パラグアイの政変劇

 

事態の経過

3月28日,クバス大統領は突如辞意を表明.会見が終わるや否や一目散にブラジル大使館に逃げ込みました.同じ頃,クバスのボスで今回の事態を招いた張本人リノ・オビエドは,アルゼンチンに向かう自家用機の中にいました.

オビエドは一旦はアルゼンチン当局に逮捕されたものの,翌日には政治亡命を認められます.いっぽうクバスは新政権により亡命を認められ,ブラジル政府差し回しの軍用機で飛び去ります.それはわずか一日の間に起きたあっけない政変劇でした.


政変にいたる経過


1.事件の発端はクバス発言から

ラウル・クバス大統領,昨年8月に当選したばかりのほやほやの新大統領です.しかしこの人物,最初から怪しげな雰囲気を漂わせていました.もともとはオビエドが大統領になるべきだったのです.

オビエドは軍の最高実力者で,与党コロラド党においても圧倒的な力を持っていました.時の大統領ワスモシはなんとかオビエドが権力を握るのを阻止しようとし,それが気に入らないオビエドはクーデターを企てました.96年4月のことです.

このクーデターは事前に発覚し失敗.オビエドは一転とらわれの身となります.しかしオビエドは負けていません.ワスモシ与党であるコロラド党の大統領候補指名を獲得してしまいます.ワスモシは,再びオビエドを逮捕し対抗します.そこでオビエドのふところ刀,クバスが登場することになります.

与党コロラド党,軍部右派,経済界の支援を受けたクバスは,党内外の反対派をおさえ大統領選に勝利します.
98年8月,大統領に就任したクバスは,いきなりオビエド復権をぶちかまします.権力の基盤であるべき軍隊も真っ二つに割れます.議会では野党がいち早く弾劾を要求.与党からもかなりの批判票が飛び出します.情勢を見た副大統領アルガニャはクバスと距離を置くようになります.

 

2.裁判所の頑張り

クバスとオビエドにとっては,そんなことはとっくに計算済みでした.肝腎なのは軍がどう動くかということだけです.何せこの国は建国以来二百年,戦争か然らずんば独裁,という政治的伝統を持っているからです.

案の定,特別軍事法廷はオビエドの有罪判決を取り消す決定を発表しました.中央選挙管理委員会もオビエドに公民権の復活を認めます.普通,三権分立といいますが,ラテンアメリカでは選挙管理委員会を加えた四権です.それだけ選挙違反が多いということでしょう.早速クバスはオビエドを国際サッカー大会の組織委員に指名します.公職復帰の足がかりとしてはこんなものでしょうか.

ここまで来ればもう大丈夫と彼らは思ったことでしょう.ところが意外な伏兵が待ち構えていました.裁判所です.

いろいろな国の歴史を見てきましたが,裁判所がこれだけ頑張ったのは初めてです.裁判所が正義の味方だったことは一度もありません.少なくとも国家が革命的危機を迎えたとき,裁判所は常に強いものの味方でした.レーニンが「国家と革命」を書くよりもっと前からそれは歴史的真理と考えられてきました.荒木栄の「地底の歌」にも歌われています.「会社やポリ公や裁判所や暴力団と,男も女も子供も年寄りも,“ガンバロウ”の歌を武器にスクラムを武器に,戦いつづけたことを忘れるな!」

98年9月3日,最高裁はオビエドの有罪判決を撤回した特別軍事法廷に対し,公然と異議を唱えます.クバス大統領は早速最高裁長官と会見し懐柔(恫喝?)を図りました.最高裁は毅然としてこれを拒否します.ここに至り事態は大統領対議会+裁判所という構図をとるようになりました.

 

3.議会=裁判所と軍部の対決

議会の態度も断固たるものでした.ゴンサレス国会議長は特別軍事法廷の裁判長を起訴する一方,オビエドが年内にもクーデターを企てる計画であると声明.国民の決起を促します.

12月,様子をうかがっていたオビエドはいよいよ公然活動を開始しました.まさにこのとき最高裁は重大決定をおこないます.オビエド免責を命じた大統領令に対し無効宣言をしたのです.最高裁は大統領に対してオビエド収監を命じました.

