第二章 第一次独立戦争  

A.独立戦争の開始  

 

(1)オリエンテが蜂起した

・セスペデスと「ヤラの叫び」

 プエルトリコの蜂起は結局ほとんど成功することなく鎮圧されてしまうのですが,キューバではプエルトリコが蜂起した事実だけが一人歩きしてしまいます.プエルトリコでも蜂起に成功したのにとなれば,キューバ人の情熱はいやましに燃え上がります.12月一斉蜂起で合意していたとしてもしょせん抜け駆けは勝手です.1

  各地の情報から蜂起の陰謀が政府に漏洩したことが判明しました.革命評議会は緊急会議を開催.蜂起の予定を早めることで意志統一します.この決定に従い,セスペデスはみずからの製糖工場「ラ・デマハグア」で行動を開始します.10月10日のことです.

  彼がまずおこなったことは自分の奴隷を解放し武装させることでした.こうして最初のささやかな解放軍が組織されます.その数147人といわれます.副司令官には同郷のバルトロメ・マソが指名されました.マンサニーリョ郊外の町ヤラに進軍したセスペデスはこの町を制圧,独立と奴隷解放をうたった「ヤラの叫び」を発します.

 ところで率直にいって,この「叫び(グリート)」は熱情的なレトリックを除けばその内容はいかにも中産階級的なものです.そこでは黒人奴隷の解放がうたわれてはいますが,その実施は完全独立の実現後まで先延ばしされています.さらに米国との併合までにおわされています.

 セスペデスの最初の行動は,地元の警察と軍によりあっさりと撃退されてしまいました.しかし蜂起が発生したのはヤラだけではありません.セスペデスの訴えに呼応してオリエンテの各地で蜂起が起きていたのです.2 なかでもアギレーラの陣取る陰謀の中心地バヤモでは反乱軍の勢いが盛んでした.セスペデスの軍はヤラからバヤモに急行,市内の蜂起と合体し警察や守備兵の駆逐に成功したのです.

 こうして独立軍は根拠地の確保に成功しました.反乱軍がバヤモを確保したニュースは衝撃となってキューバ全土を震撼させます.たちまちのうちに反乱参加者は4千人を越えます.なかでも最大のニュースは,カマグエイの名家出身の若き法律家アグラモンテが決起したことです.かれはメキシコにいたケサダ将軍を呼び寄せるだけでなくハバナの青年にも戦闘への結集を訴えました.彼は革命軍のなかでももっとも国際情勢に明るく改革派を代表していました.

 68年といえば明治維新の翌年.メキシコではインディオ出身の大統領ファレスが苦節十年ついにフランス軍を駆逐し,本格的な改革(レフォルマ)を始めています.なによりも北の巨人米国が南北戦争を終え,高らかに奴隷解放の旗を掲げていた時代です.南部の奴隷解放を目指してたたかった黒人運動指導者のダグラスは,さっそく黒人青年にキューバ革命軍への参加をよびかけました.スペインからの解放を実現したばかりのドミニカからも多くの人々が参加しています.
 

・アントニオ・マセオの登場

  独立戦争の開始を誰よりも待ち望んでいたのは黒人層でしょう.戦争をもっとも果敢に闘い抜いたのも彼ら黒人たちです.黒人たちはマンビと呼ばれていましたが,それはリンガラ語(コンゴ地方の言語)で反逆するものという意味だそうです.マンビの英雄となったがアントニオ・マセオです.闘うこと900回,負傷すること27回,彼は不死身と信じられていました.

 マセオはサンチアゴで貿易商をいとなむ裕福な自由黒人の両親のあいだに生まれました.父はマルコス・マセオ.ベネズエラでスペイン軍の兵士として闘った後,キューバに亡命してきました.サンチアゴ近郊サンルイスで農園を営むなど経済的に成功,マセオもその農場で生まれています.母はマリアナ・グラハレス,ドミニカの出身です.工場経営者の妻でしたが,夫の死後サンチアゴに来てマルコスと知り合い再婚.前夫とのあいだに4人,マルコスとのあいだに4人の子をもうけました.アントニオはマルコスとのあいだの最初の子供です.3

 なぜこんなに詳しく書くかというと,実はマセオというのは一族あげての革命家だからです.独立戦争が始まったとき真っ先に参加したのは父マルコスでした.二次にわたる独立戦争で兄弟のほとんどが戦死しました.また母親マリアーナはマセオを上回るほどの熱血の人でした.

 サンチアゴは黒人の多い街です.市民の多くは何分の一か黒人の血を持って生まれています.だからなのか少なくとも表面的には黒人に対する差別はほとんどありません.マセオ一族も黒人の代表というよりは街の有力者の一人として独立のたたかいに加わりました

 その軍団は多くのサンチアゴ出身の青年たちから構成され,十年戦争を通じてつねに勝利をかさね「不敗の軍団」とよばれていました.その部隊にはキンティン・バンデラス,クロンベト,モンカダ,弟のホセ・マセオなどの勇将がキラ星のごとく揃っていました.
 

・マキシモ・ゴメスの戦闘参加

 第一次独立戦争のもう一人の英雄マキシモ・ゴメス将軍について紹介しましょう.ゴメスは60年から64年にかけてドミニカのスペインからの独立戦争をたたかった人です.戦争には勝ったものの彼は無一文になってしまいます.やむなく彼はキューバに移住,バヤモ近郊で細々と農業をいとなんでいました .4

 独立戦争が始まるとまたもやゴメスの血が騒ぎ出します.彼はドミニカ出身者を集め小隊を組織,真っ先切って戦闘に参加します.

 ゴメスが最初に割り当てられた任務は武器や物資の輸送隊でした.それぞれの地方の有力者からなる革命軍の指導部のなかでは,入植一代目のゴメスに重要なポストは与えられなかったのでしょう.しかしゴメスはドミニカでの闘いの経験を生かしつぎつぎに武功を重ね,軍曹から将軍へと登り詰めていきます.

