北海道AALAとラテンアメリカ人民連帯

ドイツ連帯組織機関誌[ILA]への寄稿論文

1990年      

 

1 親愛なるドイツの友人のみなさんに

 北海道AALA連帯委員会を代表して心からの連帯の挨拶をおくります.また,私たちの日常活動を紹介する機会をあたえていただいたILA編集部の方にもお礼を申上げます.

 まず,私たちの委員会について紹介させてください.北海道AALA連帯委員会は日本AALA連帯委員会の一支部でもあります.日本AALA連帯委員会は,アジア・アフリカ人民連帯機構(AAPSO)と三大陸人民連帯機構(OSPAAAL)の正式メンバーです.私たちの会の目的は次のごとくです.

@日本人民と団結し,アメリカからの完全独立をかちとり,平和と民主主義を実現する
A民族自決,民主主義と社会進歩を求めたたかうアジア,アフリカ,ラテンアメリカの人民と連帯する.
B帝国主義や新旧の植民地主義に反対する.
C民族解放と世界の平和のために寄与する.

 

2 日本のラテンアメリカ連帯運動

 日本の民主運動にとってラテンアメリカは当初比較的縁遠いものでした.59年のキューバ革命がラテンアメリカを一気に身近なものとしました.60年にはJCPの特派員がハバナを訪問し,革命建設に熱気を見せる現地の状況を報告しています.その後62年にはゲバラが訪日し政府首脳と会見していますが,日本の民主勢力とのコンタクトは残念ながらありませんでした.

 当時の日本の民主運動は、ベネズエラの民族解放闘争,グアテマラの解放運動にも連帯を表明し,運動のスローガンのひとつとして掲げました.しかしそれぞれの組織との接触あるいは支援運動というところには至っておりません.

 62年のキューバ・ミサイル危機は日本の民主運動にも深刻な危機感をもたらしました.各地でアメリカの核脅迫政策に抗議するデモがあいつぎました.日本の民主運動はその後の米ソ平和共存政策を批判しました.アメリカは反帝勢力の根絶を最終目標に置きながらも,当面ソ連,中国など大国との直接対決を避け,キューバ,そしてとりわけベトナムなどの比較的弱い社会主義国を個別に撃破していく政策を柱にすえました.日本AALAは,トンキン湾事件以後深まっていったアメリカのベトナム干渉を打破するために,世界の反帝勢力がさまざまな見解の相違をわきにおいて国際統一戦線を組むことを強く訴えました.

 66年ハバナで開かれた第1回三大陸人民連帯会議には北海道AALAからも代表が派遣されました.日本代表はベトナム人民支援闘争の意義と,この点での一致を基礎とした国際統一戦線の死活的重要性を訴えましたが,ソ連派や中国派はこの提案を黙殺しました.

 70年代に入るとチリで人民連合政府が成立しました.人民連合支援のため,日本AALAの姉妹組織としてチリ人民連帯委員会が結成され広範な市民・大衆が参加しました.クーデター後、日本の政府や独占資本は真っ先にピノチェト支持を打ちだしました.かれらはこういいました「アジェンデの時代は混乱と暴力の時代.ピノチェトは少々やり方はあらっぽいが経済の安定と自由主義の方向をめざしている」

 79年には前外相を政府特使として派遣し、ピノチェト訪日を要請しました.日本の連帯勢力は「人殺しピノチェトを日本に入れるな!」と行動を起こし訪日を阻止しました.映画「サンチアゴに雨が降る」の上映運動も各地で取り組まれました.日本の連帯勢力はキラパジュンやインティ・イジマニの公演をあいついで成功させました.さまざまな集会でかならずといっていいほどビクトルハラの「ベンセレーモス」のうたごえが聞かれるようになりました.このようにチリ人民連帯を通じて日本とラテンアメリカ人民との関係はかつてなく身近なものとなりました.

 日本の連帯運動がラテンアメリカと大きくかかわるようになったのは,なんといってもニカラグア支援運動以来です.革命以来個人的なルートでの結びつきはありましたが,82年の水害支援により本格的な連帯が始まりました.83年からは日本AALAが連帯の窓口となり,革命4周年記念集会に正式代表団を派遣しました.84年,ドリス・ティヘリーノ司令官を迎えての各地での交流集会は大きな成功をおさめました.

 84年の革命5周年には私も参加しました.帰国後その感動を「自由か死か:ニカラグア」という本にまとめました.この本は北海道を中心に千数百部が売れています.

 85年には連帯運動はさらにもりあがりました.日本AALAの代表がマナグアに常駐するようになりました.北海道からも6周年集会に3人の代表を送りました.そのうちのひとりは百万部の読者をもつ道内最大の商業紙の現職記者でした.

 コーヒー「マラゴジペ」の販売運動,映画「アルシノとコンドル」の上映運動を取り組むなかで,日本AALAはこの年10万ドルの支援運動に成功しました.87年にはさらに20万ドルの支援,88年にはキャンペーン「ニカラグアに自転車を送ろう」を呼びかけ,千台の自転車を送ることができました.婦人団体は独自に救急車を送りました.これらはいずれも日本の労働者や市民の自発的なカンパによるものでした.このようにニカラグア人民支援は,日本の連帯運動の歴史のなかでベトナム以来のもりあがりを見せたのです.

 

 89年天安門事件に始まる社会主義国の激変は今だにつづいています.「新しい思考」という,帝国主義への屈服を合理化するかのような議論もおこなわれています.パナマ,イラクなどを見ても,いまや帝国主義が大手をふってまかりとおっているようにさえみえます.しかし人民のたたかいの進歩はおしとどめられるものではありません.

 わたしたちは最後の公然とした人種差別である,アパルトヘイトに反対する南アフリカ人民のたたかいを支持し,民族自決とイスラエルとの共存をうたったPLOの提案を支持し,自主的な経済再建をめざすサンディニスタのたたかいを支持します.そしてますます緊急性をおびつつある,核兵器の即時全面禁止を一致点とした,世界の反帝平和勢力の統一を心から願っています.

ともにがんばりましょう.