第四章 ゲリラ,シエラ・マエストラに上陸

A.米国とメキシコでの進攻準備


(1)革命的組織としてのM26

・メキシコが革命派の拠点に

 意気揚々とメキシコ入りしたカストロは,8月には「キューバ人民に対する第一宣言」を発表します.そのなかで「M26は党内分派ではなく“チバス主義”の革命的機構である」とし,正統党からの自立をあきらかにします.M26にはオルトドクソ急進行動の指導者マヌエル・マルケス,国民革命運動(MNR)左派のファウスティノ・ペレスやアルマンド・アルトなどが合流してきます.1

 部隊にはアルゼンチン人エルネスト・ゲバラも医師の資格を買われ参加します.彼はグアテマラで労働党(共産党)のシンパとして活動していましたが,CIAによるクーデターのあと抵抗運動の組織に失敗,命からがらメキシコに亡命してきたのです.当時は公園の記念写真屋として糊口をしのいでいました.フィデルに先立ってメキシコ入りしていたラウルがニコ・ロペスの紹介でゲバラと会見しました.2ゲバラの素晴らしい資質に感激したラウルはゲリラへの参加を勧めフィデルにも紹介します.

 オリエンテ革命行動の指導者フランク・パイスもメキシコを訪れカストロと会見しました.フィデルはオリエンテに上陸してゲリラ闘争を開始するという秘密計画を打ち明け協力を求めます.フィデルの主張に共感したパイスはM26への合流を決めます.サンチアゴに戻ったパイスは同志を結集,FEUO以来の同僚ペピト・テイ,サンチアゴ大学学生のラトゥール,ビルマ・エスピン,マンサニーリョのセリア・サンチェスらとともに地下組織を結成します.

 フィデルの財産は何よりもその剛胆さ,人を惹きつける弁舌にありますが,もうひとつ幅広い人脈をあげる必要があります.右はバチスタ(彼の義兄はバチスタ政権の閣僚)から左はPSP(弟ラウルはPSPのホープ)までなんでもござれです.さらに学生時代の関係からあやしげな暴力集団まで顔見知りの関係です.そんなツテのひとつを頼ってフィデルはアルベルト・バヨ大佐と接触します.これから作ろうとしている反乱軍の軍事訓練を依頼しようというもくろみです.

 バヨはキューバ生まれで当時65才,スペイン市民戦争では共和国軍の一員としてたたかったベテランです.40年代にはカリブ軍団の一員としてニカラグアの反ソモサ闘争にも参加しています.その後「ゲリラ戦のための150の問題」を著わしメキシコ空軍学校の教官をつとめていました.カストロが会見したときはすでに引退し,メキシコ市内で家具商を営んでいました.

 

・フィデル,米国を遊説

 

セントラル・パークを散歩するカストロ

 

 メキシコに出てみたものの革命の準備どころか日々の糧にも事欠く日が続きます.フィデルはホセにならい米国内のキューバ移民の歴訪を企画します.バヨが米国の観光ビザを手配してくれました.フィデルはマルケスをともない東部のキューバ移民社会を汽車で歴訪します.猿岩石も真っ青という7週間の貧乏旅行は,たんに資金の獲得だけでなく革命の戦略を練り上げる上でも貴重なものでした.各地における演説のなかではじめてフィデルは革命の性格についてふれるようになります.

 

 最初に訪れたニューヨークでの演説で彼は「来年,われわれは解放者となるか殉教者となるかであろう」とまず大見得を切ります.続いて「キューバ人が望んでいるのはたんなる支配者の交代ではないし,抽象的な自由や民主主義でもなく,農民の貧困,米国資本への服従などをめぐるもっと根本的な変化だ」と展開します.さらに彼はテロと暗殺を非難し総選挙の実施を要求することで他組織との違いを際立たせます.

 

 彼の演説に感激したキューバ人三団体(移民および亡命者民主化運動,オルトドクソ委員会,キューバ市民運動)は「7月26日愛国クラブ」を結成,その後解放闘争の全期間を通じ支援活動の中心となります.ついでユニオン・シティー,マイアミ,キー・ウェスト,タンパの各都市で支援を訴えたフィデルは9千ドルの資金を獲得することに成功しました.

 

(2)国内闘争の高揚と衰退

・「祖国の友」,市民的対話運動を開始

 55年2月ラスビリャスで起きた砂糖労働者のストは,CTCの統制を乗り越え50万人の参加する無期限ストに発展しました.しかしこのときはハバナ中央の支援のないまま孤立した闘いに終始し結局弾圧されて終わります.

 ここでデラ・トリエンテが33年に続いて再び登場しました.やることは同じでバチスタとの「市民的対話」を通じて政治の安定を図るのが目的です.対話の窓口として「共和国の友」協会(SAR)を結成し,バチスタの支持を受けながら交渉に乗り出します.
 8月にはカストロと入れ替わるようにプリオが帰国します.彼はトリエンテの市民的対話に参加

ると発表しますが,その舌の根も乾かない内プリオの支援を受けた学生によるバチスタ暗殺計画が発覚します.事件を聞いたプリオはぬけぬけと「今後は合法的に政権を獲得する方向に転換する」と声明します.しかしおそらくは本人もふくめだれも信用する人はいなかったでしょう.

 おなじ月,全国から500の代議員を集めオルトドクソ全国大会が開催されました.指導部は市民的対話への参加の方向を探ります.これに対しM26の影響を受けた若手党員は「革命路線」の採用を要求します.革命路線とは武装蜂起とゼネストでバチスタ政権を打倒するという戦術のことです.