クバスはこの命令を無視します.オビエド支持派による最高裁襲撃が始まりました.不気味な二重権力状態です.議会は一丸となり,国外での説得活動を必死に展開しました.

2月8日,その結果が出ました.メルコスル議会が全会一致でパラグアイ議会への支持を決議したのです.これを機に情勢は一気に展開していきます.上下両院合同委員会は大統領弾劾の方針を固めました.クバスは「弾劾されれば家庭に戻る」と弱気のポーズを見せます.

彼らには奥の手がありました.選管を握っているからには,オビエドの公民権が認められている以上は.最悪でも選挙に持ち込めるという計算です.

誤解を恐れずに敢えて言えば,民度の低い国では,大統領選挙は議会選挙よりはるかに民意を反映しないものになる可能性があります.あのクバスですら圧勝したのですから….

その抜け道を,またしても最高裁が塞ぎました.2月17日,あらためて最高裁はオビエドの公民権を剥奪する判決を下したのです.

 

4. アルガニャ暗殺が裏目に

いまや四面楚歌の状態となったクバス=オビエド陣営は最後の賭けに出ました.いまや反対派の急先鋒となったアルガニャ副大統領を暗殺したのです.

3月23日早朝,車で出勤途上のアルガニャを数名の武装グループが襲撃しました.いかにもプロの手口らしく見事な仕事でした.アルガニャは4発の銃弾をしっかりと受け即死しました.護衛の警官も死亡しました.

かねてからの計画どおりでしょうか,クバスは国境線を閉鎖,非常事態を宣言します.これで野党指導者を誰か一人犯人に仕立て上げれば準備は万端,あとはお茶の子さいさいという具合です.オビエドは「刑に服するため」軍基地に出頭します.これほど安全な場所はありません.

結局は,局面打開を狙ったこのウルトラCが政権の死期を早めました.各国に派遣された駐在大使が,先を争うようにして辞意を表明します.表向きはクバスの暴行に抗議してということですが,海外の事情に通じた彼らが,沈みつつある船から逃げ出したということでしょう.

学生が抗議のデモを展開します.これに向けてオビエド派のスナイパーが発砲し,6人が死亡,100人以上が負傷するという惨事になりました.これでもはやアウトです.

裁判所はクバスに対し逮捕命令,そしてクバスの辞任表明とつながっていきます.どういうわけか,軍刑務所に収監されているはずのオビエドもしっかり妻子を連れて,自家用機でアルゼンチンに向かうということで,冒頭のシーンに戻ります.

 

これは革命かもしれない

これまで見てきた一連の経過,派手な市街戦こそありませんが,「革命」といってもいいのではないでしょうか.半年間にわたる息の詰まるような緊張感.一歩間違えばそのまま殺されてしまう恐怖感.そのなかで,本来なら真っ向から意見を戦わすべき国会議員が,与野党の別なく一丸となって民主主義を守るために身体を張る….

私のようなミーハーにはただ憧れてしまうほかありません.むかし見た映画で,名前は忘れたけど,たしかグレアム・グリーンの「名誉領事」を映画化したので,ラプラタ河の岸を歩いていると上流から屍体がゆらゆらと流れてきて,それがパラグアイで虐殺された人たちだったようなおぼえがあります.

パラグアイ200年の歴史の中で,一度だけ革命が起きたことがあります.正確には革命といっていいかどうか分かりません.ただの親ファシスト若手将校によるクーデターだったのかもしれません.1936年2月,それは起きました.新政権を担った人々は自らを二月党(フェブレリスタ)と呼びました.

フェブレリスタの政権はまもなく崩壊しますが,その後も根強い勢力を保持しました.ストロエスネルが独裁者として登場すると,彼らは武器を持って立ち上がりました.1958年から59年にかけて彼らはゲリラ戦を展開し,その多くは虐殺されパラグアイの草原を血で染めました.

議会と裁判所の身体を張った戦いのウラには,ストロエスネル独裁の40年,その再現を絶対許さないという血で贖った「執念」があるのかもしれません.

99年5月2日