第五章 4月ゼネストとシエラ攻防戦


A.市民的抵抗の増大

(1)全土に広がる反バチスタ闘争

・パイス虐殺と全国抗議行動

 7月30日,革命の行方や組織のありようをめぐる論争は深められることなく中断されてしまいました.パイスがサンチアゴ市内で暗殺されてしまったのです.

 この暗殺はサンチアゴ市民のあいだに想像を絶する怒りを呼びました.彼の葬儀デモにはサンチアゴが文字どおり根こそぎ参加しました.この日をふくめ三日間にわたり全市が事実上のゼネスト状態に入りました.これにはさすがの残虐をもってなる官憲も手を出せません.まさしく英雄的オリエンテの面目躍如たるものがあります.

 葬儀デモは成功したもののその分だけあとからの弾圧も強烈でした.新日本文庫から出ている「ベルチリヨン」という小説は,この弾圧の時代のサンチアゴを生き生きと描き出しています.ぜひご一読を願います.

 サンチアゴに続いてハバナでも大規模な葬儀デモが組織されます.自然発生的ゼネストによりオリエンテ,カマグエイ,ラスビリャスの一部では麻痺状態となりました.バチスタは憲法を一時停止しチバスとアグラモンテを逮捕するなど強硬姿勢で臨みます.

 その頃赴任したスミス米大使はすべての価値に「反共」を優先する狂信的な右翼でした.同時に素朴な反共主義者であるが故に守るべき「自由と民主主義」に対して盲目的な信仰を持っていました.彼は就任後の記者会見でキューバ政府の反共活動への熱意を賞賛するいっぽう「正常なチャンネルを通じてなら,反政府派もふくめいかなる人々とも話し合う用意がある」と言明します.

 彼は側近の制止を振り切り,当時反政府活動のもっとも盛んといわれたサンチアゴに視察にでかけます.彼が歓迎集会で演説中まさにそのときパイスの葬送デモに官憲が襲いかかります.

 スミスの回想によれば,当日の晩餐会の席ですくなからぬ紳士・淑女が彼のもとに来ては「実は私もデモに参加したんだ」と耳打ちして,誇らしげに微笑んだとのことです.警察や「虎」の市民にたいする暴力行為を目撃し思わずみずからを忘れたのでしょうか,「市民スミス」はパーティーの席上バチスタ政権を公然と非難します.1

 「フィデル健在」の報に続いて駐ハバナ大使までがバチスタ批判をおこなったことは,米国の世論にすくなからぬ影響を与えました.米国人の多くは元々がキューバ独立軍に肩入れしてスペインとたたかったと思いこんでいるわけですから,ホセの再来を自称するゲリラへの同情が湧くのは自然なことです.ただしその敵であるバチスタが米国のサナバビッチだということを,その瞬間にはついぞ忘れてしまうというのも困ったことですが….

 

・シエンフエゴスの反乱

 憤激が憤激を呼ぶなかで,ついにバチスタの唯一のより所である軍隊からも反乱が発生します.それは9月5日シエンフエゴス海軍基地で起こりました.

 実はその前に若手将校がバルキンとつながる秘密結社を結成していました.その名を「純潔派」といいます.彼らが立てたもともとの計画では,シエンフエゴスだけではなくハバナ,マリエル,サンチアゴの海軍基地が同時に蜂起する手筈になっていました.蜂起後は海軍司令部を爆撃し指揮系統を混乱させたあと大統領官邸を艦砲射撃,これに空軍の一部や警察機動隊も加わるという手筈になっていたのです.しかしそれらはすべて不発に終わりただ1ヶ所シエンフエゴスが蜂起したのです.

 部隊は海軍警察,国家警察と地方警察の本部を襲撃しました.海軍警察はもともとが反乱軍に同情的でしたからすぐ降服してしまいます.それだけでなくその多くが反乱に加わります.こうして反乱軍はいったん市内を制圧します.この蜂起にはシエンフエゴスの民主勢力が狂喜して参加しました.市内で弁護士を開業していた正統党左派のドルティコスもその一人です.

 翌日政府軍の反撃が開始されました.まずジェット機がやってきて爆撃と機銃掃射をくりかえします.制空権を確保するとついで戦車隊がおしよせます.反乱軍は武器を市民に分配し圧倒的な政府軍に市街戦を挑みまがあっけなく壊滅してしまいます.数百人が戦闘で犠牲となり逮捕者も拷問の上射殺されました.

 残党はエスカンブライ山地に逃げ込み,一部はメノヨやモーガンの第二戦線に一部はボルドンとカマチョを指導者とするM26ゲリラ部隊に加わります(この部隊も第二戦線に結集していた).なおサン・ロマンはのちに反革命に加わりプラヤ・ヒロンの指揮者の一人として参加しています.

 一時は「逆上して」バチスタ批判をおこなったスミス大使でしたが,キューバが「アカ」に乗っ取られるかもしれない状況に直面してただちに軌道を修正します.8月末スミスとバチスタは手打ち式をおこないます.これにもとづき米国はキューバ人の亡命受入れ制限と亡命者の国内での活動制限を強化します.

 

・反乱の拡大とM26の伸張

 

 

 

 

 シエラでも反乱に呼応して戦線の拡大が進められます.ゲバラに新たな部隊の編成が命じられました.かれは部下十数名を率いオンブリート渓谷のミナス・デ・フリオに新たな根拠地を創設,第4戦線と命名します.緒戦としてブイエシートの兵営を攻撃するが戦死者1名,負傷者3名を出しみごとにずっこけます.このあとゲバラは基地の充実に力を注ぎ山中に小規模な工場や印刷所などを作り上げます.いっぽうで待ち伏せ作戦に力を注ぎオンブリートではみごとに成功,一個中隊140名を潰走させます.

 10月にはいると作戦地域の拡大を押さえ込むためモスケラの指揮する掃討隊が送り込まれました.この攻撃でオンブリート基地は壊滅的打撃を受け部隊はトゥルキノに引き揚げます.おなじ頃西部への進出を図ったシロ・レドンドの部隊はマル・ベルデの闘いで惨敗,レドンドみずからが戦死してしまいます.しかし政府軍はそれ以上の深追いはしませんでした.

 当面陣地拡大を断念したM26は各地でのサボタージュや資金獲得活動に活動の重点を移して行きます.このように都市に出没するゲリラは「M26民兵団」と呼ばれるようになります.「民兵団」は当初シエラの「正規兵」の下に「市民抵抗」の防衛やシエラに送る兵士のリクルートを主な目的としていました.2

 前にも触れたように「市民抵抗」はM26ではなくオルトドクソの行動組織です.しかしその名にふさわしく「抵抗」の姿勢をつらぬこうとする限り,もともと正統党の仲間であるM26の都市フロント組織として機能するようになるのは必然です.これらの非合法活動を統括したのはパイスが組織したM26全国指導部でした.