 カストロは大会にあてたメッセージの中で「即時総選挙実施の可能性を信じるものはよほど純真なのか馬鹿なのかのどちらかだ.党はいまこそ国民の立場に立って明確で前進的な方向を打ち出すべきだ」と煽ります.M26国内代表を自認するファウスティノ・ペレスはマイクを奪い「革命路線に対するもっと明確な支持を表明せよ」と叫びたてます.

 結局大会は急進派の勝利に終わり一切の交渉や妥協を拒否する決議が採択されました.地方の有力者はオルトドクソにそっぽを向き始めます.

 

・FEU再建と新たな闘争の高揚

 11月ふたたび砂糖労働者が立ち上がりました.今度は明確にPSPにより組織されたものでした.ストは最初から反独裁のスローガンをかかげ政治闘争に発展していきます.ラスビリャスでは武装デモ隊が国道を封鎖し地方警察との軍事衝突まで発生します.

 長いこと冬眠状態にあった学生運動もようやくあらたな盛り上がりを見せます.エチェベリアらは右翼化したMSRと訣別しハバナ大学から暴力集団を駆逐,大学学生同盟(FEU)を再建します.FEUが提起した抗議デモが11月末から波状的に行われそのたびに動員数を増やしていきます.内務省はデモ・集会を禁止し弾圧姿勢で臨みますが学生はこれを無視して街頭行動を繰り広げます.

ハバナで開催中の全国野球選手権の決勝戦では学生が芝生に乱入,「バチスタ打倒」の旗を持ってフィールド内を駆けめぐりました.日本でも学園紛争時に見慣れた光景です.サンチアゴでは学生50名が逮捕されカマグエイではついに警官の襲撃による犠牲者まで出ました.ニューヨークでは学生たちが自由の女神像によじ登り,バチスタ打倒の旗を掲げます.

 FEUはメリャに倣い製糖労働者との連帯をスローガンに掲げるようになります.学生と農民の運動が統一されることはバチスタの一番恐れることでした.12月末バチスタは砂糖労働者の要求を一部認めることで闘争の収束を図ります.農場主たちはこれに猛反対しますがバチスタは決定を押し通しました.その一方で学生たちに対しては徹底的な押さえ込みを図ります.33年革命を経験したものならではの知恵です.

 

・国内運動の衰退と弾圧強化

 製糖労働者のストの終焉とともに国内の反バチスタ行動は衰退期に入ります.SIMやBRACの弾圧機能がフル回転しはじめました.SIMはワシントン駐在武官のバルキン大佐ら「純粋派」と呼ばれる軍人たちを摘発します.前農業信用銀行総裁のフスト・カリーリョとともに反バチスタのクーデターを狙っていたのが露見したものです.彼らの結成した秘密結社は「モンテクリスティ」とよばれました.ホセとゴメスが独立戦争開始を宣言したドミニカの町の名にちなんだものです.

 FEUの一派はテレビ局を占拠しようとして失敗,全員が射殺されます.幹部たちはFEUの組織そのままでは犠牲が大きすぎ戦えないと考えました.そこで中央集権的な秘密軍事組織である革命幹部会(以下DR)を結成します.DRに指導された学生コマンドたちは警察の襲撃,波状的な街頭行動などをくりかえします.SIM部長アントニオ・ブランコがマイヤー・ランスキーの経営するトバク場で暗殺されたのもこの頃です.これはDRの仕業といわれています.政府はすべての大学と高校を一時閉鎖して学生運動の抑え込みを図ります.

 56年3月オルトドクソ党は中間派が巻き返し主導権を獲得,SARとの交渉に入ります.そして議会でのいくつかの議席と引き替えにバチスタとの妥協路線に乗り換えてしまいました.この時会議場を取り囲んだM26支持者は路線変更に怒り乱入,防衛隊とのあいだで乱闘となります.政府はこの事件を利用し「M26は暴力集団」と大宣伝します.

 米国務省は「情勢は悪化しているが経済の好調,市民の無関心,反体制勢力内の主導権争いが続く限りバチスタの優位は動かないだろう」と報告しています.

 情勢が有利に展開したのを見てバチスタは「繰り上げ選挙などやるつもりはない」と居直ります.正統党妥協派の努力は水の泡となりました.トリエンテらの「市民的対話」運動すらも当局の弾圧の対象となります.トリエンテは失意のうちに死亡します.中道派やリベラルさえも存在を許されなくなった今,出口を見失った国民はカストロへの期待を強めるほかありません.フィデルは正統党と断絶するとともに「M26こそがチバスの真の継承者であり正統派である」と宣言します.

 4月29日悲劇的な事件が発生します.マタンサスの虐殺と呼ばれるものです.真正主義機構のゲリラ66人がマタンサスのゴイクリア兵営を襲撃しました.参加者は「プリオ万歳」を叫びながら営内に突入し,そのまま機銃掃射の餌食となったといわれます.兵士が笑顔を浮かべながら捕虜を虐殺する写真が密かに持ち出され,ライフ誌を通じて世界に流されました.バチスタはただちにプリオを国外追放に処し全国でPSPやプリオ派狩りを開始します.帰国していたブラス・ロカも再び亡命,今度は中国に身を寄せることになります.

 

(3)キューバ進攻に向けて

・軍事訓練と資金活動

 こうなるともう黙ってはいられません.フィデルはメキシコ市近郊にサンタロサ農場を購入し軍事訓練を開始します.3当初カストロが立てた蜂起の計画は3月でした.メキシコ市内の六つのアジトに80名ほどが入りバヨから爆弾製造や破壊活動について講義を受けます.政治教育を担当したのはゲバラだといいます.

