カルロス・マヌエル・ピアル
ボリーバルに殺された庶民の英雄
08.Sept.2007
ベネズエラ年表をいじっていたら、ボリーバルに反抗し処刑されたピアルという将軍の記事に気がつきました。今までは読み流していたのですが、処刑の理由が黒人や先住民の権利を擁護したため、となっており、さすがに気になり始めました。
グーグルでピアルを引いてみますと、http://afrocubaweb.com/eugenegodfried/piar-brion.htmという記事に当たりました。またウィキペディアにもピアルについてのかなり詳しい説明が載っています。シウダ・ボリーバルの空の玄関(正確にはシウダ・グアヤナ)は、ピアル国際空港と名づけられていますから、行ったことのある人には、「いったいどうして、ボリーバルに処刑された反逆者が国際空港の名前になっているのか?」と、結構関心があるのでしょう。
貧しきコスモポリタンとしての生い立ち
カルロス・マヌエル・ピアル(Carlos Manuel Piar)は、ベネズエラ沖合いの島キュラソーで、1774年に生まれました。ボリーバルより9歳、一世代早い生まれです。
スペイン語ではクラサオと呼ばれるキュラソー島は、オランダ領で、首都のヴィレムシュタートはカリブ海を行き来する船の格好の港になっています。ピアルの父親もヴィレムシュタートに立ち寄ったスペイン人水兵でした。母親はこの町に住むオランダ人と黒人の混血女性でした。
キュラソー島(地球の歩き方より): カリブ海に5つあるオランダ領の島のなかでもっとも大きく、中心的存在の島でもある。ベネズエラの北約60キロメートルのところに位置し、長さ約65キロメートル、幅11キロメートルと、細長い形をしている。島の面積は448平方キロメートルと日本の佐渡島の約半分、種子島ほどの大きさしかないが、地形は起伏に富んでいて、北側は山岳地帯といってもいいほど。17世紀にオランダ領になってから、首都ウイレムスタードにはオランダ様式の家々が建てられ、古い町並みが残る一角を歩くと、まるで17世紀のオランダにタイムスリップしたような錯覚に陥る。
キュラソー(リキュール): 17世紀にオランダ人がキュラソー島のオレンジを原料にして作った。現在のキュラソー島にはオレンジ畑はなく、名前だけが残されている。代表的な銘柄がコアントロー、グラン・マニエ コルドン・ルージュ。つまり黒人の血は1/4だけですが、見たところはかなり黒人に近いものだったようです。幼いころは植民地時代のキュラソーにあって相当厳しい生活を強いられたようです。10歳のとき、彼は母親に連れられ、対岸のベネズエラに移り住みました。そして、ラ・グアイラという町で成長しました。
やがてピアルは船乗りになりました。相当頭の良い人だったようです。正規の学校教育を受けないまま、彼はひとかどの知識を身に着けました。西・仏・蘭の三ヶ国語を自由に操れました。
独立運動への参加
1797年、ピアルは独立運動に飛び込むことを決意します。そして「グアルとエスパーニャの陰謀」という反乱の企てに加担しますが、これは不成功に終わり、ピアルは生まれ故郷のキュラソーに逃げ込みます。
ベネズエラ独立運動の曙: ベネズエラ独立運動の初期の指導者はフランシスコ・ミランダという人です。ミランダは1750年にカラカスに生まれ、長じてスペイン軍将校となりました。ミランダはアメリカ独立戦争に参加し、祖国の独立こそが生涯の仕事と考えるようになります。その後フランス大革命に身を投じる中で、パリにラテンアメリカ解放を目指す政務委員会を設立します。94年には、ミランダの教えを受けたホセ・コルテス・デ・マダリアーガが、カラカスで独立を目指す最初の蜂起を開始します。
一方95年には、スペインで共和革命を企てたピコルネル,カンポマネスらがベネズエラに流刑となりますが、彼らはベネズエラに革命と共和思想の種をまきました。マヌエル・グアルとホセ・マリア・エスパーニャはその影響を受けた人たちです。
そのほかにも、ハイチの黒人反乱に参加したホセ・レオナルド・チリーノス(ムラート)と自由黒人のホセ・カリダド・ゴンサレスがコロで反乱を起こしています。この反乱はスペイン政府ばかりではなく、クリオージョのエリートにも攻撃の矛先を向けている点で、前二者とは色合いを異にしています。それから7年、今度はそのキュラソーで戦闘が始まりました。オランダが支配する島にイギリス軍が上陸したのです。島民は志願者を募り、民兵隊を組織し、抵抗を始めました。30歳のピアルもこの戦いに参加します。戦いは勝利しました。イギリス軍は駆逐されました。しかしその後に戻ってきたのは、あいも変わらないオランダ人支配者でした。
