ペルー:フジモリとゲリラの国

97年8月

 

【はじめに】

 たった4カ月前のことなのに,もうずいぶん経ったような気がする.日本大使館人質事件が衝撃的な形で幕を閉じて,それから神戸の小学生殺人事件や野村・第一勧銀の事件があって,もはや忘れっぽい日本人は遠いペルーの話など気にも止めていないだろう.しかし中南米ウォッチャーにとって今回の事件が投げかけたものはとても大きい.

 ペルーの問題は三つある.第一は経済困難である.第二は民主主義と暴力の問題である.第三の問題は麻薬である.と,ここまでは中南米諸国ならどこでも同じだ.経済困難が貧困と暴力を生み,民主主義が破壊される.一方では麻薬がはびこる.という筋書きなら誰でも頷くだろう.

 しかしそれではフジモリ現象は説明つかないのである.そこにはセンデロ・ルミノソの評価が決定的に欠落している.

 

センデロ抜きに語れない現代史

a) クメール・ルージュとセンデロ

 センデロの特徴は三つある.一つは反対派の存在そのものを認めない徹底的な独善である.その政治手法はかつてのカンボジアにおけるクメール・ルージュ(ポルポト派)と類似する.

 もともとペルーは雑多な左翼潮流が入り乱れる国柄である.共産党の他にも,アメリカ人民革命同盟(APRA)という日本でいえば旧社会党系の組織が強固な地盤を持っている.トロツキストも中南米で一,二を争う伝統を持っている.60年代の前半これらの勢力が離合集散をくり返し,その内実はますます複雑となった.共産党から親中国派が分裂,さらにキューバ型革命を目指すゲリラ組織も登場した.APRA左派が革命的左翼運動というゲリラ組織を結成.65年には各地で武装闘争が展開された.

 これらはいずれも鎮圧され,60年代後半には左翼組織は冬の時代を迎える.

 この頃,親中国派の一人の活動家が,文化大革命の思想を引っ提げ中国から帰ってきた.アビマエル・グスマンである.アヤクーチョの大学に戻ったグスマンは,精力的に学生のの組織を開始した.彼が最初に所属したのは親中国派の紅旗派共産党であったが,やがてそこを飛び出し「ペルー共産党=マルクス・レーニン・毛沢東主義」というグループを結成し自ら指導者に治まる.1970年のことである.

 センデロ・ルミノソの名は彼らの機関紙「マリアテギの輝ける道(センデロ・ルミノソ)をめざして」からとられている.なお,マリアテギはペルー共産党創設者である.原住民の解放を視野においた革命路線を提唱したことから,いまなお中南米を代表する革命思想家として高名な人物である.従ってセンデロの思想とは本来,縁もゆかりもない.

 グスマンの思想は,文化大革命における毛沢東や四人組の思想と同一であり,従ってポルポトと同一である.

 それは救国統一戦線,大衆路線など,さまざまな言葉で語られる偉大な中国革命の思想とは無縁である.それは排他的・絶対的権力を獲得することを最終目標とし,そのためには手段を選ばない権力亡者たちの思想である.

 「反対者は殺せ!」これが彼らの合い言葉である.いかなるレトリックを使おうと,彼らはまったく民主主義の対極に位置している.かつて日本のマオイスト永田洋子は,同志を次々に「総括」することで連合赤軍を「純化」した.ポルポトは同じことを数百万という規模で実行した.グスマンの行ったこともまさしく同一の思想「マオイズム」に裏付けられているのである.

 センデロが闘争を開始して以来すでに20年近い歳月が流れた.この間犠牲者は3万人を越えている.センデロに従わないものは子供でも殺された.人々が彼を「ペルーのポルポト」と呼ぶとき,それはグスマンにもっともふさわしい称号である.

 

b) 麻原とグスマン

 センデロの第二の特徴は,指導者グスマンがみずからカルト的存在となっていることだ.彼らは自ら共産党を名乗り,中央委員会や政治局なる機構を形成しているが,その内実はオーム真理教と同じく教祖の独裁である.その教祖の趣味で日本政府をまねたり,共産党をまねたりしただけのことである.

