第三章 バチスタ独裁と人民の抵抗

A.バチスタのクーデター

(1)チバスの死とオルトドクソの躍進

・グラウからプリオへ

 戦後ブームを呼んだ米国の投資はその後徐々に減少してきます.新規の投資先は砂糖などの農業関連よりも鉱山や石油精製,観光に向けられるようになります.その結果キューバ国内資本が砂糖,金融では優位となりますが,それぞれの基幹をなす部分はがっちりと米国企業ににぎられていました.

 

 

サトウキビをはこぶ汽車

 

 砂糖生産は依然GNPの1/3,輸出の85%を占めていますが,その輸出先は若干変化を見せはじめます.恐慌前8割を占めた米国が5割強に減少しそのかわりにヨーロッパや日本への輸出が増加してきます.

 生産の大規模化にともない,砂糖農業労働者は60万人を越えるにいたります.これは全労働者の実に1/3におよびます.

 このような経済変化を背景に48年10月の大統領選がたたかわれました.この選挙は少なくとも暴力や不正操作に頼らずに行われたという意味で,あるいは皮肉にいえば札束と利権が決定的な影響を持っていたという意味で,キューバ史上最初で最後のまともな選挙といえます.政権党である真正党からは共産党退治に辣腕を振るったプリオが出馬,圧倒的な強さを誇っていました.

 選挙の焦点は真正党を離れたチバスがどれだけプリオに肉薄するかにありました.33年革命の時は同じく革命幹部会の指導者としてたたかってきた二人です.それが国を二つに分けて対決するということは,裏を返せば真正党に代表される中間層が国の政治を規定するまでに強力なものとなったことを示しています.さらにそれだけの中間層が形成されるまでにキューバの資本主義が「発展」したことを示しています.

 

・グラウを上回るプリオの腐敗

 選挙の結果プリオが90万票を獲得,自由党のヌニェスを圧倒し当選します.チバスはフタを明けてみればプリオの1/3の得票にとどまります.惨敗です.しかし道徳的権威のみで現実的な組織的力量を持たない候補がとれる票といえば,このくらいのものかも知れません.

 PSPはマリネーリョ議長が大統領選に立起し14万票を獲得しました.上院の議席はゼロとなりますが下院議員9名はなんとか確保します.わずか2年前に党員15万を誇ったのにくらべれば淋しい限りです.しかし当時の日本の状況と比べれば反共の嵐の中で随分がんばったというべきでしょう.

 この選挙でバチスタも政界復帰を果たしています.バチスタは国内不在のままラスビリャスから上院議員に立候補,軍部の支持も得て当選しました.彼の政界復帰はこの時点ではとるに足らないようなことですが,あとから重大な意味を持ってきます.

 大統領就任後プリオが最初にやったことは,汚職追放の名の下に前政権の役人1万人を更迭することでした.プリオは前大統領のグラウも告発に追い込みますが,証拠書類がすべて「紛失」したためと称し裁判は行いませんでした.ついで彼がやったのは公務員のポスト1万を自らのとりまきに配分することでした.その後プリオはグラウもあきれるほど旺盛に汚職・腐敗政治を繰り広げます.

 プリオ新政権は労組幹部をつぎつぎとパージしていきました.抵抗を続ける活動家は暗殺,脅迫,リンチなどで活動不能に追込んでいきます.PSPは半ば非合法となり機関紙「オイ」工場は襲撃され閉鎖に追込まれます.真正党に乗っ取られた総同盟は政府の御用組合と成り下がり,ムハールを頂点とする労働貴族の支配するところとなったのです.

 

・国家財政の破綻と米国の干渉

 第二次大戦直後のラテンアメリカは空前の好景気に沸いていました.戦争特需に次いで欧州各国の食糧需要が急増したためです.世界を圧倒する富裕国となった米国からのおこぼれもありました.

 しかしさしもの好景気も50年に入る頃には後退し始め,一次産品の生産過剰と値崩れが始まっていました.しかし肥大化した国家財政はそう簡単にはスリム化できません.それこそが金権政治家どもの富と権力の源泉だからです.

 泥棒に金庫番をさせておく限り、お金がいくらあっても足りるものではありません.キューバの財政もこうやって破綻していったのです.あまりの乱脈ぶりに恐れを成した米国の資本家たちは,復興開発銀行の調査団を組織してキューバ経済を視察させ圧力をかけます.

 視察団の団長で銀行家のトゥラスロウは「経済再建と発展のための計画」を提出しました.この計画はいかにも銀行屋の計画らしく,経済再建のためというよりは「投下資本を安全かつ有利に回収するための計画」ともいうべき内容で,決してキューバ国民の立場に立ったものではありません.その勧告するところは労働者の権利を剥奪し,搾取と収奪の強化,賃金カット,人減らし合理化などです.現在のIMFと通ずるところがあります.

 さすがにプリオも国民の反発を恐れ勧告の受け入れを事実上見送ってしまいました.このことが米国からの反発を買いプリオの政治生命を縮める結果となります.

 

・チバスの衝撃的自殺

 51年8月衝撃的な事件が発生します.ラジオでプリオの腐敗を激しく批判し続けていたチバスが放送の最中に突然ピストル自殺を遂げてしまうのです.最後の訴えは次のようでした.「正統党の同志よ前進せよ.経済自立のために政治的自由のために,そして社会正義のために.政府内部に巣くう泥棒達を叩き出せ.キューバ人民よ立ち上がれ,前進せよ.キューバ人民よ覚醒せよ.これが私の最後の警告だ」

 

 

 そのあとおもむろに38口径のピストルを取り出したチバスはみずからの腹に一発ぶち込みます.
 そのころかれはアウレリアノ・サンチェス教育相(のち外相)への攻撃を集中していました.アウレリアノはかつての学生左翼の指導者.33年革命の時は盛んに労農ソヴェト結成を煽っていた人物です.それがいつのまにか真正党の幹部となり教育相まで成り上がっていたのでした.

 アウレリアノの腐敗ぶりは誰の目にも明らかでした.しかしチバスの批判にはきちんとした根拠が欠けていました.そこを与党側に衝かれチバスは議場で立ち往生してしまったのです.真正党はチバスをうそつきとするキャンペーンを展開,オルトドクソを一気に壊滅させようと図ります.

 今となっては自殺の理由はどうでも良いことでした.腐敗政治と米国の横暴に飽き飽きしていたキューバ国民はこれを機に一気に正統党支持へ集中し始めます.PSP第7回大会は「正統党がいかなる反応をしめそうと」無条件に正統党候補を支持することを決定します.正統党はアグラモンテを後継候補に指名,52年の大統領選での勝利をほぼ手中にしました.

 青年弁護士フィデルはこれに追い討ちをかけるように「アレルタ」紙上で現政権の腐敗を暴露します.プリオ大統領ら政財界と軍上層部が兵士たちをみずからの農場で無償労働させていた証拠を掴んだのです.

