アフガンについての簡単な解説

民族自決と統合を求めて

1999年10月12日      

 

アフガニスタンというと,ほとんどみなさんにはなじみのない国と思います.今回,せっかくアフガンの方が講演されるということなので,少し皆さんに紹介します.といっても私もまったくの素人で,聞きかじり程度ですが…

 

アフガニスタンという国

アフガンは内陸国で,海抜4,500メートル,ヒマラヤに続くヒンズークシの山並みと砂漠,そして山の麓のオアシスや渓谷からなる国です.

複雑な地形から,多くの部族,多くの言語に分かれていますが,大きくいうと国の真中を走るヒンズークシ山系の北と南に分けることができます.南はパキスタンにつながる砂漠地帯で,この国の人口の半数を占めるパシュトン族が住んでいます.首都カブールから北側と西側には,それ以外の種族が入り交じっていますが,多くはイランと同じペルシア系の人たちで,宗教もイスラム教シーア派です.これに対しパシュトン族はパキスタンと同じスンニ派です.国の北方,旧ソ連領と接するあたりにはタジキスタン,ウズベキスタンと同じトルキスタン系の人たちが暮らしています.

 

ソ連侵略に至る経過

アフガンはガンダーラの昔から東西を結ぶ交通の要衝でした.それだけに他国の侵略もあいつぎ,一時はモンゴル帝国の支配下に入るなどの歴史もあります.しかし海上貿易が盛んになるにつれ,近代以後は忘れ去られた地域となっていました.

1747年,カンダハルのパシュトン人アーマド・シャー・ドゥラニが「パシュトン連合」を結成します.これがアフガン国家の始まりとされます.

19世紀に入ると,英国とロシアがアフガンの支配権を奪おうとしました.英国は1838年の第一次アフガン戦争,1878年の第二次アフガン戦争で勝利し,アフガンを保護領としました.

しかしバシュトン人を中心とするアフガン人民は,英国の支配に激しく抵抗しました.そして,第一次世界大戦後の第三次アフガン戦争を通じてアフガンは独立を勝ち取ったのです.当初は近代化が試みられた時代もありましたが,伝統的な部族勢力やイスラム勢力からの反発により潰えました.その後は封建的な国王の下,前近代的な政治・経済が続いていました.

1970年代初め,この国にも近代化の風が吹いてきます.ザーヒル・シャー国王の従兄弟にあたるモハメド・ダウドが王制を打倒し,自らを大統領とする共和国を宣言しました.ダウドは親ソ派として知られた人物で,クーデターの背景にはソ連の存在がありました.

ダウドはイスラム勢力を押さえ込み,土地改革に着手しましたが,保守勢力の抵抗は根強いものがありました.いっぽうソ連は,アフガン人民民主党 (PDPA)という「政党」を通じてダウドに干渉をくり返しました.この干渉に対抗するため,ダウドは対ソ自立と親欧米の姿勢に転換.PDPA系の閣僚を更迭するいっぽう,パキスタンやイラン,サウジなどとの接触を試みるようになります.そして78年4月にはついにPDPA弾圧を開始しました.

このようなダウドの動きに反発したPDPA系の軍人はクーデターをおこし,タラキを首班とする左翼政権を樹立します.タラキはさらに徹底した土地改革を目指しますが,これは国内の階級対立をさらに激化させるだけの結果となりました.

タラキに代わったアミン軍事政権は,露骨な親ソ政策と宗教弾圧策を採ったため,宗教関係者,封建地主層,さらにその背後にいるパキスタンやイラン,さらに米国などの怒りを買い孤立します.アミンは強硬策でこれを乗り切ろうとし,カルマル,タラキら政府内のPDPA幹部を放逐し新内閣を組閣しようとしました.

 

ソ連軍のアフガン侵攻

いまから20年前,クリスマスの日,突如ソ連の大軍が国境を越え,アフガンに攻め込みます.国民に不人気のアミンに代え,ソ連のいうことならなんでも聞く人物としてカルマルが指名され,政権につくことになりました.

各地でソ連の占領に反対する蜂起があいつぎました.ソ連軍は東部農村を中心に,大規模なゲリラ掃討作戦を展開.この結果,パキスタンへ逃げる難民は,最高時一日あたり5千人に達したといわれます.

残った若者はイスラムの大義をかけて立ち上がります.彼らはこの闘いを聖戦(ジハード)と呼び,聖戦を戦う者は聖戦士(ムジャヒディン)と呼ばれるようになりました.とくにカブール東北方パンシール渓谷に陣取るマスード派は,アミン時代にすでに一定の支配区を確立して反政府運動をしていたので,とりわけ強力に抵抗を続けました.82年には三万のソ連兵を迎え撃ち,8カ月の闘いのすえ撃退しています.