 もともと哲学者としてカントを専攻していたグスマンだが,帰国後はみずからをマルクス・レーニン・毛沢東とならぶ「四つの剣」の一つに祭り上げた.彼の持論は商品経済の否定であり,その底にある個人的欲望の否定だった.そして自給自足の古代共同体制度への復帰をめざしたのである.そして独特の反文明論を基礎に,インカの救世主伝説も利用しつつカルト的集団を形成していったのである.

c) センデロとナルコ(麻薬)

 センデロの第三の特徴は,麻薬取り引きと深い関係を持つ「汚染されたゲリラ」だということである.むろん彼らは麻薬との関わりを公式には否定している(興味のある方はhttp://www.csrp.org/を参照されたし).

 しかし彼らの反論にはまったく迫力がない.彼らの最大の拠点であるウアンカヨ渓谷上流地帯こそ,世界最大のコカイン生産地帯であることは明白である.関係者のさまざまな証言からも,センデロがコカイン生産者のパトロンとして麻薬カルテルと結託し,大きな収入を上げていることは間違いない.

 彼らの潤沢な闘争資金はコカイン抜きには説明不能である.そして残念ながら,同じことはMRTAにもいえるのである.そして隣国のコロンビア・ゲリラ,たとえばFARCにもいえるのである.南米のゲリラに,いまやかつての栄光はない.麻薬に手を染めたことで,彼らはメデジン・カルテルのギャングどもと同じく地獄に堕ちたのである.

 

センデロの「闘い」

a) 武装闘争の開始

 70年にセンデロを結成したとはいうものの,最初の数年間はほとんど活動はなかった.彼らが活発化するのは,民族派のベラスコ軍政が終焉を告げ,右翼的軍部の独裁に移行した75年以降である.

 このころ反政府ゲリラの先頭に立っていたのはセンデロではなく,MRTAの先輩格にあたるMIRであった.彼らが政界中央に近く華々しい活動を展開するあいだ,センデロはアンデス山中で農民連盟や共産党の農民活動家を相手に地道に組織活動を積み重ねていく.こうして80年までに戦闘部隊本隊の他,アヤクーチョ人民戦線などのフロント組織を整備していくのである.

 80年5月,満を持したセンデロは,折からの総選挙を機に武装闘争を開始する.最初の根拠地,アヤクーチョを中心に農民闘争を展開する一方,リマ市内でも米大使館,バンク・オブ・アメリカなどをあいついで爆弾攻撃し,華々しいデビューを飾る.

 これに対するベラウンデ大統領の対応は過酷かつ拙劣なものであった.政府に反対するものはセンデロであろうと労組活動家であろうと人権活動家であろうと,片っ端から逮捕・誘拐していったのである.州知事ですら例外ではなかった.ベラウンデにとって民主主義を尊重すべきはリマや海岸地帯の人々であり,シエラの原住民は平等な人間としては認められなかったのであろう.

 ベラウンデ在任中の5年間で,6千のペルー人が軍とセンデロ双方の暴行により死亡した.もはや和解が成立する道は絶たれた.結果としてこの初動のまずさが,多くの人々にセンデロへの同情を強め,活動家をセンデロに追いやることになったのである.

 

d) 人口の大移動と政治構造

 82年,政府はアヤクーチョ一帯に戒厳令を公布,軍隊を投入し制圧に乗り出した.アヤクーチョはやがて政府軍に制圧された.残党はさらに山深くウアンカヨ渓谷に逃れ新たな拠点を構築することとなった.本格的な対決が始まるのはこれからである.

 山奥に逃れたセンデロは,そこに宝の山を見つけた.コカの畑である.センデロはコカ葉生産者を政府から保護した.同時に麻薬密輸業者の横暴からも保護した.この中で権威を確立したセンデロは,コロンビアの密輸業者から3千万ドルの「税金」を獲得したという.現代史上もっとも裕福なゲリラである.

 約1年をかけて組織の再編成を行ったセンデロは,83年2月,山間部の村や町で一斉攻撃を掛ける.いまやセンデロの戦力は,それまでとは比較にならないほど充実していた.抑圧的で腐敗した軍は,住民を味方に引き入れたセンデロの前にずるずると後退を重ねた.ついに86年にはリマ,カジャオにまで非常事態宣言が発せられた.

 しかし軍隊に代わって進出してきたセンデロは,住民にとって悪夢そのものだった.村を支配する地主がまず処刑された.つぎに警官や官僚が処刑された.彼らの殺戮はそれで終わらなかった.労組や農民活動家の中でも「統一左翼」系とみなされたものは,スパイの烙印を押され粛清された.教師や教会関係者などの知識人も例外ではなかった.残されたものは密かに村を逃れ,軍の支配する大都市や海岸部などの安全地帯に避難するしかなかったのである.

