ブラジル先住民の抵抗史

  

第一章 ヨーロッパ人によるブラジルの発見

第一節 カブラルのブラジル上陸

1500年4月23日、ペドロ・アルバレス・カブラルを隊長とするポルトガル船団がブラジルに上陸しました。彼はトルデシーリャス条約にのっとり、この地をポルトガル領と宣言しました。

公式の記録では、インドに向かう予定だった船団が風に流され、ブラジルに漂着してしまったことになっていますが。これには有力な異説があります。

トルデシーリャス条約というのは、ローマ法王の仲介でスペインとポルトガルが結んだ条約です。両国は大西洋の沖合いに引いた線で世界を二つに分け、それより東をポルトガル領、西側をスペイン領と決めたのです。それは世界にキリスト教を広めるという大義名分の下に定められたものでした。

そのあとスペインのコロンブスがアメリカ大陸を発見し、ポルトガルはバスコダガマの遠征隊をインドまで送り込むことに成功したのです。これで話が済めば万事丸く収まるところだったのですが、欲深なポルトガルは法王にねじ込み、トルデシーリャス線を西のほうに移動させることに成功しました。これは西経48度のあたり、地図で言うとアマゾン河口とサンパウロを結ぶ線ということになります。

そうするとどうも新大陸の東端、ブラジルの一部はポルトガルがもらえそうだということになります。そうは言ってもこの世は早い者勝ち。とにかく一本旗を揚げておかなければ、ということでカブラルの船団には、漂着したふりをしてブラジルに寄って行けという密命が下されていたというのです。

この説は、どうして漂着したふりをしなければならなかったのかということが説明できないのが難点ですが、ありそうな話ではあります。実はカブラルより3ヶ月前、ヤニェス・ピンソンの率いるスペイン船団がペルナンブコに上陸しているのです。彼らはその後北上し、ベネズエラ方面へと去っていくのですが、アフリカ大陸と南米大陸とを結ぶ最短距離に位置するペルナンブコは、その後各国の先陣争いの場となりました。

 

第二節 ゴンサロ・コエーリョのブラジル探検

ブラジルを自国の領土と宣言したポルトガルは、翌年コエーリョに命じ調査隊を派遣しました。コエーリョの船団のガイドとなったのがフィレンツェ人のアメリゴ・ベスプッチです。

地図を見ながら読んでいただきたいのですが、ブラジルの東端がペルナンブコです。レシフェという町があるところです。ここはヤニェス・ピンソンの上陸したところです。そこから南にたどるとサルバドルという町があります。調査隊が最初に上陸したのはここでした。

その日が11月初め万霊節の日だったので、コエーリョはここをトドス・オス・サントスと名づけました。その名は今もサルバドルのある湾をさす言葉として用いられています。

そこからちょっと南に下ったあたりにポルトセグーロという小さな町があります。簡単な地図には載っていないほどの町ですが、ここがカブラルの上陸した地点といわれています。

調査船はさらに進んでリオデジャネイロに達しました。リオ・デ・ジャネイロというのは1月の川という意味です。リオのあたりの入り江(現在のグアナバラ湾)があたかも川のように細く入り組んでいたことから、そう名づけられたそうです。

この後調査船は南緯50度の地点にまで達しました.どこまで行っても陸地でした。一行はこれが大陸であることを確認し,テラ・ダ・ベラクルスと名づけました。

しかしその名は一般化しませんでした。おそらくスペイン人やポルトガル人が、宗教心の発露からか、至る所にサルバドルやベラクルスの地名をつけまくったからでしょう。これに代わって調査隊のガイドであるアメリゴ・ベスプッチの名を取ってアメリカと呼ばれるようになりました。

新大陸を発見したのはコロンブスなのに、なぜアメリカなのかと思われるかもしれませんが、アメリカというのは当初は南米大陸、特にコエーリョの調査隊が発見したブラジル地域を指していった言葉だったのです。少なくともイベリア半島の人々にとっては、南米がアメリカで、北米はフロリダあるいはアメリカ・ノルテだったのです。

 

第二章 ブラジルの先住民

第一節 トゥピ人とヘー人

 1500年当時、ブラジルには800万の先住民が住んでいたとされます。海岸地帯にはトゥピ人が暮らしていました。ポルトガル人が来るまでは平和で幸せな暮らしをしていたかというと、必ずしもそうではないようで、結構血を血で洗うような闘いの場面もあったようです。

 トゥピ人はもともとパラグアイ地方に住んでいて、南部から侵攻し、先史時代からの住民ヘ(Ge)人を追い払い海岸部に定着したといわれます。現在パラグアイを中心に住んでいるグアラニー人と同系統です。彼ら自身も20の部族に分かれ、相互に争っていたようです。へ人は絶滅したわけではなく、内陸部に広範に分布していました。エスピリトサントのあたりでは海岸部も確保していたようです。

これとは別に、アマゾン内陸部にはカリブ、アラワク系の部族数百万が生息していたといわれます。彼らは歴史に登場することもなく絶滅してしまったようです。今はテレビでやっているような裸族といった超原始的部族が細々と暮らしているだけですが。

トゥピ人の各部族については、あとでそのつど紹介しますが、とりあえず北から並べておきます。

先住民の部族名    
 

 


ポティグアル族 

カエテ族 

トバハラ族・ビアタン族 

セリニャエン族 

トゥピナンバ族 

トゥピニキン族 

アイモレ族(へ人) 

ワイタカ族 

テミミノ族 

タモイオ族 

ゴイアナ族 

カリージョ族(グアラニー人) 


イタマラカ、パライバ

イグアスー、アラゴアス

ペルナンブコ

アラゴアス

バイア サルバドル

イリェウス、ポルト・セグーロ

ポルト・セグーロ(内陸部)

