パレスチナ年表に一緒に入れていましたが、あまり事項が多すぎて、本来の流れが分からなくなるため、別表としました。基本としては1975年から90年までですが、若干前後に伸びています。
ちょっとヒズボラに比重が行き過ぎていてヒズボラ年表みたいですが、ご容赦の程を。
ヒズボラの輝ける伝統からすれば、アサドに肩入れしてシリアの民衆弾圧の側に回っているのはきわめて残念なことです。最近は国会議員先生になって、SUVなんか乗り回して堕落してしまったとの噂もチラホラと聞こえてきます。
6月 PLOとレバノン政府,南部レバノンの「アルクブ地区」を訓連基地として使用することで合意.
9.05 ファタハとPFLPの合同チーム「黒い9月」,ミュンヘン・オリンピックに参加したイスラエルの選手11人を人質にとり立てこもる.ミュンヘン空港の滑走路で西ドイツ特殊部隊と銃撃戦となり,ゲリラ5人,人質9人が犠牲となる.
9月 イスラエル軍3000人,レバノン南部に侵入.パレスチナ難民キャンプを襲撃し数百人を殺害.ベイルート・ダマスカス間の国道に大量報復爆撃を加える.
4.10 イスラエル特殊部隊がベイルートのPLO本部を奇襲.「黒い九月」事件に関与したPLO幹部三人を殺害.
10.06 第4次中東戦争(10月戦争)開始.エジプト軍がスエズ運河を渡りバーレブ・ラインを突破.同時にシリアも戦闘開始.
10月 アラブ首脳会議(ラバト会議)においてPLOは,パレスチナ人の唯一の合法的代表として認知される。
11月 パレスチナ、国連におけるオブザーバーの資格を獲得する。
1975年4月 第一次レバノン内戦の開始
4月13日 アイン・ルンマーネ事件が発生。銃撃戦により27名が死亡。レバノン内戦の始まりとされている。
ベイルート郊外南部のアイン・ルンマーネ地区のキリスト教会で集会が行われていた。この時PLO支持者達のバスが教会前を通りかかり、興奮していたPLO支持者が教会に発砲した。居合わせたファランヘ党のメンバーがこれに応戦し銃撃戦に発展した。 |
4.14 衝突はトリポリ、サイーダにも拡大。100名以上が死亡する。不毛の内戦の始まりとなる。
4.16 レバノン両派の衝突は、アラブ連盟事務総長とシリア外相の調停工作で一旦停戦。
5.13 ファランヘの党員4名が何者かに射殺される。ファランヘはPLO事務所を襲撃。
5.19深夜 ベイルート東部デクタワー地区(マロン派支配区)で、パレスチナ・ゲリラとファランヘ党 武装グループとの戦闘。
5.23 内閣が衝突の責任を取って辞任。右派の軍人政権が成立する。これに対し、イスラム教徒・左派政党などが全土で激烈な反対運動を展開。ドゥルーズ派の指導者カマール・ジュンブラートは、親ソ親PLOの立場を取り、宗派の違いを越えた汎アラブ主義を唱える。
5.26 軍人政権も3日間で総辞職。左右双方の民兵組織が抗争を繰り広げる。各組織がベイルート市内のホテルを占拠・要塞化したためホテル戦争と呼ばれる。
7月 「剥奪された者たちの運動」が憲章を採択、「パレスチナは,運動の中心であり,その解放は我々の基本的義務である.またシオニズムは,レバノンの未来に対する脅威である」と宣言。シーア派の武装組織「レバノン抵抗大隊」(略称アマル)を創設。のちに運動そのものが「アマル運動」と呼ばれるようになる。
イマム・ムーサー・サドル: 60年、イランからシーア派の宗教指導者としてレバノンに入る。「剥奪された者たちの運動」を組織。シーア派は人口比では最大のセクトだが、政治的にはこれまで疎外されてきた。 |
1月 シャムーン元大統領派の民兵「タイガー」が,パレスチナ難民キャンプ「タルザータル」(人口3万人)を包囲.PLOの全面介入により包囲は排除される.