 若者がいなくなり,避難できない老人や子供たちばかりになった農村は荒廃した.農地は無人の野となった.国内難民はリマに押し寄せ,人口は一気に1千万に達した.この国の人口構造はわずか数年で激変した.ペルーの経済危機を語るとき,この事実を無視してはならない.ペルーはこの20年間,たんなる経済危機ではなく,国家の存亡が問われるような内戦を経験してきたのである.

d) 過去の遺物:MRTA

 MRTAはセンデロに比べればとるに足らない小ゲリラ組織である.これは83年末頃キューバ=ニカラグア型ゲリラをめざす雑多な急進主義者の寄せ集めとして結成された.トゥパク・アマルというのは,18世紀末にスペインの暴政に抗し一大反乱を起こしたインディオの英雄である.あのとき日本大使館屋上に翻っていたMRTAの旗,あの旗に描かれていた人物がトゥパク・アマルである.

 中核となったのは社会革命党のマルクス・レーニン派という一分派である.この党は75年,ベラスコ政権がクーデターにより打倒されたときベラスコ左派の若手将校を中心として結成された.この中の武闘派がコロンビアのゲリラ,M19と連絡をとりながらゲリラ戦を始めたのである.

 MRTAは当初からペルー国内で活動したわけではない.はじめは「アメリカ旅団」の名の下,M19の一部隊としてコロンビア国内で編成されたのである.そこに多くの小集団,たとえばプロレタリア共産主義同盟革命前衛派(通称赤旗派),MIRの五つの分派などが結集した.(これ以上はあまりにゲリラ・オタクの世界なので止めておく)

 このことは軍事的というよりも政治的に大きな意義を持っている.すなわち旧ベラスコ左派からAPRA左派までをふくむ,急進主義者の広範な統一が実現したということである.もしこの勢力が合法活動に復帰していたら,おそらく政権を握るほどの力を持っていたはずである.

 率直に言って中南米諸国は,この手の暴力集団に関しては異常に寛容である.白人支配層の身内のなかでなら,いつでも馴れ合えるのだろうか.センデロのように異文化を突き出す気味の悪い連中とは異なるからである.

 しかしこのような60年代,70年代型のゲリラの存立する基盤はもはや失われている.それについては次項で述べる.

 MRTAの掲げる政策目標は,APRAやバルガス・リョサ(ペルーのノーベル賞作家.元親キューバ派だったが,その後ネオ・リベラリズムに転換.フジモリと大統領選を争い敗北)のそれと大同小異である.もはやペルーの現実に追いつけない時代遅れの運動なのである.

 

南米でもっとも悲惨な国

a) 難民の街:リマ

 首都リマは,センデロの脅威を逃れてシエラ(高地)からやってきた大量の国内難民で,700万に膨れ上がった.それはなんとペルー総人口の1/3に達する.いまや人口の大多数はメスティソないしインディオとなった.彼らのスラムは劣悪な住環境におかれる.貧困層の収入は年間200ドルに過ぎなかった.

 500年続いてきた原住民とスペイン系との住み分けが突然終了させられた.シエラを収奪しながら,シエラと隔絶して白人文化を築いてきたペルー支配層にとって,「リマのメスティソ化」は想像を絶する事態であった.いまや否応なしに彼らを隣人として受容するほかない.人種の違いを乗り越えて,「ペルー人とはなにか?」ということが深刻に問われることとなった.

 試練はそれだけでなかった.リマの難民に混じってセンデロ分子が多数潜入してきたのである.センデロは一切の人道的配慮と無縁だった.

 市内の至る所に爆弾が仕掛けられた.センデロは国会議員20人に「死の脅迫状」を送りつけた.そして,それがただのハッタリでないことを証明するため,その一人を暗殺した.明けて90年2月,一挙に国会議員5人が暗殺された.日産自動車のリマ支店が襲撃されたのもこの頃である.

 

b) 白人支配の国

 ペルーは中南米の中でも一,二を争う白人優位の国である.それもただ白人というだけでなくスペイン封建時代の序列がそのままに生きている国である.それは・インディオも多いが,絶対数としてはスペイン系人口も多い.・アルゼンチンなどの「白い国」と異なり,イタリア,ドイツなどの植民が少ない.・山間部のインディオとは住み分けが定着しており,白人社会を国民社会と擬制しうる条件が存在した,などが要因となっている.