 彼が生み出した戦法は「マチェテ作戦」といわれます.これは農民を山刀(マチェテ)で武装させ待ち伏せにより接近戦を挑むというもので,かつてのアトウェイのたたかいをほうふつとさせるものです.この作戦は10月21日ピノス・デ・バイレで最初に敢行され大きな成果をあげました.5

 当然のことながら攻撃にあたっては相当の人的損害を覚悟せざるをえません.西部劇では,トマホークで襲いかかるインディアンが,騎兵隊の銃の前にバッタバッタとなぎ倒される場面がありますが,あのような戦いだったのでしょうか.しかし独立戦争を「人民戦争」として開始する際にはそれは採りうべき唯一の戦法なのかも知れません.反乱者たちには人的資源以外に戦いの手段はないのですから.革命に参加した人々は喜んでこのたたかいに生命を捧げたといわれます.


 

1 たとえばオルギンの農園主フィゲレードは,税の取り立てにきた役人を追い返し,武力を用いてでも支払いを拒否すると反乱の構えを見せます.

2 マルモールの率いるサンチアゴ部隊はヒグアニで決起,ラストゥナスのビセンテ・ガルシアも現地で蜂起します.

3 マセオはその褐色の肌から「青銅の巨人」と尊敬をこめて語られています.それを聞いたわたしはてっきり彼はムラート(白黒混血)だと思っていました.
サンチアゴ市内の中心部には,かれの業績を讃えるマセオ記念塔と博物館がおかれています.その博物館を見学中にわたしは「マセオはムラートだったのではないか?」とたずねました.すると説明員は「いや,かれは黒人だ」とこたえます.「ではどうしてブロンズ色の肌をしているのか?」「問題は肌の色ではない.両親が黒人であれば黒人なのだ」要するに白か黒か混血かの分類は,出自によって規定されるということでしょう.でも一見して白人の両親から黒い子供が生まれたりしたらどうするのでしょうか?キューバではおおいにあり得ることだと思いますが….

4 バヤモを訪れたとき,ゴメスのいた農場にも行こうとしたのですが,ひどい凸凹道でついに断念せざるを得ませんでした.通り掛かりの人にたずねると,遥か向こう,10キロほど先にかすんでみえる山を指して「あの山の麓だ」といいます.現在でもこんな状況ですから,百年以上も前は如何だったでしょう.決して楽な暮らしではなかったということは言えます.

5 ところで,わたしはまったくの偶然からこの現場を見つけることが出来ました.バイレから国道1号線に出ずに,まっすぐドス・リオス(ホセ・マルティの戦死したところ)に抜ける近道があるということを耳にしたわたしたちは,山越えのかなりの悪路を走り抜けました.ようやくのこと麓に出て橋のたもとで小休止したとき,そこに小さなモニュメントが建っているのに気がつきました.そこがピノス・デ・バイレだったのです.日本でいえばさしづめ「バイレの一本松」というところでしょうか.
 

(2)反乱軍政府の成立

・バヤモ攻防戦

 反乱はオリエンテ,カマグエイ両州に広がり,ラスビリャス州の一部をもまきこんでいきます.サンチアゴ,オルギン,ラストゥナスなどほとんどすべての町で自然発生的な武装蜂起があいつぎます.参加者は奴隷や自由黒人を中心に1万に達しました.いっぽうハバナなど西部では強大な地主層の圧力により動きがとれない状態が続き,闘いを望むものはつぎつぎとオリエンテをめざしました.

  レルスンディも黙ってはいません.ただちに戒厳令を公布,米国からレミントン銃9万挺を緊急購入し闘いに備えます.しかし手持ちのキューバ駐留スペイン軍は7千名しかおらず,これでは戦闘には不足です.そこで当時4万〜7万と自称するボルンタリオに武器を持たせ,準軍事組織として利用しようと計ります.ボルンタリオの指導者カスタニョンはもともとが新聞記者,デマとアジはお手のものです.反乱軍と同調者を根絶せよと煽ります.

 11月,バルマセーダ将軍の指揮するオリエンテ討伐軍がオリエンテに進出します.緒戦ではマセオの率いる反乱軍に手痛い一撃を食らいますが,その後体制を建て直し,サラディーリョの闘いではマールモルの率いる反乱軍主力を撃破します.バルマセーダは反乱軍の同調分子に対する徹底的な弾圧を命令,2千以上の反乱軍兵士を殺害します.犠牲となったのは殆どが解放された奴隷でした.

 12月1日スペイン軍は反乱軍最大の拠点バヤモに対する包囲作戦を開始します.1カ月にわたる包囲の後ついに突撃が開始されました.反乱軍は6日間にわたる激戦の末ついに町を放棄します.市民はスペインに対する不服従の意を示すためみずから町を焼き,反乱軍にしたがい撤退しました.しかしこの闘いを機に反乱軍の国内外での権威はますます高まりました.
 

・ハバナでの恐怖政治

 オリエンテでの「勝利」に自信を持ったボルンタリオは,事実上国の政治を牛耳るようになります.改革派や労働運動家へのテロがあいつぎました.改革派の多くは海外に逃れ反乱軍を支持するようになります.

 年が明けた1月22日は恐怖の夜となりました.折からハバナのビリャヌエバ劇場で独立派を支持する興行が行なわれていました.そこへボルンタリオが殴り込みをかけたのです.彼らの発砲により集会参加者の多くが犠牲となりました.血に酔いしれたテロリストは独立派と見られる家屋敷を次々と襲撃,財産を掠奪しては火を放つという浪籍におよびます.2日後には喫茶店「エル・ルーブル」に集まっていた反政府派活動家を襲撃します .6 この事件で多くの活動家が犠牲となりました.日本でいえば池田屋事件というところでしょうか.

 
・グアイマロ議会

 オリエンテの蜂起に続き2月から3月にかけ中部のカマグエイでも反乱行動が開始されます.その先頭に立ったのは,南北戦争における北部の理想に触発された青年法律家アグラモンテでした.7 ほぼ同時にラスビリャス州各地でも,南北戦争にも参加したカバダ将軍を中心に蜂起が始まりました.