1月 この頃、両派の抗争は左派有意に傾き、ファランヘ党などのマロン派民兵組織は東ベイルートやジュニエなどに閉じ込められる。
1.20 レバノンのPLO化を恐れるシリア政府、「ダマスカス合意」と呼ばれる政治改革案を提示する。内戦以前のレバノンの力関係の維持・固定をめざすもので、ドゥルーズ派やPLOなど左派の反感を買う。
3月11日 シリアの介入を嫌うレバノン国軍のアハダブ准将(イスラーム)がクーデター.シリア軍との交戦状態に入る.
4月 シリアは、“レバノン政府の要請を受け”軍事介入を決定。米国の仲介で"レッドライン協定"を結んだ上、ベイルートに進駐。
5月 シリア、周辺諸国の反発を抑えるため、中東各国にレバノンへの軍の派遣を要請してアラブ平和維持軍を設置、自らのレバノン介入を正当化する。
5月08日 シリア軍の統制下に臨時内閣が組織される。閣議決定によってエリアル・サルキスが暫定大統領に選ばれる。大統領がアラブ平和維持軍(実体はシリア軍)を指揮する形をとる.
6月 PLOはシリアに対してレバノンへの介入停止を要求.シリア軍はパレスチナ難民キャンプを攻撃することで応える.ジュンブラートはシリアを裏切り者と非難。イラクもPLOへの批判を開始.
8.12 タルザータルPLO難民キャンプの虐殺。シリア軍によりパレスチナ人500名が生き埋めにされ,400人が死亡.(この記載は間違っていると思われる。調査中)
レバノン・フォース: ファランヘ党を中心に・自由党・タンジーム党・レバノン防衛隊の武装部門が合併。反シリア・反パレスチナを標榜する。ファランへ若手のバシール・ジェマイエルが司令官となる。 |
9月26日 パレスチナゲリラ、シリアの首都ダマスカスのホテルを襲撃。シリア軍は24時間にわたるPLOへの攻撃を開始。PLOはダマスカス西方の山岳地帯からの撤収を余儀なくされる.
10.25 第8回アラブ首脳会議がカイロで開催。シリアのレバノン進駐を了承。PLOに「レバノン主権の尊重」を認めさせる。
3月 イスラム勢力の中心的役割をはたしてきた国民進歩戦線の指導者カマール・ジュンブラットが暗殺される。ジュンブラットは少数派のドルーズ派出身でありながら、社会進歩党党首としてPLOや左派勢力とも良好な関係を築いてきた。
2月 LF部隊がシリア軍に武力挑発。シリア軍は"レッドライン協定"を無視し東ベイルート市街まで追撃。イスラエルはこれをレッドライン協定の違反と判断。レバノン南部侵攻作戦を発動する。
3月15日 イスラエル、特殊部隊と空軍機を出動させ南部侵攻を開始。PLOをロケット砲の射程圏外まで追い出す。
リタニ作戦(Operation Litani): リタニはレバノン南部を流れる川の名前。7日間の戦闘でイスラエル軍死者は37 人。一方,パレスチナ人とレバノン人は1100 人以上が死亡し,その大半が一般市民であった。 |
3月 イスラエルは南レバノンを「安全保障地帯」と名づけ、そのまま居座りを図る。
安全保障地帯(Security Zone): リタニ川以南のレバノン領がふくまれる。レバノンの総面積約11% におよぶ。住民の大半を占めたシーア派は移住を余儀なくされた。 |
78年 イスラエル軍、国連の介入により撤退。国連は戦闘停止と住民保護のためUNIFIL(国連南レバノン暫定軍)が派遣されるが、実効支配はできず。
78年 イスラエル、「自由レバノン軍」をでっち上げ、リタニ川以南の間接支配を続行する。
