2005年12月
カロリス・ペレスは語る
Editor's note: カロリス・ペレス(Carolys Perez)は、ベネズエラ共産党の地元幹部の一人であり、共産主義青年同盟の指導・教育に当たっている。彼女はまた青年ボランティア組織「フェルディナント・デ・ミランダ機構」の議長を務めている。
2005年8月、カラカスの近くのロス・テケスで第16回世界青年学生友好祭が開かれたとき、彼女はその政治スポークスマンを務めた。ペレスは友好祭準備委員会のベネズエラ側における責任者の一人であった。このインタビューはその際のものである。
質問: まずあなた自身について語ってください。
ペレス: 私は青年共産同盟の活動家です。私の仕事は政党クラブを組織すること、そしてほかの青年たちに働きかけることです。そのための訓練を重ねています。私は大学での青年活動と政治教育を組織する責務を担っています。
共産主義者としての私の仕事は、18歳を迎えたすべての青年を党に迎え入れることです。そして、我々がなぜチャベスを支持する必要があるか、説明し分かってもらうことです。
質問: ベネズエラ共産党(PCV)の歴史についてちょっと背景を」説明してください。
ペレス: PCVは、今年創立74年を迎えます。それは1931年にペドロ・オルテガ・ディアスらによって設立されました。最初の10年の間、共産党は非合法組織でした。そして当時の独裁政権に対し、ゲリラ活動と街頭での抵抗活動を行いました。それから山間部を根拠地として、強力なゲリラ運動を形成しました。
1970年代に、ベネズエラでの共産主義は迫害され、地下に潜行しました。多くの活動家が殺されました。国外に出た党員は、チリのアジェンデ政権の下で働いたり、南米全体の労働運動に取り組んでいました。
1980年代に入ると、共産党はさまざまなコミュニティに大衆的な政党クラブを立ち上げるようになりました。クラブを通じて多くの人が共産党に加入し、当時の圧制的な資本主義政府に反対して働くようになりました。
1989年に、「カラカソ」と呼ばれるカラカス市民の反乱が起こりました。そのときの大統領カルロス・アンドレス・ペレスは、IMFによって命じられて厳しい経済措置をとったのです。それはガソリン価格の暴騰を引き起こし、社会の片隅に追いやられた貧しい人々に襲い掛かりました。
そこで人々は街頭に出て抗議を始めたのです。人々は会社を襲い、ものを盗みました。スーパーマーケットの扉を壊して食物を奪いました。就任したばかりの大統領は、軍隊と警察を出動させました。とてもたくさんの人々が殺されました。それでも多くの人々が街頭に踏みとどまり、5日間にわたって抗議活動を続けました。
この抗議行動は、ふたたび弾圧の嵐が襲ったことで終わりました。大統領は憲法の保証を停止して、警察の無制限な弾圧を許しました。多くのPCV指導者が虐殺されました。多くの学生たちも弾圧されました。彼らは身を隠さなければなりませんでした。そのあと、家族も同じように身を隠さなければならなくなりました。子供でさえそうだったのです。1989年、私はまだ14歳でした。
このデモは軍隊の内部に不満の種をまきました。なぜなら軍隊が国民に向かって向けるという行動をとらせれたからです。その一部は弾圧に反対して国内の左翼勢力との接触をとりました。そこには共産党も含まれていました。
質問: どこからチャベスは視野に入ってきたのか?