 

 ギテラスの再来を恐れる米国はこの形勢にあわてます.海をへだてた隣の国グアテマラでもアルベンスが民族主義をかかげ大統領に当選した矢先のことでした.当時の米国では民族主義は共産主義とおなじことでした.米国のいうことを素直に聞かない態度もそれだけで十分共産主義者と認められる証拠になったのです.今なら「ならず者」と呼ぶところでしょうか.

 このころバチスタがフロリダから帰国し大統領選への参加を表明します.大衆的支持はまったくないのですが,米国の意向に敏感な軍の一部にはバチスタを担いでクーデターに走ろうとする勢力が増大してきます.

 

(1)バチスタ,クーデターを敢行

・52年3月10日

 米国とこれにつながる軍部保守派は,6月1日の投票日を前に正統党政権の誕生を防ぐための「予防クーデター」を決意します.陰謀の中心に座ったのは陸軍,なかでも戦車部隊の佐官級の連中でした.彼らはバチスタをボスにかつぎ上げます.プリオは軍内に捜索の手を伸ばしますがもはや手遅れでした.

 3月10日深夜バチスタはコロンビア兵営に侵入,参謀総長を含む将軍たちを逮捕し兵営を占拠します.1時間後には全国の主要基地がバチスタ支持の意思を表明しました.戦車部隊は大統領官邸を包囲しプリオ大統領に辞任を迫ります.

 

 

 警官に守られ大統領官邸に入るバチスタ

 

 

 しかしこの時点でも依然として警察と海軍は引き続きプリオに忠誠を誓っていました.プリオは密かに官邸を逃れ東部の部隊に連絡を取ろうと車を出します.彼は検問を潜り抜けようと市内を走り回りますが,ついに突破することが出来ず途中で断念,官邸に戻ることもできずそのままメキシコ大使館に亡命します.プリオの行動は積極果断ではありますが,クーデター対策の中心に座るべき人間が軽挙妄動してしまうのでは,結果的にはクーデターの成功に手を貸したのとおなじです.やはりトップの器ではなかったのでしょうか.

 急を聞いて駆けつけた活動家はハバナ大学に結集し政府に武器の引き渡しを迫ります.プリオとの連絡が取れない内務省は結局これを拒否します.これで勝負ありです.

 鮮やかに事態を掌握したバチスタは、「これは腐敗と暴力の横行を絶ち,プリオが4月15日に予定していたクーデターを予防するための行動である」とみずからの行動をデマによって合理化しました.そのうえで「革命的政府が法と秩序,正義を実現するまで」軍部が権力を掌握すると声明します.具体的には憲法の停止,大統領選挙の中止,すべての政党の解散と憲法による保証の停止です.

 ここからがいかにもバチスタらしいところですが,みずからはトップに就かないでカイライ大統領を据えその下で「革命政府」首相に就任します.彼を支える集団は戦車軍団の佐官級が中枢を占めたことからタンキスタと呼ばれました.SIM長官にはブランコ中佐が就任,反対派への残虐な取り締まりを始めます.

 バチスタはただちに米大使館におもむき相互防衛条約の遵守の意向を表明します.バチスタの共産党との関係を懸念する米国は共産主義との絶縁,PSPの非合法化を迫ります.それならお安い御用とばかりにバチスタが請合います.これをみたCIAと陸軍は新政府承認こそ妥当と判断します.彼らの要請を受けたトルーマン大統領は新政権を承認し経済・軍事援助を約束します.

 なにか変ですね,問われるべきは新政権の正統性や合法性なのであって,反共か容共かなどというのは二の次の問題ではないでしょうか.

 

・MSA協定の意味

 クーデターの直前米・キューバ相互防衛援助条約(MSA)がむすばれました.日本でいえば安保条約にあたる条約です.これによりキューバは援助された物資を「米国の同意を得て西半球の安全のため有効に使用する義務」を負わされることになります.キューバ軍は「自由を守る陣営の一翼」として飛躍的な軍備の増強と近代化がはかられることになります.

 このことはバチスタ政権を見る上で決定的に重要です.バチスタ自身は私利私欲でクーデターを敢行したに過ぎませんが,その成功と継続を保障したのはまさにこの米玖新体制への移行だったのです.プリオの側には政権への正統性があり豊富な資金があり多くの世論がありましたが,バチスタの側にはそれを上回る軍事力と,何よりも米国の支持がありました.

 

マイヤー・ランスキー

 

 米玖新体制の確立とともにバチスタの権力基盤も確立していきます.バチスタは米国からの資本流入を大幅に緩和し,その裏では高額のリベートを取り私腹を肥していきました.マイヤー・ランスキーはバチスタ公認の政策顧問となります.米国内のギャングどもが大挙して押し寄せるのはこの時代のことです.

 

・新政権に対する各党の態度

 米国の意向を感じとった地主,資本家,マスコミはこぞってバチスタ支持を打ち出しました.議会内ではまず最右派の共和党がバチスタ政権への参加を決定,他の野党自由党と民主党もまもなくバチスタ支持をうちだします.

 真正党は深刻な分裂に陥ります.海外に逃れたプリオはただちに政権復帰に向けた活動を開始します.しかし実力部隊MSRをつかさどるマスフェレルは反バチスタの姿勢を転換,配下の活動家に抵抗をやめるよう指令を発します.FEUのエチェベリアらはマスフェレルとたもとを分かち反対派の統一を呼びかける声明を発表します.

 肝腎の正統党すらクーデターへの対応をめぐり意見が分裂します.あまりにも腐敗をきわめたプリオ政権に対する一種の「罰」として,バチスタ登場を容認する声もありました.PSPは過去における「友好関係」を犠牲にしても不法なクーデターを断固として拒否します.しかしメンバーの何人かがポストをもとめてバチスタのもとにすりよって行ったのも事実です.

 バチスタにはファシズムに対してたたかった大統領,進歩的な40年憲法を制定した大統領,平和的に政権を委譲した大統領というイメージがありました.ひょっとしたら彼はクーデターが国民の支持を得られるのではないかと思ったのかも知れません.閣僚評議会は「この革命は1927年に始まり40年憲法により規定された革命的伝統の延長線上にある」とその正統性を訴えます.

 しかしそれは勝手な思い違いでした.人民はクーデターや軍事独裁などまったく望んでいなかったのです.彼らの抵抗によってそのことを悟ると,バチスタは33年革命の時と同様に野蛮な本性をむき出しにしてきます.

 

B.モンカダ兵営襲撃事件

(1)クーデターとカストロらの抗議運動

・カストロのバチスタ告発

 バチスタのクーデターにもっとも勢いよく立ち向かったのは正統党に結集した青年たちでした.クーデター後間もない16日オルトドクソ青年同盟(オルトドクソ革命行動とは別組織)は,警察が包囲する中でチバス追悼集会を開き気勢を上げます.