 その一人マヌエル・ライは「市民抵抗」を10人を単位とする「細胞」に編成します.市民抵抗はカンパ集め,シエラへの物資の補給,反バチスタ宣伝,隠れ家の提供などを組織するようになります.しかし闘争の重点が変わるにつれ独自の武装行動を強め一つの独立した軍事機構となっていきます.これが民兵団です.

 

・エスカンブライ戦線の形成

 エスカンブライのゲリラ戦線の創設についてははっきりしませんが,10月から11月にかけ,いくつかのゲリラ組織が誕生したようです.第一の流れはサンクティ・スピリトゥスの真正党やオルトドクソの青年たちです.彼らはフィデルらに張り合うようにゲリラ活動を開始し,シエラ・マエストラに続くという意味で「第二戦線」を自称します.

 これに目をつけたプリオは大統領宮殿襲撃の指揮をとったメノヨを送り込みます.指揮官には米国人のモーガンが就きました.このモーガンは米軍籍を剥奪されるという後ろぐらい過去を持った人物です.どんな言葉で飾ろうと彼らはもともとボンチェスに過ぎません.放牧された牛を襲っては食料にしたため住民からも「牛食いども」と軽蔑されるありさまです.おなじ時期シエンフエゴス蜂起の生き残りもエスカンブライに合流しゲリラ戦を開始します.

 大統領官邸襲撃事件で壊滅的な打撃を受けたDRですが,わずかに残った活動家はM26に対抗するゲリラ部隊を組織しようとはかります.ファウレ・チョモーン,ロランド・クベラらは58年2月カマグエイ州ヌエビタスに上陸,陸路をとってエスカンブライ第二戦線に合流しました.

 DRはハバナでの闘いこそ戦略の基本だというのが持論でした.したがってハバナにDRを再建することが優先課題であり,エスカンブライは単に拠点としてしか位置づけられません.これに対しメノヨらはゲリラ活動こそが闘いの基本だと反論します.

 DRは豊富な武器を持ち込むことに成功しました.そしてこの武器の力でゲリラ内での主導権を獲得しようとしますが,メノヨら真正党系は激しく抵抗します.しかしこのような路線問題が対立の主な原因だったわけではありません.メノヨらの堕落ぶりが最大の問題でした.まもなく戦線を離脱したDRは独自のゲリラ部隊を組織することになります.

 

(2)キューバ解放委員会とM26,そしてフィデル

・プリオによる解放委員会結成

 バチスタはM26に対して徹底した反対派弾圧に乗り出します.とくにサンチアゴを中心とするオリエンテで弾圧は過酷をきわめました.パイス亡きあとの「全国指導部」議長にはラトゥールが就任しますが,幹部の多くは弾圧を逃れサンチアゴからハバナに移ります.しかしハバナも安住の地ではありませんでした.アルト,フランキ,ハビエル・パソス(フェリーペの息子)らは相互の連絡をたたれたままアジトを転々とすることになります.

 バチスタの強権発動は米政府内にもさまざまな反響を呼びました.国務省にしてみれば,MSAにもとづく自由主義体制強化のための武器が「健全な」資本家や政治家を弾圧するのに用いられるのは黙視できません.バチスタに「注意を喚起」します.バチスタは「プリオが反乱者に武器を送るのを許しているのに,どうしてわれわれへの武器供与は拒否できるのか?」と反発,第三国からの武器輸入も考慮すると開き直ります.

 この頃から警察は親ゲリラ米国人への嫌がらせを開始.各地で犯人不明の米国人襲撃が続発します.些細な理由での逮捕と国外追放もあいつぎます.ヘミングウェイ宅で愛犬が撲り殺されたのもこのころのことです.

 バチスタの狂気の反対派狩りはバラバラだった諸政党を団結に向かわせることになりました.ますます強まる弾圧とそれに抗してますます強まる闘争,まさしく勝負をかける瞬間です.

 ここぞと見たプリオは反バチスタ勢力の統一をめざす会議を召集します.オルトドクソのアグラモンテ,DRのチョモーン,他に大学学生連合や労働者指導部の代表が集まってきました.しかしこれらの勢力は誰にとってもどうでもいいことでした.いまやキューバ人民の抵抗の象徴となったフィデルがこの会議を承認するかどうかがすべてだったのです.

 当時米国亡命中で会議への出席を求められたフェリペ・パソスは,全国指導部にM26代表としての信任を求めました.全国指導部はカストロとの連絡がつかないままにどちらともとれるような「曖昧な指示」を出しました.パソスらはこれを信任と受け取りM26代表として会議に参加しました.3

 会議はキューバ解放評議会(フンタ)の結成で合意,シエラマエストラ宣言とほぼおなじ内容からなる「統一のための宣言」を発表しました.シエラ宣言の曖昧さが逆手にとられたわけです.
 米当局はこの会議がさらに「臨時政府」などに進展するなら国外追放すると警告します.しかしそれは形式的なものに過ぎず,むしろ反権力の代表としてのプリオに箔をつけるようなものでした.

 

・カストロ,マイアミ協定を拒否

 この宣言は20日までカストロには知らされないままに終わりました.先ほど述べたように,勢力範囲を拡大しようとした矢先に政府軍の手強い反撃にあい右往左往していた最中だったからです.知らせを聞いたフィデルはいったんは激怒しますがそのあとじっくり考え込みます.4

 12月14日フィデルは沈黙を破ります.かれは解放委員会に書簡を送ります.この書簡のなかで彼はまず第一に,マイアミ協定に対し自分は一切関与していないし相談すら受けていないと断言します.これでM26からの参加者の正統性は喪失します.

 彼は第二に,シエラ宣言は統一の基礎であって統一そのものではないと述べます.しかし書簡はそれ以上はこの問題に触れません.人民的政策課題の提起は慎重に避けられています.囲碁でいう「利かし」です.5

 ついで彼は第三の論拠を示すことによりはっきりとマイアミ協定に反対の意志を表明します.すなわちあらゆる形の軍事評議会,一切の形での軍の参加を拒否するということです.彼我をへだてる基準としてバチスタ軍の徹底的解体という基準が提起されたのです.