 アイデーはマイアミに渡り1万5千ドルの募金に成功.さらに全米の組織化に乗りだし定期的な募金の確保を目指します.カストロは今度はコスタリカにゆきフィゲレド大統領と会談します.4カストロは「現在上陸部隊を訓練中である」ことを明らかにし支援を求めます.さらにコスタリカ在住のキューバ人組織にも支援を訴えています.国内ではパイスを先頭に25名からなる全国指導部が結成され募金活動に取り組みました.ファウスティノが集まった8千ドルを持ってメキシコに入ります(一応金額は書いておきますがあまり信用できない数字ばかりです).

 これらの動きはやがてキューバ官憲の知るところとなります.政府はは彼らを取り締まるよう重ねてメキシコ当局に要請,最後は「フィデルの行動を黙認することは利敵行為とみなさざるを得ない」とメキシコ政府に厳重抗議します.さらにバチスタは二組のカストロ暗殺チームをメキシコに派遣しますが,いずれも機会を作れないまま失敗に終わりました.

 

・メキシコ秘密基地の摘発

 6月末ついに腰を上げたメキシコ連邦警察はフィデルとバルデスを逮捕,数日の内にサンタロサ農場を急襲します.5万6千ドル相当の武器が押収され同志40名が逮捕されます.カストロは獄中から「メキシコがキューバ解放のため戦うものに対し友好的であることを希望する」と声明.同時に「自分たちは共産主義者やプリオの第五列ではない」と強調します.

 この声が届いたのでしょうか,メキシコ革命の英雄カルデナス元大統領が調停に乗り出してきました.カルデナスといえば米国資本の油田を国有化した人物であり,現職の大統領さえも一目置かざるをえない人です.彼の調停が功を奏しフィデルは1ヶ月後には釈放されてしまいます.このあたりがメキシコという国の不思議なところです.

 釈放されたフィデルはキューバ各地に組織されたM26支部の指導者を集め12月蜂起の方針を確定します.しかし肝腎の武器はメキシコ官憲に押収されてしまっています.緊急に資金を調達するとなれば,かつてあれほどにまでに糾弾したプリオに頭を下げ援助を依頼するくらいしかありません.そう思えば平気で頭を下げられるのもフィデルの偉いところです.

 プリオとわたりをつけたフィデルは,リオグランデをわたって米国に密入国し(泳いでわたったといわれる)亡命中のプリオ元大統領と会見します.「具体的援助を引き出すことはできなかった」というのが公式の伝記です.しかしグランマ号購入の費用がプリオから出ているのは間違いないようです.

 

・12月蜂起計画の決定

 

 

 

 メキシコに戻ったカストロは戦士たちを各地に分散させ引き続き訓練を積みます.各州の地下運動の指導者がメキシコ市に集まり12月蜂起の戦術について意志統一しました.当初はキューバ各地で同時蜂起しその間に本隊が上陸するという計画でした.

 他の国内活動家と違いフランク・パイスは蜂起に対して慎重でした.「フロント組織の未成熟,貧弱な装備,内部規律の未確立などから見て行動部隊の能力は低い」とと考えたパイスは,メキシコを訪れ蜂起を来年に延ばすよう提案します.しかしカストロは「56年にキューバに帰る,という宣言は人民に対する公約であり破ることはできない」としてこれを拒否します.議論は5日間にわたりましたが,結局サンチアゴ蜂起をゲリラ部隊上陸のための揚動作戦と位置づけることでパイスも同意します.他の地区の活動家が結局蜂起を組織できなかったのに比べ,蜂起に対して慎重な構えを見せたパイスのみが蜂起を実行したというのも皮肉な話です.

  この間にDRのエチェベリアもメキシコを訪れます.フィデルとエチェベリアは19項目のプログラムにもとづきバチスタ後の政権を運営すると共同宣言を発表します.しかしその実体はたんなるエールの交換以上のものではなかったようです.むしろ・革命をハバナから始めるか,オリエンテから始めるか,・テロ戦術をどう評価するかなどでは見解が真っ向から対立しました.一説によればカストロはDRのM26への合流を提起しましたが,エチェベリーアは「解散すべきはM26」と一笑に付したそうです.エチェベリアというのは独立不覇を絵にかいたような男です.メキシコに行ったのも「カストロというのはどんな顔をしているんだろう」くらいの気分だったのではないでしょうか.

 帰国したエチェベリアはカストロに反発するかのようにテロ活動を活発化,一連の政府幹部暗殺作戦実施を指示します.コマンド部隊は軍情報部長の暗殺に成功しました.部隊はその後警察に追われハイチ大使館に逃げ込みます.10月29日ハバナ警察は外交特権も無視して大使館内に突入しました.銃撃戦の末学生10数名全員が射殺されますが,突撃隊を指揮したカニサレス警察長官も銃撃戦の中で死亡します.

 事件について意見を求められたカストロは「政治的,革命的な立場からいえば,どのような人物にたいしても暗殺は容認できない」とし「暴力的方法ではなく統一戦線を」と語りました.この考えはカストロがピノス島を出て以来一貫したものです.ただ数日前「M26からキューバ人民への宣言」で全面戦争と都市におけるゼネストを訴えた直後の声明だけに,やや政治的な発言という印象を免れません.いずれにしてもDRがカストロの発言に苦い思いを抱いたことは間違いないでしょう.

