パレスチナ 苦難の歴史

2013年6月

 

1900年 シオニストの入植

20世紀のはじめ、パレスチナはオスマントルコ帝国の一部でした。当時の人口は63万人と言われます。

同じイスラムでも、オスマントルコはトルコ人、パレスチナはアラブ人ですから、異民族支配という状況には変わりありませんでした。しかしトルコ人は圧倒的少数で、パレスチナ人が土地を追い出されたりすることはありませんでした。

1901年はネガティブな意味で記念すべき年です。この年ユダヤ国民基金が創設されたのです。ヨーロッパに散在するユダヤ人は、パレスチナこそ我らの祖国だと主張し、金を出しあってパレスチナの土地を買い,入植を奨励したのです。

やがてユダヤ人はテルアビブを中心として「祖国」を建設し始めました。と言ってもまだこの頃は一種の宗教的色彩を帯びたボランタリーなものでした。

 

第一次世界大戦 パレスチナの「独立」とユダヤ人「準国家」の成立

第一次世界大戦でパレスチナの領土を占領したのはイギリスでした。とはいえ、アラブ人の力もなみなみならぬものがあり、イギリスはこの地域 を大アラブ王国として独立させることにしました。首都はシリアのダマスカスに置かれ、パレスチナ地方もこれに含まれることになりました。

独立と言ってもイギリスの信託統治下における自治領なので不完全なものですが、正直、アラブ人にも統治・行政能力はなかったので、やむをえざるものがありました。

しかしこの時イギリスはせこい手を使ったのです。イギリスはユダヤ人の銀行家から多額の戦費を借りていたので、ユダヤ人の要求に応える必要がありました。そこでイギリス政府はパレスチナにユダヤの「民族的郷土」を建国することを承認したのです。

民族的郷土(National Home)とは,主権を持った国家ではないものの,その道程にある政治的存在なんだそうで、訳が分かりませんが、まぁ後は当事者同士でうまくやってくれというようなものでしょう。

まあそれでも良いか、とパレスチナ人をふくむアラブ人はたかをくくっていました。パレスチナの国土は地中海海岸とヨルダン川河谷に挟まれた 高原地帯で、放牧民の暮らす半砂漠の荒れ野が広がっていましたから、そこにユダヤ人が入植して「ユダヤ共和国」を作っても大したことはあるまい、そのうち 辛抱できずに退散するだろうと思っていたのでしょう。

シリアのアラブ国王はシオニストの代表ワイツマンと会見し、「パレスチナへのユダヤ人の大量移民を奨励する」ことで合意しています.少なくとも最初は、アラブは宥和的だったことが分かります。

ところが、第一次大戦が終わった後、イギリスはこれらの約束は裏切られます。イギリスはシリアとレバノンをフランスに与え、それ以外のイラク,パレスチナを国連委任統治という名目で自国の植民地としてしまいます。当初は現在のヨルダンもふくめてパレスチナでした。

いっぽうでユダヤ人との約束はそのまま守られました。こうしてパレスチナ人はイギリスの支配下にユダヤ人と強制的に併存させられるようになったのです。

 

準国家から国家への動き

パレスチナのアラブ人は、この状況に大いに不満でした。そこでイギリスに対し、5項目要求というものを提出します。その要求はきわめて穏和で、いま考えても説得力のあるものでした。

つまりイギリスは出て行ってください。残った者たちはユダヤもアラブも相和してパレスチナの国造りを目指しましょうというものです。それで 国の形が決まるまでは、とりあえずユダヤ人の入植は止めましょうということですから、きわめて常識的な対応です。「善きサマリア人」そのものです。その大 枠は今日のPLOにも継承されています。

高まるアラブ人の不満に対応を迫られたイギリスは、さらに次の手を考えだしました。それはパレスチナをヨルダン川を境に二つに分けるという ものです。こうしてヨルダン川の東岸に「トランスヨルダン首長国」がつくられ、パレスチナ西部は「英領パレスチナ」として直接統治下に置かれることになり ました。

うるさい連中を切り離して、ユダヤ人を直接の庇護のもとに置こうということですから、事実上イギリスがイスラエル建国の足がかりを作ったよ うなものです。当時の国際連盟もだらしなくて、この措置を承認するどころか、「この地に対するユダヤ人移民と開拓」の助成をイギリスに促したのです。

これが1922年のことですが、当時すでに6万人のユダヤ人が入植していました。これに対し先住のパレスチナ人は67万人とされています。 人口でいうと1対10ですがユダヤ人には金があります。工場を立て、店を開き、機械化農業を展開しました。そうするとかなりのパレスチナ人が直接・間接を 問わず雇われることになるので、影響力はすでにイーブンの状態にまで達していました。

そうすると、両民族の関係は階級的色彩を帯びるようになります。これらの労働運動を指導したのはパレスチナ共産党でした。

もう一つ、ユダヤ人は元からいるパレスチナ人から土地を買ったり借りたりして農業や工業を始めるのですが、とかくこの手の契約に揉め事はつきものです。とくにパレスチナの地には耕作可能な農地は限られていますからたちまち紛争が勃発します。

 