 4月10日にはカマグエイ州グアイマロで反乱軍議会が開催されます.この議会にはオリエンテ,カマグエイ,ラスビリャスだけでなく,ハバナの独立派活動家も多数参加しました.8

 議会はオリエンテ派のセスペデスを初代大地統領に,カマグエイ派のケサダを総司令官に選出.戦時共和制憲法を発布します.ここに反乱軍政府が成立します.

 政府の設立が内外に与える影響ははかり知れないものがありますが,同時にこのことによって反乱の指導者たちが当初より内包していた矛盾も露呈されます .最初に行動を開始した人達は,政治的には必ずしも革新的というわけではなく,むしろ支配層内のリベラル派とも考えられます.しかし反乱を熱狂的に歓迎し,反乱の大義のためには命をも捧げる覚悟で参加した多くの人達は,たんなるリベラリストではありませんでした.

 反乱軍政府の内部矛盾は反乱の規模が急速に大きくなるにつれ深刻化します.論争の種子は数多くあります.

・革命後連邦制をめざすのか中央集権制をひくのか,
・軍主導型の政治かシビリアン・コントロールを徹底するのか,
・奴隷を即時解放するのか革命達成後まで延ばすのか,
・奴隷を解放するばかりでなく解放闘争の同志として受け入れるのか,
・併合主義をきっぱりと清算するのか含みを持たせるのか,

などなどです.

 最初の議論は主としてセスペデスとアグラモンテのあいだで交わされました.アグラモンテはセスペデスの独裁的傾向を批判し連邦制を主張します.セスペデスは全軍の統一を主張しアグラモンテの提案を拒否します.この結果アグラモンテは議会をボイコットするにいたります.オリエンテの風下には入らないぞ,ということでしょう.9

 軍政一致による中央集権制をめざすセスペデスは,反乱の組織者アギレーラを押しのけ大統領に就任します.アギレーラは後に反乱軍政府特使としてパリに転出することになります.

 奴隷制については「自由なキューバは奴隷制キューバとは適合しない」と表現します.結構ずるい言い方です.「だからどうするんだ?」とヤジが飛びそうです.これに答えたセスペデスは「奴隷解放は独立の究極的勝利のあかつきの話であり,それまでは奴隷も財産の一つとして尊重する」と言明します.みずから奴隷を解放し反乱軍の一員として迎え入れた彼の誠意に嘘はないにしても,この方針は中途半端です.彼の宥和主義に対しては各界から非難が集中しました.

 ハバナから参加した活動家をふくめた左派系の「中部諸州革命会議」は,セスペデスをきびしく非難し奴隷制の即時全面破棄を主張します.会議は「中部諸州では奴隷制はすでに破棄され,反乱軍に参加した奴隷は他の兵士と同等の権利を持つ」と声明します.

 グアイマロ議会ではセスペデス一党が政権の主要ポストを握りますが,そこで採択された憲法は中部諸州派の起草したものでした.つまり中部諸州派が名をとりセスペデス派が実をとることで妥協したわけです.

 この妥協は重要です.政局の主導権を握る主流派が左派の側に一歩踏み出したことを意味します.それは急進地主層と中間階層が手を握り富農層に対抗するためのものでした.右派との危ういバランスの上になり立っているものではありますが….    

 

6 この喫茶店は今でも残っています.ハバナ旧市街でも一,二の格式の高さを誇るホテル・イングラテリアの1階がそれです.といっても1枚のプレートのほかは昔をしのぶよすがもありませんが….ところで,このホテルは外見は宮殿を思わせる重厚なものですが,ガイドによれば内装やサービスは最悪で,泊るのは避けたほうが良いとのことです.

7 彼は反乱軍の中でも進歩派を代表していた人物です.カマグエイの町は豊かです.国道沿いにいろんな町を通りましたが,どこが一番裕福かといえば全員がそのことでは一致します.アグラモンテはその町のいわば青年部代表でした.セスペデスやアギーラが束になってもかないません.

8 カマグエイから東に1時間,国道1号線の街道沿いにひろがるグアイマロは,余り活気のない眠ったような街です.ムセオ(博物館)に行くとたしかに反乱軍議会の模様が展示されていました.しかし微妙な問題をふくんでいるためか,説明員の話もなんとなく要領をえません.説明員がどうでもよい昔の家具調度や,御当地生まれの女性独立運動家ベタンクールのことを一所懸命紹介しようとするのには,いささかうんざりしました.

9 私が思うには,同じ時期日本で起きていた明治維新と対比してみるとよく分かるのです.オリエンテは長州藩であり,カマグエイは薩摩藩ということになります.ハバナから来た活動家は土佐や鍋島の脱藩者でしょうか.セスペデスはマンサニーリョの,アギーレはバヤモの,カリスト・ガルシアはオルギンの,そしてアグラモンテはカマグエイの「殿様」であり,ゴメスやマセオは急進派の下級藩士ということになるでしょう.
どちらが左派でどちらが右派かという分け方は無理があります.アグラモンテら中部派の方が改革主義的でしたが,戦術的には宥和的でした.オリエンテ派は集権主義で唯軍事的な色合いがありました.

 


    B.戦線の膠着  

(1)内部矛盾の拡大とスペイン軍の逆襲

・反乱軍保守派の主導権獲得

 議会が続くあいだ,バルマセーダはオリエンテ一帯で焦土作戦を展開します.彼は「15才以上の男子で自分の農場を理由なしに離れたものは射殺,スペインに帰順するか白旗を掲げない家はすべて焼き払う,女性や子供も自分の家にいない限りすべて強制収容する」と宣告します.

 ここまで戦況を見守っていたカマグエイの指導者アグラモンテは,みずから兵をひきいあらたに攻勢を開始します.彼の右腕となったのは元北軍司令官のジョーダン将軍でした.ジョーダンの軍はオルギンでバルマセーダ軍と対決,これを撃破します.敗れたスペイン軍はラスビリャスの線まで後退を余儀なくされました.

 アグラモンテの軍はつづいてカマグエイ州北東部に戦線を広げます.ここから海岸に到達できればメキシコ湾を隔てて米国と向かい合うことになります.そうすれば戦局は一気に展開するでしょう.さあ,アグラモンテの評価が一気に高まります.

