Ollanta Humala
From Wikipedia
とりあえずほかにあまりよい紹介記事がないので、この文章を載せますが、かなりオジャンタ・ウマラに対して懐疑的な立場です。しかも彼に直接の責任がない父親や兄弟たちの言動を元に彼を判断しようとするところがあり、意図的な感じがします。今後、もっとよい文章があればそちらに差し替えていくつもりです。
オリャンタ・ウマラ(Ollanta Humala Tasso)
1963年6月26日生まれ
ペルー陸軍退役中佐
ペルー民族主義党: ペルーのための統一
オリャンタ・ウマラ(Ollanta Humala)はイサーク・ウマラの息子。イサークは弁護士で、「ペルー共産党赤い祖国派」のメンバー。同時にエスノカセリスタ(etnocacerista)運動の思想的指導者でもある。
ウマラはアヤクーチョの生まれ。リマのフランコ・ペルアーノ学校で学び、1982年にチョリージョ士官学校に中尉として入学、以来軍務を続けている。
1991年、大尉として軍事情報学校で基礎コースを習得中、ウマラはグルポ・カセリスタに参加した。当時秘密組織だったこのグループは、学校長の監視の下に置かれ、現役および退役将校の活動家からなっていた。
彼らはペルー軍部内の腐敗した状況を拒否し、民族主義の思想を支持していた。彼らの多くがいまやウマラの支持基盤の中核となっている。
ウマラの軍における経歴には、過去20年間におけるペルーの二つの主要な紛争もふくまれている。ひとつは「センデロ・ルミノソ」との闘いであり、もうひとつはエクアドルとのあいだの「セネパ(Cenepa)戦争」である。
1992年、ウマラはウアヌコ州ティンゴ・マリアでセンデロ残党の掃討作戦に参加した。1995年、彼はエクアドル国境地帯でのセネパ戦争に従軍した。
彼に対するいくつかの非難がある。それは彼がセンデロとの闘いのあいだに、「カルロス大尉」の偽名のもとに拷問に関わったというものである。彼は1992年から1993年にかけて、マドレ・ミア地方のジャングルに設けられた軍基地の司令官だった。
彼と彼の「ペルー民族主義党」は、そのような偽名を使ったことはないと否定しているが、彼の弟のアンタウロ・ウマラは、2006年、作戦の期間中ウマラがそのような偽名を用いたことがあると証言している。
2000年10月、彼はタクナ州トケパラでアルベルト・フジモリ大統領に対する反乱を起こした。反乱の主要な理由はブラディミロ・モンテシノスの復帰だった。モンテシノスは前情報部長で、野党MPの買収を試みたところがビデオに記録され、その後ペルーからパナマに逃れ亡命を申請していた。この反乱事件は、モンテシノスが依然としてフジモリ政権内に多くの権力を残している証拠と見られ、恐れられた。
最初、ウマラは60人の兵を率い基地の司令官を捕らえた。しかし反乱は失敗に終わり、多くの兵士は彼から離れた。最後に残った同志はわずか7人だった。
反乱に際して、ウマラはペルーの愛国者が立ち上がり反乱に加わるよう呼びかけた。元兵士300人がこの呼びかけにこたえた。伝えられるところでは、彼らは自動車部隊を編成しウマラの下に結集しようと動いた。
この反乱はまた、ペルーの民衆のあいだにもいくらかの共感を呼んだ。たとえば中道左派の新聞「ラ・レプブリカ」は、彼を「ペルーの多くの指導者とはまったく異なる、清潔で決断力のある人物」と評した。この新聞はまた、オリャンタと彼の部隊に対する市民の賞賛の投書を数多く掲載した。
ウマラの反乱を押さえ込むため、軍は数百の部隊を派遣し、反乱軍を逮捕しようとした。しかしウマラと彼の部下は追っ手から逃れ、身を隠すことができた。そのあいだにフジモリ大統領は政権を追われ、バレンティン・パニアグア・コラサオが暫定大統領となった。
のちにウマラは議会から恩赦を受け、軍務に復帰することを許された。ウマラは駐在武官としてパリに送られ、のちに韓国に転任し、そこで2004年12月まで勤務を続けた。
当時の報道から
10月29日、当時トケパラの陸軍基地で、およそ50人が反乱を起こしました。トケパラはペルー南部のモケグア州にある銅鉱山を中心とする町で、第六機甲師団に所属する第501防空砲大隊が置かれていました。反乱の指導者はオジャンタ・モイセス・ウマラ・タッソ中佐といい、この部隊の司令官でした。
反乱部隊は、第六機甲師団の司令部があるアリカの基地を占領し、司令官オスカル・バルダレス准将をふくむ高級将校4人を人質に取りました。そしてフジモリ大統領に対し辞任をもとめ、疑惑の中心人物モンテシノスの逮捕を要求しました.
