第二章 真正党の腐敗政治

A.バチスタ支配の十年


(1)この章の背景

 このあと52年3月バチスタがクーデターによって大統領の地位につくまで,キューバには珍しく大きな流血事件もない平穏な時期が続きます.

 米資本はこの時期を通じてますます深くキューバに浸透していきます.第二次大戦の特需景気,戦後の米国の好況を反映してキューバ社会も資本主義的な発展の時期を迎えます.キューバ・アメリカ砂糖会社,ユナイテッド・フルーツ社など米系4社が砂糖生産を独占,輸出に占める砂糖の割合は85%に達します.

 ハバナは米国にとって指折りの歓楽地帯としてつぎつぎに資本が投下され建設ブームを呼びます.同時にハバナは犯罪組織の温床ともなります.戦後間もない46年のクリスマス,シシリアに追放されていたマフィアの帝王ラッキー・ルチアーノがキューバを訪れます.ヨーロッパのヘロインをハバナ=フロリダ経由で持込むルートの開拓が目的です.ハバナを仕切るマイアー・ランスキーにマイアミのトラフィカンテ一家,シカゴのジアンカーナ一家も加わり「歴史的合意」が成立しました.この話は目下のところ革命とはまったく関係ありませんが,のちにフィデル暗殺計画やケネディ暗殺のところでふたたび登場します.

 このように米資本進出により一部の階層は余禄を手に入れますが,大部分の国民にとっては搾取と収奪がますます苛烈なものとなりました.35年に米国外交政策協会という団体のキューバ外交問題委員会が提出した報告書があります.農閑期における農業労働者の生活に触れた部分を紹介します.

 「どの労働者も少しでも金になるのであれば賃金が安くとも喜んでその仕事に飛びつく.農業労働者は代用食を探し求め料理用バナナ,甘藷,マランガ芋,タピオカを食べるようになる.みな次第に食事量を減らす.自分たち自身の作物を植え付けない大衆は乞食をしたり,出来る限り食物を拾い集め,また仕事を見つけることが出来ればそれを追って何処までも移動する.雨が降り始め雨と一緒にマラリアがやってくる.医者にかかったり薬を買う金はない」

 これが「安定期」の実態でした.この約20年間はバチスタが影になり日なたになり政権をあやつった前半と,真正党が政権をにぎった後半とに分けられます.まず前半のバチスタ時代を簡単に眺めてみましょう.

(2)権力のトップへ登り詰めるバチスタ

・新米玖協定の成立

 34年5月,米国は「メンディエタ政権がほとんどあらゆる階層の支持を受けて成立したものである」とし,政権を承認します.恐るべき面の皮の厚さです.意気揚々と引き揚げるウェルズに代わりキャフェリー国務次官がハバナ大使として着任しました.ただちに米玖条約の改定交渉が始まりました.新条約ではプラット条項の全てが撤廃されます.ただしグアンタナモ海軍基地だけは注意ぶかく残されました.米国は年間2千ドルのレンタル料で,グアンタナモ基地と周辺116平方キロの永久租借権をあたえられることになったのです.手みやげとして米国は経済援助のための輸出入銀行を発足させ食料,医薬品などを大量放出しました.これがいかにバチスタの権力基盤拡大に役立ったかはいうまでもありません.

 35年メンディエタ退陣にともない大統領選がおこなわれました.これは自由党対国民党という図式で争われた最後の選挙となります.バチスタは自由党を自らの政治的道具にしたてあげ第2代大統領の息子ミゲル・ゴメスを候補者とします.国民党のメノカルは立起の姿勢を見せながらバチスタとの裏取り引きにより引き下がってしまいます.

 ゴメスと組んだバチスタは国防相兼軍総司令官に就任,暴力装置を一手ににぎります.この間に地方での旧軍派幹部をあいついで更迭し息のかかった「軍曹」たちにポストを与えます.その強引な手法にさすがのゴメスも拒否権を発動しました.ところが逆にバチスタは議会を動員し大統領を罷免してしまいます.そして後任にはラレド・ブル副大統領を昇格させます.このミニ・クーデターでバチスタの権力は最終的に確立します.

・バチスタ派・真正党・共産党の鼎立

 この時代の政治的特徴は,キューバを構成する諸階級がそれぞれを代表する政党を持ったということにあります.支配層は国民党と自由党を支持し中間層は真正党を,そして労働者は共産党という色分けです.それは同時に多数を占める黒人層や農村の貧困層が政治から疎外されていく過程でもあります.

 20世紀はじめには独立をともにたたかった人々が二つに分裂しました.米国ベッタリの国民党と相対的に距離を置こうとする自由党です.しかしまもなく小農層や民族資本が没落するとともに両党の区別はあいまいになり,マチャドが大統領になってからはほとんど無意味になりました.

 これに代わって登場した真正党も,民族の自立を押し出したギテラス派の消滅とともにあまり期待の持てない政党になってしまいました.しかし33年の栄光は残り,バチスタの政治私物化に対する反感とあいまって,国民のあいだに現実的なオルタナティブとしての権威を獲得していきます.