 勢いに乗る保守派は議会の主流を確保します.そして中部諸州派の起案した「憲法」の批准を拒否し,これに代わるものとして「リベルト法」を採択します.「リベルト」とは,多少は改善されていても事実上奴隷の別称でしかありません.
 

・セスペデス大統領,議会と対立

 4月議会で左右両派の微妙なバランスの上に執行部が形成されましたが,力関係の変化とともにこのシステムはすべてご破算になりました.このままでは執行部は形だけのものになってしまいます.革命成就をめざす急進主義者セスペデスにとって,これ以上の我慢は出来ません.砂糖キビの採り入れが始まろうとする69年11月,セスペデスは「スペイン軍を支持する地主の力を弱めるため,島中の砂糖キビ畑をすべて焼き払う」よう軍に指示します.こうなれば保守派が握る議会との対決です.

 思い切った作戦ですが結果的にはこれがセスペデスの墓穴を掘る結果となりました.反乱軍内部の対立は,もはや議会や大統領周辺など指導部内の争いの枠にとどまるものではなくなっていました.そこでは保守派と急進派の対立だけではなく,より根本的な対立,すなわち富農・中農層と黒人層をふくむ下層人民全体とのあいだのヘゲモニーをめぐる争いも始まっていたのです.

 議会との対決にあたってセスペデスが最大の頼みとしたのが反乱軍でしたが,カマグエイ派とつながるケサダ司令官はセスペデスの命令を果たそうとはしませんでした.ケサダのあいまいな態度に怒ったのは,すでに戦闘の実質的指揮者となっていたゴメスやマセオなどです.ゴメスらは「焼打ち」作戦を支持するとともに,ケサーダを司令官から解任するよう要求します.当初セスペデスは上官批判を行ったゴメスを退任させようと策しますが,あべこべに押し切られてケサーダ解任を承諾してしまいます.代わりの司令官にはラスビリャスのカバダ将軍がつきます.

 こうしてセスペデスは保守派が握る議会と対立を深め独裁的傾向を強めます.反乱軍の作戦に関してゴメス,マセオなど下層階級の支持を受けた指導者の発言権が強まります.一方下層階級や黒人層の進出を快く思わない指導者たちは,反乱軍政府に次第に距離を置くようになります.
 

・総督府,反乱終結を宣言

 その後戦局は膠着状態に入っていきます.一時飛ぶ鳥落とす勢いだったアグラモンテ軍ですが,米国が援助を手控えるようになったため慢性的な武器の不足に悩まされることになります.オリエンテではさらに戦闘力の低下が深刻でした.マンビたちは密林(マニグア)に潜伏し小規模な襲撃をくりかえすにとどまっていました.マセオも69年5月には父や兄弟を失っています.

 70年1月,ハバナ総督府は「反乱は終結し非常事態は解除された」と発表,米国の新聞もこの声明を支持します.この年,戦争をよそにハバナ周辺は空前の好景気,キューバは世界一の庶糖産出国となります.総人口は140万人,首都ハバナは20万に達します.もはや戦争は終わったと見るのもなにも不思議ではありません.10

 しかし同じ米国関係者でもサンチアゴ駐在領事は別の見方をしていました.彼は「反乱軍は依然衰えていない.軍事衝突もしばしばある.キューバ人は最初にくらべると遥かに武装され訓練されている.彼らの方が攻勢的で,スペイン軍からの脱走兵を加えた隊列はさらに充実しつつあり,ますます巧妙で勇敢になっている.私見ではこの反乱は相当の長期にわたるものと思われる」と報告しています .11

 とはいえ70〜71年はあまり景気のいい話しはありません.オリエンテ軍司令官マールモルが6月戦死.前章で登場したゴイクリアは反乱軍に参加し国内潜入中でしたが,この時期に捕らえられ処刑されます.若きホセ・マルティも捕らえられ国外追放されます.キューバ国歌を作ったバヤモの義人フィゲレドもこの年捕らえられ殺されます .

 71年10月になると反乱軍の敗色は誰の目にも濃厚となってきました.兵力は7千に減少,ラス・ビリャスは政府軍の手に落ち,カマグエイのアグラモンテも孤立します.オリエンテでもバヤモが墜ち,マールモルに代わったゴメスが指揮するグアンタナモ地方だけが辛うじて勢力を維持するという状況になります.これをみた総督府は,マルティネス・カンポス将軍にグアンタナモ掃討作戦を命じます.
 

・ゴメス指揮の反乱軍の反撃

 ハバナではもはや風前の灯火かと思われていた反乱軍ですが,実際はサンチアゴ領事の観測の方が正確でした.グアンタナモ軍にはオリエンテの青年が大挙結集,とくにマセオの大活躍は光りました.

 今や反乱軍の実力ナンバーワンにのし上がったオリエンテ軍司令官ゴメスは,議会に対し西部への侵入作戦実施を迫ります.カバーダ反乱軍総司令官はゴメス案に大賛成したばかりではありません.自身南北戦争に参加したカバーダは,南部を転戦しながら農場を破壊し,黒人奴隷を軍に編入して行ったバトラー将軍の闘いを示し,焦土作戦を立案します.

 カバーダ案に恐怖の念を抱いた議会保守派は,西部進出案を断固拒否します.彼らにしてみれば,この作戦はみずからの農地を犠牲にする恐れがあるだけでなく,軍による独立運動の支配であり,オリエンテによる支配であり,中下層階級による支配に結びつくものだったからです.

 ここでセスペデスの決断が迫られることになります.彼は当初,軍備不足の下で冒険的作戦はとれないとしてこの提案を拒否しますが,結局ラス・ビリャスに限定した上でゴメスの西部侵攻作戦を承認します.アグラモンテ健在のカマグエイと違い当時ラスビリャスでは運動は壊滅状態にあったこと,カバーダ将軍のお膝元であることを配慮してのなかなか狡猾な決定です.

