中東の歴史年表  T

いずれここではなく,年表のページに入れることになると思いますが,とりあえず載せておきます.
1995年作成

イラク年表に流用する形になりました.余りにもバランスが悪いので,多分イラクはほかの中東諸国と分けなくてはならないでしょう.
2003年2月増補

イラン・イラクを中心とする「中東年表」と,パレスチナ(イスラエル)を中心とする「パレスチナ年表」を分けなくてはならなくなりました.
さらに中東年表も20世紀までと2000年以降の二部に分けなくてはならなくなりました.
2003年4月増補

 

1900年

07 ドイツ,ロシア両国,バグダッド鉄道の権益に関し密約.

08 ケマル・アタチュルクに率いられた青年トルコ党の革命.スルタンのアブドル・ハミードを廃位に追い込む.

08 イラク北部のクルド人地区キルクークで大規模な油田が発見される.

08 ペルシア皇帝,ロシアの支援によりクーデターに成功.ロシア軍はペルシア北部に進駐.

09 イランでアングロ・ペルシアン石油会社設立.

12 トルコとブルガリア,ギリシア,セルビア間にバルカン戦争勃発.

1914年

8 第1次世界大戦勃発.トルコはドイツと秘密同盟条約締結.

11.01 トルコに対する連合国の宣戦布告.

14 英国,エジプトを保護領とし副王を廃位する.

14 イギリス軍,バスラを中心とするイラク南部を占領.

1915年

2月 トルコ海兵隊によるスエズ運河への攻撃。簡単に撃退される。トルコ軍の被害は約2000人、そのうち716人は捕虜となる。

15 英国,マクマホン書簡によりオスマン・トルコからのアラブ独立を約束.これを受け,ヒジャーズのハーシム家が反乱の準備に入る。

15 トルコ領内のアルメニア人が大量虐殺される.

1916年

4月26日 ロンドンに於いて、サイクス(イギリス外務省・中東担当官)とピコ(フランス前駐ベイルート領事)との間でオスマン・トルコ崩壊後の中東分割について合意.パレスチナからメソポタミアに渡る広汎な地域を含む旧トルコ領土の戦後処理について秘密協約が結ばれた.現在の国境をほぼ決定したもの.英国は前年のアラブとの約束を翻す.

5.09 英・仏・露のあいだで秘密条約締結.@ベイルートを首都とするレバノン沿海部をフランスの植民地とする.Aアラブ主権国家をダマスクスに設立し、シリアとしてフランスの保護国とする.Bハイファとアグラ(十字軍の根拠地)をイギリスの直轄都市とする.C後背地のパレスチナは英・仏・露の国際管理による保護国とする.Dトランス・ヨルダンからアラビア半島の大部にアラブ主権国家を設立し、イギリスの保護国とする.Dメソポタミアはイギリスの自由裁量とし、トルコ東部とアナトリアの一部はロシアの自由裁量とする.この秘密条約は,のちに革命ロシアによって暴露される.

8月 ドイツ人参謀クレッセンシュタインに指揮されたトルコ軍が、シナイ半島のイギリス軍の前進陣地に攻撃。撃退される。

16年 ハーシム家のシャリーフ・フセイン・アリは,「アラブ連合王国」の成立を宣言.オスマン・トルコに反旗を翻す.ハーシム家の長男イラーがイラク摂政に,二男アブドゥラがトランスヨルダン王に,三男ファイサルがシリア王となる.ファイサルの部隊はT・E・ローレンスらとともにメッカから北上.ヨルダンからシリアへと進出.

1917年

1.08 マレイに率いられたイギリス軍,マグルンテインの戦いでトルコ軍陣地を突破、シナイ半島全域を占領.アラビアのローレンス,アラブ反乱軍をひきいてアカバを占領.

3月 ガザでの間歇的な戦いが始まる。

4.06 アメリカがドイツに宣戦を布告.

4月19日 イギリス軍は3個師団をもってガザに突入。6500人の損失を出し大敗する。

6月 英軍司令官はマレイからアレンビイに交代。

10月 英軍、騎兵隊を前面に立てトルコ軍の前線を突破。補給線の維持が困難となったトルコ軍第4軍は総崩れ。

11 「バルフォア宣言」が発表される。シオニスト運動の要請を受けたバルフォア外相,パレスチナにユダヤの「民族的郷土」を建国することに賛成する.

12.09 イギリス軍,パレスチナの首都、エルサレムを陥落.同じ時期にバグダッドを含むメソポタミア(現イラク南部)も占領.

17 ロシア革命が成立.ポグロムを避けるユダヤ人がパレスチナに集団入植.

1918年

9月19日 アレンビイの率いる騎兵隊、移動中のトルコ第7軍の側面を攻撃し壊走させる(メギットーの戦い)。第7軍はメディナに駐屯していたが、ローレンスに応援されたアラブ人ゲリラ部隊がヘジャズ鉄道の切断に成功したため、孤立を恐れて撤退中であった。

10月1日 イギリスの騎兵部隊とアラブ軍(ファイサルとローレンス)はダマスクスに入城。ケマルの率いるトルコ第8軍は、アレッポまで撤退し、陣地を構築。

10月18日 アレンビイ、アレッポのトルコ軍第8軍に降伏を要求。ケマルがこれを拒絶したため、市街戦が開始される。

10月31日 トルコ軍第8軍との休戦協定(ムドロス協定)が発効。ケマルは全軍を率いて撤退。これによりオスマン・トルコのアラブ諸国に対する支配が崩壊.ダマスカスを首都に大アラブ王国成立.ファイサルが国王となる.

1919年

1.02 シリア王ファイサルと,シオニスト代表のワイツマンが,ローレンスの仲介により会談.「パレスチナへのユダヤ人の大量移民を奨励する」ことで合意.

19年 トルコでケマル・アタチュルクの革命。

1920年

4 第一次大戦の連合国によるサンレモ会議.旧トルコ帝国領土の処分を協議.イラク,トランスヨルダン,パレスチナは英国の国連委任統治下におかれる.シリアとレバノンはフランスの統治下に.シリアの仏領化にともない大アラブ王国滅亡.シリア王ファイサルは廃位される.

5月 イラク南部を中心とする全土で,民族主義者の暴動が拡大.シーア派を中心に南部で「メソポタミア政府」を樹立.シーア派とスンニ派指導者は今までの行きがかりを棄て、共同で反英デモとストライキを命令.カルバラの聖職者シラジはファトア(宗教令)を出し、「イスラム教徒が非イスラム教徒に支配されることはイスラム法に反する」としてジハード(聖戦)を呼びかける.

5月 ウィルソンは空軍による爆撃を開始するとともに、インドとイランから陸軍の増援部隊を招致した。イラク国内は大混乱に陥り、あらゆる都市で街頭暴力が発生した。

7月 イラク各地の反乱が鎮圧される.「大革命」自体はイギリス軍民への攻撃を目的としたが、すぐに同族相打つ戦いとなり,イギリスの分断支配を許す.

20 ケマル・アタチュルクの率いるトルコ青年将校のクーデター.アンカラに臨時政府樹立.

20年 バクーでコミンテルン東洋民族会議が開かれる。

1921年

2 ペルシアでレザー・カーンのクーデター勃発.レザー・ハーンはコサック傭兵部隊の指揮官にすぎなかったが,イギリス帝国の後押しで皇帝を退位させる.カージャール朝の滅亡.

3.13 カイロでチャーチル植民地相が出席して英国植民地担当者の会議.アラブ民族主義への対応を協議.ウィルソンの副官であるガートルード・ベルが,フランスからダマスクスを追われたファイサルをイラク国王とし,アラブ人による仮政府を樹立することを提案し,認められる.

4月 イギリス,「トランスヨルダン首長国」を建設.ハーシム家の二男アブドッラーを首長にする.パレスチナは引き続き直接統治し,アラブ人とユダヤ人の住み分けを図る.

5.09 英国植民地省のパーシー・コックス卿,将来におけるイラクのペルシャ湾進出を阻止するため,バスラ地方からクウェートを分離.

8.23 英国,イラク国内の反発を押さえるためイラク王国を樹立.旧オスマントルコ帝国のバグダード,バスラ,モスルの三行政府を統合したもの.前アラブ王国のファイサルを国王にたて,英国の委任統治のもと立憲君主体制をとる.

21年 イギリス軍傘下のアラブ人部隊が,ハシミテ家とサウド家に分裂.サウド家は元来リアドの太守であり、そこにサラジアラビアを建国.

1922年

7.24 国際連盟理事会,サンレモ会議の合意を承認.バルフォア宣言の骨子も承認される. 英国は国際連盟によりパレスチナ(エレツ・イスラエル)の委任統治権を与えられ,「この地に対するユダヤ人移民と開拓」の助成責任を課せられる.

22年 イラクで住民投票が行われ、なんと98%の投票者がファイサルによる王制を支持.

22 イギリス,エジプトの形式的独立を認める.「独立」を膳立てたミルナー植民地相は,「帝国主義とはキリスト教的なものである」との名言を残す.

22 トルコにおけるケマル・アタチェルクの改革.イスラム政治を否定した近代化憲法を公布.帝制の廃止.封建制と重商主義からの脱却.近代化と資本主義の育成.農地改革は不徹底に終わり,大地主と新興資本家が癒着し,労働者・農民を搾取・収奪する体制に移行.

23 全土にわたる普通選挙を実施.祭政一致を除去した新憲法を議会で制定.イギリスとの保護条約を結び、クルド族にある程度の自治を許しながら国軍に取り込む.

25 インド政庁の支援を受けたカタールのイブン・サウード,ハーシム家を駆逐しアラビア半島を制圧.

25 国際連盟,北部モスル地方のイラク帰属を決定.

25.12.15 レザー・ハーンがペルシャ国王に即位.レザー・シャーを名乗る.パーレヴィ朝成立.

26.6.05 イギリス・トルコ・イラク間でアンカラ条約が締結される.イラク・トルコ間の国境が確定してモスール問題が解決する.この条約によりクルディスタンの分断も確定.

28 イギリス,エジプトの集会の自由法案の廃棄を要求し最後通牒.

29 カイロでムスリム同胞団が結成される.

31 イラクで,軍事基地の使用権,埋蔵石油の採掘権などに固執する英国に対し抗議活動が活発化.

32 イブン・サウード,サウジアラビア王国を開く.

32.10.03 イラクが国際連盟に加入し、「完全独立」を果たす.英国は委任統治の終了に同意.ハーシム家を強化しサウジ封じ込め戦略に出る.

33 イラクのファイサル国王が死去,息子のガジが王位継承.アッシリア人への弾圧を開始.

33 アメリカのSOCAL社(現アラムコ),サウジ東部で大規模な油田を開発.この後アメリカがサウジの石油利権を独占.

34 イブン・サウド,アメリカの支援を背景にサウジアラビアの王位即位を発表.

34 シリア議会,対仏条約反対のために,無期限停会.

35 ペルシャ,イランと改称.レザー・シャーは伝統的な宗教の権威をおさえ,枢軸国の援助を受け軍隊などの近代化を推し進める.

35 イラク南部ユーフラテス流域では部族反乱が相次ぐ.この戦いの中でイラク共産党が創立,急速に勢力を拡大.

36 イラクで人民弾圧の先頭に立つバクル・スィドキー将軍がクーデター.