 カストロは憲法裁判所と緊急裁判所に対してクーデターを告発し逮捕状の発行を要請しました.その内容は「バチスタが暴力を目的達成の手段とし,社会治安法の6か条を犯して」おり,規定により通算108年の禁固刑に相当するというものです.

 裁判所が訴えを退けるとカストロはこれを激しく糾弾します.「キューバに裁判所があるならばバチスタは当然処罰されなければならない.もしバチスタが処罰されず引き続き国の主人であり,行政権と司法権を持ち多くの生命と農場の所有者であるならば,キューバに裁判所は存在しない.もしそうだとすれば,あなた方は裁判官の服を脱ぎその地位を辞すがよい」

 

・アベル・グループの活動

 この頃ハバナ市内の労働者急進派はオルトドクソ党のブルジョア改革路線に飽きたらず,多くの直接行動グループを形成していきます.なかでもアベル・サンタマリアを中心とするグループは戦闘的でした.ガリ版刷りの機関誌「ソン・ロス・ミスモス」を発行し活発な活動を展開していました .1

 

  アベル・サンタマリア

 

 このアベル・グループとカストロは5月偶然の出会いをします.ある組合活動家の葬儀にたまたま同席したのが縁でした.二つのグループはすっかり意気投合します.これを機にカストロの計画は大きく変わります.これからさき彼はオルトドクソ主流派にスタンスを置き急進的労働者たちと運命をともにするようになります.

 彼らの第一目標はまず宣伝手段を獲得することでした.中でも決定的なのがラジオでした.彼らはハバナ大学構内に秘密放送局をつくる計画に熱中します.技術者がどうしても必要でした.八方手を尽くすと一人の人物が浮かび上がってきました.マリオ・ムニョスです.彼の本職は医師,当時40歳のムニョスはマタンサスの田舎で開業していましたが,カストロとアベルはその家まで訪ね協力を依頼します.

 結局この試みは技術的な困難から挫折したのですが,この事件を通じてムニョスは運動の強力な支持者となります.

 ラジオがダメと見るやカストロは新聞発行に熱中します.「ソン・ロス・ミスモス」を「告発者」と改称しハバナ大学内の配布ルートを開拓していきます.「バチスタの行いは革命ではなく野蛮な権力の簒奪である」と糾弾する「告発者」は,急速に青年の注目を集めるようになります.

 おなじ頃オルトドクソ青年同盟も急進化し直接行動に乗り出すようになります.彼らは「われわれは革命的路線を支持し,街頭での直接行動を支持し,政府に対する公然たる戦争を支持する」と声明しますが,オルトドクソ指導部はこれを極左盲動主義と非難します.青年行動とカストロ・グループの共同が期待されましたが,カストロがオルトドクソ首脳部を「日和見」と批判したことから両者の関係は悪化し,カストロは別行動をとるようになります.

 カストロはアベルとの連合を軸に急進派の結集を図ります.この際工作の対象となったのがオルトドクソ急進行動(ARO)でした.AROの創設にカストロも関わっていたことは前述したとおりで,その実体はかなりUIRと重複していました.

 9月にハバナ市内でカストロらとAROとの会談がもたれます.AROからはマヌエル・マルケス,アントニオ・ロペスらが参加,オルトドクソとは別に反バチスタの行動組織を結成していくことで合意します.

 この「告発者」グループはオルトドクソに飽きたらない青年を対象に急速に拡大,ハバナ市内の労働者街に進出していきます.ハバナに通う労働者の住む郊外の町マリアナオではオルトドクソ青年同盟の活動家が大挙結集してきました.このグループの最大の組織的特徴は,MSRやUIRなどそれまでの学生中心の行動組織と異なり,下層インテリゲンチアないし労働者層の活動家を結集したところにありました.その典型がアルテミサの活動家たちです.

 ハバナから西に車をとばして1時間,ハバナ州が終わりピナルデルリオ州に入ります.州が変わって最初の街がアルテミサです.この町ではARO活動家のホセ・スアレスが地域の青年達を教育し地道に活動家を養成していました.その数約250.この中からラミロ・バルデス,シロ・レドンド,フリオ・ディアスら後の英雄たちが育って行ったのです.

 

・MNRの反バチスタ活動

 マイアミに亡命したプリオは豊富な資金にものをいわせバチスタ転覆活動に乗り出します.早くも7月にはハバナ潜入と主要軍事施設の爆破の計画がたてられましたが,これは未然に摘発されてしまいました.このころ「カリブ軍団」2千名がグアテマラで侵攻作戦を準備中との噂も流れます.

 この頃もう一つ注目すべき反乱計画が進行します.革命的民族主義運動(MNR)という組織です.指導者のバルセナは学生幹部会創設メンバーの一人で真正党の幹部でした.オルトドクソ結成にあたってはチバスと行動をともにしました.ハバナ大学哲学科教授であるとともに,クーデターが起こるまで6年にわたり高級軍事学校の講師をつとめ,軍内に多くの信奉者を持っていました.言ってみればバチスタにとってもっとも危険な人物の一人です.

 53年に入ると学生のあいだに急速に影響を拡大,バルセナは反バチスタ運動の希望の星と見られるようになりました.彼の周りにはマリオ・ジェレーナ,ファウスティノ・ペレス,アルマンド・アルト,ジョー・ウエストブルックなど多くの活動家が結集してきます.

 MNRは軍とのパイプを通じて無血クーデターを画策し始めます.軍内にも反バチスタ派の秘密組織が拡がっていきました.不服従と,時によってはあからさまな反抗が頻発しました.これらの抵抗はコロンビア兵営を占領して反乱する計画「聖週間の陰謀」に集中していきます.しかしこの陰謀は未然に発覚し、バルセナはじめ67名が逮捕されてしまいました.MNRはこの事件を期に解体し,主要な活動家は革命幹部会や7月26日運動に合流していくことになります.

 

(2)モンカダ襲撃とその失敗

・サンチアゴ蜂起の準備

 年が明けた53年1月ホセ生誕百年を記念しハバナ大学で集会が開かれます.そのあと数千のデモ隊がたいまつを持って街に繰り出しました.新たな運動高揚のはじまりです.オルトドクソ青年は幹部の動揺により停滞していました.MSR=FEUはマスフェレルの裏切りによって受けた痛手から未だ立ち直れないでいました.ただ一人,元気印のフィデルらは「ホセ・マルティ生誕百年記念青年同盟」を組織,メンバーは2千を数えるにいたります.

 フィデルは武装蜂起を決意します.グループのなかから165人のコマンド部隊を結成します.隊長はフィデルみずからが就任,副官にはアベル・サンタマリアをつけます.この部隊が半年後にモンカダを襲撃することになるのです.