自由レバノン軍: 反PLO・反シリア・親イスラエルを唱える結成された。レバノン正規軍東部軍管区司令官のサード・ハダット少佐が司令官に就任。のちに「南レバノン軍」に改称。 |
8月 アマルの指導者サドル、リビアを訪問中に失踪。弁護士のナビー・ベリリが後継者となり、シーア派の利益を追求する世俗的政策を推進。
10月 イランでシャー体制が崩壊し,イスラム革命が勝利する。アマル運動は戦闘員500名を革命前夜のイランへ派遣。非ホメイニ派と行動を共にする。
78年 アラブ平和維持軍は撤退したが、シリア軍だけはそのままレバノンに駐留
レバノンの戦力配置 |
2月 イラン革命政府、レバノンのシーア派を支援するため、パスダラン(イラン革命防衛隊)を送り込む。アマルはパスダランの援助を断り、シリアに接近。
12月 ソビエトのアフガニスタン侵攻が開始。アラブ世界では民族主義に代わってイスラム主義が勢力を伸ばす。
79年 シリアとイラクとの統一協議が失敗に終わる。アサドはイランに軸足を移す。
9月22日 イラン・イラク戦争が始まる。シリアはイランを支持する姿勢を明確に示す。(敵の敵は味方という論理)2月 シリア政府、国内のスンニ派勢力に厳しい弾圧。シリア・ムスリム同胞団の活動家を虐殺する。「ハマーの虐殺」と呼ばれる。
81年 レバノン・フォースとシリア軍とのあいだに戦闘が発生。イスラエル国防軍は、すぐさまレバノンとの国境を越え、シリア軍と交戦。ベイルートのPLO本部オフィスを含む拠点を爆撃する。
81年 イスラエル・シリア間の緊張は、米国の仲介によりいったん沈静化する。シリアは武装闘争派への統制を強化。
81年 PLOはレバノン国内からイスラエルへ向け、ロケット攻撃を激化させる。
81年末 イランでの非ホメイニ派粛清を機に、アマル運動とイランとの関係が断絶。アマル運動はイラン革命防衛隊の派遣を拒否。
3月 イランとシリア、通商協定および軍事協定を締結。シリア、イランと連携しイラクに対する側面攻撃を開始。
6月03日 ロンドン駐在のイスラエル大使シェロモ・アルゴブが、元PLO(アブ・ニダル)のテロリストに襲われる。PLOはすぐさま事件との関わりを否定。シャロン国防大臣は開戦を煽る。
6月06日 イスラエルがPLO殲滅を主目的とする「ガリラヤの平和」作戦を開始。レバノンのSLAとレバノン・フォース、さらに南部アマルの一部も加わる。
6月11日 イランの第27 旅団先遣隊と国軍第58 レンジャー部隊が空路ダマスカスへと到着した。シリアはレバノン入国を許可せず、そのままイランに戻った(とされる)。
6月12日 イスラエル軍がベイルート近郊に到達しシリア軍と戦車戦。国産戦車メルカバがソ連の最新鋭戦車T-72を多数撃破。
6月13日 イスラエル国防軍はPLOの本部がある西ベイルートへ突入。PLOに国外退去を迫り、砲撃で威圧する。その後、包囲は2ヶ月におよぶ。
レバノン国民抵抗戦線: PLOとともにベイルート市街戦を戦った武装組織として、「レバノン国民抵抗戦線」がある。これには進歩社会党、レバノン共産主義行動組織、アマル運動の左派(レバノン・ムスリム・ウラマー連合)が加わった。 |
6月20日 アマル運動の指導部、PLO の対イスラエル闘争を無謀な冒険主義であると批判。IDF に対する抵抗を続けていた一部のアマル運動のメンバーに対して,武器を置き,戦闘を停止するように命令。
6月 アマルの副書記長フセイン・ムサウィの率いるベイルート周辺のアマル部隊が、イスラエル軍と衝突。
