第三章 ピッグス湾事件

 ピッグス湾事件は米軍がほとんどまったくといっていいほど関与しない戦闘でした.その開始から準備,戦士のリクルート,指揮系統の整備,戦闘の指揮に至るまですべてをCIAが担ったという点できわめて特異な戦闘でした.

 作戦計画はほとんどが地下で秘密裏に進み,現在に至ってもなお多くの不明な点を残しています.少なくとも侵攻事件の直前までは表の世界と関係なく経過しているため,章を別にたててみていきたいと思います.

 

A.キューバ敵視政策への転換

(1)キューバ革命とCIA

・CIAとM26との接触

 いま思えば不思議なことですが,当時CIAはカストロに対して決して敵対的ではありませんでした.友好的だったとはもちろん言えません.しかし58年7月のシエラでの激戦は,CIAの軸足を親バチスタから日和見に変える大きなきっかけになりました.もうバチスタの勝利は望めないという事実,そしてカラカス宣言によりM26が反バチスタ勢力の正統な武装組織として公認されたという事実が条件となりました.

 シエラ攻防戦と前後して,ハバナのエージェントもサンチアゴのエージェントも,M26の地下組織と太いパイプを持つことになります.それらはすべてスミス大使の頭越しにおこなわれました.それは米国にとってあるいはダレス兄弟にとって一種の保険でした.ポスト・バチスタの受け皿となる候補はまずはモンテクリスティであり,あるいはエスカンブライとつながるトニー・バローナであり,もしカストロと切り離せるならウルティアでありました.

 早くも7月末にはCIAによるM26への空輸作戦が開始されました.それは米政府内部での口実としては,ラウルの米国人人質事件で解放の条件とされた内容の実施でした. 8月に起きた事件はバチスタがもはやCIAに見捨てられたことを象徴するものとなります.ゲリラへ武器弾薬を補給するための飛行機がグアンタナモ基地付近に不時着しました.米軍は操縦士を救出しハバナ大使館経由で米国内に護送します.帰国後操縦士はこれまで28回の補給作戦を成功させたと誇らかに声明します.この間キューバ政府はいっさい干渉できませんでした.

 サンチアゴ副領事でCIAの現地責任者ウィーチャは,M26に肩入れする一方,多くの秘密工作員を送り込みます.その代表がフランク・スタージスとディアス・ランスです.二人はマイアミとシエラを結ぶ空輸作戦に携わり大いに評価されます.9月彼らの飛行機が撃墜されました.二人は1カ月にわたる逃避行の末ウィーチャに助け出されます.革命後はランスが空軍司令官,スタージスが閣僚級のギャンブル対策担当官に就任するなど,二人は押しも押されぬ幹部となっていきます.

 当時ニューオリンズでイースタン航空のパイロットをしていた「毛無し」のデビッド・フェリーもCIAの契約情報員としてゲリラへの空輸を担当していたといわれます.

 

・革命成立とCIA

 59年1月革命政府が成立するとCIAはカストロのヘゲモニーを阻止すべく活動を始めます.しかし彼らの努力と正反対にカストロの政治的影響力は増大し,カストロが首相として政治の表舞台に出るようになりました.

 バチスタ亡命を数日後に控えてアレン・ダレスは国家安全保障会議でこう発言しています.「バチスタの辞任は時間の問題であり,カストロが勝利すれば共産主義者の進出は避けられないだろう」

 つまりカストロの勝利もPSPの進出もある程度予想されていたコースだったということです.そこまでは見通していたのですが,カストロの容共あるいは親共的立場に警戒心を持ちつつも,まさかカストロ自身が共産主義者になろうとは考えていなかったのです.

 革命後数カ月を経ずしてCIAはカストロ失脚に向け活動を開始します.それは当時次期大統領と目されたニクソンによって加速されました.ニクソンは訪米したカストロと会見し,ただちにこの男の危険性を見抜きます.J.F.ダレス国務長官が病死したあとアイク政権を牛耳るニクソンとアレンは,ペプシ,スタンダード石油,フォード自動車,ユナイテッド・フルーツなど多国籍企業も巻き込んで,カストロ打倒計画をすすめることになりました.

 国内にはまだ大勢の旧バチスタ派が潜伏していました.かれらは革命勢力の混乱を見てチャンスとばかりに破壊活動を開始します.フィデルははやくも3月はじめ「反革命分子が米国の援助を受け武装組織を準備している」と警告しますが,それが現実になったのは6月9日のことでした.サンチアゴで最初の爆弾テロが発生したのです.警察の捜査により反革命陰謀グループが摘発されます.しかしその後爆弾テロは逆にハバナ,カマグエイへと拡大していきます.なんらかの組織がうしろで糸を引いていると見るしかありません.

 

・マイアミの亡命者社会の成立

 59年7月カストロの政権掌握とともに反カストロ派が続々と米国に亡命してきます.そのほとんどはマイアミに集中し,旧バチスタ派とともに亡命者社会を形成することになりました.彼らは反カストロを標榜するさまざまな政治結社を創設し,国内に残した活動家とともに破壊活動を開始します.8月はじめにはマイアミ空港に滞在中のキューバ機2機が破壊されました.

 なかでももっとも活発なのがドミニカのトルヒーヨと組んだ旧バチスタ派でした.同じくトルヒーヨの援助を受けるエスカンブライのメノヨとのあいだに三角同盟が成立します.旧バチスタ派がマイアミで飛行機をチャーターし武器弾薬を積み込みます.この飛行機はいったんドミニカに向かい,そこで旧バチスタ軍兵士やスペイン人雇い兵を乗せエスカンブライに入ります.CIAも後にこのルートを最重視するようになります.

 当局は反革命の温床となっていたカジノを相次いで押収します.このときハバナ滞在中のギャングの親分トラフィカンテと,ランスキーの弟ジェーク・ランスキーが逮捕されてしまいました.トラフィカンテは米国内で逮捕状が出たためハバナ市内に潜伏していたところを逮捕されてしまったのでした.二人はランスキーなどの努力により,まもなく国外追放という形で解放されます.しかしこの事件で深い恨みを抱いたトラフィカンテは,やがてカストロ暗殺の陰謀の中心人物となっていきます.