 

・グランマ号の出発

 10月ゲリラはキューバ行きの船舶としてグランマ号を購入する事に成功します.船はその名(お婆ちゃん)のごとくかなり老朽化しており大規模な修理が必要でした.5

 いよいよ上陸の日どりが迫った11月15日フィデルは「M26から人民への宣言」を発表します.その中で彼は・大統領選と総選挙の90日以内の実施,・全政治囚の釈放などを要求し,「もしこれらが2カ月以内に実現しない場合はM26は革命的行動を開始するだろう」と予告します.「上陸の日は近い」というわけです.びっくりしたバヨがこれを非難するとフィデルは次のように応えたそうです.

 「わたしの希望はキューバの誰もがわたしの到着を知りM26を信頼するということである.これはわたしの戦略の特徴である」

 まさにフィデルの面目躍如たるものがあります.

 しかし実際には2カ月などという悠長なヒマはありませんでした.修理が完了するまで待機する余裕もなく当局の捜査の手が伸びてきました.11月22日メキシコ市連邦警察はゲリラの保管する武器5万6千ドル相当を押収します(ボゴタ以来のカストロの盟友デル・ピノが内通者と言われる).カストロは兵士たちにただちに地下に潜り3日後にトゥスパンに集合するよう指示します.

 11月25日深夜嵐吹きすさぶトゥスパンの港に若者たちが集まってきます.その数130人.わずか10人乗りの船に置いておかれてなるものかと我先に乗り込みます.グランマ号は1カ月にわたる修理にもかかわらず片方のエンジンが不調のままでした.フィデルがこれ以上の乗船を禁じたとき船の喫水はもはや危険な状態にありました.その数82人.それでも50人が乗りきれずに置いてけぼりを食うことになりました.

 

B.ゲリラ上陸の顛末

(1)サンチアゴ蜂起とグランマ号上陸

・サンチアゴ蜂起

 

 

 

 11月30日朝6時パイスらがサンチアゴで奇襲作戦を開始します.敵の注意を引きつけグランマ号の到着をカモフラージュするための揚動作戦です.彼らは市の警察本部を一時占拠したあと火を放ちます.他に海軍基地,モンカダ兵営にも爆弾が投げつけられるなど各所で作戦が展開され,暴動は数時間に及びました.警察本部の襲撃では副官ペピト・テイが殺害されてしまいますが,何とか撤退に成功し武器と兵力は温存されました.6

 サンチアゴ蜂起と同じ時刻,マンサニーリョのセリア・サンチェスら50人はトラックとジープに武器弾薬を積み,近くの到着予定地にてグランマ号を待ちますが結局待ちぼうけに終わります.
 その頃グランマ号は定員オーバーの状態でシケにあい海上をさまよっていたのです.翌2日朝グランマ号はマンサニージョより50キロも南,マングローブの生い茂るコロラド沼沢地帯に座礁してしまいました.戦士たちは武器弾薬のほとんどを放棄し海岸まで3時間,海水に浸かったまま歩く羽目になりました.

 ゲリラ部隊上陸の報道された翌3日早くもUPはカストロ死亡と報道します.バチスタはこの報道を否定し「カストロは今なおメキシコにいる」と述べます.

 このようにして上陸したゲリラ部隊を政府軍が待ち受けていました.5日の夕方4時ニケロ町近郊の砂糖キビ畑で小休止していた部隊を政府軍が急襲します.それは惨憺たるものでした.その場で20名が,後の掃討作戦もふくめ結局25名が射殺されました.さらに30名が逮捕されました.オルトドクソ急進行動の指導者で部隊の副官格のマヌエル・マルケス,バヤモ兵営襲撃の生き残りニコ・ロペスら多くの人間が拷問のすえ虐殺されました.チリジリになった生き残りは東方に進み集結予定地のキューバ最高峰トゥルキノ山(標高2千メートル)に向かいます.

 13日政府軍は「反乱は終結した.カストロは攻撃隊に参加しなかった」と発表,掃討作戦を停止し兵を引き揚げました.しかしカストロについての情報は18日には変更されます.あらためてカストロ兄弟の死を確認した副大統領は「政治的には間違っていたが,カストロの反抗精神は讃えるべきだ」と「賞賛」します.

 

・部隊の再編成とゲリラ闘争の開始

 辛うじて生き残った戦士はいくつかのグループに分かれてモンゴ・ペレスの農場にふたたび結集します.モンゴ・ペレスはシエラを根城とする“義賊”クレセンシオの弟,セリア・サンチェスらの説得により反乱への協力を約束していました.その数12人とされていますがこれはキリストの使徒の故事にあわせた創作のようです.7

 カストロは兵を集め「もはやM26の軍は敗れることはない」と訓示しました.部隊はは安全な地域を求めさらに東進しキューバ最高峰トゥルキノ山(標高2千メートル)に至ります.ここでどうやら追手を撒き体制の建て直しにとりかかります.かくして1956年は終わりを告げます.

 1月17日フィデルらはわずか12人で最初の軍事攻勢をかけます.そのターゲットとなったのはラプラタの駐屯所でした.ゲリラは夜闇にまぎれて建物を包囲したあと一斉射撃を加えます.守備隊は約十名,うち7人が死傷したあと降伏します.ゲリラは全員無事でライフル12挺,軽機関銃1挺,銃弾千発,他に食料品,医薬品を手に入れました.8

 このたたかいの目的は武器を手に入れることよりも「フィデル健在なり,ゲリラ健在なり」の事実を国民に知らしめることにあったのですが,この目標はバチスタの報道管制の前に不発に終わりました.

 政府軍の反撃には厳しいものがありました.1月末シエラ山中に空襲が加えられました.ゲリラはふたたび西に進路をとりマンサニーリョ近くの山中に逃げ込みます.後にゲバラが「放浪期」と名付けるゲリラ戦争の第一段階です.