 唯一国内に残り労働者・農民の立場を守り続けたのが共産党でした.進歩的な国民の期待が集まったのも当然といえるでしょう.3月ゼネスト後間もなく共産党は中央委員会を開き,ゼネスト万能論やソヴェト路線に対する深刻な総括をおこないます.指導部は総退陣しブラス・ロカが新書記長につきました.党はあらたに合法組織として革命同盟(UR)を創立.議長には左翼作家としてつとに名高いマリネーリョが就きました.またキューバ労働総同盟委員長には28才の黒人ラサロ・ペーニャ,労働運動の中核である精糖労働者組合の指導者には同じく黒人のヘスス・メネンデスが就きます.ブラス・ロカは黒人奴隷の子孫で製靴労働者出身,いかにも党の指導者としてふさわしい出自です.

 当時の共産党はコミンテルンの全面的指導のもとにありました.このころのコミンテルンは極左的方針を克服し人民戦線路線に大きく踏み出していました.しかし現場では今度は反ファッショの立場を一面的に強調し,ルーズベルトの善隣外交を無批判に評価する右翼的偏向が目立ち始めました.

・人民戦線への模索とバチスタの思惑

 35年5月ギテラスの死とともに33年革命は最終的に終焉します.別な形での運動が求められるようになりました.

 折から欧州を中心にファシズムの危険が迫ってきます.これに対抗するためフランス,スペインでは人民戦線が実現します.コミンテルン第7回大会は有名なディミトロフ演説で人民戦線を当面する世界共通の戦略として打ち出しました.

 おなじ時期ラテンアメリカではどうだったでしょうか.チリでは共産党も加わった人民戦線内閣が誕生しています.コスタリカでは自由主義的な政府に共産党も参加しています.この他メキシコ,ハイチ,マルティニクなど各地で共産党は大幅な前進を実現しています.資本主義の権化である米国においてすら共産党とその影響下にあるCIOが大躍進をとげていました.

 キューバにおいても共産党の呼びかけで真正党,ホーベン・クーバ,全国農民党,全国労働者同盟が人民戦線について協議を開始します.会議はグラウに大統領選への出馬を要請しますがグラウはこれを拒否します.

 人民戦線の実現をもとめながら真正党の反共姿勢の前に溢路に立たされた共産党は,思い切った路線転換を図ります.すなわちバチスタへの接近です.

 下士官上がりで度胸だけを頼りに権力の頂点に達したバチスタに,決定的に欠けていたのが民主的正統性です.米国からは政権の民主性の証として早期選挙・議会開催の圧力がかかってきます.来るべき選挙に向け独自の政策スタッフがもとめられますが,彼にそのような持ち合わせがあるわけがありません.彼は旧体制派や真正党に対抗するために反体制派知識人を取り込み左翼的ポーズで選挙に臨む道を選択しました.

 37年にバチスタが発表した「3ヶ年計画」は,労働者用住宅の建設,失業手当や最低賃金の制定,小作農の営農権保障,医療・公衆衛生・公教育の充実などがもりこまれています.さらに注目すべきことはキューバ労働者総同盟(CTC)が公認され組合結成が奨励されたことです.この軍事独裁とコミュニズムの不思議な混合は,バチスタの行き当たりばったりの政治姿勢と飽くなき権力欲との混合した人格の反映でした.

 ここに両者の思惑が一致しました.共産党とバチスタとの交渉が開始されました.・共産党は革命を放棄し資本主義の枠内で人民生活の向上をめざす,・ナチとのたたかいで協力する,・バチスタは共産党を合法化し労働団体を許可する,ことで合意が成立しました.

 38年3月バチスタとブラス・ロカとの会見がおこなわれ,両者のあいだに「歴史的和解」が成立します .こうしてバチスタと共産党とがブロックを形成すると,これに警戒を示す中間層や資本家の一部は真正党に移行していきます.なんとも分かりにくい政治構図です.1

 バチスタはいっぽうで金稼ぎに熱中します.当時オリエンタル公園の中に二つのカジノとレース場があり地元のギャングが経営していました.バチスタはこれに目を付け強引に取り上げます.そしてニューヨーク・マフィアの大立物マイヤー・ランスキーに運営を依頼します.

 政府公認という錦の御旗とニューヨーク仕込みのスマートな経営が結合すれば,莫大な利益をあげること間違いなしです.こうしてランスキーはハバナのギャングのあいだで「ゴッドファーザー」と呼ばれるようになりました.それにしてもこれまでの支配者も腐敗ぶりは似たようなものですが,さすがにギャンブルに直接手を出すというのは前代未聞です.

(3)バチスタの没落

・バチスタ=共産党連合の敗北

 39年制憲議会の選挙がおこなわれました.フタをあけてみれば真正党などの野党連合が76議席中41議席をしめ圧勝します.自由党(バチスタ派)と共産党が組んだ社会民主主義連合は大敗を喫します.ここでバチスタは真正党と裏取り引きに乗り出します.どうしても彼は大統領になりたかったのです.取り引きは成立し彼は1期のみという約束で大統領に就任しました.

 その内閣には共産党員も入閣します.バチスタは42年に枢軸国に対し宣戦布告するなど反ファシズムの姿勢をとります.しかし多少リベラルなポーズをとっても血まみれバチスタの印象はそう簡単に消えるものではありません.暴力により権力者になり上がった彼は結局最後まで国民の支持を得ることはできませんでした.

 44年初頭,任期満了の迫ったバチスタは任期の延長と大統領職への居座りを図ります.これに抗議する学生が行動を起こしました.彼らは大統領官邸を占拠しハバナ市内を暴動状態に陥れました.このときバチスタに引導を渡したのはランスキーでした.彼はなんとルーズベルト大統領の依頼を受けバチスタと会談,大統領選挙の実施をうながしたのです.このユダヤ人はとても一介のギャングとは思えません.