 セスペデスはしたたかです.この決定のあとゴメスをオリエンテ軍司令官の地位からはずし,政府防衛担当に移動します.ゴメスには常によそ者意識がつきまとっており,上級の決定には逆らえない傾向がありました.これを見抜いて将来の紛争の種子を取り除いたわけです.

 ゴメスの後任には,オルギン出身でゴメスの副官を務めたカリスト・ガルシアが就任しました.72年6月カリストはグアンタナモで大攻勢をかけます.レホンドン・デ・ベルアノス会戦でカンポス軍千名を撃破してしまうのです.これを機に反乱軍の反撃が開始されました.その後の4ヶ月で,たちまちの内にオリエンテ州の村々をぬき,オルギンを解放し,その先鋒がラストゥナスに達します.准将にまで昇進したマセオはオルギン,マヤリ,バラコアなどを転戦します.翌年11月のマンサニージョ攻撃はマセオの面目躍如たるものでした.彼の軍団は数千の守備隊を打ち破り,オリエンテ有数の都市マンサニージョの中央広場まで達したのです.
他にも各地で小規模な蜂起があいつぎ,全土を巻きこむ内戦の様相を呈してきました.

 ころあいをみたコロンビアが,ラテンアメリカ諸国と米国に対しキューバ独立支援で共同歩調をとるよう呼びかけます.ところがLA諸国は賛成するのですがかんじんのグラント米大統領はこの提案を拒否します.翌年3月に今度はセスペデスみずからが,米国あてにコロンビア提案の受け入れを要請していますが,グラントはこれも拒否します.

 さすが米政府は戦争の階級的本質を見抜いています.この戦争がスペインによって簡単につぶされては困るが,それ以上に下層階級の勝利に終わらせてはならないのです.このような鋭い洞察の裏には彼らなりの「実践経験」が隠されているのです.

 

10 このような状況の下で医学生8人の虐殺事件が起こりました.この事件はホセ・マルティが大々的に取り上げたことから有名になっていますが,どう考えても歴史上さほど重大な意義を持つ事件とは思えません.事件はボルンタリオのボス,カスタニョンが暗殺されたことにはじまります.彼はハバナ市内の墓地に葬られたのですが,その墓が再び辱められたのです.それだけ彼に対するハバナ市民の恨みが深かったということなのですが,ボルンタリオにしてみればそれでは済みません.たまたま墓地にいた8人の医学生を捕まえると,その夜のうちに犯人と決めつけ射殺してしまうのです.確かに悲劇には違いないのですが,ホセは後にこれを「11月27日の悲劇」として,あたかも彼らがカスタニョンをテロった愛国者であるかのようなキャンペーンを開始することになるのです.

11 このハバナと現地サンチアゴの感触の違いは確かに分かります.93年キューバ訪問時,正直ハバナでは絶望でした.それがサンチアゴに行くと「どっこいまだ生きてるぞ」というしぶとさを感じます.「サンチアゴを見ずしてキューバを語るなかれ」です. カストロがシエラ・マエストラで細々と活動を続けていた頃のサンチアゴ領事館も,ハバナとは違った評価をし,ゲリラに支援を送りつづっけていました.
 
 

(2)西部進攻作戦

・セスペデスの失脚

 73年2月,スペイン本国に政変が起こります.王政が打倒され共和制となったのです.しかし独立軍の期待にもかかわらず共和派もキューバ支配の維持に関しては王党派と変りありませんでした.彼らは国威を賭けて攻撃を開始します.73年5月11日アグラモンテがカマグエイ近郊で戦死,カマグエイ軍は総崩れとなります. (12)

 アグラモンテの死により,反乱軍内部の力関係は大きく変わります.これをみたセスペデスは議会に対し全権の移譲を要求します.彼にとって二回目の賭けです.しかし彼は大きな読み違いをしました.彼により左遷されたゴメスは,もはやセスペデスを信用せず保守派との連合を求めました.そうなれば彼の権力基盤は瓦解するしかありません.

 10月27日,セスペデスを除く制憲議会代表がビハグアルに集まります.これにはオリエンテ各地の軍代表も招かれました.議会は軍民評議会に性格を変えることになりました.会議は全会一致でセスペデスを解任,アギレーラ副大統領が海外で任務遂行中のため議長のシスネーロスが大統領に就任します.反乱軍司令官にはゴメスが就任,彼はマセオを少将に任じます.

 軍務に復帰したゴメスは「西部が奴隷制の下で収穫を続けるかぎり,スペイン軍を強化することにしかならない.反乱が勝利をおさめるためには,西部の大農場を焼き払い奴隷を解放することが不可欠である」と主張し,あらためてラス・ビリャス進攻作戦を提示します.

 地主勢力が主流を握る新政府はこの提案に反発しますが,セスペデス追放に力を貸したゴメスの言うことですから全面拒否は出来ません.言を左右にして逃げ回ります.ゴメスは「この作戦の成功のためには,マセオ少将に5百の兵をつけてくれるだけで良い」とまで譲歩しますが,議会はなかなか首を縦に振ろうとしません.
 

・ビルヒニウス号事件

 このような状況を変える事件が三つ,73年末から翌年初頭にかけて続きました.その第一がビルヒニウス号事件です.反乱軍への物資補給を試みた米国船ビルヒニウス号が,サンチアゴ沖合いでだ捕されたのですが,なんとサンチアゴ総監は,英国人ライアン将軍,米国人のフライ船長など93名を即決裁判で処刑してしまうのです.

 英国は巡洋艦ナイオビ号をサンチアゴにおくり,もし殺戮を続けるならサンチアゴを砲撃すると警告します.結局スペインはビルヒニウス号を米国に引き渡し,補償金8万ドルの支払いに応じることになりました.この事件でとくに米国内では政府の弱腰に対する非難が沸騰します.

 第二には,年が明けて早々,スペインで王政派によるクーデターが起きたことです.共和制は1年足らずで崩壊し,平和解決の道はますます遠ざかります.

 第三は,オリエンテ州フヌルーン・メロネスでの闘いとスペイン軍の記録的大敗です.この戦闘で精鋭と謳われたエスポンダ大佐指揮の三個連隊千名が,カリスト=マセオ連合軍と対戦して壊滅.5人の将校を含む150人の死者を出した部隊は,2百以上の負傷者を置き去りにして潰走していきます.
 