ユダヤ人武装組織の登場

最初の大規模な衝突が、1928年の「嘆きの壁」事件です。エルサレムにある「嘆きの壁」というのはユダヤ人にとってもアラブ人にとっても 聖地でした。ここでの集会をめぐり双方の過激派が衝突。ユダヤ人100人以上が殺されます。イギリスはエジプト駐留部隊を派遣し鎮圧しますが、その過程で 今度はアラブ人100人以上が殺されます。

これを契機にユダヤ人は武装組織の形成を急ぎました。「イルグン・ツヴァイ・レウミ」という部隊は後の首相ベギンが指揮していました。ユダヤ人社会はパレスチナ人を暴力的に排除しながら拡大し、名実ともに国家の様相を示すようになりました。

この傾向を一気に進めたのが33年のナチス政権の成立でした。欧州各国からの流入で,一気にユダヤ人人口が40万人に増加しました.パレスチナの土地の5.7%がユダヤ人の手に渡りました.

この怒涛のようなユダヤ人の流入に、アラブ人の反発が強まります。36年にはユダヤ人の移民停止を要求して「アラブ大反乱」と呼ばれる暴動が起きます。一部はイギリスの地区弁務官を暗殺するなどのテロ活動を展開するに至ります。

アラブ人の抗議はますますユダヤ人の危機感を強めます。ヨーロッパ各地でユダヤ人が漂泊の民となっている。これを一人でも多く救出しパレス チナの地に連れ出したいという気持ちの現れでしょう。しかし地元からは猛反発を喰らい、肝腎のイギリスもこれ以上のユダヤ人を送り込むことには及び腰で す。

それを押しこむには力しかない、ということでしょうが、先住者の事情はお構いなしです。シオニストの指導者ジョセフ・ワイツは,「アラブ人 のすべてを,この土地から隣接諸国に移住させる以外に方法はない.アラブ人の一村落,一部族たちとも残してはならない」と主張しました.

 

イスラエル建国へ

1942年、ユダヤ人幹部のベングリオンらは、イギリスに対しイスラエル国家の創設を要求する「ビルトモア綱領」を発表しました.この宣言 はパレスチナのみならず全世界のユダヤ人の熱狂的支持を受けました。シオニスト武装組織は移民制限に抗議してイギリスへのゲリラ攻撃を開始します.ベギン の首には二千ポンドの賞金がかけられました.

1945年、終戦とともにアラブ諸国では独立の動きが相次ぎます。シリアがフランスから、ヨルダン、イラクがイギリスからそれぞれ独立を果たします。そのなかでパレスチナの動きが注目されるようになりました。

アラブの支援受けながらアフリカ戦線を戦ったイギリスは股裂き状態になり、パレスチナの統治を放棄します。イギリスに後始末を押し付けられ た国際連合は、パレスチナ分割を決めます。分割は、アラブにとってはまことに理不尽ではありますがやむを得ない措置であったと思われます。なぜならパレス チナ人との共存をあくまで拒むユダヤ人が60万人に達していたからです。共存を主張していたパレスチナ共産党はこの時までに内部分裂し、事実上崩壊してい ました。

しかし分割の比率はきわめて不当なものでした。人口で3分の1,所有地で6%を持つに過ぎなかったユダヤ人が,パレスチナの56.5%の土 地を獲得することになったのです.これはどういうことを意味するか。考えなくても分かります。パレスチナ人の土地からの追い出しを国際的に承認したという ことです。

ここからパレスチナ人の苦難の歴史が始まります。

 

1948年 第一次中東戦争

5月、ユダヤ人はテルアビブで独立国家「イスラエル」の建国を宣言しました.アラブ諸国はこ れに猛反発しイスラエルとの戦争を宣言します。イスラエルはイギリス軍内のユダヤ人部隊を中核に部隊を組織します。さらに民兵隊がパレスチナ人の集落を襲 撃してパレスチナ人の追い出し行動を開始します。

中でも有名なのが建国宣言の直前にベギンの部隊の行った「デール・ヤシンの虐殺」です。彼らはデール・ヤシンという村を襲い、住民250人全員を虐殺しました.さらに生き残った村民をエルサレムまで行進させ,さらしものにしました。

アラブ諸国はパレスチナに一斉に侵入しました。5月の末にはエルサレムが陥落、イスラエルの命運は風前の灯となりました。このとき国連が謎の介入を行います。そして両者に1ヶ月の休戦を命じます。

どう考えてもやらせとしか思えません。その1ヶ月の間にイスラエルは兵器を購入し、世界各国から義勇兵を募集し、戦いに備えました。そして 休戦期間が終わると同時に総攻撃をかけたのです。その間わずか10日間です。イスラエル軍は一気に国境線を超えて進撃しました.そして武器・弾薬が切れる ころ、ふたたび国連は休戦を命じたのです。

こんな喧嘩では勝てっこありません。翌年2月、アラブの盟主エジプトがイスラエルとの停戦に応じました。その後も戦闘を続けたシリアも7月には停戦に至ります。この戦争でイスラエルは旧パレスチナ地域のほとんどを確保するに至りました。