 

(2)フィデル健在なり!

・オルトドクソの左展開

 この間下界ではカストロ上陸の報にあわてたバチスタが強硬策を採ります.「血のクリスマス事件」といわれたオルギンの大量虐殺は社会を震撼させました.反バチスタ派青年27人が虐殺され死体が街路に投げ捨てられたのです.明けて1月サンチアゴでも15才の少年がゲリラへの協力を疑われ拷問の上虐殺されました.このときも死体は空家に遺棄されていました.同じ殺すにしてもあまりにもグロテスクです.サンチアゴでは殺された少年の母を先頭に八百名の女性による抗議デモが行われました.米国内の反バチスタ勢力はデモやホワイトハウス前への座り込みなどの行動を展開します.

 15日衝撃的な発言が飛び出しました.オルトドクソのクシド議員がオルギン虐殺事件の犯人を実名で発表したのです.それは軍の手先でマスフェレルの「虎」の有力メンバーでした.バチスタは即座に公民権停止令を発します.クシドに対する報復として彼の弟が虐殺されました.やがてクシドはマイアミに亡命していきます.

 このときキューバの政治バランスを変える重大な変化が起こりました.それは正統党が「市民抵抗運動」の結成を決めたことです.トリエンテの「対話運動」すらも挫折したいま,たしかに中間層の手に残された武器は「市民的な」不服従と抵抗しかありません.クーデター後バチスタとどう闘うのかでずっと腰が定まらなかったオルトドクソ党ですが,あいつぐ弾圧の前についに体制そのものとの決別を決意せざるを得なくなりました.

 あらたにつくられた「市民抵抗」は,故チバスの弟ラウル・チバスや前国立銀行総裁フェリーペ・パソスなどが中心となり,一部富裕層をふくめ広範な中流階級をとりこんでいきます.パソスといえば米経済界とも太いパイプを持つ超一流エコノミストです.その彼までもがこの生命がけの運動に参加したということは,それだけキューバの政治情勢が抜き差しならないものになっていたことの現われでした.パソスの息子もハバナのM26地下組織代表として活動していました.

 

・マシューズ記者,シエラに入る

 大衆組織やマスコミとの連絡を取るため街にファウスティノを送り込んだのに梨の礫です.なんとか自らの健在を世に知らせようとしたフィデルは,レネ・ロドリゲスをおくりハバナのフェリペ・パソスと連絡をつけます.フィデルの意を受けたパソスは,これまで培った人脈を駆使しNYタイムス本社との接触に成功します.事の重大性を察したNYタイムスは論説委員で中南米問題専門家のマシューズを送り込みます.9

 マシューズは9日にはハバナ入りしシエラからの連絡を待ちますが,フィデルの側にはそう簡単には呼び込めない厄介な問題が生じていました.ひとつは政府軍の待ち伏せにあい重大な被害を被ったことです.残ったものの士気も著しく低下し脱走者が相次ぎます.カストロは不平分子を放逐し部隊を12人にまで縮小整理します.モンカダ襲撃失敗のあとグランピエドラに登ろうといってついてきた兵士よりも少ない数です.もはや背水の陣といっていいでしょう.

 もう一つはゲリラ部隊と全国指導部の歴史的な初会談です.2月はじめマンサニーリョの活動家がはじめてゲリラ部隊との接触に成功しました.報告を聞いたセリア・サンチェスはただちにサンチアゴのパイスに連絡,パイスはアルマンド・アルトやアイデー・サンタマリアを伴いシエラに入ります.

 13日シエラ山中モンテリア農場の山小屋で両者が会見しました.パイスは「もはや蜂起の機会は失われた.フィデルはなんとかして国外にもう一度出て次の闘いの指揮を執るべきだ」と主張します.これに対しフィデルは戦闘続行を断固主張.そればかりでなく新たに兵と武器を徴募するよう求めます.結局今度も折れたのはパイスでした.フィデルの希望を容れゲリラ兵士のリクルートのため山を下ります.セリアはもう少し単純にフィデル信徒になりマンサニーリョでゲリラ兵士を集め始めます.

 ともかくフィデルたちの政治的活路はマシューズとの接触以外にありません.15日マシューズ夫妻はマンサニーリョに移動し連絡を待ちます.M26はサンチアゴ市内18カ所に爆弾を仕掛けます.マシューズに実力を示すためです.マシューズをシエラに迎えてからは,札束を見せびらかしたり十人の兵士を数十人いるように見せかけたりと田舎芝居を繰り広げます.

 彼のシエラ・マエストラ潜入記は2月末のNYタイムスに3日間連載で発表されます.マシューズはこの連載を「カストロこそシエラマエストラの主であり,バチスタはカストロの反乱を抑え込もうと思うことすらできないだろう」と結びます.あわてたキューバ政府は「マシューズの記事は空想小説に過ぎない」と反論します.しかしこの反論こそマシューズの待ちかまえたものでした.それは仕掛けられた罠でした.翌日のNYタイムスはマシューズと並んで写ったカストロの写真を1面トップで公表します.キューバ政府は一言のコメントもできません.こうしてカストロの生存は公然の事実となりました.

 この事件で勢いを得たM26は,米国在住代表のマリオ・ジェレーナを通じて引き続きマスコミとの接触を求めCBSテレビの取材を実現します.4月末シエラ入りしたテイバー記者は約1ヶ月にわたり現地取材を続けました.5月19日,テイバーらの撮影したフィルムを中心に「シエラマエストラの反乱者たち」がテレビで全米に放映されます.

