2013年9月作成

エジプト革命の動き

 長沢栄治さんが朝日に以下のように書いている。中長期のトレンドを踏まえた卓見だろうと思う。二つの過程が同時進行しているのである。

 今回の「政変」は、革命なのか、クーデターなのか。このよく挙げられる疑問に答えるなら、革命でもあり、クーデターでもある、ということになる。軍部の実力行使は、クーデターそのものであるが、今回の「政変」は、革命プロセスの大きな節目となる一部でもあるからだ。

現在も続いているのは「革命」なのである。これまでの世界史上の革命がそうであったように、善悪の基準で測れるものではないし、またきれいごとでは済まな い。“民主化を求めたはずの人たちが血迷って、いったい何をしているのでしょう”、というような「西側」の「上から目線」で語ってしまうのでは、何も分からな い。 

 

2011年

2011年1月

1月25日、最初の大規模デモ。

2011年2月

2月11日 18日間に亘る騒乱とデモの末ムバラク政権が崩壊。大規模デモが発生した日付をとって「1月25日」革命と呼ばれる。「国事」の運営は軍最高評議会(SCAF))に託される。

2月12日 SCAF、第4号声明を発表。自由で民主的な国家を建設すると宣言。タンタウィ陸軍元帥(国防相)を議長に指名。

2月13日 SCAF、憲法と人民議会を停止する。行政トップには前政権のシャフィーク首相が残留。SCAFの主導で「真相究明委員会」や「憲法改正草案作成委員会」が結成される。

2月16日 デモに参加した8グループが中心となり、エジプト革命理事評議会が設立される。

2月19日 ムスリム同胞団のリベラル分派ワサト党が合法化される。

2月26日 憲法改正委員会が憲法改正案を提示。@大統領の任期を6年から4年に短縮し、かつ2期に制限する。A大統領選挙に立候補できる要件を見直し。B非常事態宣言の発布・維持・更新権限の制限などをふくむ。

2月 与党国民民主党は事実上の解体。「自由公正党」(ムスリム同胞団)など多くの新党が結成された。

2月 「革命青年連合」が結成される。宗教に関係する主張は極力控えながらイスラームとコプトの融和を掲げ、革命の継続を目標とする。

2011年3月

3月3日 シャフィークに代わり、反ムバラク派のイサーム・シャラフが首相に就任。シャフィーク退陣を求めるデモは回避される。

3月19日 憲法改正案の是非を問う国民投票が成立。投票率は41%、77%の賛成で承認される。

3月28日 政党法が改正される。5千人以上の発起人署名を添えて申請すれば認可されることとなる。

2011年4月

4月8日 革命青年連合のデモ隊に青年将校グループが合流。SCAFの解散をもとめる。軍はこのデモを弾圧。

4月13日 軍は革命青年連合の圧力を受けムバラクの腐敗に対する捜査を開始すると発表。

2011年5月

5月24日 ムバラクと家族に対する起訴が決定。

2011年6月

6月6日 ムスリム同胞団の自由公正党が政党としての認可を受ける。自由公正党は13の政党に呼びかけ「エジプトのための国民同盟」を結成し、きたるべき選挙に備える。

2011年7月

7月8日 革命青年連合を中心に73の組織がタハリール広場での座り込みを開始。

7月23日 タハリール広場の青年がSCAF本部に向けデモ行進。警官隊と衝突する(アアッバーシーヤ事件)

2011年8月

 

2011年9月

9月9日 革命青年連合のデモに紛れ込んだ挑発分子がイスラエル大使館を襲撃。これを機にタハリール広場の選挙の長期化に対する不満が拡大する。

9月30日 革命青年連合の呼びかけたタハリール広場の占拠行動に、ナセリスト党やタガンムウ党、「変化のための国民団体」が反発を強める。

2011年10月

10月1日 選挙法で与野党間に妥協が成立。2/3を比例区、1/3を小選挙区とすることで合意。

2011年11月

11月 軍の憲法基本原則が明らかにされる。軍事予算は議会の審議を通さない、草案作成員会の半数は軍人とするなど。

11月18日 自由公正党の呼びかけた「基本原則に反対する100万人デモ」がおこなわれる。3日間で死者20人以上、1100人以上の負傷者を出す。

11月21日 抗議行動の盛り上がりを受けシャラフ首相が辞任。カマル・ガンズーリが暫定内閣を組織。

11月28日 人民議会選挙が始まる。地域毎に3回に分けて実施された(3回目は翌年1月)