と、ここまでは歴史の教科書にも載っているのですが、実はここからがひどいのです。この戦争の過程でパレスチナ人の7割にあたる90万人以 上が家と故郷を失い、国外に追放されました。戦争後、国連はこれら難民の帰還を促す決議を採択するのですが、イスラエルはこれを拒否するのです。戦争はア ラブ諸国が起こしたのだから、パレスチナ難民はアラブ諸国が受け入れるべきだというのです。驚くべきへ理屈です。

さらにひどいのが「不在者財産没収法」です。「戦争中に一度でも自分の居住地を離れたものの家屋や財産は没収される」というものです.どこ を押せばこのようなセリフが吐けるのでしょう。この法律により戦場となった370カ村のうち300カ村,3500平方キロが没収されました。つまり第一次 中東戦争はイスラエルの独立を目指す戦争ではなく、パレスチナ住民を追い出すための戦争であったことが分かります。

このようなイスラエルを国連は正式加盟国として受け入れました。米英仏三国は共同宣言を発表し、中東の“現状維持”で合意しました。ようするに出来レースだったわけです。

 

1959年 アル・ファタハの結成

難民と化したパレスチナ人はヨルダンやレバノンの難民キャンプで暮らすようになります。難民キャンプの青年たちは職もなく、未来もない状態でした。その中から最初の武装抵抗組織が生まれます。それがアル・ファタハ(パレスチナ民族解放運動)です。

指導者のヤセル・アラファト(別名アブ・アンマール)は,エルサレムの名門フセイン家の出身でした.カイロ大学を卒業してエジプト軍の予備将校となっていました。他のメンバーも,多くが50年代末にエジプトに留学していたパレスチナ人学生の出身です.

こういう構成からも分かるように、アル・ファタハはエジプトのナセル政権の強い後押しを受けて生まれた組織です。ナセル政権そのものがイス ラエルとの戦争によって生まれた政権と言えます。第一次中東戦争での敗北はエジプトの青年に強い危機感を呼び起こしました。彼らは腐敗した王政のもとでは イスラエルに打ち勝つような強大なアラブ人国家を形成することはできないと考えるようになりました。

そこで1953年にクーデターを起こして王政を打倒し、封建制度を改革し、軍の強い統制下に富国強兵策をとることになりました。そして再度 イスラエルに闘いを挑むのですが、これもあえなく敗れます。逆にエジプト本土に攻めこまれそうになったエジプトは、スエズ運河を占拠し国有化を宣言しまし た。そして国際世論の後押しにより、かろうじて本土防衛に成功します。

パレスチナ解放の目標が困難となったとき、エジプトはゲリラ戦争を仕掛けることで内部の混乱を目論んだのだろうと思います。

ここで、アル・ファタハとPLOの関係について説明しておきます。1964年にナセルとアラブ諸国の後押しで第一回パレスチナ国民会議 (PNC)が開催されました.会議のメンバーは地方有力者の代表と武装組織の代表から構成されていました。会議は執行機関としてパレスチナ民族解放機構 (PLO)を結成することで合意しました.執行部の主要メンバーは親エジプト派の人物が占めます。アラファトらアル・ファタハはこの時はPNCメンバーの 一つでしかありませんが、相次ぐ作戦の成功により民衆の支持を獲得していきます。

この会議では同時に「パレスチナ民族憲章」が採択されました。前にも書いたように、40年前にパレスチナ人が掲げた5項目要求を踏襲し、多 民族共存の国家づくりを目指しています。ただ異なるのは、5項目要求のあとに出来た「イスラエル」国家を認めず、その解体を求めていることです。

 

ゲリラ闘争の高揚

パレスチナ・ゲリラの闘争が高揚したのは、皮肉にもアラブの三度目の敗北のためでした。しかも三度目の敗北はわずか6日間でエジプトとアラブの連合軍が壊滅するという屈辱的なものでした。

67年6月はじめ、イスラエル軍は突如先制攻撃を仕掛けます。エジプトの空軍基地を狙いすまして攻撃。1日で戦闘機300機を破壊してしま いました。制空権を奪った後、今度は戦車が一斉に侵攻を開始します。瞬く間にシナイ半島のエジプト軍は壊滅し、イスラエル軍はスエズ運河の東岸にまで達し ました。こうなると運河の封鎖はエジプトの切り札にはなりません。

エジプトは3日目で早くも降伏してしまいます。シリアはその後も何日か抵抗を続けますが、やがて降伏を強いられます。

絶望的な状況の中で、わずかにパレスチナ・ゲリラだけが「戦果」を上げ、民衆のウサを晴らすことになります。もっとも伝統的なアル・ファタハがPLOの主体を掌握するようになった他、シリアの支援を受けた「サイ カ」,イラクと結びついたアラブ解放戦線(ALF),社会主義諸国と結びついたパレスチナ解放人民戦線(PFLP),パレスチナ解放民主戦線 (PDFLP)などがあいついで名乗りを上げました.

ゲリラ闘争の中で「伝説」となっているのが1968年3月の「カラメの戦い」です。イスラエル国内で子供を乗せたバスが,アルファタハの仕 掛けた地雷に触れ大破しました.イスラエル軍は報復のためヨルダン領内に侵入し、ヨルダン川東岸の町カラメのアルファタハ基地を襲撃しました.アルファタ ハのコマンド部隊は,ヨルダン正規軍と協力しイスラエル軍の攻撃を撃退したといいます.