 なかでも人種による住み分け,あからさまにいえば無意識のアパルトヘイトが,この国の特殊性を500年の長きにわたり存続せしめたといえる.

 中南米の中で,ペルーとグアテマラだけが,未だに国民国家なり民族国家というものが形成されていない.例えばサッカーのテレビ中継があったとして,白人は「祖国」を熱狂的に応援していても,インディオはその傍らを黙々と通り過ぎるという雰囲気である.

 インディオはコロンブス=ピサロ以来500年というもの,真の意味での「祖国」を持たずに暮らしてきた.いまやセンデロに押し出され,リマに出てきた彼らは,大都会という冷酷な「異国」の中でおそらく初めて「祖国」ということを考えたろう.

 これまで事実上白人,メスティソのみを対象としてきた国家概念が,いま再検討を迫られている.民主主義の概念さえも,それを誰が担うのかという問題抜きに語れない.民族の再編成・再統合という過程を経なければ,ペルーの明日は見えてこないのではないだろうか.

 

c) センデロへの屈折した思い

 このような状況の下,リマ市民は当初センデロに対し同情する傾向すらあった.リマでの破壊活動が本格化する前の世論調査では,リマ市民の1/3は,貧困の結果としての暴力は容認せざるを得ないと回答.貧困区域では38%がセンデロは頑張っていると評価していた.

 

フジモリの評価
a) フジモリの登場

 フジモリの大統領選における劇的勝利については,すでに多くの論評があるのでここでは省略する.ただガルシア前政権の失敗に勝因を帰している評価が多いが,それだけではバルガス・リョサがなぜ敗れたのかを説明することは出来ない.歴史の振り子は決して保守の側には戻らなかった.ペルーはこれまでの5百年とはまったく異なった時代に突入したのである.

 フジモリが登場して以降,センデロのテロはますます激化し無差別化した.フジモリ政権の最初の1年で3千4百人がテロにより死亡した.91年4月には,米国,日本,イスラエルの大使館に同時に爆弾攻撃が掛けられた.その直後には大統領官邸にも爆弾が仕掛けられるなど,もうやり放題である.国際協力事業団(JICA)の日本人農業技術専門家3人が,センデロの襲撃を受け死亡したのもこの頃のことである.

 センデロはテロと並行してリマでの組織作りを本格化した.彼らのやり口は農村でのそれと同じだった.隣組委員会,母親クラブ,共同スープ,教会の対話グループなど草の根組織に対し自らの傘下となるよう強制し,従わないものは殺害した.少なくとも市民運動指導者10人が連続して暗殺された.リマ市民のセンデロに対する感情は一変した.

 ここにいたってフジモリは大決断をした.農民に武器を渡し武装自衛隊を組織させたのである.526の自警団が結成された.実働2千といわれる隊員に1万1千丁のライフルやショットガンが手渡された.この戦略は大成功した.自警団は軍隊以上の威力を発揮.農民たちは自らの住む町や村からセンデロを追放した.これは対ゲリラ戦におけるフジモリ政府の最大の成功であった.

 これはほとんど革命に近い事件である.農民たちは,フジモリを通じて政治(その一形態としての戦闘)に参加するようになった.そしておそらくは史上初めて政治への発言権を獲得した.そのことによって彼らは自信を深めるとともに,フジモリへの信頼を強固なものとしたのである.

b) アウトゴルペ

 人民に武器を手渡すという前代未聞の手段にうってでたフジモリは,センデロとの対決こそこの国の運命を決定する歴史的選択だと認識していた.この正確な判断は,フジモリと軍の一部のみが持っていた.だからその後のフジモリはペルーの政治状況をつねに先取りしてきたのである.

 しかしリマの伝統的勢力は未だそういう認識に達していなかった.右翼も左翼もふくめて,社会構造の根本的変化に対する認識ははるかに遅れていたのである.

 考えてみれば分かるように,就業人口の7〜8割が失業状態にあるのはたんなる経済要因では説明できない.「失業者」はたんなる失業者ではなく難民ととらえなければならない.命辛々逃げ出してきた難民であるからこそ,このような悲惨な状況にも耐えられるのである.

