2007年10月27日

ベネズエラにおける憲法改正

=ベネズエラ・ボリーバル共和国イギリス大使館=

ベネズエラの石川駐日大使が札幌に来て講演されるとのことで、事前学習の講師を頼まれました。いろいろ資料をあたっていたところ、以下に訳した文書が見つかりました。例によってがさがさと取り込んで、後から読むというやり方なので、出処はもはやわかりません。ファイル名は「constitutionreforms.pdf」となっていますが、グーグルでこの名前で検索しても出てきません。読んでみると、この文書はベネズエラ国会事務局が憲法改正の議論を呼びかけるために発行したもののようです。一部細かいところは省略しています。その後、出所がわかりました。http://www.venezlon.co.uk/pdf/constitutionalreform.pdf ということで、何のことはない、ベネズエラ大使館の外国人向けリーフレットでした。

この文章を読んだだけでは、改正の背景が良くわかりません。そこでvenezuelanalysis.comというサイトにある二つのレビューから、適宜注釈として補っておきます。ひとつはKiraz Janickeという人の文章で、8月にチャベスが議会で行った趣旨説明を紹介しています。もうひとつはGregory Wilpertという人の書いたもので、議会での議論経過を報告しています。こちらは10月31日の日付ですから、出来立てのほやほやです。私の注と区別するため、茶色で付け足して起きます。

大使館のホームページにあるアイコンです

前書き

ベネズエラ・ボリーバル共和国の大統領ユゴー・チャベス・フリアスは、2007年8月15日、ベネズエラの人民に憲法改正の提案を行ないました。この提案は、350条の条文のうち約10%にあたる33カ条を修正するものですが、憲法の構造や基本的な考えに影響を及ぼすことはありません。

それにもかかわらず、この改正案は1999年に始まった立憲・民主革命をさらに深めるために、不可欠な調整を行なおうとしています。

いま、憲法改正プロセスが提案されたために、外部ではさまざまな誤った解釈が流布しています。この文書では、はっきりと正確に憲法改正の中身を表わし、ベネズエラの民主主義を豊かにするさまざまな前進面を強調したいと思います。

 

以下が目次というか、荒々の紹介のようです。一応対応部分にリンクを張りました。

ベネズエラの人々は憲法改正の提案を検討し討議するだろう

チャベス大統領は、ベネズエラの社会に、憲法改正の提案を検討して討議するように勧めました。

憲法改正は複数政党制を保障している

複数政党制は、憲法の基本的原理です。それは修正することもできず、修正するつもりもありません。(P4)

憲法改正は、国民投票でベネズエラ国民に承認されることによってのみ成立する

改正プロジェクトは、国民投票にかけられ承認を得ます。これは、憲法の第344条で確立されている手続きです。(P5)

憲法改正は、永久の再選や共和国大統領の終身ポストを狙うものではない

共和国大統領の任期がいつまで継続するかは、ベネズエラの人々の意思に依存しています。それは大多数のヨーロッパの国で起こっていることとまったく同じです。(P6)

ベネズエラ中央銀行(BCV)は、金融政策と金融業務の遂行に引き続き参加する

この改正は、金融問題への対処・執行と準備金の取り扱いにおいて、ベネズエラ中央銀行と政府が共同で仕事することを目指すものです。(P8)

憲法改正は、私有財産を認め保障する

それは、私有財産ばかりではなく、ほかの形の財産も認め、保障します。例えば公共資産、社会的資産、集団的資産、公私共同資産などです。(p8)

憲法改正は、労働者の保護のために重要な改正を目指す

それは労働時間を週40時間から36時間に短縮しようと提案しています。そして、労働者と自営業者のための基金の創設をうたっています。

憲法改正は、州と自治体の廃止を狙っていない

それは、新しい枠組みの導入で地方間の関係、海上域を整理し、国土の統合形態を多様化しようと提案せているだけです。

“ボリーバル改正の議論は街に出てやらなければならない。リーダー、人々、政党、社会運動、学生、女性、労働者、先住民、軍隊、兵士などすべての人々が巨大な議論の場に行かなければならない” 

(2007年8月15日 チャベス大統領の議会での演説)

 

以下が本文のようです

「民主的エリート」の民主主義から、「参加者とリーダー」の民主主義へ

1958年以降、20世紀の終わりまで、ベネズエラを支配した代議制民主主義のモデルは、古典的な強者の原則に基づいていました。強者たちは次第に民衆の自決権を剥ぎ取り、政治階級として発展してきました。彼らは歴代政権において民衆の管理を離れ、少数者政府を形づくって来ました。