ゲリラ側の発表によれば、イスラエル側は死者29人,負傷者90人を出し、戦車・装甲車両など8台が破壊されました.いっぽうパレスチナ・ ゲリラは97名が死亡,ヨルダン軍も207名の死者を出したといいます.しかしこれらの数字は、「英雄」に飢えていたアラブ側で多分に誇張されている可能 性があります.

ついでPFLPがハイジャック作戦を開始しました.最初はローマからテルアビブに向かうボーイング707型エルアル機がハイジャックされる という事件でした。PFLPはその後の半年間に外国航空機を13機乗っ取ることに成功しますが、徐々に警戒態勢が強化されるに連れ作戦の実行は困難となっ ていきます.

こうして打つ手のなくなったPFLPは、イスラエルのロッド(現ベングリオン)空港で,日本赤軍兵士三人を使った無差別銃撃事件を起こしました.このとき市民26人が殺害され、ゲリラに対する世界の目は俄然厳しくなりました.

これらの闘争は耳目衝動的な効果はあるものの、実際の戦果はほとんどありません。それどころかイスラエル側の報復攻撃によりその数倍もの被 害を受けることが多かったのです。今日考えれば、ゲリラ闘争は6日戦争の結果にうちひしがれたパレスチナ民衆に闘いを呼びかけたという意味においてのみ評 価されるべきものでしょう。

 

ディアスポラの日々の始まり

ウィキペディアによれば、

ディアスポラとはギリシャ語に由来する言葉で、元の居住地を離れて暮らす民族の集団を指す。難民とディアスポラの違いは、前者が元の居住地に帰還する可能性を含んでいるのに対し、後者は離散先での永住と定着を示唆している点にある。

まさにこの時期、パレスチナ人は難民からディアスポラへと立ち位置を変えています。パレスチナの故地を追われた人々は東に逃げヨルダンに住 み着きました。北へ逃げた人はレバノンにキャンプを設営しました。西に逃げた人の多くはエジプトまでたどり着きましたが、一部はやがて帰る日を夢見てガザ の町にとどまりました。

そしてイスラエルの理不尽な追撃を受ける羽目になったのです。

ここがパレスチナ問題の一番の鍵となる部分ですから、少し詳しく述べたいと思います。

最初のきっかけとなったのは70年のヨルダン内戦です。まずPFLPがスイス航空,TWA,BOACの旅客機三機を乗っ取り,ヨルダンの空 港に強制着陸させました.PFLPは逃げる間際に旅客機を爆破させました.国際社会は激高します。ヨルダンは批判の矢面に立つことになります。

フセイン国王はこれを機にパレスチナ・ゲリラの追放を決断しました.自国の安全を第一と考えるなら当然の判断です。アラブの盟主と目された エジプトはテンで頼りにならず、他の国も口こそ出すが手は出さないという状況のなかで、パレスチナ・ゲリラに手を貸すことは自殺行為に近いからです。

ヨルダン正規軍がPLOへの攻撃を開始し、首都アンマンで市街戦が展開されました.ゲリラはこの背後からの攻撃に対し無力でした。11日間 の戦闘で5千の死者を出し、アンマン周囲からの撤退をよぎなくされます。アラファトはかろうじてアンマンを脱出し、レバノンへと移動します。これが70年 9月のヨルダン内戦であり、パレスチナ人のあいだでは「黒い9月」と呼ばれています。

つまり、70年9月までは故郷に帰る希望をもった難民だったのが、それからは避難先からも疎まれるディアスポラとなって彷徨うことになったのです。

このあと、PLOの中核アルファタハもテロ活動に手を染めることになります。これが72年9月のミュンヘン・オリンピック事件です。作戦は ファタハとPFLPの合同チーム「黒い9月」により実行され、最後はミュンヘン空港の滑走路で西ドイツ特殊部隊と銃撃戦となり,ゲリラ5人,人質9人が犠 牲となりました.

イスラエルは報復作戦として軍兵士3000人をレバノン南部に送り込み、パレスチナ難民キャンプを襲撃し数百人を殺害しました.国際世論が イスラエルに同情的なのを良いことにした大虐殺です。報復のための市民大量虐殺はまさにナチスの手口であり、戦争犯罪として断罪すべきものです。

この後、イスラエルは国境など無きが如く、傍若無人な越境攻撃を繰り返すようになります。パレスチナ人は祖国を追われただけでなく避難先でもイスラエルの攻撃に怯える日々を送るようになりました。

 

第4次中東戦争とアメリカの立場

第4次中東戦争(ラマダン戦争)はこれまでの闘いの中でも、もっとも凄惨を極めたものでした。エジプトのサダト政権とシリアのアサド(父)政権はひそかにソ連と手を結び、戦争の準備を着々と備えていました。そして1973年10月、突然戦闘の火ぶたを切ったのです。

両国は50万の兵力、4500台の戦車、重火器3400台、戦闘機1080機が動員されました。南部戦線では1000台の戦車と10万の兵 力がスエズ運河を渡り、対岸に橋頭堡を形成しました。北部戦線では1400台の装甲車と600台の戦車、三個師団がゴラン高原に進出します。