エスピリト・サント

グアナバラ、リオデジャネイロ東部

グアナバラ、リオデジャネイロ

サンビセンチ、サンパウロ

パラナ(内陸部)

 

 

第二節 ヨーロッパ人との最初の出会い

カブラルがブラジルに上陸してから30年あまり、ヨーロッパ人と先住民とのあいだにさほどの波風は立ちませんでした。最大の理由はブラジルに黄金がなかったことです。内陸部のミナスジェライスに黄金が見つかったのはそれから200年もあとのことです。

もうひとつの理由は、ポルトガルにとっては東方世界の進出のほうが重要だったからです。インドに拠点を作った後、ポルトガルはマラヤ半島、バタビア、モルッカと進出していきます。さらにそこから北上しマカオに拠点を構え中国との交易にも手を染めます。種子島にポルトガル船が漂着したのも、このころのことです。

交流を物語る三つのエピソードを紹介しておきましょう。この三つはブラジルの観光ガイドには必ず登場するので、おぼえておいて損はないと思います。

@カラムルの物語

ディエゴ・アルバレス(Diego Alvarez Correa)はポルトガル人の船乗りでした。乗っていた船がバイア沖で遭難、海岸に漂着しました。現地民は彼を追い詰めましたが、アルバレスは持っていた火縄銃を空に向けて発射。まさに一発勝負で「いかづちの子」として受け入れられました。酋長の娘パラグアッスーを娶り、現地語でカラムル(雷の子)を名乗るようになります。

カラムルとパラグアッスーは後にフランスに渡り、時の女王カトリーヌ・ド・メディチの臨席の下で洗礼を受けます。カラムルは57年に亡くなり、サルバドルの教会に葬られました。三人の息子はナイトに叙せられました。

夫亡きあと25年、パラグァッスーは、ベリャの町に最初の教会を建てました。今でも彼女の亡き骸はそこに葬られています。 没年は定かではありません。

Aラマーリョの物語

ラマーリョはその前半生を語らないまま死にました。多分、1480年代の生まれと思われます。サンビセンチに漂着した年も定かではありませんが、おそらくカラムルより数年前のことのようです。

彼もまた、サンビセンチ近くのゴイアナ海岸に漂着し、先住民ゴイアナ族に助けられました。そして内陸部のピラティニンガ高原を支配するティブリリカ村の酋長の娘と結婚しています。ラマーリョはカラムルよりはだいぶ大物で、サントアンドレの集落を創設し、偉大な戦士との評判を得て支配者となりました。

そちらのほうも盛んで、正妻のほかに何人もの側妻を持ち、子孫の数は無数におよびました。キリスト教などくそ食らえという実に勝手放題な生き方です。後年イエズス会が布教に入ろうとしたとき、ラマーリョをどう扱うかが悩みの種となりました。結局、布教のためやむを得ず手を結んだといいます。

そのせいか、イエズス会はサントアンドレからは少し離れた現在のサンパウロに拠点を作りました。しかし先住民の反乱が激しくなるに連れ両方を維持することは困難になり、ラマーリョは一族郎党をあげサンパウロに移住しました。

サンパウロの創設者が文献によってイエズス会だったりラマーリョだったりするのは、こういう事情があるからです。

Bアレイジョ・ガルシアの物語

こちらはもうほとんど歴史というよりレジェンドの世界ですが、同じくポルトガル人船員アレイジョ・ガルシアがブラジル南部に漂着しました。彼は現地民のあいだで見る見る頭角を現し、なんと2千人のグアラニー人を従えるまでにのし上がったそうです。

彼はグアラニー人から西のほうに強大な先住民の帝国があると聞き、探検隊を組織します。アレイジョの探検隊は南米大陸を横断し現在のボリビアまで到達しました。そしてインカ帝国の末端にあたる町を襲撃した後ブラジルまで戻ったといいます。ピサロのインカ帝国征服に先立つこと10年です。

この話はヨーロッパには伝わりませんでした。まもなくアレイジョが死亡したからです。ボリビアからの帰途先住民に殺されたという説もあります。

 

第三章 ブラジルの木から砂糖へ

第一節 ブラジルの木

カブラルがブラジルを発見してしばらくのあいだ、ブラジルはブラジルの木の産地として珍重されました。

辞書では、次のように書かれています。

学名Caesalpinia echinata and C. brasiliensis。これから採れる赤色染料はbrazileinと呼ばれる。毛織物用の赤色染料として欧州で珍重された。木材は光沢を持ち、家具やバイオリンの弓に用いられる。その名称はポルトガル語で橙色を意味する"brasa"に由来するといわれる。

写真で見るとかなり大きな木で、中米でも良く見かけるエスピノ(西洋サンザシ)に似ているようです。

1530年頃までは、ブラジルの木の伐採と積み出しが主な産業でした。これでは先住民とたいしたトラブルにもなりません。むしろ交易関係が主となりますから、前記のような友好関係も生じてくることになります。

しかしこの木は16世紀前半であっというまに枯渇してしまいます.そうするとこの土地には何の魅力もなくなるわけです。皮肉なことに、この土地がブラジルと呼びならわされるようになるのは、その木がほとんどなくなってしまった16世紀後半のことです。

 

第二節 アフォンソ・ジ・ソウザの植民

ブラジルの木は毛織物の染料として用いられます。当時の毛織物の主産地はノルマンジーとフランドル地方、したがってフランスが最大の利用者でした。

フランスはわざわざポルトガルから買うのもしゃくですから、どんどん船を送り込んでせっせと「盗伐」に精を出します。ポルトガルも取締りを強化しようと図るのですが、とても追いつくものではありません。

そこでポルトガル政府は現地に植民地を作り、そこに住み着いたポルトガル人に海岸線の防衛をゆだねようと考えました。その責任者にはマルチン・アフォンソ・デ・ソウザが任命されました。(この初代執政官ソウザと20年後の初代総督ソウザと二人いるので注意)

