チャベスはラテンアメリカ自立の旗振り役

大声をだすだけが旗振り役の役割ではない。砕氷船のように情勢を切り開き、民衆政府建設の水路を作り上げることによって、旗振り役となったのである。

彼の切り開いた水路をあとづけてみる。

A.まず民衆の覚醒を呼びかけたことである。

@おお友よ、このような音ではない!

80年代は「失われた10年」と呼ばれるが、前半と後半では“失われ方”が違う。

前半は軍事独裁の時代であり、軍事政権の失政により急速に経済が崩壊していく時期であった。人々は軍事独裁の打倒と民主化に燃えた。民主化すれば経済も良くなると信じたのである。

しかし民主化は実現したが、経済は一向に好転しなかった。軍人は姿を消したが、もうひとつの支配者である多国籍企業と国際投機資本はそのまま残った。

「民主化」は偽りの民主化であり、もう一つの敵であるネオリベラリズムとの対決なしに、民衆にとっての「民主化」は実現しない。

1990年に起きたカラカス暴動と、それに続くチャベスのクーデターは、それを民衆の前につきつけた。

私は、実はこれこそがチャベスの最大の業績ではないかと思っている。

ベートーベンの第9の歌い出しはこうなっている。

O Freunde, nicht diese Töne!
Sondern laßt uns angenehmere
anstimmen und freudenvollere.

おお友よ、このような音ではない!
我々はもっと心地よい
もっと歓喜に満ち溢れる歌を歌おうではないか

A闘う敵を明確にした

80年代の軍政民主化の運動は反軍政派の政治家を前面に押し出した。その多くは軍政時代以前からの政治家で、基本的政治スタンスは親米・反共であるにもかかわらず、民衆からは一定の幻想を持たれていた。

左翼勢力は、軍の徹底した弾圧で国内基盤を失い、有効なイニシアチブを発揮できなかった。

政府は、国際資本と闘うのも大いに結構だが、その前に、まずもって国民に飯を食わさなければならない。冷厳な論理ではあるが、それは決して「資本の論理」と同じものではない。

多分に同情すべき余地はあるのだが、民主政府を担った政治家たちは、結局対外債務を盾に迫る国際資本に対し屈服していった。それは「民主政府」が民衆の敵に転化したことを意味する。

対外債務の利払い拒否を宣言して大統領となったペルーの第一次ガルシア政権が、国際資本の集中砲火を浴びて炎上したことは、ラテンアメリカ諸国に深い敗北感をもたらした。これを目の当たりにしたベネズエラの第二次ペレス政権は、IMF韓国を丸呑みする道を選択した。

このペレスという人物、かつてラテンアメリカではきわめて評価の高かった人物である。数少ない非軍事政権の指導者として、ニカラグアのサンディニス タの闘いを支援し、地下資源の国有化を宣言し、キューバの国際政治への復活を図り、中米紛争の自主的解決のためのコンタドーラ・グループを組織した。

その人でさえIMF勧告を受け入れたのだからもう仕方ない、というのがおおかたの雰囲気だった。それにノーを突きつける形で、カラカスの民衆暴動が起きた。ペレスは戒厳令を発動し、軍を動員して鎮圧にあたった。

相当手ひどいやり方だったようで、チャベスらはこれに怒ったようだ。

軍隊というのは、そういうところがあって、「国と民衆を守るのは俺達だ、民衆に勝手なことしてもらっては困る」みたいな動きが必ず出てくる。

しかしこのナイーヴな怒りは、じつは国内支配層や、それに付き従う中間層につきつけられた怒りだったのだと思う。

たとえ軍政よりましな民主政府と言えども、国際資本に従い民衆を抑圧する立場に立てば、それは打倒すべき敵だということを、さまざまな勢力に先駆けて宣言したことに大きな意義がある。

B闘う左翼の再構築を

当時、ソ連・東欧の崩壊を受けてラテンアメリカの左翼陣営は意気消沈していた。いくつかの国では共産党が事実上消滅していた。

アメリカとIMFは、ワシントン・コンセンサスなる構造改革と自由化を財政支援の踏み絵として押し付けた。少なくない社会主義者が、“革命でなく改革を”と称して、事実上ネオリベを受け入れていった。

中米戦争はニカラグアのサンディニスタ政権の敗北という形で終わりを遂げ、ラテンアメリカの民族解放闘争の路線も挫折を余儀なくされた。

全体に沈滞ムードが高まる一方で、民衆の困難は一段と強まり、闘いが求められていた。

クーデターという方式は決して誉められたものではないにせよ、国際資本主義やそれに追随する既成政治と決別し対決せよという呼びかけは、きわめて異色のものであった。

B.非暴力的な権力獲得への道を指し示した

ベネズエラでの権力獲得への道のりは三段階からなっている。

すなわち大統領選挙での勝利、議会での多数獲得、反革命策動の粉砕である。今日このロードマップはラテンアメリカの多くの国で有効であることが示されている。

この道筋を上昇していくための唯一無二の駆動力は絶えざる民衆へのキャンペーンであり、民衆の直接民主主義的な組織化である(ベネズエラにおいてはボリーバル・サークル)。

軍を中立化させ、少なくともその一角を掌握することはきわめて重要であるが、軍は根本的には米国の支配のための道具であり、過大評価してはならない。

 

@選挙での多数獲得

二度にわたるクーデターは、実はクーデターではない。一斉蜂起計画の一部として実行されたものである。しかし左翼の分裂、労働運動主流の無関心により蜂起は起きず、結果として孤立したクーデターとなったのである。