 結局バチスタは勝ち目のない選挙を闘うことを承諾させられます.こうして大統領選挙が実施されました.バチスタかいらいのサラドリガスはグラウに惨敗を喫します.バチスタはその後も政権居座りをもくろんで画策しますが,すべて空振りに終わります.彼はバクチで稼いだ4千万ドルを持って国を離れ,フロリダのデイトナ・ビーチでトバク場の経営者になります.しかし軍幹部には「軍曹の反乱」をともにたたかった連中が大量に残ったままでした.

・共産党の躍進と偏向

 国際的な反ファシズム運動の高揚とともにラテンアメリカ諸国の共産党も大きく発展しました.キューバ共産党は中でも目覚ましい発展をとげた党です.40年には党員数7万を数え中南米最大の党員数となりました.46年のピーク時はさらに15万人まで拡大したといわれます.これは当時のキューバ総人口の2%にあたります.いまの日本にあてはめれば二百万の党員を抱える党ということになります.40年の選挙ではブラス・ロカ書記長ら下院議員8人,自治体議員84を当選させました.オリエンテ州のサンチアゴ,マンサニーリョでは共産党員市長が実現しています.

 この数が意味するものは何でしょうか? それは黒人層をふくむ労働者階級を代表する組織として共産党が成長したことであり,中間層への働きかけをふくめキューバにおける政治変革の鍵を共産党がにぎったということであります.

 ところが惜しいかなこのとき共産党は重大な政治ボケにおちいったのです.それは反帝・民族自決・民主主義実現の課題を,キューバ人民の当面する最大の課題として位置づけきれなかったことから生じました.

 なにを課題とするかによって当然敵と味方は変わってきます.反ファシズムの課題においては,とりあえず階級間の対立を脇においてでも人類の敵であるファシズムとたたかわなければなりませんでした.しかしいまその戦争も終わりました.あらためて民族自決のための戦線を再構築するときが来たのです.闘いの方針を発展させるためには民族自決を妨げているものが何なのかをしっかりと規定すべきでしょう.

・ブラウダー主義の誤り

 この右翼日和見主義が生まれた背景は「ブラウダー主義」にあります.ブラウダーは米国共産党の書記長を務めていましたが,コミンテルン中央執行委員として南北アメリカ大陸全体の指導を委ねられることになります.彼は反ファシズム闘争をズブズブの日和見主義路線に変質させ,最後には共産党解体論までたどり着きます.すこし長くなりますが,44年1月マジソン・スクエア・ガーデンでおこなわれた有名な演説から引用してみたいと思います.

 彼はまず「合衆国の国民は社会主義的変革に対しほとんど準備ができて」いないとします.したがって革命の課題の提起は「国民の分裂に資することとなり」「国民の分裂はもっとも反動的な勢力にのみ利益をもたらすであろう」と警告します.つまり資本家の中には圧倒的多数の良い資本家と一握りの悪い資本家がいて,革命をいいだすと悪い資本家に有利になってしまうというわけです.そこでマルクス主義者の任務は「戦後も我が国経済の目覚ましい発展が鈍化しないよう,自由企業にもとづく資本主義の有効性に寄与する」ことだということになります.彼は共産主義者に対してたたかうなと呼びかけるだけでは気がすみません.「共産主義者の独自の党の存在は,もはや実践的な目的に寄与しないばかりか,より広範な統一の障害物にさえ転化しよう」と踏みこみます.そして共産党を解散させ「制度化された意志疎通の二大パイプ」である二大政党制のなかで「進歩的なもの」を前進させるため活動するよう提案するのです.

 どうですか,ご感想は?

 実はキューバ共産党はこのブラウダー演説に大感激するのです,次の党大会ではブラウダーの解党提案を受け民主集中制という前衛党の組織原則を放棄し,党名も人民社会党(以下PSP)に変更します.大会報告ではエスカランテ指導部員がブラウダーをほめたたえる報告をおこない,なんと「ブラウダーを賞賛する書簡」をおくる大会決議を採択するにいたります.

 たしかに第二次大戦を機に世界の支配構造は根本的に変わりました.それはいっぽうにおいて米国の全一的支配が貫徹したことであり,他方において社会主義国がひとつの世界を形成するまでに至ったということでした.少なくともそれによって資本家階級が帝国主義者であることをやめたわけでもありませんし,一握りの反動を除いてすべて平和主義者になったわけでもありません.むしろその逆であったことは歴史の証明するとおりです.

 このような「今日的教訓」をもふくむブラウダー主義の過ちは,労働者に対しててひどいしっぺがえしとして現われてくることになります.

 

B.真正党政権の成立と腐敗

(1)第二次グラウ政権

・真正党政権とトロツキスト

 バチスタにかわって大統領の地位に返り咲いたのがあのグラウです.マイアミで真正党を結成したグラウは,米国と資本家の代弁者となって反共意識だけは一貫したままキューバに戻ってきました.

 当時からみてもまごうことなき反動であったバチスタを反ファシズムの名の下に支持してきた共産党は,あらたに政権についた真正党により激しい攻撃にさらされることになります.