2011年12月

12月20日 ムスリム同胞団がSCAFに対するデモを展開。挑発分子が治安部隊と衝突し、十数名の死者を出す。

年度末の経済状況: 外国からの投資及び観光収入が激減したために、経常収支の大幅赤字へとつながった。
外貨準備高が大幅に減少し、安全基準とされる輸入の3カ月分にまで落ち込んだ。
失業率は革命以前より約3%増の12.6%を記録した。
GDP成長率はリーマンショック前の7.2%、革命前の5.1%から1.8%へと落ち込んでいる。(日本大使館ホームページ)

 

 

2012年

2012年1月

1月3日 人民議会(下院)選挙が終了。自由公正党が第 1党、イスラム教の原点回帰を目指すサラフィー主義を奉じるヌール党が第2党となる。旧政権側はほとんど議席を獲得できず。

票の7割は農村部にある。識字率はエジプト全体で60%であるが農村では35%にとどまる。農村
部では選挙の意味も十分に理解されておらず、すべてにおいて宗教的価値に重きが置かれている(鈴木恵美論文)

2012年2月

2月 諮問評議会(上院)選挙が施行される。下院と同様に自由公正党とヌール党が第 1 党、第2党を占めた。 同胞団は「大統領選には独自候補者を擁立しない」と宣言する。

2月 外貨準備高が157億ドルまで減少。適正基準の下限に迫る。

2012年3月

3月末 同胞団、公約を覆し大統領選挙での独自候補擁立を決定。シャーティル同胞団副団長と、自由公正党のムルシー党首が立候補を届け出る。(ムルシーは控え投手)

3月 軍の大統領候補はスレイマーン前副大統領(元情報機関トップ、陸軍少将)派とシャフィーク元首相(空軍中将)派に分裂。

2012年4月

4月 選挙管理委員会による事前審査で、スレイマーン、シャーティルを含む10人が失格となり、結果として軍はシャフィーク、同胞団はムルシーに一本化される。

2012年5月

5月23日 大統領選挙が実施される。同胞団のムルシー候補が 24%の得票で首位、旧政権高官であるシャフィーク元首相が僅差で2位となるが、いずれも過半数に届かず決選投票にもつれ込む。

5月31日 サダト元大統領の暗殺以来続いていた非常事態宣言が解除される。令状なしに逮捕を認めていた同宣言は旧政権による抑圧の象徴だった。

2012年6月

6月14日 最高憲法裁判所は人民議会選挙の結果を事実上無効とする判決。これを受けて人民議会は解散され、立法権は人民議会から軍最高評議会に移譲される。大統領選挙で敗れても軍の権益を保持する狙いとされる。

