2011年1月

Raul Zibechi

「大陸を変えた10年」

The Decade that Transformed a Continent

© 2011 Upside Down World

 

はじめに

いろいろな意味で、南アメリカにとって、21世紀の最初の10年間は20世紀の最後の10年間の裏返しであった。多くの目覚しい変化があった。我々は未だこれが一連の蹉跌であるのか新たな時代の始まりであるのかを確言はできない。いずれにせよ間違いなく、この地域は20年前と同じものではない。

90年代は民営化と規制緩和の時代であった。前例のない国家沈没の時代であった。富の強度の集中と多国籍企業の存在感の劇的な強化の時代だった。経済の全部門が民営化されたブラジルでは、国民総生産の30%がその担い手を変えたと見積もられている。

ブラジルの社会学者オリベイラは「それは大震災だった」と語る。ワシントン・コンセンサスは、すべての石をひっくり返した。場合によっては、アルゼンチンの場合のように、ネオリベラリズム・モデルは国家全体の数世代にわたる将来を脅かした。

この変換はより危険なものとなった。なぜなら民営化の嵐は軍事独裁の年月が過ぎ去った直後に襲ったからである。人によってはネオリベラリズムは独裁政権の不可欠な一部であったと主張している。

しかしその恐怖の年月は、また社会の目ざめ、新旧の社会運動の活性化の年月でもあった。サンパウロのフォーラムで大陸の左翼の共同行動が開始された。世界社会フォーラムで世界的な共同行動が開始された。

巨大が民衆蜂起が1989年の「カラカソ」から始まり、ボリビアの二度の「ガス戦争」、2001年のアルゼンチンの反乱へと続いた。反応はきわめて強烈であり、与えられた筋書きは完全に書き換えられた。

70年代以来、この地域から途絶えていた社会主義の波が再び出現した。それはネオリベラリズム政府の退陣のための巨大なカーペットを広げた。それに代わる新世代の政府は、徐々に、しかし持続的に左翼化し、あるいは進歩的な容貌を帯びるようになった。いずれにせよ、彼らはワシントン・コンセンサスに反対の立場に立った。

 

南アメリカの新たな枠組み

米州自由貿易地域協定(FTAA)はブッシュ政権の地域方針の枢軸をなすものだった。これらの変化なしでFTAAを拒否するのは不可能だっただろう。

2005年11月の米州サミットは、統合主義にもとづくワシントンからの提案を葬り去った。そして南アメリカ全体ににメルコスールを広げる戸口を開いた。ブラジルの位置は、アルゼンチンとともに、転換の鍵となった。それは一貫して堅固な姿勢を貫いたことによる。そして自立的発展の道筋を創造するという論点を曲げなかったためである。

サミットは地域統合のプロセスを「前」と「後」に分ける分水嶺となった。南米諸国連合・UNASURの創設は、この最初のステップなしには不可能だった。

日付を思い出してみよう。

2004年12月に、南米諸国の大統領は「クスコ宣言」に署名した。それは南米諸国共同体(South American Community of Nations)の創設を宣言するものだった。その後一連の会合が持たれ、2007年4月に、南米地域はUNASURの名称を採用した。

その後もプロセスは、前進し続けた。

2008年3月1日、コロンビアの空爆作戦が起きた。エクアドル領内のFARC(コロンビア革命武装勢力)の根拠地が襲われ、ラウル・レジェスが殺された。それはアンデス山脈の地域で重大な対立に火をつける恐れがあった。そして、UNASURは南米防衛会議をつくることを決めた。地域内の軍事力を協調させるためである。

その後、南米地域で経験されたいくつかの最重要な危機に際してUNASURの役割は決定的だった。

2008年8月から9月、ボリビア極右がエボ・モラレス政府に対して攻勢に着手したときがそうだった。そして2010年9月、エクアドルでの警察反乱がクーデターに発展しそうになったときがそうである。

この新たな地域同盟は、政治的舞台の中心を占めるようになった。そして民主主義を守るため全ての政府を列につかせた。過去数十年にわたり外交の中心を占めてきた米州機構(OAS)は、ホワイトハウスの支配の下に置かれてきた。しかしそれはいまや支配の座から遠ざけられた。