・グアシマスの会戦

 ここにいたり議会も西部進攻作戦を承認することになります.作戦会議ではマセオを副官とすることに対して「オリエンテの守り手がいなくなる」と反対がでますが,ゴメスは「この作戦はマセオなくして成功することは出来ない」と主張し押し通します.

 この決定を受けたマセオは,オリエンテとラスビリャスの兵を募り歩兵3百,騎兵2百からなる部隊の編成に取り掛かります.西部進攻の噂は全島を駆けめぐり,「ラスビリャス賛歌」が歌われるようになります.

 74年2月10日,マセオの率いる進攻部隊はラス・トゥナスを出発,早くもオホ・デ・アグアで2千の重武装部隊を撃破しグアイマロを奪回します.怒涛の勢いの反乱軍はわずか1週間でカマグエイを抜き州西南端のラス・グアシマスまで達します.

 ここで十年戦争のなかでも白眉となる会戦が行われました.2千のスペイン兵が陣を張るただ中へマセオは突入していきます.従うもの騎兵2百と歩兵50人,これでスペイン軍を蹴散らしてしまいます.スペイン軍は5日間の闘いで死傷者1,037名を出しラスビリャスへと敗退していきます.(13)

 しかし勝利した反乱軍も被害は甚大で,マセオを含め174名が死傷するというすさまじいものでした.反乱軍はいったん戦術的撤退を行い戦列を立て直します.

 しかしこの戦術的撤退は永久的撤退に変わりました.議会がマセオの前に立ちはだかったのです.5月進攻作戦再開を提起したゴメスに対し,議会保守派はさまざまな理由をつけて反対します.その背景には,西部大農園主の要請を受けた米国内フンタの圧力がありました.「革命が成功するためには西部の農園主の財政的支持が不可欠である.従って彼らの財産である精糖工場と奴隷は『保護』されなければならない」というのです.

 とくにラスビリャスの地主はマセオが自州出身ではないことを盾に強硬に反対します.黒人などに州の解放を任せるわけには行かないというのが本音でしょう.現に「マセオはキューバの黒人支配を狙っている」という中傷も流されるようになります.
 

・西部進攻作戦の顛末

 ゴメスやマセオにも突っ張りきれない内部事情がありました.本拠地オリエンテで反乱軍が追い込まれていたからです.グアシマスの勝利と同じ頃,サンチアゴ近郊に潜伏していたセスペデス前大統領がスペイン軍に襲われ殺されます.翌月にはカリスト司令官が敵に包囲され逮捕されます.本家がこのような状況ではラスビリャス進撃は無理です.マセオは無念の思いを胸に抱きながらオリエンテに戻っていきました.

 マセオの撤退を前にゴメスは重大な決断をします.ついにみずから進攻部隊を指揮することにしたのです.ゴメスがみずから進撃するというのでは,保守派も表だって反対派できなくなります.

 75年1月,ゴメス軍はスペインが築いた防衛線トローチャを越え西部進攻作戦を開始しました.シスネロス大統領はこれを歓迎し,他の将軍にも来るべきマタンサスとハバナの闘いを推進するよう督励します.ゴメスの軍は進撃を続け,一時ラスビリャス州都サンタクララの近郊まで達します.

 しかしこの間に議会内部で反シスネロス派の陰謀が進んでいました.議会多数派を握った彼らはエストラーダを大統領に押し立てシスネロスを放逐します.これで第二回目の進攻作戦も流産してしまいます.

 76年9月ゴメスはさらに三回目の進攻作戦を提案します.しかし先の焦土作戦で多くの農地を焼かれたラスビリャスの反乱軍は,マセオばかりではなくゴメスまでも敵視するようになっていました.代表ロロフ将軍は「ドミニカの流れ者を指揮官とするわけにはいかない」とまで発言します.議会はラスビリャスの強い意向を受け西部進攻作戦を中止します.衝撃を受けたゴメスは軍務を降り,みずからの農場に引きこもってしまいました.このあたりの弱気ぶりは何となく西郷隆盛を連想してしまいます.

 

C.十年戦争の終結  

(1)サンホン協定

・カンポス将軍の戦略

 このような反乱軍内部の足並みの乱れは,結局は戦争を継続すること自体が独立派にとって辛く重い負担になっていることのあらわれでした.

 76年末,スペイン軍司令官としてあらためて着任したカンポス将軍は,反乱軍の内情を見抜きました.そしてその弱点をえぐる巧妙な戦略を立てます.

 まず作戦面ではこれまでの防禦一辺倒の姿勢を捨て,ラスビリャスで攻勢に出る計画を立てます.ラスビリャスで勝利すれば,その勢いでいっきにオリエンテまで進撃しようというのです.反乱軍に対しては二面作戦で臨みます.反乱兵は見付け次第射殺すると宣告する一方,指導者以外で反乱に参加したものは降伏すれば罪は猶予されるとつけくわえます.

 政治的には停戦と和解の方向を前面に押し立てます.キューバへの大幅な自治権付与と奴隷制廃止が宣伝されます.その誠意のあらわれとして,カンポスは政治活動を禁止するいっさいの政令を廃止しました.

 最後にカンポスは,反乱軍内部の主戦派を孤立させるため,大規模なデマ作戦を展開します.反乱軍にゴメスなきあと目標はマセオに絞られます.政治犯を釈放し大量に敵陣に送り込み「マセオは黒人国家の建設をもくろんでいる」というデマを流します.不敗のマセオもこのデマには相当応えたようです.反乱軍政府大統領に対し「自分はキューバ人であり,皮膚の色に関係なくキューバのために生命を捧げる」と弁明しています.

 このような周到な準備の上,いよいよカンポスは兵を繰り出します.ラスビリャス軍は一たまりもありません.77年8月には大量の脱走者を出し事実上崩壊してしまいます.この月オリエンテのマセオも戦闘で重傷を負います.