 フィデルはハバナ近郊で養鶏業を営むチソルを仲間に引き入れ,二人でサンチアゴを訪れました.彼らは唯一サンチアゴ出身のメンバーであるグイタルトの紹介で,東部郊外のシボネー農場を借りあげることにします.口実はチソルがサンチアゴでも米国向けの鶏卵輸出を始めるということでした.これでフロリダからの物品輸入も理屈に合います.いうまでもなくその中身は武器弾薬でした.

 

 左がアルカルデ、右がティソル。

 

  シボネイ農場にはアベルが住み込むことになり,つぎつぎと送られる武器弾薬を隠匿・備蓄するいっぽう隊員の軍事訓練にあたることになります.2

 攻撃目標はサンチアゴ軍監部の所在地モンカダ兵営と決まりました .3ここを占拠したあと全国に檄を飛ばし革命への決起を訴えるというのが筋書です.それからあとは出たとこ次第というかなり粗っぽい戦術です.多少とも軍事作戦に通じている人ならおぞ気をふるうところでしょうが,そのような臨機応変ぶりはフィデルの得意技です.4

 フィデルは襲撃の前衛をアルテミサの青年たちに託します.同時にバヤモの兵営を襲撃し軍の反撃を分散させようと図ります.こちらの作戦にはマリアナオの部隊があたることになりました.
 7月25日謝肉祭でごった返すサンチアゴの街に隊員がつぎつぎとやってきました.あるものは汽車で,あるものは車に相乗りしハバナから9百キロの道のりをやってきます.

 ところで有名なリオのカーニバルは2月におこなわれます.あの第二次独立戦争もカルナバルの日にあわせて2月28日開始されたといわれます.どうしてところによって謝肉祭の日が違うのかハバナで聞いてみました.すると昔は2月だったが7月26日のモンカダ記念日にあわせてこの日に移したのだと言います.しかしサンチアゴでは誰に聞いてみても「昔からカルナバルは7月25日と決まったものさ」というのです.誰かこのことで詳しい人がいたら教えてもらいたいものです.

 

・襲撃行動の経過

 ともかく総勢135人の若者が集結し市内に分宿します.そして酒と踊りと恋に疲れた人々が眠りについた26日深夜の3時,青年たちはシボネイ農場に集合します.ここで初めてフィデルはこれからの行動を発表します .

 計画ではまず特攻隊が兵営内に侵入,衛兵を無力化したあと兵舎を襲い兵を拘禁,次いで本隊が侵入し兵舎全体を確保するというものです.モンカダ兵営に隣接する裁判所には別動隊が侵入しこれを確保,屋上から狙撃することで反撃を防ぎます.兵営の裏手に位置する市民病院には敵兵の逃亡を防ぐことを目的としてもう一つの班が配置されました.

 何人かが動揺し戦線を離れたもののほぼ全員がこの襲撃計画を受け入れます.フィデルは隊員を三つの班に分けます.95人のモンカダ兵営襲撃班はフィデルみずからが指揮,10人の裁判所占領班はフィデルの弟ラウルが指揮,21人の市民病院班はアベルが指揮することになります.(一説では放送局襲撃班も組織されたとのことだが,その行動は不明)

 朝まだ明けやらぬ5時過ぎ26台の車に分乗した襲撃隊はシボネイを出発します.ところがフィデルが指揮する軽装備の第一隊45人は順調に兵営前に到着するのですが,重火器を装備する第二隊50人はサンチアゴ市内で道に迷ってしまいました.これが襲撃失敗の原因となる第一番目のミスでした.

 フィデルはこれにかまわず兵営突入を決断します.まず8名からなる特攻隊が先陣を切ります.バルデス,グイタルト,タセンデ,モンタネら特攻隊は兵舎の一部を確保し兵士を人質にします.これに続いて本隊も一気に突入をはかりますが,なんと先頭車がエンストしたため兵営内に入れなくなります.

このとき機関銃をもった営外巡察隊と衝突,そのまま激しい銃撃戦に入ります.この頃から体制を立て直した軍の応戦もはじまります.これよりさき市民病院制圧に成功していた別動隊も兵営に向け射撃開始します.裁判所班も制圧に成功しますが肝腎の銃が故障していたため攻撃に参加できません.

 約30分の撃ちあいで勝負は見えました.朝6時フィデルは撤退を決断します.ミレト,ラブラドルら狙撃隊の擁護を受けながら本隊は撤退,裁判所班も攻撃をかけるチャンスもなく撤退していきます.しかし病院班は撤退の方針を知らされないまま応戦を続けます.軍は市民病院に銃火を集中します.

 朝8時には弾丸消耗により反撃不能となりました.1時間後軍が一斉に病院に突入します.病院班全員がこのとき逮捕されます.これでモンカダ襲撃は終ります.

 

・バチスタ軍による捕虜虐殺

 

逮捕されたラウル・カストロら

 

 ところで事件はこれで終るのではありません.ここから第2幕が始まるのです.将校は襲撃を予測できなかった恥ずかしさから,兵士たちは恐怖から逆上しています.彼らは逮捕者をつぎつぎと拷問にかけ虐殺していきます.

 そればかりではありません.バチスタによりサンチアゴに派遣されたディアス将軍は軍の威信を守るため捕虜の殺害を命じます.襲撃隊の側の死者が軍隊より少ないのでは格好がつかないというのです.そこで捕虜を虐殺したあとあたかも戦闘中に死んだように見せかけました.こうしてアベルら病院班のほぼ全員と,時を同じくして逮捕されたグイタルト,タセンデら40名が拷問ののち殺害されます .5

 この日バヤモでも別動隊25名が兵営を襲撃しますが,こちらの襲撃作戦は輪をかけていい加減だったようです .指導者が誰なのかもはっきりせず,いったん負け戦になると市内を盲滅法逃げ回ってはつぎつぎと殺されていきました.戦闘で14名が射殺され,捕らえられたものも護送途中に道ばたで虐殺されました.しかし生存者が少ないため真相究明は現在も困難です.6

 翌27日バチスタは「モンカダ襲撃は失敗し襲撃者のうち33名が戦闘で死亡」と発表します.米国務省は「国際契約を忠実に守り米州諸国の内政に干渉することを控える」と「余裕しゃくしゃくの」声明を出します.

 

・フィデル,グランピエドラへ

 ところで話は26日朝にもどります.7時フィデルら40名の敗残者はかねて打ち合せのシボネイ農場に集結します.ここで今後の方針について議論となります.まずフィデルは山中に入り抵抗を継続しようと提案しました.

しかしこの提案には多くの反対が出ました.彼らは「もはや好機は失われた.人民に反乱の開始をよびかけるという所期の目的が達せられたいま,いたずらに犠牲を重ねるよりもいったん潜伏して次の機会を待つべきだ」と主張しました.私ならこちらの意見に賛成したくなるところですが,フィデルは断固として戦闘継続の決意を変えません.