ここに至る過程でブラジルの果たした役割は明らかである。とくに外務省の役割は決定的だった。その影響下で、地政学的な力関係の方向転換が促進された。この間ブラジル外相を務めてきたセルソ・アモリンは、2009年に雑誌「外交政策」によって「世界最高の外務大臣」との評価を得た。彼はブラジリアに構築されたルーラ新政権のなかで、もっとも著名な人物となった。

21世紀最初の10年間の終わりにあたり、政治的な統合はこれまでないほどの高い水準に到着した。経済的事情においては未だ克服すべきいくつかの重要な相違が残されているが、これは寛容と長期的視野の上に相互の補完関係が形成されるべきだろう。

確かなことは、これらの変換は、エネルギー統合がふくまれていれば、もっと希望に満ちたものとなっただろうということである。たとえば「南の石油の道」計画がもっと具体的に進展していれば、統合は飛躍的に進んでいただろう。

たとえば「南の銀行」の憲章が生命を吹き込まれていたなら、まったく新しい財政的アーキテクチャーが実現していたかもしれない。それらの議論はすべて尻切れトンボに終わっている。

そういった意味では、「われらがアメリカの諸国人民のためのボリーバル同盟」(ALBA)の息吹は、UNASURに属している全ての国によって受け入れられているとは、到底言い難いのが現状である。

以上挙げたのが、前進面と限界面である。これが「進歩の時代」(progressive era)の最初の10年が終わろうとする現在の状況である。

 

政治的変革の前線

経済の変化はマクロ・レベルにとどまるものではない。南米地域はマクロの変化に加えて持続的な経済成長を行ってきた。この経済成長を支えたのは、生活必需品の輸出増加であり、貧困率の低下であり、若干の国での国内市場の拡大である。

これらの指標が新しいサイクルの始まりを意味するのか、それともたんなる一時的現象なのか、その評価をするのは時期尚早であろう。これらの国の輸出産品が世界市場でいっせいに価格上昇したため一種のブーム(bonanza)をもたらしているからである。

しかしはっきりしていることはある。それは商取引の流れが劇的に変わったということである。

いまやブラジルの一番の取引パートナーは中国である。1930年以降、首位の位置を保ってきた米国はその座を譲った。アジアの巨人・中国の存在は、いまや南米地域に定着した。中国はすでにラテンアメリカ全体としても、アメリカに次ぐ第二の取引パートナーである。

しかし取引の多角化には、いろいろな側面がある。一方では、それは地域のすべての国のためになる。なぜならそれは新しい市場の開拓であり、地域の生産活動の要求に応えることになるからである。

しかし短期的には、もし必要な対策がとられなければ、その影響はextractive modelに打ち勝つ能力の喪失へと導く可能性もある(意味不明)。世界第7の工業国ブラジルでさえ工業生産物の輸出は低下した。

中国の大豆や鉄鉱石などに対する需要は絶え間なく、すさまじいものがある。生産の基盤は世界的な危機から変わるだけではない。アジア諸国の上昇は第一次産品の生産への復帰の原動力となっている。

これらが複合して、力強い経済成長が妨げられる可能性がある。それどころか、南米地域全体に根付いた社会政策の補完をもってしても経済が後退する可能性すらある。

 


この部分は、論旨が不明瞭でわかりにくいが、おそらく言いたいことはこうだろう。つまりアメリカからの脱却は成功したが、それに代わって中国が進出してきた。ブラジルは産業大国ではあるが、まともにぶつかれば到底中国にはかなわない。そうするとこれまで成長してきた産業は衰退し、中国への原料供給国として特化(いわゆる周辺化)せざるを得なくなる危険性がある。


 

もう一つ、進歩派の経済手法は、構造改革や所得再分配抜きの成長政策や貧困抑制政策と批判される可能性がある。不平等を判断するインデックスはわずかな改良を示してはいるが、ワシントン・コンセンサスの前の状況からは程遠い。

さらに悪いことには、富の集中は巨大鉱業や、単一作物栽培のアグリビジネスでさらに増大し続けている。その経済モデルの影響は二倍になって跳ね返ってくる。

まず第一に、これら産物の生産増大は威厳のある仕事を生成しない。むしろ新しい貧しい人々のグループを形成する。ブエノスアイレスでの大規模スラムの急速な拡大は、まさにこの現実の氷山の一角である。

