ハイチ政変の背景

97年「札幌国際連帯研究会」(SIIS)機関紙に掲載

暗黒の国

小説というのは,経済統計や政治年表よりはるかに生々しくその国の雰囲気を伝えてくれます.デュバリエ支配下のハイチがどんな状況だったかを知るために最良の参考書は,グレアム・グリーンの小説「喜劇役者」でしょう.

この本に描かれたハイチは,トロピカルな気候にはおよそ似つかわしくない背筋の寒くなるような暗黒社会でした.もっといえばこの国は国と呼ばれるのにふさわしくない無法社会でした.街には飢えた与太者が獲物を求めてうろつき回っています.かれらは政府公認の与太者でした.デュバリエ大統領は反対派弾圧のため,彼らを雇ったのです.かれらはトントン・マクートと呼ばれました.

もともとこの国は100%黒人からなる国ですが,その中でも白人と混血したムラートと呼ばれる階層が経済の実権を握っていました.しかし国全体を政治的に支配するほどの力はありません.日々の生活にも事欠く農民たちは,ムラートの搾取に対抗するポーズをとるデュバリエをたよりにします.軍部と結びついたデュバリエは,ムラートやこれに繋がる都市労働者を弾圧することで,遅れた農民層の支持を得ます.だからといって農民の生活向上のため努力するわけではありません.米国資本と結びつき私腹を肥すことに血道を上げます.これでは経済の発展はありえません.

経済がこのように死んだ状態になれば,それなりに政治は安定します.ハイチが80年代半ばまでデュバリエ独裁態勢を継続したのも,このような背景があってのことです.この点ではミャンマーの長期独裁と類似しているかも知れません.

デュバリエ独裁の崩壊

しかしさしもの長期独裁も,80年代に入ると綻びが目立つようになりました.米国資本が,とびきり安い労働力と政治の安定に眼をつけどっと流入してきたからです.それまでハイチは多国籍資本からは敬遠されてきました.あまりの無法ぶり,民度の驚くほどの低さ,フランス語の崩れたクレオール語という独特の言語のむずかしさなどが上げられます.しかし中米にあいついで起こった民族解放運動の高揚は,そのようなより好みをゆるす状況ではなくなりました.

さまざまな業種の内もっとも原始的で労働集約的な業種がまず参入します.たとえば野球のボール製造といった類です.この流れは82年レーガンがカリブ開発構想を打ち上げるにいたって,一気に加速されます.従来デュバリエ一族と軍部が一手に握っていた産業開発の権益がムラート層にも拡大され,新興資本の興隆が始まりました.労働者も爆発的に増加し,首都ポルトー・プランスへの人口集中が進みます.

進出した米国資本も,それと結びついた新興資本も,より自由な企業活動を要求するようになります.そして活動に加えられたさまざまな制限と,不公正の撤廃を求めるようになります.

キリスト教民主党など中道政党が中心になり人権同盟が結成されました.政府は大規模な弾圧を加えます.クロード委員長は8回も逮捕されその度に残酷な拷問を受けます.米国はハイチ援助を打ち切るなどして人権抑圧に圧力をかけます.

米国のハイチへの要求はあい矛盾するものでした.政治的にはこの国が強力な反共国家となることを期待します.この点では軍部の崩壊は何としても避けねばなりません.一方で経済的には,この国に強力な資本家階級が出現するための桎梏となっている現在の政治体制を撤廃させなければなりません.CIAの暗躍が始まります.

 

デュバリエなきデュバリエ体制

85年に入ると,一気に反政府運動が盛り上がります.青年が首都の市街でデモを開始すると,群衆はたちまちの内に6万にふくれ上がります.彼らの掲げたスローガンは「身を屈して生きるよりも死を選ぼう」という凄じいものでした.まさしく言葉の通り,その行動は死を賭けたものでした.11月に学生デモへの発砲事件が発生,学生4人が死亡します.抗議行動が全国に拡大し,北部の町ゴナイーブでは住民蜂起が起こります.

明けて86年1月,ついに暴動は首都ポルトー・プランスにも波及します.デュバリエは非常事態宣言を発し事態の収拾をはかろうとします.ここでCIAはデュバリエに見切りをつけます.そして強引にもデュバリエ一族を軍用機に乗せ,国外に追放してしまいます.

デュバリエに代わり政権についたのは,彼の腹心ナンフィ司令官でした.結局デュバリエ独裁が軍部独裁に代わったに過ぎません.これが米国の筋書きでした.

真の民主化を求める国民の抵抗は続きます.地方では大地主の土地取り上げに反対する闘争があいつぎ,私兵団とのあいだに流血の事態も発生します.87年,制憲議会が開催され,いよいよ大統領選へ向けての運動が開始されます.民主主義運動の全国大会は300団体千名が参加し,統一組織の結成に向け動き始めます.

それからの闘いは凄じいものでした.軍政反対を叫ぶゼネストは弾圧にあい23人が死亡します.しかしそれはほんの序の口です.ナンフィはトントンマクートを復活させ,かれらに暴力をほしいままにさせます.はっきりしているだけで数百人がテロの犠牲になりました.国民協調戦線は地下に潜行し抵抗を続けます.北部のジャンラベル村では農業労働者のデモに地主が発砲,千人が虐殺されました.

首都のスラム街シテ・ソレイユで活動していたアリスティド神父は国外追放されます.アリスティドは「われわれは食料と公正を実現するため,歴史を左に展開する駆動輪である.わたしが死んだらあなたがたは進むのをやめるだろうか?」と別れの挨拶をします.

ナンフィは大統領選挙を中止に追込んだ後,さらに暴力的姿勢を強めます.これをみたCIAは再度クーデターを起こしアブリル将軍を政権につけますが,ナンフィ派も抵抗を続け,国内は収拾がつかなくなりました.89年4月には大統領官邸を巡る攻防戦まで展開されます.