1531年、ソウザはブラジルのカピタン(司令官)兼ゴベルナドール(執政官)としてブラジルに赴きます.ここで先ほど述べたカラムルとラマーリョがお役に立つことになります。

ソウザはまずバイアを訪れます。ここではカラムルの率いるトゥピナンバ族が一行を歓迎します。ソウザはバイアに簡単な砦を作り、いくらかの守備隊を残した後、今度はサンビセンチに向かいます。

このときはラマーリョと直接接触したのではなく、サントス南方のカナネイア島で別のポルトガル漂着者フランシスコ・チャベスと出会いました。このチャベスがアレイジョ・ガルシアの冒険談をソウザに語ったのだとされます。

どうもこのチャベスという男の話は、今一つ信用できないところがあるのですが、彼はこの島で30年以上暮らしていると述べ、ペルーまで行ってきたこともあるとか、スペインによるラプラタ地方探検隊の補給活動を助けたとかいろいろ語ったようです。

ソウザはチャベスの話に乗り、探検隊を送り出します。しかしこの探検隊はパラナ河を渡ろうとして当地の先住民カリージョ族の計略に引っかかり、チャベスもろとも皆殺しにされてしまいます。

 

 

 

 

第三節 砂糖栽培の開始

ソウザは、なかなか有能な経営者だったようです。数年間の在任中にサンビセンチを最も植民に適した地域と考え、マディラ島から約400人を入植させました。同時にサトウキビを移植し、砂糖栽培を開始しました。

サンビセンチは現在の地図にはありません。サントスのある島の西半分がサントス市サンビセンチ区です。ミルトン・ナシメントの歌う「サンビセンチ」という曲は、国民歌となっており、ブラジル国民にとって国家発祥の地と思われているようです。

サトウキビの栽培には相当の労働力が必要です。また労働者を食わせるための食料など周辺整備も要求されます。これにはラマーリョの協力が大きくものをいいました。

サトウキビから砂糖を作るにはサトウキビの圧搾機、煮詰めて精製し砂糖にするための設備も必要です。この工場を現地ではエンジェーニョと呼びました。ソウザはそのための資本をアントワープの砂糖商人から調達することに成功しました。

その功績を買われたソウザは、インド総督に任命され、ブラジルを離れます。

当時ヨーロッパでは、砂糖は甜菜から作られていましたが、糖度が低く雑味が多いなど欠点を抱えていました。何よりも目玉が飛び出るほど高価なものでした。新大陸から輸出された砂糖は大変な高値で売れたようです。こうして新大陸に砂糖ブームが始まります。

 

第四章 カピタニア制と先住民の最初の抵抗

第一節 カピタニア制の実施

ソウザの成功はあったものの、ブラジルはポルトガルにとって金食い虫になっていました。ポルトガルの主要な関心はインド・東アジアにあり、資源の希少なブラジルは手薄になりがちでした。

最大のライバルであるフランスは、トルデシーリャス条約を認めず、ブラジルへの進出を試みました。フランス船がわがもの顔に出入りし、事実上野放しになっていました。沿岸警備だけでも大変な出費です。

1534年、時のポルトガル王ジョアン二世はカピタニア制の導入を決定します。これはブラジルの領土を分割し、貴族・富豪へ分配し、開拓を委託するというものです。これにともないブラジル総督(カピタン・ヘネラル)は廃止されました。いくつに分割したかは諸説ありますが、14ないし17とされます。

カピタニア

 

 

 

領土の委譲を受けた人々はカピタニアと呼ばれ、王室からの寄贈を受けたことからドナタリアとも呼ばれました。

 

第二節 カピタニアの光と影

最も成功したカピタニアがペルナンブコです。ここの領主はドゥアルテ・コエーリョで、ブラジルを始めて探検したゴンサロ・コエーリョの息子にあたります。

コエーリョは、ソウザに学び資金の手当てがまず重要と知りました。彼は妻の実家のアルブケルク(Albuquerque)家を通じて、イタリア系の資本と結びつきました。

また、先住民とのあいだが比較的円滑に進んだことも成功の一因でした。とくに部下のバスコ・ルセーナが地元酋長の娘と結婚。現地民に偉大な魔法使いとして尊ばれたといわれます。

ペルナンブコの植民者たちはオリンダの丘に石造の塔を立て、その麓に初の本格的な植民地イガラスー(Igaracu)を建設しました.このイガラスーがオリンダと呼ばれるようになり発展していくことになります。

コエーリョは機を見るに敏なところがありました。本国で宗教裁判が始まり、多くのユダヤ教徒が改宗を迫られました.迫害を逃れ多数のユダヤ人が新キリスト教徒となりました。

コエーリョは改宗者を歓迎し、ブラジルに渡るよう促しました。ユダヤ人は資本を持参して,ペルナンブコにやってきました.そしてオリンダの外港であるレシフェに居を構えるようになりました。

ペルナンブコの成功に引き換え、イリェウス、ポルトセグーロやエスピリトサントなどは資金の不足から衰退していきます。エスピリト・サントのカピタンとなったエンリケ・ルイスなどはひどいもので、砂糖栽培がうまくいかないと見るや、今度は先住民を捕まえてほかの植民地に売ることで一儲けしようとたくらみました。

さすがにこれは顰蹙を買いました。南隣のサントメ植民地のゴイス領主は国王に告発状を送っています。それによると、

ルイスはヨーロッパ人と親しくしていたワイタカ族の酋長を捕えた。そしてその身柄と引き換えに奴隷の提供を求めた。人々がそれに応えて人質を提供すると、彼は酋長を返すどころか敵対する部族に与えた。敵対する部族はこれに感謝して奴隷を差し出すと、酋長を食ってしまった。ルイスはそれで部族抗争が激化し、より多くの奴隷が生まれることを企んでいたのである。