36 クルド人が自治を維持していたディルシムをトルコ軍が包囲.指導者のサイード・ルザをはじめ、数千人のクルド人が虐殺される.

39.9.01 第二次世界大戦が始まる.

39 イラクのガジ国王,自動車事故により死去,息子のファイサル2世が王位継承.ファイサル二世は当時4歳.

1941年

4 イラクで,ファシスト的傾向を持つラシード・アリ・ガイラーニー(キーラニー?)ら,若手将校のクーデターが成功.国王一家は一時国外退去.

6.08 英軍と自由フランス軍,仏領レバノンとシリアで活動を開始.

6月 キーラニー軍事政権,英国により打倒される.国王ファイサル二世が復権.

6月 ヴィシー政府の下で,シリアとレバノンにフランス軍が引き続き進駐.司令官ダンツ将軍はドイツ空軍の駐留を承認.

7月 英軍,ドゴール軍部隊とともにシリアとレバノンを占領.ドゴール派の民政官カトルー将軍はシリアとレバノンの「独立」を承認するが,旧フランスの統治機構はそのまま残される.

8.25 イギリスとソ連,イランへの進駐開始.中立を続けたレザー・シャーは退位を迫られる.これに代わり息子のモハンマド・レザー・パーレビが国王に即位.

1943年

11.11 レバノンで選挙.民族主義政権が成立.ドゴールは新閣僚全員の逮捕を命じる.

11.23 英国,レバノン弾圧に高まるアラブの抗議を前に,ドゴールに最後通牒.ドゴールは逮捕者全員を釈放.

43 アラブ復興党とアラブ再生党が合併しバース党を結成.民族主義派学生を中心とする組織で,ファシズムに親近感を持っていたという.

43 ルーズベルト大統領,「サウジの防衛はアメリカにとって肝要」と発言.

1945年

3.22 アラブ連盟が成立.

5.01 レバノン・シリアの再植民地化を狙うフランス軍部隊がベイルートに上陸.駐留中の「特別連隊」とともに民族政権打倒を目指す.

5.19 ダマスカス,ベイルート,トリポリ,アレッポで市民のゼネストと抗議デモ.群集にフランス軍が発砲,市街戦となる.

5.29 フランス軍,ホムス,ハマ,ダマスカスの町を空爆.市民多数が犠牲となる.

12月 イランのタブリーズでソ連軍の援助の下にアゼルバイジャン自治共和国樹立.

12.30 フランス軍戦闘部隊がベイルート上陸.アレッポ,ダマスカス,ベイルートの市民はゼネストで応える.

1946年

1月 カイロの紡績労働者のストライキ,アレキサンドリアにも波及.エジプト共産党は短期間に5千の党員を獲得.

1月 ソ連の後ろ盾で,イラン領内のクルド人によるクルド人民共和国の独立が正式に宣言される.カズィ・ムハンマドが大統領に就任.イラン領内のマハバドを首都といたことからマハバド共和国とも呼ばれる.ソ連はアゼルバイジャン,クルド両国の依頼を受け軍の駐留を継続.

4.17 フランス軍,シリア・レバノンから撤退.シリアは独立を達成.初代大統領にシュクリ・クワトリが就任.

5.25 トランスヨルダン王国,イギリスより独立.大シリア帝国の復活を目指しイラクと軍事同盟を結ぶ.

11月 アメリカの支援を受けたモハメッド・シャー,アゼルバイジャン,クルドとの交渉を打ち切り.武力鎮圧に乗り出す.

12.14 イラン政府がマハバドに侵攻.マハバド共和国は11ヶ月足らずで崩壊.カズィ・ムハンマドらは処刑され,クルド語の出版・教育は禁止される.ほぼ同時にアゼルバイジャン共和国も崩壊.マハバド軍を支えたバルザーニは,イラクに戻り,KDP党首に迎えられる.

46 バルフォア宣言記念日を期してバスラでゼネスト展開.

46 シリアで,アフラクらが「バース党」綱領を発表.反共社会主義路線とともに,汎アラブ路線,イスラム教と国家の分離を提起.

46年 サウジ東部石油地帯にダーラン米軍基地が建設される.

1947年

10.06 イランと米国が軍事協定を締結.

10.07 イラン議会,ソ連への石油利権譲渡を含む石油協定の批准を否決.

47 シリアでバース党の第1回大会が開催される.強権による大衆操作を通じて,国家社会主義をめざす.

 

1948年

1月 イギリス軍の部分撤退に基づくイギリス・イラク条約の改定,国内で共産党などが反対運動を展開.政権交代により改定が阻止される.

2.17 イラン,アメリカから1千万ドルの軍事援助を受け,軍の近代化に乗り出す.

1949年

1月 シリアでフスニ・ザイム大佐がクーデターを起こし大統領に就任.イスラエルとの徹底抗戦を叫ぶ.クワトリ派は1ヶ月にわたり抵抗を続けるが敗北.

2.04 イラン国王の暗殺未遂事件が発生.政府は事件に関与したとしてツーデ党を非合法化.

10月 イランで国民戦線創設.モサデグが党首となる.アングロイラニアン石油(現在のブリティッシュ・ペトロ リアム)の国有化を提唱.政治体制の民主化を主張.

50.5.25 米英仏三国が共同宣言を発表.中東の現状維持と紛争国への武器供与制限で合意.

1951年

3月 イランの民族派テロリスト,首相と教育相を暗殺.

4月 イラン議会内で多数派を握ったモサデグ,石油国有化法案を成立させる.

4.29 イランのモハンマド・レザ・パーレヴィ国王,モサデグを首相に任命.

5.02 モサデク政権は,石油産業の国有化を宣言.国民戦線優位を占める国民議会は法案を可決.

9 西側諸国はイラン石油のボイコットを開始.米国は英国政府に国有化を受け入れるよう働きかけ、両者の和解を仲介しようと動く.

1952年

1月 モサデグ政権,内政干渉に抗議し,イギリスとの外交関係を凍結.

1月 モサデグ政権,アメリカとの相互援助協定の署名を拒否.軍事援助が打ち切られる.

4月 アメリカ,モサデグ政権を支持し軍事援助を再開すると宣言.イギリスの影響力排除が狙い.

6.26 カイロ市内の277の建物が,反政府派テロリストによりいっせいに放火される.ワフド党は混乱の中で支配力を失う.

7.23 エジプトにおけるナセルら自由将校団のクーデター.国王を退位させ,ナギブ中将を首班とする共和制を樹立.ナセルは副首相に就任.

10.22 イラン,英国と国交断絶.英国はイラン原油の輸入を全面的に禁止すると同時に、モサデグ政権の転覆計画を練る.

11月 バグダッドで石油国有化を要求するデモ.米英の文化・情報機関が焼き討ちされる.

11 英国,モサデグに対する共同のクーデタを米国に提案.イランのモサデク政権は二年にわたる制裁で弱体化.国王との関係も険悪化.

1953年

3 アイゼンハワー大統領,イランのクーデター計画を承認.

4.04 CIAのテヘラン支局,反モサデグのキャンペーンを開始.

5月 モサデグ、国王の権限を大きく制限.

6.18 エジプト,王政を廃し共和国を宣言.

53年8月 CIAによるモサデグ政権打倒

8.13 イラン国王,モサデグを罷免しザヘディを任命する勅令(ファルマン)に署名.

8.15 モサデグ,クーデターの首謀者ナシリを逮捕.国王はローマに逃れる.

8.18 トゥーデ党員を装ったデモ隊が,国王派の政党の事務所を襲撃.トゥーデ党指導部は、党員に対し自宅に待機するよう勧告.

8.19 反モサデグ派のデモ隊,イラン党本部を襲撃し、映画館一軒と新聞社数カ所を焼き打ち.同時にザヘディ将軍派の部隊がラジオ局や他の重要拠点を占拠.

8.20 モサデグ,反乱軍に降伏.米国はイタリア亡命中のシャー・レザ・パーレビをイランの権力の座に据える.ザヘディが政府首班に指名される.

12.03 イラン,英国との外交関係を再開.石油問題の早期解決への努力を明らかにする.

12月 米・英・仏・蘭がロンドン会議に結集.アメリカが中心となりイラン石油の販売についてコンソーシアムを結成.

 

1954年

4月 イラク,アメリカと単独で相互軍事協定を締結.

8.05 イラン政府と国際石油コンソーシアム(米,英,仏,蘭)の間に新石油協定.イランは形式的国有化の代わりにアングロ・イラニアン石油会社に莫大な補償金の支払いを約束させられる.さらに4カ国合同石油企業体との間に不平等な販売協定を締結させられる.

9月 イラン国営石油公社(NIOC)設立

10.19 英国とエジプトの間で,運河地帯からのイギリス軍の全面撤退条約が締結される.

10.26 ムスリム同胞団,ナセル暗殺を狙う.演説中のナセルは数発の銃弾を浴びるが命中せず.ナセルは事件の黒幕としてネギブ大統領を逮捕.

11.01 アルジェリアでFLN設立.武装蜂起が始まる.

11.03 ナセル,エジプト国家元首に就任.

54 バース党イラク支部が結成される.

54 シリアのアレッポで民族主義将校の反乱.指導者のハムドゥーン大佐は「われわれは無知・病気・貧困・そして帝国主義に対する革命を望んでいる.われわれの軍隊は人民の敵ではありえないと宣言する」と演説.

1955年

2.24 バグダッド条約が調印される.イラクとトルコが相互防衛条約を締結.イギリスが同条約議定書に調印.アラブ諸国は強力に反対.

11.22 反共・反ソ連の軍事同盟として中東条約機構(METO)が発足.バグダッド条約機構とも呼ばれる.イギリス,トルコ,イラン,イラク,パキスタンを加盟国とし,アメリカはオブザーバーにとどまる.

 

1956年

1957年

57 バース党を中心にイラク統一民族戦線(UNF)結成.民族民主党,イラク共産党が結集.親英反共のヌリ・エス・サイド政権と対立.シーア派左派のバーキル・アッサドルらがダウア党を創立.

57 イラン国家治安機構(SAVAK)が設立される.ノーマン・シュワルツコフ(父)が指導.C.I.A.とイスラエル情報機関がこれを支援.

 

1958年

2.01 アジプトとシリアが合併し,「アラブ連合共和国」が成立.イラク王国とヨルダン王国はこれに対抗し「アラブ連合」を創設.

7.14 イラクでアブデル・カリム・カセム准将による民衆を巻き込んだクーデターが成功.ヌーリ・アッサイード首相の独裁政権を打倒.王政を破棄しイラク人民共和国を宣言.国王ファイサル二世,ヌリ首相らを殺害.2万5千の政治囚を解放.

7.26 イラク暫定憲法が公布される.@イラクはアラブの一部,Aクルド族はアラブと連合,Bイスラームは新国家の宗教,などがうたわれる.カセム准将を首相とし,西側資本の国有化など民族主義政策を開始.

10.23 ソ連,アスワン・ダム建設への財政援助を決める.

10月 イラク政権で内紛.カセム首相は共産党と組んで,アブデル・サラム・アレフ副首相ら親ナセル派閣僚を解任.

1959年

3 ナセル派の将校がモスルで反乱.イラク政府は共産党とクルド人の義勇軍の支援を受け鎮圧に成功.この後カセムは共産党を重視する人事.アラブ派との緊張が強まる.