 グラウ政権が誕生するとPSPは新政権を支持します.今度はグラウとの人民戦線です.PSPは労働戦線統一のため労働総同盟に労働者委員会が加入するようよびかけます.真正党はPSPなど頭から信用していませんでしたが統一の提案を受け入れます.いずれ労働者委員会が総同盟を乗っとるという計画があってのことです.

 統一は何をもたらしたでしょうか.まず労働総同盟に真正党系活動家がなだれこみます.真正党系活動家といってもその実体はトロツキストです .2彼らは35年頃から真正党の労働組織である労働者委員会へ潜入する戦術を展開しました.コミンテルンが人民戦線を世界の党の路線として打ち出したのと同じ時期,トロツキストの国際組織「第4インターナショナル」も社会民主主義政党への潜り込みを路線とするようになりました.3真正党も共産党との対抗上彼らをうけいれ育成をはかります.

・冷戦開始と反共の嵐

 46年に入ると,米国の右翼的労働組織AFLのテコ入れを受けた真正党は本格的な多数派工作を開始します.まず総同盟に対し書記長制をやめ5人の書記局員からなる合議制に移行するよう主張しこれを押し通します.書記局員選挙では真正党からムハールら3人が当選,総同盟の主導権をにぎることに成功します.

 労働戦線を譲ってしまっては大変なことになります.PSPは必死の巻き返しをはかり翌年の役選では逆転勝利します.しかしそれが限界でした.これ以降反共攻撃ははるかに国際的で大規模なものとなります.

 それは47年3月にソ連の原爆開発に対しトルーマン大統領が冷戦状態を宣言したことにはじまります.彼は「米国は全世界を脅かすようなどんな衝突の発生に対しても,これらに積極的に干渉し適時に圧力を加える義務がある」と述べ,それまでの一定のリベラルなポーズを投げ捨てタカ派の本質を露わにします.それはおよそ「共産主義なるもの」に対する宣戦布告であり戦争状態への突入宣言でした .反共という目的のためには暴力による支配をも辞さない姿勢こそが「冷戦宣言」の本質です.4

 ついで米国は「冷戦」への参加をLA諸国に押しつけます.ほとんどすべての国で共産党が非合法化され弾圧されました.9月にリオデジャネイロで開かれた米州会議で相互防衛条約,いわゆるリオ条約が締結され,米国の援助のもと各国の軍事力が飛躍的に強化されることになりました.これは日米安保条約のヒナ型ともなっていきます.

 いまやグラウ政権の内相となったプリオは,このような状況を最大限利用しながら総同盟の私物化にとりかかります.まず7月労働総同盟の第5回大会に対抗して「労働組合評議会」を結成します.議長にはムハールが選ばれます.ついで「内紛」を口実に官憲が総同盟本部を占拠,裁判所により明け渡しを迫られると急遽でっちあげた「総同盟正統派」なるものに管理権を委ねます.

 10月プリオは「総同盟は違法であり,その権利は停止され全権が正統派に委ねられる」と発表します.これに抗議する労働者には容赦ない攻撃が加えられます.全国で千名以上の総同盟活動家が逮捕され抵抗運動は極めて困難な事態を迎えます.

 世間の風向きはますますPSPに不利になっていきます.ブラウダー主義に対してコミンテルンの批判が集中したことも大きな打撃となりました.おそまきながら指導部全員がブラウダー主義の誤りについて自己批判しますが,誰一人も辞任せず党名も復帰せずというはなはだ中途半端な総括に終わりました.

 48年1月製糖労働者の偉大な指導者ヘスス・メネンデスが暗殺されました.労働者に対するテロル反対の集会を各地で展開中マンサニーリョ駅頭で射殺されたのです.犯人は狂信的な反共主義の軍人でした.ハバナ駅頭では彼の遺体を迎え追悼集会が開かれます.

 なおこの集会には後に革命を指導することとなる若きフィデルも参加していました.当時のPSPの国民的権威というものをうかがわせます.

・三つの階級と政党

 反帝・民族自決・民主主義実現という闘争課題,黒人層と中間層の統一という組織課題は第一次独立戦争以来メンメンと流れる革命運動の課題です.独立をかちとるべき相手はスペインから米国へ変わりました.黒人層はたんにエスニックなものにとどまらず労働者階級として形成されるようになりました.ブルーカラーを中心とする組織労働者は共産党=PSPの影響を強く受けるようになりました.地方の精糖労働者にも共産党への共感がひろがっていきました.

 中間層を代表する集団は小農層から都市の技術者,知識人,学生へとすがたを変えてきました.中間層では真正党への支持がひろがりました.

 支配層は当初バチスタを支持していましたが,真正党が政権をとるとそちらに乗り換えたりあるいは二股をかけるようになりました.しかしバチスタ派にしても真正党にしても33年政変から生まれた集団ですから,決して心から信用しているわけではありません.彼らが心から信用しているのは米国の海兵隊とドルだけです.彼らにおける愛国心と責任感の徹底した欠如,ひとことでいって植民地根性がこの国の紛争を深刻化する原因になっているともいえるでしょう.

・チバスとオルトドクソ党

 当初は挫折した33年革命を継続するものと期待されたグラウでしたが,結局は資本家や米国の代理人に変質していきます.彼が実際におこなったことは中間層の期待に対する裏切りであり,米資本の無制限の導入であり,その邪魔になる労働運動の抑圧であり,とりまき連中による行き当りばったりの政治でした.党内部には腐敗がはびこり世論のきびしい批判を受けることになります.