 この基準を軸足にしながらカストロは強力な逆ネジを食わせます.現在のたたかいは改革や改良ではなく暴力装置をふくむ権力の移動,すなわち革命であるということです.この基準を統一の基準として承認するかどうかをマイアミ協定の参加者に反問したわけです.同時に反乱軍は解放後には政治に関与しないと約することによって,民主主義社会における軍隊のあるべき姿を提起したのです.実に見事な「捌き」です.亡命政治家連中の不毛の政策論争に巻き込まれず彼らの最大の弱点を鋭くえぐる戦術は,彼の政治的天才ぶりを示したものです.6

 

・PSPの姿勢に変化

 「改革ではなく革命を」というフィデルの路線が明確になったいま,PSPはいまいちどM26への評価を迫られます.すでに9月コミンフォルムのスピーカーである米国共産党は,PSPに対し「解放闘争への熱意が不足している」と批判しています.年をまたぐ議論の結果ロドリゲス全国委員,マリネーリョ議長,ブラボ社青同書記らの共闘派がついにエスカランテ書記長代行,オルドキ書記らの慎重派をしのぎ優位を占めるようになります.

 この時ブラス・ロカ書記長が亡命から戻ってきます.彼は中国に亡命していたことからモスクワに対し一定の自立した姿勢を持っていました.カストロに対してどういう態度をとるかで賛否相半ばしていたPSPは,ブラス・ロカの意向を受けM26との共闘路線に踏み切ります.全国委員会は「(M26の)農村における武装闘争と(市民抵抗の)都会における市民闘争を支持する」と声明し,国際学連議長の経験を持つリバルタらをシエラに派遣します.

 どうして一気に事大主義的になってしまうのか,小判鮫みたいな生き方しかできないのか,そこが不思議ですが,とにかくPSPはM26を次代を担う勢力と認定することになります.さらにオリエンテやラスビリャスなど党の影響の強いところでは武装行動隊を積極的に組織し始めます.

 

B.四月ゼネストへ

(1)57年暮れから58年初めにかけての政治状況

・亡命者の反バチスタ活動

 

 

 逮捕直前に演説するプリオ

 

 このころ都市部とくにハバナでの反バチスタ活動はほぼ完璧に抑えられてしまいます.アルマンド・アルト,ハビエル・パソスら地下運動幹部がつぎつぎに逮捕されました.カストロは都市部での無謀な破壊活動を抑えるよう指示しますがかえって活動家の反発を招きます.DRの生き残りたちは「多くの反バチスタ戦士は都市部にいるのであり,シエラマエストラが単独で革命を成就することなどできはしない」と反論,剣呑な状況となります.

 国内での絶望的な状況に対し米国では反バチスタ闘争が米国人も巻き込んで拡大していきます.米政府にしてみれば同盟国の政府を危機に陥れるような運動は容認できません.ひいては米州諸国の相互安全保障体制を脅かすものになるからです.この時期国務省はとにかく次の選挙まではバチスタにやらせること,そのためにはプリオの動きを少し抑えるように考えていました.この時点ではカストロは少々厄介なロビンフッドくらいにしか考えられていません(ウィーランド・メモ).

 連邦大陪審はプリオら8人のキューバ人を中立法侵犯で起訴しました.プリオはマイアミ警察に出頭したうえ逮捕されます.プリオは手錠をはめられたまま警察から拘置所まで大通りを歩かされました.それを大勢の支持者が見守ります.まるでゴルゴタの丘に引き立てられるキリストです.これでは弾圧どころか殉教者を作り信仰に拍車をかけるようなものです.

 案の定上院外交委でもプリオ逮捕をめぐり議論が沸騰します.民主党のマンスフィールド議員らは「暴力的に政権を奪った人物が暴力的に国民を支配するために米国の武器を利用しているのに,そちらを支援し,合法性回復のためたたかう元大統領を投獄するとはなにごとか?」と噛みつきました.政府は「バチスタは54年に合法的に選ばれた大統領だ」と応えますが,これにたいしマンスフィールドは「その選挙がマヤカシでないというならソ連も合法的であり支援しなければならなくなる」と切り返すのです.

 

・米国内運動とゲリラ闘争との連携強化

 運動の盛り上がりはM26の権威の高まりと平行していました.なぜなら援助をすべき対象が当面シエラマエストラのゲリラしかなくなっていたからです.M26は米国での代表組織として4人委員会を結成.ジェレーナ委員長の他フランキ,レスター・ロドリゲス,ラウル・チバスが任命されます.ニューヨークではプリオ派の牛耳る解放委員会に対抗してM26を支援する「亡命者委員会」が発足,活発な活動を開始します.

 この時期のカストロは状況を判断して左翼的な言動は慎重に避けていました.たとえばルック誌との会見ではカストロは自由選挙と市場経済を断固擁護します.ゲリラが共産主義者ではないかとの問いに対しては「PSPはわれわれよりもバチスタに親密感を持っているようだ」とはぐらかしたうえ,「われわれの革命は政治的というより道徳的なもの」と保守層の喜びそうな言葉を連ねます.そのうえで「あなたがたの送る武器は西半球の安全を守るためではなく,無抵抗の市民を虐殺するために用いられている」と警告するのです.

 解放闘争勝利のため米国内のキューバ人の活動は決定的重要性を持っています.それは第一次独立戦争以来百年間ずっとそうでした.

 58年の前半米国内活動は大きく変貌します.まず最大の変化はその戦闘化でした.一般的な反バチスタというにとどまらず具体的に武器の確保や財政援助,ゲリラ兵士のリクルートが行われるようになりました.

 第二は大量の亡命者の流入に伴って運動が国内の闘いと完全に連動するようになったことです.国内反対派の諸潮流がそのまま米国内に持ち込まれ,ヘゲモニーをめぐる競争が展開されました.そしてこの期間にシエラ派の優越性が確立したのです.

 第三に,これは米国内反バチスタ運動の最大の成果ですが,米国のバチスタへの武器引き渡しを中止させたということです.この闘いは,ワシントンのキューバ大使館の駐在武官付き秘書が,武器輸出の情報を亡命者委員会に流したことからはじまりました.M26の組織したピケ隊がニューヨークの埠頭にピケをはります.キューバ陸軍向けM1ライフル2千挺を積んだ船の出港を阻止するためです.

 連日のマスコミ報道を前に国務省は急遽M1ライフルの輸出を停止しました.影響はそれにとどまりませんでした.かねてからバチスタの独断専行に危険を感じていた国務省は,キューバ政府が自由選挙への条件を作り上げなかったことを理由に「キューバへの武器輸出のすべてを停止する」と通告します.

 もともと米国の軍事援助は相互援助協定にもとづくものであり,「西半球を共産主義の手から守る」ためにのみ使用目的を限定されていました.しかしバチスタは反政府運動をすべて「アカの仕業」とするフィクションのもとに,これらの兵器を人民の闘争を弾圧するために用い,米国は事実上これを黙認していたのです.