 こうして負傷者と反対者を除いた19人がさらに抵抗を続けるため出発します.行く先はサンチアゴ東方30キロのグランピエドラ山.

 わたしはシボネイ農場から眺めただけですが,標高1250メートルとはいえ海岸平野から一気にそれだけの高さですからなかなかの山容です.不眠の状態で決死の戦闘をたたかったあとこれから30キロを歩いてそれからあの山に登るとなると,「ウーン!」とうなってしまいます.

 山には登ったものの土地カンもなく支援のあてもない状況では食いつなぐこともできません.5日間を飲まず食わずでさまよったあげく一行はサンチアゴから10キロのカネイに達します.「ハバナクラブ」をしのぐ味といわれるラム酒「カネイ」のふるさとです.彼らはその郊外にあるシリンドロ農園で支持者にめぐりあうことができしばらく潜伏することになります.もはや組織的な抵抗は無理とあきらめたフィデルはアルカルデ,スアレスを除くものを投降させることにします.報道で多くの犠牲者の出たことを知ったフィデルはこの時点で死の覚悟を決めていたものと思われます.

 

・カストロ,逮捕さる

 隠しても事実はひろがるもので,はやくも軍による反乱者の拷問と虐殺のうわさがサンチアゴ全市にひろがっていました.サンチアゴ大司教セランテスは市の有力者の支持を受け反乱者の救出に乗り出します.彼はモンカダに陣どるサンチアゴ軍区司令官デル・リオ大佐と会見し,反乱者虐殺に抗議するとともに投降者の処刑をとりやめるよう要請します.司令官は虐殺の事実は否定したものの投降者の生命の保護は約束せざるを得ませんでした.

 セランテスはこのことをマスコミを使い宣伝するとともに,みずからグランピエドラにおもむき山中深く入って投降をよびかけます.

 7月31日キューバ全土を衝撃が襲います.「ボヘミア」誌記者が隠しどりした反乱者の拷問死体の写真が発表されたのです.世論は一斉に沸騰します.バチスタ政権はその政治的基盤の脆弱さを露呈することになりました.

 8月1日サリア中尉のひきいる地方警察の捜査隊は,シリンドロ農園に潜伏中のフィデルらを急襲し逮捕します.幸運なことにこのサリア中尉は法をまもることに忠実な人物でした.彼は軍によるフィデル虐殺をなによりも恐れていました.移送中に彼の部下がフィデルを射殺しようとしたときも身体をはって阻止しました.かれは軍への引き渡し命令を巧妙に避けフィデルをサンチアゴ市警察に引き渡すことに成功します .7

 

(3)裁判とピノス島への収監

・歴史は私に無罪を宣告するだろう

 

フィデルに対する尋問

 

 このあと闘争の場は裁判に移っていきます.
 9月21日サンチアゴでモンカダの生き残り122名に対する裁判が開始されました.傍聴は許されず弁護士,法医学者の他は記者6名のみが入廷を許されました.裁判所の周りは完全武装の兵千名によって取り囲まれます.フィデルは冒頭発言で武装行動をとるに至った経過について大演説をおこない公判の主導権を握ろうとします.翌日の公判でフィデルは弁護士の資格を持つことを主張し弁護人席に着くことを許可されました.弁論の中でフィデルは同志70名を逮捕・拷問の上虐殺した兵士を殺人罪で告発します.

 公判が不利に展開することを恐れたバチスタ政府は,フィデルをボニアト監獄の独房に押し込め弁護士をふくむ外部との接触をいっさい断ちます.その上で裁判所にはフィデルが「精神錯乱状態」にあるとする医師の診断書を裁判所に提出したのです.

 26日の第三回公判はカストロ不在のまま開廷されました.やがて審理が終わろうとするとき,被告席のメルバ・エルナンデスが突然発言を求め一通の手紙を判事に提出します.この手紙はフィデルが書いて秘密ルートでメルバに送ったもので,みずからの健康を主張した内容のものでした.手紙を受け取った判事は法廷医を派遣,完全な健康状態にあるとの報告を得てフィデルの出廷を認めます.

 10月16日市民病院を仮法廷としてフィデルに対する裁判がおこなわれました.かつての同僚たちであるハバナ弁護士会は会長のパグリエリを官選弁護士に指定しますが,彼の弁護活動は徹底的に妨害され,結局フィデルが一人みずからを弁護することになりました.病院の周囲は完全武装の兵百名により包囲され,官選弁護士と報道記者6人のみが出廷を許されました.

 フィデルは3人の判事を前に弁論を開始します.それはバチスタとその追随者を徹底的に糾弾するものでありむしろ論告といってよい内容でした.彼は弁論の最後にあたりヨーロッパ近代思想を論拠に「歴史は私に無罪を宣告するだろう」と結びます.

 

・ピノス島のフィデル

 裁判は結局だれ一人にも死刑の判決を下すことはできませんでした.フィデルが首謀者として15年,アルカルデ,ティソル,ラウル,ミレトが幹部と認定され13年,他の生き残り20名に対し禁固10年の判決が下ります.メルバ,アイデーは禁固7カ月の刑で女子刑務所に収監されました.

 彼らはピノス島のモデロ監獄へ送られます.収監されるやさっそくフィデルはアベル・サンタマリア記念アカデミーを組織,グループ員の思想学習を強化します.このグループが後にシエラマエストラの中核となっていくのです.

 さらに彼はモンカダ襲撃の意図を全国民に知らせるべく,サンチアゴでの弁論をもとに「歴史は私に無罪を宣告するだろう」という論文を書きます.原稿はその頃釈放されていたメルバにあてた手紙の行間に果物の汁で書かれ,あとであぶりだして判読されたということです.この文書は54年後半にはニューヨークで印刷され密かに国内に持ち込まれました.そして地下活動により広範に流布していきます.

 

・モンカダに対する評価

 PSPはこの事件について「冒険的な一揆主義は大衆闘争に反するものであり,人民が望む民主主義的解決に反するものである」と論評します.さらに8月末に開かれた全国委員会では「暴力団と結託した無差別の,プチブルに特徴的な一揆的,冒険主義的,絶望的な試み」と手厳しい批判を加えます.

 注意しなければならないのは,日本で出版されているキューバ関係の本はM26の革命への貢献を強調するあまりに,33年から59年までのPSPの役割に対して否定的に見てしまう傾向があるということです.

 別にムキになってPSPの弁護をする必要はないのですが,これまでの経過を見れば,PSPが言葉だけでなく実際に労働者階級を代表する政治組織として影響力を保持していたことは明白です.そしてこの国の革命が労働者階級と中間層の結合によってしか成し遂げられないことも明白です.

 「暴力団と妥協した無差別の,プチブルに特徴的な一揆的,冒険主義的,絶望的な試ろみ」という規定はかなり感情的な表現ですが,まるっきりあたっていないわけではありません.