 政権の腐敗ぶりを象徴的に示したのが47年10月に発覚したアレマン事件です.時の教育相が政治団体をトンネルに教員共済の積立金を着服するという極めて非教育的な事件でした.アレマンは火の手がおよぶ前にまんまとマイアミにヨットで逃げおおせます .一説によれば大蔵省に3台のトラックを乗りつけ,キューバの保有する現金をすべて詰め込んで逃げたといいます.その額1億7千万ドルとされますがさすがにこれは眉唾です.5

 こうなればまじめな党員が指導部に絶望するのは必然です.そして彼らがあのギテラスの流れを汲む分派を形成することになるのも必然です.

 その旗頭となったのがラウル・チバスでした.アレマン事件に対する国民的憤激の中で彼は党からの離脱とキューバ人民党の結成を宣言します.この党は33年革命の精神の正統な後継者とみずからを主張したことから正統党と呼ばれるようになります.日本ではそのままオルトドクソ党といわれたりもします.

 チバスは反独裁のためたたかってきた筋金入りの闘士です.27年にマチャドにより国外追放,32年にはグラウとともにピノス島監獄に収監されました.それ以来グラウを一貫して支持し続けてきました.44年に真正党が政権をにぎると同時にオリエンテ州選出の上院議員となり,党指導部の一員として活動してきました.その彼がグラウと絶交するにいたったのですから影響は甚大です.
 チバスは日曜夜の定期番組を通じて政府の腐敗を激しく攻撃し,「金からの独立」というわかりやすいスローガンを掲げました.正統党はこのチバスのカリスマ的人気に支えられ学生・知識人を中心に急速に勢力を拡大していきます.

 PSPはこの動きを歓迎し共闘を提起しますが,チバスはいっさいの既成政党との連合を拒否するという理由でPSPを排除し続けます.そのかたくなな反共姿勢はギテラスと共産党の確執の思い出を引きずっていたためかも知れません.

 このときハバナ大学生だったフィデル・カストロも創設メンバーのひとりとして参加しています.そしてその行動グループであるオルトドクソ急進行動(ARO)を組織し,その幹部に就任します.

 

C.カストロの歴史への登場

(1)ボンチェスの暴力支配

・ボンチェスとはなにか

 この時期,キューバの将来を担うことになる人物を生み出した集団があります.この集団はボンチェス(ならず者達)というありがたくない名前を賜っています.いったいボンチェスとはなんでしょう.これは要するに暴力的な主張とそのための手段をもち,同時に常識的な倫理観をあまり持ち合わせない活動家集団の総称です.もっといえばヤクザです.ところがこれがオタク的にはきわめて面白いのです.

 先ほど出てきた「オルトドクソ行動」もボンチェスの一つです.つまり率直に言えばカストロもボンチェスの出身です.あとで出てくる革命幹部会のエチェベリアもボンチェス出身です.いっぽうで革命運動弾圧の手先になり多くの民衆を虐殺したマスフェレルもボンチェスの幹部でした.つまり親暴力という点で一致はしているものの,その方向性については全くの星雲状態というのがボンチェスの特徴といえるのではないでしょうか.幕末の浪士団というところです.

 ボンチェスの源流はさまざまですが,基本的には33年革命の挫折後なお反バチスタ闘争を続けた諸潮流が母体となっています.旧ギテラス派,旧学生左翼派,共産党くずれ,それにトロツキストやアナーキストなどです.スローガンだけは左翼的でも金のためならなんでもする集団に成り下がっています.
 これらの集団が39年末の大弾圧で居場所を失いハバナ大学内に逃げ込みます.当時大学の自治の名の下に大学構内だけは一種の治外法権になっていたためです.
 もはや自治が形骸化した日本の大学ならさっそく警察を呼ぶところでしょうが,さすがにハバナ大学は違います.学生や学内活動家はボンチェス追放全学委員会を結成し対抗するのです.委員長には工学部の学生マノロ・カストロ(フィデルとは別人)が就任,武装自衛団を組織します.
 共産党はこれをチャンスとばかり学生支援のため武装集団を送り込みます.当時スペイン人民戦争が終わったばかりで武闘派には事欠きませんでした.隊長には共産主義青年同盟のマスフェレルをすえます.
 いよいよ全学委員会(CSU)とボンチェスの衝突が始まります.最初は40年6月のことでした.学内で両派が乱闘になりました.CSUはボンチェスのリーダーの一人をコテンパンにやっつけます.これを恨みに思うボンチェス一味はマシンガンを持ち出し,CSUメンバーの一人が教室から出てきたところを射殺してしまいました.
 こうなればただでは済みません.学生たちも報復に走ります.ここで活躍するのがマスフェレルです.テロ活動の先頭に立ちボンチェス達を圧倒します.CSUは広範な国民の憤激を利用し学内での支配を確立していきます.大学学生連盟(FEU)の選挙ではCSU指導者のマノロ・カストロが選出されました.ところがこれで済めば話は万歳ですが,援助者に過ぎないはずのマスフェレルが指導者気取りで学内支配権を握ってしまいます.ミイラ取りがミイラになってしまったのです.
 マスフェレルは反対派の教師数人を暗殺するなど暴力的傾向を強めます.共産党が彼を批判するとその指導を拒否し脱党してしまいます.CSUはその後当局の手で解散させられますが大学学生連盟はいぜんマスフェレルの影響下にありました.彼はいっぱしの指導者気取りで親トロツキズムを自称し,共産党に代わる政治組織として革命的社会主義運動(MSR)を結成します.そうなると今度は,学内民主化を願う良心的学生が旧ボンチェスの「革命的反乱者同盟」(UIR)の方に結集するようになります.こうしてその後も両派のあいだにテロ合戦が続くことになりました.