悲惨だったのはマラニョンへの入植者です。銃と野砲を装備した900人の部隊、130人の騎兵がマラニョン沖合いで遭難。ほとんどが死んでしまいます。マラニョンの領主バロスは、インドとの香料貿易で成功を収めた資産家で、文筆家としても王室の高い評価を受けていましたが、この事故で破産してしまいます。マラニョンの話は、また後で触れます。

 

第三節 トゥピナンバ族の反乱

そして、バイアのカピタンとなったコウティーニョ(Francisco Pereira Coutinho)は、ブラジル史上最初の先住民反乱を引き出します。砂糖キビ栽培を始めたのはよいものの、深刻な労働力不足に悩むコウティーリョは、トゥピナンバ族に強制労働を割り当てることになります。

10年後、反旗を翻したトゥピナンバ族はポルトガル人を追い出すことに成功します。コウティーニョはとなりの植民地イリェウスまで逃げ去ります。ポルトガル人を追い出したトゥピナンバ族でしたが、もはや文明を知らなかった昔に戻ることは出来ません。カラムルを通じてポルトガル人との和解と交易復活を申し入れました。

コウティーニョはこれを受け入れバイーアに戻りますが、その船はトドス・オス・サントス湾の入り口で難破してしまいます。打ちひしがれた遭難者は、もはや交渉の対象ではありません。トゥピナンバ族は乗組員全員を捕らえ、食ってしまいました。

トゥピ人は世に言う「人食い人種」です。これは別に人間を食料にしていたわけではなく、戦いに勝った人間が、勝利の証として敵の肉を食うという象徴的な儀式と考えられます。それにしてもおぞましい光景であることに違いはありません。

ポルトガルの回し者と見られたカラムルにも危険が迫りました。カラムルは妻のパラグアッスーとともにフランス船に助けをもとめ、命からがら逃げ出します。

バイアでの反乱成功の知らせは、ブラジル全土のトゥピ族のあいだに広がりました。各地でポルトガル人の強制労働と奴隷化に対する反乱が起こります。

 

第四節 ワイタカ族とカエテ族の反乱

先ほど、サントメの領主の告発について触れましたが、なぜ彼がそのような行為に及んだかというと、サントメ植民地もエスピリトサントのとばっちりを受けてだめになってしまったからです。

酋長を殺されたワイタカ族は怒り心頭に達しました。ルイス領主を追い出すと、その勢いでサントメにも攻撃をかけます。彼らは駐屯地の大砲を奪取し、砂糖プランテーションを破壊してしまいます。

ゴイスは数回にわたり反撃を試みますが、そのたびにはね返されます。結局ゴイスはサントメの経営をあきらめざるを得なくなりました。告発状の中では奇麗事を言ってますが、しょせん同じ穴のむじな。おそらくワイタカ族にうらまれるようなことをしていたのでしょう。

一方、先住民とのあいだが比較的円滑だったペルナンブコでも、植民者の数が増えるにつれて摩擦が強まりました。1547年、イグアスーでポルトガル人入植者がカエテ族の酋長の息子を殺害してしまいます。これを機にカエテ族は復讐に出ました。

このたたかいはトゥピナンバやワイタカの反乱とはかなりスケールが違います。カエテ族は戦士の数もはるかに多い上に、フランスとひそかに協定を結び、軍事援助を受けていました。

当時イグアスーの町にはコエーリョ以下90人のポルトガル人、30人の黒人奴隷が住んでいましたが、ことは生き死にに関係しているので白黒の別なく共同して防衛にあたりました。

これに対しカエテ族部隊は8千人。イグアスーの周囲に斬壕を掘り、盾を構え、いっせいに火矢を放ちます。この戦いで守備隊のゴンサルベス隊長は目を射抜かれ死亡してしまいます。

ポルトガル人はそれでも何とか攻撃をしのぎ、町を守り抜きます。たたかいはこう着状態に入りました。町は2年にわたり包囲され続け、砂糖産業はほぼ壊滅します。

攻めきれないと見たカエテ族は、最終的にポルトガル人酋長バスコ・ルセーナの説得で包囲を解きました。その後、ポルトガルの各個撃破により、集団としての戦闘能力を失っていきます。

 

第四章 ブラジル総督領の発足

第一節 カピタニア制度の崩壊

カピタニア制度が発足して10年余り、ペルナンブコとサンビセンチを除けばほとんどが崩壊してしまいました。そのペルナンブコもいまや気息奄々の有様です。

ポルトガル政府は、政策の手直しを迫られます。いずれにせよ、まず各地で起きている先住民の反乱を鎮圧し、軍事的に平定する必要があります。

とはいっても先立つべき資金はありません。そこでカピタニア制度は形式的にはそのまま残し、国王の名代として派遣した総督(カピタン・ヘネラル)の方針に従い、司法権をゆだねるよう各領主に指示するという苦肉の策に出ました。

この困難な任務を引き受けることとなったのがトメ・デ・ソウザでした。ジョアン三世は「弱いカピタニアを強化し、破産したカピタニアを再建し、すべてのカピタニアに威令を広げるよう」指示します。

 

第二節 トメ・ジ・ソウザの新方針

 1549年1月、ソウザはまずペルナンブコに上陸し掃討作戦に乗り出しました。イグアスーの戦いで疲弊したカエテ族はひとたまりもありません。戦士のほとんどが捕えられ、奴隷とされました。

ついでソウザはバイアに回り、ここに拠点を再建しました。11月、ソウザはバイアに総督府を設立したと宣言します。これが現在のサルバドル市です。

サルバドルが首都となった理由ですが、王室はペルナンブコ、サンビセンチのカピタニアの経営はそのまま尊重し、ほかのカピタニアの底上げを狙っていました。このため両者の中間にあるサルバドルに第三の拠点を作ろうとしたのです。王室は寄贈したコウティーニョの子孫から所有権を買い戻した上で、ここを首都としました。