6月16日 決選投票が実施される。ムルシー候補がシャフィーク候補を僅差で破る。ムルシーは「国民全体の大統領になる」として、同胞団及び自由公正党から脱退。

6月30日 ムルシーは大統領に就任。軍最高評議会の暫定統治は終結し、民政移管が完了する。敗北したシャフィーク元首相はUAE に事実上の亡命。

6月 ムバラク前大統領に終身刑判決。

2012年7月

7月 ムルシー大統領、人民議会の再招集を命じる。しかし最高憲法裁判所は再招集を認めない判断を下す。

2012年8月

8月2日 新内閣が発足。暫定軍事政権のタンターウィー(軍最高評議会議長)は国防相に留任。

8月2日 カンディール首相率いる内閣が発足。省庁出身者や大学教授など多くの知識人・技術の専門家で構成されるテクノクラート集団。

8月5日 シナイ半島で、武装集団の襲撃によりエジプト軍兵士16人が死亡。

8月12日 ムルシー大統領、タンターウィー国防相とアーナーン参謀総長を突然解任する。襲撃事件の責任を口実に強行したものとされる。両名は大統領顧問に任命される。

8月 大統領は暫定憲法を発布。立法権を軍最高評議会から自身へ移管する。これにより、大統領は行政権と立法権の両方を掌握する。

8月 政府系新聞の人事権を行使し、編集長を交代させる。以後、政府系紙各紙は政権批判を自粛。一方、政権批判を行う新聞の編集長が中傷罪で一時逮捕される。

8月 ムルシー大統領、非同盟諸国首脳会議への参加のためイランを訪問。

2012年9月

2012年10月

2012年11月

11月12日 21の政党・グループが呼びかけたデモが全国各地で取り組まれる。カイロでは同胞団がデモ隊に殴り込み、100人以上の負傷者が出る。

11月16日 カンディール首相、ガザに入りハマス政権のハニヤ首相と会談。イスラエルによる占領継続を強く批判する。ハニヤ首相は「革命後の新しいエジプトを象徴する訪問だ」と称賛。

11月22日 モルシ大統領が「権力集中宣言」。新たな暫定憲法を発布し、「新憲法制定と次期人民議会選挙の実施まで、大統領の決定は司法を含む一切の干渉を受けない」と宣言する。

11月 政権が主導する憲法制定委員会、イスラム色を強めた新憲法を起草。国民投票へと動く。

2012年12月

12月4日 非政府系紙各紙が抗議の一斉休刊。ムルシーの強権姿勢に対して抗議デモが激化。

12月8日 ムルシー大統領、新たな暫定憲法を撤回。

12月 新憲法の是非を問う国民投票が実施される。世俗主義勢力は反対票の投票を呼びかけたが、賛成多数で新憲法は承認される。

12年末 治安状態が大幅に悪化。殺人は前年比約2・5倍の1885件、強盗は約3・4倍の2611件、誘拐も約2・5倍の258件に達する。

 

2013年

2013年1月

1月6日 カンディール内閣の大幅改造。不安定化する政治・経済情勢に対応。

1月11日 ムバラク前大統領のやり直し裁判が開始される。

1月25日 革命2年を契機に大規模なデモが発生。モルシ大統領はポートサイドなど北部3県に非常事態を宣言。

2013年2月

2月 イランのアフマディネジャード大統領がイスラム協力機構首脳会議への出席のためエジプト訪問。ムルシー大統領は空港でアフマディネジャード大統領を出迎えたが、公式な首脳会談は行わず。

2013年3月

3月末 エジプト、イラン人観光客の受け入れを開始。エジプト・イラン間の定期便の運行も開始される。エジプトのサラフィー主義者が抗議行動を激化させる。

2013年4月

4月下旬 民間調査機関「バシーラ」の世論調査。モルシ大統領の支持率は、就任当初の72%から30%まで低下する。強権的な手法に対する非難も高まる。

4月末現在 失業者数は約343万人、失業率は12%を超える。失業者は革命前より100万人以上の増加。基礎食料を中心に物価も上昇。

2013年5月

5月1日 13人の青年が立ち上げた新組織“反抗”、大統領不信任と早期選挙実施を求める署名活動を開始。

5月7日 内閣の大幅改造。9人を入れ替え、同胞団のメンバーをさらに増やす。

5.13 「4月6日運動」、モルシ支持を撤回し辞任要求運動に加わる。活動家やジャーナリストが名誉毀損などの容疑で次々に逮捕される。

5.29 「反乱」が記者会見。署名数は3週間で「700万人分」に達したと発表。フェイスブックや口コミを通じて一気に広がる。

2013年6月

6月16日 モルシ大統領、南部の観光地ルクソール県の知事に「イスラム集団」幹部を任命。観光業者の反発を受け辞退。(イスラム集団は観光客ら62人が死亡した無差別テロ事件の犯人)