これらの政府は、寡占層の国内的・国際的な利益を保護し、大多数の国民に背を向けてきました。彼らは石油の生産・輸出が盛んだったときも、市民への扉を閉めて、社会経済の発展がますます不均衡になるのに、民衆の政治参加を妨げてきました。

彼らは国民的発展の道を捨て、大国の経済センターの利益や要求に屈服しました。このことがベネズエラの社会を全般的な貧困におし進め、低開発段階に押しとどめ、一握りの利益享受者を富ませることにつながっていきました。

コンプレックス・レッドと呼ばれる親分・子分関係を通じて腐敗と賄賂が蔓延しました。これはベネズエラの「民主主義」の特徴的なレッテルとして知られています。このような環境の下では必然ですが、政治権力への接近は、詐欺まがいのやり方で公共資産を奪い、汚い手口によってそれを個人の手へと移していくことと同義語になりました。

次は、80年代にこの天体を支配するネオリベラリズムが登場します。彼らはさすがの貪欲な政治社会も手をつけなかった公共資産に目をつけました。彼らは「民営化」の名の下に公共資産を奪い、「構造調整」と呼ばれる犠牲を押し付けました。そのすべての重圧が貧しい人々の背中にのしかかりました。

政治的階級の道徳的堕落への糾弾は、鋭い社会危機と組み合わせられ、果てしない反乱を引き起こしました。そしてそれは、従来のベネズエラ型政治モデルのもろい基礎を侵食していきました。

この流れの中から、政治的オールタナティブとして、ウーゴ・チャベスに率いられる「ボリーバル運動」が登場したのです。ベネズエラ国民は、そこに、必然的な社会変化を引受ける人物を見出したのです。

いったん大統領に選ばれるや、ただちにウーゴ・チャベスは憲法制定国会の結成を促し、ベネズエラの国家としての根本的変換のプロセスを開始しました。

 

1999年の憲法制定過程は、強力な参加型民主主義に生命を与えた

1999年を通じて展開された憲法制定の過程は、ベネズエラに民主主義を生みだしました。ベネズエラ国民は失われていた政治への参加の情熱を掻き立てられました。

ベネズエラ共和国の歴史で初めて、国民は国民投票を通して、その意思を問われました。それは憲法制定国会を召喚する必要を認めるか否かというものでした。その回答は地すべり的な賛成でした。

憲法制定国会は国民の投票で選ばれた議員によって作られました。4週間のあいだに、国会は非常に人道的・進歩的な憲法を立案し、議論し、それを承認しました。

憲法制定国会、すべてのベネズエラ国民に人間的、市民的、政治的、社会的、文化的、教育的、経済的、環境的権利を保障することを目標とすることで、共通の合意に達しました。

先住民族など歴史的に特徴付けられたグループ(人種のこと?)の権利は、初めて、明確に保護されることになりました。人間の平等が擁護されました。すべての社会活動に対し女性の完全な参加を成し遂げるためのメカニズムが構築されました。

先駆者的条項も盛り込まれました。憲法制定プロジェクトは、人々に選挙結果を無効にする力を与えました。「取消し国民投票」という革新的形態が考え出されました。

「ベネズエラ・ボリーバル共和国憲法は、モデル憲法である。私は、それが世界で最高であると思う。そのような憲法がほかにあるとは信じられない。たとえ細部については修正が必要な箇所があるにしても…。たしかにそれは完璧ではない。そして、完全なるものは善なるものの敵である。だから完璧ではないというその点からみて、この憲法は世界で最高である。

(2003年8月3日 ウーゴ・チャベス・フリアスのカラカスでの演説)

草案の策定を支配した民主主義の論理は、プロジェクトへと続いていきました。そしてベネズエラ国民による承認をもとめたとき、それはベネズエラ・ボリーバル共和国の憲法になる以外にありませんでした。1999年12月15日、新憲法は国民投票で76%の支持を獲得して成立しました。

立憲プロセスの最終結果としての1999年憲法は、共和国を改造していくための法的基盤を与えました。そして「民主的革命へのベネズエラの道」における基準点となりました。

 

「憲法モデル」は独裁政治の重圧の犠牲者であった

1999年以降、ベネズエラは立憲・民主革命の8年間を過ごしてきました。困窮する人々のために社会的、経済的、政治的権利を拡大しようと活動してきました。それはまったく先例のない経験でした。

