Aug 4,2005

Noticias Aliadas/Latinamerica Press 2005

老いてますます盛ん、ジャネット・ローゼンバーグ・ジャガン元大統領(85歳)

At 85, former president Janet Rosenberg Jagan is still going strong

 

以前から気になっていたのですが、ガイアナの歴史を一度は書かなければならないと思っていました。10年も前にロンドンでジャガンの本も買ってきたのですが、結局いまだに仕事が始まっていません。

イベロアメリカ系の人々は、英語圏やフランス語圏の国々にはトンと無関心で、それにつられてか、日本でもあまり研究が行われていないのが実情です。そのためかつてのグレナダ政変、何回か起きたハイチ政変などについてもマトモなコメントが出来る人が少ないようです。

といいつつ、私もヒマはないので、とりあえずジャガンの奥さんの紹介記事を転載し、合わせて若干のコメントを付け加えることで、当座の埋め合わせと致します。

 

 

ジャネット・ローゼンバーグ・ジャガン、85才のユダヤ人のおばあさんです。シカゴ生まれのシカゴ育ち、ちゃきちゃきのシカゴっ子です。このおばあちゃん、信じられないことに、シカゴを遠く離れた、南アメリカ大陸の北の端の、ガイアナという人口74万人の小さな国の最強の権力者なのです。

 

 

 

いまでも、ガイアナの有権者は、彼女のもとを訪れて、繰り返しこう尋ねるのです。「ジャガンさん、今度の大統領選挙では、あなたは誰を支持するのですか?」

ジャネットは言います。「私の真心は私の党にささげられているの」と。「だからその党が、私の推すべき候補が誰なのか決めるのよ」

ジャネット・ジャガンは、1997年に大統領に選ばれました。彼女の夫チュディ・ジャガン前大統領が亡くなった直後のことです。彼女も任期中に心筋梗塞を起こしました。そして任期を二年近く残して職を辞しました。最近はその心筋梗塞に加えて糖尿病も悪化しているのですが、それでも相変わらず、毎日元気に活動しています。

彼女の仕事場は首都ジョージタウンの中心部です。そこは木造の建物で「自由の家」(Freedom House)と呼ばれています。建物の一階は党の本部で、二階が彼女のオフィスになっています。

 

 ガイアナ国民、その複雑な構成

ガイアナは人口100万人にも満たない小さな国ですが、人口構成はなかなか複雑です。ジャネット・ジャガンはユダヤ人です。そしてこの国では数少ない白人の一人です。

意外かもしれませんが、人種的に見て一番多いのは、チュディと同じインド人、ないしインド人を祖先に持つ人々です。これが人口の48%を占めています。次に多いのが人口の36%を占めるアフリカ系ガイアナ人です。彼らの祖先は、イギリスが奪取する以前にこの地の支配者だったオランダがアフリカから連れてきた奴隷たちです。

奴隷貿易が廃止された後、サトウキビ農園で働く労働者がいなくなって困ったイギリス人は、当時植民地だったインドから多くの人々を連れてきました。それが居ついて今のインド系ガイアナ人になったのです。

ガイアナの奥地には今も昔ながらの生活を営むアメリカ先住民が住んでいます。その数は人口の約7%と推定されています。そのほかに少数のポルトガル人、中国人、そしてそれらの混血が住んでいます。

 

ジャネットの生い立ち

ジャネットが生まれたとき、今のようなガイアナを代表する人物になる確率といったら十億分の一もなかったでしょう。1920年にジャネットはシカゴのサウスサイド地区で生まれました。彼女の父チャールズ・ローゼンバーグは、配管と暖房器具を扱うセールスマンでした。

物心つくころ、家族を「大恐慌」が襲います。一家の被害は甚大でした。さらに人々の心がすさむ中で、彼女の周りにも反ユダヤ主義(anti-Semitism)がはびこるようになりました。

img1.gif

 

 

 

ジャネットは言います。「ビジネスはひどいものだった。私の父は、まともな生計を立てることができなかったの」

彼女はその頃を思い出しながら語ります。「でも父は、私の願いをとても大事にしてくれたの。父は週に一度私を公立図書館へ連れて行ってくれた。そして、“たくさん読むんだよ”といってくれたわ」

その後家族はデトロイトへ引っ越しました。そこでジャネットはデトロイト大学、ウェイン州立大学とミシガン州立大学に行くことができました。

 

数奇な出会い

1942年、ジャネットはシカゴのクック郡病院の看護学生になっていました。髪は素敵な(stunning)ブルネットでした。

ある夜パーティーがありました。そこで彼女は一人のハンサムな男性と出会いました。彼はノースウェスタン大学の歯科学生で、その名前が一風変わったものでした。チュディ・ジャガンと言って、南米の「英領ギアナ」という国からきた留学生でした。名前が変わっているのもそのはず、彼はガイアナの砂糖プランテーションに労働者として送り込まれたインド人移民の子孫だったのです。

二人はたちまち恋に落ちました。そして両方の親がそろって反対するのを押し切って結婚しました。

1943年に、チュディは英領ギアナに戻りました。そして歯科医院を開業しました。ジャネットはシカゴにとどまりました。米国医師会雑誌の校正係となり、お金を稼ぐためです。

img2.gif

 