2006年時点での推計で、首都とブエノスアイレス首都圏の間には819のスラム街が形成され、100万人の住民が暮らしているとされた。今日では約200万人の人々がスラムでの生活を余儀なくされている。そのうち23万人が首都に集中している。これはブエノスアイレスの人口の7%に相当する。しかもスラムの人口は全国平均の10倍の速度で増加している。

「静かな津波」、アルゼンチンの右翼はそういって非難している。毎日毎日、アルゼンチン北部地方だけでなくパラグアイから、そしてボリビアから食い詰めた人々が流れ込んでくる。

理由は明らかだ。国の耕地の半分を占める大豆畑が彼らを追い出したのだ。

農産物価格の高騰が止まない限り、あるいは構造的変化が起こらない限り、社会政策のみでは、都市に押し寄せるこの貧しい人々の「津波」を食い止めることはできない。

しかし、これは議論のレベルにとどまる。解決は相当先の話になる。ブラジルを除く多くの国はそれどころではない。政府の優先課題は、まずは月々の財政収支の帳尻を合わせことだからである。

 

時代が変わるのだろうか?

 

これからの10年、南米地域はどの方向に進まなければならないのだろうか? それを考えるということは、この10年を推し進めてきたプッシュ要因をあらためて分析することを意味する。そして、10年かけてここまでしか進めなかった原因を分析することを意味する。

90年代最後の10年間に、様々なタペストリーが織られた。その織り糸は草の根運動家が提供され、左翼組織から提供された。その織り糸は徐々により合わさって、変革の主要な推進者となった。

古い労働組合運動は、新たな運動の波が彼らと並び立つのを見た。しばしば激しい競争が展開された。それはシステムから疎外された敗北者たち、「持たざる者」、職を失い、家を失い、権利を失った者たちの集団であった。

それぞれが自己の立場に立ち、決定的な瞬間には共同し、力強い流れを作り出した。ネオリベラリズム・モデルは拒否され、政府は統治能力を試され、極端な場合は堕落した無能な支配者を飛行機に乗せて追い出した。

エクアドルでは三人の大統領が、ボリビアでは2人の大統領が民衆の動員に直面して打倒された。彼らは、民衆には政府を放逐する力があることの証明となった。民衆は反国民的政府を権力の座から追い落とす力がある。その力が証明されたことが、南米地域変革への新しい方向性を解き放った要因のひとつである。

その他の国の流れは、より平和的であるが、同じように民衆のパワーを受けての変化である。それは定められた合憲的な手順を踏んで、進歩的政治勢力が勝利して、国政の機関を引き継ぐ形で進んだ。

この変化は最初は地域レベルで発生した。それが地方レベルに拡大し、最終的は全国的レベルにまで拡大した。それは同時に民衆の動きが政党や大衆運動に影響を与え、「古い」左翼と「新しい」左翼の共同を生み出してきたともいえる。

エクアドルでの祖国同盟Alianza Pais、ボリビアでの社会主義運動Movimiento al Socialismo、ベネズエラでの統一社会党は、政党システムの破産状態が続いていた国での政治勢力のあり方を示している。

一方で、ブラジルの労働者党(PT)、ウルグアイの拡大戦線、パラグアイでのTekojoja は伝統的政治システムの中で生き延びてきた。そして政治革新の主要な要素として発展した。

すべては、我々がサイクルの終わりにいることを示す。国家装置としての政権を引き受ける政党は民衆運動のパワーによって作り直された。民衆運動は一定時間の後、最も戦闘的な人々を柔軟にさせることでひとつの組織にまとめ上げられた。実際、今日、変革過程の分析は、そもそも変革の戦いを始め、指導した勢力の内部にどんな変化が起こったのか、その内容を理解することに集中している。

ブラジルでは、「新時代」に関する議論がもっとも広範にかつ深く進行している。たとえば社会学者オリヴェイラは、「逆ヘゲモニー」 reverse hegemony という概念を提示している。これは労働党政府が金融資本や多国籍企業を統治するという現象を説明するために用いた概念である。

彼の編集した著書「ルーリスモ」の中で、社会学者ルダ・リッチは労働党の草の根的基盤における変化の基礎にせまっている。そして新中間層の興隆をルーラの人気を理解する鍵として捉えている。