ソウザの新戦略の核心となるのは、先住民の取り込みと各個撃破政策でした。つまり先住民の一部を味方として保護する一方、彼らをポルトガル人の防壁とすることです。同時に先住民同士の反目を利用して、彼らが団結しないように押さえつけながら、もっとも危険な部族から順にやっつけていこうとする高等戦術です。

 

第三節 イエズス会の進出

ソウザが各個撃破政策を遂行するうえで頼りとしたのがイエズス会です。イエズス会の評価には二面があり、先住民をイデオロギー的に服従させるための尖兵となったという意見と、先住民保護のために盾となったという意見が対立しています。

これは厳密な意味での対立ではなく、両面性があったことはともに認めるし、決して権力と対決する組織ではなかったことも認められています。そのうえで、具体的な事実を分析する中で、客観的に見てどうだったのかという歴史的評価になります。

当時、本国では宗教論争の真っ只中でした。新大陸先住民の擁護者として有名なラスカサスが、スペインのバリャドリで保守的な教会上層部に対して論争を挑みます。この論争の中でキリスト教の教義が研ぎ澄まされていきます。この過程を通じてキリスト教はある意味で生き返ることになります。

そのような雰囲気の中で生まれたイエズス会は、当時の宗派の中では原理主義派といえるでしょう。ソウザとともにブラジルに上陸したノブレガら5人のイエズス会士も情熱的な伝道者でした。彼らはトゥピ語を習得し、現地の生活スタイルを受け入れ新住民に溶け込みます。16世紀末までに、イエズス会聖職者は改宗先住民を全面掌握するまでにいたりますが、そのときのイエズス会士の数はブラジル全土でわずか100名あまりでした。

ソウザは、「改宗しない先住民は敵と見なし奴隷にしてしまう」と脅しをかけましたから、先住民は先を争うように改宗していきます。ノブレガは当時の様子を、「先住民の改宗の勢いは増している。それは愛からではなく恐怖からきている」と語っています。まさに小泉首相のやり方と同じです。

 

第四節 ふたたび先住民の抵抗が始まる

どうやらソウザ総督の下、ブラジルは落ち着きを取り戻しました。ソウザは4人の任期を終え帰国。その後をダ・コスタ総督が引き継ぎます。ダコスタは砂糖栽培を奨励、あらたに1千人の入植者が各地に散り、砂糖栽培を開始しました。

砂糖栽培は莫大な財貨を生み出す金の卵でもありますが、大量の労働力を強制労働に駆り立てることなしには成り立たない産業でもあり、階級対立を激化させる時限爆弾でもありました。

ペルナンブコのカエテ族は、休戦協定を結んだ直後に、ソウザ軍の攻撃を食らい惨敗を喫しましたが、それだけに裏切られたという思いは強く、ペルナンブコ北部のポティグアル族とともにひそかに機をうかがっていました。

ペルナンブコの領主コエーリョはこのとき、ポルトガルに帰国しました。カエテ族はこれをきっかけに反乱を再開します。植民者とのたたかいは2年にわたりました。ポルトガル側は二機の最新式砂糖黍圧搾機を破壊され、サトウキビ収穫の大幅な減少を強いられました。

しかし今度は、以前より力関係はポルトガル側に有利となっていました。バイアの支援を受けたポルトガル人部隊は、たんに基地に立てこもるばかりではなく積極的に打って出ました。二年にわたる闘いでは、北部のポティグアル族がまず屈し、ついで南部のカエテ族も激戦の末敗れます。

バイアでも、白人植民者の強制労働に対する反乱か発生しました。最初は悪徳地主に対して先住民50人ほどが抗議行動をおこしたことから始まりました、群集は砂糖工場を破壊し、白人植民者を人質として立てこもります。ダ・コスタ総督は騎兵76名と歩兵を送り、人質数名を解放しました。行きがけの駄賃にと酋長を捕らえ、先住民集落に放火したのがいけなかったようです。

抗議の群集はたちまち千名に広がり、製糖工場は包囲されてしまいます。しかし群衆には戦いの用意は出来ていませんでした。総督は自ら乗り出し、群集を蹴散らします。この反乱で多くの先住民が殺害され、残ったものも奴隷とされました。

その南、エスピリト・サントでは、あのワイタカ族がふたたび立ち上がります。今度はトゥピニキン族も一緒です。この連合軍は、植民地の隊長を殺害しサトウキビ工場を焼き、ポルトガル人の町を次々と破壊しました。植民地は1ヶ所の町を除き崩壊してしまいます。ポルトガル人はほかのカピタニアに逃げだしました。

 

第五章 メン・ジ・サア総督の新戦略

第一節 食い殺された司教

ソウザ総督がいったんは安定させた先住民関係が、ダコスタの時代にまた崩れてしまったのはどういうことか。第一の理由は最初にも述べたように砂糖生産という産業構造そのものにあります。しかし、ソウザ=イエズス会の掲げた先住民との融和路線が放棄されたことも無視できません。

1552年、バイアに最初の司教区が創設され、サルディーニャが初代司教として赴任しました。彼はイエズス会の先住民との馴れ合い関係を我慢できませんでした。イエズス会の下でキリスト教は「現地化」され、怪しげな儀式が持ち込まれていました。

サルディーニャは信仰に形式的な厳格さをもとめ、イエズス会の下で「改宗」した先住民をキリスト教徒とは認めませんでした。当時の状況の下では、先住民は改宗したと認められない限り異教徒であり、反逆者と判断され、奴隷への道が待ち構えていました。

サルディーニャのかたくなな態度に嫌気がさしたイエズス会はバイアを離れ、サンビセンチへと向かいました。そしてラマーリョと目をつぶって握手し、ピラティニンガ高原に最初の伝道所を作ることになります。これが1554年のことです。一方サルディーニャがキリスト教者の資格を厳格にしたことは、のどから手が出るほど奴隷がほしい白人植民者にとってはありがたい限りでした。