しかしこれだけの規模での攻撃にもかかわらず、アラブ軍はわずか10日で惨めな敗北を遂げます。理由はいろいろありますが、最大の理由はア メリカのテコ入れでした。この戦争の本質をソ連の中東進出だと見たアメリカは、それまでの控えめなイスラエル寄りの態度を改め、全面支持の立場に切り替え ました。

当時すでにソ連に圧倒的な技術力の差をつけていたアメリカは、最先鋭の兵器を惜しみなくつぎ込んだのです。エジプトのミグ19はファントム 戦闘機の敵ではありませんでした。砂漠の闘いで制空権を失えば、どうなるかは目に見えています。スエズ運河を渡ったエジプト軍の戦車隊は退路を断たれまし た。

アラブ軍は戦車2000台を失い、1万人の死者を出しました。いっぽうイスラエル側も戦車550台が破壊され兵士2800名が死亡しています。エジプト軍部隊の地対空ミサイルはイスラエル機50機を撃墜しています.

しかし、これだけの犠牲を払ったイスラエルは並ぶものなき中東の覇者となりました。これ以降エジプトはアメリカよりの姿勢を強め、イスラエルと事を構えるのを回避するようになります。

 

苦渋の妥協と平和攻勢

残 されたパレスチナ人にとっては、根本的な戦略の変更がもとめられました。一つは全土の奪還という方針の断念です。それは同時にイスラエルという国家の承認 につながります。もう一つは武力での闘争という形態の放棄です。ゲリラ戦やハイジャックをこれ以上続けても益するものはなく、犠牲はあまりに大きいものが あります。さらにそれは国際的な支援の枠を大幅に狭めてしまいます。

この方針転換を決定する歴史的な会議となったのが、1974年6月に行われた第12回パレスチナ国民評議会(PNC)です。この会議では、 ガザとヨルダン川西岸に「民族的権威を設立すること」をふくむ10項目の方針を採択しました.過激な戦術に固執するPFLPはこの方針に反対。一部は「ア ブ・ニダル派」を結成してPLO幹部を付け狙うようになります。

同年秋、ラバトでアラブ首脳会議が開かれ、PNCの方針を支持することで合意しました。そしてパレスチナ国家建設の権利を承認しPLOを唯一の代表としました.PLOは急速に影響力を拡大し,世界各地に100カ所を超す代表部や事務所を開設するに至ります.

これには、ラマダン戦争時産油国が一斉に石油戦略に出たことも大きな影響を与えています。いわゆる第一次石油ショックです。日本では狂乱物価となり、トイレットペーパー騒動まで持ち上がりました。

元々がイスラエルの横紙破りが原因でこうなったわけですから、パレスチナに同情的な国際世論はこの方針転換を大歓迎しました。国連総会は, シオニズムを人種差別主義と非難する決議を採択.そのいっぽうでパレスチナ人の民族自決権とパレスチナ国家の樹立の権利を認め、PLOをオブザーバーとし て招請しました.アラファト議長がオリーブの枝をかざしながら行った総会演説は、いまでも語りぐさです.

アラファト演説のさわり
革 命家とテロリストの違いは,何のために戦っているかという点にあります.正しい目的を持って,自分自身の土地を侵入者・入植者・植民地主義者から解放し, 自由になろうとしているものを,決してテロリストと呼ぶことはできません.でなければ,イギリス植民地主義者からの解放のために戦ったアメリカ人は,テロ リストになります.ヨーロッパでのナチスに対するレジスタンスはテロリズムになります.そしてこの会議場におられる数多くの人々もテロリストということに なるでしょう.

パレスチナ人、とりわけゲリラ闘争などと関係のない一般民衆にとっては、一条の明るい光が差し込んできたようでした。ガラリア地方では、土 地取り上げに反対する「土地の日」統一行動が取り組まれ、「民族はひとつ,戦いはひとつ」のスローガンの下,パレスチナ人数十万人が行動に立ち上がりまし た.

76年にはヨルダン川西岸地区で総選挙が行われ、PLO支持派と共産党が大勝利を勝ち取りました.ナザレ市では初めてパレスチナ人の共産党員市長が誕生しました.

 

レバノン内戦とパレスチナ人大虐殺

しかし、レバノンに逃れたパレスチナ人にとってはこの時期に空前の苦難が襲い掛かります。レバノン内戦です。

レバノン内戦というとパレスチナ人とは関係のない権力争いのように聞こえますが、実はイスラエルの支援を受けた民兵によるパレスチナ難民へ の攻撃が主たる戦闘だったのです。闘いを仕掛けたのはデール・ヤシンの虐殺者ベギンでした。首相に就任したベギンは「67年の国境線には戻らない,PLO は認めない,パレスチナ国家は許さない」という「三つのノー」を主張しました。パレスチナとの対応は暴力一本やりとなります.