ハイチ黒人共和国との出会い
カルロス・マヌエル・ピアル
1807年、ピアルはハイチに渡りました。そして折から進行中の黒人による革命と国づくりを支援することになりました。彼はその経歴を生かして軍艦の艦長となりました。軍艦といってもハイチのことですからどの程度のものなのかわかりませんが。
当時のハイチは大変な状態でした。フランスとスペインが経済封鎖を強めるだけでなく、頼みの綱だったアメリカもフランスに義理立てして、ハイチ経済制裁に加わります。その中で元黒人奴隷だったクリストフらが島の北部に独立国を建て、共和国を攻撃するようになります。共和国の事実上の支配者ペションは自身ムラート(混血)で、一定の教育も受け進歩的な考えを持っていました。ボリーバルが亡命してきたときも支援を惜しみませんでした。ただしボリーバルが後年そのことに恩義を感じていたようには思えませんが(ハイチ年表参照)
ピアルの持つ人種間の平等と社会変革へのイメージは、ペションの農地改革を目の当たりにしたこの時期に形成されたのでしょう。彼の戦いはつねに、目の前のスペイン人支配者というよりも、イデオロギーとしての植民地主義、すなわちヨーロッパ中心主義と人種差別主義に向けられていたといわれます。
ベネズエラ独立運動への参加
ピアルは1806年のミランダのコロ上陸作戦には関与していません。しかし1810年ころから事態が風雲急を告げるようになると、黙ってはいられなくなりました。これまで三度も革命運動に参加し、小なりといえども軍艦の艦長を務めたベテランですから、周りも放ってはおきませんでした。
第一次ベネズエラ共和国: 1810年4月、ベネズエラの首都カラカスのクリオージョ(現地生まれの白人層)は、スペイン前国王への忠誠と、ナポレオンの支配する「スペイン政府」からの独立を宣言します。そしてロンドンで暮らしていたミランダ(当時すでに60歳)を呼び寄せ議長にすえます。この時ミランダを迎えに行ったのが、「青年部代表」格のボリーバルでした。
カラカスに独立政権が成立すると、彼はプエルト・カベヨの港に海軍将校として配属されました。そして艦長として数回にわたりスペイン艦船との戦闘を交えました。
第一ベネズエラ共和国は、1年あまりでスペイン軍に敗れ崩壊します。ピアルにとって最後の戦闘は1812年オリノコ河流域のソロンドの戦いでした。この戦いに敗れたピアルは、いったんトリニダードに逃げ込みました。
1812年7月、スペイン軍に敗れたミランダは囚われの身となり、4年後にスペインのカディスで獄死します.ボリーバルはキュラソーに逃げ込んだ後カルタヘナに移り軍を再編成します。
翌年、第二共和国が成立すると、ピアルはふたたびベネズエラに戻りました。しかも今度はたんなるテクノクラートではなく、陸軍大佐として政治的影響力を振るうことになりました。民心を集めたピアルは東部の要衝マトゥリンの防衛に成功し、リャノ平原一帯をスペインの手から解放させました。戦功を評価されたピアルは准将に昇進します。もう押しも押されもしない独立軍幹部です。
しかし明けて14年になると、戦況は一変します。リャネーロと呼ばれる平原部のメスティソたちは独立政府に反旗を翻し、親王制派のホセ・トマス・ボベスを指導者として独立軍と対抗するようになります。独立政権の白人優位主義を嫌ったためです。
孤独な戦い
14年9月、ボリーバルはベネズエラを離れ、コロンビアのカルタヘナへと向かいました。いまや少将となったピアルは、ただひとり王党派と対決しながら、バルセロナ、カラカス、クマナと転戦しました。エル・サラド川のボベス軍との直接対決では手痛い敗北を喫しました。いっぽう、ロス・カヨスへの進攻作戦では成功を収め、ロス・フライレスとカルパノでの会戦でも勝利しました。
白人優位の植民地主義と戦うために、独立戦争に参加しているピラルとしては、これらの戦いにはさぞかし心中複雑なものがあったことでしょう。映画「戦艦ポチョムキン」の有名なせりふ、「兄弟たちよ、お前たちの銃口は誰に向けられているのだ?」が脳裏に浮かびます。
1816年、ふたたび動き始めたピアルは、エル・フンカルでフランシスコ・トマス・モラレスの率いるスペイン軍を撃破しました。そこから、ピアルはグアヤナに向かって行進し始めました。目標はグアヤナ(オリノコ川流域の大平原)を全体として制圧することです。
私が思うに、これはもう完全な解放戦争です。確固としたイデオロギーを持ち、人民の支持を得た戦いは、もう絶対負けることはありません。彼は自らがカラードであることを誇りにしていました。彼の周りには多くの有色人種が結集してきました。そして圧倒的多数の有色人種住民がピアルへの支持を寄せていました。