 9月にはいるとスタージスがキューバを脱出してきます.スタージスはトラフィカンテ釈放などに絡んで,身元を疑われるようになり逃走したのです.彼は国内に大変な置きみやげを残してきます.カストロの愛人マリア・ロレンツを反カストロ・グループに抱き込んだのです.彼女はサンチアゴのCIA支局と連絡を取りながらカストロ暗殺の指示を待つことになります.

 ハバナには現地責任者としてデビッド・フィリップスが送り込まれました.彼は大使館とは関係を持たず,フィリップス商会なる会社をでっち上げ,近くのベルリッツ会話学校を隠れ蓑に地下人脈づくりを精力的に開始しました.オルトドクソ青年部のアントニオ・ベシアーナもこの時期に徴募されたひとりです.

 

(2)カストロ政権を転覆せよ

・米政府の基本的立場の変化

 59年10月から11月にかけてキューバで相次いで起きた事件は,米政府をして政権転覆の方向に向かわせます.

 この場合米政府の立場は公式なものと非公式なものがありました.

 公式にはキューバの民族主義的態度を共産主義と呼んで非難し,経済封鎖に至るさまざまな圧力をかける行動です.そしてキューバの反カストロ勢力を「自由の戦士」として励まし彼らの勝利を期待する立場です.しかし非公式にはただの「期待」どころの話ではありません.キューバ政府の崩壊に向けあらゆる努力を尽くすことになります.

 非公式な「努力」といっても,いざとなれば開き直れるような半公然の行動と,まったく秘密下に行われるダーティーな行動があります. 国務省はキューバの反対勢力に対し半ば公然と支援を開始し,革命を挫折させるようはたらきかけます.しかしウルティアが大統領を辞任しマトスが捕らえられたあとは,合法的な手段でフィデルの政権を覆す見込みは薄くなりました.そうなるといよいよCIAの出番です.

 12月,大統領直属の国家安全保障会議(NSC)はCIAにたいしてキューバ政権転覆の計画立案を指示します.CIA内にプロジェクト・チームが編成され,リチャード・ビッセル作戦担当副長官が責任者となります.ビッセルは東部エスタブリッシュメント出身で元エール大学教授という出自,ダレス長官の代行を勤めるまでになるCIA生え抜きの逸材です.54年のグアテマラ政府転覆作戦を指揮したのも彼です.この作戦が「成功」したのはビッセルの功績大といわれます.

 ダレス長官はNSCに対し対キューバ作戦をCIAに一任するよう求め了解されます.ビッセルはキング西半球部長をキャップに「40人グループ」を編成し「作戦40」の計画作成にとりかかります.

 

・CIA,キューバ転覆作戦を策定

 「キューバにおいて別の政府に権力を与える」計画が完成し,国家安全保障会議に提出されました.その計画は民主主義政治の復活をめざし独裁者シーザーを暗殺した古代ローマの人物,プルータスの名を冠せられました.あるいは身近な人物による裏切りという意味を含んでいたかも知れません.

 いよいよプルータス作戦に関しての審議が始まります.作戦は三つのステージに分かれます.まず第一段階は国内潜伏分子やマイアミからの侵入者などによる破壊活動です.第二段階は国内に根拠地を形成しゲリラ活動に移行する活動です.そして第三段階が反革命軍による直接侵攻です.そのさい戦闘の経過によっては米軍が直接介入することも検討されます.そのためにグアンタナモにキューバが攻撃を仕掛けたように見せかける偽装工作も計画の中に組み込まれています.

 17日NSCはプルータス計画を最終承認します.CIA内に25人からなる作戦本部が作られビッセルが本部長に就任しました.CIAはにわかに活気づきます.マイアミ大学の南キャンパス内に作戦本部が設置されます.ワシントン以外では最大のCIA基地となったマイアミでは,暗号名「JMウェーブ」と称する準軍事作戦が開始されました.
 このような軍事訓練の他に印刷会社,不動産会社,旅行会社,銃砲店,喫茶店,貸しドック,私立探偵事務所,石油貯蔵所,倉庫会社などが次つぎに設置されました.さらにマイアミ沖のスワン島にラジオ放送局を設置するなどとどまるところを知りません.さぞや幹部は利ザヤを稼いだことと思います.

 

B.プルータス作戦の展開

 

(1)CIAを頂点とする巨大組織

・ビッセルの全権掌握

 当初立てられた計画は,キューバ市民の一斉蜂起に亡命者武装勢力が加わり臨時政府を樹立するという筋書きでした.そして臨時政府の求めに応じて米軍が上陸するというものです.
 ビッセルはこの計画が気に入りません.彼はグアテマラのときのように直接侵攻軍を使って政府を転覆させる方式を主張します.

 計画立案者のフランク・ベンダーやキング大佐など陸軍情報部出身グループとのあいだに対立が生じますが,ビッセルを先頭とするCIA生え抜き組が勝利します.ビッセルはキング大佐を更迭しバーンズをキューバ作戦本部長に,ノエルに代えエングラーを現地作戦責任者に,そしてハワード・ハントを亡命者組織の責任者にデビッド・フィリップスを情報宣伝責任者に指名します.彼らはいずれもグアテマラ政府転覆工作時のベテランでした.

 ビッセルの戦略構想は三つの柱からなっていました.ひとつは大規模な侵攻部隊の形成です.これにはスタージスとヘミングスがあたります.第二の柱は国内での破壊活動,情報活動です.これにはエングラーが配置されます.彼はただちにハバナの米大使館に赴任し現地での活動を開始します.破壊活動の中の重要な作戦としてカストロら要人暗殺も位置づけられました.そして最後の柱が亡命者による「臨時政府」づくりです.この活動はハントが担当することになります.

 

・侵攻部隊の組織

 「将来のゲリラ活動のためキューバ以外の地に準軍事力」を築くことを目的に,キューバ人亡命者の軍事訓練が開始されました.ノース・カロライナのCIA基地キャンプ・ピアリは“ザ・ファーム”と呼ばれ亡命者訓練センターとなりました.武器の調達に関してはキューバ革命前から密輸に関わっていたスタージスが担当し,トラフィカンテのシンジケートを利用して入手するようになります.またスタージスはヘミングスとともに国際反共旅団を結成.亡命キューバ人から傭兵を徴募しはじめます.