レバノンにはマロン派キリスト教徒とイスラム教徒が共存しています。人口比からいうとイスラムのほうが圧倒的に多いのですが、キリスト教徒は首都ベイルートを中心に商工業を抑え強い影響力を持っていました。ある意味でイスラエル建国前のパレスチナと似たところがあります。

このマロン派が色々と難癖をつけてパレスチナ人への攻撃をはじめました。パレスチナ人を載せたバスを襲撃し女性や子供を含む乗客27人全員 を虐殺しました.イスラエル軍は内戦に乗じレバノン南部を占領、パレスチナ難民キャンプを反復攻撃します.1976年10月にはタルザータルという難民 キャンプが襲撃されました。詳細は未だに不明ですが、一説には500名が生き埋めにされ,400人が殺されたといわれます.

 

史上もっとも醜悪なノーベル賞

アメリカは中東におけるソ連との対抗関係の要石としてイスラエルを位置づけました。そしてエジプトを取り込むことによって、その支配を安定させようと図りました。パレスチナの人々とか、正義とか人道などというのは眼中にありません。

それが米国流の「平和」なのでしょう。エジプトのサダト大統領を取り込んだ米国はキャンプデービッド合意を実現します.これで中東に平和が訪れるというのです。ベギンと背信者サダトはノーベル平和賞を獲得しました.

ノーベル“平和”賞は、殺人鬼ベギンに勅許を与えたようなものです。ベギンは三つのノーをあらためて確認し、エルサレム全市の占領を宣言し ました。イスラエル国会はエルサレムを恒久の首都と宣言し、占領地への入植を強化しました.そして1979年9月には南アとの共同で核爆弾を共同開発する に至ります.

そして1982年6月には、機甲部隊がレバノン国境を越え侵攻を開始しました。エジプトが動かないと見ての行動です。シリア軍が抵抗しますがミサイル基地19箇所を破壊され、空軍機82機を撃墜されあえなく降伏します.

イスラエル軍はそのままベイルートに進撃し,大統領府を占拠します.700台の戦車が40万人のレバノン人が住むベイルート市内に砲弾を撃 ち込みました。クラスター爆弾,黄燐爆弾,バンカー・バスターなどの残虐兵器が使用され,この日一日だけで1500人が死亡したといわれます.フランス国 営放送,UPI,AP通信社などの建物も破壊されました.国連などの援助物資は市内搬入を拒まれました.

イスラエル軍の目標はベイルート市内のPLO代表部の撤退にありました。PLOも随分頑張ったのですが、2ヶ月に渡る籠城の後、ついに撤退を余儀なくされます。ここまでの死者は2万人,負傷者は3万人を数えます.

PLOが撤退した後もイスラエルは追撃の手をゆるめませんでした。レバノン各地のパレスチナ人難民キャンプを襲撃しては虐殺行為を続けまし た。中でももっとも悪名高いのがサブラとシャティーラのパレスチナ難民キャンプ虐殺事件です。作戦は延べ48時間にわたり、パレスチナ難民3千人が虐殺さ れました。

これはイスラエルの手下となったレバノン人部隊をそそのかせてやらせた事件ですが、難民キャンプはイスラエル軍が包囲しており,キリスト教民兵を侵入させたのも,逃げ出そうとする民衆を押し返したのもイスラエル軍でした。

陣頭指揮に立ったシャロン国防相は作戦を督励したことが明らかになり、解任されています。

この作戦ほど大義名分のない戦争はないのではないでしょうか。国連安保理は停戦案を提示しますがイスラエルは拒否。イスラエル非難決議に対してはアメリカが拒否権を行使という具合です.

 

PLOの停滞とイスラム原理派の伸長

それからの約10年、パレスチナ人民とその代表であるPLOにとっては苦難の時代が続きます。平和・国際外交路線を打ち出したものの、イスラエルはそれを無視して大量虐殺を繰り返し、パレスチナ人をイスラエルのみならずヨルダンからもレバノンからも追い出したのです。

路線的にも模索の時期となりました。武力闘争への復帰を目指す動きも何度か現れました。とくに徹底的に弾圧されたPLOに代わり、イスラム 原理派の動きが活発となりました。レバノンの難民の一部はシリアやイランの支持を受け非スンニ派の武装組織「ヒズボラ」を結成しました。

彼らの行動は、ソ連を最終的な敵とし、PLOに焦点を合わせていたイスラエルやアメリカにとって予想外のものでした。1983年4月、ベイ ルートのアメリカ大使館に自動車が突っ込み、自爆しました。この特攻攻撃で63人が死亡,120人が重軽傷を負いました。この後、連続的に自爆攻撃が繰り 返されます。

イスラエル国内でもレバノン侵攻に対する不満が強まり、ベギン首相は辞任を余儀なくされます。

これを見たヒズボラはさらに攻撃を強化しました。最大の作戦が10月に行われた米海兵隊への攻撃です。23日朝、ベイルート空港に隣接する 米海兵隊司令部ビルに車爆弾が突入.続いてアメリカ海兵隊の兵舎にも自動車が飛び込み自爆しました。この作戦で米海兵隊は史上空前の237人の犠牲者を出 したのです。さらにフランス空挺師団の兵舎にも車爆弾が突入し72人が死亡.11月にはイスラエルの兵舎にも車爆弾が突っ込み60人以上が死亡しました.