・三大暴力集団の形成
 こうしてグラウが政権についた時点でボンチェスの勢力配置は以下のように変化していました.まずMSRがあります.その正式メンバーは約300名.綱領に・反共産党,反帝・反真正党の革命的社会主義,・UIRその他の反革命挑発分子のせん滅,・ドミニカのトルヒーリョ独裁政権からの解放を掲げます.MSRにはアルゼンチンのペロンが35万ドル相当の武器を供与したほか,コスタリカのフィゲレドなども援助を与えました.反真正党をうたうにもかかわらず真正党のボス,アレマンやプリオからも援助を受けるという節操のなさで,事実上真正党系の武装集団となっていました.
 マスフェレルは真正党の,さらに後にはバチスタ派の上院議員となり反共右翼に変身していきます.彼の私兵集団「マスフェレルの虎」はキューバ解放までのあいだ反動テロを続け,多くの若者を死に追いやります.
 このほか真正党の支配確立とともにその保護を受けた暴力集団が勢力を伸張していきます.中でも団員約800名を誇る最大の組織がギテラス革命行動団でした.これはハバナ警察署長ファビオ・ルイスの後援を受けMSRメンバーのエウフェニオ・フェルナンデスを中心に創設したもので,事実上警察の別動隊です.エウフェニオはその後グラウ政権の警察長官までのし上がっていきます.
 もうひとつが革命反乱者同盟(UIR)で旧ボンチェスの流れをくむ無政府主義者の組織です.指導者のトロは共産党崩れのアナーキスト.スペイン戦争に参加したあと後米軍に加わりガダルカナルの激戦も経験した強者です.
 これらの集団は三大ボンチェスと呼ばれるようになります.彼らは銃を振り回しては乱暴狼藉に及ぶことからピストレーロスとも呼ばれ恐れられました.

・ボンチェス間の党派闘争の激化
 47年5月MSR幹部がUIRに襲撃され重傷を負いました.MSRは直ちに反撃を開始,反対派活動家数人に銃撃をくわえます.
 このとき奇妙な事態が起きました.グラウ大統領が直接仲裁に入るのですが,抗争を中止する代わり両派活動家にいくつかの政府ポストを提供するのです.この結果UIRのトロが警察学校校長,MSRのサラバリアが国家警察捜査局長の地位に就くことになりました.かりそめにも一国の大統領がなんたる判断をするのでしょうか.信じられないような話です.
 暴力団の元締めが警察を仕切るのですからどうなるかは火を見るより明らかです.戦闘を辞めるどころか,もっとおおっぴらに大がかりに「仁義なき闘い」を繰り広げることになります.シカゴ・ギャングばりに高速走行の車からマシンガンをぶっ放すなどが相次ぎました.ハバナ警察総監は,暗殺や脅迫などにより1年間に5人も交代する始末です.
 抗争は47年9月ピークに達しました.トロ暗殺を謀った警察官がUIRにより返り討ちにあったのです.サラバリアは捜査局長の地位を利用しトロ逮捕に動きました.こうなると警察対警察の対決です.捜査隊はハバナ郊外マリアナオの警察署長宅を包囲します.この署長というのがトロの腹心の一人で,折からトロは仲間を伴って立ち寄り食事中でした.
 密かに包囲したMSRの銃が一斉に火を吹きます.銃撃戦は3時間に及びトロを始め数人が射殺されました.その中には妊婦も含まれていました.銃撃戦の模様はラジオで中継され市民を驚かせました.

(2)カストロの登場


・カストロ,ドミニカ進攻作戦に参加
 フィデル・カストロは26年オリエンテの生まれ,45年にハバナ大学に入学しただちに政治活動を開始しています.この頃のフィデルの動きについては意外に不明確な点が少なくありません.それほど昔の話でもないし,なによりも本人が現存しているのですからもう少しすっきりさせてもよいのではと思うのですが….
 彼が当初接近したのはUIRでした.先程も述べたように当時の大学はMSRが暴力支配を行い,これに対抗してUIRが武装抵抗するという状況でしたから,何らかの政治的活動をしようとすればどちらかの組織に属するしかなかったのです.
 しかしカストロは決して単なる党派闘争にとどまる人ではありませんでした.47年7月MSRによるドミニカ侵攻作戦が明らかになるやいなや,党派を超えてこれに参加していきます.
 この侵攻作戦はドミニカからの亡命政治家が名目上の代表を務めていましたが,本当の黒幕はアレマン教育相でした.彼は職務上の権限を用いて蓄えた秘密口座から35万ドルを投じました.爆撃のため米軍パイロット20数名が雇われ,キューバ人千名のほかベネズエラなどから2千名の志願兵を集めるなどきわめて大がかりなものでした.
 当時のドミニカは悪名高いトルヒーヨ独裁の時代でした.だからドミニカの民衆が独裁政権を打倒しようとするのは当然のことで,この闘いにキューバの人達が支援を送るのも問題はありません.しかしいきなり外人部隊が押し入って「自由」を押しつけるのは見当違いでしょう.おまけにドミニカ爆撃のため米軍パイロットまで雇うということになると,おやおやと首をかしげることになります.
 部隊の中核にはMSRがあたりマスフェレルが司令官を務めることになります.部隊はシエラマエストラで訓練したあと,カマグエイ州の無人島カヨ・コンフィテスにうつり訓練を繰り返します.フィデルらUIR系の活動家もMSRと休戦協定を結びカリブ軍団に参加しました.
 さていよいよ出陣というとき米国からの圧力がかかります.グラウはこの圧力に屈し軍に対し侵攻部隊を解散させるよう命令しました.情報を察知したマスフェレルはいち早く戦線を離脱,サラバリアも資金を一人占めして遁走してしまいます.UIR系活動家にはこの間の経過は知らされないままでした.
 軍に追いつめられたカストロらはゴムボートで脱走,最後にはフカのいる海を泳いで脱走に成功します.カストロの偉いのはその日のうちにハバナにたどり着きただちに行動を開始したことです.カストロが政府非難の集会に顔を見せるや満場の拍手で歓迎されました.このような土壇場でのクソ力が何度カストロの命を救ったことでしょうか.