この反乱には、少なからぬ大衆的支持もありました。鉱山労組の一部活動家は反乱への支持を表明しました.弟のウマラ・アントゥアロ退役少佐も、リマで参加者を募りアリカに向かう動きを示しました.
翌30日、フジモリ大統領は,緊急閣議を招集し軍の対応を促しました.モンテシノス派から交代したばかりの新陸軍司令官は、「社会的・政治的安定を維持し,反乱を鎮圧する」との声明を発表し政府への忠誠を誓いました.
反乱軍には戦闘の意思はなかったようです。鎮圧部隊の派遣を知ったオリャンタ・ウマラはアリカを離れ、ボリビア国境地帯のプノ方面に移動を開始しました.一部はアレキーパ方面へ移動していきました.
11月2日、反乱部隊は事実上解散し、参加者ほぼ全員が原隊に復帰しました.ウマラの下には5人のみが残留し地下に逃亡します.陸軍は捜索を中断し,500人の部隊をリマに引き揚げました.ウマラの軍籍は剥奪され、バルダレスは師団長を更迭されました.その後の捜索は地元警察にゆだねられることになります。
ほとんど馴れ合いですが、これでフジモリに対する義理は果たしたということでしょう。まもなくフジモリは日本に逃亡することになります。政権を掌握した議会は、12月にはウマラに恩赦を与えました。ウマラは「合法活動に移り、総選挙に向け政治運動を組織する」と発表します.
ウマラは韓国で退役を強制された。これは彼の弟アンタウロ・ウマラが起こしたもうひとつの反乱と関係していると見られる。2005年1月、アンタウロはエトノカセリスタの反乱を引き起こした。この反乱では警官4名が殺害された。
当時の報道から
2005年の1月1日、オジャンタの弟アンタウロ・ウマラ元少佐が率いる部隊が武装蜂起しました。場所はペルー東南部のアプリマック州アンダウワイヤスというところです。元軍人ら150人により組織された反乱部隊は、地元の警察署を攻撃し占拠します。このとき10人の警官が人質となりました。
部隊はエトノカセリスモの思想を掲げ、トレド大統領の辞任を要求しました。首謀者のアンタウロ・ウマラは、「インカ帝国を原点にペルーを再建する」と述べたといわれます。
この3日前、オジャンタ・ウマラは駐韓国武官を強制退役させられています。オジャンタはペルー国民にアンタウロらの蜂起を支持するよう呼びかけました。そして「いつでもペルーに戻る用意がある。MAPを代表して次期大統領選へ出馬する」との声明を発します。
トレド大統領はこの反乱に対処するため緊急の閣議を開催し、軍と警察を派遣するとともに、アプリマック州に非常事態宣言を敷きました。
3日後の1月4日、アンタウロ・ウマラは7人の人質を釈放しました。そして武器を捨てアンダウワイヤス警察署を離れたところで逮捕されました。この間の戦闘で警官4名をふくむ6人の死者と14人の負傷者が出ました。トレド大統領は「100人以上を逮捕し、公共の秩序を取り戻した」と発表しました。
Political career and presidential candidacy
政治的経歴と大統領選への立候補
2005年10月、オリャンタ・ウマラはペルー民族主義党(Partido Nacionalista Peruano)を結成し指導者となった。そして選挙連合「ペルーのための団結」(UPP) を背景に2006年の大統領選挙への出馬を表明した。ハビエル・ペレス・デ・クエリャル大使(元国連事務総長でUPPの創設者)は、2005年12月5日、記者に次のように語った。「私は党の大統領候補としてウマラが選ばれることを支持しない。私は1995年にUPPの大統領候補となったが、その後はUPPとの接触はない。したがってUPPが2006年の大統領選挙候補にウマラを選出するとしても、そのことにかかわりはない」
2005年11月および12月、ペルーのユダヤ人社会指導者やユダヤ教聖職者は、ウマラと彼のグループを公然たる反ユダヤ主義者と非難した。のちにペルー・ユダヤ人協会会長のイサアク・メクレルはウマラと会見し、記者に次のように語った。「ウマラの思想が反ユダヤ主義とは信じられない。私はウマラのペルー民族主義者党と組んで議会選挙に出馬するつもりだ」
初期の世論調査では、ウマラは右翼のロウルデス・フローレスにわずかの差の二位につけた。しかし3月15日から19日にかけての世論調査では、ウマラは31.6%を獲得し首位に立った。フローレスは29.1%、ガルシアは21.6%だった。ウマラはリマ以外の地方で強い支持を得た。とくにペルー第二の都市アレレキパでは圧倒的な支持を受けた。
4月の大統領選挙では、どの候補も単独過半数を獲得するとは考えられず、フローレスが勝ち残ってウマラとの決選投票に臨むことになるだろう。