こうした状況が1年半にわたり続いた後、85年1月、ついにイスラエルはベイルート撤退を余儀なくされます。イスラエル軍に対するテロは占 領の終了までに800回近く行なわれ、その死者は400人を超えました.イスラエル国民の10分の1が反戦デモに参加するなど,占領はベトナム化の様相を 呈してきました.

(レバノン内戦はあまりに複雑なので、詳細は略します)

 

市民の抵抗運動「インティファーダ」

 

情勢の停滞を突破する引き金となったのが、1987年に始まった「インティファーダ」です。きっかけはガザ地区で起きた一件の交通事故で す。パレスチナ人労働者の乗った車にイスラエル軍のタンクローリーが衝突しました.この事故でパレスチナ人4人が死亡、7人が重傷を負いました.この事故 に対する若者の抗議が自然発生的に起こりました。若者たちは徒手空拳、弾圧に抗しては戦車に石を投げるのが精一杯でした。

抗議行動にたいしイスラエル軍は銃火で答えました。抗議行動に参加した少女が撃ち殺されました。これをきっかけに,イスラエルへの抵抗運動がガザおよびヨルダン川西岸両地区に拡大します.

時の国防相ラビンは「石を投げる者の手足を折れ!」と命令しました.この人にもノーベル平和賞が与えられています。

インティファーダの闘いは三年にわたり続きました。死者は900人、銃撃による負傷4万9000人、打撲傷2万4000人、手足の骨折1万6000人、催涙ガスの負傷者3300人で、投獄されたパレスチナ人は総数2万5000人にのぼりました.

この闘争は二つの意味で画期的なものでした。ひとつは武装集団に願いを託すのではなく、民衆みずからが闘うことなしに情勢は切り開けないと いうことが確認されたことです。もうひとつは、民衆の立場に立てば、10年前にPLOが提起した二国家路線以外に現実的解決の道はないということを明らか にしたことです。

88年11月にアルジェで第19回PNC総会が開催されました。会議はヨルダン川西岸地帯でのヨルダンの統治権放棄を受け,「パレスチナの地を領土とし、エルサレムを首都とする」独立国家を宣言しました.同時にイスラエルの生存権を承認します.

これを受けたアラファト議長は、12月に国連総会で演説.テロ作戦を放棄しイスラエルの生存権を承認すると宣言します.他のゲリラ組織はイスラエルへの屈服として猛反対しますが、これがパレスチナの民衆の世論であることは明らかでした.

 

ソ連崩壊後の中東の変化

1991年にソ連が崩壊しました。これは中東情勢に複雑な影響をもたらしました。アメリカは冷戦構造にもとづくこれまでの中東戦略に一定の修正を加えます。

ブッシュ政権はイラクのフセイン政権を第一次湾岸戦争で叩きましたが、その際イスラエルの軍事施設がフル活用されました。中東における不沈空母としてのイスラエルの重要性が強く認識される脳になります。

しかし軍事拠点としてのイスラエルには、周辺諸国とのあいだの政治的不安定という弱点があります。とりわけパレスチナ問題が情勢を不安定化させているとの認識に立ち、ブッシュは両者の和解をもとめるようになります。

一方ソ連の崩壊に伴い、大量のユダヤ人がイスラエル移住をもとめるようになりました。そのすべてを受け入れるには国土が圧倒的に不足してい ます。そこで彼らはヨルダンが統治を放棄した西岸地帯に目をつけるようになりました。当時住宅相だったシャロンは,「湾岸戦争終結後にヨルダン川西岸およ びガザ占領地に1万戸以上を建設.ゴラン高原のユダヤ人を倍増させる」入植計画を打ち出しました.

「そこが元々パレスチナの国土だから、その後継者であるイスラエルの領土であるはずだ」という恐ろしく勝手な理屈です。

ゲリラ集団の中でもソ連の崩壊の影響は甚大でした。PFLPやDFLPは存亡の危機に立たされ、政治的発言権を失います。シリア派のゲリラ もシリアの後ろ盾となっていたソ連がなくなり弱体化しました。これに代わって進出してきたのがイランです。シリアはイランとつながることで命脈を保つよう になりました。

こういう状況のもとでイスラエルとパレスチナの交渉が始まったのです。

 

パレスチナ自治政府の発足

1991年、マドリードで中東和平国際会議が開催されました.続いてその年の暮れにはワシントンでイスラエルとパレスチナの二国間交渉が始 まりました.交渉のあいだもイスラエルは西岸地帯への入植をやめようとはしませんでしたが、PLOはじっと我慢しました。交渉を流産させようとするイスラ エルの極右派がさまざまな策動を行いましたが、それにも耐え続けました。

93年9月、難産のすえにオスロ合意が成立しました。イスラエル軍は93年末日を期限として,ヨルダン川西岸およびガザ両地区から撤退する ことを承認しました.パレスチナの独立は暫定自治というきわめて制限されたものでしたが、それでもついに自前の政府を持つことに成功したのです。

アラブ諸国はこの合意を歓迎しました。ヨルダンはイスラエルと平和条約を締結し、モロッコとチェニジアはテルアビブに利益代表部を設置しま した.パレスチナの自治実現はたんにパレスチナにとってだけではなく、イスラエルとアラブ世界の関係にとっても好影響をもたらすと思われました。

アラブの側にも反対者はたくさんいました。イランは暫定自治合意を批判.イスラム原理主義組織を支援していくと言明しました.これを受け、ハマスやイスラミック・ジハードはPLOに対する武力攻撃を開始します.しかし民衆はこの脅しをはねのけました。

ガザにPLO本部が設置されました.チュニジアからガザに「帰国」したアラファト議長は,熱狂的な歓迎で迎えられました.95年にはジェリ コ以外の西岸6地区にも自治区が拡大され、ベツレヘム,ラマラーなど6都市が自治区へ「昇格」しました。自治政府の総選挙が行われ,アラファト議長が大統 領に当選しました.