6月20日 大統領不信署名が目標の1500万筆を突破。

6月25日 モルシ大統領がテレビ演説。早期大統領選挙の実施を求める野党勢力との対決姿勢をとる。

6月26日

6月26日 “反抗”グループ、新たな政治組織「6月30日戦線」を立ち上げたと発表。

6月26日 「国民戦線」の代表サバヒは「6月30日には、ムスリム同胞団の強権支配を終わらせ、革命を再び前進させる新たな波をつくろう」と呼びかける。

6月26日 夜に入り、約1万人がタハリール広場に集結。

6月26日 モルシ大統領がテレビ演説。政策について一定の反省を示しつつも、「選挙で示された民意を無視しようとする勢力がいる」と反対派との対峙を打ち出す。

6月27日 野党勢力「国民救済連合」、大統領は過ちの深刻さを認識していない」と批判。30日のデモへの参加の意を表明。

6月28日 アレクサンドリアで両勢力の衝突。巻き込まれた米国人男性ら2人が死亡する。

6月28日 同胞団はイッティハーディーヤ大統領宮殿近くのラバ・アダウィーヤ・モスク前で座り込みを開始。

6月29日 “反抗”の署名運動、目標の1500万人を大きく超える2200万人の賛同を獲得。

6月30日

6月30日 「反乱」(タマルド)の主催する大集会。タハリール広場に多くの民衆が集まりモルシー退陣を求める。集会は、2日までに退陣の意思表明がなければ大統領宮殿にデモ隊が向かうと宣言。

6月30日 全土で大統領退陣と早期選挙実施を求めるデモ。「革命」時を上回る数百万人が参加する。

6月30日 モルシ大統領、英紙ガーディアンとのインタビュー。自らが民主的な選挙で選ばれたことを強調し、辞任する考えがないと述べる。

6月30日夜 大統領報道官、「デモの要求は尊重するが、対話が必要だ」と述べる。

6月30日 同胞団本部前で抗議活動をしていた反大統領派に対する銃撃で8人が死亡。同胞団ナンバー2のシャーテルが銃撃を指示したとされる。暴徒化したデモ隊の一部がカイロ郊外の同胞団本部を襲撃し火を放つ。

6月 非政府組織「ナディム人権センター」、1月から5月の間に282件の拷問が行われ、161人が死亡したと発表。

2013年7月

7月1日

7月1日 主要野党勢力「国民救済戦線」や「4月6日運動」がデモ継続を呼びかける。

7月1日 アムル外相はじめ5閣僚が辞表を提出する。

7月1日 軍最高評議会のシシ議長(国防相)が、48時間内に「国民の要求」に応えるよう大統領に“最後通告”を発する。

軍最高評議会声明: 反大統 領派の運動は国内はもとより国際的にも称賛された。時間を浪費すればそれだけ国民の分裂や衝突が激しくなる。大統領は48時間以内に各政治勢力との間で事 態収拾のための合意を達成すべきだ。これに失敗した場合、軍は今後の政治プロセスに関する「工程表」を発表する。われわれが(一昨年のように)政治や政権 運営に携わることはない。

7月1日 警察を管轄する内務省、軍の表明を「完全に支持する」と表明。

7月1日夕 エジプト国旗を下げた軍のヘリコプター編隊が、タハリール広場の上空を旋回飛行。デモ隊への連帯の意思を示す。

7月1日 軍はエジプト中部ファイユーム県の庁舎を占拠。同胞団の知事の権限を剥奪する。

7月1日 同胞団指導部、最後通告は軍による「クーデター」だとし、「これを阻止するために殉教者となれ」と、団員に流血の覚悟を求める。

7月1日 軍の態度表明に対し、反モルシ勢力のなかで意見が分かれる。“反抗”は、「軍の歴史的役割は国民の側に立つことにある」と表明。「4月6日運動」は、「工程表はすでにできている。軍は国防の任務に専念すべきだ」とする。