主体的な変革の努力は、国家と有力寡占層の対立を導くことになりました。国家は、政治への民主的参加と、経済の多様性を発展させるメカニズムに関心を集中しました。そして自由・博愛・連帯の社会に向けた新たなモデルを模索してきました。これに対し寡占層は新たなモデルの導入に抵抗し、既得権を維持するために闘いました。

寡占層の権力に対する渇望は、政府が実行したさまざまな変革や憲法の強制でもたらされた挫折とあいまって、ますます強まりました。海外からは軍事的、財政的支援もありました。それはベネズエラの寡頭層を二回にわたる国家クーデターへと導きました。

最初のクーデターは2002年4月11日に起きました。それはペドロ・カルモナを21世紀の最初の独裁者の一人としました。短くも激烈な独裁のあいだ、カルモナは憲法を廃止して、国民の意志から生まれた参加型およびリーダーシップ民主主義を終わらせました。

しかし2002年4月13日、人々は街頭に出て、ヒロイズムと民主主義への信念をかけたデモンストレーションによって民主主義を回復しました。これは全世界の歴史にも例を見ないできごとです。

第二のクーデターは“石油サボタージュ”の名で知られています。このクーデターは2002年12月に開始され、2003年1月に失敗に終わりました。

 

ボリーバル共和国の人民は、憲法の仕上げに向かい進む

憲法改正は、国家がベネズエラ国民とともに持つ責務です。新しい歴史的な挑戦に直面するためには、憲法を改正(adjust)しなければなりません。例えば、貧困を根絶して不平等と社会排除を止め、自由・公正な民主主義を実現することです。

 

 

 

ベネズエラの民主主義へのプロセスは歴史の瞬間に来ています。これから前進していくためには、どうしても、ひとつのまとまった答えが与えられる必要があります。

チャベスの国会での演説より: 世界は1999年からすっかり変わってしまった。革命的移行過程を続けるために、憲法の改正が不可欠となった。とくにベネズエラの国を変えるために「権力の新たな立体構造」を打ち建てなくてはならない。

1999年に承認されたわが国の憲法は、たとえば国土の編成、労働、権力の分権化などについて全面的な方向を示すことができませんでした。ここが、このたびチャベス大統領が国会に憲法改正を提案した理由です。チャベス大統領は、「憲法の構造や原理を変えるのではなく、ベネズエラの民主主義のプロセスの強化のために部分的な変更を加える」と述べています。

この流れでいうと、憲法改正の基礎となっているのは「人民権力」の考えです。これは新しいかたちで統合・構築される権力です。

このあと、とても難しい表現が続くので原文を併記します。

The new geometry of power, understood as the new ways of relation, hierarchical structure, and the integration of the society with the State within a territorial space consist of an innovative paradigm of decentralisation, which leads towards the democratisation of power and consolidation of the real participative and leadership democracy.

この「新しい形の権力」は、次のように考えられます。すなわち統治構造、社会結合の新たな道です。それは「州」のあり方とかかわっており、一定の地理的範囲の中にあります。それは革新的な考えで成り立っています。すなわち「脱集中」(分権化)という考えです。それは権力の民主化へとつながる考えであり、真の「参加型、リーダーシップ型民主主義」の強化へと導くパラダイムです。

憲法改正によりすべてのベネズエラ国民は憲法を享受できることになります。なぜなら、改正された憲法は「権力」を分散し、市民の中に再配分することになるからです。

1999年に、ベネズエラの人々は、「民主主義」の受け手であることをやめました。そして民主主義の担い手(リーダー)へと変身しました。

したがって、「リーダーシップ型民主主義」というのは、担い手型民主主義、あるいは内発的民主主義とも訳せるかもしれません。いずれにしてもこの文章では、私のように「相当分かっている」はずの人間にも良くわかりません。多分書いている本人が良くわかっていないのでしょう。「参加型、リーダーシップ型民主主義」については別途、明らかにしたいと思います。

 

憲法改正は複数政党制を保障する

提案された改正は部分的なものです。それは憲法の10%、345の条項の中の33カ条を修正するだけです。憲法の第342条を除けば、改正は憲法の構造や基本的原則を修正していません。