 こうして出来た軍事組織の式を誰に委ねるのかが大きな問題です.当時マイアミでは旧バチスタ派,モンテクリスティ派,DRの反チョモン派,トニー・バローナの真正機構,アルティメの革命的回復運動(MRR)などが覇を競っていました.CIAはこのなかからもっとも有能なオルガナイザーとしてアルティメに白羽の矢を立てます.

 アルティメはCIAの指示を受け元キューバ軍将校10人のリクルートに成功,その後も次々と志願者を増やします.彼らは訓練基地に送り込まれゲリラ戦の特訓を受けることになりました.

 ルイジアナ州ポンチャートレーン(正確な読み方が分かりません.ポンシャトレでしょうか)湖畔にも訓練基地が開設されます.この湖はミシシッピ川がメキシコ湾に注ぐ河口近くにあります.ニューオリンズの郊外北方にあたります.ここに拠点を構えたのはMRRのオルランド・ボッシュら,訓練にあたったのはデビッド・フェリーらでした.1

 ゲリラを管理するCIA支局長にはガイ・バニスターが就任します.バニスターはFBIシカゴ支局長,ニューオリンズ市警の副本部長という経歴をもち,57年からニューオリンズ市内に探偵事務所を開いていました.FRD支部が席を置いたのもこの事務所と同じ建物でした.(バニスターはグアテマラ侵攻作戦でハントの副官だったという情報もありますが,ゲイリー・ヘミングスか誰かの間違いでしょう)

 バニスターは職業柄ニューオリンズを牛耳るギャング,マルセロとも因縁浅からぬものがありました.

 いっぽう反革命の受け皿となる亡命者の組織はハワード・ハントの担当でした.彼はバーカーやスタージスなどの助けを借りて組織統一に乗り出しました.7月には亡命者をかきあつめ民主革命戦線(FRD)をでっちあげます.これにはトニー・バローナの真正機構,アウレリアーノのトリプルA,フスト・カリーリョのモンテクリスティ,アルティメのMRRなど5つの亡命者政治組織が参加しています.指導部にはトニーとアルティメが選ばれますが,傘下の行動組織は統制に従う様子がありません.

 別の線での権力への復帰を狙うプリオは,いぜんハバナに滞在したままで去就をはっきりさせません.バチスタ政権を担った旧政府や軍の幹部が組織内にさまざまな形で潜入し,各組織のそれなりの「倫理的正統性」も急速に失われていきます.

 ハントはルイジアナ州ニューオリンズにもFRD支部を構えます.ニューオリンズ支部長には元バチスタ政権閣僚のアルカチャが就任しますが,全くのカイライに過ぎませんでした.実際の指導はCIAのエージェントであるクレイ・ショーが担当します.

 

・ハバナでの反革命分子のリクルート

 エングラーはハバナの米大使館に赴任し30名の部下を率いて反革命運動の組織と訓練に当たることになりました.当時キューバ国内に組織されていた反カストロ組織は大きくいって三つあります.最大のものは教会系青年組織です.彼らは当初M26と共同歩調をとっていましたが,マトス事件のころから反政府の立場をとるようになります.そしてアルティメの亡命後は革命的回復運動(MRR)を作って抵抗運動を展開していました.第二の組織がマヌエル・ライの人民革命運動(MRP)です.彼はM26の地下幹部として革命に貢献,革命後は閣僚の地位にありましたがマトス事件をきっかけに辞任,60年5月には地下活動を開始します.もうひとつが真正党系の革命民主戦線(FRD)です.彼らはサボタージュ専門の武装組織グルポ・レスカテ(救援隊)を編成していました.

 CIAはこれらの組織にアプローチしていく一方キューバ国防省や内務省にも接触を求めます.エングラーはやがて国防省幹部のトニー・サンチアゴを陰謀に巻き込むことに成功しました.彼らは米大使館内で反乱計画の検討に入ります(後に身辺が危うくなったトニー・サンチアゴは腹心十名をエスカンブライに送りこんだ後マイアミへ脱走).

 CIAはこういう連中をアセット(資産=工作員の隠語)と呼んでいました.秘密文書によれば,CIAは7月にはこうしたアセットの一人に対しラウル暗殺を実行するよう指示しています.成功すれば1万ドルの報酬が約束されていました.しかし計画は未遂に終わります.

 

(2)秘密作戦の完成へ

・グアテマラ政府の承認を受けた秘密基地

 国内で訓練すれば世間の目がうるさいと見たのでしょうか,CIAはまもなく海外に訓練基地を求めます.選ばれたのはなんとグアテマラでした.彼らが54年に政府転覆の陰謀を成功させたばかりの国です.

 アレホス駐米大使との秘密交渉の結果,弟のアレホス副大統領の農場が提供されることになりました.グアテマラ大統領はいとも簡単に国内での訓練を許します.北西部高原地帯のタラルレウ農場に飛行場を持つ広大な基地が建設されました.4月にこの情報を察知したキューバはただちにグアテマラに抗議します.グアテマラ政府は事実を否定したばかりでなく国家の名誉を傷つけたとしてキューバと断交します.グアテマラの名誉を傷つけたのは自分自身なのに….

 タラレウの秘密基地には亡命者たちが続々とやってきます.中身は種々雑多でした.なかにはバチスタ時代秘密警察で何人も虐殺した殺人鬼も紛れ込んでいました.彼らが訓練を積んでいるあいだにキューバ国内はますますカストロ支持でかたまってきました.もはや一斉蜂起は困難な状況です.

 プルータス計画は蜂起路線から亡命者の侵攻作戦に計画の比重を移すことになります.作戦本部はグアテマラの侵攻部隊をゲリラ部隊ではなく正規軍として編成・強化するよう指示します.部隊にはUF社やガルシア海運などから1千3百万ドルの援助が贈られました.この時点で6百人の兵が訓練を終えいつでも出撃できるところまで達しました.

 

・グアテマラ若手将校による反乱

 キューバは国連にグアテマラの侵攻部隊の問題を提訴しますが受入れられません.どの国もまさかと思っていたのでしょう.