6月 サルキス大統領、「救国委員会」を組織。米政権の仲介のもと,外交を通してイスラエルとの停戦交渉によって事態の解決を目指す。アマルも委員会への参加を決定。
7月 フセイン・ムサウィー、「イスラエルとの停戦は反イスラーム的行為である」と執行部を批判して追放される。手兵を率いイスラミック・アマルを設立する。
7月 ベカア高原のバアルベックで3つの親ホメイニ・グループが結集し「9名委員会」が創設される。のちに単一組織「ヒズボラ」に発展。
8月21日 最後まで抵抗を続けたPLOが停戦に応じる。アラファト議長はアメリカの仲介でベイルートを放棄を決定。アメリカはパレスチナ人難民の安全保障を目的とする平和維持軍の派遣に同意する。
8月30日 アラファト議長らPLO指導部および主力部隊1万2千人がチュニジアへ向かう。残留パレスチナ難民保護のため、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアなどが多国籍軍の派遣を決定。
8月 大統領選挙。LFの若手指導者バシール・ジェマイエルが当選。イスラム教左派は選挙をボイコットする。
8月 フサイン・ムーサウィーら、ダマスカスで駐シリア・イラン大使と会見し、支援を取り付ける。イラン革命政府は革命防衛隊,少なくとも800 名をレバノンへ派遣。ムスリム・ウラマー連合への軍事訓練を開始する。
9月14日 バシール・ジェマイエル、LF本部に仕掛けられた爆弾で暗殺される。 シリア情報部の工作員の犯行といわれる。これに代わり兄のアミーン・ジェマイエルが大統領に就任。
9月 エリー・ホベイカ率いるLF部隊、ジェマイエル暗殺に対する報復のためパレスチナ難民キャンプを襲撃。サブラーおよびシャティーラのパレスチナ難民キャンプに侵入し大量虐殺を行う。シャロン国防相はこれを黙認。イスラエル国防軍は虐殺を止められなかった責任でシャロン国防大臣を解任。
82年秋 LFと再建された政府軍がレバノン中部のシューフ山地を攻撃。「山岳戦争」と呼ばれる。
山岳戦争: シューフ山地はもともとドルーズ派の本拠地であった。イスラムはドルーズ派にアマル派の一部も加わり激しく抵抗した。 |
11月11日 9人委員会の軍事部門「イスラーム抵抗」が「殉教作戦」の開始。南部の都市スールのイスラエル軍兵営に突入し自爆。90名以上の死者を出した。うちイスラエル軍兵士は74名。
4月 第2回目の殉教作戦がIDF の車列に対して行われ,9 名が死亡。
4月18日 ベイルートのアメリカ大使館に自動車爆弾特攻攻撃。63人が死亡(米国人17名、うち8人がCIA職員)、120人が重軽傷を負う。「イスラム聖戦」名の犯行声明が出される。
10月23日午前6時30分 アメリカ海兵隊の兵舎に自動車が突入し自爆。死者241名、負傷者60名以上を出す。ついでフランス空挺師団の兵舎も攻撃され死者58名、負傷者15名を出す。
特攻隊員はメルセデスのバンで検問を突破し、空港に侵入。駐車場を二度ほど回り、ターゲットに狙いをつけたあと司令部のあるビルに突入した。 |
11月4日 スールのイスラエル軍兵営に自爆テロ。死者60名以上、負傷者30名以上 死者のうちIDF兵士は29名、ほかは捕虜となったレバノン・パレスチナ人。
12月3日 シリア軍がアメリカ軍機に発砲。 アメリカ軍は空母ジョン・F・ケネディ と空母インディペンデンスの艦載機F-14トムキャットでシリア軍に攻撃を加えるが、対空砲で2機の戦闘機が撃墜される。