たとえば、第二条はベネズエラを「人権と正義の民主・社会的国家」として定義しています。そして「法的秩序と法的行動、生命、自由、正義、平等、連帯、民主主義、社会的責任に高い価値」を置いています。また「一般に人間の権利、倫理と複数政党制の優越」をうたっています。

 

野党も改正に向けた審議と討論に参加している

「正義第一党」(Primero Justicia)は、憲法改正に向けた議論を広げるために独自の計画を開始しています。この政党の千人以上の地域指導者が集まり、改正の内容や国民投票への態度について検討しています。

彼らはまた、いくつかの提案を改正条項にふくめるよう望んでいます。例えばスラムに住むベネズエラ国民への土地権利証の交付です。また、州と個人の保有する土地資産の再分配を提案しています。

土地権利証の交付についていえば、それはすでに2004年以降、中央政府によって実施されているイニシアチブです。土地資産の再分配もすでに改正案の中にふくまれています。

 

憲法改正案はベネズエラの人民によって審議・討論されることになる

共和国大統領は、ベネズエラ国民に改正案の審議・討論を促しています。

「改正の議論が、街々に流れ出されなければならない。リーダー、国民、革命を支える政党、5つの社会的運動、学生、女性、労働者、先住民、軍隊、兵士。すべての闘う人々が議論の巨大な流れを作っていかなければならない」

国会は、「議論のための憲法改正」計画を策定しました。これは改正提案の内容を広げて、議論を進めるためのもので、4つの行動から成っています。

@街角社会的議会主義(street social parliamentarism)、A情報キャンペーン、B改正案の国外への普及、Cキャンペーンの組織化と方向付け

多分、イシカワ大使の講演はBの一環として行われるのでしょう。

国会は200人の「呼びかけ人」を組織しました。「呼びかけ人」はそれぞれの選挙区で20人の市民を選び、訓練します。これにより計4千人の「促進者」が誕生します。この「促進者」がさらに20人の市民を選び、訓練します。これにより計8万人の「促進者」が誕生します。

2700万人のベネズエラ国民は、計画の効果を確実にするために、5人を単位とする家族グループに分けられます。「促進者」は一人あたり6つのグループを受け持ちます。こうして11日間で人口の100%をカバーする体制が出来上がります。

 

計画は準備期と4つの実施期に分けられ、全部で7週間からなる

準備期では郡、市町村、町内組織で発言者組織と資料準備が行われます。議会事務局はプロモーション・キャンペーンの準備を行います。

以下、この節は省略します。

 

憲法改正相談所

この節も省略します。

 

憲法第343条

憲法改正の手続きは、国会によって以下の順番で進んでいきます。

以下は省略。

 

改正は大統領の永久の再選や終身大統領制を企図していない

共和国大統領によって提案される再選のタイプは、永久ではなく終身制でもありません。大統領は、国民が望むかぎり、制限のない自由で透明な選挙を通じて、連続して再選されることができます。

憲法第203条は、大統領の任期を6年とし、三選以上の連続再選を認めていない。憲法改正案は一期7年に延長し、無期限の再選を許すものとなっている。

改正の提案は、すべての公職について、任期半ばの「取消し国民投票」制度を維持しています。そこには共和国大統領もふくまれています。だからときの共和国の大統領の地位は、ベネズエラ国民の民主的な意思に依存していることになります。

同じことは欧州連合の大多数の国で起きていることです。ドイツのキリスト教民主党のヘルムート・コールは、その象徴的なケースです。彼は16年間、連続してドイツ連邦首相に再選されました。スペインの社会主義労働党のフェリペ・ゴンザレスは、14年間、首相に再選されました。

フランス人民運動連合のジャック・シラクは、1995年から2007年まで12年間、フランス大統領を務めました。スロベニアの現在の大統領は、ヤネス・ドロノフセクは1992年に首相に選ばれ、2003年からは大統領を務めています。

 

ベネズエラの大統領は、もはや「終身上院議員」の地位を持つことができない

国民投票によって1999年に承認されたベネズエラ・ボリーバル共和国の憲法は、大統領が無期限に権力にとどまる仕掛けに終止符を打ちました。ひとつは一定の期間下野すれば、ふたたび大統領につくことが可能になる制度です。そしてもうひとつは大統領退任後、自動的に「終身上院議員」のポストを与える制度です。

1999まで、大統領は永久的に権力にとどまるための憲法の権利を持っていました。彼らは再選することができました。連続的ではありませんが。そして彼らの任期が終了し次第、彼らは「終身上院議員」の特権を獲得しました。