7月2日

7月2日 大統領府報道官2人が辞任。辞表を提出した閣僚は6人に達する。

7月2日 モルシー大統領とシーシー国防相(国軍トップ)が2度にわたり会談。

7月2日 カイロで、大統領辞任をもとめる100万人の集会とデモ。

7月2日 大統領府は2日、軍の提案を拒否する声明を発表。最後通告を撤回するよう求める。

7月2日夜 モルシー大統領、国民向けにテレビ演説。「国民に選挙で選ばれた責任を果たす。正統性を守るためなら命も惜しくない」と語る。

7月2日夜 カイロ大学前で同胞団と治安部隊との間で激しい衝突。

7月2日夜 48時間を過ぎ、軍が行程表を発表。

7月3日

7月3日深夜 モルシ大統領、「軍が行程表を発表したことはクーデターそのものであり、完全に拒否する」と表明。今後も自らが大統領だと主張し、国民に対し「クーデター」に対抗するよう訴える。

7月3日 モルシ大統領、軍の超法規的措置により事実上解任される。

7月3日夜、テレビでシシ軍最高評議会議長が今後の「政治行程表」に関する声明を発表。現行憲法を一時停止したうえで、早期に大統領選挙を実施することとなる。

7月3日夜 タハリール広場には数十万人が集まり、大統領解任を喜び合う。

7月3日 同胞団と反大統領デモ隊が各地で衝突。少なくとも14人が死亡、約100人が負傷する。

7月4日

7月4日 最高憲法裁判所のアドリー・マンスール長官が暫定大統領に就任。

7月4日 同胞団はモルシ氏がひきつづき大統領職にあると主張。軍の行動はクーデターだと非難。モルシ支持の大規模デモを呼びかける。

7月4日 マンスールが就任宣誓。「エジプトの革命派の人々が国のいたる所で声を上げた。世界に対し力強さを示した彼らに敬意を表する」と述べる。また「同胞団も国民の一部であり参加を歓迎する」と国民的和解を訴える。

7月4日 トルコのダウトオール外相、「選挙で選ばれた政権が軍事クーデターで打倒されるのは認められない」と批判。

7月4日 アムル外相(モルシ解任直前に辞任)、ケリー米国務長官など複数国の外相とカイロ駐在の各国大使に連絡。「軍の行動は国民の反政府デモに導かれたものであり、政治的な役割はない。これはクーデターとは正反対のものだ」と強調する。

7月5日

7月5日 タハリール広場付近で同胞団と反モルシ派が衝突。2人が死亡。衝突はエジプト各地で発生し、アレクサンドリアで14人が死亡するなど死者は少なくとも30人に達する。