・ボゴタソとフィデル
 一躍学生の英雄となったフィデルは,MSR対UIRの抗争も潜り抜け法科学生連合副議長に選出されます.そして翌48年2月には委員長に就任,マノロらMSRとの本格的闘争を開始するのです.なおこの時期特筆すべきはフィデルがPSP系学生とも親交を結んだことです.MSRと対抗するためという理由もあったのでしょうが,共産青年同盟のアルフレド・ゲバラやリオネル・ソトなども仲間に取り込む中で反共アレルギーを克服していったといえます.
 トロ虐殺の余韻がまだ残っていた当時のことです.UIR系活動家とみなされながら大学内で活動を続けるのは想像以上の困難を伴いました.生命を的の活動だったのです.そんな状況を象徴するような事件が起きました.MSR幹部のマノロ・カストロが暗殺されたのです.当時マノロはグラウ政権のスポーツ局長にまで昇進していたのですが,その彼がハバナ市内の路上で射殺されました.その場に居合わせたというマノロの甥がフィデルを犯人だと名指ししたことからカストロは逮捕されてしまいます.しかしこれが偽証だったことが分かりやっとのこと釈放されます.今ではこの事件はマノロの影響力拡大を恐れたマスフェレルによる謀略だったという説が強まっています.
 釈放はされたもののMSRのし返しを恐れたカストロは潜伏生活を余儀なくされます. 一時国外に逃れようと機会をねらうカストロは,アルゼンチンのペロニスタ青年同盟が第1回LA学生会議を呼びかけていることを知り,これに渡りに船と飛びつきました.彼は持ち前の行動力でベネズエラ,パナマ,コロンビアの学生組織にも呼びかけあっという間に共催の同意をとりつけてしまいます.
 おりから米州会議総会がコロンビアのボゴタで開催され全米の首脳が一堂に会することになっていました.彼はこれにぶつけてLA学生会議総会を開こうと決めます.ボゴタに飛んだフィデルは,当時自由党の大統領候補者として国民のカリスマ的人気を集めていたガイタンに接触,総会の支援と正式会見の約束をとりつけます.
 4月9日フィデルは約束した会見の場である新聞社で彼の到着を待っていました.ガイタンはその新聞社に向けて街を歩いていました.そのときフアン・ロアという一人の若者がガイタンの背後に迫りピストルを発射しました.ガイタンはその場に倒れそのまま帰らぬ人となりました .6
 まわりの人は怒り狂いました.ただちにロアを取り押えその場で殴り殺してしまったのです.群衆はそれでも腹の虫がおさまりません.死体を引きずりながら近くの警察署に押しかけたのです.
 彼らは武器の引き渡しを要求しました.その武器をもって大統領官邸までデモをかけようというのです.警察も群衆に同情的でしたから自発的に武器の引き渡しに応じました.さらに警察の一部は群衆の立場に立ち行動をはじめます.武装した群衆は大統領官邸に押し寄せました.そして官邸突入を阻止しようとする警備隊とのあいだに衝突が始まります.大統領は軍に対し出動を命じますがボゴタ駐留の師団は出動を拒否します.群衆は大統領官邸や国会を焼打ち,刑務所を襲撃し囚人を解放するなどつぎつぎに行動を起こしていきます.学生の一団は放送局を占拠しメッセージを流します.「革命が始まった.兵士諸君,われわれの行動に参加せよ」
 しかし翌日になると大統領が召集した地方の軍がボゴタに到着します.いったん受け身に回ると指導者を持たないたんなる暴発行動というのはもろいものです.その日のうちに勝負はついてしまいます.反乱は2千名の市民が犠牲になるなかで終結します.これがボゴタソといわれる市民暴動のあらましです.それはその後十年にわたり数十万の死者を出した「ビオレンシア」の時代のはじまりでもありました.
 それでこの反乱のあいだフィデルはどうしたかということですが,この血の気の多い行動派の青年がじっとしているわけがありません.どさくさ紛れにピストルを手にするといつのまにか学生の一団を率いることになります.形勢不利と見るや近くの山に逃げ込み一夜を明かしたあげくキューバ大使館に命からがら逃げ込みます.キューバ大使館はこの厄介者たちを密かにハバナ行きの家畜輸送機に潜り込ませ脱出に手を貸します.