しかしイスラエルの極右派は、この僅かな妥協さえ許さなかったのです。1995年11月、イスラエルのラビン首相は記念式典の席上、凶弾に 倒れたのです。首相の死を受けて行われた総選挙ではいまも首相を務める最強硬派のネタニヤフが当選。オスロ合意の反故化へと乗り出します。

 

アラファト監禁事件

その後、いったんは交渉推進派のバラクが首相に就きますが、2001年には極右派のシャロンに敗れ、ふたたび対決の時代がやってきます。ただ政権交 代の直前にパレスチナ自治政府とのあいだで合意された「タバ協議」の内容は、今後ふたたび議論が再開されるにあたっての出発点となるでしょう。

 

 

この協議において、イスラエルは,ヨルダン川西岸地域の94%を返還し,残りの6%についても代替地の提供を提案しました.さらに「難民 キャンプの窮状の迅速な解決に向けた道義的な責務を有する」ことを認めています.PLOはこれと引き換えにパレスチナ難民370万人の故郷への帰還という 要求を放棄することを認めます。

しかしシャロンはパレスチナのギリギリの選択すら認めようとしませんでした。彼はパレスチナ側にさまざまな挑発を仕掛け、パレスチナ側が報復に出ると、これを奇貨として西岸地帯に大規模な部隊を派遣します。

シャロンのパレスチナ攻撃は言語道断、あまりにも非道なものでした。

2002年4月、イスラエル軍はアラファトの執務するラマラの自治政府議長府を戦車50台で包囲.攻撃を加えました.1ヶ月の包囲の後アメ リカが乗り出し、包囲を解かせます。CIA長官テネットが直接乗り出し,ラマラでアラファトと会談しました.エネットは自治政府のテロ抑制方針をもとめ、 アラファトは治安組織の改革を約束します.

しかしテネットが帰ったあと、イスラエルはふたたび包囲作戦を開始しました。

これに抗議するパレスチナ人の決死隊200人が,ベツレヘムの聖誕教会に立てこもりました.イスラエル軍は教会を包囲し,立てこもった人々に対し兵糧攻めを行います.

その最中に行われたブッシュ・シャロン会談で、ブッシュ大統領は「イスラエルには自衛の権利がある」と述べ,自爆テロへの報復を支持しました.そして中東和平国際会議の提案を否定しシャロンの思いのままにする特許状を渡したのです.

さらにブッシュは6月24日に「中東和平構想」を発表しましたが。それは平和破壊構想としか言いようのないものでした。ブッシュは、パレス チナ指導部はテロを奨励しているとし、「パレスチナ指導部がテロと戦わないうちは国家の創設を支持しない.そしてテロに妥協しない新しい指導者の選出を求 める」とのべました。これは事実上オスロ合意を水に流す方針です。

同じ日、イスラエル軍はジェニン、ナブルス、トゥルカルム、カルキリヤ、 ベツレヘム、ラマラの西岸主要6都市を「軍事閉鎖区域」に指定し、報道陣の立ち入りを禁じました.とても報道できないような残虐行為を働くためです。「外 出禁止令」を発し約2000人のパレスチナ人を拘束、うち約1000人を留置しました.ジェニンの難民キャンプでは押し入った戦車隊により数百人が虐殺さ れました.あろうことかイスラエル軍は抗議する群衆に向け砲弾を放ったのです。

アラファト議長はこのとき臍を固めました。「自治政府や和平を破壊しようというイスラエルの真の意図が暴かれた.どんなに犠牲者が出ようと、パレスチナ人は屈しない」と述べ、対決姿勢を鮮明にします.


ここまでが、とりあえずの歴史です。この後はまだ書けていません。
なぜかというと、アラファトをクソミソにやっつける記事ばかり多くて、パレスチナ民衆の戦いの本流が描かれていないものばかりだからです。
私としてはアラファト個人を支持するわけではないが、ここまでの彼の取ってきた路線は支持せざるを得ません。
彼の行動は多少のブレはあるにせよ、パレスチナの民衆の声の反映だろうと思います。
外国勢力の支援を受け、ときに干渉も受けながら、根本的にはパレスチナ人民の願いを受け止める方向で運動は進んできました。
その最高の到達点が2001年の協定であり、そこに戻って歩みを再開することが一番もとめられているのだと思います。

門外漢の私がつたない文章を書き綴ったのも、その思いからです。

この続きは少し準備した上で、いずれ再開したいと思います。