これまで選挙で選ばれた大統領は6人います。このうち二人はすでに死亡していますが、汚職で弾劾されたペレスを除く三人の元大統領は、もし1999年憲法がなければ、いまも終身上院議員のはずです。

このようにして彼らは国家や国民の意思に身をかがめることなく権力を行使し続けました。大統領たちは「終身上院議員」としての特権を持ち続けました。だから彼らに対する横領の罪が問われ、司直の手がそこまで伸びたときでも、それを逃れることができました。

1961年の古い憲法によると、終身上院議員は「逮捕、拘留、拘束、あるいは刑事上の裁判に起訴される。家宅捜索、活動の制限を加えられる」ことは決してありません。「彼らの免責特権を侵そうとする当局者あるいは政府職員は、法にのっとり処罰される」のです。

1999の憲法では、すべての選挙で選ばれる公職ポストについて、国民は選挙し、再選しあるいは罷免する力を持っています。そこには大統領も含まれます。これが国民の主権です。

そして、このプロセスの透明性は「選挙権力」によって保障されています。

「選挙権力」とは、選挙管理委員会のことを指します。中南米の多くの国では、中央選挙管理委員会は選挙裁判所といわれ、立法・司法・行政と並ぶ第4の権力とされる。しかし、これは建前であって、実態としては司法の影響の下にあるようです。チャベスの罷免投票をめぐるベネズエラの混乱の中で、これらの関係が見えてきます。

 

憲法改正は私有財産を認め保障する

憲法改正は、私有財産だけではなく、以下の形態の財産保有を認め保障します。

A. 公有財産:国家に属する財産です。 B. 社会的財産:これは国民に属しますが、州が自治体の立場に立って執行する場合、あるいは州によって直接割り当てられる場合は例外に当たります。 C. 集団的資産:これは特定の社会的グループに属する財産です。それぞれのグループは、共同のもとに、それから利益を得たり、使用したり、消費したりすることができます。 D. 混合資産: 公共・社会・集団・民間の混合した資産です。

民間部門の実業家と生産者のみなさん、あなたがたは除外されません。我々はあなたに結びついてもらいたい。そして同志でいてほしい。そして国民資産を形成してほしい、それは国家資産であり、自治体資産であり、それらと同じように民間資産であります。 進みましょう、ともに! 我々は偉大な南アメリカとともに進み、偉大な祖国ベネズエラを建設するでしょう。

ウーゴ・チャベスの下院での演説(2007年8月)

 

憲法改正は労働者の重要な要求の実現を目指す

憲法改正では労働時間を週36時間に短縮することが提案されています。その他にも労働環境における保安・衛生問題が提案されています。また、自由業、文化の方面で働く人たちなど独立労働者のための「社会安定基金」が提案されています。

 

憲法改正は、軍の編成と機能を維持する

憲法改正は「国家ボリーバル軍」の統合を求めています。「国家警備隊」は廃止されません。それは異なる機能を持つだけです。全国の予備役兵が「国家ボリーバル民兵隊」を編成すれば、機能が分担されることになるでしょう。

 

憲法改正が提案する「人民権力」は、地方レベルの「公共権力」の範囲の中でのみ統合される

各地方の「公共権力」は次のような部分から構成されることになります。すなわち人民権力、郡権力、州権力、そして国家権力です。

チャベスの演説から: 私は憲法第70条に「人民権力」を加えるようもとめる。なぜなら、社会主義的民主主義を作り出すための条件として、権力の分散化と地域の組織された直接民主主義的権力への移行が必要だからである。

人民権力は市町村、集落の自治の主体を表したものです。それは自治体評議会、労働評議会、農民評議会、学生評議会、そのほか法の定める組織などからなっています。

 どうも、チャベスは人民権力の中核概念となる「組織化されたコミュニティ」を語るにあたって、「二重権力」的なものを念頭においているようです。たとえばロシア革命のときの労農ソヴェート(評議会)とか、文化大革命のときの革命小組のようなものです。これに対し、国会での議論はもうすこし一般的・抽象的なものになっているようです。

 

憲法改正は、都市に権利を保障する

都市への権利は、各々の住民が持つことのできる平等の利益として考えられます。その権利は、それぞれの都市に与えられた戦略的な役割に沿っています。たとえばその都市をふくむ地域全体の役割であり、国家全体における都市体系の中の位置づけであります。