 モンカダ襲撃にはかなり謎めいた部分があります.カストロ個人の力で果たして百名以上の武装部隊を組織できたのだろうか,参加者があり金をそっくりはたいたとしても果たしてそんなもので資金は足りるのか,また百数十名のシロウトが,はるばるサンチアゴに出かけていって兵舎を襲撃する計画が,はたして半年ものあいだ当局に気づかれずにいられるのかも,ちょっと考えただけでも疑問が噴出してきます.

 もっとも大きな疑問は百数十人に行き渡るような武器をどうやって調達したのかという点です.たしかにチソルのルートを使って武器を密輸することは可能だったかも知れません.しかしまず米国で武器を購入しない限り密輸もヘッタクレもありません.ところがどの本にも武器の購入にあたった人物,あるいは組織がまったく出てきません.

 そうなるとむしろ,なんらかのプリオの息のかかった準軍事組織が絡んでいるとみるのが合理的かもしれません.確かにフィデルはプリオ派ではありませんが,過去においてそういう類の準軍事組織と関係を持っていたこともたしかです.そうすると「暴力団と結託した」という表現もあながち荒唐無稽とはいえません.

 「プチブルに特徴的な一揆主義,冒険主義」という表現も,いわれてみればまさしくその通りであります.現にモンカダ蜂起のあと全国に粛清の嵐が荒れ狂います.PSPは非合法化されブラス・ロカ書記長らは亡命を余儀なくされます.国内の政治局は5人に縮小し地下に潜ることになります.SIMによる左翼狩り,「虎」など準軍事組織による白色テロが横行し労働運動など合法活動は困難となります.結果としてこのような事態を招いてしまうような行動は「冒険主義」というしかないのではないでしょうか.

 

C.バチスタの恐怖支配と国民の抵抗

(1)大統領選挙と野党勢力

・50年代の経済・社会状況

 ここで当時の社会がどのような状態におかれていたか触れておきましょう.多くの文献で引用されている53年度の国勢調査報告です.これは革命前においては最後の国勢調査となります.

 まず明の部分からです.国民一人当たり所得はラテンアメリカ諸国中5位と高位を占めます.自家用車普及率は第3位,テレビ普及率ではなんと1位です.53年に日本にテレビなどあったかしら?

 暗の部分がこれまたすごい.報告によれば「都市と農村をふくめて,キューバ全体で水道があるのは住宅戸数のわずか35%,屋内便所があるのは28%にすぎない.また農村の住居の3/4は掘ったて小屋(ボイオ)に住み,54%がトイレなしで小屋掛けカワヤも持っていない」状況でした.

 報告は衣・食にも言及します.これによると97%が冷蔵庫なし,水道なしが85%,電気なしが91%.牛肉を常食するのは4%,魚は1%,卵は2%,パンは3%,ミルクは11%,生鮮野菜は1%以下という具合です.一体何を食っていたのでしょう.

 次は保健・衛生です.報告は「医師は2千人に1人しかおらず,農村の大衆は医療を受けられないことが度々ある.多数の子どもが寄生虫に感染し,ひどく苦しみ,苦痛のうちに死んでいく」と告発しています.

 それから教育.学齢期児童の就学率は56%,地方では39%にとどまります.オリエンテの砂糖地帯ではさらにひどく,わずか27%です.国民の1/4が文盲とされ,都市部以外では42%にのぼりました .

 報告はさらに続きます.「農地のうち8割が遊休地であり,なんら利用されぬまま放置されている.一方で基礎食料のほとんどを輸入に頼っている.労働可能な人口の4人に一人は常時失業している」つまりばく大な富が再生産や投資に回されないで,死蔵されたり浪費されたりしているということです.

 報告は米国に従属した産業構造にも触れます.「電力の9割以上が米国の会社によって供給されている.電話はすべて米国の会社のものである.鉄道の多くもそうである.製糖工場の4割は米国のもので,とくに優れた性能のものはそうである」

 バチスタ政権下でどうしてこのような国勢調査報告が発表されたのかよく分かりませんが,これを読めば誰でも今日から革命家になってしまいます.8

 

・反バチスタと親プリオのあいだ

 フィデルらが獄に下っているあいだキューバ政界はどうなっていたでしょうか.真正党,オルトドクソ党,PSP,FEUがそれぞれの思惑から必死の活動を続けます.しかしそれらは統一を求めながら逆に憎悪を深め分裂を繰り返していきます.この離合集散の中で労働者農民の支持を受け革命を担う勢力は誰なのか問われるようになります.

 反バチスタ勢力の中で常に最大の問題はプリオと組むかどうかでした.クーデターの前プリオは腐敗した反動でありそれ自体打倒の対象でした.しかしクーデターのあとでは政治の正統性と継続性のシンボルでもあります.おまけに膨大な資産を抱えています.それは政権担当時に不正に蓄財したものでしたが….

 国内最大の野党勢力であるオルトドクソはこの問題をめぐって揺れ続けました.選挙目当てに真正党から鞍替えした古参幹部は,もともとが真正党の仲間ですからついプリオの金に目がくらんでしまいます.はやくも52年12月には,オルトドクソ右派がプリオと密談の末モントリオール声明なるものを発表します.

 これに対しては前大統領候補アグラモンテを中心に猛反対が起きました.彼はモントリオール派をオルトドクソの党是に対する裏切りと非難,武力によらない「市民抵抗」を呼びかけます.

 このアグラモンテの主張はきわめて正しいのですがそれから先がややこやしくなります.プリオは武装闘争も含む直接行動を訴えていましたから,見かけ上はアグラモンテより革命的なのです.このような戦略と戦術のねじれ現象は往々にしてありますが,このときのキューバではそれが極端な形で現れました.

 モントリオール・グループの陰謀的な性格は一部急進派を引きつける一方、多くの市民からは疑いの目を向けられました.かつてプリオによって権力の座を追われた老グラウは,この宣言に反対することで国内における主導権を回復します.逆にプリオは米国内の非米活動委員会からなんと「共産主義者」の烙印を押され,身辺に危険が迫るというありさまです .9

 

・グアテマラ連帯キャンペーン

 この間PSPはどのような動きをしていたでしょうか.党の非合法化とブラス・ロカ書記長の追放という事態に直面したPSPは秘密裏に第7回大会を開催,当面の闘争課題としてグアテマラ支援キャンペーンに全力を集中することになります .1054年3月にはキューバ・グアテマラ委員会が結成されました.オルトドクソ党左派のコロナが議長に就任,委員にはフアン・マリネーリョ,C.R.ロドリゲス,フラビオ・ブラボなどPSP幹部が入るという布陣です.

 

フアン・マリネーリョ   

 

 学生たちもグアテマラ連帯の闘いを開始しました.FEUはグアテマラ人民との連帯を求める大規模な集会を開催し義勇兵を募り始めます.サンチアゴではオリエンテ州大学学生連合(FEUO)が連帯活動を組織する中で影響力を強めます.