 この国務省決定も実際には米国民向けのポーズに過ぎず,その後もグアンタナモ基地を経由しての武器の横流し,シエラマエストラ空爆のための基地の提供,場合によっては米軍機がみずから解放区を爆撃したりと破壊活動は続いていきます.しかしそれにしてもこの声明はバチスタ政権の合法性に疑問符をつけたわけですから影響は甚大なものがありました.

 さらに亡命委員会は世間をアッと驚かすことをやってのけます.コスタリカ経由でシエラへの軍事物資空輸に成功したのです.パイロットをつとめたウンベルト・マトスはそのままシエラに留まり闘いに加わっていきます.7

 

(2)バチスタの変身と情勢の緊迫

・選挙のポーズとタンキスタの横車

 完全に反対派押さえ込みに成功したと見たのかバチスタは和解のポーズを取るようになります.1月末バチスタは大統領選挙を実施すると発表しました.そしてオリエンテを除く全州で公民権を復活し,反対党の立起と候補者活動を認めることになります.その裏には兵器援助を餌にした米国務省の圧力がありました.キューバ政府が反政府勢力の活動を容認するのと引き替えにダレス国務長官は兵器輸出の再開を許可したのです.

 75才のグラウがまず手を挙げました.「選挙を通じた平和的な方法で祖国の回復を図る」と立起を表明したのです.カストロも選挙が茶番に過ぎないことは承知していますが,都市での合法闘争の枠が拡大されること自体には反対ではありません.声明の中で「もし政府軍がオリエンテ州から引き揚げて政治犯に恩赦を与えるなら,M26はウルティアを推し立てて選挙に参加するだろう」との態度を明らかにします.

 この自由化宣言は八方手詰まりとなっていたキューバの政治状況を大きく変化させる可能性を秘めていました.各政治勢力は一斉に色めき立ちます.しかしやっと国内の緊張が解けようとしたとき,なんとバチスタ自身がこの路線を破棄してしまうのです.3月12日突如政府は憲法上の権利(表現の自由,集会の自由,運動の自由)を停止すると発表します.部分恩赦も停止されました.検閲制も復活されました.

 反対派に対する弾圧はむしろ1月以前よりも強化されます.中道派や穏健派までが追及の対象となりました.バチスタはクーデター以来何度か硬軟両様の路線を使い分けてきましたが今度ばかりはさっぱり訳が分かりません.このときの錯乱的方針転換が結局彼の命取りになったようです.
 後から分かったことですが,この唐突な方針変更はタンキスタのミニ・クーデターの結果でした.タンキスタというのはクーデターの実行部隊として威勢を誇った戦車師団の幹部のことです.彼らは政権閣僚の弱腰に我慢ならず外交・内政にまで横車を押しはじめたのです.

 閣僚の多くが辞任を迫られました.タンキスタに抗議しみずから辞任したものもいます.バチスタ=タンキスタへの反感は中間層にとどまらなくなりました.いわゆるエスタブリッシュメントとみなされる階層にまで反バチスタの動きが広がります.バチスタは選挙を11月3日まで延期すると発表します.

 反バチスタの急先鋒となったのがハバナ弁護士協会の呼びかけによる公開状運動です.ときの弁護士会会長ミロ・カルドナはバチスタ退陣を求める公開状を準備し各界に賛同を求めました.これに応じ法律家,建築家,公認会計士,歯科医,電気技師,社会福祉関係者,英国人教師,獣医など45の全国組織が連名でバチスタ退陣を求めます.

 政府はこの公開状に暴力を以て応えます.ハバナ弁護士協会の幹部44人に対して「ハンティング」が開始されました.ミロ・カルドナは官憲に執幼に追われ,地下を逃げまわったあげく,危機一髪追手を逃れ,米国に亡命することになります.

 

・M26,ゼネストを提起

 

 

左からラウル、フアン・アルメイダ、フィデル、バルデス,シロ・レドンド

 

 この時点でカストロらとファウスティノ・ペレスら全国指導部が会談.現下の情勢をあらためて分析し闘争方針について討議します.そこで合意された「最終的攻撃の戦略」は「軍事行動に支援された革命的な全面スト」というものでした.

 2月末シエラマエストラは小規模ながらラジオ放送を開始します.第一声では「このラジオ・レベルデ(反逆者)が,ホセ・マルティを受け継ぐものたちが,第二次独立戦争開始から63年になるこの日放送を開始する」と宣言します.まもなくそのラジオ・レベルデが「M26から人民への宣言」を放送します.このゼネスト宣言は,労働者は全国労働者戦線に一般市民は市民抵抗運動に学生は全国学生戦線に結集し,「暴政にたいする全面戦争」に立ち上がれと呼びかけます

 キューバ中が蜂の巣をつついたような騒ぎになりました.M26によるゼネストの呼びかけはキューバ全土で熱狂的に迎えいれられます.これまでのさまざまな組織の活動が一気にM26のイニシアチブの下に統合されていきます.

 騒然とした状況のなかでゼネスト準備は進みます.PSPはスト参加を宣言,真正党やDRもゼネスト支持を表明します.多くの組合が総同盟中央の絞めつけを拒否しストへの参加を決定して行きます.

 シエラのゲリラ達もゼネスト支援のため戦線を拡大します.アルメイダの第3部隊とラウルの第4部隊は3月はじめトゥルキノを出発,山づたいにサン・ロレンソ南方まで進出します.ここで両隊は分離します.第4部隊は国道を横断しオリエンテ州東北部のシエラ・クリスタルに向かいました.ここで根拠地を形成した部隊はあらためてフランク・パイス名称東部第二戦線と命名されます.8

  いっぽうアルメイダはサンチアゴに接するシエラマエストラ東端のエル・コブレ地区に潜入し撹乱作戦を展開します.このアルメイダの部隊もやがてマリオ・ムニョスの名を冠した東部第三戦線を形成するようになります.なおゲバラが指揮する第4戦線というのもありましたが,これは先に述べたようにモスケラに蹴散らされ壊滅したゲリラ戦初期の部隊で,第4と名付けたのはすこしでもゲリラの規模を大きく見せたいためのカモフラージュだったのでした.

 さらにカミロのひきいる第二部隊がバヤモ平原に進出し撹乱作戦を展開します.オンブリートでバツイチとなったチェの部隊はその後方支援にまわります.