3月17日、ウマラの選挙キャンペーンはいくつかの議論を呼ぶこととなった。
彼の父イサアク・ウマラはこう語った。「もし私が大統領なら、私はアビマエル・グスマンをふくめ投獄されているセンデロ・ルミノソの活動家に恩赦を与えるだろう」 また彼は別な場所で、ビクトル・ポライとトゥパク・アマル革命運動(MRTA)の活動家についても同様の見解を述べた。しかしオリャンタ・ウマラは、選挙キャンペーンにおいて、彼の家族のこうした急進的見解とは距離を置いている。
ウマラの弟ウリセス・ウマラは、オリャンタに対抗して大統領選挙に出馬している。しかしいまや泡沫候補と考えられている。
2006年4月9日、ペルー国政選挙の第一ラウンドが施行された。4月15日時点では開票率88%で、ウマラが31%を獲得。ついでアラン・ガルシアが24%。ルールデス・フロレスは23%で三位にとどまっている。第二ラウンドは5月中旬に行われる予定である。
Links with other Latin American leaders
メディアからの質問に答え、ウマラはベネズエラ大統領ウーゴ・チャベスとのいかなる関係も否定した。しかし彼の支持があれば歓迎するとも述べた。2006年1月3日、ボリビアの大統領予定者エボ・モラレスは最初のベネズエラヘの公式訪問を行った。ウマラは、カラカスのミラフローレス大統領宮殿でおこなわれた公式行事に招待され参加した。
モラレスとチャベスはともに、2006年ペルー大統領選挙におけるウマラへの支持を表明した。これに対し、ペルー政府は選挙への干渉の疑いがあると抗議し、駐ベネズエラ大使カルロス・ウルティアを召還した。
2006年3月、ウマラはブエノスアイレスを訪れ、アルゼンチン大統領ネストル・キルチネルと会見した。会見の席上、ウマラはこう語った。「地域統合は米国との相互協定に優先する。ラテンアメリカの統合という主張において、私とキルチネルは“兄弟”である」
ウマラはまたブラジル大統領イグナシオ・ルーラ・ダ・シルバとも地域統合に関して意見を交わす予定である。
Ideology
アンドレス・アベリノ・カセレスは、多くのペルー民族主義運動家の精神的源流となっている。
オリャンタ・ウマラはしばしば彼の家族アンタウロ、ウリセス、そしてイサアク・ウマラの「エトノカセリスタ運動」と行動をともにしてきた。これは、退役・現役をふくむ兵士からなるエスニックな民族主義グループである。兵士の多くはセンデロ・ルミノソとの内戦、そしていくらかはMRTAとの闘い、エクアドルとの短期間の「セネパ戦争」を闘ったベテランである。しかしオリャンタは選挙キャンペーン中、彼の家族とは距離を置き、「エトノカセリスタ運動」とは別の「民族主義」思想を主張している。
エトノカセリスタはインカ帝国の遺産への強い誇りを精神的支柱とし、国の産業(まずは民営化された産業)の国有化を主張する。また死刑制度の復活、コカ栽培の合法化なども主張している。彼らはチリ、とくにペルーの経済を牛耳る(と彼らが称する)チリの投資家への強い反感を表明する。
エトノカセリスタは二つの思想の結合である。ひとつはペルー人のエスニックなアイデンティティーの主張である。とくにインカ以来のアメリカ先住民の出自の強調である。
もしその通りだとすれば、それはインカ帝国を簒奪した後に形成されたペルー副王領の宗主国としてのプライドと重なってきます。当時はペルー副王領の属領に過ぎなかったチリの風下に置かれている屈辱感が、「インカの誇り」を強調するバネになっている可能性があります。それはペルーの社会思想史を貫徹している一種の屈折した中華思想であり、率直に言ってあまり感心したものではありません。
第二は「カセリスタ」としての主張である。これは19世紀のペルー大統領で、太平洋戦争の英雄アンドレス・アベリノ・カセレス(Andrés Avelino Cáceres)に対する敬意に由来している。
太平洋戦争の期間、カセレスはチリの占領軍に対するペルー人の武装抵抗を率いた。太平洋戦争以来、とくにチリが資源に恵まれたタラパカ地方を併合したことから、チリはペルーの宿敵とみなされている。
「太平洋戦争」とカセレス
カセレスの歴史的評価は毀誉褒貶、相半ばしています。そもそも太平洋戦争とは1880年を前後する数年間、硝石産出地帯の領有をめぐり、チリとペルー=ボリビア連合とのあいだで戦われた戦争です。この戦争で近代化に遅れをとったペルーはぼろ負けします。
しかしカセレスを中心とする軍の一部は山間部にこもり、その後も抵抗を続けます。先住民もチリ軍に反撃しつつ、土地回復の戦いを進めようとしました.封建的生産関係を維持しようとする大地主たちは,チリ軍と手を結び農民を弾圧するにいたります.