すべての都市は、必要とする事業を実現する権利を持つでしょう。

たとえば都市の再編、道路の修復、環境の回復、個人および公共の安全確保、スラムや町内の全体的補強が必要です。

そのほかにも、保健システム、教育・スポーツ、レクリエーションと文化活動、歴史的センターや建造物などを再建させることなど、ヒューマンな暮らしを可能な限り最大限実現することです。

 

ベネズエラ中央銀行は、金融政策の計画と運用に参加し続ける

憲法改正は、ベネズエラ中央銀行(BCV)と政府が引き続き、金融政策の計画と運用において共同作業を行うよう考えています。それは準備金の管理においても同様です。

各年度末に、政府は中央銀行とともに準備金残高の水準を確定します。それは発展のための基金総額を明確に割り当てることであり、この国の経済にとって大事な作業です。

現在、「国家発展基金」(Fonden)は、外貨準備金に対する一定の割合の取り分をあらかじめ定めています。それはインフラ部門の発展と生産的な投資のために用いられます。

中央銀行は信用と金利の規制に当たっていますが、このほかにも為替取引制度の計画と運用にも参加しています。一方において、国家は国家経済政策の管理において、その自治を回復させます。

 

ベネズエラ中央銀行の「自治」はまったく機能しなかった

ベネズエラ中央銀行の「自治」は、1992年の法律により発足しました。この「自治」はカルロス・アンドレス・ペレス政権と国際通貨基金(IMF)との合意書が取り交わされた後に成立しました。ペレスは現在、贈収賄容疑で有罪を宣告されています。

「自治」の目的は、この国の物価を安定させることにありました。それこそは、この計画の成否をかけたキー・ファクターでした。そのために経済の近代化が企画され、経済・社会問題の解決が目論まれました。

中央銀行の「自治」は、新しい経済的概念でした。それは金融の安定性を実現することを唯一の目的として作り出された概念でした.

このゴールは、決して達成されませんでした。インフレは止めることができませんでした。貧困率は度外れに高まりました。これがカルロス・アンドレス・ペレス政権(1989−1993)、ラモン・ベラスケス暫定政権(1993−1994)、そしてラファエル・カルデラ政権(1994-1999)の下で起こったことです。

彼らはすべてネオリベラル主義者でした。彼らはいずれも国際通貨基金(IMF)によって強要される方針に従順でした。国際通貨基金の方針はベネズエラ中央銀行のネオリベラル主義テクノクラートによって貫徹されました。彼らは決して国民によって選ばれることなく、国家の要求には決して応えようとはしませんでした。

それはまさにインフレそのものでした。その前からベネズエラではずっとインフレでしたが、ベネズエラ中央銀行の「自治」が宣言されてから、それは度外れのものとなりました。

そのインフレはチャベス大統領が就任1年目に押さえ込み、2002年のクーデターと2002年から2003年の石油ストのあとで、インフレを押さえ込むことができるようになるまでずっと続きました。

チャベスは、政府が自ら金融政策を立案・運用することでインフレを克服しようと考えました。彼は政府により多くの裁量権をもとめ、そのための法律や政令を続けざまに打ち出すことで、それを成し遂げたのです。

1998年まで、ただベネズエラだけが、貧困率の増加において、あるいは低開発の深刻化において、高い水準を維持し続けていました。この傾向は、チャベス大統領が政府につくとともに向きを変え始めました。

中央銀行法の最終的改正が行われるでしょう。それは金融政策を計画・運用するために、国家へのより多くの自由を与えることになるでしょう。それはベネズエラでの貧困を激減させ、国民の人間的な発達を大きく進めるでしょう。

 

憲法改正は「民主的分権化」を保障する

憲法改正プロジェクトは、地域としての州の機構と組織の民主的な変革を提案しています。それは権力のよりよい配分を保障するものとなるでしょう。そして、より公平で参加型の民主的な方法が保障されるでしょう。

チャベスの演説では、より率直に、「地域主義」は変革を妨害するドグマだと断じています。そして行政区分の変革を、依然として地域に跋扈するカウディージョ(地方ボス)と「歴史的反動ブロック」に対する、一種の「奪権闘争」として位置づけています。