 それらの報道はキューバ国民に筆舌につくし難いほどの衝撃をあたえました.「フィデルが生きている」ということはホセ・マルティが生きていることであり,あの独立戦争が生きているということです.この報道をみて血わき胸おどらせない若者がいたでしょうか?

 

C.M26が唯一の武装勢力に

(1)大統領宮殿襲撃事件とDRの壊滅

・空振りに終わった襲撃

 

 エチェベリア

 

 DRと真正党行動グループは1月頃からひとつの行動計画を作成し始めました.大統領官邸を決死隊により襲撃するというものです.同時にハバナ市内の警察署を襲撃し武器を獲得,放送局を占拠し国民と軍部に決起を訴えることになっていました.総勢三百名の大規模な作戦です.

 エチェベリアは作戦実行にあたって旧ボンチェスやカリブ軍団の残党に大動員を掛けました.いささかトウが立っているにせよ戦闘のベテランたちです.呼びかけに応えてUIR,MSR,ホーベン・クーバ,ABCなどに属する雑多なテロリスト集団が結集しました.総指揮官はグティエレス・メノヨ.メノヨは第一世代に属する人物でスペイン市民戦争から第二次大戦と歴戦,パットン軍団にも加わっていたという猛者です.戦後はカリブ軍団に所属していました.もう一人の指揮官モーラはギテラスの古い友人で元ABCに所属したテロリストです.

 3月13日午後3時50名のDR決死隊が大統領官邸に突入しました.部隊は数分後に1階を制圧,守備隊は2階に逃げ込みます.さらに突撃班15名が二階に駆け上がりますがその間にバチスタは部屋から屋根伝いに逃亡してしまいました.暗殺は不成功に終わりました.おまけにあてにしていた百五十名の援護隊は到着しないままです.

 奇襲が成功しない限り反乱側に勝ち目はありません.やがて戦車がやってきました.戦車に官邸を包囲されてしまってはもはやこれまでです.決死隊のメンバーは官邸を脱出しようとしてはそのたびに機銃掃射の餌食となりました.

 この間にエチェベリアは放送局を占拠し独裁者の死を発表しますが,まもなくかけつけた官憲により蹴散らされます.エチェベリーアらはハバナ大学に逃げこもうとしますが,正門の前まできたところで射殺されてしまいます.こうしてあっけなく反乱は終了します.

 辛うじて逃げおおせた活動家たちはフンボルト街のアジトに結集し指導部を再建します.しかしここも1カ月後には摘発され,フルクチュオソ議長やウェストブルックなど幹部が根こそぎにされました.警察はこれを「フンボルト7番街事件」として大宣伝し政権の安泰ぶりを強調します.

 大胆このうえもないまさしく英雄的としか言いようのない行動ではあったのですが,それがなんだったのでしょうか.もったいない気がします.このような犠牲はモンカダだけでもう十分だったのではないでしょうか.

 

・コリンティア号の悲劇

 五月もうひとつのゲリラ戦線が誕生しようとしていました.カリスト・サンチェスの指揮する真正主義機構のコマンド部隊がプリオ所有のヨット,コリンティア号に乗りキューバ上陸を図ったのです.オリエンテ州北部マヤリ海岸に上陸した彼らは,シエラ・クリスタルでの拠点構築をめざし前進を始めましたが,折からの豪雨の中ではやくも消耗してしまいます.

 行動は事前にバチスタ軍に筒抜けになっていました.農民の内通を受けたバチスタ軍は部隊に待ち伏せ攻撃をかけます.この戦闘で24名全員が逮捕されました.そして5月28日そのすべてが処刑されます.

 彼らは大統領宮殿襲撃のときDRの突撃を援護することになっていました.しかし交通渋滞のためその瞬間に間にあわず突撃隊を見殺しにしたのでした.彼らはDRの生き残りから臆病者とののしられましたが,みずからの死を持って臆病ではなかったことを立証したのです.

 真正党はおなじ年の8月にも再度上陸を試みます.フィデルたちを訓練したあのバヨ大佐に指揮権を依託,プリオ所有のヨットに武器を積みマイアミを出発します.しかしそのヨットが途中でメキシコ警察により捕らえられてしまいこの作戦も失敗におわります.  モンテクリスティの一派も米国で活動を開始します.かれらはカストロを「評価」するかのようなポーズをとりながら,いっぽうで「野心にあふれた正常ならざる人物」と中傷.かえす刀でプリオを「革命を買おうとする腐敗した政治屋」と非難.そのうえでピノス島に囚われているラモン・バルキン大佐を最大級に持ち上げます.これは米国務省のポスト・バチスタ戦略に沿ったものでした.

 大統領宮殿襲撃事件,フンボルト街の虐殺,そしてコリンティア号の悲劇と続く中でM26以外の党派の活動は壊滅します.シエラマエストラはキューバ革命の聖地となります.多くの若者がシエラをめざして集まってきます.

 

(2)M26の権威確立とシエラマエストラ宣言

・ウベロの闘いと支配区の確立

 

 モンカダ以来の戦士フリオ・ディアス

 

 このようにフィデル生存の報を受けてさまざまな組織が攻勢を開始しますが,結局のところシエラマエストラ以外のたたかいはバチスタにより鎮圧されてしまいます.このころパイースはサンチアゴ市内でゲリラ50人の募集に成功します.彼らはサンチアゴの海軍基地を襲撃し武器を獲得した後シエラに入りました.また農民からゲリラに加わったものもありその数は百名を越えます.
 新たに参加したゲリラの中にはグアンタナモ基地を脱走した米人海兵隊員3名も含まれていました.しかし彼らはとうていゲリラの生活に耐えることはできませんでした.折から帰途についたテイバー記者とともに下山しサンチアゴの米領事館に保護を求めたのです.帰国した米国人元ゲリラは解放戦争勝利のための伝道者となり米国内各地で宣伝活動に参加しました.