 

(3)ゼネスト決行と敗北

・ゼネスト計画の暴走

 しかし準備が進むにつれ深刻な矛盾が発生します.ひとつは「軍事行動に支援された革命的な全面スト」と位置づけたのに肝腎の武器がなく,戦闘部隊も弾圧のなかで消耗していたことです.米国からの武器の秘密輸送も沿岸警備隊の警備強化によりほとんどが摘発されてしまいます.都市ゲリラ「民兵隊」の指揮官ルネ・ラモスは「オリエンテ以外ではゲリラは著しく弱体化しており,このままでゼネストに突入すれば重大な犠牲を払うことになる」とカストロに警告するほどでした.

 もうひとつは「全面スト」のとらえ方が陣営内で決定的に食い違っていたことです.労働者・市民は純粋なストライキと受けとっていました.シエラの幹部も多少の小競り合いはあるにせよ基本的には一種の示威行動と考えていました.しかし全国指導部(平原派)幹部はこれを武装蜂起→市街戦→拠点占拠→という流れの中に位置づけていたのです.

 フィデルは,ゼネストと位置づける以上労働戦線の最大の戦闘部隊であるPSPとの共闘関係を最大限追求するよう提言しますが,平原派はこれに耳を貸そうともしません.むしろ平原派にとってPSPは打倒すべき対象となっていたのです.

 あいつぐ補給作戦の失敗に直面したため3月31日という当初の予定は延期されました.さらに作戦そのものを中止しようという意見も出ましたが,全国指導部派は断固実行という主張を貫きます.こうして4月9日ゼネスト開始の線で合意,あらためて「国民へのゼネスト参加呼びかけ」が発表されました.

 

・ゼネストとその惨敗

 こういう状況の下でついにゼネストは決行されたのでした.ラジオ・レベルデは8日午前11時を期して職場放棄を呼びかけます.同時に武装集団2千人がハバナ地域の戦略拠点に一斉に襲撃をかけます.ハバナを初め全土でゼネストが開始されます.

 しかし勝敗の帰趨は闘う前から明らかでした.ゼネストの5日前にはハバナ近郊のM26アジトが国家警察により急襲され,トラック2台分の武器が押収されました.バチスタは非常事態宣言を発し司法権の独立を停止します.ゼネスト参加者は厳罰に処せられ,営業を休む経営者は収監すると予告されます.武装蜂起の条件はすでに失われていたのです.当初共闘の意志を表明していたプリオ派とトリプルAはゼネスト前日の作戦会議で参加を拒否するに至ります.DRとPSPは一応参加の意志表示はしますが本心ではこんな無謀な計画に活動家をつっこむ気はありません.
 ゼネストという名の蜂起はみじめな失敗に終わりました.ストの拠点はただちに官憲により占拠されます.政府はさっそく活動家摘発に乗り出しました.ハバナだけでも弾圧により92人が虐殺されたといわれます.ベダド地区ではM26と軍との銃撃戦となり指導者マルセロ・サラドが衆人監視下に虐殺されます.9

 結局のところこのゼネストで目に見える成果をあげたのはシエラの髭面たち(バルブードス)だけでした.10ラウルの部隊はロマ・ブランカの町を攻撃,一時は市内を制圧します.アルメイダ部隊もエル・コブレ,ドス・パルマスなどで蜂起します.さらに部隊の一部はサンチアゴと目と鼻の先サンフアンの丘まで進出し前進基地を確保します.

 

・ゼネスト総括をめぐるシエラ派と平原派の対立

 4月ゼネスト失敗の総括は誰もがあまり触れたくない話題のようです.さまざまな本を読んでもはっきりした結論はないようです.

 問題は全国指導部派の評価にあります.彼らはシエラに立てこもったゲリラに対して平原(リャノ)派と呼ばれました.彼らはおなじM26を名乗りながらもかなり異なった路線をとるようになっていました.その源流はフランク・パイスが死の直前カストロに対し述べた異議申し立てにありました.

 平原派の指導者ファウスティノはグランマ号の生き残りの一人です.トゥルキノに第一の根拠地が形成されたあと,かれは都市部にフロント組織をつくる使命をおびてシエラを離れます.ハバナに潜入したファウスティノはやがてM26に属するさまざまな組織のトップに上り詰めます.

 まず第一に先ほども触れたM26民兵団があります.もともとサンチアゴ中心の組織だったのが抵抗運動の展開にともないハバナでの比重がまして行きました.それとともにゲリラのリクルートとフロント組織の防衛という当初の任務から離れ都市ゲリラとしての色彩を強めていきます.なかでも58年2月当時ハバナ滞在中の有名なアルゼンチンの自動車レーサーを誘拐,2日後に無償で解放した行動は世間の注目をおおいに集めたものです.

 第二の組織は全国労働戦線です.元PSPのサルバドルが指導する労働戦線は,分裂主義と武力挑発的な方針をうちだし各地でPSP系活動家と衝突していきます.

 第三の組織が市民抵抗運動です.正統党の抵抗組織として結成されたこの運動は事実上M26のフロント組織として機能するようになります.マヌエル・ライが指導するこの組織はブルジョア層まで巻きこんだ広範な支援組織として一定の役割を果たしますが,集めた肝腎の資金がシエラには回らず民兵団の行動資金として流用されるなど相当危険な傾向におちいってきます.

 これらの分散主義的傾向をもってリャノ派を断罪するのは酷なところがあります.たたかいの高揚はシエラ派の思惑をはるかに越えて進んでいたのです.みずから闘おうとする青年たちにひたすらシエラのためにと要求するなら,それは角を矯めて牛を殺す結果になりかねません.

 彼らの過ちは分散主義一般にあるのではなく,みずからの組織をシエラ派と対等の関係に擬し「プチブルに特徴的な一揆的,冒険主義的,絶望的な試み」に陥っていったことにあります.彼らの思いからすればハバナこそ中心であり先進派であり,シエラ派はオリエンテという後進県の自己埋没的な集団でしかないかも知れません.しかし他派の崩壊とカストロに率いられたM26の権威の確立という厳然たる事実を見れば,山岳ゲリラの維持・増大こそが常に戦略の基本に座るべきという結論は動かしようがありません.

 情勢との関連でいえば,当時のキューバは56年の世界的不況をのりきり相対的好況期に入りつつありました.ホテルの建設ラッシュが続きました.現在なおキューバ最大のホテルであるハバナ・ヒルトンがオープンしたのもこの頃のことです.現在はハバナ・リブレと呼ばれるこのホテルは,ジアンカーナをボスとするシカゴマフィアが総力を挙げてつくりあげたものでした.11

 さらにバチスタの弾圧機構も有効に働いていました.情報管制のもとで大多数のハバナ市民は政治的無関心の状態におかれ,反政府運動といえば遠くはなれたオリエンテやマイアミのものと考えられていました.このような力関係のもとでゼネストを行うのなら,その獲得目標はハバナ市内での合法的な運動の舞台と地下活動の余地を確保することでしょう.であればそのための戦術は,多少の自衛的な武力行使はともなったにせよ,基本的には非暴力的な形態とすべきだったのではないでしょうか.