7月5日 同胞団指導者バディア、デモで演説し「モルシ復権までデモを続ける」と発言。

7月5日 米国務省のサキ報道官、エジプト各地の衝突を「非難する」と表明。全ての指導者に対して、暴力を阻止するよう求める。

7月8日 マンスール暫定大統領、33条からなる暫定憲法を発表する。

7月8日 共和国防衛隊本部前で同胞団デモ隊と治安部隊が銃撃戦。治安部隊4人を含む57人が死亡。

7月9日 マンスール暫定大統領(最高憲法裁判所長官)、ビブラウイを首相に任命。

7月10日 マンスール暫定大統領、「憲法宣言」を公布。

7月10日 検察当局、治安部隊との衝突を扇動した容疑で同胞団最高指導者バディアらの逮捕を命じる

7月10日 同胞団、「われわれはクーデターを行ったものたちとは取引しない」とし、暫定政権による入閣要請を拒否。

7月16日 ベブラウィ首相率いる暫定内閣が発足。各分野の専門家が中心の「実務型」となる。シシ国防相(軍最高評議会議長)とイブラヒム内相が前政権から残留。

7月16日 同胞団は「内閣は軍の戦車によってもたらされたもの」とし、入閣を拒否。抗議行動を展開する。治安部隊との衝突で7人が死亡、260人が負傷する。

7月24日 マンスール暫定大統領、「国民和解協議」を始める。同胞団は参加を拒否。

7月26日 カイロのタハリール広場などで「反テロ・反暴力」の大規模デモ。シーシ国防相・副首相が国民に呼びかけたもので、軍によるデモの動員は初めて。

7月26日 タマルド(反乱)、「反テロのデモへの参加は国民の義務である」と支持し、「全同胞団指導者の拘束を求める」と訴える。

7月26日 イブラヒム内相、同胞団の座り込みは「近いうちに法律に従って一掃されるだろう」と発言。治安部隊が強制排除に乗り出す可能性を示唆。

7月26日 検察当局、「スパイ容疑」でモルシ前大統領に15日間の拘束命令。ハマスがエジプトで破壊活動を行うのを助けたとされる。米国やEUはムルシの釈放を求める。

7月27日 カイロ郊外ナセルシティーで治安部隊と同胞団との衝突。72人が死亡する。

2013年8月

8月1日 内務省、速やかに座り込みを終了するよう求める声明。同胞団は強制排除の意思表示だとし、反発を強める。

8月2日 エルバラダイ副大統領、「現在の最優先課題は暴力の停止である」とし、同胞団との対話の必要性を強調。

8月3日 ベブラウィ首相、治安の回復を訴えると同時に、「和解の必要性ははっきりしている。いかなる国民も新たな政治生活から排除されてはならない」と強調。

8月3日 ファハミ外相がエジプト訪問中のバーンズ米国務副長官と会談。暴力を否定する限りいかなる政治勢力も排除しないとの方針を表明。

8月7日 米国など外交代表団、同胞団に対する説得活動を断念。同胞団はモスクやカイロ大学前で数千人規模の座り込みを続ける。

8月11日 同胞団はアズハル・モスク指導者のアフマド・タイイブによる調停案を拒否。当面の政治的解決の道が絶たれる。同胞団は「アズハル・モスクが犯罪の隠れ蓑となっている」と非難。

8月11日 同胞団はナスル・シティのラービア・アダウィーヤ広場とギーザのナフダ広場の要塞化に着手。

8月14日

8月14日 非常事態令が発動される。治安当局がムスリム同胞団のカイロでの座り込みを強制排除する。死者数は421人にのぼる。

8月14日 ベブラウィ首相、「混乱と病院や警察署などへの襲撃が蔓延しており、事態は容認の限度を超えていた」と述べる。

8月14日 エルバラダイ外務担当副大統領がデモ隊の弾圧に抗議して辞表を提出。

8月15日

8月15日 同胞団、政府庁舎や警察署、キリスト教会に対する襲撃を続ける。

座り込み排除に続く16時間のうちに104件の暴力行為が実行された。 財務省本庁舎やギザの県庁舎が焼き討ちされた他、警察署と駐在所など31か所、治安部隊の建物も破壊され、車や戦車など燃やされる。18のキリスト教会、 修道院、キリスト教徒の学校3件、住居25件が襲撃された。(中東マガジン

8月15日 内務省は、政府庁舎に対する攻撃には実弾で対処すると声明。

8月15日 青年組織「反抗」、同胞団の破壊活動から政府庁舎や教会を守るため、「監視グループ」を結成するよう呼びかける。

8月15日 軍がタハリール広場を封鎖。

8月15日 米主要紙は15日、社説で一斉にエジプト軍事援助の中止を求める。イスラエル、サウジアラビア、UAEなどは、地域の不安定化をもたらすとの声。

8月15日 オバマ米大統領、強制排除を激しく非難。エジプト軍との合同軍事演習を中止すると発表。

8月15日 国連安全保障理事会、「全当事者に対し暴力を停止し、最大限に自制するよう」もとめる。パンギムン事務総長は、治安当局によるモルシ派の強制排除を「最も強い言葉で非難する」と声明。

8月16日

8月16日 エジプト政府、オバマ発言は「事実」に基づいておらず、暴力的な集団を勢いづかせるものと批判。

8月16日 同胞団は、強制排除で数百人が死亡したとし、全国的な「怒りの百万人デモ」を呼びかける。

8月16日 同胞団は「クーデター体制を拒否することは宗教的、国民的、道徳的義務となっており、放棄することはありえない」と声明。今後1週間にわたり全土で連日デモに取り組むと宣言。

