世界最強の軍を追い詰めたビエケスとプエルトリコ人民の闘い フリオ・ムリエンテ教授を迎えて札幌での連帯集会
2001年9月
@歴史
プエルトリコそのものが,広島県くらいの小さな島ですが,さらにその南東沖に浮かぶ小さな島です.島の人たちは愛情を込めて「イスラ・デ・ニーニャ」と呼んでいます.「赤ちゃんの島」という意味です.
元々はタイノと呼ばれる先住民が住んでいましたが,ヨーロッパ人の来襲とともに絶滅し,その後は海賊の基地になったりしていました.イギリス人は「カニの島」と呼んでいたそうです.
19世紀半ば頃から開発が進み,第二次大戦の直前には,砂糖農園と工場を中心に1万人以上が住んでいました.
1940年,米軍は戦争に備え,島を射爆場として接収.島の4分の3が強制的に取り上げられました.島の一番豊かな農地を奪われた島民は,基地に頼って生活するしかありませんでした.砂糖工場は閉鎖され,多くの島民が島を去りました.
52年には,酔っ払った海兵隊員が老人二人を殺害,54年には島民のパーティーに兵隊が乱入して,30人以上が負傷するなど,お定まりの基地犯罪も起きています.92年には,民家にほど近いところに爆弾が落とされ,あわや大惨事という事故もありました.
79年,相次ぐ被害に島の漁民が怒りを爆発させました.彼らは船団を組んで基地内に侵入.自らを盾として演習を中止させようと抗議行動を行ないました.このとき捕らえられた活動家のひとりは,刑務所内で虐待を受け変死しています.
83年,米議会は段階的な撤退案をまとめ,海軍もこれに同意しています.しかしこの約束は果たされませんでした.それどころか,演習の規模はますます拡大し,米軍のみかNATO軍まで演習を行なうようになりました.
A怒りの爆発
99年初め,二つの衝撃的な事実が明らかにされました.ひとつはプエルトリコ大学医学部の調査で,ビエケス島民にガンの発生率が高いことが明らかになりました.恐らく爆薬等の化学物質による汚染と思われます.もうひとつは,爆撃機による劣化ウラン弾の「誤射事件」です.ちょうど米軍はユーゴ空爆の真っ最中で,そのための訓練が行なわれていたのです.
住民の怒りは爆発寸前に達していました.そのとき海軍戦闘機による誤射事件が発生したのです.被害者デビッド・サエンスは,監視塔で着弾を確認しているとき,直撃弾を受け死亡しました.これで島民の怒りに火がつきました.
まず漁民が基地内にテントを張って,絶対阻止の動きを見せました.海軍は警察に排除を要求しますが,その暇もなく,さまざまな団体が次々と演習場内に侵入,人間の盾となりました.
ビエケスの人たちばかりではありません.プエルトリコ全体が海軍の横暴に抗議の声をあげ始めました.7月にはプエルトリコの首都サンフアンで8万人もの人を結集して抗議集会が持たれました.時の州知事ロセージョは,党派的には親米右派の立場ですが,演習中止を求める声明を発表します.
アメリカ国内における反響も強いものがありました.クリントン大統領の妻ヒラリー上院議員も,基地撤去を支持する発言を行ないます.プエルトリコ系移民の多いニューヨークでは,ヤンキースの試合に乱入したり,自由の女神の像でデモンストレーションを行なうなど,派手な行動が展開されました.
B米政府のごまかしと居座り
これを見たクリントン政権は,国防総省や海軍と相談の末,3年以内の撤退と住民投票という案を持ち出します.しかしその内容は,さまざまな条件がつけられ,83年の協定と同じく,抜け穴だらけのものでした.
これをロセージョ知事に押しつけた米政府は,2000年5月に演習を再開しようとします.
第一回の実力行使は,千人近い逮捕者を出して強行されました.しかし逮捕されても次から次へと演習場内に侵入する抗議者の前に,ほとんど満足な演習は出来ませんでした.
このとき米政府は,それまでの妥協的な態度を捨て,強硬方針に切り替えました.もっとも強硬な反対派である独立党を狙い撃ちにし,とくに再逮捕者の拘留期間をどんどん延長していったのです.連邦地裁がその片棒を担ぎました.8月,10月と演習が繰り返されるたびに,抵抗する側の反発も少しづつ弱まっていきました.
10月には,米議会が自ら決めた83年合意をかなぐり捨て,クリントンの妥協案さえ拒否する事実上の基地存続案を提示しました.しかしビエケスとプエルトリコの人々は,このような動きにおとなしく従うような態度はとりませんでした.
Cプエルトリコ人民が総ぐるみの抵抗
事態を大きく展開したのは,11月に行なわれたプエルトリコの総選挙です.この選挙では,ビエケス島民を裏切ってクリントンと協定を結んだロセ−ジョの後継者が落選.これに代わり軍事基地の即時・全面撤去を求めるカルデロン女史が新知事に就任しました.ビエケス市長選でも反基地派のセラノ・ロペスが勝利します.カルデロン新知事が就任挨拶で「独立党に敬意を払う.独立党を孤立させない」と述べたのは,きわめて印象的でした.まさに運動統一のカギはそこにあったのです.