そこへ持ってきて、改宗者の集まる教化村では、白人の持ち込んだ疫病がはやり始め、人々がばたばたと倒れていきます。こうして置き去りにされたトゥピナンバの人々が絶望的な抵抗を始めたというわけです。

56年、サルディーニャは帰国の途につきます。本国から解任されたという説もあります。その船はブラジルを去ることなくペルナンブコ沖合いで浅瀬に乗り上げてしまいます。彼らを待ち受けていたのはあのカエテ族でした。飛んで火にいる夏の虫、あわれサルディーニャ一行はカエテ族の胃袋の中に納まる羽目になります。なかには二人の妊婦と子供も含まれていたといいいます。

 

第二節 メン・ヂ・サア総督による建て直し

状況はトメ・ヂ・ソウザが着任したときの状況よりさらに悪化しています。先住民の敵意は、すべてのポルトガル人を食い尽くさんばかりの勢いです。

サアはまずソウザの政策を復活し、友好的部族の懐柔と組織に乗り出しました。折からトゥピナンバの白人酋長カラムルが70才の天寿を全うして亡くなります。サアは盛大な葬儀を執り行い、何人かの息子にナイトの位階を授けました。ついでサンビセンチからノブレガを呼び戻し、イエズス会に先住民の改宗をゆだねます。

そのうえでサアは思い切った手段に出ます。すなわち軍の現地化です。ポルトガル人入植後すでに60年近く、現地にはポルトガル人と生活を共にする先住民、そしてマメルコとよばれる混血児(スペイン領土におけるメスティソに相当)も誕生しています。

彼らに武器を与え、1年をかけて訓練をあたえると立派な軍隊が誕生しました。この先住民との混成軍がやがてブラジル全土をポルトガルの手に確保することになります。最初の主要な供給源はバイアのカラムルの一党、そしてサンビセンチのラマーリョの手のものでした。

 

第三節 サア軍、三つの戦いに勝利

この新しい軍隊は早速その真価を試されることとなりました。まずは58年、ペルナンブコのカエテ族が三度目の反乱を起こします。カエテ族は当初、植民者をイグアスーの周辺に押し込むなど優勢に戦いを進めました。しかしトゥピナンバ族が戦いに参加すると状況は一変します。

最初にも書いたようにトゥピ人の部族同志は元々敵対関係にありましたから、トゥピナンバの戦意は旺盛です。最終的には戦士の多くは食われるか、ポルトガル人に奴隷として売り飛ばされる結果となりました。

ペルナンブコの成功に味を占めたサアは、さらに思い切った手段に出ます。地元バイアにくすぶっていた反ポルトガル派先住民の弾圧に同じトゥピナンバ族を当てたことです。いわば同族相食む闘いですが、改宗者部隊はこの戦いも躊躇しませんでした。

戦いは59年6月サア部隊の奇襲攻撃から始まりました。改宗者もまじえた奇襲部隊は、反抗派の指導者を捕えることに成功します。これに怒った反抗派は改宗派指導者三人を殺害した後、数千人が砦に立てこもります。こうなればしめたもの。サアは改宗者部隊を率い砦を攻め立てます。

火縄銃と弓矢による激しい攻防戦の後、砦は陥落。先住民は背後の川を泳いで逃亡していきます。その後の残党狩りで反乱派は四散。バイアにおける組織的抵抗は終焉を迎えます。掃討作戦を逃れた多くの人々が、イエズス会の作った伝道村に逃げ込み、改宗と総督府への忠誠を誓います。

二つの戦いを制したサアは、休むまもなく第三の戦いを開始します。これまで一度も勝ったことのないトゥピニキン連合との闘いです。

地図を見ると分かるようにバイアから南、イリェウスからポルトセグ−ロ、エスピリトサントを経てサントメ岬に至る海岸線はきわめて長くその後背地は広大です。

この地域を北からトゥピニキン族、ワイタカ族、テミミノ族が支配していました。中でも圧倒的に大きいトゥピニキンがイニシアチブを握って連合し、ポルトガルに対抗するという構図が形成されていました。その背後の山地には未開の民族へ人のアイモレ族が根を広げていました。

そのトゥピニキン連合の大軍がイリェウスの植民地を襲いました。ポルトガル人植民者は砂糖農園を捨てイリェウスの町に立てこもりました。トゥピニキン族は町を包囲します。植民者はわずかなオレンジのほかに食料もなく、必死にバイアに救援を求めます。

サアは改宗したトゥピナンバ族部隊を率い出撃しました。イリェウス領に入ったサアは、300のトゥピニキンの村々を焼きはらい、逃げ惑う先住民を虐殺します。この戦いによりトゥピニキン連合の組織的抵抗は崩壊します。

しかしエスピリトサントに進出した部隊は、それほど成功はしませんでした。植民地の救助申請に応じて出動したサアの息子フェルナンはトゥピニキン族の待ち伏せ攻撃にあい戦死しました。代わって指揮を執ったサアの甥バルタサールが、トゥピニキン連合を降伏させたものの、その後もワイタカ族やアイモレ族の抵抗が続きます。

 

第六章 フランスとの対決

第一節 フランスのブラジル進出

フランスは海外進出に関しては遅れた国でした。国としてのまとまりにも欠け、新教徒との矛盾も激化していました。また植民としては北米のほうが先行していました。1535年には、カルティエがセントロレンス川を遡りケベックに至っています.