3月 イラン政府とアメリカ,イラクの急進化に対応して軍事協定を締結.イラク政府はこれに抗議して,バグダッド条約機構から脱退.アメリカは,バグダッド条約に代わるものとして,トルコ・イラン・パキスタンとそれぞれ相互防衛条約を結ぶ.

8.19 バグダッド条約機構にかわるものとして中央条約機構(CENTO)が成立.イスタンブールに本部を置く.

9月 キルクークでクルド系住民とトルコメン住民とが衝突.

59年 バース党員サダム・フセイン(当時22歳),カセム暗殺に失敗.負傷しシリアに逃れる.

1960年

7.26 イラン,イスラエルを承認.これに対しアラブ連合はイランと断交.

9.14 バグダードで石油輸出国機構(OPEC)設立総会.国際石油資本の原油価格操作に反発し価格決定に対する関与を要求.

1961年

6.19 クウェート独立.首長アス・サバーによる近代化路線.国内中間層が存在せず,石油労働者との矛盾が直接政治に反映する政治構造となる.オーマン,カタール,アラブ首長国連邦,バーレーンでも同様の動き.イラクはクエートの独立を認めず領有権を主張.

7月 ナセル政権,広範な国有化政策を打ち出す.農地改革にも着手すると宣言.左翼的ポーズの下,共産党に対し大弾圧を加える.

9.28 シリアでクーデター.エジプトとの分離を宣言.ナセルの改革案をすべて無効と宣言.アラブ連合共和国は事実上崩壊.

61 バルザーニの率いるクルド人勢力,カセムの自決公約の不履行に怒り反乱.

61 国民抵抗戦線,イラン自由運動に改称し抵抗運動を継続.

1962年

7.03 アルジェリア臨時政府とフランス政府との間にエビアン協定が成立.アルジェリア独立.8年にわたる流血が終了.

9.26 北イエーメンのサヌアで,」サラール大佐に率いられた軍がクーデター.共和制が成立する..サウジアラビアはジェッダに亡命政権を樹立させイエーメンに干渉.アメリカとイギリスはサウジアラビアを支持し、武器の供与を開始.いっぽうナセル主義の信奉者サラール大佐をエジプトが軍事支援.これにより8年にわたる内戦に移行.南イエーメンはイギリスからの独立運動を通じて,民族解放戦線が指導権をにぎり社会主義をめざす.

 

1963年

1月 イラン国王パーレビ,「白色革命」6項目を提案. 大地主の力を弱め,王権強化をはかる.農民を都市の中間層と切り離し,国民戦線を弱体化させるのが狙い.水利権に手を着けず,まもなく大地主と妥協,反動化していく.

2.08 イラクで軍事クーデター.共産党色の強いカセム政権を嫌う米CIAが支援.アブデル・サラム・アレフが国家元首・革命評議会議長に就任.「統一・自由・社会主義」を目標に掲げる.カセム首相や共産党員閣僚を虐殺.

2月 軍事クーデターに加わったバース党民兵,共産党とクルド族への大弾圧を開始.バクダッドの労働者街を虱つぶしに捜索し,共産党員を大量虐殺.共産党はフセイン・アル・ラディ書記長をはじめ数千人が殺害される。シリアに逃亡していたサダム・フセイン,帰国し「死者の宮殿」の拷問官兼尋問官に就任.

3月 シリアでナセル派軍人による反乱が成功.銀行国有化に始まり,大企業のほとんどを接収.経済のいきづまりに直面して,私的企業を復活.

4.17 エジプト・シリア・イラクの間に三国連邦国家協定が締結される.その後ナセルの独裁傾向に反感が強まり,計画は流産.

6.03 イランでシーア派イスラム教の指導者ホメイニが,選挙不正に抗議する声明.当局により逮捕される.

6.05 ホメイニ逮捕に抗議するデモが暴動化.3日間にわたり全土で騒乱状態となる.軍の弾圧により千人が死亡.

10月 ダマスカスでシリア・バース党の第6回大会.保守派・地主層と結託する指導部と,改革を進めようとする若手将校が対立を深める.

11.18 バース党とシリアの浸透を嫌うアレフ,自主クーデターにより政権内反対派を粛清.みずから大統領に就任.強硬な反共路線は維持される。

1964年

1.13 第一回アラブ首脳会談.ヨルダン川用水問題を討議.

2月 シリアでクーデター.アフラク・ビタールを中心とするバース党右派の民族指導部が政権を掌握.左派はハリド・ジュンディの労働者義勇軍に結集し,抵抗を続ける.

夏 イラクでサリム・アル・ファクリによるクーデターの陰謀が発覚する。ファクリは元陸軍大佐で共産党員だった。

9月 イラク・バース党によるクーデターの陰謀が発覚。サダムも投獄される。

11.04 ホメイニ,ふたたび政府を非難する演説.政府はホメイニをトルコに追放.ホメイニはまもなくトルコからも追放され,イラク南部のナジャフに亡命.

1965年

6.26 アルジェリアでクーデター.ベンベラ政権が倒され,ブーメディエン軍事政権が成立.

9 イラクで親ナセル派のアレフ・アブデル・ラザズ首相による反乱,失敗に終わる.アブデル・サラム・アレフはナセルとの距離を広げる.

1966年

1月 イランでツーデ党(共産党)への弾圧.党員13人が処刑される.

2.23 シリアでバース党急進派の軍人によるクーデター.直ちに土地改革に着手するが,富農層の抵抗にあい挫折.左派のハリド・ジュンディらを排斥したことから,大衆的基盤を失う.

4 イラクのアレフ大統領,ヘリコプター事故により死亡.兄のアレフ将軍が新大統領に就任.文民首相バザズは,法の支配確立,クルド族との和解に努める.

8月 イラク軍部,バザズのクルド政策を拒否し解任.

11 シリアでバース党急進派によるクーデター失敗.軍事政府は反乱軍を虐殺する.

66 地下のイラク・バース党,左派民兵集団を放逐し,アフマド・ハサン・アル・バクルら中道派軍人が党の主導権を握る.

66 サダム,脱獄に成功.バクルと同じくティクリート出身のフセインは,バース党書記長代理の要職に就く.

 

1967年

2.29 イランとソ連,武器売却協定を締結.イランはソ連に天然ガスを供給することとなる.

6.05 第三次中東戦争勃発.アラブ諸国はあいついでイスラエルに宣戦布告.

11.30 南部イエメンがイギリスから独立し南イエメン人民共和国が成立.

12月 イラク共産党、武装闘争派を除名。武闘派はイラク共産党中央司令部を名乗り、南部で武装闘争を開始する。

 

1968年

7.17 イラクでアハメド・ハッサン・アル・バクル将軍によるクーデター.親西欧派のエル・ナイフ首相を追放しバクルが軍事評議会議長に就任.

7.30 バクル,自ら首相兼軍参謀総長に就任.バース党員のみで構成される革命指導評議会(RCC)が行政・立法の全権を与えられる.民営化路線を主張する若手将校を排除し,国家資本主義路線を堅持.イラク共産党はこれを機に武装闘争を放棄し、政権への参画と大衆団体への浸透をはかる。

9.08 第4次中東戦争始まる.

9.24 パーレビ国王,ソ連・サウジ・クエートを相次ぎ訪問.

68年 OPEC総会.産油国の石油事業への参加を要求する基本方針を採択.

 

1969年

4.20 イラクとイラン,シャットルアラブ川の水利問題をめぐり関係悪化.

5.25 スーダン革命.ニメイリが政権を掌握.

69年7月

7月 スーダンでクーデターが成立.ヌメイリ独裁政権が打倒される.

9.01 リビアで民族派軍人のクーデターが成立.カダフィが指導者となる.

10.17 パーレビ国王,訪米しニクソンと会談.

11月 サダム,バース党革命指導評議会(RCC)の副議長に就任.非共産党員左派のアジズ・シャリフが司法大臣に就任。

69年 イラク共産党、バクル政権を「進歩的」と評価。国民戦線の構築を目指す。政権は共産党系の雑誌の公認、政・法各界への進出を容認する。

 

1970年

3月 イラク政府,「三月宣言」を公布.イラクを「アラブとクルドの二民族」により成り立つ国家と規定.クルド人の自治権を認め,クルド語を公用語とし,副大統領のポストをクルド人のために新設.複数のクルド人閣僚を採用するなど,クルド人問題の平和的解決を目指す.キルクークなど産油地帯がクルド人地域と認められなかったことから,KDPは和平提案を拒否.

9.28 ナセルが心臓発作で死去.サダトが後継大統領となる.エジプトの介入停止にともない,北部イエメン共和国の内戦が終結する.

11.13 シリアでヤジット政権に代わりサダトが率いるクーデターが成立.親西欧保守路線を強める.

 

1971年

1.03 エジプト、シリア、リビアからなるアラブ連邦共和国が成立.イランとの国交を回復.

9月 サダム・フセイン,イラク国家評議会副議長に就任.政府と党の実権を掌握.

11.30 イラン,ホルムズ海峡の三つの島を占領.イラクはイランと断交.

71 バクル大統領,国民憲章を提案.左翼との和解に乗り出す.イラク共産党はこの提案を支持,共産党を支持していた南部の民衆は失望し,イスラム政党に流れる.

12.02 アラブ首長国連邦(UAE)が独立.

12.20 イギリス軍最後の部隊が,アラビア湾から撤退.

1972年

4.09 イラクとソ連,友好条約を締結.パレスチナ解決方式・イラク共産党問題などで食い違いを残す.

5月 ニクソン,イランを訪問.最新の軍事技術と指導を供与する一連の協定を締結.

6月 イラク政府,石油国有化を宣言.米国はイラクをテロリスト支援国に指定.この発表の前日,ニクソン大統領はイランのシャーと密約を結び,イラク弱体化のためにイラク領内のクルド人に武器を供給することとなる.

1973年

7月 イラクでバザズ元首相らアレフ時代の政治家に対する弾圧.これに対しナジム・カザル軍治安長官が反乱を起こすが失敗.

7.17 アフガンで共和革命が成立.

10.06 第5次中東戦争(10月戦争)開始.

10 OAPEC緊急閣僚会議,安保理決議に抗議し,石油の生産・供給制限を決定.原油価格が高騰し「オイルショック」発生.1年間で石油価格は4倍に上昇.

73 イラクのバース党政権,共産党を合法化し挙国一致の国民愛国進歩戦線を結成.ソ連の指示を受けたイラク共産党も閣僚を送る.

1974年

3月 クルド交渉が決裂.イラク政府は一方的に制定した自治区を前提としてクルド自治法を公布.暗殺者の襲撃を受けたKDPのバルザーニは,公約違反に抗議して反乱を起こす.イランのシャーがクルド人勢力を支援.

4 国連資源特別総会,「新国際経済秩序(NIEO)樹立に関する宣言および行動計画」を採択.外資規制の権利,技術移転の促進,一般特恵制度の改善,天然資源に対する恒久主権が認められる.石油戦略をバックに経済ナショナリズムが吹き荒れる.

8.08 ニクソン,ウォータゲート事件のため辞任.副大統領フォードが昇格.

74年 サウジのファハド皇太子がイラクを訪問.関係修復を図る.翌年には国境画定交渉が開始される.

74年 ホメイニ派内の民族左派が分裂.モジャヒディーン(OMPI)を結成.