この国をここまで混乱に追込んだのは他の国と同じIMFでした.まったくLA諸国にとってIMFは疫病神です.ほとんど国家の体もなしていないようなこの国に先進国型の経済政策をおしつければどうなるか,考えてみれば分かりそうなものを.

 

アリスティドの勝利と失脚

90年,そのアブリルも倒れました.12月国連とOASの監視の下に選挙がおこなわれました.資本家代表で米国の支援を受けたバザンが有力視されていましたが,蓋をあけてみると左派のアリスティドが圧勝してしまったのです.米国にとっては最悪の結果です.

直後のクーデター計画を乗り越えたアリスティド政権は,着々と政権基盤を整備,5月には軍政時代の抑圧と腐敗の追及に乗り出します.これを恐れた軍部は,91年9月29日,セドラ司令官の下にクーデターを起こしアリスティドを追放します.その後の弾圧で2千人以上が殺害され,アリスティドはカラカスを経てニューヨークへと亡命します.またも逆戻りです.

このクーデターに軍部は総力を結集しました.米国の意向は決して軍の弱体化にあるわけではありません.逆に軍隊を情実人事や軍閥支配から解き放ち,近代化することが真の目的でした.そのためにはムラートのエリートをウェストポイントの陸軍学校に送り込み,国の内外の資本家の利益を代表する軍隊に仕上げる必要があります.こうして形成された軍部「近代派」を中心に,開発独裁型の政治を推し進めようというのが彼らの狙いだったといえるでしょう.

この軍事政権の下には正規軍7千のほか,各地にアタシェと呼ばれる私兵団が数万規模で組織されていました.さらにトントンマクートの後身FRAPHが,軍部と結託してテロや脅迫を繰り返します.地方の地主や都市の資本家もアリスティドの再現を阻止する点では一致を見せていました.

 

国際封鎖の圧力

これだけ強力な布陣を敷いた軍部は,政権維持に自信を持っていました.しかし大誤算だったのは国際世論の動向でした.OASと国連はただちに新政権に抗議しただけではありません.国連総会は全会一致でハイチ制裁を決議しました.93年6月には安保理が石油と武器の禁輸,海外資産の凍結を決議し経済制裁を強めます.米国もこれに同調し海上封鎖を開始します.

米国が強硬措置に踏みきったのは,別に崇高な目的に燃えたからではありません.ハイチからの難民増加に業をにやしたというだけのことです.キューバ難民と違い,米国政府はハイチ難民を受入れるつもりは毛頭ありませんでした.人種的な問題,クレオール語しか解さない文盲の民としてのハイチ難民は,米国内に入ればたちまちスラムの住民と化すに違いないからです.海上封鎖も,ハイチ政府を痛めつけるというよりは難民の流出を阻止することに狙いがあったといえるでしょう.

この政策はそもそも矛盾しています.軍部を影では支持しながら,表向きは経済封鎖で締めつける.苦しんでいるハイチ国民には海外逃亡しか逃げ道がないのに,これを強引に封じ込める,このやり方は早晩破滅するしかありません.

この時を待っていたかのように,NYタイムスが暴露記事を掲載します.CIAが軍首脳に資金供与してきたというのです.CIAの内部文書によれば,セドラたちは「デュバリエ以来もっとも有望な指導者グループ」と評価されていました.このスキャンダルと前後して首都の貧民街ソレーユにFRAPHが乱入.住民10人を射殺した後放火するという事件が発生しました.

94年5月,国連安保理は対ハイチ全面禁輸を決議します.難民流出にも拍車が掛かります.連日数千名の難民が発生,あっという間に難民は数万を数えるにいたります.

 

米軍の単独進駐

ついにネをあげた米国は海兵隊をおくり上陸の構えを見せます.事態は決定的な場面を迎えました.ガリ総長が安保理に対し多国籍軍1万5千のハイチ派遣を要請したのです.OAS諸国にも介入やむなしの空気がひろがっていきました.

こうして94年9月,米海兵隊2万がポルトー・プランスに上陸したのです.この期におよんでもセドラは政権居座りを宣言し,反軍政デモに対して攻撃を加えます.デモ隊に投げつけられた手投げ弾は45人の死傷者を出しました.べ

海兵隊はFRAPH弾圧を決意,各地のFRAPH事務所の一斉捜索に入ります.このとき,とんでもない文書が見つかってしまいました.CIAのコリンズ大佐がFRAPH養成にかかわっていた証拠となる文書です.こうなると,むしろ追い詰められたのは米国でした.もはやセドゥラ政権を倒し,アリスティドを政権に復帰させる以外の選択肢はなくなりました.

シェルトン駐留軍司令官は「もしセドラが退陣しなければ,われわれがそうさせる」と声明.さしものセドラもついに退陣し亡命します.

打続くクーデターや暴力によりハイチは混乱の極みに達しています.経済封鎖で蒙った被害も甚大です.民主化が実現しても,85年のような沸き立つような雰囲気はありません.みな疲れきっています.カリブにアフリカがまるごと引っ越してきたかの如くです.こんなに疲弊してしまったのに国内には左右の対立が依然残っています.トントンマクートの残党もまだしっかりと残っています.

アメリカ最初の独立国,マッカンダルとブックマンとトゥーサンとデサリーヌがフランスからの独立を闘い抜いた国.ペラルトが指導する農民ゲリラ「カコ」団が米国の海兵隊を相手に2年間闘い抜いた国,進歩的文化人で共産党員のジャック・ルマンが国民的詩人と賞賛された国.

ハイチは飢えと病気に苛まされるだけの国ではありません.誇りある伝統を持った文明国です.対等な立場での連帯が必要です.

 

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