先ほども触れたように、パウブラジルの染料の最大の利用者はフランスでしたから、ブラジルへの関心も非常に高いものがありました。しかしこれは基本的に商業交易のレベルです。16世紀半ばごろには、砂糖栽培を中心として植民政策を強化したポルトガルに一歩先を越されてしまいます。さらにパウブラジルの木も、すでにこの頃から枯渇し始めており、フランスには何か打つ手が必要でした。

フランスが橋頭堡としたのは2ヶ所でした。ひとつはバイアとサンビセンチの間の空白地帯グアナバラ湾でした。コエーリョがリオ・デ・ジャネイロと名づけた入り江です。そしてもうひとつはペルナンブコよりさらに北方、ポルトガル人が植民に失敗したマラニョンでした。マラニョンの話はもう少し後でまとめて話します。

1555年、ビルガニョン(Villegagnon)の率いる船団がグアナバラ湾内のセルヒペ島に上陸しました。この船団にはユグノー教徒80名が植民者として乗り込んでいました。彼らは島の切り立った断崖の上にコリニ砦(Coligny)を建設。この島の周囲を南極フランスと名づけます。時の総督ダコスタはこれを知りながら、相次ぐ先住民の反乱対策に忙殺され、手が出せませんでした。

まんまと植民地建設に成功したのは良かったのですが、わずか200人の手兵ではとても守りきれるものではありません。ビルガニョンは早速現地の先住民タモイオ族と交渉を開始しました。

タモイオ族のほうにも差し迫った事情がありました。同じトゥピ人系のテミミノ族と縄張り争いの真っ最中だったのです。グアナバラ東方、サントメ近辺を基盤とするテミミノ族は、ポルトガルにけしかけられグアナバラに進出。タモイオ族住民を捕まえては奴隷にし、ポルトガル人に売り渡していました。

タモイオの指導者クニャンベベは、フランスと手を結ぶことにより装備を強化。テミミノ族をサントメ岬の先まで追い出し一掃します。こうしてグアナバラ湾の支配権を手に入れたフランスでしたが、どうも何をしたいのかが良く分かりません。結局はていの良いユグノー教徒の棄民のようにも見えます。

案の定、フランス植民地はポルトガルと戦う前にまず内部分裂により弱体化していきます。58年初め、ユグノー教徒が反乱を起こしました。ビルガニョンは首謀者5人を処刑し、ほかのユグノー教徒を本国に送還してしまいます。これでは何のための植民か分かりません。彼はその後まもなく司令官を辞し、本国に戻ってしまいます。

 

第二節 サア、フランス植民地を撃滅

満を持したサアは60年3月、グアナバラのコリニ砦に総攻撃をかけます。すでに忠実な手兵となったトゥピナンバ族が今度も戦いの前面に立ちます。一方フランス側もタモイオ連合の全面的支援を受け、これに対抗します。

この戦いの評価は、ポルトガル側とフランス側でまったく異なったものとなっています。ポルトガル側は、ポルトガル人120人+トゥピナンバ族140人で、116人のフランス人と千人以上のタモイオ族を撃破したと報告しています。これに対しフランス側は、わずか10人のフランス人が26隻に乗った2千人の敵と闘ったと報告しています。

いずれにせよフランス側の敗北に終わったことは間違いありません。たしかに断崖に囲まれたセルヒペ島は、それ自体が要塞といえる地形ではありますが、水・食料の補給という点ではむしろそれが弱点になってしまいます。フランス守備隊は2日間の戦闘の末、島を脱走し本土に逃げ去りました。サアもそれ以上深追いはせず、砦を破壊しただけでバイアに引き揚げます。

 

第三節 タモイオ連合の強大化

この戦闘は何をもたらしたでしょうか。フランス軍残党を取り込んだタモイオ族の強大化です。タモイオ族の武器はもはや弓矢と勇敢さだけではなくなりました。大砲をふくむ最新の西洋式武器、それらを使いこなすヨーロッパ人が隊列に加わりました。

これに反ポルトガルの民族統一戦線の思想が加われば言うことなしだったのですが、残念ながらそのような考えはタモイオにも、それと対立する部族にもありませんでした。あってもそれは証文の出し遅れとなりました。

クニャンベベはグアナバラ近郊の部族を糾合してタモイオ連合を結成しました。そしてサンビセンチの植民地に対する攻撃を開始しました。サンパウロとサントスを含むサンビセンチ植民地は風前の灯となります。

ゴイアナス族の中からもタモイオに呼応するものが現れました。これまで同盟関係を結んできたサンビセンチの植民者とゴイアナス族の関係が緊張してきました。

61年3月、ポルトガル人がゴイアナス族のティエテ集落を襲撃します。これに怒ったピケロビ酋長などゴイアナス内の反乱派は、タモイオと同盟関係を結び、報復に動きはじめました。

 

 第四節 タモイオ連合の一斉蜂起

62年初め、クニャンベベを指導者とするタモイオ族連合は、グアナバラを中心に一斉蜂起を開始しました.ゴイアナス族の一部もこれに呼応します。タモイオ・ゴイアナス連合はポルトガル植民地・農場をつぎつぎに襲撃し焼き払います.

これを見たサア総督はジョアン・ラマーリョにサンパウロ防衛をゆだねます。計算すると、ラマーリョはこの時すでに間違いなく70を超えていました。

総督からサンパウロ防衛をゆだねられたジョアン・ラマーリョは、サントアンドレを放棄。一族郎党と先住民5千人を引き連れサンパウロに移住します。イエズス会伝道区に隣接して新しい町を建設したラマーリョは、総督府公認の下、イエズス会を守る役に回りました。このあとサンパウロは白人と先住民の混血(メスティソ)を中心に拡大していきます。

そのサンパウロ村を、62年7月、ピケロビ酋長の率いるゴイアナス族部隊が襲撃します。攻防戦は2日にわたりますが、ゴイアナス族最高指導者のティビリカ酋長ら8つの改宗派集落がポルトガル側についたため、反乱軍は撤退を余儀なくされます。