ペレス: ウーゴ・チャベスは、軍隊の中のこの運動の指導者でした。1992年2月4日に、チャベスはペレス大統領に対するクーデターを起こしました。このクーデターは失敗しました。そして彼は拘束されました。しかし私たち共産党は、これとは別に自ら街頭での活動を続けました。
ボリーバル革命運動(MBR)はその年の11月27日に作られました。そのとき、ペレスに対する第二クーデターが起こりました。これはチャベスの4人の軍隊仲間によって率いられたものでした。ひとつのグループの将校らは捕らえられましたが、他の人たちは逃亡しました。
このことは実際には状況を良くしました。なぜならすべての革命派が、今やひとつの刑務所に集められたからです。街頭で活動していた共産主義者、その闘いを支持してきた軍の将校たちがともに刑務所で暮らすことになりました。
ペレス大統領は横領の罪で議会から弾劾されました。そして司法の場に引き出され、大統領の座を追われました。そして実刑を受け刑務所に放り込まれました。憲法の手続きにのっとり暫定大統領が就任しました。
新しい大統領選挙が求められました。共産党やその他のマルクス主義政党は、アンドレス・ベラスケスを統一候補に押し立てました。右翼勢力はこぞってラファエル・カルデラを支持しました。カルデラは元大統領で、極右の人物です。
みんなが投票に出かけました。歴史は、ベラスケスが勝利したといっています。しかし彼は右翼と交渉して、ラファエル・カルデラに勝利を与えてしまいました。カルデラは自分こそ共和国の本物の大統領だと宣言しました。
カルデラはクーデターで捕らえられた全ての軍将校に恩赦を与えました。チャベスが刑務所から出たとき、我々は門の前で待っていました。我々には、ほんの少しのお金と一台のオンボロ自動車しかありませんでした。
チャベスは直ちに次の大統領選挙に向けて運動を始めました。その小さな車で、チャベスは全国を回りました。私たちはチャベスのために友人の家を手配し、彼はそこに泊まりながら全ての村と町を訪れました。
我々はカルデラの政府を批判していました。しかし、勝利への道は武装した闘いや暴力を通じてではないと考えました。チャベスは大統領候補になりました。
1998年に大統領の任期は終わりました。そしてもう一度、我々は投票に行きました。1998年12月6日、みんながもう一度投票に出ました。投票率は80パーセントにのぼりました。チャベスは共産党や他の左翼政党の支持を受け、400万票を勝ち取りました。このように多くの票を獲得した大統領は、歴史上初めてです。
チャベスが大統領を宣言したとき、全部の人々がカラカスの街頭に出てきました。貧しい上にも貧しいスラムの人々が、全ての山から降りてきました。そして、全ての人々はチャベスが彼らに話すのを待って、いつまでも街頭に留まりました。
質問: チャベス政権が最初に手がけた改革の中身はどんなものですか?
ペレス: チャベスがした最初の行動は、憲法を改正することでした。彼は「憲法制定会議」として知られるひとつのプロセスを提起しました。人々は投票所に戻り、それぞれのコミュニティーの代表者を選びました。チャベスとともに憲法を改正するためにです。
この議会は数ヶ月のあいだ開かれて、「ベネズエラ・ボリーバル共和国憲法」として知られている文書を作り上げました。憲法を承認するために、もう一度投票が求められました。
そのあと議会は解散されました。そして人々は新憲法に基づく新しい議会の新しい議員を選びました。当選者の80パーセントはチャベス支持者で、そこには共産党も含まれていました。新しい議会が設立された後、今度は各地方での市長選挙がありました。300人の市長のうち280人がチャベスの運動の支持者でした。
憲法が制定されて、初めて先住民のための権利が認められ、2つの国会議席が先住民の代表に与えられました。それはまた、議員候補の50パーセントは女性でなければならないと定めました。このように社会の変革が開始され、第五共和制の基礎がすえられました。
共産党は成長しました。なぜならそれが政府によって認められ、もはや隠れる必要がなくなったからです。その時から今まで、共産党から政府の大臣、幹部などを送り出しています。
質問: 反対派はどのように反応しましたか?
ペレス: 憲法は初めて「リコール権」を確立しました。その時の大統領が任期の半ばを超えたとき、国民は「リコール投票」を求めることができるという条項です。反対派は早くから、リコール投票を求めると発言してきました。そしてメディアはそれに唱和しました。
反チャベス派の人々はこの国で経済力を握っている人々です。そして彼らは民間のメディアを支配しています。反対派は偽りのニュースを流し始めました。これに対しチャベスは国営チャンネルで話し始めました。そして真実を語りました。
人々はメディアを信じませんでした。そこで大企業の経済団体も、チャベスと政府を攻撃し始めました。大企業は、チャベスに対する企業ストライキを呼びかけました。ベネズエラ石油公社(PDVSA)の重役陣も共に攻撃を組織し始めました。
