2000年1月

ビエケス島基地問題について

From: "Vieques Libre"

Summerized & Interpreted by Sho Suzuki

 

全米が注目するビエケス問題

 

いまビエケス島が話題になっています.日本AALAはこの島の問題を視察するために代表団を派遣することになりました.

大統領選でも争点の一つ

大統領選挙真っ盛りのアメリカでも,ビエケス島問題が大きな争点となっています.民主党の有力候補者であるビル・ブラッドレー元上院議員は,10月の選挙演説で,米海軍によるビエケス島射爆場の即時使用停止を求めました.

これに対しクリントンの後継者ゴア副大統領も,「クリントンに演習用の代替地を探すよう求める」と語りました.

ゴアの催促を受けたクリントンも精一杯の努力をして見せます.8月には『古くからの親友』である黒人牧師のジェシー・ジャクソンを現地に送り,基地問題への理解を示しました.

クリントンの『解決案』

クリントンは昨年11月末,「5年間で段階的に縮小する」という「解決案」を示しました.現在中止中の演習を春から再開するが,規模を大幅に縮小し,模擬弾のみの演習にとどめる.また4千万ドルの使用料をプエルトリコに支払うとするものです. しかしこの提案は,現地から総スカンを食うという思いもかけぬ結果となりました.

クリントン案の発表直後,プエルトリコ知事のペドロ・ロッセージョは,この提案を拒否と発表しました.ロッセージョは知る人ぞ知る親クリントン派,基地問題解決のためクリントンとサシで話したこともあります.

彼の談話によれば,個人的な会談の時のクリントンの話と,正式提案とは余りにかけ離れており,提案の良し悪しをうんぬんする前に,まずクリントンの人間性を問題にしたいとやったわけです.クリントンにとって最悪の結果です.

おそらく問題の根っこは,海軍の強硬な姿勢にあるものと思われます.クリントンが解決案を発表したその日,ジョンソン海軍参謀長は記者会見し,ビエケスに代わる実弾演習の基地はないとあらためて強調しました.大統領の顔に泥を塗るような仕打ちです.

 

ビエケス問題の背景

『民族の屈辱』の象徴

ビエケス島はプエルトリコ島の南東に位置しています.本島から約10キロの沖合いに浮かぶ面積150平方キロほどの小さな島です.プエルトリコそのものが日本の県一つくらいの面積ですから,アメリカから見たら小亀の上の孫亀くらいのものでしょう.

島は東西に長く南北の幅は狭くなっています.この島の東1/3が米海軍の射爆場,西1/3が弾薬庫となっています.9,300人の島民が住むのはわずかに真中の1/3,まさに沖縄を上回る基地の島です.

誇り高いプエルトリコ国民にとって,ビエケスは民族的屈辱の象徴でした.ビエケスが基地となる前,島は漁業・農業と観光で潤っていました.人口も今の倍以上,2万人を数えていました.いま島固有の産業は絶え間ない射撃訓練のために衰退し,島の失業率はつねに50%を超えています.貧困者は人口の72%に達しています.

ビエケス島基地の歴史

ビエケス島が軍事訓練基地となったのは41年,第二次大戦の始まった頃のことでした.この頃はファシズムに対する闘いということで全世界の人が団結していましたから,米軍の基地が作られることについては誰もが協力的でした.おかげで米軍は南北アメリカに数多くの基地を建設することができたのです.

これらの基地は,戦後米国がアメリカ大陸に覇権を確立するために大きな役割を果たしました.しかし各国の民族意識の高揚とともに,徐々にこれらの基地は撤去され,最後に残ったのがビエケスとパナマ,そしてキューバのグアンタナモということになりました.

別稿「プエルトリコ小史」でも触れていますが,プエルトリコは今でこそ米国の属国になっているものの,本来はキューバと同じラテン系の国です.島民はスペイン語を話し,ヨーロッパ文化に深くつながっています.

 

ビエケス島民の闘い

アンヘル・ロドリゲスの死

 島民も黙っていたわけではありません.70年代末には,漁民たちが基地反対闘争を起こしました. ことのきっかけは,またも誤爆でした.それまで上陸演習には隣の島クレブラが使われていたのですが,ある日,子供の遊んでいる海岸に艦砲射撃がおこなわれ,犠牲者が出たのです.

 島民の抗議に押され,上陸演習もビエケスに移されることになりました.ビエケスにとっては戦闘機の射爆訓練に加え,艦隊の上陸訓練まで始められることになったわけですから,黙ってはいられません.