 マセオにも最後のときが迫ったように見えました.マセオはアジトに隠れ,ケガの治療をしていましたが,内通者によりアジトを敵に通報されてしまいます.カンポスはマセオを捕らえるためなんと三千の兵を送りますが,マセオは包囲陣の中を奇蹟的に脱出することに成功します.

 

・反乱軍の解体

 いよいよ追いつめられた議会は,最後の望みをゴメスの再出馬に託します.エストラーダ大統領から統帥権をとりあげゴメスに全一的指揮を要請したのです.しかし失意の底にあったゴメスは動こうとしません.いじけまくっていたのでしょうか.

 まもなくエストラーダも逮捕されてしまいます.これで議会は完全に戦意を失い一挙に講和の方向に傾きます.12月反乱軍政府は,カマグエイを中立地帯とし停戦協議を行なうよう提案します.明けて2月5日,反乱軍のガルシア司令官とカンポスのあいだで停戦についての交渉が始まります.

カンポスは

・反乱軍指導者に対する恩赦,
・プエルトリコと同等の政治的権利,
・反乱軍に加わった黒人,中国人の解放,
・出国を望む指導者の通行の自由

を約束し,反乱軍の投降を促します.ガルシア総司令官もこれを受け入れました.

  これに基づき10日カマグエイ州サンホン (Zanjon) で停戦条約が締結されました.(14) 革命に疲れ切った農民層の多くはすでに闘いから離反していました.反乱軍は停戦受諾以外の選択はなかったのかも知れません.ゴメスもキューバ人に戦闘意欲がなくなった以上和議を結ぶしかないと判断,講和に異議を唱えませんでした.そしてみずからはホンデュラスに亡命していきます.

 唯一元気印がマセオです.ようやく病い癒えたマセオは,停戦交渉の真っ最中,スペイン軍の最精鋭に攻撃を仕掛けます.これがサン・ウルビアーノの闘いです.ラ・ジャナーダ・デル・ムラートの渓谷を舞台に,三日間の激戦の末「不敗の軍団」は敵を撃滅します.

 

・バラグアの抗議とマセオの闘い

 サンホン条約が締結されたあとも,マセオは戦争継続を断固として主張します.議会はマセオにサンホン条約の経過を説明し,ともに降服するよう説得しますが,彼は受けつけません.彼は負けていないからです.バラグアに出現したマセオは,みずからの権威でオリエンテの全将官を召集します.呼びかけに応じ参集した将官五百人,まさに精鋭中の精鋭です.

  それは

・オリエンテの革命的伝統を受け入れ,
・黒人を含む「キューバ人」という思想に共鳴し,
・貧困層の利益を代表し,
・革命勢力内における旦那衆の支配に反対し,
・革命期における軍の一元的支配を受け入れる,

という点で断固たる左翼集団でもありました.マセオは今や天才的軍事指導者というだけではなく,キューバ人民の真の指導者として歴史の桧舞台に登場したのです.

 マセオは政府内最左派のカルバール将軍を臨時大統領に指名.5百人の将官を引き連れカンポス将軍と会談します.彼は,独立とすべての黒人奴隷の解放以外の和平条件は認められないとするとともに,同志の意思統一のため4カ月の停戦を申し入れます.

 まとめる気など最初からありませんから当然談判は決裂します.キューバ人民にしてみれば,十年もの闘いとそこで流された血は,祖国の独立と奴隷制廃止のためのものであって,こんないいかげんな妥協のためではありませんでした.独立と自由が実現しないで和平などあり得ません.

  マセオは「バラグアの抗議」と題する声明で「自由はお願いしていただくものではなく,マチェテの刃先から生まれるものだ」と叫びます.それはスペイン政府に対するというよりも革命勢力内部への告発でした.そこで徹底的に批判されたのは地主層の日和見と裏切りでした.(15)

 戦闘が再開されました.革命の挫折を認めないのはマセオだけではありませんでした.「バラグアの抗議」を知った世界中の人々が熱狂しました.ニューヨークの移民たちはサンギリ将軍を筆頭に「5人委員会」を結成,武器や資金の調達活動をはじめます.

 しかしこの程度の補給源では戦線を持ちこたえる可能性などあろうはずもありません.4月のうちにバヤモ,マンサニーリョが落ちました.5月にはいるとオルギンも陥落します.「臨時大統領」マヌエル・カルバール将軍も「マセオを温存し他日に備えることが最大の課題」と決断,ここに大勢が決まりました.マセオはカルバールの説得を受け入れ戦闘を停止.「いつの日かふたたびキューバのために闘うだろう」と宣言しニューヨークに向け亡命していきます.

 5月21日,反乱軍はスペインに対し降服,ここに第一次独立戦争の幕が下ろされました.十年にわたる戦争は両軍合わせ28万の死者を出しました.スペインは,このたたかいのために5億ドルの出費を余儀なくされ,兵士8万を失ったといわれます.

 

(2)小戦争:今一度独立を

・ニューヨーク亡命者の動き

 79年6月,スペイン政府はキューバに国会への代表権を与えるとともに,現地議会の創設を約束します.これに対応して自治党が結成されます.この政党は総督府により自治の受け皿として育成されたもので,政治結社の自由,軍政分離,税負担の公平化を掲げました.いっぽうボルンタリオの流れをくむ親スペイン派は自由党に対抗して立憲連合党を結成します.

 旧改革主義者も第三の政党を結成しようとしますが,総督府の妨害のため流産,改革党機関紙「自由」は事実上独立派の機関紙となっていきます.「自由」の編集長となったのがグアルベルト・ゴメスでした.

 ゴメスは,ハバナの裕福な自由黒人家庭の生まれで,パリ留学中に独立運動に参加,アギレーラ駐パリ代表とともに亡命者を組織し支援活動を展開してきました.ゴメスは機関紙の編集を通じて運動の急進化につとめました.ホセ・マルティを独立運動に巻き込んだのも彼です.マルティについては後ほど触れます.

 いっぽうニューヨークにおいては,マセオを支援した五人委員会が引き続き活動を強化,9月には亡命したカリスト・ガルシアを迎え革命委員会に改組されます.