またパシュトン族はパキスタンに逃れた難民を巻き込み,ヘクマティアルを指導者に影響力を拡大します.しかし土着的なゲリラ諸勢力のあいだで,相互の連絡や統一への動きはほとんど皆無でした.

ゲリラ勢力の背後にはパキスタン軍の情報部(ISI)がいました.ISIは聖戦士の組織化、訓練、武器・弾薬の調達・配分、戦略立案など,ほとんどすべてについて指導的役割を担ったといわれます.

(ヘクマティアルについて一言つけ加えておきたいと思います.この人物こそ,混沌としたアフガンを読み解く一つのカギといえるからです.彼はカブール大学の学生時代,当時結成されたばかりのアフガン人民民主党 (PDPA)に参加し,先鋭的活動家となっていきました.彼はPDPAと学生自治会の主導権を争っていた中国派運動の指導者を刺し殺します.いったん当局に捕らえられたものの,PDPAが政府の主導権を握るようになるとあっさりと逃亡,パキスタンに亡命します.この後どういう訳か,今度はイスラム原理派の指導者として登場するのです.しかし彼のバックに誰がいたかを見れば,この謎は解けます.口でどんなことを言おうと,彼の本質はパキスタン軍部の意向の代弁者に過ぎません.彼の原理主義は「営業用」に過ぎないし,パキスタン軍部も原理主義を利用しているに過ぎません)

 この抵抗運動を軍事的・経済的に支えたのがCIAの「ランボー」たちでした.ソ連占領下の10年間,アフガンゲリラ(正確にはパキスタン軍部)には年間平均2億5千万ドル,最大時にはなんと7億ドルの資金が流入します.さらに米国はゲリラの資金源として,アフガンの麻薬栽培を黙認しました.アフガンは「黄金の三日月地帯」と呼ばれ,世界最大の阿片の産地となっていきます.

アフガンは19世紀以来伝統的に,南下を図るロシアとそれを阻止しようとする欧州列強とのあいだで,一種の緩衝国となってきました.米国やパキスタンにとって,ソ連がアフガンを支配することは,インド洋へのアクセスを与えることになり,到底容認することはできません.また同じ時期イランでおきた革命のように,石油の供給基地・中東を不安定化することも避けなければなりません.

米国にはもう一つの秘められた狙いがありました.アフガンを「ソ連にとってのベトナム」にすることです.この作戦は図にあたり,ソ連はアフガン支配に失敗したばかりでなく,これを機に自己崩壊を遂げていきます.

このような大国の思惑とは別に,各国のイスラム原理派も国際連帯に乗り出します.5千人の連帯戦士は「アフガニスト」と呼ばれ,イスラム青年の熱狂的な尊敬を集めました.なかでも有名なのがサウジアラビア出身のオサマ・ビン・ラディンです.彼は大金持ちの息子でありながら,コーランの教えに忠実に従い,10年間にわたり戦闘に直接参加し,無私の貢献をおこないました.アフガン戦争の英雄となった彼は,イスラム世界で強い影響力を発揮するようになります.

 

ソ連撤退後の混乱

それから10年,最大時12万の兵をつぎ込んだソ連は,ついに撤退を余儀なくされます.まもなくソ連は崩壊し,中央アジア諸国はいくつかの共和国に分解していきます.

残されたナジブラ政権は一党独裁を放棄,閣僚35人のうち26人を非党員から登用するなどの手段で必死の延命を図ります.米国もこれを受け入れ,国連監視下での自由選挙を呼びかけました.しかし事態は米国の思惑を乗り越える形で進んでいきます.イスラム勢力は,社会主義の傾向を持つ政権が継続することに我慢できませんでした.

1992年,ナジブラ政権に対して抗争を続けてきたマスードらのイスラム勢力が,ラバニを押し立て首都カブールに迫りました.頼みとするドスタム将軍の戦線離脱により,ナジブラ政権は崩壊していきます.この後パキスタンの仲介で,15から20を数えるゲリラ諸勢力の連合政権が成立します.

ゲリラ,宗教指導者,知識人50人からなる統治評議会は「アフガニスタン・イスラム共和国」を宣言しました.しかしアフガンは,元の平和なアフガンに戻ることはありませんでした.多民族の寄り合い国家という弱点が露呈されます.国家をどう再建するかをめぐり,厳格なイスラム化を主張するヘクマティアル派と,政教分離して近代民主政治を導入しようとするカブール派が対立しました.しかし理論上の対立はうわべだけで,実体はゲリラ各派の権力争いでした.それだけにこの対立は抜き差しならないものとなります.