 彼らは上陸演習のおこなわれるブルービーチで座り込み闘争を始めます.参加者21名はまもなく逮捕されましたが,そのうちの一人アンヘル・ロドリゲスは獄中で変死を遂げます.

 独立派はもちろん,ビエケスを絶えずプエルトリコ政治の争点に押し出そうとしてきました.81年には,ゲリラ組織「マチェテロス」(正式名称はボリンケン人民軍)が州兵空軍基地を連続爆破.この攻撃で航空機8機が大破,2機が損傷.4千万ドルの被害をあたえています.

1983年の現地政府と海軍との協定

 たかまるプエルトリコ人民の民族意識に危機感を感じた米国議会は,ビエケスの海軍基地を撤去するよう勧告する決議を採択しました.これにもとづいて,83年には現地政府と米海軍とのあいだに基地使用に関する協定が結ばれています.

この協定により,

1,基地使用をできるだけ限定し,爆弾,特に実弾の使用を控える.
2.基地内の希少生物や海洋生物の保護に努め,マングローブ林を痛めることのないよう配慮する.
3.基地の存在が島の経済の発展を阻害することがないよう勤める.経済発展に貢献できるよう援助し,電話,道路などインフラの発展に貢献し,島民の理解を深めることなどが義務付けられました.

海軍の裏切り

最大の問題は,この協定が真摯に実行されなかったことにあります.

それどころか,海軍は湾岸戦争,ユーゴ内戦と戦争が起こるたびに演習をエスカレートさせました.あげくの果てには『こんな良い演習場はない』といってNATO軍にまで基地を開放していたのです.

相次ぐ誤爆・誤射事件

こんな情況ですから,事故もしょっちゅうです.93年には戦闘機が誤って500ポンド爆弾を市街地近くに打ち込みました.98年には市内の住宅地に機銃掃射があり,住民が逃げまどう事件もありました.

 

99年,怒りの爆発

こんなやり方がいつまでも通用するはずはありません.99年,住民の不満は一気に爆発しました.

疫学調査でガン多発が明らかに

 その引き金の一つとなったのは,『米軍は劣化ウラン弾の実弾演習をやっているようだ』といううわさです.プエルトリコ大学公衆衛生学教室が住民の協力を得て実施した疫学調査では,驚くべき事実が浮かび上がりました.ビエケス島民のガンの発生率は本島住民に比べ27%も上回っているという結果です.

 2月になると,住民の訴えに基づき,公衆衛生省も調査を開始しました.プエルトリコ政府は 海軍に対し劣化ウラン弾使用の有無を問いただします.

 クリントンには怪文書が届きました.米軍が軍事演習をやめ,基地を撤廃しなければ,米国内各地で車爆弾によるテロを行うという脅迫です.当初マチェテーロスが疑われましたが,彼らは「その主張に対しては共感するが,我々はテロリストではない」として責任を否定しました.

デビッド・セインスの死

 島の内外が騒然としてきたところで,一気に運動が広がるきっかけとなった事件が発生します.

 4月19日,ビエケス島ではいつものように,艦載機によるミサイル発射訓練が行われていました.射爆場には着弾点を観測するための観測塔があります.そこに詰めていたのは島の民間人ガードマン達でした.

  日も暮れようとする時分,ある飛行機乗りが,何を思ったか観測塔に向けてミサイルをぶっ放したのです.二発の500ポンド爆弾により観測塔はこなごなになりました.この『事故』で,ガードマンの一人デビッド・セインス・ロドリゲスが死亡しました.その他にも4人が重傷を負いました.

 

基地占拠闘争の拡大

決死の抗議団が基地内で座り込み

 普段なら,このくらいの事件は関係者の泣き寝入りで終わっていたかもしれません.しかし臨界点寸前の状況のもとでこんな事件が起きれば,ただではすみません.

 セインスの死に怒りを沸騰させた島の青年たちは,決死隊を募り射爆場内に忍び込みました.彼らは着弾地点に侵入しテントを張り,「さあ殺せ」とばかりに居直りました.早速MPが出動し侵入者とにらみ合いを開始します.

ロッセージョ知事の決断

 翌日になると,事件は意外な展開を見せます.ふつうなら軍の要請を受けて地方警察が出動,若者達を排除して一巻の終わりということになるのですが,プエルトリコを司るロッセージョ知事が,抗議団の行動に理解を示し米軍を非難する側に回ったのです.