1817年の初め、ピアルはグアヤナの中心都市サン・フェリクス・デ・アンゴストゥラを取り囲み、包囲戦に入りました。後は持久戦です。4月11日、アンゴストゥラを守備するスペインのミゲル・デラトー・イ・パンド将軍は、ついに白旗を掲げました。
対立点があらわに
アンゴストゥラ陥落はピラルにとっても絶頂期でした。アンゴストゥーラには独立軍の政府が置かれ、ボリーバルがその長となりました。ピラルは5月には陸軍総司令官の地位を獲得しました。しかしそれはボリーバルをふくむ白人高級軍人との対立の始まりに他ならなかったのです。
戦いが始まる前、有色人種は本国から派遣されたスペイン人の支配の下で差別され、苦しみを味わってきました。有色人種は独立戦争を戦うことによって、差別のない社会の実現を願ったのです。
ピアルは独立軍内での人種の平等を訴えました。事実、彼の部隊は多くのメスティソや黒人が集まっていました。しかし、ボリーバルをふくめほかの司令官はすべて白人でした。
彼は有色人種の社会的・政治的な権利を求め、その代表として、ピアル自らに、より大きな権限を要求しました。それは独立軍幹部の中に大きな軋轢を生み出すこととなりました。論争の末、ボリーバルはピアルに対して直接の統帥権を剥奪してしまいました。
無任の司令官となったピアルは、6月には退役をもとめ受理されました。しかし彼がアンゴストゥーラを去ることはありませんでした。軍務を離れ、束縛をとかれたピアルは、一介の政治家として、有色人種の政治的代表として独立軍政府幹部への働きかけを開始したのです。
逮捕、そして処刑
ピアルは白人クリオージョが指導部のすべてを構成するのは正しくないと主張しました。事実、彼がいなくなったことによって、軍幹部の中に非白人は一人もいなくなってしまったのです。
彼の主張に共鳴する軍幹部が増えてきました。前総司令官の訴えであり、第二共和国崩壊後も国内にとどまり戦い続け、グアヤナを解放した英雄の心からの訴えに耳を貸さない司令官はいなかったでしょう。しかしそれは、思わぬ方向に展開していきます。
やがてホセ・フェリクス・リバス、サンチァゴ・マリーノ、ホセ・フランシスコ・ベルムーデスらの将軍たちは、ボリーバルが独立運動を指導することに反対を唱えるようになりました。いわば権力争いの様相を呈してきたのです。
9月28日、ボリーバルはピアル逮捕を命じました。そして政府に対する不服従、反抗、陰謀の罪で裁判にかけるよう指示しました。陰謀というからには、複数のものがかかわっているのが当然ですが、この事件で逮捕されたのはピアル一人でした。ピアルはボリーバルが軍・政府の指導権を確立するための、いわばいけにえとして選ばれたのです。
10月15日、軍法会議はピアルがすべての起訴事実について有罪であるとの判決を下しました。そして死刑を宣告しました。最高司令官シモン・ボリーバルは判決を確認し、刑の執行を認可しました。
翌16日、前総司令官マヌエル・ピアルはアンゴストゥラの大聖堂の壁の前に立ち、銃殺隊によって処刑されました。ピアル43歳のことです。
ピアルの死をどう見るか
最後の結びの一言がウィキペディアとアフロキューバ・ウェブでは異なっています。ウィキペディアではこうなっています。
ボリーバルは処刑への立会いを断った。執務室で銃声を聞いたとき、ボリーバルは涙を浮かべ、そしてこう語った。"He derramado mi sangre" (私は私の血を流した)
しかしアフロキューバウェブの記事はもっと辛らつです。
彼の死を前にした熱い対立の数日間、ピアルは自ら明言した。「ボリーバルは私を好きでもなく、必要とも思わなかった。なぜなら私の肌の色、そしてアフリカ人としての血統が気に入らなかったからだ」
今のところ私はこう考えています。
ベネズエラ全土の解放にとって、アンゴストゥラの制圧は極めて大きな意義を持っています。しかしカラカスが制圧できたわけではありません。しかもカラカスをただ制圧するだけが目標ではなく、南米全体をどう制圧するかが究極的な課題なのです。
ものすごい大風呂敷ですが、いかにしてカラカスをとるかではなく、いかにカラカスをとれば、南米大陸を効果的に制圧できるかという観点から、作戦を論じなければならないのです。そのためには、まずもって白人クリオージョたちの団結が欠かせません。
ボリーバルはこのことを常に念頭においていました。ピラルにとって到達点だったアンゴストゥーラ制圧は、ボリーバルにとっては出発点に過ぎなかったのです。ベネズエラ独立も経過点に過ぎません。
権力争いを見る上では見過ごされがちですが、この時間軸上の食い違いというものは意外に対立の主要な争点となっていることが多いものです。