2月26日 アメリカ海兵隊の撤退。つづいてフランス軍とイタリア軍も撤退。
アマルやドゥルーズ派はシューフ山地の奪還に成功。西ベイルートからも国軍を放逐する。シリアの経済的・軍事的支援を受けたアマル運動が国内の勢力を拡大。国軍のイスラム教徒はアマルに合流する。 |
3月 シリア、アマルを中心に民兵組織指導者の「国民和解会議」を開催する。レバノン政府の存在は完全に無視される。
5月 9人委員会の発行物のなかで、初めて「ヒズボラ」の名が用いられる。
6月6日 スール近郊でイスラエル軍の車列が地雷攻撃を受け、負傷者9名を出す。
6月18日 ヒズボラ、機関誌の準備号を発刊し無料配布。特集「レバノンにおけるイスラーム革命の声」が組まれ、「イスラエルの存在を根絶することは,我々すべて1 人1人の義務である」と宣言。
9月20日 「イスラム聖戦」がふたたび米大使館(別館)に自爆テロ。死者14名(米国人は2名)を出す。
2月16日 ヒズボラが公開書簡の発表を通して存在を明らかにする。イスラエルを敵としアマルとも敵対、パレスチナ人を支持すると発表。
86年 シリア軍とアマルによるパレスチナキャンプへの攻撃(キャンプ戦争)。
86年 イラクの支援を受けた国軍のミシェル・アウン将軍(マロン派)、シリア・PLOの排除と民兵組織解体による政府・軍の樹立を掲げ影響力を拡大。イラクはイラン・イラク戦争の終結で余剰となった武器弾薬や車両を提供する。
87年 アマルがヒズボラと交戦。シリアはアマル支援のためレバノンに再侵攻。イランと交渉し、ヒズボラの存続と引き換えにシリア軍の進駐を認めさせる。
88年 シリアはベッカー高原のラヤク空軍基地に国会議員を召集しルネ・ムアワドを大統領に就任させる。この結果、反シリアのアウン軍事政権とシリア派のムアワド政権が併存する事態となる。
11月24日 アミン・ジェマイエル前大統領が暗殺される。これに代わる新大統領に親シリアのハラウィ海軍将校ハラウィが就任。ハラウィはアウン首相を解職。アウン将軍はこれを無視。
89年 シリアと多くの武装組織が「ターイフ合意」を承諾。ヒズボラも消極的賛成にまわる。アウン将軍派は受け入れを拒否、南レバノン軍は合意そのものを黙殺する。
90年 イラクのクウェート侵攻。第一次湾岸戦争が発生。シリアは多国籍軍側にたち、米国にレバノン駐留を認めさせる。
90年 民兵組織指導者が閣僚に就任した挙国一致内閣を樹立。シリア軍3万人が東ベイルート、ジュニエなどのマロン派の本拠地に進駐。民兵組織を武装解除して内戦を終結させる。
96年 イスラエル国内で連続爆弾テロ。ヒズボラの犯行としたイスラエル軍はレバノン南部を空襲。怒りのブドウ作戦と名付けられる。レバノンで難民救援活動を行っていた国連レバノン暫定駐留軍フィジー軍部隊のキャンプが、イスラエルの集中砲撃を受ける。
5月 イスラエルのバラク政権、レバノンらのイスラエル軍の一方的撤退を発表。イスラエル軍は電撃的に南レバノンから撤退。南レバノン軍兵士の多くはヒズボラなどに投降。南レバノンのヒズボラの力は強化される。
9月 国連安保理、米仏の提案による「レバノンからの外国軍撤退」決議を採択。ラフィク・ハリリ首相は安保理決議の完全実施を主張し、ラフード大統領と対立、辞任する。
2月14日 ハリリ元首相が爆弾テロにより暗殺される。レバノン国内では各地で激しい反シリア・デモが起きる。米国はシリアの関与を疑い、完全撤退をもとめる。
4月 「杉の革命」、国連や欧米各国もシリア軍撤退を強く要求。シリア軍1万4千がレバノンから撤退する。