プエルトリコ情勢を見たブッシュ新政権は,しばらく形勢を判断していました.しかし今年4月,ふたたび演習再開の方針を決めました.正面突破作戦に出たわけです.
プエルトリコ政府は直ちに反撃に出ました.騒音防止条例を州議会に緊急提出しました.プエルトリコの国土と周辺海域での騒音を出す作業を禁止する,という建前で演習を中止させようとしたのです.演習開始の1週間前,この条例案は成立しました.プエルトリコ州政府は,この出来たての条例を盾に,連邦地裁に演習中止の仮処分を求めます.
さすがに,この理屈は若干無理があるので,連邦地裁も「はいそうですか」とは受理できませんでした.提訴が却下されたのを見て,4月末,いよいよ海軍は演習を開始しました.
しかし海軍側の甘い予測は見事に裏切られました.島民とプエルトリコ市民,反戦活動家たちの抵抗は,昨年をはるかに越えた規模で広がっていました.ビエケス島民を代表するセラノ市長が,真っ先切って演習場内に飛び込んでいきました.アメリカからもニューヨーク選出の上院議員,ロバート・ケネディ・ジュニア弁護士,黒人運動家ジェシー・ジャクソンの奥さんなどが次々に演習場入りし,逮捕されます.
写真を見ると,捕まった方が胸を張って昂然としているのに,逮捕する側がすっかりしょげています.どっちが犯人かわかりません.これが今のビエケスにおける力関係を反映しているのでしょう.
D米政府・海軍をさらに追い詰める住民投票
ブッシュ政権は,基地撤去を示唆するかのような発言を行ないましたが,議会の保守派と軍事主義者は猛烈に抵抗しています.もっとも,意外に示し合せた芝居かもしれません.ビエケスとプエルトリコの人たちの反応をうかがう,観測気球かもしれません.
そんななか7月,カルデロン知事は,州独自に基地の行方を問う島民投票を実施しました.米政府が行なう予定の欺瞞的な住民投票の機先を制したものです.島民のほとんどが参加したこの投票で,基地の即時・全面撤去が圧倒的な支持を集めました.
この投票そのものに拘束力はありませんが,住民の多くが何らかの形で米軍基地とかかわりながら生きている,というこの島の実態を考えると,数字の示すものは重いと言えます.
ビエケス島には「光る海」という入り江があります.遠浅の白いさんご礁の海に,発光性の魚が集まって,夜になると海全体が光り輝くのだそうです.このような貴重な自然と健康な生活を子孫に残したいという島民の願いは,なにものにも代えがたいと言えるでしょう.
2001年5月2日 釈放歓迎集会での ビエケス市長、ダマソ・セラノ・ロペス氏の声明
私は美しい島ニーニャの市長です。
私は、みずからと子孫のために、尊厳と,よりよい生活をもとめて闘う人々を代表して発言します。
私は,合衆国海軍の爆撃という,ぶしつけで浅はかな行為によって、肉体と心をさいなまされている,我が島民と子供たちを代表して発言します。
私は,この7日間、4月25日から5月1日まで、自らの身体を盾として演習を阻止しようとしました.そのため,たくさんの仲間たちとともに、爆撃演習場に入りました。
私は,これまでも,海軍はビエケスから撤収すべきだと確信していました。それはいま,信念となりました.
演習に参加した軍艦が,私たちの島に焼夷弾を撃ち込み、徹底的に破壊し,立ち去る様を,この目にしたからです.そして、その武器で私たちにねらいをつける様をこの目にしたからです.
私は決して歩みを止めない、海軍がビエケス,私たちの「イスラ・デ・ニーニャ(赤ん坊の島)」を去るまで、ただ一歩たりとも後退しない! そのことを、心の底から誓いました。
ブッシュ大統領殿、
爆撃演習場に入るとは何と無責任な、とお考えかもしれません。しかし私はビエケス住民の市長なのです。私は,ビエケス住民が私に信任を与えてくれたところの義務を果たしているだけなのです。
私は住民の安全と健康、福祉という義務のために行動しました。人としての尊厳と、平和的生存権を防衛するため、私はこのように行動しました.これからも行動します。
大統領閣下、
私たちは,あなたが大統領として導く国家の市民です。私たちは合衆国市民です。
私は,市長として担うべき責務、すなわち、住民を守る責務を果たそうとしてきました。今度は、あなたがあなたの責務を果たすべき時だと思います。あと1分たりとも、海軍のビエケス駐留を許すのなら、あなたは,この島で起きている殺害と破壊に対して責任を負わねばなりません。
毒物、汚染、その他の危険により死亡し,病気になるビエケスの人が、一人また一人と現れるたびに、あなたの責任は重くなっていくのです。もうずっと前に停止されるべきジェノサイドを、あなたが止めようとしないのならば。
ブッシュ大統領殿、
合衆国軍の総司令官であるあなたに、あらためて求めます。私の島の住民、それはあなたの国民でもあります。その住民の安全のために行動されんことを、あらためて求めます。大統領閣下。
海軍が爆撃を停止し、ビエケスを撤収するまで、平和を求める私たちの闘いは続きます。ありがとうございました。