 

C.シエラ・マエストラ攻防戦

(1)シエラ侵攻開始

・全戦線のカストロへの一元化

 5月3日シエラマエストラの山中アルトス・デ・モンピエのとある農家で,ゼネスト総括をめぐる会議がおこなわれました.総括というより平原派に対する審問といったほうが正確かも知れません.もはや思想的にも実践的にも相互批判というには余りにもかけ離れていました.カストロが「やってはいけない,少なくとも限定的に使用されなければならない」と主張していたテロや破壊活動が,ほとんど平原派の活動の自己目的となっていたのです.

 しかしシエラ派の批判の重点は必ずしもそこにあったのではありません.シエラ派の主張のうち重要なのは,リャノ派の最大の過ちがゼネストにあたりPSPと有効な協力をおこなわなかったことにあるという点です.そこではすでに戦闘的労働者との統一戦線が革命成功の環であるということが前提とされています.ここが総括の核心です.

 この会談を期に平原派の権威は消失します.フィデルは全国指導部の書記長となり同時に民兵隊をふくめた革命軍の総司令官となります.ここにおいて革命運動の政治・軍事指導が一元化されることになります.同時にアイデーが米国に派遣されました.彼女は亡命者委員会のジェレーナ議長を平原派責任者の一人として査問の上更迭します.みずから議長に座ったアイデーは,シエラへの援助の流れを一元化するため組織の統合に乗り出します.

 残念ながら,平原派の失敗をたんに戦術としてではなく戦略の問題として総括していく時間的余裕はありませんでした.バチスタ軍がすぐそこまで迫ってきていたからです.平原派が首都ハバナを中心に展開したさまざまな行動のなかのすぐれた経験は教訓化されず,分散主義の典型として一方的な批判の対象でしかなくなってしまいました.都市青年のたぎるような情熱をどう汲みつくすかという課題は等閑視され,パイスの提起した問題は忘れ去られ,唯軍事論的な路線にすべてが収斂してしまうことになりました.この唯軍事論的立場がのちにフォコ理論となって結実していきます.

 

・「フィデルの最期」作戦

 ゼネスト鎮圧に成功したバチスタは政権の維持にあらためて意欲を燃やします.そのための最大の敵シエラの部隊に対し「FF作戦」と呼ばれる大掃討作戦を発動します.FFとは「フィデルのフィナーレ」の頭文字です.

 カンティーヨ将軍を指揮官とし14大隊と七つの中隊あわせて1万2千の兵が動員されました.なんと総兵力の3分の1にあたる勢力がわずか五百人のゲリラ相手に投入されたのです.

 アルト・デ・モンピエの総括会議がいよいよ核心に迫ろうとした7日たたかいの前哨戦が始まりました.アルメイダの部隊が確保していたサンフアンの前進基地が1時間にわたり政府軍機の猛爆にさらされるのです.

 フィデルの判断はあらかじめこの日を予想したように敏速でした.ラウルの部隊はそのまま現地に残しアルメイダの部隊をすべてトゥルキノ山に召還します.ラプラタ川上流の根拠地に本部,ラジオ・レベルデ,野戦病院が設置され,山腹には30キロにわたる防衛線が構築されました.

 5月27日ついに政府軍の攻撃が開始されました.この日トゥルキノ山北麓のブエイシト鉱山とラス・メルセデスが同時攻撃されます.ラス・メルセデスの守備隊はわずか14名でしたが,戦車と飛行機に守られた敵の攻撃を30時間,足掛け3日にわたり耐え抜きます.ブエイシトのモスケラ部隊もゲリラの激しい抵抗にあいました.

 ゲリラの意外な手強さに政府軍はいったん地上軍の侵攻を停止,30日にはB26爆撃機が10時間にわたりラプラタ一帯を爆撃します.政府はゲリラに壊滅的打撃を与えたと発表しますが,ラジオ・レベルデはそれをあざわらうかのように健在ぶりを放送しつづけます.シエラの抵抗と呼応して都市での爆弾テロ,ラスビリャスでのDRゲリラの行動も活発化します.

 さらにシエラ・クリスタルのラウルの部隊にも猛爆が加えられます.これらの爆撃機は米国から密かに供与されたナパーム弾やロケット弾を搭載してグアンタナモ基地から飛び立っていたのです.ラウルは「このような犯罪は全世界に暴露されなければならない」ときびしく糾弾します.

 

・政府軍,怒涛の進攻

 政府軍は空爆で威嚇しつつ侵入部隊を整備,南方海岸にも部隊配置を完了します.シエラ・クリスタルに配置された部隊さえもトゥルキノに転属されます.カストロはカミロの第二部隊,ラミロ・バルデスの第4部隊,クレセンシオの第7部隊にも緊急帰投を命じ,予想される敵の侵入路に配置します.6月19日政府軍はトゥルキノ山の包囲が完了したと発表,沢伝いに四方八方から侵攻を開始しました.

 今度は飛行機の強力な火力を先行させながらの侵攻で,対空砲火を持たないゲリラ側の抵抗を困難に追いやります.とりわけシエラでの経験豊富なモスケラの部隊は破竹の勢いで進撃,ヤラ川流域からパルマ・モチャの峠を越えてラプラタ川上流域に達します.

 ここに前進拠点を設営したモスケラは25日いよいよ登坂を開始,ゲリラ軍本部から歩いて4時間のラス・ベガスを落としサンロレンソの高台までのぼります.このときケベド少佐の第18師団はナランハルを確保,スアレス・スーレ少佐の第19師団はメリーニョを確保し包囲網をせばめます.

 28日にはゲリラ280名が幅7キロ徒歩で2時間の範囲に包囲されてしまいます.フィデルは本部の放棄を決意し部隊をジャングルのなかに分散します.いまや反乱軍は風前のともしびとなりました.

 

・サントドミンゴとヒグエの戦闘

 このとき劇的なサントドミンゴの戦闘が起こります.29日三個中隊よりなる第22師団がモスケラ軍支援のためサントドミンゴ兵営を出発,ヤラ川沿いに北上していきます.密林にしのんでいたフィデルの一隊はまず第一中隊を地雷で混乱させます.ついで救援に来た第二中隊にたいし狙撃を加え動きを止めます.この間に別動隊が戦況の分からない第三中隊を側面攻撃しました.第三中隊は死者50名を出し算を乱して逃走します.この戦闘でゲリラは敵兵30人を捕虜とし6万発の弾薬を手に入れました.さらにモスケラの派遣した救援部隊にも攻撃がくわえられます.孤立の危機に陥ったモスケラ軍はいったん攻撃を中止し山麓のキャンプまで撤退していきます.