 しかしこれだけ大きくなってはもはや隠しようもありません.10月30日グアテマラの新聞「ラ・オラ」が,国内におけるキューバ侵攻部隊の存在を暴露したことから事態は明るみに出ます.

 グアテマラの国内世論はにわかに沸騰します.大統領は国際的な大恥をかくことになりました.訓練を受入れたことだけでも辞任ものなところに,これを国民に隠し続け,挙げ句この事実を暴露したキューバと国交断絶したのですから当然です.

 11月13日ケネディが大統領に当選してまもなく,グアテマラで若手将校による反乱がおきます.国土をわがもの顔に利用する米軍への反感が,国内でのキューバ人傭兵の訓練という事実が暴露されたことで爆発します.将校たちは対ゲリラ戦の教育を受けるなかで,逆に暴力による抑圧だけではゲリラを根絶できないことを痛感するようになりました.そこへ持ってきてのCIAの国内での勝手気ままなふるまいですから,一気に反米感情が爆発しました.

 まず首都近郊マタモーロスの守備隊が「経済自立,土地改革,腐敗の一掃」などのスローガンを掲げ蜂起します.同時に別動隊が大西洋岸の軍港プエルト・バリオスを占拠します.マタモロスの反乱軍は鎮圧に向かった政府軍とのたたかいに敗れてしまいますが,その残党は東方に転進しサカパ基地を占拠します.

 実に軍部の半分が反乱に加担するという前代未聞の事態に米国もあわてふためきます.翌日にはグアテマラに武力干渉を行う方針を決定します.アイクは「グアテマラ,ニカラグアでの共産主義侵略防止努力を支持し,両国の要請で海空軍をカリブへ派遣する」と声明.空母を含む軍艦5隻が中米海域に到着します.この艦隊はキューバを威圧するだけでなくもう一つの狙いがありました.ニカラグアとグアテマラの軍港をキューバ侵攻に備えて整備することです.

 米軍の支援に力を得たイディゴラスは,空軍にプエルトバリオスとサカパの空爆を指示するいっぽう,なんと亡命キューバ兵にまでプエルトバリオス攻撃への参加を要請します.三日間にわたる激戦のすえついにサカパもプエルトバリオスも陥落します. 

 しかしレオン,ヨン・ソサ(中国系)らのグループは降伏を拒否し,山岳地帯を経由してホンデュラスに逃れます.彼らがのちにゲリラ組織武装革命軍(FAR)を結成することになります.

 

・アイクからケネディへ

 60年11月8日大統領選でケネディが奇蹟の勝利を遂げました.選挙前は圧倒的にニクソン有利の下馬評でしたが,テレビ討論でのケネディの圧倒で一気に情勢が混沌とし,最終盤では労組の大動員により僅差ながら勝利をものにしたのです.父ジョセフ・ケネディと昔なじみのシカゴ・ギャングも相当の肩入れをしたといわれます.

 予想外の結果にCIAはあわてふためきました.急きょケネディの下にはせ参じ侵攻計画のブリーフィングを行います.しかしプルータス作戦がいまや正規軍による上陸作戦にまで発展していることは慎重に示唆されただけでした.

 アイクは残された日々を最大限に使い計画の進行を促します.12月NSCは「プルータス作戦」を承認.陸海空の三軍2千名が進攻部隊上陸にあわせ出撃体制に入ることとなります.上陸の場所はトリニダーと決められました.アレン・ダレスCIA長官はテレビ番組に出演,インタビューに応え「これからの5ヶ月がキューバから共産主義を排除するのにもっとも好都合な時期になろう」と語ります.言うにこと欠いてなんたる言いぐさでしょう.

 マイアミ・ヘラルド紙はフロリダとルイジアナにおける訓練基地の確証をつかみますが,当局の圧力により発表中止を余儀なくされます.しかし当局必死の疑惑隠しも,ニューヨーク・タイムスが侵攻作戦の詳細な内容を暴露したことから水の泡となりました.あるいは隠せおおせないとみた当局が積極的にリークしたのかも知れません.米国内,とくにマイアミやニューオリンズでは「いつ侵攻が始まるか」という話題で持ちきりになりました.

 1月25日ケネディはニューヨーク・タイムズにより初めて作戦の全貌を知りました.おどろいた彼は米軍の直接参戦だけは避けようとペンタゴンの再考を求めます.さらに上陸地点についても,人口ちょう密なトリニダーでは一般市民の犠牲が予想されると反対しました.統合参謀本部はケネディの意見を容れピッグス湾に上陸地点を変更します.2

 2月3日NSCは統合参謀本部に侵攻作戦の最終的評価を依頼します.統合参謀本部は全体としてCIAの作戦を妥当と判断する一方,余りにも純軍事的な解決法に懸念を抱きます.答申は「大衆蜂起をもっと重視すべきであること,最終的勝利は政治的解決にかかっていること」について条件を付けます.この留保は後にマングース作戦を見るとき重要なポイントになります.

 

・各地での連帯の動き

 ニューヨーク・タイムスのすっぱ抜き以来フロリダやルイジアナあたりは騒然としてきます.亡命者たちによる侵攻作戦がいつ始まるのか,町はその噂で持ちきりです.

 2月末,マイアミ・ヘラルド紙は南フロリダとルイジアナ州ポンチャートレ湖におけるキューバ人亡命者の訓練基地の存在をつかみました.しかし新聞発表は当局の圧力により中止されます.

 キューバ情勢を憂慮する多くの人が行動を始めました.ブラジルやアルゼンチンが両者の調停に乗り出します.米国においては「キューバに対するフェアプレー委員会」が結成されました.委員会は議会に対し秘密訓練基地の調査をおこなうよう要求します.

 3月LAの民族主義者はメキシコ市で「民族独立・経済解放・平和のためのLA会議」を開催します.会議の呼びかけ人には元メキシコ大統領カルデナス,元アルゼンチン副大統領アレハンドロ・ゴメス,ラウル夫人でキューバ婦人連盟議長のビルマ・エスピンが名を連ねました.会議は「LA諸国民はキューバをまもることを強く表明する.それはわれわれ自身の運命をまもることにほかならないからである」との宣言を発します.各地でキューバ連帯のデモが組織され警官隊と衝突を繰り返します.