1975年

3.06 イラクのサダム・フセイン国家評議会副議長とイランのシャー,アルジェのOPEC首脳会議で会談.シャットル・アラブ川の境界を決める.境界はイラクの譲歩で川の東岸から中央線に決まる.両国関係の修復にともない,イランのクルド人に対する援助はすべて打ち切られる.

3月 協定成立後イラク軍はただちにKDPに対する攻撃を開始.バルザーニら幹部はイランを経由しアメリカに亡命.バルザーニはまもなく客死.

3.25 サウジアラビアのファイサル国王が暗殺される.

 

1976年

 

1977年

1月 エジプト政府,IMFの要請に応じ,食料価格調整補助金を撤廃.全土で,食料品価格の暴騰に抗議する暴動が発生.

11月 パーレビ,アメリカを訪問.親米の立場から石油価格の抑制政策への転換を約束する.

11.15 ワシントンのイラン人留学生が,国王を非難するデモ.これに呼応してテヘラン大学学生による反国王デモが発生.全国21の大学が閉鎖される.

77年 カルバラーでシーア派の宗教儀礼を政府が弾圧.ムハンマド・バーキル・アッサドル師の率いるダウア党の抗議行動は,イラクの革命運動と結びついて暴動に発展.

 

1978年

1.09 コムの神学校で,ホメイニ師を誹謗した記事に抗議するデモ.数千の神学徒が参加し警官隊と衝突.

2.18 タプリーズでコム事件の犠牲者追悼集会.デモ隊が与党ラスターヒーズ党本部を襲撃.100名の死傷者を出す.

3 イラクで共産党に対する大弾圧.軍内に秘密細胞を結成した共産党員21人が処刑され,数十人が投獄される.

5.13 パーレビ国王,政治活動を自由化する意向を表明.

6.07 パーレビ国王,市民弾圧の指揮者ナシリSAVAK長官を解任.ラスタヒーズ(国民復興党)による一党体制から脱却し,政党活動を自由化すると発表.1年後に自由選挙を実施する方針も明らかにする.

78年8月

8.11 イスファハンで5万人の参加する反政府デモ.ほか各地で大規模な反政府集会.政府はイスファハン,ナジャファバードに戒厳令.

8.19 モサデグ政権崩壊25周年の日に,アバダン市映画館に計画的放火.死者477人を出す.これに前後し映画館・キャバレーへの放火事件が相次ぐ.

8.27 政党自由化が発効.国民戦線が復活宣言.

8.31 イランの主要15都市で、計150万人の政治デモ.デモ隊はイスラーム政権の樹立を要求.軍・警察との衝突で数百人の死者を出す.

78年9月

9.08 テヘランなど11都市に戒厳令.テヘランのジャーレ広場ではデモに銃撃,死者多数.「黒い金曜日」と呼ばれる.

9.10 テヘラン精油所がストライキを開始.19日にはイラン国立銀行,24日にはアバダン精油所でもストライキが始まる.

9.10 カーター大統領,パーレビ国王に電話,イラン支持を確認する.

78年10月

10.03 ストは交通機関、郵便、電力、裁判所、放送、病院、製鉄、学校、官庁に拡大.ケルマーンシャーでは学生デモが流血事態に発展する.

10.14 大新聞のストライキに対し,政府は検閲廃止を認める.

10.31 ナショナル・イラニアン石油会社( N.I.O.C.) が政治要求を掲げてスト.

78年11月

11.05 テヘランで大暴動.大商店、映画館、劇場、銀行、キャバレー、酒屋が襲撃される.シャリーフ・エマミ内閣総辞職.アズハーリー国軍参謀総長が首相に就任.

11.07 ホメイニ師と国民戦線,軍事政権打倒の宣言を発表.ホメイニ師は一切の妥協の可能性を排除し、武装蜂起に訴えても現体制を打倒すると言明.国民戦線も軍事政権に対する協力を拒否.

78年12月

12.11 ホメイニの呼びかけた全国的デモ.デモ参加者はテヘランだけで数百万人にのぼり、国王打倒とイスラーム政権樹立を叫ぷ.

12.20 資本の違法海外移転の嫌疑で要人が大量逮捕される.閣僚4人,将軍3人,海軍長官1人を含む100人が告発される.

12.24 ホメイニの腹心サンジャービー博士,公式に国王の退位を要求する.

12.28 原油生産が完全に停止する.テヘラン空港の国際便もストップ.

12.29 ホメイニ師,政治顧問メフディー・バーザルガーンに国内需要分の石油生産をさせるように指示.

12.31 アズハーリー,辞意を表明.シャープール・バフティヤールが国王の一時国外退去,統治権の議会への大幅移譲,SAVAK解体を条件として組閣を受諾.国民戦線はバフティヤールの議会中心主義方針を非難する決議.

12.31 クーデターを唱える軍内強硬派のオヴェイーシー将軍,国外退去となる.

 

1979年

79年1月

1.01 パーレビ国王,診療と休養のため国外にでると表明.アズハーリー首相は辞任.

1.03 バフティヤール政権が成立.ホメイニ師は三人の折衝委員を任命.

1.05 折衝委員の呼びかけに応え,石油労働者が職場に復帰.大新聞のストが62日ぶりに解除.イラン南部の鉄道労働者も、石油輸送のためストを中止.

1.06 ホメイニ,バフティヤール首相の指示に従わないよう,国民に呼びかける.

1.13 ホメイニ師は革命評議会成立を発表.「大統領になりたいとは思わぬ.ただ、将来の革命政府を見守るだけ」と声明.また,「マルキストがその見解を表明することは自由.イランはイスラエルと戦う」と発言.

1.16 国王夫妻,国外に退去しエジプトに向かう.王室の発言力を確保するため,9人からなる王室評議会が成立する.

1.20 王室評議会のテヘラニー代表,パリのホメイニを訪れるが,ホメイニは会見を拒否.王室評議会はこれを機に崩壊.

1.30 軍首脳,ホメイニの帰国を認める.バフティヤール政府はこれを事後承諾.バフティヤール首相は首相職は軍に対し何ら権力がないと発言.

79年2月

2.01 ホメイニ師帰国.バフティヤール内閣の打倒を呼びかける.また少数民族を尊重し、外人の自由な滞在を保証するとのべ、軍の協力を要請.

2.02 バフティヤール首相はホメイニ師支持者を含めて挙国政府を造ることを呼びかける.

2.05 ホメイニ,バーザルガーンを暫定政府の首相に指名.全国でバーザルガーン支持のデモ.

2.06 タレガーニー師,「マルクス主義者が海外から指令を受けず、国際共産主義と関係を持たないなら、行動は自由」とのべる.

2.07 エスファハーン、シーラーズ、コムで,公共機関、地方裁判所がホメイニ派による「人民管理」となる.

2.08 バフティヤール派は,イラン国民統一戦線の結成を宣言.ホメイニ派との対決の構え.

2.09 テヘランのドウシャンタッペ空軍基地で,空軍整備兵のホメイニ師支持デモを,国王直属の近衛部隊が襲撃.

2.10 空軍の武器庫が開かれ、多くの市民が武装.街路にバリケードを造る.ホメイニ師は、防衛の用意をせよと市民に布告.戦いの先頭に立ったのはツデー党系のフェダイーン・ハルク(OIPEG)とイスラム左派のムジャヒディン・ハルク(OMPI).

2.11 国軍、中立宣言に基づき兵の撤収を行う.バフティヤール首相は夕刻バーザルガーンと会見後、辞任.バーザルガーンは事前の軍最高司令官との私的な話し合いで、軍が革命政府に協力する旨の合意ができていたことを明らかにする.

2.11 パーレビ王朝が最終的に崩壊.これを機に第二次オイルショック開始.非産油国ではアメリカの超高金利政策も重なり,対外債務危機が一挙に表面化.

2.12 ホメイニ師、革命勝利宣言.バーザルガーン暫定政府首相が組閣開始.リビア.シリア、PLO、パキスタン、スーダン.ソ運が新政府を承認.翌日には英、仏、トルコ、インド、サウデイアラビア、クウェイト、バハレーン、エジプトが承認.

2.14 武装ゲリラがテヘランの米大使館を襲撃.19日にはタブリーズの米領事館が放火される.米政府はタブリーズ、シーラーズ、エスファハーンの各領事館を閉鎖.

2.16 米国政府、バーザルガーン暫定政権を承認.

2.21 民衆がイスラエル大使館を占拠.PLO事務所とする.

2.23 テヘラン大学で左翼の統一集会.工場事務所、兵営、農村の自主管理のための評議会設置、旧軍の解体と人民の軍隊の創設などをうたう.左翼武装組織フェダーイヤーネ・ハルグは武器返還拒否を再確認.

2.28 バーザルガーン首相,革命評議会と左派の活動を非難.革命評議会のバックにはタレガーニー師.

79年3月

3.05 イラン,石油輸出を再開.

3.06 イランの左派が「国民民主戦線」を結成.

3.07 ホメイニ師、バーザルガーン政府を非難.

3.08 国際婦人デー.テヘランでチャドル着用に反対するデモ.

3.09 バーザルガーン首相、革命評議会の権力乱用とホメイニの批判に抗議し辞意表明.ホメイニ師の慰留で撤回.ホメイニ師は革命評議会の権限縮小を約束する.

3.15 ツーデ党,イスラーム共和国構想を全面的に支持すると表明.

3.16 ホメイニ師、テヘラン革命法廷での即決裁判を禁止.

3.18 イラン,CENT0を脱退.非同盟諸国会議への加入を申請.

3.25 イラン政府とクルド族の間で,停戦合意.独自の言語,風俗,参政権などの自治権を付与.

3月 イラク政府,共産党を非合法化.

79年4月

4.01 イラン・イスラム共和国が成立.

4.17 イラン政府,新憲法草案の発表と制憲議会の選挙を無期限延期すると発表.

4.12 政府当局,革命評議会の幹部を検挙.タレガーニー師の子息らを逮捕.

79年5月

5.05 ホメイニ師、革命評議会のもとに「イスラーム革命防衛隊」(バスダラン)を創設すると発表.二重権力の継続の意向を明らかにする.

5.13 ハルハーリー師,死刑リストを発表.国王夫妻のほかアシュラフ王女、国王義母、国王兄弟、バフティヤール前首相、アズハーリー前首相、オヴェイーシー前陸軍総司令官、ザヘディ前宮内相などがあげられる.

5.24 ホメイニ師、イスラーム世界の裏切リ者、外国の手先の全国的粛清を指令.

5.30 ホッラムシャフルでアラブ系住民と革命政府軍武力衝突.ホッラムシャフルに非常事態宣言発令.

79年6月

6.02 「国民民主戦線」がホメイニ師に公開書簡.内政、外交問題への干渉を非難.タレガーニー師もこれに同調する態度を明らかにする.

6.04 イラク軍戦闘機、アゼルバイジャン地方に越境爆撃.

6.15 イラク機、イラン南西部4村落を爆撃.

79年7月

7.14 イラン教育省,男女共学を禁止すると発表.

7.15 バクル大統領,老齢を理由に辞任.実際は,シリアとの関係強化,イスラエルとの対決路線をとるバクルが,産油国との共同を重視するサダムに解任されたものとされる.