とくに人口の多数を占めながら,ラバニ=マスードの北部政権の風下におかれがちなパシュトン族の支配権要求は執拗でした.その背後にはアフガンを属国化しようとするパキスタン軍部の意図が働いていました.

厄介なことに,財政的破産にもかかわらず,武器と無鉄砲な若者だけは有り余るほどあるのです.一度は連合政権の首相となったパシュトンの指導者ヘクマティアルは,自らの要求が入れられないと見るや政権を離脱.カブールとパキスタンを結ぶ要衝を確保し,カブール市内に向けロケット砲を無差別に打ち込みます.いっぽう,ナジブラ政権で軍司令官を務めたタジク系のドスタム将軍は,自らの支配区を半ば独立させ,政府の意向を無視するようになります.

 

無政府状態と国民の苦しみ

弱体な政府の下,国内は四分五裂し,元ゲリラたちはかつてのムジャヒディン(聖戦士)としての誇りを失い山賊化していきます.勝手に住民から税金を取り立て,道路を封鎖しては通行料をせしめ,強盗・強姦などおよそコーランの教えとは反対のやりほうだいです.

ソ連の占領と抵抗戦争の時代,イランやパキスタンへの難民は6百万を数えました.99年現在もなお,260万人の難民が国外生活を送っています.さらに事実上の無政府状態となったアフガンでは,2百万の人々が国内難民となって流浪の旅を続けているといわれます.国内には今なお1千万個といわれる地雷が埋められたままであり,被害は後を絶ちません.

かつて小パリと謳われたカブールの町は,無差別砲撃により2万5千人が死亡。辺り一面瓦礫の原と化しています.

あれほどまでに力を入れてゲリラを援助した米国は,いまや無用となったこの国を見捨てました.ランボーは銀幕の彼方に消えてしまいました.

 

タリバンの華麗な登場

直接の被害者となったカブールの市民はいうまでもなく,いまや山賊のなかでも最悪の存在となったヘクマティアル元首相への批判の声が高まります.

その声はやがて,ヘクマティアルの最大の支援者であるパキスタンへの批判にもつながるようになります.そしてもう一つの隣国イランに対する期待が高まるようになります.

パキスタンは,ソ連から分離した中央アジア諸国へ進出し,その盟主になろうとする野望を抱いていました.
そのためにヘクマティアルによる国家統一を密かに支援していたのです.ところが,国家統一どころか国民からの非難が集中し,果ては自身にも火の粉が降り懸かる情況になって,ヘクマティアルに見切りをつけました.

94年11月,タリバンが衝撃的なデビューを飾ります.パキスタンから中央アジアへ向かうトラック隊が,ヘクマティアル派ゲリラの検問を受け立ち往生します.そこへ,どこからともなくやってきたタリバン部隊が,あっという間にゲリラをけちらします.「ランボー」そのままです.タリバンはその後わずか1カ月のうちにヘクマティアル派を一掃し,南部平原地帯を席巻します.

ということになっていますが,これはパキスタンによる「やらせ」だった可能性が濃厚です.タリバンは,この事件の1カ月前にヘクマティアル派の武器庫を襲い,大量の武器(少なくとも1万8千丁のカラシニコフ)を入手しましたが,これもパキスタンからの直接援助を隠すためのカムフラージュだといわれています.

タリバンという言葉は「神学生」を表すそうです.難民キャンプにモスクが作られ,その中の神学校(マドラサ)で少年たちが教育を受けました.その少年たちが,タリバンに組織されたというわけです.軍事組織としてのタリバンは,元戦士で片目のモハマッド・オマールが,カンダハルの神学校の教え子を組織して創設されたとされています.オマールは現在「イスラム最高指導者」に任じられています.軍事指導者はムハマド・ラバニという人物です(ラバニ元大統領とは無縁).しかしその実体は意識的に隠されているようです.彼らの軍事参謀には,90年のクーデター失敗後パキスタンに亡命した,タナイ元国防相ら政府軍元幹部が配置されているといわれます.

 

タリバンの挫折と分裂固定化

タリバンは至る所で「神話」を作り出しました.厳格な規律で地域の治安を回復し,ケシの栽培を禁止し,戦争に疲れた住民の歓迎を受けました.各地からタリバン入りを志願する青年が集まり,戦力はあっという間に数万に拡大します.

95年にはいると,タリバンは北進を開始します.彼らがまず血祭りに上げたのは,おなじパシュトン族のヘクマティアルの部隊でした.かつてカブールを震撼させたヘクマティアルも,パキスタンの後ろ盾を失ったいま,タリバンの前に成すすべもなく敗走していきます.