 FEUOを指導したのはフランク・パイスという師範学校の学生でした.彼は前年のMNRの陰謀にも参加しています.彼らはFEUOを母体に行動組織オリエンテ革命行動(おなじAROでもオルトドクソ急進行動とは別)を組織,この組織は後にM26に合流していきます.

 

・選挙による民主主義回復は不可能に

 米国からの圧力を受けたバチスタは54年11月1日に選挙を実施すると発表,同時にプリオらに対し恩赦を与えました.選挙登録が開始されました.オルトドクソは相変わらず腰が定まりません.アグラモンテら左派と親プリオの右派は選挙ボイコットを主張,選挙で一旗揚げたい中間派は選挙参加の道を探ります.

 

ニクソンと談笑するバチスタ

 

 真正党のアウレリアノはそれまでプリオとつかず離れずの関係にありましたが,不倶戴天の敵オルトドクソとの共闘には我慢が出来ませんでした.彼は「チバスの自殺はスタンドプレイに過ぎなかった」と公式の場で言ってのけます.この発言を期に真正党プリオ派とオルトドクソの関係は断絶し共闘派は影響力を失います.

 オルトドクソはチバスの弟ラウル・チバスを党首に据え選挙参加のための条件づくりに入ります.チバスはバチスタに対し40年憲法の復活,無条件の選挙権付与,全政治囚の釈放などを提示します.しかしこれらはバチスタにより冷たく拒否されました.もはや選挙参加の大義名分はありません.結局左派の主張通り選挙をボイコットすることになります.

 バチスタは統一行動党なる組織をでっちあげ選挙に臨みます.自由党,民主党,進歩行動党など保守・右翼系の政党はこぞってバチスタを推薦します。

 グラウはもちろんどんなことがあってもレースに参加する構えです.一騎打ちに勝った44年の選挙が忘れられないのでしょう.こうしてバチスタの対抗馬はグラウ一人になりました.

 PSPはフロント組織の名で登録を申請しますが拒否されます.そうなれば道はグラウを支持するか否かの二つに一つしかありません.PSPは「グラウを支持することは現体制そのものを支持することにつながる」とし一方的な協力を拒否しました.そしてグラウの名前に×をつけて現体制に反対の意志を示す戦術を提起しました.バチスタの名は無視するということです.

 こうしていよいよ投票という前日,グラウは突如として選挙戦からの離脱を表明し選挙管理委員会に立候補の辞退を通告します.その結果大統領選は事実上バチスタへの信任投票となりました.まさに茶番です.おそらく最初から筋書きは出来ていたのでしょう.

 晴れの就任式にはニクソンが出席しバチスタに祝福を与えます.祝福の中身は相互防衛条約にもとづく軍事援助顧問団(MAAG)の派遣開始でした.

 米国の労働運動の援助を受けるムハールらCTC幹部は,合法的に選ばれたと強弁することによってバチスタ支持を公然と表明しました.その裏では給料から労働組合費を天引き徴収できるよう認めてもらうよう取引していたのです.堕落した労働組合幹部が何処までも権力ににじり寄って転落していく姿は,今日の日本でもそっくり同じです.

 大統領選総括をめぐり真正党は大混乱に陥りました.もちろんグラウの権威など吹っ飛びます.プリオは真正主義機構(OA)を結成,バチスタ打倒のための実力行動に踏み出します.アウレリアノは独自に武装組織「トリプルA」を結成します.国内最大の政党である真正党が武闘路線をとるというのは大変なことです.世の中にわかにきな臭くなってきました.55年4月ハバナ市内のプリオ派秘密拠点が摘発されM−1ライフル12丁,ガランド銃数丁,手榴弾1500発,弾薬2万が押収されました.ニューヨーク警察がプリオの隠匿していた武器を押収したというニュースが飛び込んできたのもこの頃のことです.

 こうして一方では国民のあいだになんらの支持基盤をもたない売国的な勢力が,軍事力と死の恐怖のみを支えとして政権を纂奪し支配を確立しました.これは武装闘争をもふくむ非議会的な方法による権力奪取を不可避なものとさせました.また一方では中間層の行動激発によっては政権奪取は不可能なことが明らかになりました.この状況を根本的に打破するためには,大衆的でかつ非議会的な革命の道筋を全人民的な課題として提起することが必要です.

 そしてその綱領には単に反独裁のみではなく農民の生活を抜本的に変更することや民族の自決権をつらぬくことなどひとことで言って「民族民主統一戦線」の立場を書き込む必要性が明らかになったのです.

 

(2)カストロの恩赦と国外亡命

・バチスタ,カストロを恩赦

 さすがのバチスタも少しやり過ぎたと見たのかあるいはその合法性をすこしでも権威づけようとしたのか,ともかくバチスタは戒厳令を解除しました.野党に対しても一定の妥協を示します.
 バチスタの弾圧が一時にせよ弱まったのを機に「フィデルを釈放せよ」のキャンペーンが全国にひろがりました.「祖国の友」のデラ・トリエンテ,真正党のアントニオ・バローナ,ラジオ・タレントのルイス・コンテ,オルトドクソ青年同盟のマックス・レズニックら広範な政界指導者が,連名でカストロの恩赦を求めるアピールを発表します.収監されたカストロのもとには,バチスタ政権の閣僚や現役の高級将校などがつぎつぎと面会に訪れます.

 ついに5月議会はバチスタの黙認のもと大赦法を可決します.これによりフィデルらモンカダ参加者全員が釈放されました.ハバナで正統党指導者や学生連合などの大歓迎を受けたフィデルは,ただちに獄中で考えていたことを実行に移しはじめます.

 まずモンカダの同志を中心に正統党左派を結集して「7月26日モンカダ記念運動」を組織します.ついで正統党がもつラジオやテレビの番組,各地での集会を通じてバチスタ政権打倒とホセの精神の復興を説きます.街の壁のいたるところに「7月26日運動」の略称「M26」の文字が書きなぐられました.

 オルトドクソはカストロの影響も受けて左旋回します.5月末には反政府宣言を発表,「経済危機は社会的危機をもたらした.政治家や官僚は反対派を弾圧するいっぽう私腹を肥やし腐敗している」と述べるにいたります.