7.16 バース党書記長サダム・フセイン,みずから大統領・革命評議会議長に就任.就任の前後に古参のバース党員など300人あまりを殺害したといわれる.

7.19 バザルカン内閣が改造される.新たに革命評議会からラフサンジャニ、マフダヴィ・キャニー、バニーサドルなど5人が入閣.

79年8月

8.03 憲法制定専門家会議の選挙が実施される.ホメイニ派が議席の2/3を獲得し圧勝.

8.12 政府の新聞検閲法制定に反対するデモ.テヘランで数万人が参加.政府はイラン全土にデモ禁止令.イスラーム支持派が、フェダーイヤーネ・ハルグ、テヘラン大学武闘派学生本部を攻撃.

8.19 クルド制圧のため総動員令.ホメイニ師が総司令官に就任.クルド民主党(KDP)は非合法化される.

8.20 武器携行禁止令.出版社22社に閉鎖命令.クルド民主党、ツーデ党、フェダイン・ハルクにつながる分子を逮捕.

79年9月

9.03 政府軍がクルドの拠点都市マハーバードを制圧.

9.09 ソ連,政治的迫害、少数民族の抑圧、経済政策などホメイニ師の政策を非難.

9.10 テヘラン地区イスラーム教最高指導者で,革命評議会議長のタレガーニー師が病死.ホメイニは後任にモンタゼリ師を任命.

9.27 ホメイニ師,中央銀総裁の革命裁判を要求.

11.04 ホメイニ支持の学生グループがアメリカ大使館を占拠.大使館員約60人を人質とし,パーレビ前国王の引き渡しを要求.

11.06 バーザルガーン暫定内閣辞職.革命評議会が行政執行.

12.26 ソ連軍,アフガンに侵攻.米国は報復措置を発表.国連緊急特別総会は,全外国軍にアフガニスタンからの即時無条件撤退を求める決議.

 

1980年

80年1月

1.04 コムでホメイニ派とシャリーアトマダリー師派が衝突.政府はシャリーアトマダリー派のムスリム共和党に解散命令.

1.25 大統領選挙.バニーサドルが大統領に選出される.

1月 イラクでシーア派イスラム党とダワ党が,フセイン派幹部の暗殺を試みるも失敗.

2月 サダム,パン・アラブ憲章を発表.アラブ世界からの外国勢力の排除,アラブ諸国の連帯を訴える.

80年4月

4.25 アメリカ,駐イラン大使館人質救出作戦に失敗.カーターの威信失墜.

4月 シーア派活動家によるアジズ副首相暗殺未遂事件.サダム,ダウア党のバーキル・アッサドル師ら多数の活動家を処刑.シーア派1万3千人を国外追放.この後イランとの国境紛争が頻発.

4月 ブレジンスキー国家安全保障担当補佐官,「イラクとアメリカの関係は,敵対関係のまま凍結されているべきではない」と発言.

5.28 新議会が開会.ラフサンジャニ師が議会議長に,モハンマド・アリー・ラジャイが首相に選出される.

6月 カーター大統領,石油資源への米国のアクセス確保には湾岸地域への武力介入の辞さないとするカーター・ドクトリンを発表.

9.17 サダム,公開の席でアルジェ協定を破り棄てる.

9.22 イラク,イラン国内各地に爆撃を加える.イラン・イラク戦争おこる.「イスラムによる革命輸出」政策をとるイランに対し,米国の意を受けたサダム・フセインが戦争を仕掛ける.イスラム革命の波及をおそれたアラブ諸国や欧米諸国はイラクを支援.イラクは中東随一の軍事大国化.

10月 米国,緊急展開部隊(RDF)を結成.米国はイラクとイランの両国に援助を提供,戦争を八年にわたり長期化させる.

12.24 テヘランでモジャーヘディーネ・ハルグとヘズボッラーが衝突.

 

1981年

1.20 人質となっていた米国大使館員が444日ぶりに解放される.

3.05 バニーサドル支持者15万人集会、イスラーム共和党支持者と衝突.

81年6月

6.07 イスラエル空軍機,核開発を狙うバグダード近郊の原子力センターを爆撃(バビロン作戦).

6.09 バニーサドル大統領、ホメイニ師に公開書簡.

6.22 議会,バニサドル大統領の弾劾決議を採択.ホメイニ師はバニーサドル大統領を解任.バニサドルはフランス亡命.

6.28 イスラーム共和党本部が爆破され,ベヘシュティ師などイスラーム共和党の要人が死亡.

8.02 モハンマド・アリー・ラジャイ首相が大統領に就任.バーホナル師が首相となり新内閣が発足.

8.30 首相府が爆破される.ラジャイ大統領とバーホナル首相が死去.

10.06 サダト大統領が暗殺される.後任にムバラク副大統領.

10.20 ハーメネイ師が大統領に選出される.

 

1982年

4.31 イランはホラムシャフルを奪回.イラン軍の反撃でイラク軍はイラン領占領地の大半から退却.

4月 シリア,イラン支持の立場を明確にし,イラクからの石油パイプラインを閉鎖.

6月 イラク,イラン領からの全面撤退を宣言.

7.13 イラン軍,国境を越えイラクに逆進攻を開始する.

82 米国,イラクへの「テロ支援国家」指定を解除.米農務省の商品信用会社がイラクに約3億ドルの信用供与.イラクに米・麦を供給.

1983年

2月 ツーデ党への弾圧.政党活動が禁止され,幹部がいっせい逮捕される.

12.20 ラムズフェルド,レーガン大統領特使としてバグダッド訪問.イランの軍備展開に関する衛星情報をフセイン政権に提供する.さらにイラク原子力委員会が生物兵器を製造するため細菌を輸入するのを許した.

83 米緊急展開部隊(RDF),指揮系統を統一し米軍中央軍(CENTCOM)となる.

1984年

2 イラク軍,イラン軍に対し化学兵器を使用.

4 イラク,ペルシャ湾内のタンカーに対する無差別攻撃を開始.

11月 米国,イラクとの外交関係を全面修復.同時に,イラクへの武器売却を開始.レーガン大統領は,イラクへの高レベルの情報提供を指示する最高機密指令を出す.

1985年

6.14 シーア派テロリスト,アテネからローマに向かう大型旅客機を乗っ取る.米国人乗客1人が殺され,39人が拘留される.

12.27 イスラム原理派,ローマ,ウィーン空港を爆破.5人のアメリカ人を含む20人の人々を殺害.イランとの秘密交渉に関連した動きと受け取られる.レーガンはイランへの武器引渡しを承認.いっぽうCPPGは,ブッシュにリビアを非難し,空撃計画を開始するよう勧告.後に,この襲撃はモサドの雇い兵「アブ・ニダル」の犯行だったことが判明.

12月 イラン・コントラの仲介役のオリバー・ノース中佐,イラン高官に対しサダム・フセイン追放に協力すると語る.

1986年

4 米第6艦隊,国際テロを口実に,リビアの首都トリポリを爆撃.

7.29 ブッシュ,エルサレムを訪問.イラン政府の代理人アミラム・ニルと秘密に会談を持つ.この会談についてブッシュは否定し続けたが,90年5月にノースの日記が公開されたとき,会談の事実を認めた.

11.03 レバノンの新聞アルシラア,米国がひそかに武器をイランに販売したと報道.イラン・コントラゲート事件が発覚.

11.04 ラフサンジャニ議長,米国との秘密交渉を暴露.

86年 イラン軍,イラク南部のファオを占領.

1987年

7.20 国連安保理,イラン・イラク戦争の停戦を求める決議598号を採択.

7.31 イラン人のメッカ巡礼団,サウディ・アラビアの官憲と衝突.死者40名以上.

87 ノーマン・シュワルツコフ・ジュニア将軍,CENTCOM司令官に任命される.

87 米国,艦隊をペルシャ湾に派遣.クウェート・タンカーへの星条旗掲揚,クウェート船舶の護衛,イラン石油基地の爆撃により,イ・イ戦争に介入.

87 劣勢となったイラク軍に対し,クウェート,サウジアラビア,ヨルダン,英国,フランス,西ドイツが援助を強化.顧問団派遣,人材提供,諜報活動,借款,武器売却などで協力.

1988年

3.15 イランと手を結んだPUKのタラバーニ,ハラブジャを占領.イラク軍は「アンファル作戦」を展開.ハラブジャをマスタード・ガスで空爆.この攻撃で約5000人が死亡し1万人が負傷.作戦を指揮したアリ・ハッサンは「化学者アリ」と呼ばれ恐れられる.

7.03 ペルシャ湾上空を飛行中のイラン航空のエアバス旅客機,作戦中の米艦船により撃墜される.この事故で乗客290人が死亡.

7.18 イランのホメイニ師,国連停戦決議598号を受諾.

8.20 イラン・イラク戦争停戦.このあと米国の対イラク政策は急変する.

9月 フセイン,クルド人に対する弾圧を開始.虐殺されたクルド人は最大20万人、南部やヨルダン国境の砂漠地帯への強制移住者150万人、難民31万人と推定される.化学兵器を使った攻撃も数度にわたる.

88年 国産ミサイルの開発に成功したフセイン・カーミルが工業相に昇進.後継者ナンバー2と目される.

 

1989年

1.20 ジョージ・H・W・ブッシュ(父),第41代米国大統領に就任.

2.14 ホメイニ,「悪魔の詩」の著者アル・ラシディに死刑宣告.

2.15 ソ連軍、アフガニスタンからの撤兵完了.

6.03 ホメイニ師死去.ハメネイ師が最高指導者に選出される.当初,次期最高指導者と見られていたモンタゼリー師は外される.

7.28 ラフサンジャニ議長が,ハメネイの後任大統領に選出される.

9 米CIA長官ウェブスター,米国の湾岸石油への依存度が急増していると証言.

89 米軍,戦争計画1002を,脅威の対象をイラクとする戦争計画1002−90に変更.戦争計画1002は1981年に立案されたもので,ペルシャ湾へのソ連の脅威を想定していた.

 

1990年 イラクのクエート侵攻

1月 CENTCOM司令部,戦争計画1002−90をテストするため「インターナル・ルック」と名づけられたコンピュータ図上演習を実施.

1月 フセイン,産油国に石油価格の引き上げを呼びかける.クエートとアラブ首長国連邦は,逆に低価格・増産路線を実施.イラクはこれをあからさまな敵対行為として警告.

2 中央軍司令官シュワルツコフ将軍,上院で証言.新軍事戦略を提唱.湾岸石油への米国アクセスを確保するため,湾岸での米軍のプレザンス強化の必要性を訴える.さらに,「イラクはその隣国に自国の要求を強要できるだけの軍事力を有している」と警告.

3月 イラク当局,英「オブザーバー」紙のバゾフト記者をスパイ容疑で逮捕・処刑.バゾフトはイラン系イギリス人で,化学兵器工場への潜入を試みたとして逮捕された.

4.02 サダム,国軍司令部における演説.「もしイスラエルがイラクに対して何か企てるなら,われわれは化学兵器をもってイスラエルの半分を焼き尽くすだろう」と述べる.

5.22 南北イエメンが合併し、イエメン共和国が成立.

5月 サダム・フセイン,バグダッドのアラブ緊急首脳会談(非公開)で湾岸諸国はイラクに経済戦争を行っていると非難.

90年7月

7.11 米国の意を受けたクウェート,OPEC合意を破って原油生産増加を決定.