そのあとヘラートなど中部の各都市を制圧したタリバンは、96年9月,何回かの攻撃の後ついに首都カブールの制圧に成功しました.しかしタリバン政権を承認したのはパキスタン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦など一部のイスラム諸国に限られていました.ラバニ大統領やマスード国防相,ドスタム将軍はそれぞれ故郷に立てこもり,タリバンへの抵抗を続けます.

翌97年,満を持したタリバンは,1月のマスード派攻撃,5月のドスタム派攻撃,7月と三波にわたり北部討伐軍を繰り出しました.しかしそのいずれもが失敗に終わります.

とくに5月のドスタム派攻撃は悲惨なものでした.密かにドスタムの副官マリクを味方につけ,本拠地マザリ・シャリフなど北部諸州を制圧したのもつかの間,ドスタムが仕掛けた罠に見事にはまってしまいました.その結果は,精鋭三千人が捕らえられ,五千人が袋小路に追い込まれるという惨敗ぶりでした.6月のマスード派平定作戦は完全に裏をかかれました.タリバン主力が本拠地を攻撃するあいだに,迂回したマスード部隊がカブールを猛攻撃.8月末にはタリバンに首都退去を要求するに至ります.

ただマスード派には首都奪還の意図はなく,その後カブール北方数十キロのあたりでにらみ合いが続きました.ラバニのアフガニスタン・イスラム共和国に対し,タリバンは「アフガニスタン・イスラム首長国」を主張,国際的承認を競うことになります.

98年7月,準備を整えたタリバンはふたたび北部進撃を開始しました.今度は簡単にマザリ・シャリフを陥落.マスード派拠点を除くほぼ全土を支配下におくことになりました.97年の失敗は相当頭に来たらしく,マザリシャリフ制圧後,現地の人4千人を虐殺したともいわれます.

両者の力関係からみて,この状態がかなりの長期間続くものと見られます. 99年3月にはタリバンとマスード派の間で停戦が成立し,共同政府を作ることも検討されましたが,その後戦闘が再開され,今も和解には至っていません.
 

アフガンの今をどうとらえるか

アフガン戦争は大きな国際的影響を残しました.なかでも最大のものがソ連の崩壊です.文字どおり世界がひっくり返りました.ロシアはその後も相変わらず,チェチェンやグルジアで覇権主義を振りかざしていますが,少なくとも外国領に主権を侵害してまで干渉することはなくなりました.

もう一つがイスラム原理主義の拡大です.率直に言ってこれを肯定的に評価するのは困難です.女性を生殖器の付属物としてしか見ない思想も大問題ですが,20年も続いた戦争のなかでの精神病理の反映としての側面もあり,すべての責任を原理主義に帰すのは不正確だろうと思います.

アフガンに義勇兵として参加した原理派兵士は,今世界に散らばってテロ活動を展開しています.その(少なくとも)精神的な指導者がオサマ・ビン・ラディンです.アフガンを闘った彼は,その後多国籍軍の湾岸戦争,ソマリアへの干渉を経験するなかで,反米主義を思想の中核とするようになります.

オサマはこう語っています.「アメリカはアラブで莫大な利益を上げている。アメリカ政府はその金を使って、年間30億ドルもの大金をイスラエルに送り、イスラエルはその金を使ってパレスチナ人を殺しているのだ!」

それだけを見れば部分的には共感できるものがありますが,それが「アメリカ人みな殺し宣言」になるのでは困ります.98年2月、オサマは『ユダヤ人と十字軍に対する聖戦のためのイスラム国際戦線』を結成.すべてのアメリカ人を殺害せよとのファトワを発します.ファトワというのは,オーム真理教用語でいえば「ポアせよ」という宗教的命令です.

しかし彼以上に問題なのが,彼をキャンプにかくまい,事実上援助を与えているパキスタンです.去年の8月クリントンが「適切でない」行為を隠すために,カンダハルの武装訓練キャンプを爆撃しました.後に明らかになったのは,このキャンプがパキスタンのカシミール侵攻のための訓練施設でもあったということです.

今や核軍事大国となったパキスタンが,イスラム原理派を利用しながらアフガン支配やカシミール制圧を狙っていることは,原理派よりはるかに重大な問題です.そのパキスタンをイラン牽制のために利用し,紛争の種を蒔くアメリカも,おなじ穴の狢です.

アフガンの情勢は依然として流動的で見通しがつきません.しかし大事なことは,周辺国や超大国が身勝手な干渉を慎み,アフガン国民の自主的・平和的な再建を助けることではないでしょうか.