 オルトドクソは当面の要求として・40年憲法への復帰,・野党や亡命者の政治活動の保証,・市民への攻撃の中止,・検閲の廃止を掲げますが,政府はまさにこれと正反対の態度で応えます.オルトドクソのテレビ,ラジオ番組は放送を禁止され,カストロの大衆集会での政治的発言も禁止されます.大赦を受けた活動家がまた逮捕されそうでない活動家には死の脅迫があいつぎます.
 当時プリオ派とトリプルAは破壊活動を活発化し市内で爆弾テロ騒ぎがあいつぎました.それぞれの派に属する青年たちは過激さを競い合っていました.これを見たフィデルは「テロは敵を利するものでしかない」と批判,さらに「武装闘争は革命にとって必然ではない.大衆運動が蜂起を上回る成果を上げることもある」と発言します .11

 フィデル釈放後わずか1ヶ月でバチスタは,事態が容易ならぬ方向へ進展しているのに気づきます.かれは気まぐれの「寛容」を捨て去りふたたび本来の強権政策にもどります.これまでのSIMに加え共産主義防止局(BRAC)があらたに創設されます.発足にああたってはCIAが全面協力します.いっぽう従来のSIMもFBIのテコ入れで飛躍的に強化されます.

 

・メキシコ亡命とM26の結成

 カストロはメキシコへの亡命を決意します.亡命にあたり彼は「政治家への公開状」を発表します.彼は「あの偉大な独立戦争を三たび戦い抜くことなしにキューバ解放は語れない」と述べ,「わたしはホセの信奉者として,いまこそ権利を実力でかちとるときと考える」と宣言します.

 この公開状にどう応えるかは各党にとって大きな議論となりました.PSPでも同じです.議論はフィデルをどう見るかです.つまり彼を中間層左派の代表として評価するか,それともただの冒険主義者として切り捨てるかです.

 カストロは「われわれの運動は野心的な社会計画を持っている.それはまず何よりも貧しい人々,搾取されている階級の利益を擁護するものである」とうたいます.この点ではプリオ派やFEUなど多くの行動組織とは明らかに一線を画しています.PSP全国委員会の中でも意見が分かれます.フィデルの成長ぶりを示すこの発言は俄然周囲を注目させました.オズワルド・サンチェスやC.R.ロドリゲスらはカストロを評価し,執行部の硬直した姿勢を批判するようになります.
 問題は非平和的移行の可能性,あるいは不可避性をめぐるフィデルの主張です.今日のキューバ革命の形態が非平和的なものとなる可能性はだれでも認めざるを得ないでしょう.PSPも決してたんなる議会主義者ではありません.33年のキューバ共産党は全土にゼネストを拡大させるなかでマチャドを退陣に追い詰めた経験をもっているのです.

 だからといって19世紀のホセ・マルティやマセオらのやり方がそのまま通用するとは思えません.党は彼の即時蜂起路線を批判するいっぽう工場,地域に反バチスタ闘争委員会を形成し,広範な反バチスタの国民民主戦線を結成するよう訴えることで公開状に応えます.

 

1 ここでメンバーを若干紹介しておきましょう.アベルは地方の製糖工場で働いたあと職と教育を求め47年ハバナに出てきた青年です.米国の自動車会社ポンティアックの子会社で会計係として働きますが,現状に強い不満を抱いていました.彼はチバスの死をきっかけに急速にオルトドクソ党に接近していきました.
妹アイデーと同居するアパートは反バチスタ青年のたまり場となっていました.同志の一人ヘスス・モンタネはGM子会社の会計係.他にアイデーの友人で法律事務所に勤めるメルバ・エルナンデス,これに測量技師のペドロ・ミレトやラウル・ゴメスらが加わりグループを形成していました.

2 シボネイ農場はサンチアゴの中心部から東南に約10キロ,緑にかこまれた瀟洒な一軒家です.海岸沿いにサンチアゴからグアンタナモまで伸びる国道に面し,交通の便も良く,辺りに家もないという絶好のアジトです.

3 モンカダ兵営はサンチアゴの真中,オレンジ色にぬられた三階建てのビルです.モンカダの名は独立戦争の英雄ギジェルモ・モンカダに因んで独立後つけられたもので,スペイン統治時代にはメルセデス兵営と呼ばれていました.コロンビア兵営と同じように,革命後は学校として開放され半分が革命記念館になっています.
壁にはモンカダ襲撃の折の銃弾の弾痕が残されていますが,これは革命後に当時の写真を見ながらわざわざ掘りだしたというのが真相のようです.アベルたちが惨殺された市民病院は,いまは取り壊されており,その跡地が公園になっています.

4 作戦の全体を書こうとすればそれだけで一冊の本になります.世界ノンフィクション全集の中の「モンカダ襲撃」は現在でも古本屋で簡単に入手できるので,そちらを参照して下さい.
5 ホセ・ルイス・タセンデは襲撃隊の中で数少ないハバナ大学学生.フィデルの弟ラウルが襲撃に参加するよう説得するなど,キーパーソンの役割を果たした.

6 バヤモのセスペデス兵営は,サンチアゴにおけるモンカダとは違ってどちらかといえば場末というイメージのところです.建物はさっぱりと取り払われこじんまりとしたムセオが一つ残されていました.展示も入場料を払うのが惜しくなるほどのものでした.

7 サリアは黒人将校.苦学してハバナ大学法学部を卒業,現職にあった.この事件の後,軍はただちにサリアを解任.フィデルがシエラでの戦闘を始めてのちには「反逆を企てた」として逮捕する.

8 ところでこの報告を見て,私は「待てよ」と思いました.昭和28年の日本はどうだったか.私の家には水道も下水もありません.冷蔵庫もなければテレビもありません.牛肉などついぞ食べた記憶がありません.農協や日通の三輪トラックの他には,自家用車など持っている人はいませんでした.国道1号線すら市街地を外れれば未舗装でした.農家はたいてい外便所でしたし,クラスの3人に一人は回虫持ちでした.当時の日本と違うのは,むしろ金持ちがとてつもない金持ちだということ,政府が保健や教育などに関してひどく無責任だということです.

9 プリオが共産主義者とはばかげた話ですが,ばかげたことが実際に起こってしまうところにマッカーシー旋風の真の恐ろしさがあります.

10 当時グアテマラではアルベンス政権が農地改革を実行しようとしていました.この政権が米国資本のバナナ農園にも手をつけようとしたことから米政府は激怒します.米国は「アルベンスは共産主義者」と断じ,西半球を共産主義から守るために政府の転覆も辞さないと声明します.こうして54年6月CIAの援助を受けた反革命軍が侵入,アルベンス政権は崩壊します.

11 この発言は,モンカダ襲撃を「暴力団と結託した無差別の,プチブルに特徴的な一揆的,冒険主義的,絶望的な試み」とPSPから批判されたフィデルが,ピノス島でどのようにそれを受けとめ成長したか示しています.もちろん現下のキューバで武装闘争以外に解放の道がないことは確信していますが,原理的にはそれは戦術であり選択肢の一つに過ぎません.
さらに武装闘争を展開したとしてもそれが平和的な大衆闘争を排除するものではなく,条件のある限り最大限に合法闘争の努力を続けなければならないのです.そういう観点から見てテロ戦術はナンセンスなのです.各国年表で1980年前半におけるエルサルバドルの闘いを参照のこと.