文化は生まれたばかりで危うげで,人々の保護を必要としていること,
しかし,それはいつかダビデのように、飢えた巨人に打ち勝ち,「真の人間の歴史」を切り開くことになるであろうこと,
したがって,私たちが心からの慈しみと畏敬の念を持って,生命に代えてでも守り育てなければないこと,
こんな思いがこの一言の中に集約されています.
文化の実践は、育てることと、育てられて成長することの関係になぞらえられます。文化はかくして人類発展の中に位置づけられます。
その後の言葉も,もう少し拾っておきましょう.
育ちつつある文化は、決してたんなる受け身の存在ではありません.「人類の人間的な発展を推進するために大きな役割を果たすのです」と,ビラは力説します.「私たちはキューバのために働いていますが,その仕事は地球上の人々の暮らしと心を守り,文化を発展させる責務につながっています.それは,人間の持つ知的精神が盲目の実利主義に打ち勝つことです」
「帝国の哲学」は不平等,裏切り,命がけの競争を「自然の掟」と託宣しました.「私たちはこの挑戦に対して積極的かつ人間的な発展の理論を対置しなければなりません.そしてそのために文化が果たすべき精神的・道徳的・理念的な役割を,しっかりと理解しなければなりません」
そしてビラはキューバ人の歴史的使命を高らかに謳い上げます。
「いかなる階級に属そうと,すべての知的なキューバ人の最重要な関心事」は,「より高い精神性へ人類の発展をもたらす」という「文化の持つ力」を地球上に広めることです.