 

(3)作戦発動前の最後の詰め

・キューバ革命評議会の結成

 いずれにせよ,これで侵攻作戦には最終的なゴーサインが出たことになります.あとは受け皿づくりです.ところがこれがなっていません.

 侵攻作戦準備中も続々と亡命者がやってきます.最初は旧バチスタ派が圧倒的でしたが,そのうちに元革命支持者たちが優勢をしめるようになります.7月にはミロ・カルドナが,10月にはマヌエル・ライが亡命してきます.これに伴い亡命者組織間の力関係も大きく変化してきます.これらの組織のあいだは抗争続きです.親バチスタ派と最近亡命してきた反バチスタ派とのあいだの主導権争い,そして反バチスタでも真正党系,オルトドクソ系,M26系といりみだれます.もはやFRDの枠では亡命者を網羅することはできなくなりました.

 侵攻部隊のなかでも紛争が発生しました.独裁政権を支持してグアテマラに介入したことは反バチスタ派兵士に深刻な矛盾を突きつけたのです.ただちに介入したCIAは反バチスタ派2百名を逮捕,放逐します.

 業を煮やしたハントはそれまでの黒子役から前面に出て,民主革命戦線への統制を強化します.さらに内部の反対を押し切りマヌエル・ライら元革命派の抱込みをはかります.こうして民主革命戦線とマヌエル・ライの民族革命運動の代表がマイアミで会見.これにキリスト教民主運動(MDC)も加えキューバ革命評議会(CRC)が結成されることになりました.

 3月22日,CRCは総会を開きキューバ臨時政府の成立を発表します.総会はミロ・カルドナを議長兼「自由キューバの臨時大統領」に,トニー・バローナを「首相兼国防相」に,マヌエル・ライを地下活動責任者に,アルティメを侵攻部隊「司令官」に指名します.極右派はCIAの独断に反発,サンチェス・アランゴを書記長に民族解放革命委員会の結成をはかりますが,この動きは結局挫折します.

 

・キューバへの相次ぐ挑発

 侵攻作戦を前にキューバ国内での破壊活動は一段と活発化します.三月はじめにはハバナ主要部に配電する変電所が破壊され停電となります.同時に爆弾が市内各地で炸裂したり銃乱射事件が発生したりと大騒ぎです.別な日には市内のデパート「エル・エンカント」が爆弾テロにあい多数の死傷者を出します.

 反カストロ部隊の大物フェリックス・ロドリゲスらはキューバ国内に潜入し,国内組織と連絡をとりながら破壊活動を指揮します.(フェリックスは後にボリビアでゲバラを捕らえ殺害した人物です)

 米国からの侵入も日常茶飯事です.なかでも有名なのがエウヒニオ・ディアスのひきいるニューオリンズのMRR部隊です.ポンチャントレーンで訓練をつんだ傭兵160人が海上からサンチアゴの精油施設を襲撃,甚大な被害を与えます.実は彼らの計画の本命は他にありました.グアンタナモ海軍基地の付近に上陸しキューバ兵を偽装して基地を「襲撃」する作戦です.しかしこちらはうまく行きませんでした.厳重な警戒の前に上陸を果たせないまま引き揚げます.

 キューバ政府も決してこれらを座視していたわけではありません.ハバナ市内のMRR基地を摘発.ロヘリオ・ゴンザレスら幹部を一網打尽にします.またソリ・マリンを頂点とする内通者グループの存在を突き止めます.

 このころからいよいよエスカンブライのゲリラが本格的な戦闘を開始しました.彼らはこの年始まった識字運動の部隊を襲撃することからはじめます.容易ならざる事態と見た政府はトマセビッチを指揮官とする正規軍を投入し鎮圧をはかります.3月には軍の掃討作戦によりエスカンブライのゲリラはほぼ壊滅しました.指揮官モーガン(米国人)は逮捕され処刑されます.3
 おなじ頃ピナル・デル・リオでも策動が強まってきます.同地の民兵隊は海岸から侵入しようとした雇い兵ゲリラ7人を逮捕します.

 こうしてプラヤ・ヒロンの闘いへと続く前哨戦が始まったのです.

 

・ケネディの逡巡

 4月4日,NSCは統合参謀本部の答申を受けキューバ侵攻作戦を最終的に承認しました.会議ではフルブライト上院外交委員長のみが反対をつらぬいたといわれます.この決定は上院外交委員会の承認を受けることになりました.翌日の上院外交委員会秘密会でビッセルは次のように報告します.

 「ミグ戦闘機多数がすでにキューバ国内に到着している.1〜2カ月もすればキューバ上空に若干のミグ戦闘機が現れるだろう.またチェコでミグ戦闘機の訓練を受けたパイロットがまもなく帰国予定となっている.彼らが帰国し任務に就けば,情勢はさらに厳しいものとなるだろう」

 上院外交委員会も作戦を承認しました.これを受けたケネディは侵攻計画の発動を決定します.米国務省は事実上の宣戦布告となる第二キューバ白書を公表します.

 「いまやキューバはソ連の衛星国となり革命の初心を裏切った.キューバの人民は西半球の友人たちとともに,自由をかちとるため戦うだろう」

 ミロ・カルドナもこれに呼応し「すべての愛国的キューバ人は武器をとってカストロ打倒にたちあがれ」と檄を飛ばします.

 ケネディ兄弟をトップとするホワイトハウス筋は,一方で自分たちと関係なしに進むこの作戦に胡散臭さを感じていたようです.7日のニューヨーク・タイムスは「カストロ政府打倒のため何処までキューバ人亡命者を助力するかについて,政府部内に激しい政策論争がある」との記事を掲載しました.その後も大統領筋から意図的にリークされたと思われる関連記事が続きます.キューバはこれらの記事から逆に侵攻作戦が近いと判断したようです.

 12日ケネディは記者会見し侵攻を予告する声明を発表しました.この会見は居並ぶ記者連中にかなり奇異の念を抱かせたようです.その要旨は(1)如何なる状況の下でも米軍はキューバに介入しない,(2)なによりも在キューバ米市民の安全が保障されなければならない,(3)バチスタ亜流政権の復活は阻止されるべきである,(4)キューバにおける根本問題は米・キューバ間にではなくキューバ国民自身のあいだにある,というものでした.