 彼ら「難民」はふたたび農村に戻らなければならないし,生産を再開してもらわなければならない.そのためには地方の安全をなんとしても確保しなければならない.ペルーの「経済危機」はボリビアやアルゼンチンにおけるそれよりも,むしろニカラグアなどとの対比において考慮されなければならないのである.

 フジモリが92年3月5日決行したクーデターは,民主主義のあからさまな否定であり決して容認できるものではない.しかし絶望的な議会内力関係を背景に「社会的・政治的衰退に歯止めをかける」という課題を遂行するため他に手段がなかったとすれば,われわれはフジモリをたんに独裁者として弾劾することは出来ない.

 民意ははっきりしていた.「いまや『反テロリズム・救国』のスローガンの下,国民的統一が図られるべきだ」ということである.各種世論調査では国民の2/3がフジモリを支持し,クーデター以後それはさらに上昇した.同時に国民の8割は傲慢かつ無能な議会や裁判所への激しい不信感を明からさまにしていた.同情的に見れば,ペルー副王国以来の誇り高き伝統にしがみつく政治家たちは,国の存亡が問われている切迫した状況を信じたくなかったのかも知れない.

 

c) センデロとの対決

 国民の圧倒的支持の下に強権を発動したフジモリは,センデロ摘発に全力を挙げる.新たに都市部の自警団も結成され,武器が手渡された.センデロがコカ葉生産のため戦略目標としていたアマゾンの原住民に対しても,1400丁のショットガンが渡された.

 そしてついに92年9月12日,国家警察テロ対策本部(DINCOTE)部隊が,リマ市内のセンデロ・アジトを襲い,教祖グスマンを逮捕したのである.この時押収された秘密文書により,リマ市内の組織の全貌が明らかとなった.その後の数ケ月でリマのセンデロ組織はほぼ壊滅した.11月,フジモリはセンデロ指導部の99%が投獄されたと発表した.

 勢いに乗るフジモリは,センデロ根拠地をたたくべくウアジャガ渓谷へ大部隊を派遣した.この攻撃でウアジャガ中部を根城とするMRTAはほぼ壊滅した.しかしその上流に位置するセンデロ根拠地は難攻不落であった.

 生き残りをかけたセンデロは,豊富なナルコ・マネーを武器に必死のテロ活動を各地で展開.1カ月の死者が三桁に達する事態が続くことになる.

 

(d) 独裁傾向を強めるフジモリ

 93年後半になると,さしもの激しい闘いも終焉に向かった.両者のあいだに一種の暗黙の妥協が成立した.いまではリマの街に爆弾テロが連続することはない.高地でもセンデロの襲撃や虐殺におののきながら毎日を送るという事態はなくなった.

 しかしセンデロはその根拠地に押さえ込まれてはいるものの,依然健在である.彼らはコカ葉を生産し続け,麻薬業者との取り引きを続けている.

 政府にはこれ以上の力はない.とりあえずセンデロを山奥に押し込めたことで満足するほかない.むしろ獲得した「秩序」をどう定着させるかが重大な問題となっている.非常事態を開始することよりも,それを終わらせることの方がはるかに難しいのである.

 最大の難関は,これまで最大の支持基盤としてきた軍部を,ふたたび兵営に戻し,文民支配を回復することにある.これは理屈からいえば,A級戦犯フジモリによっては遂行し得ない課題である.さらに武装自衛隊の武装解除も容易な問題ではない.センデロほどではないにしても,スラムの民衆も現状に対してなみなみならぬ不満を抱いていることは間違いない.「キチガイに刃物」とならないとは言い切れないのである.

 しかし何よりも危険なのはフジモリ自身かも知れない.彼がセンデロとの対決を乗り切った,あるいはインフレの沈静化に成功したということをもって,これからも民衆の支持を得ながら経済と民主主義の再建に成功すると予言することは出来ない.あえて酷な言い方をすればこれまでの政治運営を成功させてきたのは,社会構造の変化を見通せた目と大胆な決断力だった.それだけに過ぎなかった.

 今後長期にわたると予想される再建過程にあっては,少なくとも別な資質が要求されるし,あえていえば「大胆な決断」はむしろ更なる混乱を招く可能性もある.フジモリ・フィーバーにもさすがに陰りが見えてきた.彼が世論の大勢にさえも挑戦するほど「大胆」にならないことを祈るものである.