7.17 フセイン大統領「クウェートは米国と共謀してイラク経済の破壊を企てている」と批判.イラク軍戦闘部隊がクウェート国境へ移動.

7.24 フセイン,駐バグダッド米大使グラスピーと会談.グラスピーは「アメリカはアラブ諸国同士の紛争には関心がない」と述べ,クエート侵攻を容認する可能性を示唆.

7.26 OPEC緊急会議.クエートは原油価格を21ドルに引き上げることに合意.

7.27 米連邦議会,イラク制裁決議を可決.

7.30 イラク軍,10万が国境に集結.

90年8月 イラク軍,クエートに侵攻

8.01 サウジの仲介でイラク,クウェートがジッダ会談.会議は最終的に決裂.

8.02 イラク軍,クウェートに侵攻.8時間で全土を制圧.首長政府を打倒し暫定政府の樹立を宣言.イラク軍は「暫定政府の要請により」クエートに進駐することとなる.

8.02 ブッシュ大統領はイラクへの輸出全面禁止とイラク資産の凍結実施.空母インディペンデンスをペルシャ湾に派遣.

8.03 国連安保理,イラクのクウェート侵攻を非難し,無条件撤退を求める決議660号を採択.

8.03 アラブ緊急外相会議.「クエート侵攻以前の状態への復帰」を決議.イエーメン,ヨルダンは決議に保留.

8.06 国連安保理,イラクへの全面経済制裁と海外資産凍結を柱とする決議661号を採択.食糧の70%を輸入に依存しているイラクは石油も売れなくなり,窮乏化.

8.06 チェイニー国防長官がサウジを訪問.ファハド国王にアメリカ軍サウジ防衛部隊の受け入れを迫る.この時点ではサウジアラビア国境付近にイラク軍はまったく存在していなかった.

8.07 ファハド国王,米軍「防衛」部隊の受け入れを承認.ファハドはもともと戦争には消極的だったが,チェイニーの強硬な要求に屈したといわれる.

8.08 イラク,クウェートを併合し,「イラクの第19番目の県とする」と発表.最初の県知事に悪名高いケミカル・アリが就任.

8.08 ブッシュ大統領は,サウジアラビアの「要請」に応え,議会承認を経ずに4万人の兵力のペルシャ湾派遣を発表,「砂漠の盾」作戦が始まる.

8.09 アラブ連盟首脳会議の非公式会議.エジプト,シリアがアメリカ支持の立場を明確にしたことから会議は紛糾.

8.09 ブッシュ=ゴルバチョフ,イラクに対し「国連安保理決議の完全な実施以外は受け入れられない」とする共同声明.

8.10 国連安保理,クウェート併合を無効とする決議662採択.

8.12 サダム・フセイン,クウェートからの撤退とイスラエルのシリア撤退をリンケージした和平案を提示.米国は直ちに拒否.イラクはリンクをはずし再提案を行うが,米国は「考慮に値しない」として拒否.

8.13 仏,カナダ,ソ連が米国の海上封鎖を批判.

8.17 イラク,人質作戦を宣言.クエートに駐在していた外国人をバグダッドに連行する.

8.30 海部首相,米国及び多国籍軍へ10億ドルを支援すると発表.

90年9月

9.01 イラク,人質作戦を放棄.外国人人質670人が出国.

9.02 イラク,食糧配給制を実施.

9.14 日本政府,米国及び多国籍軍へ10億ドルの追加支援を発表.

10.13 レバノン駐留シリア軍、キリスト教徒民兵軍を攻撃.アウン将軍は降伏しフランス大使館に亡命を求める.

90年11月

11.08 米軍,湾岸駐留部隊を四十万人に倍増させ,防衛から攻撃に向けた体制を整える.

11.29 国連安保理,1月15日の撤退期限以後の武力行使を認める決議678号採択.@イラク軍が翌年1月15日までにクエートから撤退すること.A撤退しない場合は,多国籍軍に武力行使権限を付与することを決議.

12.05 イラク,外国人人質の無条件全員解放を宣言.

12.22 イラクの乳児死亡率,制裁による医薬品不足により倍増.

12.25 国連総会,「中東和平国際会議」の開催決議を採択.

12月 シリア在住の反政府組織を中心に共同行動委員会(JAC)が結成される.イスラム各派,共産党など左派集団が大同.

 

1991年 湾岸戦争

91年1月

1.09 米べーカー長官とタリク・アジズ外相,ジュネーブで会談.べーカー長官は,「期限までに撤退しなければイラクは破壊される」と通報する,フセイン大統領宛書簡を手渡す.アジズ外相は書簡の受取を拒否.

1.12 米議会,撤退が行われない場合の武力行使を認める決議採択.上院で賛成52反対47,下院で賛成250反対183.

1.12 デクエヤル国連事務総長がバグダッドを訪問.フセインと最後の交渉を行うが,不調に終わる.

1.15 イラク軍クウェート撤退期限切れ.多国籍軍は85万の兵力,2900機の戦闘機を国境地帯に配備完了.

1.17 「砂漠の嵐」作戦突入.「湾岸戦争」はじまる.米軍を中心とする多国籍軍がバグダッド空爆を開始.この後42日間で1日平均2000回の出撃.米軍はこの間,イラク,クウェート,サウジアラビアに推定300〜800トンの劣化ウランを投下.

1.18 イラク軍,イスラエルとサウジに対しミサイル攻撃.

1.24 イランのハメネイ師,イラク都市への空爆を「罪なき人々の虐殺」と非難.

1.24 日本政府,多国籍軍へ90億ドル追加支援決定.

1.25 重油まみれの「水鳥報道」,米国はイラクの環境テロと非難.実際は米軍が誘導爆弾によって原油貯蔵施設から流出させた自作自演.この「水鳥報道」と「イラク軍兵士による病院での乳児虐殺事件」は,米国が「湾岸戦争」で行ったデマ宣伝の典型.

91年2月

2.12 イラクの要請を受けたソ連のプリマコフ外相がバグダッド入り.停戦に向けた交渉を開始.

2.14 4:30am 米軍,バグダッド西部住宅地のアメリヤ防空壕を爆撃.避難していた市民1500人が死亡.米軍は1ヵ月後に誤爆と認める.

アメリヤ・シェルター
イラン・イラク戦争さなかの84年,フィンランドの建設会社によって建設された.広さ5千平米.扉の厚さ8センチ,重さ約5トン.天井の厚さは2メートル.

2.15 イラク,経済制裁決議の破棄とイスラエルの占領地からの撤退を条件に,国連安保理決議660の受諾を表明する.多国籍軍はただちに拒否.

2.15 ブッシュ大統領,パトリオット・ミサイルのメーカーのレイシオン社で演説.イラク国民にサダム・フセイン追放を呼びかける.

2.21 アジズ外相,ソ連を訪問しゴルバチョフと会談.イスラエル問題を条件としない撤退案を提示.ゴルバチョフはイラクが無条件全面撤退に同意したと発表.

2.22 イラク軍,クエートに対する焦土作戦を開始.150以上の油田を炎上させる.

2.23 ブッシュはソ連を通じたイラクの撤退計画を拒否.2月23日正午までの撤退か,地上戦突入かの最後通牒を通告.

2.24 ブッシュ大統領,イラクからの意思表示のないまま,地上戦の開始を命令.米軍は「砂漠の剣」作戦と呼ばれる地上戦を開始.

2.24 フセイン,バグダッド・ラジオを通じ撤退の開始を発表.イラク軍はバスラに向け撤退を開始.

2.25 アジズ外相,すべての国連決議を受け入れると発表.

2.26 米軍「ターキー・ショット」(囲いの中の七面鳥を射つ遊び)作戦.7マイルにわたる撤退部隊の列に連続空爆.この作戦で,クウェートからの多数の避難民も含め数千人が殺戮される.

2.26 多国籍軍がクエート市内に突入.夜間にかけて市街戦が展開される.

2.27 ブッシュ大統領,クエート解放を宣言.湾岸戦争の勝利と軍事作戦停止を宣言.フセインは「25日以降,クエートはイラクの領土ではなくなった」と演説.

2.28 イラクと米国,停戦に合意.多国籍軍がクウェートに入る.クエート駐留イラク軍側の死者は2万5千ないし10万人と推計される.イラク軍は戦車の95%,大砲の69%,兵員輸送車の65%を失う.

91年3月

3.02 米軍第二十四機械化歩兵師団,停戦後のイラク兵士数千人を殺害.米軍側の死者はなし.

3.02 国連安保理決議686号採択.

3.03 米軍とイラク軍司令官,停戦に合意.

3.03 イラク南部でシーア派,北部でクルド系の反乱が表面化.南部に対してはフセイン・カーミル,クルド人に対してはケミカル・アリが鎮圧に当たる.

3.06 湾岸協力会議6ヶ国と反イラク8ヶ国が「ダマスカス宣言」で合意.アラブ平和維持軍設置.

3.09 PUKとKDPの連合軍が、スレイマニヤ、キルクーク等を制圧.解放区とする.

3.16 サダム,南部暴動の鎮圧を完了したと宣言.アメリカはこの暴動に関与せず.

3.22 国連安保理,対イラク禁輸措置の大幅緩和を決定.

3月末 サダム大統領,首相兼任をやめ,ハンマーディを首相に任命.

3月 共同行動委員会(JAC),ベイルートで決起大会.25の政党,4つの組織,9人の主要政治家が参加する,過去最大の集会となる.

91年4月

4.03 国連安保理,「湾岸戦争」停戦決議687号を採択.イラクの査察受け入れを条件とする.

安保理決議687号の柱
@イラクは、大量破壊兵器,生物・化学兵器と核兵器、射程150キロ以上の弾道ミサイルを今後一切開発せず、保持もしないこと、
A現在所有するこれら兵器は,廃棄(破壊、除去ないし無力化)する.
Bその約束を遵守していることを確認する無条件、無制限の国連による査察、監視を受入れる(C項),ことを求める.
また,90年のクエート侵入時に課せられた経済制裁を再適用.制裁解除の条件を,「関連するすべての決議が履行されるまで」(決議687号21段落)とする.

4.06 イラク,国連停戦決議687号を正式に受諾.

4.25 米国の要請を受け,自衛隊の掃海艇,ペルシャ湾に向け出向.

4月 イラク軍がクルド人解放区を奪還.クルド人約数万人が虐殺され、大量の難民(150〜200万人)が発生する.国連はイラクのクルド人抑圧を非難する688号決議を採択.クルド人保護のためとして北緯36度線以北に飛行禁止空域を設定.

91年5月

5.19 ラムゼイ・クラーク元米国司法長官,米大統領らを戦争犯罪で告発.

5月 停戦後のイラクの市民の死者,15万人を上回る.犠牲者の大部分は子ども.

5月 イラクはUNSCOMとその職員が特権・免責を持つことを受け入れる.そのなかには「UNSCOM職員の出入国,および設備・機材などの搬出入に関する無制限の自由の権利」が含まれる.

91年6月

6月 イラク国外において,反体制派の集合体「イラク国民会議(INC)設立.

6.09 国連大量破壊兵器廃棄特別委員会(UNSCOM),最初の化学兵器査察を開始.以後ミサイル査察,生物兵器査察も相次いで開始.

6.15 日本,国連平和維持活動(PKO)協力法成立.