 ふつう戦争を始めるときの意思表明といえば,敵を激しく非難しみずからの行動を正当化し国民に理解と協力を求めようとするものです.しかしこれではまるでイヤイヤ戦争を始めるという感じで,なんのための戦争かさっぱり分かりません.意気が上がらないことおびただしいものです.

 質疑応答においてもケネディは重ねて紛争のキューバ人自身による解決をうたい,米国がキューバ侵攻の基地となることを否定します.そして「政府の態度は米国内の反カストロ避難民にも良く理解され共感されている」と結びます.「よく理解され」ていないからこそ,このようなコメントが口をついたのでしょう.4

 

C.プラヤ・ヒロンの闘い

(1)キューバ人民のたたかう決意

・CIAによるキューバ空襲

 4月15日払暁,9機のB26爆撃機がキューバ空軍の標識を付けニカラグアの基地を飛び立ちます.この飛行機は午前6時キューバ上空に達します.このうち2機がハバナ郊外のサンアントニオ空軍基地を攻撃,つづいて6機がサンチアゴ基地ほか3基地を爆撃します.

 この爆撃でキューバ側に7人の即死者と44人の負傷者が出ました.空軍といえばかっこいいのですが,この時点でキューバが所有する航空機はB26が15機,T33練習機3機,シーヒューリ6機のみです.英国戦闘機が買えなかったことが決定的です.米国が騒ぎ立てたミグ戦闘機はまだ形もありません.この虎の子の空軍機のほとんどが爆撃で被害を受け使用不能となりました.まさしく一網打尽です.

 残りの1機は爆撃には参加せず直接マイアミに到着,空襲がキューバ空軍内部の反乱者によるものであると声明します.しかしこの嘘は現場に居合せた記者により即座に見破られてしまいました.油で汚れた機体にキューバ空軍の標識だけが真新しかったからです.

国連総会の政治委員会に出席中だったラウル・ロア外相は,緊急会議において米国を激しく非難します.「本日の爆撃は疑いもなく大規模な侵攻の序曲である.この侵攻作戦は米国が指導し準備したものであり,中南米の独裁者たちに支援されたものである」

 

・「革命か死か」キューバの決意

 実際にはそれは序曲ではありませんでした.すでに幕は上がっていたのです.

 4月はじめまでにグアテマラと米国内の亡命者部隊がニカラグアのプエルト・カベサスに集結を完了しました.総勢2千名,第2506旅団と命名された部隊はアルティメ旅団長の下出動命令を待っていました.(ただし実戦の指揮官を務めるのはCIAのリンチとロバートソンです)

 10日部隊に出動命令が下ります.4日の後ヒューストン,アトランティック,リオ・エスコンディド,カリブ,チャールズの五隻が,ソモサ大統領の見送りを受け港をあとにします.エスコンディドはニカラグア第一の大河の名前で,その名の通りニカラグア軍の虎の子の軍艦です.これらの軍艦を護衛するため米空母と駆逐艦がぴったりと寄り添います.空襲のあったのはまさに出港の翌日だったのです.

 ついに来るべきものが来ました.16日カストロは空爆犠牲者追悼集会で米国との決戦を覚悟するよう国民に呼びかけます.それがどういう覚悟だったか想像にあまりあるものがあります.

 全土に戒厳体制が敷かれました.官憲当局は反革命分子の一斉取締を開始,10万人を拘束します.2万5千の正規軍が緊急出動体制に,民兵20万人が総動員体制に入りました.キューバ軍は米艦船の動きから上陸地点をオリエンテと予想し,ラウル指揮下の12個大隊を増援しました.そして中部にはアルメイダ軍,西部にはゲバラ軍を配し,全海岸線で非常警戒にあたります.

 

・ピッグス湾あるいはプラヤ・ヒロン

 この侵攻作戦の主要な舞台となったのがピッグス湾です.といっても実際にピッグス湾という名の湾があるわけではありません.キューバでの地名コチノス湾のコチノというのがスペイン語で「豚」の意味なので,米国のマスコミが勝手にそう名付けただけです.ただスペインでは豚のことはふつうはセルドといい,コチノというのはやや軽蔑のニュアンスを含んだ言葉なんだそうです.なぜここをコチノスというのかはよく分かりませんでした.知っている人があったら教えて下さい.

 次にピッグス湾の地理的環境について少し説明しておきましょう.この湾はキューバ南岸ラス・ビリャス州に深く切れ込んだ入り江です.首都ハバナから直線にして100キロちょっと,車をとばせば2時間足らずの距離です.

 ラルガはこの入り江の一番奥,これに対しヒロンはコチノス湾がカリブ海に向かって広がる開口部に位置しています.海浜地帯を除く内陸部はサパタとよばれる沼沢地帯が幅10〜20キロにわたり東西に広がっています.ヒロンから東に1時間ほどでサンブラス,さらに1時間でシエンフエゴス,さらにその東方には反革命ゲリラの拠点エスカンブライが広がっています.いっぽうラルガから北へ沼沢地帯を突っ切って約10キロ行くと,中央ハイウエイに出ます.そこにオーストラリアという名前の製糖工場があります.そこからハバナへは一気です.

 上陸地点としては当初トリニダーあたりが考えられていたが,ケネディの反対でお流れになったというのは先ほど述べたとおりです.CIAはこれにかわる上陸地点を物色しました.その結果選ばれたのがピッグス湾です.ここはまず人里離れた辺境地帯という点で条件を満たしていました.さらに背後に機動戦が困難な沼沢地帯を控え,上陸軍が橋頭堡を築くには絶好の条件を備えていました.

 合流すべきエスカンブライからはやや遠いのが難点ですが,この困難はすでにキューバ軍が解決してくれていました.つまりエスカンブライにはもはやあてにできるほどの戦力は残存せず,これと連絡をとることはあまり意味がなくなっていたからです.

 

(2)侵攻部隊とキューバ軍の反撃

・4月17日払暁

 午前3時夜闇をついて上陸用舟艇が続々と敵艦を離れます.舟艇がヒロン海岸に上陸するやあっという間に陣地が構築されました.まもなく別の一隊もラルガ海岸に上陸,橋頭堡を築き始めます.沖合いには戦艦や輸送艦が浮かびさらに領海線の外側には空母を含む米艦船が待機します.