2001年12月、全国すべてのビッグビジネスが閉鎖されました。国中の誰もが仕事を失いました。原油の井戸は止められ、石油産業、国が必要とする資源を提供する産業が操業を止めました。国中の民間の産業がこれに従いました。
石油産業が停止されたので、ガソリンがなくなりました。天然ガスもストップしました。自宅で料理することもできなくなり、車を走らせることもできなくなりました。民間部門が動かなくなったため食料もなくなりました。人々は食物、ガソリンや天然ガスのボンベを買うために、最高3日も行列しなければなりませんでした。最も貧しい地域では、人々はベッドと家具を壊し始めました。炊事用の熱源としてその木を使うためです。
メディアはチャベスのすべてを非難しました。解決策はチャベスが辞めることしかないと。われわれ人民は、この三ヶ月苦しみ続けました。しかし彼ら大企業は失敗しました。
石油供給は妨害され、人々は仕事につけませんでした。しかし人々は、産業がどのように運営されているかを知っていました。我々のなかのプロフェッショナルは仕事場に出動しました。そして産業をふたたび活動させるために給料なしで働き始めました。ブラジルなどの他の国は、人々が飢えることがないようにと食料を送ってくれました。こうして企業ストは失敗に終わったのです。
そこで反対派は、今度はクーデターを組織し始めました。2002年4月11日、彼らはチャベスに反対する街頭デモンストレーションを呼びかけました。
デモンストレーションはチョアオというところで行われました。そこは政府宮殿からも大統領官邸からも遠く離れたところです。チャベスの支持者たちは大統領官邸の前でデモンストレーションを行うよう呼びかけました。チャベスが宮殿のドアから我々を見ることができるようにという思いからです。
2つの行進はぶつかることにはなっていませんでした。ひとつにはひとつの道、そしてもう一方にはもうひとつの道が用意されていたのです。我々にはぶつかるつもりはありませんでした。しかし反対派は彼らの行進を迂回させました。両者の対立を引き起こすためです。そして暴力があり、多くの人がなくなりました。
ふたつの行進が交差して衝突したとき、チャベスは警察や軍隊を出動させませんでした。しかし現場には一群の反チャベス派兵士と警察が存在していました。彼らは我々に向かって行動に出ました。
チャベスはこのクーデターで排除されました。一握りの支配層は自らを政府として立ち上げました。クーデターの間、民間のメディアはニュースを流すのを止めました。そして子供の漫画や昔の映画を放送し始めました。それから軍の将軍たちが「チャベスが辞任した」という「ニュース」を読み上げるのを放映しました。
それまで外に出ることのなかった人々が一斉に街頭に出てきました。そして、我々共産党を含むすべての人々が政府宮殿の外で巨大な群集となり、叫び始めました。「我々は、チャベスに言って欲しい。彼が彼自身の言葉で辞任すると告げて欲しい」
一日が過ぎました。しかしチャベスは現れませんでした。人々は宮殿の入口の前で泊り込み体制に入りました。その時、チャベスの娘が外国のテレビの前に現れました。その放送はベネズエラでも受信できました。チャベスの娘は、チャベスが誘拐されて死ぬかもしれないと警告しました。
一方、政府宮殿のなかでは、クーデターを指導した全ての反チャベス勢力が、ペドロ・カルモナを新たな「大統領」に指名しました。そこには教会指導者、銀行家、メディア所有者がすべて集まっていました。そこにはチャベスに嫌悪感を抱く将軍たちもいました。それらすべては、宮殿の外にいる人々にとって欲しくないものばかりでした。
質問: クーデターをひっくり返すための大衆動員で共産党はどんな役割を演じましたか?
ペレス: 共産党は活動家全員で宮殿前広場に張り付きました。そしてコミュニティーの人々に結集するよう呼びかけを続けました。それから共産党は、チャベスを支持する他の政党と一緒になって、彼を捜し始めました。我々は反チャベス派の軍部に捜索されていた政府の大臣や幹部をかくまいました。すべての政党が、その指導者をかくまい、保護しました。
我々は二つのグループに組織されました。ひとつは指導者を保護する組織です。そしてもうひとつのグループは街頭に出て、人々にチャベスを支持するよう訴えました。
チャベスを支持する軍事将校のグループが、彼をオルチラ島で発見しました。そしてヘリコプターで大統領宮殿に彼を連れてきました。午前3時ころ彼は宮殿に着きました。我々は宮殿にたむろしていた「政権」関係者たちをたたき出しました。人々はチャベスを引き込み、反対派を引き出したのです。
その後はまるで「お祭り」でした。チャベスは興奮して支持者を前に大声で語りました。彼はまず、ここ数日のイベントについて謝罪しました。そして「私はあなた方を決して見捨てない」と叫びました。チャベスは反対派に告げました。「事態の解決策は憲法の中にある。憲法には国民投票に関する規定がある。もし、人々が私を欲しているかいないかを試して見ようと思うなら選挙をすればいい」と。
憲法の条項には、有権者の51パーセントが国民投票を求めることと定められています。
質問: 反対派の次の動きはどんなものだったのですか?