このようなクーデターは、ベネズエラは過去において経験している。1956年、大衆蜂起と労組のゼネストで行政機関が麻痺するなかで、空軍の一部が出動し軍事独裁政権を打倒した。

しかし国際資本の介入がはるかに強力になっているいま、このような形での政府転覆は不可能であった。

チャベスは大統領選挙での勝利を目指す方向に切り替えた。かなり巧妙に正体を隠したと思う。ペルーのフジモリを支持するポーズを取ったかと思えば、キューバに行ってカストロと握手したりと、変幻自在のところを見せた。維新の会の橋下のようにさえ見えた。

そして既成政治を打倒するという口当たりの良いスローガンで、大統領の座を射止めることに成功したのである。

しかしこれは第一歩に過ぎなかった。ここからさきがチャベスの真骨頂である。

 

A制憲議会での多数派の掌握

チャベスは、「第五共和政」の旗印を掲げ、憲法改正を打ち出した。そしてこれを国民投票にかけ成立させた。そしてこれまでの議会の選挙制度とは異なるシステムにより制憲議会を樹立させた。

ここからが豪腕のふるいどころで、制憲議会に全権限を集中させ、司法制度や選挙制度の改革を打ち出した。

保守派が多数を握る議会は休眠に追い込まれ、改革に異を唱える裁判官や選挙管理委員は次々に更迭された。つまりフジモリが自主クーデター(アウトゴルペ)という暴力的方法によって成し遂げた議会と裁判所のクリーンアップを、チャベスは合法的に成し遂げたのである。

新憲法と新選挙制度のもとで議会選挙が行われ、チャベス与党が圧勝した。

この過程を通じて、チャベスは議会と司法の抵抗を打ち破ることに成功した。これこそチリでアジェンデが失敗した最大の要因であった。

 

B反革命策動との対決

普通ならこれで権力の掌握は完了するはずだが、ベネズエラという国は政府ではなく石油公社が支配する国であった。

この国の政治は事実上、二重構造になっていた。この国の石油は、建前上は国営ということになっていたが、実際には国際資本の手中にあった。国が運営するから国営なのでなく、会社が運営する国だから国営なのである。

満を持したチャベスは、01年12月に自派のメンバーを理事に送り込んだ。「国営」というたてまえを最大限に利用して石油公社の運営権を取り戻そうというのである。

この闘いの内容については、別稿を参照していただきたい。それは1年有余にわたる激戦であったし、その過程でチャベス自らが命を落としかけた。

しかし結局、チャベスは敵をねじ伏せた。

最大の理由は、こちらが権力を掌握しており、それは選挙で選ばれた合法政権であるという大義名分があったからである。これに対する反抗は、結局合法政権に対する反革命という形を取らざるを得なかったからである。

 

C.権力を握った政府が何を成すべきかを示した

せっかく権力を握っても、バラマキ政治や逆に借金の返済に四苦八苦していたのでは意味が無い。

まず一番大事なのは自主財源の確保であり、途上国にあっては地下資源の確保をおいてない。それがベネズエラにあっては石油公社の奪還であった。

第二には、一種の鎖国政策である。とりわけ資本取引の制限と、為替相場の管理である。

03年3月、ゼネストにより疲弊した経済を立て直すため、チャベス政権は外貨割当制を導入し、生活必需品以外の輸入を厳しい統制下においた。

おりからの原油高もあり、債務の返還は順調に進捗した。それまでの経済危機と、石油公社の高級職員を数万人ほど解雇したことにより、外貨需要は減退していたから、それでも矛盾は激化しなかった。

2004年以降、景気の回復が進行した。当然ながら、諸物価の値上がりにより、通貨の高値維持政策と実勢との極端な乖離が生じた。

通常は通貨の下落はインフレに伴い進行するのだが、流通ドルの不足がそれに拍車をかける形となった。しかし通貨の価値は本来は外貨準備高によって規定されるのであるから、膨大なオイルダラーを積み上げたベネズエラの固定為替相場が著しく不当とはいえない。

市中での闇相場がいくら跳ね上がろうと、政府が購入する際には関係ない。それが経済の撹乱要因にならない限りは、民衆にとって二重価格は別に問題ない。輸出企業や輸入業者が困るだけである。

国際資本の自由と民衆の自由は、しばしばトレード・オフの関係となる。新自由主義というのは国際資本にとっての“自由”であって、それは民衆への“不自由”の押し付けだ。

であれば、新自由主義の逆を行く新“不自由”主義で行こうというのが政策の基本だ。民衆の自由を確保するために、内外の資本家には多少の不自由を忍んでもらう他ない。

第三には、外貨の割り当てを通じた政府の経済統制である。どんな大企業も今や政府の意向を伺うことなしに経営を行うことは不可能になった。

これはかつての日本と同じである。経済企画庁や通産省が産業政策を決定し、大企業はその指導のもとに護送船団を組んで海外に進出していった。

もちろんこれは輸出志向の政策のもとに行われたわけだが、ベネズエラでは必ずしも輸出志向ではない。いわば民衆志向である。

これから先、どうなるのかという答えは政府自身も含め確たるものを持っているわけではない。ベネズエラのような石油輸出に特化した国にとって、バランスのとれた産業構造というものがどんなものなのか、答えが出ているわけではない。

それはある意味で、日本にも同様に突きつけられている問題ではある。文化をふくめた第4次産業みたいなものを考えていくことになるのかもしれない。

ただ、それを選択しうるレベルにまで、政治は歩を推し進めることができるという事実は示されたと思う。