その後サンビセンチとサンパウロでは1年近くこう着状態が続きますが、翌年五月、イエズス会とクニャンベベが会談し、和平協定を結びます。ポルトガル側は先住民の奴隷化を中止することを約束させられます。

 

第六章 先住民抵抗闘争の終焉

第一節 カエテ族の絶滅

タモイオ連合にここまでされてもバイア総督府はじっと我慢していました。実はそれよりペルナンブコの防衛のほうがはるかに重大事だったのです。

カエテ族の抵抗に苦しみながらも、ペルナンブコの砂糖生産は飛躍的に拡大していました。ポルトガル人の入植者は、この時点ですでに2万人に達していました。そしてそのほとんどがペルナンブコに集中していました。23のエンジェーニョが稼動し、その周りに砂糖キビ農園が切り開かれました。

いまやブラジルは金食い虫ではなく、ポルトガル政府の財政を支える重要な柱となりつつあったのです。これがいわゆる「砂糖の時代」の始まりです。

62年、タモイオ連合がサンビセンチを攻撃しているのを横目に見ながら、サア総督はカエテ族に対する最終作戦を開始します。サアはこれを「正義の戦争」と名づけたそうです。これにはブラジルの全戦力が動員されました。

それは戦争というよりも掃討作戦兼奴隷狩り作戦でした。もはやカエテ族に昔日の勢いはありませんでした。ポルトガル軍は先住民の集落を襲っては奴隷化しました.カエテ族であればたとえ改宗者であっても襲われました。

掃討作戦というのはえてして残忍になるものですが、ポルトガル人は奴隷がほしいのが本音ですから、カエテ族でなくてもカエテ族と口実をつけては捕らえました。もはやカエテ族にとっては、奴隷になるか奥地に逃げ込むかの選択しかありませんでした。かつて強大を誇ったカエテ族は、こうして絶滅してしまいます。

 

第二節 タモイオ連合の崩壊

こうしてペルナンブコを完全制圧したサア総督は、いよいよその総仕上げとしてグアナバラのタモイオ族征服に乗り出します。彼はまず甥のエスタシオジ・サアを先発隊として派遣します。バイアを出発したエスタシオはグアナバラを素通りして、まずサンビセンチに入りました。

サンビセンチにはイエズス会のノブレガが待ち構えていました。ノブレガの提案を受けたエスタシオはゴイアナス族の中から兵を募り、訓練を施します。

戦闘体制整ったエスタシオ軍は、いよいよグアナバラに乗り込み、海岸に橋頭堡を築きます。その名をサンセバスチャン・ド・リオ・デ・ジャネイロといいます。ここが現在のリオの発祥の地とされます。

しかし戦いは一進一退、2年を経ても雌雄は決しません。フランス人の支援を受けたタモイオ族は大砲まで装備し、ヨーロッパ式の戦闘訓練も受けています。なかなか強力です。この間、ポルトガル船がタモイオ族にのっとられ、乗組員全員が食い殺されるという事件もおきています。

業を煮やしたメン・ヂ・サアは増援部隊を率い自らグアナバラに乗り込みます。67年1月、ポルトガル軍はタモイオ最大の拠点を攻撃。激戦の末に制圧しました。このときエスタシオは敵の矢を受け戦死しています。

この後タモイオの拠点が次々に陥落。5人のフランス人を含む兵士は皆殺しにされました。残党は奥地に逃れ、カボ・フリオに新たな拠点を形成します。

タモイオ族の最後は75年に訪れました。新たに総督となったアントニド・デ・サレマは、リオの健常白人男性全員をふくむ400名、テミミノ族部隊700人を動員しカボ・フリオを攻撃します。

タモイオ族は、フランス人から与えられた火縄銃と大砲ではげしく抵抗します。司令官にはフランス人二人とイギリス人一人があたりました。闘いには南方のパライバ・タモイオ同盟軍500人も参加しました。

1ヶ月にわたる激戦の末、タモイオ連合はついに降伏します。先住民のうち2千人以上が虐殺され、4千人以上が奴隷とされました.ヨーロッパ人士官はすべて絞首刑に処されました。

 

第三節 先住民敗北後の世界

 

 

 

こうしてペルナンブコからサンビセンチに至る海岸線は、ポルトガルの全面支配下に置かれることになり、先住民の組織立った抵抗は終わりを告げます。

エスピリトサントではなお散発的な抵抗があり、その後もポルトガル人の植民は進みませんでした。現在の地図でもサルバドルからサントメ岬まで、これといった目だった大都市がないのも、こういう歴史的事情が関係しているのかもしれません。

イエズス会の強力な勧めもあり、先住民の奴隷化には一定の歯止めがかけられます。しかし奴隷化を待つまでもなく、先住民の多くはインフルエンザ、痘瘡、はしかなどの流行で次々に命を落としていきます。またポルトガル人支配を潔しとしない人々は、山間部やジャングルに逃れ独自の世界を形成していきます。

これに代わり砂糖生産を担ったのは、アフリカから「輸入」された黒人奴隷でした。サハラ以南のアフリカ大陸の海岸線を支配していたポルトガルは、各地で黒人を捕えては奴隷とし、これをブラジルに持ち込みました。

これによりブラジルの「砂糖の時代」が花を咲かせることとなります。ペルナンブコには60台以上のエンヘーニョスが設置され、農園主はリスボンより贅沢な生活を送っていたとされます。

 

このあと、ペルナンブコから北への進出、サンパウロから南および西部への進出が続きます。また途中オランダがペルナンブコを占領し、これとポルトガル人入植者との戦いもあります。さらにこのペルナンブコ戦争の最中に大量の黒人奴隷が逃げ出し、山間部にパルマーレス連合王国を形成しますが、これとの戦いの歴史もあります。

これらはいずれ、第二部として書いてみたいと思います。また特にタモイオ族の闘いについてはもう少し増補が必要となるでしょう。

2005年10月