州は郡から成り立っていますが、それとは別に、州と並ぶ形で「市」を形成することが提案されています。

ここではMunicipalを「郡」と訳しました。ベネズエラの人口は日本の1/4です。そこに23の州があるので、州(Estado) の規模は日本の小さめの県くらいと考えられます。そうするとMunicipalは県ではなく郡くらいに考えたほうが良さそうです。北海道なら支庁です。歴史的文脈で言えば「藩」です。もっとも日本では「郡」はすでに半ば死語と化していますが。

集落のひとかたまりは「コムーネ」と呼ばれます。それは一定の地域的・社会的な広がりから成っています。これらのコムーネは国土の地理的・社会的な細胞であり、「共同体」によって統合されます。そこでは一般住民が権力を持ち、彼ら自身の自然・人文と歴史を打ち立てます。

同時に、「連邦行政区」、「連邦都市」、「特別機能地区」などの創設も提案されていますが、これについてはまだ国会の承認を経てはいません。これらは、その歴史的、社会・経済的、文化的特徴、さらにその経済的能力にしたがって作り上げられていくことになるでしょう。

 

憲法改正によって知事職や市長職がなくなるとか、権限が縮小されるなどということはない

この国におけるすべての州と郡は、知事と郡長を持ち続けます。プロジェクトは、「連邦行政区」、「連邦郡」、「連邦都市」について、特別次官職の創設を提案しています。

州と郡の首長職は、住民の投票を経て承認されなければなりません。そして、法の定めに従って政府が当局者を暫定的に指名したときも、その任命は住民の投票によって破棄できることになります。(大統領は、偶発事件または国家的災害の状況において、特別暫定当局を任命することができます)

「特別機能地区」は、ひとつ又はいくつかの郡や地域の集合によって創設されます。「特別機能地区」が作られることによって、該当する州の権益が損なわれることはありません。

同時に、「連邦行政区」も作られます。「連邦行政区」は州や郡をふくむ大きなものになります。それなしには、憲法で定められた保障ができなくなってしまうからです。

おそらく「連邦行政区」というのは、先住民が多く住むアマゾン地方に適用する行政区分だろうと思われます。

 

憲法改正は、州や郡の廃止を目指すものではない

州権力と郡の権限は現在の形態がそのまま維持されます。州は郡によって構成され、郡の中には市が作られます。市はコムーネと呼ばれる単位によって構成されます。コムーネは一定の地域、あるいは地理的な広がりを持っており、「自治体」としてまとめられます。

ベネズエラの政治的組織の創設は、16世紀までさかのぼります。たとえば郡という概念は、植民地的構造の一部でした。この流れからいえば、今度の改正はより広く、より組織だった国土の統治体系を提案していることになります。そして「海上地域」という行政区分も誕生します。これはベネズエラのすべての領海部分を行政の対象としたものです。「島嶼地区」は、島々や群島をひとつにまとめたものです。

「機能地区」の創設もまた、提案されています。これはひとつ、あるいは複数の郡で構成されます。さらに隣接地域(海上・島嶼など)をふくめることもあります。

「連邦行政区」は州の連合から構成されますが、必ずしも既存の境界にはこだわりません。その境界は連邦行政区の地理的・経済的・歴史的特性によって定められることになるでしょう。

 「連邦領」の創設も提案されています。それは異なる州の異なる地域の連合を意味しています。これらの地域は歴史的に辺境とされてきました。現場での関心も欠如していました。

これに対し「連邦郡」は、国境地帯や保安・防衛上必要とされる地域で組織される行政単位です。

「連邦市」の名前は、相対的に大きく重要性の高い都市に与えられます。「コムーネ」の名前は、いくつかの共同体のグループに対して与えられます。

「特別軍事地域」は、国家の非常事態の場合に特例的に作られる、戦略地域です。

 

原文はここまでです。

 

補遺

Gregory Wilpertのレポートによれば、10月31日、国会は立憲的改革提案の改訂を終えた。12月2日に国民投票が実施される予定。議会で確認されたおもな改正点は以下のとおり。

@大統領の任期を6年から7年へ、三選禁止条項の廃止。

A投票権が18歳以上から16歳以上に引き下げられる。

B政治活動に対する外国からの資金援助の禁止。

C公職立候補におけるジェンダーの平等

D自由な大学教育の保障。

E一切の女性差別の禁止。

F週36時間労働。

G自営業者のための社会保障制度

Hコミュニティ会議のための資金的保証。

Iベネズエラ中央銀行の「独立性」の否定。

Jリコール投票のための必要条件の厳格化。

人民権力の課題については、結局Hでお茶を濁され、継続課題となったようです。