二人っきりで結婚式を挙げたあと、近くの店でとった25セントのプリクラ写真

 

1943年12月も押し詰まった頃、いよいよジャネットはガイアナに渡り、チュディと一緒の生活を始めることとなりました。しかしそれは決して二人きりの甘い生活ではありません。(それにしても日本では戦争真っ盛りで、「欲しがりません、勝つまでは」と強制され、パーティーや色恋沙汰などもってのほかという時代です。国力の差を痛感します。これでは勝てませんね)

 

社会運動と政治活動への参加

すでにチュディはガイアナの社会問題に深く関わっていました。ジャネットは言います。「プランテーションの労働者たちは、何か解決しきれないような問題を抱え込むと、いつもチュディのところにやってきたの」

やがてジャネットも、労働組合運動に熱中している自分自身を見つけるようになります。夫婦はともに、砂糖労働者とボーキサイト労働者の長く苦しいストライキを支援し続けました。

1947年、労働者は彼女の夫の下に、議会選挙に出馬せよといって押しかけました。彼は立候補し、勝利しました。ガイアナ(Guyana)がまだ「英領ギアナ」(British Guiana)といわれ、英国の植民地であった時のことです。

1950年、ジャネットとチュディは、人々とともにひとつの政党を創立しました。その党は人民進歩党(People's Progressive Party:PPP)と名づけられました。その党は英国からの独立を目指す革新的な政党でした。

ジャネットは人民進歩党の新聞を編集することになりました。同じ年、首都ジョージタウンの市議会選挙があり、ジャネットは初挑戦で初当選することになります。彼女は市議会始まって以来最初の女性議員でした。

 

厳しい弾圧の時代

1953年にふたたび選挙がありました。人民進歩党はイギリスからの自治と独立を正面に掲げて闘い、大勝利を得ました。今度はジャネットも議会選挙に挑戦し、当選しました。

img3.gif

 

砂糖労働者を相手に演説するジャネット

 

この選挙で人民進歩党を率いたチュディ・ジャガンは、首相に就任し、イギリスとの交渉にあたることになりました。しかしイギリスはこの運動を敵視していました。

ジャネットは語ります。「イギリス人は4ヵ月半のあいだ待った後、私たちを放り出した。英国海兵隊が乗り込んできて、憲法は停止されてしまったわ」

1954年の初め、チュディは、ガイアナを植民地のままにしておこうとするイギリス支配者の決意を、肌身に感じることになります。イギリス当局は、チュディが禁則を破り町から出ようとしたという容疑で、彼を逮捕しました。そして6ヶ月ものあいだ獄につないだのです。

半年たって、彼が刑を終えて出獄したその日、今度はジャネットがつかまりました。ジャネットは「ヒンドゥー教徒の宗教的な儀式」に参加しただけなのに、イギリス人はそれを政治的集会だと呼んだのです。

彼女は結局6ヶ月近くを獄中に送ることになりました。しかしそれは彼女の信念を揺るがすどころか、ますます強固なものとしていったのです。チュディは生涯を通して、ゆるぎないマルクス主義者でした。そしてジャネットもです。

「チュディと私は、変わることなく社会主義を信じてきた。私たちにとって社会主義とは、貧しい人がその貧困から抜け出すことができるように、そのための障害を取り除くことなの。そして祖国の富を国民みんなと一緒に分け合うことなのよ」

 

ジャガンが大統領に

ガイアナが独立してからも、ジャガンを政権につかせないための内外の圧力は続きます。長い苦節の期間を経て、チュディ・ジャガンが大統領に就任するのは独立から四半世紀後のことです。

1992年、自由で公平な大統領選挙が行われ、ついにチュディ・ジャガンは勝利しました。そして、ジャネットはガイアナの国連大使に指名されました。

その5年後、チュディは心臓発作で亡くなってしまいます。南米の歴史において最初のインド人国家元首に代わって、ジャネットが大統領に就きました。今度は南米の歴史において最初のユダヤ人の国家元首が誕生しました。

ジャネットは、ここ数十年間、ガイアナで 「たくさんの改良があった」と言います。特にチュディ・ジャガンのプログラムのうちの1つを誇らしげに語ります。それは政府が60,000戸の低所得者用住宅を建て、300ドルから400ドルで供給しました。

彼女は続けて、近年「教育がものすごく良くなった」ことを強調します。乳児死亡率は劇的に下がりました。そして、国の供給する水は、以前よりずっと安全になっています。

 

ジャネットの心配事

ガイアナで教養を身につけた人々の多くが、「よりよい仕事」を求めてカナダ、アメリカ、カリブの英語圏の国に出て行きます。

ガイアナから国外に出て行く人々のことに話が及ぶと、彼女の顔が一瞬曇ります。「たくさんの人が国を捨てて出て行くわ。そのたびに国は傷つく。でも、私たちは耐えなければならない」

なぜ出て行くのか?

誇り高く、ジャネットは言い切ります。「だって、ガイアナ人の99%がリタレイト(教育を受けている人々)だからよ」