6月 イラク兵士,査察官が車両に近づくのを妨害するため威嚇射撃.

91年7月

7.12 「悪魔の詩」の翻訳者,五十嵐一筑波大学助教授が暗殺される.

7月 UNSCOM,化学兵器とその生産施設の廃棄を開始.

8.15 国連安保理,「イラク国民の栄養学的・健康上の深刻な状況」に鑑み,石油の一部輸出が認められる(決議705,706号).イラク側はこの提案を拒否.

9.06 UNSCOMのヘリ使用をイラクが妨害.

9月 フセイン,ハンマーディ首相を解任.自ら首相職に返り咲く.これによりクルド自治交渉も中断.

9月 イラク政府職員,査察官の書類を没収.査察団による施設からの書類持ち出しを禁止する.国連安保理が強制措置を取るとの声明を出したあと,イラクは書類の持ち出しを認める.

10月 イラク,決議715号による継続的監視・検証計画は違法であり,この決議に従うつもりはないと述べる.

10月 ブッシュ大統領,国家安全保障副顧問ロバート・ゲイツを通じてフセイン政権の転覆工作を企画.1500〜4000万ドルの資金を準備したとされる.

 

1992年

2 イラク,施設および関連物資を破壊するとしたUNSCOM・IAEAの決定に従うことを拒否.

3 ニューヨークでイラク制裁の犯罪性を暴く国際戦争犯罪法廷が開かれる.ラムゼイ・クラーク元司法長官らが主催.18カ国22名の判事が,19件の戦争犯罪告発のすべてについて,米国およびその高官を有罪と断じる.

4 イラク,UNSCOMによる監視飛行の中止を求める.航空機とパイロットに危険が及ぶ可能性があると主張.国連安保理議長は,UNSCOMが監視飛行の実施権限を有すると述べ,監視機攻撃の脅迫に抗議.イラクは監視機に対するいかなる行動も考えていないと回答.

5.19 史上初のクルド人地域での自治議会議員選挙.北部山間部を基盤とするKDPのバルザーニ(故バルザーニの息子)と,南部平原部を基盤とするPUKのタラバーニが,共同議長に就任.政府閣僚・自治政府議会議員も両者が二分.

6月 イラク国民会議(INC),ウィーンで設立会議.アフマド・チャラビが議長に就任.チャラビは亡命後ヨルダンで銀行を創設,不正疑惑によりヨルダン当局から有罪判決を受けた人物.

7.06 イラク,農業省への立ち入り調査を拒否.査察団は,「農業省には禁止された活動に関連する文書が保管されているとの信頼できる情報がある」と主張.国連安保理が圧力をかけ,農業省への立ち入りが認められた.

7月 UNSCOM,化学兵器とその生産施設への大規模廃棄を開始.

8.27 米英仏の三国,北緯32度以南のイラクのシーア派居住地区を「シーア派の保護」のために「飛行禁止空域」に指定.停戦直後に設定された,北緯36度以北のクルド人居住区の飛行禁止空域と同様,国連の休戦条約にも制裁規定にも定められていない一方的な処置.南北の飛行禁止空域は,ともに油田地帯.

10月 イラク国民会議(INC),クルド地区のサラハディンで合同会議を開催.JACのイスラム各派や共産党勢力も結集.

12.03 ソマリアへ多国籍軍を派遣する国連安保理決議が採択される.アメリカ海兵隊1800人がソマリアの首都モガディシオに上陸.アイディード将軍派の武器倉庫から1000トン近い武器を押収.

12.27 米国,南部飛行禁止空域に進入したイラク軍のミグ25戦闘機を撃墜.

93年 この年のGDPは,開戦直前の43%にまで落ち込む.停戦後のイラクの市民の死者,十五万人を突破.死者の大部分は子供で,原因は爆撃による公共施設の破壊と制裁の継続.

 

1993年

1.13 米英軍,北部と南部の飛行禁止空域でイラク軍の対空砲陣地を爆撃,イラク軍機を撃墜.クラスター爆弾も投入.国防総省は,「攻撃は飛行禁止区域内へのミサイル配備に対抗したものであり,警告なしで繰り返され得る」と述べる.

1.17 米軍艦から45発のトマホーク巡航ミサイルがバグダッドおよびその周辺に向け発射.ミサイルのうち一発はバグダッド市内のアルラシド・ホテルに命中する.

1.20 ウィリアム・J・クリントン,第42代米国大統領に就任.

1.21 クリントンの就任翌日から連続3日間,米軍ミサイルがイラク軍の対空砲陣地を攻撃.

1月 米国CIA要員が,イラク国内でスパイ活動を行っていた疑惑が発覚.イラクは,UNSCOMが自らの航空機でイラク入りすることを拒否.

2.26 マンハッタンにある110階建ての世界貿易センタービルの地下で大規模な爆発が起こり,7人が死亡,600人が負傷.容疑者としてイスラム原理主義者マムード・アブハリマがカイロで逮捕される.

4.09 米軍F16およびF4G戦闘機,イラク北部を爆撃.発砲を受けたとしてクラスター爆弾を投下.イラクは発砲を否定.

4.18 F4G戦闘機,北部「飛行禁止区域」の南方11マイルにあるレーダー基地のHARM高速対放射線ミサイルを爆破.

6.08 PKKのオジャラン議長,トルコ政府の度重なる住民虐殺に抗議し,トルコ政府との「全面戦争」を宣言.ヨーロッパの計20カ国で、トルコ政府施設に対するテロ.

6.26 クリントン大統領,バグダッドの情報機関本部に対し23発のトマホーク巡航ミサイルの発射を命令.この攻撃で,著名な芸術家ライラ・アッタとその家族など,多くのイラク市民が死亡.クリントンは,「4月にクウェートを訪問したブッシュ前大統領に対し,イラクが企てた暗殺計画への報復」と攻撃を説明.メディアはクリントンの主張の信憑性を疑問視し,攻撃は安直で過敏な反応だと批判.

6.29 トマホーク・ミサイル,再度イラク(南部の軍用施設)を攻撃.米国はイラクのレーダー・システムが米軍機を追跡したためと説明.

6月 イラク,UNSCOMの査察官がミサイル・エンジン実験台2基に遠隔監視カメラを設置することを拒否.

10.04 ソマリアの首都モガディシオで,米軍ヘリコプター2機が撃墜される.米兵5人が死亡,数人が行方不明となる.

11.26 イラク,安保理決議715号による継続的な監視・検証計画を受け入れ.

 

1994年

5.04 イエメンで内戦発生.2ヶ月にわたる.

5月 KDPとPUKが内戦を開始.KDPはイラク政府と手を組みPUKを放逐.自治区南部はイラク政府の支配下に入る.

10.15 国連安保理は決議949号を採択.イラクに対しUNSCOMに「全面的に協力する」こと,およびイラク南部に展開する軍隊を撤退させ,当初の配置に戻すことを求める.イラクは軍隊を撤退させ,UNSCOMとの協力を再開.

94年 フランスとソ連,「イラクが国際的な監視に基づく大量破壊兵器の武装解除に従い,長期的な監視プログラムを受け入れれば,イラクは石油輸出を再開することができる」とする687号決議の第22段落に即し,経済封鎖の解除を求める.米英両国は,21段落に基づく封鎖続行を強く主張し押し切る.

94年 ワフィーク・サマライ元イラク軍事諜報局長が亡命.

 

1995年

4.14 国連安保理,「停戦決議完全履行までの一時的措置として」半年ごとに20億ドル以下の石油輸出を許可.販売代金を用いて人道物資を購入することを許可.「食料のための石油」計画と呼ばれる(安保理決議986号).イラクは「経済制裁の完全解除以外のいかなる妥協も受け入れない」とし,国連提案を拒否.

4.19 オクラホマシティーの米連邦政府ビルで,車爆弾によるとみられる大規模な爆発.9階建てビルの3分の1が吹き飛ぶ.当日夜までで30人以上の死亡,200人以上の負傷,300人以上の行方不明が確認.

4.21 オクラホマの爆弾テロ事件で,ミシガン州の白人右翼武装組織「ミシガン・ミリシャ」のティモシー・マクベイが逮捕される.

5月 サダムに近いとされてきたドゥレイミ部族の部隊が反乱.アリ・ハサン国防相が引責辞任.

6.26 エチオピアを訪問中のムバラク大統領,銃撃されるが無事.スーダンのガマアト・イスラミヤが犯行声明.

6月 フセイン大統領の長男ウダイ,ワトバーン・イブラヒム内相に発砲,負傷させる.

7.01 イラク,攻撃的生物兵器開発計画の存在を認める.

8.08 イラクのフセイン・カミル元軍事産業相,ウダイとの確執からヨルダンに亡命.イラクの所有する大量破壊兵器に関する情報を暴露.以後,UNSCOMの査察が厳しさを増す.

8月 ヨルダンのフセイン国王,カミル亡命を期に,イラク支持からサダム体制打倒に乗り換える.

10月 サダム・フセインに対する信任投票。賛成が99.96%と発表される。

11月 リヤド(サウジ)の米軍駐屯地で.車爆弾によるテロが発生.

95年 この年の年間輸入額は6億ドル,開戦前の7%にまで落ち込む.FAOは「食料価格は戦前の4千倍に上昇した」と報告.世界食糧計画(WFP)は,「イラク政府が実施している配給だけでは,必要カロリーの半分,たんぱく質は半分以下しか供給されていない」と報告.

 

1996年

1月 トルコ南東部を基盤とする福祉党が、正義党との連立で政権を獲得.多くのクルド人が福祉党を支持.

2月 フセイン・カミル,イラク国内に戻った後殺害される.

3.17 米国がUNSCOMの遠距離監視機材に秘密裡に盗聴装置を仕掛けたことが明らかになる.イラク治安部隊,UNSCOMが施設5カ所に立ち入ることを拒否.17時間後に立ち入りを認められる.

3.19 国連安保理,議長声明を発表.「イラクによる関連決議に対する明白な違反」であるとし,イラクの行動に対する懸念を表明.UNSCOMが対象施設すべてに即時,無条件かつ無制限に立ち入ることを認めるよう求める.

3.27 国連安保理は決議第1051号を採択.イラクの輸出入を監視する体制を強化.イラクに制限事項の遵守を求める.また査察団に全面的に協力することが求められる.

5.08 イラク経済制裁の部分解除で,国連とイラク政府が合意.

5月 UNSCOM,イラクの主要な生物兵器生産工場であるハカム工場を破壊.

96年6月

6.10 UNSCOMの査察団,禁止条項の「隠蔽の手口」を調べるために,施設に立ち入ろうとするが,イラクはこれを拒否.

6.12 国連安保理は決議第1060号を採択.イラクの行動は国連安保理の決議に対する明らかな違反であると断定.あらゆる施設への「即時かつ無制限の立ち入り」を許可するよう求める.

6.13 イラク,決議第1060号を無視し,新たな査察団の立ち入りを拒否.

7月 サウジのダーランにある米軍宿舎で爆弾テロ.

8月 KDPとPUKが再び交戦開始.KDPの要請を受けたイラク軍が自治区に侵攻しPUKを追放.クルド地区南部のINC拠点は破壊され,INCの軍事局、諜報局は200人の死者を出す.INCやクルド諸勢力は報復を恐れアメリカ亡命を希望するが,米国は彼らをグアムに収容.