 このあと2ヶ月近くにわたりシエラ山中で激戦が繰り返されます.なかでも勝敗の分岐点となったのがヒグエのたたかいでした.7月10日ケベド少佐の指揮する第18師団二百五十人がヒグエ川とラプラタ川の合流地点に野営していました.ゲリラはたくみな戦線移動により部隊を包囲することに成功します.

 その後72時間にらみ合いが続きます.カストロはラウドスピーカーで「兵士たちよ人民の側に立て.正義と民主主義のために戦え.前線に立たず豪邸で私腹を肥やす者の指示に従う必要はない」と訴えます.

 14日,糧食のつきたケベドは後方との連絡をもとめ一個中隊を海岸方面に進出させました.しかしそれはゲリラの格好の餌食となりました.多数の武器がろ獲され兵はキャンプに逃げ帰ります.15日,16日と激しい空襲が続きました.機銃掃射と500ポンド爆弾にくわえナパーム弾まで使った攻撃が繰り返されます.

 17日早朝政府軍は海岸に上陸した部隊にケベド救援を命じます.航空機に援護された歩兵1個中隊がラプラタ河口から前進を開始しました.午後2時この中隊をゲリラの待ち伏せ攻撃が襲います.あっという間に先頭の2小隊が壊滅,12人の死者と24の捕虜を残し潰走していきます.

 もはや猶予はなりません.ケベドの部隊はすでに1週間食料なしでがんばっています.政府軍は19日再度突破を図ります.今度は重砲と艦砲,航空機に援護された重装備の部隊です.迎撃戦はマル24時間続きました.そして翌日,ゲリラはアンドレス・クエバス他3人の犠牲者を出しながらもついに撃退に成功したのです.信じられないような勝利です.

 21日午前1時第18師団は降伏を受諾しました.将校,兵士あわせ146名がゲリラに降服,ゲリラは11日間にわたる空襲に耐えながらの激戦を勝ち抜くことに成功しました.

 ケベドは実はハバナ大学でカストロの学友でした.彼はそのまま反乱軍本部に残留し政府軍を相手に闘うことになります.そして部下にも「軍のもっとも基本的な任務は祖国の永遠の利益のため戦うことだ」と反乱軍に加わって戦うよう呼びかけます.

 

(2)フィデル,シエラ確保に成功

・ゲリラのあいつぐ勝利

 サントドミンゴが政府軍の圧倒的優勢を抑える転機だったとすれば,ヒグエの闘いは両者のバランスがゲリラ優位に傾く転機でした.そしてサントドミンゴでの二回目の闘いはゲリラの決定的優位を確立する転機となりました.

 7月29日,カストロ指揮の第一部隊はモスケラ中佐の最精鋭部隊とサント・ドミンゴで決戦を挑みます.勢いに乗るゲリラ軍は敵千名をせん滅し4百名を捕らえ敵軍に壊滅的打撃をあたえました.この戦闘で政府軍のシンボルともいうべきモスケラが頭に重傷を負い撤退していきます.

 この間にチェ・ゲバラとシエンフエゴスの率いる部隊がラス・ベガスを奪還,この闘いでも敵兵百名以上を捕虜とします.グラハレス(マセオの母)の名を冠した女性部隊も闘いに参加,大いに戦功を上げます.

 最後の決戦となったのがラス・メルセデス奪回作戦です.これは反乱軍にとってももっとも凄絶な闘いとなりました.全部隊が総掛かりで攻撃に参加し空前の激戦ののちついに奪還に成功します.この戦闘で政府軍千人以上に出血を与えましたが,ゲリラ側にも死者27名,負傷者50名を出したといいます.

 これでシエラマエストラから政府軍は一掃されました.政府軍はハリケーンに伴う悪天候もあり作戦続行を断念します.じつにこの76日間で6回の決戦(サントドミンゴ,メリーニョ,ヒグエ,第二次サントドミンゴ,ラスベガス,ラス・メルセデス)をふくめ30回の戦闘がおこなわれました.FF作戦の失敗により軍は完全に意気沮喪,上層部のあいだではバチスタに代わる政権が検討され始めます.

 

・ラウルの米国人人質事件

 ゲリラのもう一つの舞台シエラ・クリスタルではどうだったでしょうか.ここはトゥルキノ山ほどの山岳地帯ではありません.むしろ砂糖農園と牧場が入り組んだ丘陵地帯といった方が正確かも知れません.その中にメディオ,ロマ・ブランカ,マヤリ・アリバなどの拠点が点在していました.第二戦線の司令部はマヤリ・アリバに設置されていました.部隊はそれぞれの地区に支配区を形成,その結果として戦争終結までに千2百名の部隊が育っていったのです.

 6月に入って政府軍はラウルの部隊へも攻撃を開始しました.地上軍の攻撃こそトゥルキノほどではなかったにせよ,ナパーム弾やロケット弾による爆撃は深刻な被害を与えます.

 グアンタナモ米軍基地が爆撃のための基地となっているという情報が入りました.ラウルは空爆を中止させるため米国人誘拐作戦を開始しました.手始めに米資本経営のモア湾鉱業会社を襲い米国人10人とカナダ人2人を人質とします.ついでグアンタナモ基地付近で海兵,水兵あわせて28名の乗ったバスを拉致するという大胆な行動に出ます.その他にも誘拐作戦が実行され人質は合計50名に達しました.ラウルはその上で「米国製武器を装備した空軍が民間人を爆撃し続けるかぎり人質を留置する」と声明します.

 この作戦には三つの狙いが含まれていました.まず何よりも米国民の耳目を衝動し無差別爆撃の事実を宣伝することです.ついで米国との交渉により有利な条件を引き出すことです.そしてそれらすべてがダメなら彼らを盾として心中することです.

 

・事件へのフィデルと米国の対応

 

 

ウォーラム領事と会見するラウル

 

 これに対するスミス大使の応答は信じられないほどのピンボケぶりでした.「48時間以内に人質を解放しなければ『あらゆる可能な手段』をとるための許可をキューバ当局にもとめる」という「最後通告」を発表したのです.現にこの瞬間「あらゆる可能な手段」がとられている状況をどう把握していたのでしょうか.