 5月27日準備を整えたゲリラは80名の部隊でウベロ兵営を襲撃します.守る側の政府軍は60人.この戦闘はゲリラにとって初の大規模な戦闘となりました.二時間半の激戦ののちゲリラはついに兵営奪取に成功します.モンカダ以来の戦士フリオ・ディアスを始めゲリラ側に6名の戦死,重傷2,軽傷7人を出します.いっぽう守備隊の戦死者は14人,負傷19名でした.10

  ウベロの敗北に衝撃を受けたバチスタは最強の歩兵師団をシエラに送り込みます.同時にゲリラの糧道を絶つため農民2千家族にたいし山からの退去を命じます.彼らは集中キャンプに隔離されることになりました.これにはウェイラーの戦略村作戦の再現とする非難が高まります.

 派遣された兵士の住民に対する残虐ぶりが報道されるにおよんで,バチスタは最終的にこの作戦を断念せざるを得なくなりました.これを期に軍はトゥルキノ山の周囲の孤立した兵営をすべて閉鎖することになります.こうしてゲリラはわずかな範囲とはいえ支配区を作ることに成功したわけです.

 

・シエラマエストラ宣言

 わずか百人足らずとはいえ,キューバ国内に支配地を持ったということは,真正党や正統党に匹敵する巨大な意味を持ちます.機を見るに敏なカストロがこの好機を見逃すはずはありません.
 彼はまずシエラにパソスとチバスを招聘します.シエラに潜入した二人に対しカストロは「われらの目的」と題する臨時革命政府綱領を提示し支持を求めます.これが一般にシエラマエストラ宣言と呼ばれるものです.

 宣言はまず「現時点での唯一の愛国的行為は統一である」とし民主主義,民族主義,社会正義をスローガンとする市民革命戦線の形成をよびかけます.いうまでもなく彼らのヘゲモニーの下に結集せよということです.ついで市民革命戦線政府の基本構想として政治的自由の保障,市民権の確立,行政機構の確立をあげます.そしてこれらを前提として・内政干渉拒否,・軍部の政治不介入,・40年憲法にもとづく自由選挙の三つの当面の政策を掲げます.

 宣言はさらに「旧地主には補償を与えた上で」未耕地を分配することを内容とする農地改革,すべての労組における自由選挙を条件としあらたな雇用の創出をうたった労働改革,そして文盲撲滅の大キャンペーンを中心とする教育改革なども盛り込みます.

 宣言を読む限りABCや正統党との違いはまったく見られません.たしかに労働,教育,財政,農地改革にも触れられてはいますが,それは口当たりの良いオブラートで包まれています.「帝国主義」の表現は慎重に避けられこれにかわり米国との「建設的友情」がうたわれます.

 フィデルはこの宣言をもとに「市民抵抗」代表に資金援助や支援キャンペーンを要請します.

 

・「宣言」へのパイスの疑問

 「宣言」の言葉そのものはまことに正しいのですが,いまいちばんもとめられている「統一」とは誰と誰との統一なのか,と考えるといささか疑問を感じなくもありません.そもそもこの「宣言」を起草したジェレナは,米国内におけるM26のスポークスマンをつとめた元MNR活動家でした.M26幹部とはいえコチコチの反共自由主義者です.

 その点をはっきりと指摘したのがパイスです.彼はカストロ宛て書簡でこれまでの到達段階を確認した上で「新たな戦略と新たな路線」を発展させるべきと訴えました.「新たな戦略」とは・全国総蜂起,・至る所に新たなゲリラ戦線の確立,・ゼネストを通じてのバチスタ打倒という組合せです.そして当面の中心課題としてM26の指導のもとに労働者委員会を結成することをあげます.

 「新たな路線」とは,これまではゲリラの上陸を支援するための国内指導部のみであったのを発展させ,明確な組織原則を持つ全国指導部を創設することです.さらにパイスは革命政府がめざすべき政策を明確化するよう提案しますが,この内容は「宣言」よりはるかに明確な社会主義的方向を示していました.

 端的に言えば,カストロの戦略はゲリラが生き延びることこそすべての鍵を握ると判断し,そのためにすべての力を集中させるものでした.これに対しパイスはゲリラそのものは抵抗の象徴に過ぎず,労働者階級を中心とする階級闘争の発展こそが革命の核心だと考えていたようです.事実パイスは別の機会に「ゲリラ闘争の所期の目的は十分果たせたのだから,カストロは亡命して海外から闘いを指導してはどうか」と進言したこともあります.

 なお書簡の中でパイスは全国指導部のメンバーを提案しています.フィデル,パイス,ラトゥール,アルマンド・アルト,ファウスティノ,ダビッド・サルバドル,フランキ,セリア・サンチェス,マヌエル・ライなど13名です.これを見るとAROとMNR出身者がほとんどで,M26を担ってきた生え抜きはほとんど見あたりません.

 パイスの思いが何処にあったかは今となっては不明ですが,路線の問題は別にして,これでは学生活動家によるM26の乗っ取りと見られても仕方ありません.相当深刻な矛盾をはらんでいます.

 

1 ウェストブルック,チョーモンらMNR主流は旧MSR系活動家と接近しやがてFEU,革命幹部会の指導者となっていきます.