 ロッセージョは記者会見で,「米軍による軍事演習が環境を破壊し,9,400のビエケス島民の経済発展を阻害している」と述べます.

これはたんにロッセージョ個人の考えではありませんでした.まもなくプエルトリコ議会も,全会一致で,米国海兵隊のビエケス島爆撃演習の即時中止を求める決議を採択します.

俄然状況は変わりました.海軍は相当プエルトリコ人民を侮っていたのでしょう.目に見えないところで,ここまで事態が進んでいたことに気づかなかったのは,情報収集能力の欠除,端的に言えば「島民をなめていた」といわれても仕方ありません.

 

団結小屋ブーム

 政府・議会の姿勢に力づけられた青年達は,現地に団結小屋を建設,この丘を犠牲者の名にちなんでマウント・デビッドと名づけます.マウント・デビットはビエケス闘争の象徴となりました.そこにはプエルトリコのみならず,米本土からも青年たちが続々と結集し始めます.

 彼らは,夜闇にまぎれ上陸演習地ブルービーチに上陸.20年前の闘いを記念してロドリゲス海岸と命名しました.

 5月8日には独立党活動家がカルーチョ海岸に侵入,第二の監視所を立てました.名高い米議会乱入事件を含め50年の歴史をほこる独立党は,乾坤一擲,ビエケスの闘いにその存在のすべてをかけました.党委員長のルベン・ベリオスは,この基地での闘いに自らをあずけました.彼は「米軍が撤去するか,私が逮捕されるまで,ここにとどまりつづける」と発表します.

 ベリオスはただの左翼活動家ではありません.オックスフォードを卒業した弁護士で,プエルトリコ議会の上院議員でもあります.プエルトリコを代表するエリートです.中南米でエリートというのは日本の常識では理解できないところがありますが,むかしの殿様みたいなものでしょうか.

 ビエケス島のカトリック教会もヤジ(Yayi)海岸に第三の監視所を設置.併せて礼拝所も立てました.現在では演習場内に9つの団結小屋が『乱立』しています.漁民組合,教員組合,教会関係者,社会主義者などがたてたものです.

 その中でもセンターとなっているのは,やはり独立党の団結小屋です.ここで事務局長の役をこなしているのは一人の老婦人です.彼女の名はイスマエル・グアダルーペ,52年の合衆国議会乱入事件に参加し,長い獄中生活を送った戦士です.

 彼女はビエケス反対闘争のための横断組織,「ビエケス島援助と開発のための委員会」(CPRDV)の結成にあたり,大いにイニシアチブを発揮しました.最初に基地に潜入した若者たちも「委員会」の活動家でした.

 

次々と衝撃的事実が明らかに

 調査が進むにつれ,衝撃的な事実が明らかになってきました.5月末,海軍当局は,ビエケス島に於ける演習で,263発の劣化ウラン砲弾を誤って発射した事実を認めました.このうち回収された爆弾はわずか57発にとどまっています.残りの爆弾は実際に爆発したものと思われます.

 さらに7月には,1993年にナパーム弾や猛毒の化学兵器をビエケスで使用していたことを認めます. 

 一連の調査から明らかになったことは,海軍が冷戦「終結」後も,逆に軍事訓練を強化し,あまつさえNATO同盟軍に『ビエケスほど射撃訓練に適したところはない』と推薦し,基地を貸与するなど許せない態度を繰り返していることです.

 

 

プエルトリコ全土を巻き込む闘いへの発展

 

知事諮問委員会の報告

 5月,プエルトリコ知事ペドロ・ロセージョが諮問した「ビエケス海軍基地の影響に関する特別調査委員会」は,諮問を受けてわずか2ヶ月足らず,6月末には13項目の勧告からなる答申を知事あてに提出しました.答申は,1983年に米海軍とのあいだに交わした基地使用協定にもとづいて,それぞれの条項を検証するというスタイルをとっています.

 答申は,基地撤去,土壌汚染の回復と島民への返還などほぼすべての条項について,海軍が協定を遵守していないと指摘しています.さらに試爆の段階的縮小に関しては,米海軍が悪質な違反を犯していると指弾しています,

 最後に答申は,クリントンの出方しだいでは訴訟を起こすよう勧告までしています.