8月16日 ムスリム同胞団、「怒りの金曜日」デモを展開。この日だけで少なくとも80人が死亡。全土で15の警察署が襲撃され、少なくとも警察官24人が殺害される。

8月16日 国内の34の人権団体が同胞団を非難する共同声明。「同胞団は国民に対し過剰な暴力を加え、国家を混沌に陥れようとしている」とする。

8月16日 コプト教会、「武装テロリスト集団と対峙している軍や警察、組織を強く支持する」と表明。

同胞団のデモにより焼き尽くされた跡

8月17日

8月17日 マンスール暫定大統領の政治顧問が記者会見。「われわれは宗教に名を借りたテロや暴力から国民を守らなければならない」「エジプト国民は過去のどの時期よりも、共通の敵を前にして団結している」と表明。

8月17日 ビブラウィ首相、多数の警察署や政府系庁舎を襲撃している同胞団グループと「和解することはできない」と言明。

8月17日 カイロ中心部のラムセス広場近くのモスクで立てこもっていた数百人の同胞団が、治安部隊との銃撃戦の末排除される。

8月18日 軍トップのシシ国防相(第1副首相兼任)、同胞団を含む全国民が今後の政治プロセスに加わるよう訴える。同時に暴力に訴える同胞団員は徹底して鎮圧する姿勢を示す。

赤旗によると、この日の閣議では激論が闘わされた。ベブラウィ首相が同胞団に対する解散命 令の実施を提案。エルディン副首相が、非常事態令を早期に解除し、全国民の政治参加を保証するようもとめる。ファハミ外相は6月30日以降の衝突に関する 調査委員会を設置するようもとめる。

8月18日 ムスリム同胞団が大規模な抗議デモ。カイロでは規模を縮小するなどの動き。

8月18日 刑務所に向け移送中の同胞団員36人が脱走。治安部隊により射殺される。

8月18日 バラダーイ、強制排除に抗議し副大統領を辞任。ウィーンに向かう。

8月19日 同胞団、カイロ郊外や北部アレクサンドリアなどで夜間外出禁止令を破り決行。

8月20日 エジプト治安当局、同胞団の最高指導者バディア団長を逮捕。ほかにもシャーテル副団長や自由公正党のカタトニ党首らを暴力扇動の容疑で逮捕。同胞団は強硬派のエザットを暫定団長に任命。

8月20日 青年組織「反抗」、「バディア氏逮捕は、革命の道を前進し、テロとのたたかいをすすめるうえで重要な一歩となった」と評価する。

 


雑駁な印象だが、それがクーデターであったことは間違いないし、モルシ政権の打倒がクーデターという形式をとったことは正しいとはいえない。

クーデターという手段に訴えなくても、政権の崩壊は時間の問題であったし、そのようにすべきだったのである。

ただそれがより平和的な移行をもたらしたか否かは分からない。いずれにせよモルシはやめる気はなかったし、政権維持のために暴力を用いる可能性はあったからである。

その上で、二つの問題を提起しておきたい。

まず我々はエジプトの民衆が抱いた同胞団に対する強い危機感を共有しなくてはいけない。問題の根源はムルシの失政ではなく、同胞団の邪悪さである。そこにすべての出発点がある。

無論、同胞団とそれを支持した広範な民衆とは分けて考えなければならない。しかしそのことによって同胞団の邪悪さは免罪できないのである。それは合法的に政権を獲得したからといってナチスを免罪できないのと同じだ。

もうひとつ、8月14日を境として、状況は明らかに変わったということである。彼らは明らかに強制排除を待ち構え、それを機に社会全体を標的とする攻撃に打って出た。

そこに至る経緯がいかなるものであるにせよ、いま彼らの正統性を擁護することは明らかに間違っていると思う。

エル・バラダイは、“国際人”らしい盛大な最後っ屁を放って、ウィーンへと逃げ去った。しかしエジプトの民はそこから逃れることはできない。災難には立ち向かうしかないのである。