さらに最近では、社会的な運動でありかつ政権でもあることの複雑さを、社会学的に捉えることも含め、「ポスト・ネオリベラリスム体制」という言葉が出現してきている。

アメリカの再位置づけについての議論も付け加えておく必要がある。アティリオ・ボロンはアメリカの政策の基本を「この地域の政権を崩壊に至らしめるさまざまな攻勢」として捉えている。そしてそれはコロンビアとパナマでの軍事基地、ホンジュラスでのクーデター、関係国との関係における軍事突出として特徴付けられている。その典型が第4艦隊の活動再開とハイチへの一方的干渉である。

 

 最近では、前コロンビア大統領アバレロ・ウリベと共に、極右勢力がチリ、 ペルー、コロンビアの援助を受けたと考えられているのは、12月にサンチア ゴでノーベル賞作家マリオ・ヴァルガス・リョサとスペインのホセ・マリア・アスナールの仲介を受けて持たれた会合で示されたとおりであ る。


19 Dec 2011

すみません。途中で翻訳しないで投げ出していたのをそのままアップしていました。

me4167y さんが訳してくれましたので、そのまま掲載させていただきます。読んでもらえば分かると思いますが、これから先の結論部分は率直に言って、ちょっといただけません。“利いた風なことを抜かしやがって…”という感じです。

 

前進か、後退 か?

 

もし進歩派や 社会運動が、改革推進派を優位に立たせまいと動く、長い変化期に入っているのが事実ならば、進歩主義は退化の前に訪れる停滞期に入ったこ とになる。

過去20年間、中南米の多くに様々なかたちで現れた左翼勢力が、政治分野に進出し た。

・ここで、国 家の理論が頭をもたげた。

進歩主義者た ちが政治の役割を変革したように、国家機関のマネジメントも指導者たち自身を変えていった。(「右ブレ」していったという意味だと思いま す)

それが倫理の 問題ですらないということは、フレイ・ベットーが自身の政府での経験を分析し著した「青バエの話」(La Moska Azul)でも指摘されていることだ。

(「青バエの 話」"The Blue Fly"から自分が勝手に命名しました(笑)
  フレイ・ベットー Frei Betto は英語版ウィキペディアにページがありました。ブラジルの人のようです)


 最大の 問題は、国家は自己保全のために存在し、かつそのために血道を上げるということだ。

このため、圧 力をかける外部勢力(政党や運動など)が存在しないと、保守主義はあっという間に支配的になる。

ピノチェト独 裁後20年続いた協調政治が右派政権への道を開いたチリの事例 は、その典型であると同時にわれわれ自身の姿でもあるということができる。

チリで起きた ことは、リーダーの自らの統治体制の確立、実力以上の権勢をふるう指導者集団の編成、ヒエラルキーの形成、予算を自らの「扶養」やオフィ スの「備品調達」に費やすなどの動きである。(つまり改革派が一度は追い出した連中と同じことをやっている)

これらは善悪 の問題ではなく理解の問題である。

生命にはサイ クルがあり、成長期が終わると、安定期から老年期へと移り変わるもので、誰もそこから逃れることはできない。

230年前に生れた 運動が、変革のインキュベーター、そしてプロモーターとしての役割を終え、安定志向の流行という、それまでとまったく異なる現実が代わり に出現したというのは大いにありうることだ。

21世紀の2度目の10年は、発展途 上国の金融・経済危機が政治危機さえ引き起こすのではという恐怖で始まった。

この10年では、中南米に更なる変化が起こるだろう。キューバでは体制の根本的な変 化に伴い何かが、世界規模で影響力をもつアメリカで何かが、そして域内安定に寄与してきた南米の国々で何かが。

最後の「何 か」は、ベネズエラとアルゼンチンが候補に挙げられる。

そこには疑い なく、クーデタの企てや様々な不安定化工作を含む、混乱と平和への脅威が存在するだろう。

 

新しいものは 何もない―実際は

 

・新しさとは 何か。エクアドルで起きたことは、左翼と求心力を失った草の根運動の分裂だった。

・誰かが成果 を探し求めていた訳ではないが、その両方ともが進歩派政権の統治の成果である。