5万人を結集した現地大集会

 7月4日,アメリカの独立記念日を期して,5万人を越える人々が結集しました.「ビエケスと連帯する全プエルトリコ集会」です.すべての政治,宗教,市民団体が集会に協賛,漁民は船を連ねて海上デモを展開しました.その後も夏の間を通して,連日のように大規模なデモが続きました.

住民の闘いも盛り上がる

 これまで海軍よりといわれたビエケスの市長も「海軍のもたらしたさまざまな災難に驚いている」とのべ,基地占拠闘争を是認する方向に変わります.

8月1日に開かれたビエケス島民集会は,25の住民団体が参加し成功しました.集会は海軍と米国大統領,国連およびプエルトリコ知事に「最後通牒」を送りました.そのあとのデモはマウント・デビッドまで侵入します.

米国内における関心の高まり

5万人の大集会は,米国内でも衝撃を呼び起こしました.全国ネットのテレビでも,ビエケス問題が取り上げられるようになりました.

上院軍事委員会内の「準備および管理支援小委員会」は,ビエケス問題に関する公聴会を開催します. 有毒物質および疾病管理局 (ATSDR)は,「ビエケス住民のあいだにガンの発生率が高いとする報告に対し,健康評価が必要であり,現地調査を行う」と決定しました.

ハーバード大学ではすでに40人の教授がビエケス署名に賛同しています.なかにはガルブレイズや複数のノーベル賞受賞者も含まれます.彼らの説得を受け,ゴア副大統領,フロリダ州知事ブッシュ,ニューヨーク市長ジュリアーニ,ヒラリー・クリントンも海軍の撤退を支持しています.

リビンラ・ビダ・ロカ」の歌手リッキー・マーチンも,クリントンとの会見時に爆撃中止を訴えました.「この問題ではプエルトリコは心一つになっている.そして僕もその一人だ」と記者に語っています.

米政府・軍部の対応

これを受けたクリントン大統領は,ビエケス島における海軍基地の影響を調べる委員会を設置すると発表します. この委員会は4人から構成され,うち3人は軍の高官でした.答申はひどいものでした.多少の制限をおこないつつも,向こう5年間は現状のまま使用し,その後のことはその時に考えるというものです.この「居直りの論理」の根拠となっているのが代替地問題です.

10月18日,国防総省のビエケスの軍事演習に関する諮問機関は「海軍は5年以内にビエケスを撤去,それまでに爆弾訓練を漸減すべきである」と勧告しました.しかしよく読めば,ほんとうはそれとは全く逆のことを言っていることが分かります.

彼らは住民の言い分をすべて認めた上で,「ただし代替地が選定されることを条件とする」と一文をつけ加えるのです.この報告は国防総省のホームページで読むことができます.

この答申が11月のクリントン提案の下敷きとなって行くわけです.

海軍の抵抗

このように情況が四面楚歌となっていくなかでも,海軍の姿勢は頑なでした.

もともと基地を返還する気など,さらさらありません.オコンナー提督は「ビエケスは海軍にとって大学のようなものだ」とまで述べています.

83年の協定でも基地の段階的縮小で合意していますが,最初から空手形で,いざとなれば「代替地」を盾に開き直ろうという魂胆です.

さらに訓練再開を強行しようと,空母アイゼンハワーをビエケスに向かわせたり,地元警察に占拠者の排除を要請したりしています.

これに対し,プエルトリコの警察長官は,射爆場内に入り込んだ抗議団の排除に手を貸すつもりはないと述べました.現地の争議団も春以降の立ち退きを拒否すると発表します.

訓練再開が予定されている春に向けて現地の緊張は高まっています.情勢は予断を許しません.

シャナハン海軍退役提督という人は,海軍の姿勢を批判してこのように述べています. 「第二次大戦の最中でもない限り,いっぽうで実弾射撃をする基地に他方で上陸訓練を行うなど,常識的に見て有り得ない」

 

今後の展望

基地の完全撤去以外に問題解決策はありません.そして島民の自主的な経済・社会再建に向けて関係各方面が協力を惜しまないことです.とりわけ海軍が60年間の被害に対する補償をおこなうことが重要です.

CPRDVはビエケス復興に向け,いくつかの提案をおこなっています.なかでも重要なのが「土地公社」(LAND TRUST)の設立です.

この公社は返還された射爆場を島民が利用可能になるよう整備すること,島民がその土地で自活できるよう,教育・訓練を施すこと,観光・工場などの誘致のための法的環境づくりに従事することになります.