 革命委員会の主張は急速に尖鋭化,11月には「マチェーテを手にとり,砂糖キビを焼き払え」と檄をとばすようになります.そして全島での一斉蜂起とサンチアゴの軍基地占拠を柱とする反乱計画を立案します.蜂起の訴えに応え全島で革命委員会の結成が進みます.

  カリストはジャマイカ亡命中のマセオを訪れ会見,スペインの改革の約束はまやかしであったとし,武装蜂起をよびかけるキングストン宣言を共同発表します.マセオはオリエンテの同志に「ふたたび戦場に向かう日がやってきた.我らの手に帰すべきものを武力で勝ち取らなくてはならない」と檄をとばします.サンチアゴではアントニオの弟ホセ・マセオが中心となり蜂起の準備を開始しました.ラスビリャスもこれに呼応して動きが始まります.

 

・小戦争の敗北

 79年8月24日,まずオリエンテから一斉蜂起が開始されました.これが「小戦争(Guerra Chiquita)」といわれる闘いです.(15)サンチアゴではなんと軍令部副司令官のゴンサレス准将(サンチアゴ生まれ)が独立戦争に決起を呼びかけました.これに呼応して「民衆闘争団」三百人が街頭に出て「自由キューバ万歳,スペインを倒せ!」と武装デモを展開します.

 しかしこの戦争は最初から大誤算でした.作戦がもっとも重視していたハバナでの蜂起が未然に摘発され戦闘不能となってしまったのです.結局十年戦争と同じ戦線配置となりしかも大地主層の支持のない闘いとなってしまいました.これではとうてい勝利は望めません.ハバナで革命委員会を指導していたホセ,ゴメス,アギレーラらは相次いで逮捕され監獄送りとなります.サンチアゴでは公然と黒人狩りがおこなわれ多くがアフリカに送還されました.

  このときニューヨークの革命委員会は,とんでもないへまをしでかしました.ホセ・マセオをオリエンテ州司令官から更迭したのです.カリストはスペイン側の反黒人宣伝に配慮と弁明しますが,実際は委員会内部の右派に屈伏したものでした.マセオは革命委員会との絶縁を宣言.これを機に黒人活動家のあいだに革命委員会に対する幻滅が広がっていきます.

 翌年4月反乱軍の非勢は誰の目にも明らかとなりました.カリスト将軍は状況を打開するため,みずから出陣します.しかし上陸はしたものの,すでに反乱軍の組織は解体状況,カリスト達は現地部隊とのコンタクトがとれぬまま山中をさまようことになります.

 この間マセオも決して状況を座視していたわけではありません.ドミニカ大統領などの支援も受けひそかに潜入をねらいますが,ハイチの港で待機中官憲に武器・資金を没収されてしまいます.

 6月には反乱軍の中軸オリエンテ軍が投降,マラリアで動けなくなったカリストも8月に捕らえられてしまいます.lこうして戦闘は1年足らずで敗北に終わります.このあとさらにラスビリャスのヌニェスがロス・エヒードスで孤高の闘いを続けます.さいごに敵軍に包囲されたヌニェスは,革命委員会の許可を条件に降服に応じることで節を貫きます.ニューヨークの革命委員会は,ヌニェスに降伏を指示したのを最後に活動を停止します.


 

12 アグラモンテ最後の戦場はカマグエイ郊外,果てしなく砂糖キビ畑が続く平原の只中です.牧草をいっぱい荷車に載せ,馬に引かせるグアヒーロにたまにすれ違う以外,人と会うこともありません.結局正確な場所は分からずじまいで,町役場に引き返すと,そこは第1次,第二次独立戦争の間に二回にわたり反乱軍議会が開かれた由緒正しい場所でした.キューバはそんな発見の旅の連続です.

13 残念ながらグアシマスへは足を伸ばせませんでした.ハバナの革命博物館には,このたたかいが両軍の配置図もふくめて詳しく展示されています.数あるマセオのたたかいの中でも白眉といってよいものでしょう.

14 サンホンという地名はいまの地図にはありません.たしかこの辺だろうと,グアイマロから東へ車を走らせながら通り掛かりの人につぎつぎと尋ねていきます.国道がやがてオリエンテに入ろうというあたり,道端にひっそりとサンホンはありました.地元の人がこれだと指差す三角形のモニュメント,そこにはめ込まれていたはずの銅板はすでに剥がされ跡形もありません.あたりは一面の牧場,四方すべて地平線です.キューバ人にしてみれば「屈辱の記念碑」ですから余り保存にも力が入らないのかも知れません.

15 バラグアはサンチアゴからオルギンにいたる国道の,ちょうど中間あたりに位置する町です.途中バラグア湖を左に見ながらゆく風景はなかなかのものですが,道路の状態が悪く,距離の割りには思わぬ時間を食います.
道路がバラグア湖から離れるとあたりは一面の砂糖キビ畑,刈り入れた砂糖キビを満載した列車がモクモクと黒煙をあげ,入り陽に赤く染まった地平線の彼方に消え去っていきます.

 とうにバラグアの町に入ったはずなのにいつまでもそれらしきものは見当たりません.通り掛かりの人に尋ねながら走っていくと,とんでもない砂糖キビ畑の真中に出てしまいました.はるか向こうに砂糖工場の煙突が見えます.やや半時間をかけて車を進めると工場の煙突と思ったのはなんとドデカい記念碑でした.
ここはバラグアといっても正確にはマンゴ・デ・バラグア,ゴメスの待ち伏せしたピノ・デ・バイレと同じで,一本松ならぬ一本マンゴという地名です.実際行ってみないと分からないことというのはたくさんありますね.

15 このあたり時代区分が問題になります.「小戦争」を十年戦争ではなく15年後の第二次独立戦争と結びつける記載が,とくにキューバでの出版物では一般的です.しかしその共通点はホセ・マルティがかかわっていたということだけです.階級的視点から見れば「小戦争」は十年戦争の余波と見ておくのが妥当でしょう.しかし米国亡命者が運動のヘゲモニーを握ったという点では第二次独立戦争の将来を予感させるところもあります.