5月 ヒズボラ、イスラエル北部国境の町キリヤット・シュモネにロケット弾を撃ちこむ。また、射程100kmの新ミサイルを使用し、ハイファ近郊に着弾する。レバノン南部でヒズボラとイスラエル軍の緊張が高まる。7月12日 ヒズボラがイスラエルの攻撃を開始。イスラエル軍兵士2名を捕虜にする。
午前9時にイスラエルに向け迫撃砲及びカチューシャ・ロケットを撃ち込む。この砲撃でイスラエル側に11名の犠牲者を出す。直後に突撃隊が国境を侵犯。偵察中の部隊に向かって対戦車ミサイルを撃ち込む。この攻撃でイスラエル軍兵士3名が死亡。さらに2名を捕虜にする。戦車で追撃したイスラエル軍は触雷し乗員4人が死亡。さらに脱出した1人が狙撃された |
7月12日 イスラエル軍が南部の幹線道路・発電所などを報復空爆。さらに空爆はベイルート近郊のシーア派地域など全土に拡大される。
7月12日 ベイルートのラフィク・ハリリ国際空港、テレビ局、電話局など公共施設が破壊され、港湾は海上封鎖される。レバノンの国家機能は麻痺状態に陥る。
7月17日 イスラエル特殊部隊が越境攻撃を開始。
7月22日 メルカバ戦車を先頭に地上軍本隊が越境、2つの村を占領した。ヒズボラは地下トンネルのネットで対抗。対戦車ミサイルで大きな損害をあたえる。
7月27日 イスラエル軍、国連レバノン暫定軍の施設を砲撃。中国、フィンランド、オーストラリア、カナダの監視要員ら4人が死亡。中国政府は国連安保理に非難決議を提案するが、アメリカの反対で握りつぶされる。
7月29日 イスラエル地上軍、“任務を完了”し撤退。拉致された2人の行方は不明のまま。
7月30日 南部の町カナでイスラエル軍の「誤爆」により37人の子どもたちをふくむ56人が死亡、多数の負傷者が出る。
7月31日 イスラエル軍がレバノン南部での空爆を48時間“人道的”停止を発表(実際には継続)。
8月1日 イスラエル特殊部隊がベッカー高原のバールベックへの空爆。レバノン市民18人が死亡。
8月2日 イスラエル軍、国際世論を無視しレバノン全土に対する空爆を再開する。南部ではイスラエル軍とヒズボラの地上戦が再開。
8月3日 レバノンのシニオラ首相、イスラエル軍の攻撃でこれまでに900人以上が死亡、3000人が負傷し、人口の4分の1の約100万人が避難所生活を余儀なくされていると述べた。
英国の「セーブ・ザ・チルドレン」は、レバノン攻撃による死者数は615人で、子どもが33%を占めているという。ユニセフは、100万人近くのレバノン人が避難民となっており、その45%が子供だと発表。 |
8月6日 ヒズボラがイスラエル北部の都市キリヤトシモナにロケット弾攻撃を加え、12人のイスラエル軍兵士が死亡、6人が負傷。
8月7日 レバノン政府、イスラエル軍の攻撃による死者が1000人に達したと発表。イスラエルを批判する国際世論が沸騰。
8月11日 アメリカを含む国連安保理が停戦決議を採択。
8月13日 イスラエルが、国連安保理決議の受け入れを表明。小規模な空爆や戦闘は継続した。この間、イスラエル軍は1800発に及ぶクラスター爆弾を投下。
8月14日 停戦が発効する。イスラエル軍は国境沿いの数ヶ所を除き、レバノン領内から撤退。イスラエル軍は累計100人以上の戦死者を出しながら、ヒズボラの拠点建物や地下施設を完全に破壊することは出来ず、拉致兵士2名の解放も実現できなかった。
10月1日 イスラエル軍、レバノン領内から撤退。