・バス運賃値上げ反対闘争
 大学に戻ったカストロは相変わらず荒っぽい活動に没頭していました.結局FEU執行部はとれなかったものの,秋からのバス運賃値上げ反対闘争で勢力を拡大します.街頭に出たカストロらUIR活動家はバス数台を焼いてデモの暴動化を煽ります.このあとUIRは街頭で盲動を繰り返すことで学生運動の主導権を獲得していきます.
 49年はじめ運賃値上げに連帯する形で運転手組合がストに入りました.勢いに乗るUIRは学内に闘争委員会を結成,ますます過激な街頭行動を続けました.これに対しFEU=MSRの巻き返しも強まります.MSRは医学部自治会委員長オルランド・ボッシュ(革命後に反カストロ組織MIRRの幹部となりケネディ暗殺にも関与)を先頭に反UIR委員会を組織し「内ゲバ」に精力を集中します.反UIR委員会はのちにFEU=革命幹部会の母体となっていきます.
 カストロはトロ没後一周年集会で追悼演説を行うなどUIR後継者と認められていました.学内に暴力事件があいつぐなか学内警察の刑事暗殺事件では警察に追い回されたりすることもありました.かと思うとこんな事件の真っ最中にバチスタとも遠縁にあたる名門令嬢と結婚し,マイアミで高級車を乗り回して豪遊するなど,側からはよく分からない行動が続きます.結婚にあたりバチスタからは過分のご祝儀をいただいたとのことです.

・青年期のフィデルをどう見るか
 もうひとつ最近出たパターソンの本におもしろいエピソードが載っています.
 48年11月ボゴタソから半年後のことです.キューバ転戦中のメジャーリーグ選抜チームがハバナ大学と対戦します.ハバナ大学の主戦投手はなんとフィデル.それがメジャーリーグを3安打無得点に抑えてしまったというのですからどうも開いた口がふさがりません.パターソンはいかにも米国人らしくしっかりと典拠を示しながら書いているのですが,そういわれてもこれじゃあまりにもハリウッド映画の世界です.その年のストーブリーグではニューヨーク・ジャイアンツが彼を指名し年棒5千ドルを提示しました.しかしフィデルは熟慮の末この誘いを断り弁護士への道を選んだのだそうです.
 このエピソードでもうひとつおもしろいのが,フィデルはあの立派な体形にもかかわらず豪速球投手ではなかったということです.逆にカーブを主体とした技巧派の投手だったそうです.後年の彼の言動を検討しているとついこの話が思い浮かばれて微苦笑を禁じえません.
 こういった青年フィデルの足跡を見てどんな人間のイメージが思い浮かぶでしょう?あれこれの闘争にそのつど生命を賭ける猪突猛進型人間のイメージをどうしても受けます.それと同時にけっこう引き際のうまい勝負師としての天性の勘が備わっているなと感じます.さらに非科学的な言い方を許してもらうなら,史上稀な大事件や好機にめぐりあわせる「星を背負って」生まれてきた人ではないかという気すらします.
 ただそれはどうでもよいことなので,肝腎なのは彼を生み出した母なるキューバがどのようにその時代をたたかい,どのようにしてフィデルをフィデルたらしめたのかを知ることです.

1 ブラス・ロカのいうところを少し聞いてみましょう.あまり納得できる人はいないでしょうが.
彼はキューバを「半民主主義的な条件」下にあると規定,実質上の独裁者であったバチスタを「反動陣営の中心人物ではなくなり始めた」と評価します.「われわれはバチスタに対して肯定的な態度をとり,全力をもって彼の革新的施策を支援する必要を人民の前で宣言する.革命を放棄したとか我が国人民の利益をソ連の犠牲にしているという主張があるが,ナチ=ファシストの侵略に対する我が国の防衛と国民的団結は人民の利益にそったものである」
2 41年8月メキシコ亡命中のトロツキーはスターリンの放ったスパイにより暗殺されます.当時のトロツキストのスターリニストにたいする恨みは凄じいものがありました.真正党自体にも,虐殺者バチスタと手を結んだ裏切者という共産党へのルサンチマンがついてまわります.だいたいが両者のあいだに共闘など望むべくもなかったのかもしれません.
3 日本でもトロツキスト系活動家が社会党にもぐりこんで社青同解放派を作りましたが,同じやりかたと考えていいでしょう.湯浅著「トロツキズムの史的展開」(三一書房)をご参照ください.
4 戦争状態であれば「共産主義者」はたんなる批判の対象ではなく抹殺すべき「敵」となります.「共産主義者」が相手ならどんな卑劣な弾圧も許されることになります.米国内に進歩的な勢力を排除する「赤狩り」旋風が荒れ狂います.5月には非米活動委員会が活動を開始します.その後約10年のあいだに,全米で660万人がこの委員会に呼び出され取り調べを受けました.
5 その息子は表向きはマイアミの実業家,裏ではFBIやトラフィカンテ一家とつるんでケネディ暗殺に関与したことで知られています.その後マフィアに身ぐるみ吸い取られ無一文になったアレマン二世が議会で証言したことから,ケネディ暗殺の謎が暴露されていくことになります.
6 ある本ではこうなっていますが他の本には記載されていません.いささか出来すぎた話のような気もしますが….他にもボゴタソにおけるカストロの行動については曖昧な点が少なくありません.