 マイアミのラジオ・スワンは「キューバの愛国者が解放の戦いを開始した.すべてのキューバ人民は武器をとって闘いに参加せよ!」という「ミロ・カルドナ議長の声明」を流し始めました.
 事態の容易ならざることを直感したカストロはただちに全権を掌握,死にものぐるいの活動を開始します.午前4時オーストラリア精糖工場に駐屯する339部隊9百名が,カストロの直接命令を受け南方進出を開始します.指揮をとるのは死んだカミロの兄オスマニ・シエンフエゴスです.まもなく部隊は侵攻軍の先峯と接触,激しい戦闘が開始されました.5

 侵攻部隊にとってこの反撃は折り込み済みのものでした.むしろ大部隊を引きつけようと狙っていたのかも知れません.プエルト・カベサスを飛び立ったC54輸送機が闘いさなかの5時半に上空に到達します.敵の最精鋭である降下部隊が339部隊の背方に降り立ちはさみうちにするのです.339部隊は後方との連絡を絶たれ,分断され,釘付けになりました.

 この頃急を聞いたマタンサス民兵幹部学校の部隊がおっとり刀で駆けつけます.オーストラリア製糖工場に到着した部隊は,ただちにカストロの指示を受けそのまま339部隊の救出に向かいました.

 もうこの時点では事態ははっきりしています.キューバ,米国,ニカラグアを股にかけた同時多発行動はたんなるゲリラ的な攻撃では不可能です.これは周到な準備の上で侵攻部隊の本隊が上陸したということを意味します.そしてそれがオリエンテでもなくピナルデルリオでもなくヒロン海岸だということです.

 午前6時カストロは全国に総動員令を発布,これに呼応してただちに全民兵が戦闘配置につきました.いまや米国とのあいだに全面戦争が開始されたのです.

 

・キューバ空軍,侵入艦隊を撃破

 当面制空権の確保が闘いの鍵を握っていました.サパタ湿原はシエラと違いジャングルではありません.草原の中に丈の低い潅木が疎生しているに過ぎません.空からの攻撃に対し身を隠し防御できるような余地はありません.沖合いに待機する艦船に至ってはなおさらのことで,空からの攻撃に対しては一たまりもありません.6

 ゲリラほど空襲の恐怖を身にしみて感じた人間はいません.カストロこそは「やられた側の代表」として制空権確保の重要性を誰よりも理解していた人でした.彼はありったけの航空機を動員するよう指令しました.そして全力を尽くして沖合いの艦隊を撃破するよう指令しました.これが歴史の回転軸となったのです.

 午前7時キューバ空軍機はカストロの期待に応え侵攻軍の輸送船を発見します.2時間後,T33ジェット練習機によって先導された虎の子のB26爆撃機6機が,ヒロン海岸沖の艦艇に対しロケット砲撃をかけます.キューバとLA人民の願いを込めた砲弾は,みごとヒューストンとリオ・エスコンディドに命中,二隻は戦闘不能に陥ります.(大本営発表なら撃沈あるいは轟沈と書くところでしょうが)

 他の艦船はクモの子を散らすように逃亡,上陸軍は補給を断たれてしまいます.CIAも驚いたことでしょう.先日の空襲で完全に破壊したと思っていたキューバの航空戦力が,こんなに残っているとは予想もしなかったに違いありません.T33練習機はさらにその後の戦闘で敵機を迎え撃ち5機のB26を撃墜しました.

 

・プラヤ・ラルガの闘い

 キューバ空軍が必死に敵艦隊の捜索を続けていた頃,マタンサス部隊と339部隊は苦戦を続けていました.降下兵を降ろしたB26がニカラグアから反復空襲をかけたためです.ふつうの地上戦なら歩兵は戦車を中心に密集隊形を組みながら前進するのですが,航空機の前にはこの陣形は無力化せざるを得ません.こうして戦車は歩兵の護衛なしにカモフラージュなしの道路を進軍することを余儀なくされます.7

 カストロはハバナにとどまって指揮するような人間ではありません.昼前には現地に到着し陣頭に立ちます.この頃マタンサス部隊は空挺団の防禦ラインを突破,パルピテに達し339部隊と合流します.これから闘いはラルガの拠点をめぐる攻防戦となりました.政府軍部隊はB26が反復攻撃を繰り返す中をじわじわと前進します.さらにT33も出動しB26と空中戦を展開します.夜になるとラルガは完全に包囲されました.カストロは突撃,切り込み攻撃を繰り返します.ギサ攻防戦でお馴染みの手口です.侵攻部隊は徐々に戦意を喪失していきます.

 翌18日早朝ついに侵攻部隊はヒロンへの撤退を開始しました.これで闘いの大勢は決まります.8

 

・コバドンガのたたかい

 ラルガの闘いと並行してもう一つの戦闘がかわされます.パルピテに空挺部隊が降りたのとおなじ17日朝,別のパラシュート兵がヒロンの東方に降り立ちます.この部隊は敵主力に正面攻撃を掛けるというよりは,東方に移動しエスカンブライと連絡を付けるのが目標でした.部隊はサンブラスに拠点を確保したあと午後にはコバドンガに迫ります.ここで11人の民兵が死守するコバドンガ製糖工場をめぐり激戦が開始されました.

 重武装した侵攻部隊の前に,小火器しかもたないわずかの守備隊ではとても太刀打ちできないと思われましたが,意外に執拗な抵抗がつづきます.夕方をむかえ侵攻部隊はサンブラスまで撤退していきます.

 翌日になるとペドロ・ミレトのひきいる戦車部隊と重砲隊が出動します.ミレトは当時メルバ・エルナンデスと結婚し農相の座に治まっていました.しかしこの人には戦闘の方が似合いそうです.ミレト部隊は午後にはコバドンガ製糖工場に到着,その後掃討作戦を続けながらサンブラスを目指します.

 18日夜はサンブラスをめぐる攻防戦となりますが,質量ともに劣勢な侵攻部隊は夜明を待って陣地を放棄,ヒロンに撤退していきます.