2 ニコ・ロペスはバヤモ兵営襲撃事件の参加者.国外逃亡に成功しグアテマラでゲバラとともに活動していた.グランマ上陸作戦で捕らえられ虐殺される.AROからM26に加わったアントニオ・ロペスとは別人.バヤモの博物館は彼を中心に展示されている.

3 サンタロサ農場はメキシコ市から数キロの近郊,ポポカテペトル火山の山麓の村チャルコに位置する16ヘクタールの牧場.当時家具販売を手がけていたバヨはなかなかの商売上手.地主を相手に「自分はパンチョ・ビリャとともに戦ったことがあり,現在はエルサルバドルの大佐の代理人として働いている」とホラを吹き,2万4千ドルで購入したいと申し出ました.そして購入を前提に6ヶ月間にわたり借り上げることに成功.使用料はなんと月8ドルでした.

4 フィゲレドは曰くいいがたい人物です.貴族趣味とでもいえばよいのでしょうか.政治的スタンスとしてはプリオに近い反共リベラルですが,成り上がりの独裁者に対しては強い嫌悪感を持っていました.当時コスタリカにはフィゲレドを頼ってベネズエラのベタンクール,ドミニカのボッシュらが亡命してきていました.中米・カリブの独裁者達を打倒することを目的とするカリブ軍団の元締めでもあります.

5 グランマ号はメキシコに住む米国人の持ち物で,ベラクルスの北200キロの漁港トゥスパンにほとんどポンコツ状態となって係留されていました.観光用ヨットで全長25メートル,本来は10人乗りのものです.サンタロサのあとバヨも未だ拘留中とあって,これをなんと1万5千ドルで買わされる羽目になります.

6 サンチアゴの旧市街の坂をのぼりつめたところにパイースの記念館があります.かつてかれらが焼打ちした警察本部の建物が復元され記念館にあてられています.この二階のバルコニーから眺めたサンチアゴの街並みは絶景のひとことにつきます.左手には深く切れこんだサンチアゴの港,右上がりの街並みの先には緑のドームをいただく大聖堂,そしてサンチアゴでしか見られない宇宙の黒みをおびた真っ青な空.しかし館内に展示されている血染めの服や鉄砲,路上に放置されたパイースの遺影などは,見る人を40年前この地で起きた惨事に引きずり込むようです.

7 実際には18日フィデルのグループ(フィデル,ウニベルソ・サンチェス,ファウスティノ)がまず到着し,まもなくラウルのグループ(ラウル,アメヘイラス,フリオ・ディアス,シロ・レドンド,カミロ)が合流.翌19日になるとゲバラのグループ(ゲバラ,アルメイダ,ラミロ・バルデス,ベニーテス,他1名)が合流します.19日から20日にかけカリスト・ガルシア,クレスポ,カリスト・モラレス,レネ・ロドリゲスら6人が合流してきます.その後さらにクレセンシオの努力により10人ほどが合流に成功し,最終的には30名ほどまで拡大しました.名前が残されていないメンバーは,初期のあいだに山岳ゲリラの生活に耐えきれず脱落していった人たちです.その中には敵のスパイとなったものもありました.

8 ラプラタはトゥルキノ山に源を発するラプラタ川がカリブ海に注ぐ河口の村,サンチアゴから西に車をとばしつづけて3時間のところにあります.その間快適な舗装道路が続きますが,これはフィデルが革命のあと住民との約束を果たすため作った道路だそうです.左手にカリブ海,右手には間近にシエラマエストラの山波が迫りいくつかの難所もあります.実際に大きな落石が道路をふさぎかけているところもあります.この道路がなかったらまったくの陸の孤島です.西に行くにしたがって景色は険しくなっていきます.山は禿山,川は乾季のせいか涸れています.土地は痩せ瓦礫だらけです.牛を飼うほどの草も生えずヤギが放し飼いになっている貧しい土地です.
ラプラタ兵営の跡にはムセオがひとつ建っていました.しかし昼の12時だというのに閉まったままです.午後からは開けるのだと近くの人が言っていましたが時節柄見学者などないのでしょう.勇ましい兵士の姿を描いた絵看板もペンキがはげ落ちていました.椰子の木の下で牛が草を食み,なぜか鶏の声だけが騒々しい昼さがりでした.

9 M26側の記録によれば,マシューズがゲリラとの接触を求めてオリエンテにやってきたところにM26幹部ビルマ・エスピンが接触,彼をシエラマエストラに案内したとされています.これはデマに近い嘘です.マシューズはいやしくもNYタイムスの大物記者です.必要とあれば米国大統領とサシで話をすることもできる地位の人物です.特ダネをものにしようとうろつき回っているその辺のフリー・ランサーとは格が違います.そのような人物がどうしてみずからシエラまで足を運んだか,それは彼がスペイン人民戦争に参加した経験も持つ行動派のリベラリストだったからです.
記録で見る限りマシューズはまんまとそれに乗せられたことになっていますが,果たしてどうでしょう.むしろマシューズはだまされたフリをしてそれに乗っかったのではないのでしょうか.フィデルが生きているという中心的事実こそが伝えるべき「真実」なのであり,周辺的事実を多少誇張してもそれは「真実」を歪めることにはならない,というのがマスコミ風「真実」論だからです.

10 ウベロはラプラタよりは半時間ほどサンチアゴ寄り.兵営は現在は跡形もありません.記念碑がポツンと立っているだけです.部落会館にいたおばさんに「どこからフィデルはやってきたの?」と訪ねると,むかって右側の小高い丘を指差します.その丘を見上げては突撃してくるゲリラたちの姿を想像したものです.