9月 米国,クルド侵攻作戦に対する制裁として,イラク南部の防空施設を巡航ミサイルで攻撃.

10月 UNSCOMとともに活動していたCIAの秘密エージェントが,イラク共和国防衛隊によるクーデターを仕掛けたことが明らかになる.

11月 UNSCOM,国外で分析を行うためミサイル・エンジンの残骸を持ち出そうとする.イラクは,これを阻止.

12月 イラク,安保理決議986号の受け入れを表明.「食料のための石油」計画が発足する.

12月 「残忍で野心家でスケベで浪費家」のウダイ・フセイン,銃撃され重傷を負うが命を取り留める.

96年 INAが設立される.英米、サウジ、ヨルダン、クウェイトの諜報関係者の間で共闘体制を確立.ヨルダン経由で共和国防衛隊、特殊部隊などへの工作を強化.INCとは当初より対立.

 

1997年

5.24 イラン大統領選でハタミ師が当選.

5月 米国上院,化学兵器禁止条約を批准.批准するにあたって,「査察が国家安全保障上の利益に対する脅威となる場合,合衆国内のいかなる施設に対する査察要求も拒否できる」とする修正第307条条項を追加.

6月 UNSCOMのヘリコプターに同乗したイラクの護衛兵は,パイロットが予定された目的地に向かうのを妨害.

6.21 イラク,UNSCOMの施設立ち入りを,再度拒否.

6.21 国連安保理は決議第1115号を採択.イラクの行為を非難し,あらゆる施設の即時,無条件かつ無制限立入りを求める.

97年9月

9.13 ヘリコプターに乗っていた査察官,施設内で不審な動きをしていたイラク車両の写真を撮ろうとして,イラク軍将校から暴行を受ける.

9.17 「機密区域」内の施設に立ち入ろうとしたUNSCOM査察官,イラク兵がファイルを持ち出して焼却し,灰の入った缶を近くの川に捨てているところを目撃.その様子をビデオに撮影.

9月 イラク,査察団の大統領関連施設立ち入りを拒絶.

10月 UNSCOM,大量の化学兵器製造関連設備の破壊を完了.

10.29 イラクの副首相,国連査察団の米国メンバー追放をもとめる手紙を,安保理議長あてに提出.国連は査察団の活動を一時停止.

97年11月

11.12 国連安保理は決議第1137号を採択.イラクは義務に違反し続けていると非難.義務違反について責任のあるイラク当局者の移動も制限.

11.13 イラクは,UNSCOMで働く米国民に対して直ちに国外に退去するよう求める.

11.26 イラク,「査察委員会の米国人メンバーを削減し,ロシア・中国人メンバーを増やす」というロシアの調停案を受け入れ.大量破壊兵器の長期にわたる査察を受諾すると表明.これと交換に国連制裁の解除を要請.

11月 エジプトの観光地ルクソールで日本人観光客がイスラム原理主義者のテロに襲われ大量殺害される.二ヶ月前にも,カイロ博物館前で,観光バスに乗っていた欧州観光客20数名が殺害される.

12.22 国連安保理,イラクに対して,査察への全面的協力を求める声明を発表.施設への即時,無条件かつ無制限の立ち入りを認めないのは,安保理決議に対する容認不可能な違反であると強調.

12月 米国務長官マドレーヌ・オルブライト,経済封鎖解除の「687号決議21段落」基準をさらに強化.「イラクが武装解除しても,サダム・フセインが権力を掌握している限り経済制裁は解除しない」と述べる.

97年 UNSCOM代表,ロル・エケウスからリチャード・バトラーに交代.オーストラリア外交官出身のバトラーは,米英の意向に忠実な路線をとる.

 

1998年

1.11 イラク,国連査察団が米国の意向を偏重しているとして活動停止を通告.

2.20 アナン事務総長,イラクによる国連査察拒否問題の打開のため,バグダッドを訪問.フセイン大統領と会談.査察への全面協力と引き換えに,スパイ疑惑の解消のため,査察に「特別チーム」を同行させると表明.

2.20 国連安保理,イラクの半年度輸出許可額を20億ドル(決議986)から,50億ドルに引き上げる(決議1153).査察再開の見返りとなる.

2.23 アナンとフセイン,大統領宮殿の査察受諾で合意.査察団に外交関係者も随行するという査察手続き規定を策定.イラクは,国連安保理の関連決議をすべて受け入れ,UNSCOMとIAEAに「即時,無条件かつ無制限の立ち入り」を許可することを約束.

一、イラク政府は、安全保障理事会のすべての関連決議の受諾を再確認し,UNSCOMとIAEAに全面協力する.  
二、国際連合は、イラクの主権と領土保全を尊重する.  
三、イラク政府は、UNSCOMとIAEAの 即時、無条件、無制限の立ち入りを認める.UNSCOMは、国家の安全保障、主権、 尊厳に関するイラクの正当な関心を尊重する.  
四、国際連合とイラク政府は、イラク大統領施設八カ所の立ち入りに は、以下の特別の手続きが適用されることで合意する.  
a、事務総長によって「特別グループ」が設置される. このグループは、事務総長が任命する高級外交官およびUNSCOMとIAEA の専門家で構成され,事務総長が任命するコミッショナーが長を務める.  
b、「特別グループ」は、具体的に詳述された手続きのもとで活動する.  
c、「特別グループ」の活動に関する報告は、事務総長を介して安全保障理事会に提出される.

3月 共和党タカ派が主導権を握る米上院が,イラク反体制派支援のため国務省予算に3800万jを増額.政治的支援や反体制派のラジオ放送のためとされる.ウォルフォウィッツは「フセイン政権が代わらなければ、再びイラクが軍事大国の道を歩み、湾岸地域の安定を脅かす」と主張.

6.30 米軍機,イラク基地にミサイル攻撃.

6月 アメリカ,「VXガスが付着したミサイル弾頭が押収された」と発表.その後,スイス・フランスで行われた追試ではVXガスを確定できず.

7.27 IAEA,イラクの「核保有の兆候なし」との現状報告を国連安保理に提出.

98年8月 アフリカの同時多発テロ

8.05 米議会,イラクの反政府勢力に武器供与などを認める「イラク解放法」可決.

8.05 イラク革命評議会とバース党指導部,イラク国会は,国連安保理が原油の輸出禁止措置の解除に同意するまで,UNSCOMやIAEAとの協力を停止すると決定.背景に10億ドルを越える石油のヤミ輸出.

8.07 タンザニアの首都ダルエスサラームのアメリカ大使館前で車爆弾が爆発.大使館員など10人が死亡,77人が重軽傷.数時間後,ケニアの首都ナイロビのアメリカ大使館に車爆弾が突入.大使館は大破し,218人が死亡し1000人が負傷.「イスラム聖地解放軍」が犯行声明.

8.17 クリントン大統領が連邦大陪審で証言.その後テレビ演説で「不適切な関係」(エッチ)があったが法に触れるような行為はなかったと釈明.

8.20 クリントンは,米大使館同時爆破事件をウサマ・ビン・ラーディンの組織によるものと断定.報復としてアフガニスタンとスーダンの「テロ関連施設」を巡航ミサイル75〜100発で攻撃.ウサマはサウジアラビア出身の富豪で過激派指導者.

8.21 スーダンの「テロ関連施設」とされたハツルーム郊外20キロの製薬工場は,テロ活動とは無関係であることが判明.また,スーダン政府は当時すでにアルカイーダと絶縁していた.スーダン国連代表部は安保理召集と現地調査団派遣を要請.

98年10月 イラク,査察を全面拒否

10月 アナン事務総長,「査察プロセスを再生させるための包括的見直し」提案を安保理に提出.武装解除計画に『現実的な時限』を設定し,経済制裁に期限をつけるもの.安保理はイラクの査察全面協力を条件に「包括見直し」を開始することで合意.

10月 イラク側は,第687号決議第22段落,「武装解除作業が終了すれば経済封鎖が解除」されるかどうかの確証をもとめる.

10.30 安保理議長(英国),イラクへの回答の中で,立証責任をイラクに差し戻し,経済封鎖の期限について言及せず.

10.31 イラク,大統領関連施設の査察を拒否.国連大量破壊兵器廃棄特別委員会(UNSCOM)への協力を停止すると発表.国連安保理,イラクへの非難声明.

10月 米議会,「イラク解放法」を採択.1億ドルにのぼる反体制派軍事支援を承認.オルブライト国務長官は当初「反体制派は分裂しており,政府転覆の後の内戦が心配である」としていたが,タカ派のウォルフォウィッツ,ウールジー共和党議員らに押し切られる.クリントンは「フセイン政権の打倒を目指す」政策を明示.

98年11月 査察再開で合意

11.01 米軍,湾岸へ部隊増派を決定.

11.04 同時爆弾テロの実行容疑者アリ・ムハマド,作戦がオサマ・ビン・ラディンの指示によるものだったと証言.

11.14 イラクはアナン事務総長への書簡で査察再開に同意.

11.16 コーエン米国防長官,査察の無条件協力を拒めばイラクを無警告で攻撃と言明.

11.18 UNSCOM調査団,バグダッドに戻り作業を再開.

98年12月 砂漠のキツネ作戦

12.09 イラク,与党バース党本部への査察を拒絶.イラク側によれば,4名の査察団による査察は受け入れたが,その後主任査察官が12名の査察官の立ち入りを要求したため拒否したという.

12.15 リチャード・バトラーUNSCOM委員長,イラクが協力しなかったため,査察活動は「まったく進捗しなかった」とする報告書を提出.報告書の本体においては,300回の査察活動ほとんどすべて問題なく進み,問題が発生した5件の査察活動も,ほとんどは些細なものであったという.

12.15 バトラー代表,「報告書」提出後ただちに,安保理に報告しないまま査察団を引き揚げる.バトラーは米国当局筋から,空爆日程が直後に迫っているという強い示唆を受けたという.

12.16 米英軍,「査察プロセスが崩壊した」とし,イラク攻撃「砂漠のキツネ作戦」.安保理への事前通告なし.三日間で,政権関係施設をふくめ97ヶ所に対し「湾岸戦争」時を上回る巡航ミサイル数で攻撃.バーバラ・リー米国下院議員,攻撃反対の声明.日本政府は攻撃支持を表明.

12.17 クリントン弾劾訴追の審議と裁決のための本会議,砂漠の狐作戦により延期される.

12.19 ユニセフ,「湾岸戦争」とその後の経済制裁で,すでに100万人以上のイラク人が死亡したと発表.

 

1999年

1.10 UNSCOMのリチャード・バトラー委員長,イラク当局への盗聴活動を認める.

10.29 ニューヨークでイラク反体制派の総会.INC議長チャラビの独裁体制への批判が噴出.新たなINC指導部および中央評議会を設置.@王族のシャリーフ・アリーを中心とする、Aこれまでのシーア派の独占に代え若干のスンナ派を加える,ことで合意.

12.17 国連安保理,決議1284号を採択.UNSCOMに代わる新たな査察機関として国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)を設置.これと引き換えに石油輸出上限額を撤廃.これにともないイラクの石油輸出額は劇的に増大.湾岸戦争直前のブーム期に匹敵する額まで増加する.国連安保理決議により収入の5割が割り当てられた国連諸機関は,時ならぬブームに沸く.