ペレス: 彼らはリコール国民投票のために必要な条件を満たしました。そこで国民投票が行われることになりました。そして、我々は国民投票にむけて動きを開始しました。
共産党はチャベスを支持する他の政党と共に、国民投票に向けた組織に結集して闘いました。チャベスはこの運動を、「サンタ・イネスの戦い」と名づけました。サンタ・イネスの戦いはわが国の独立闘争の中で最も重要な戦いのうちの1つであったことから、象徴的にそう名づけたのです。
あらゆるコミュニティとバリオの人々は、共産党などの政党を通じて自らを組織しました。それらを我々は「選挙戦部隊」(UBE)と呼んでいました。我々は政党の一員としてとして行動することはなく、UBEメンバーとしてともに行動しました。UBEに属するすべての人は、チャベスに投票する人をもう10人づつ探さなければなりませんでした。
国民投票の質問は「チャベスに辞任して欲しいですか?」というものでした。チャベスを支持する我々は、「ノー」と投票しなければなりません。チャベスに反対する人々は「シー」と書かなければなりません。
昨年(2005年)の8月15日、選挙が行われました。1000万人の人々は投票に出かけました。午前3時にはもう行列ができていました。私たちUBEのメンバーは、各自の手持ちリストに基づいて10人の人の家に行かなければなりません。共産党を含むすべての政党は、この訪問行動のために全ての資源を提出しました。
選挙は丸一日続きました。選挙は多くの詳細な取り決めと多くの国際監視員を迎え、慎重に規律正しく行われました。米国政府は 「スマテ」と呼ばれる組織に資金を与え、この組織を通じて妨害活動を進めました。一日中不規則に停電騒ぎが起きました。彼らは「選挙がでっち上げられている」などといいました。
民間企業では、ボスが労働者の身分証明書にステッカーを付けました。労働者たちは投票する前に「スマテ」のコンピュータの前に行かなければなりませんでした。そのコンピュータは投票所のすぐ近くに置かれていました。だからボスは、労働者がチャベスに反対票を入れたことを確かめることができるのです。
共産党はこの「スマテ・コンピュータ」をぶち壊すことに決めました。その結果、労働者は自由に投票することができました。
質問: ほかに共産党はどのような形でこの国民投票に参加したのですか?
ペレス: この地域(ミランダ)の共産主義青年同盟は、多くのコンピュータを持ち寄ってキャンペーン事務所を建てました。そこでは我々の知るすべての人の名前とアドレスが持ち込まれ、UBEの名簿に登録されました。(ミランダは首都カラカスの隣の州だが、事実上首都の一部を形成している 訳者)
我々は、リストに載っている全員をチェックしました。誰が投票したか、誰が未だ不明か調べました。我々はそれから街頭にいる同盟員に電話して、未だ不明の人と連絡をとるよう指示しました。
二つの共産主義青年同盟のグループがありました。ひとつはスマテのコンピューターをぶっ壊してまわりました。もうひとつはUBEの選挙活動を助けていました。それが、その日一日の行動の行程でした。もっと年上の共産党活動家は街に飛び出していました。
翌朝の午前6時には、未だ多くの人々が投票するために待っていました。この地域の青年同盟員はキャンペーン事務所にとどまっていました。そして各々の投票所に張り付いた出口調査員から情報を受け取り、我々が勝ったか負けたかを計算していました。我々は全国の青年同盟キャンペーン事務所と連絡を確保していました。
こうして選挙は終わり、我々は勝利しました。投じられた1000万の票のうち、我々は600万のチャベス支持票を獲得しました。ちょっと想像してみてください。チャベスが最初に選ばれたとき、彼は400万票を獲得しました。そして国民投票にかけた仕事のあと、いまや我々は600万なんです。
蛇足的解説: カロリスはカラカソのときに14歳とあるので、現在32歳前後ということになる。ベネズエラや共産党の歴史についての知識はかなりあやふやである。カルデラ選挙のとき共産党はカルデラ支持なので、この時点では共産党員ではない。チャベスの出獄を迎え、地方キャンペーンにも関わっているようだから、その時点では共産党というよりチャビスタであろう。
いずれにしても党を代表する幹部でもなければ、理論家でもなく、あくまでも現場の活動家である。そのことを踏まえたうえで読んでいただけると、現場の人にしかわからない、生々しい臨場感が伝わってくる。とくに国民投票の顛末については、インタビュー直前の話だけにチョイヤバの迫力がある。
日本の青年にもぜひ読んで欲しい文章である。