 サンチアゴ領事館ははるかに敏速でした.ただちに政府軍幹部と面接し人質解放までは空襲を中止するよう「要請」します.軍部は圧力に屈し爆撃中止に同意しますが,バチスタの裏切りを警戒したウォーラム領事はみずから現地交渉に赴きます.この辺の皮膚感覚と決断力はさすがのものです.

 ウォーラムと会見したラウルは人質5人の解放と交換に・米政府のバチスタへの支援の停止,・グアンタナモ基地のバチスタ軍への提供の停止,・ゲリラに対するなんらかのかたちでの「理解」を示すようもとめました.米国内の世論が干渉反対に動くか反ゲリラに動くか,きわめて危険な賭けでした.翌日アイクは「囚われた米国人を無事に取り返すことがいちばんの目標であり無謀な行動はしない」と語ります.

  同じ日フィデルはラジオ・レベルデを通じて「恥知らずな爆撃を支援しているのは米政府であって一般市民ではない」とラウルを非難,ただちに捕虜を釈放するよう指示しました.米国内マスコミの報道はゲリラ批判一色です.

 12日になって民間人人質がすべて解放されました.しかし軍関係者は引き続き拘留されます.遅れる人質解放に危険を感じたフィデルは,激戦の中わざわざ人を割いてシエラクリスタルまで伝令を派遣,軍関係者をふくめすべての人質の即時解放を指示します.

 フィデルの強硬姿勢はただの芝居ではなかったようです.おそらくフランキなど米国通の助言を受けての判断だったと思います.さらにサンチアゴ領事館が全体として親ゲリラの線で動いていたことも影響していたでしょう.あまり公にはなっていませんが,サンチアゴ領事館のCIA責任者ウィーチャは,アイデーを通じてゲリラと太いパイプを持っていたとされます.

 18日軍関係者もふくめすべての人質が解放されました.結果として三週間にわたり空爆は大きく制限されました.シエラでのゲリラの英雄的な闘いが米国内で大々的に報道されることになりました.フィデルの理性的な態度が好感を持って迎えられました.作戦は大成功に終わったといえるでしょう.

 一方においてバチスタに固執するスミス大使の権威は地に落ちました.交渉の一切の経過においてスミスは完璧に無視されました.以後バチスタを「第三勢力」と交代させようとする国務省=CIAとバチスタ体制をあくまでも守ろうとする軍部,現地大使館とのあつれきが激化していきます.CIAはラウルが提起した三番目の条件である「ゲリラに対する何らかの理解」を形に表します.シエラへの援助物資投下作戦が開始されたのです.

 このへんの米国の動きを読み取りながらの硬軟の手段の使い分けは,まさしく刃の上をわたるような緊迫感を感じます.このような微妙な判断を状況に応じてすばやく的確におこなうためには,指揮系統の統一がどうしても必要だと痛感する事件でした.

 


1 サンチアゴの米領事館は明らかにゲリラに肩入れしていたようです.もちろん伝統的外交手段として対立勢力にも保険を掛けておくという程度のものですが,とくに館員の御夫人連中は熱狂的だったといわれます.スミス歓迎集会事件も現地のCIAが仕組んだのではないかという説もあります.

2 都市住民にとってはむしろ民兵団こそがM26を代表する組織でした.ハバナ,サンチアゴを中心に革命成立までの2年間にナイトクラブ,官庁,米国系企業などへの爆弾テロ百件,火器による襲撃3百件を実行したといいますから,相当荒っぽい連中です.これらの活動は本来フィデルの戒める類のものです.

3 これはパソス自身の証言ですが,一説ではパソスとプリオらのあいだに密約がかわされ,パソスが首班となることで合意されていたといいます.なかなか油断がならないものです.

4 私の見るところフィデルは生涯に二度コペルニクス的大転回をしています.ひとつがこのときで,もう一つが68年の3月から8月にかけてです.二つに共通する外見的特徴は(1)決断に数十日を要していること,(2)誰の助けも借りていないこと,(3)決断に際して一切の言い訳がないこと,などです.

5 実は政策に関しては,カストロはすでに一定の見解を発表しています.コスタリカで発行されているM26機関紙「クーバ・リブレ」の11月号に寄稿した彼は,「ユナイテッド・フルーツ社など外国企業が農地の多くを独占する一方,多くの農民が1フィートの土地も持たずに苦しんでいる」と告発します.そしてこの不公平な状態を改善するためたたかうと明言しているのです.また米資本による電力会社と電話会社の接収の方向も示唆しています.

6 なおパターソン著「カストロとの競争」は,キューバ革命を階級闘争の観点からとらえる上で貴重な反面教師の役割を果たしてくれます.パターソンはカストロを権力欲旺盛なはねあがりものと見,プリオとの主導権争いが経過の本質であると考えています.その根底には,この時点でもカストロが依然として正統党左派の立場にとどまっているという見方があるのではないでしょうか.カストロがシエラ入りして以降急速に左翼的立場に移行しているのを見落としているようです.

7 このような大掛かりな計画を立てることができるのは,当然バックがあってのことです.それはカリブ軍団以来の人脈を誇り,来るべき新政権への影響力保持をねらうプリオ元大統領です.空輸作戦成功の影にも,彼の友人であるコスタリカ大統領の黙認があったといわれます.この事件はそういう裏の事情も見たうえで評価しておく必要があります.

8 東部第二戦線結成の理由はいくつか挙げられています.軍事的には島の北岸にアクセスを持ち米国からの武器密輸を容易にすること,グアンタナモ米軍基地の動静を捕らえることなどです.もうひとつはM26内部の左派を国際的配慮に基づいて分離するという政治的理由です.ラウル司令官本人をふくめ67人の初期メンバーの多くは社会主義者だったといわれています.この部隊は戦争終結までに千2百名の部隊に成長していきます.

9 ヌエボ゙ベダド街は市の南西,コロンビア兵営の裏側一帯に広がる労働者地区です.貧しいながらも活気がありいかにも労働者の街だなという感じです.近頃は泥棒やカッパライも多くけっこう物騒なんだそうですが,昼間歩いている限りは,中心街の黒人スラムで感じた突き刺すような視線を感じることはありませんでした.

10 どういう訳かラウルもアルメイダもヒゲが薄く,よれよれの山羊ヒゲしか生えません.二人とも革命後はさっさとヒゲを剃ってしまいました.

11 ハバナ・リブレはハバナの中心部に位置する24階建ての高層建築です.革命後は一時革命軍の本部として使われたこともありました.建築後35年を経た今も当時のモダンさが残っています.メイン・ダイニングも豪華なものですが部屋からの眺めときたらゴージャスの一語につきます.冷えたモヒートを啜りながら夕陽を浴びるモロ要塞とコバルト色の海を眺めていると動けなくなりそうです.

 

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