83年末にはチリとペルーのあいだに講和条約が結ばれます。カセレスもいったん戦闘を停止するのですが、農民の抵抗はその後もやまず、内戦状態に移行していきます。これをみたカセレスは再び立ち上がり、地主らの支配する政権を打ち破ります。
ここまでは文句なく民族的英雄なのですが、そのあと返す刀でシエラの先住民反乱を鎮圧にまわります.こうして国内を平定したカセレスは、大規模な近代化=富国強兵策を打ち出します。
そのために必要な資金をイギリスからの借金にもとめました。この結果国内主要産業の多くがイギリス資本の手にわたり、国家財政は深刻な借金漬けとなったのです。
旧支配層の抵抗を抑えるため独裁的傾向が強まりました。政権内の腐敗が強まったことから、民心も離反していきました。こうして1895年には保守派の反乱により政権が崩壊していきます。その後には外国資本に従属する新興ブルジョアと高地の封建的大地主のあいだの「貴族的共和制」が成立し、国内は「安定期」へと向かいます。
オリャンタ・ウマラは汎アメリカ共和国を主張したボリーバルの思想を賞賛している。そしてほかのラテンアメリカ諸国を、しばしば「兄弟国家」と呼んでいる。とくにボリビアに対しては、短期間「連合国」を形成したこと、太平洋戦争の際に一緒になってチリと戦ったことを喚起している。
ウマラはまた、フアン・ベラスコの政府への共感を表明している。ベラスコは1968年10月3日、無血クーデターによって国家権力を獲得した。そしてこの国の多くの産業を国有化し、キューバやソ連との友好政策を実施した。
フアン・ベラスコ・アルバラード陸軍総司令官
ベラスコは68年10月、クーデターにより政権に就きました.この政権はペルーの社会構造の変革,下層大衆の生活向上,民族主義的立場を堅持しました.ベラスコはペルー北部の貧しい生まれで、学校には裸足で通ったといいます.
ベラスコを先頭とする軍人たちが行った改革は、農地の分配や鉱山の没収などかなり徹底したもので、初期の段階はほとんど革命といってもよいものです。しかし最終的には、左翼勢力への不信、経済的行き詰まりと急進的変革を恐れる軍内右派の策動により崩壊します。詳しくは年表をご参照ください。
以上より見て、オジャンタ・ウマラの軍人としての行動スタイルはチャベスのそれと非常に類似しているが、その思想的背景はかなり異なったものがあるといえます。今後の政策的展開については期待はできるものの、不安定要素もかなり抱えていると見るべきでしょう。
ただし、ウィキペディア氏のように父親や「エトノカセリスモ」の影響を過大評価するのも、そもそも本人が否定しているわけですから、おかしな話ではあります。少なくとも最近のウマラの言動からは、「エトノカセリスモ」のような偏狭な排外主義は感じられません。
かつてチャベスが当選したとき、彼はフジモリの路線を引き継ぐものと見られていました。オジャンタがチャベスの路線を引き継ぐとすれば、それも一種のめぐり合わせでしょう。果てしてそうなるのか否か、おそらくはキューバ=カストロとの関係がどう形成されていくのかが、ひとつの試金石となっていくのではないでしょうか。