 

・国連,もう一つの戦闘

 前線に入ってしまったカストロに代わり外交戦を一手に引き受けたのはニューヨークの国連本部に滞在中のラウル・ロア外相です.18日開かれた国連安保理緊急会議でロアは「侵略者はCIAによって雇われ訓練されたものであり,米国の傭兵部隊である」と激しく非難します.先日偽装爆撃機の事件で赤恥をかいたばかりのスチーブンソン大使はろくに反論もしません.これに代わりラスク国務長官が米国の関与を否定しますが,およそ説得力のないものでした.

 モスクワのフルシチョフはケネディ宛書簡で「ソ連はキューバに対する軍事攻撃を撃退するに必要なあらゆる支援をキューバ国民と政府に与える」と宣言しました.ブラジルのクアドロス大統領は「キューバには国を守る権利がある」と語ります.口に出そうと出すまいと,これが中南米の多くの国の感情でした.

 

(3)キューバ人民,反革命軍を撃破

・ケネディの心変わり

 就任早々のケネディにしてみれば,しょせん勝ち味のない戦闘が敗北したからといって,前任者が勝手に起こした不始末の泥をかぶるのはまっぴらごめんです.彼にはキューバ以外にやりたいことはたくさんありました.

 それまでも及び腰だったケネディは,国際世論の動向を見てこれ以上の侵攻作戦への介入を断念します.そして今回の事件はあくまでも亡命キューバ人の自発的行動に過ぎないという立場で押し通そうとします.このためケネディは,18日早朝に実行される予定だった第二波の爆撃を中止するよう指示します.

 ビッセルはこの大統領命令を無視してニカラグアで待機する爆撃隊に出撃許可を出します.おそらく聞かなかったといって弁解するのでしょうが,この手は1回しか使えません.次から間違いなく彼は不信の目で見られるに違いありません.どのみち彼の政治的運命は終わったのです.

 ともかく米人パイロットの操縦する三機のB26爆撃機は,ナパーム弾と高性能爆弾を積んでプエルト・カベサスを離陸,やがてサンアントニオ基地上空に達し爆撃を加えます.しかし奇襲攻撃が有効なのは1回限りです.今度は虎の子の航空機はしっかり秘匿されておりビッセル一世一代の大芝居もほとんど空振りに終わりました.

 18日夜はホワイトハウスによる議員招待の大晩餐会でした.議員夫妻など千二百名を越す盛大なものでしたが,さぞかしケネディは上の空だったと思います.夜の12時パーティーが終わりました.ただちに緊急閣議がはじまりました.会議は4時間にわたったといいますから相当深刻なものだったのでしょう.

 会議の冒頭CIAと統合参謀本部は米軍機を作戦に参加させるよう要請しました.その数時間前に戦線に復帰した輸送船が,武器弾薬などを揚陸すべく上空援護を求めてきたのです.沖合い3海里,領海線の外側には全天候型ジェット戦闘機を満載した空母が待機中です.

 しかし激しい議論の末ケネディはこれを拒否します.何よりもこの作戦はもはや明らかに失敗していたからです.これで米軍とキューバ軍が直接交戦状態に入ればどうなるかは火を見るより明らかです.こうしてケネディの断により侵攻作戦は事実上終了したのでした.侵攻部隊は見捨てられたのです.

 

・プラヤ・ヒロンの制圧

 18日午後2時,ラルガ確保に成功した政府軍はヒロンに向け進軍を開始します.この進軍も壮絶なものでした.B26の機銃掃射と木立のあいだから狙う狙撃兵の前に多数の犠牲者を出しながらも着実に前進していきます.9

 この間ヒロン海岸に陣取る侵攻部隊に対する攻撃も激しさを増します.キューバ軍のT33が基地を空襲,野砲による集中攻撃も開始されます.このためC54による空中投下も困難になります.厳しい条件の中かろうじて投下された補給物資も侵攻部隊の手には届くことなく終わります.

 19日朝7時侵攻軍のB26による最後の攻撃が始まりました.この攻撃は惨憺たる結果に終わりました.キューバ戦闘機の迎撃により6機が撃墜され米人パイロット4名が死亡,残りの機はほうほうのていでニカラグアに逃げ帰ります.

 ラルガから南下してきたカストロの部隊は,カヨ・ラモナでミレトの部隊と合流し総攻撃の体制を作ります.

 夕方5時最後のときがやってきました.革命軍はヒロンに突入,侵攻軍部隊はクモの子を散らしたように逃げまどいます.あるものはサパタの森林に逃げ込みあるものは沖合いに向け泳ぎ始めます.10

 

・カストロ,勝利を宣言

 4月20日朝カストロは侵入軍の完全撃滅を発表しました.侵攻開始後72時間めのことでした.この戦闘で米国人パイロット4名をふくめ侵攻部隊の92名が戦死しました.B26爆撃機10機が撃墜され輸送船2隻が破壊されました.そしてアルティメ,サンロマンら生存者1122人全員が捕虜となりました.ただし数字については若干の異同がありますが,これはサパタに逃げ込んだ敗残兵がその後の残党狩りで殺されたり捕らえられたりしたためです.いっぽうキューバ側にも156名という少なからぬ犠牲者を出しました.その多くは敵機の攻撃によるものです.

 炭焼労働者などの民兵も敵機の機銃掃射により多くの犠牲者を出しました.彼らはキューバ軍の標識をつけたB26を友軍と勘違いし,立ち上がって手を振ったところをやられたといいます.11

 

(4)プラヤ・ヒロンの余波

・ケネディの「敗北宣言」

 プラヤ・ヒロンの闘いがカストロらの勝利に終わったことは,国際的にも大きな激動をもたらします.侵攻部隊司令官アルティメはテレビ局との会見に引っぱり出され,侵攻がCIAの企画・指導によるものであったこと,CIAのハワード・ハント作戦本部長が彼を司令官に指名したことを認めることになります.

 ケネディはこれを受け記者会見.侵攻作戦の失敗を公式に認め「私が全責任をとる」と述べます.責任の取り方が今後の大きな問題となりますが,いずれにしてもケネディは就任早々重い十字架を担わせれることになりました.

 キューバはケネディが今度の作戦に関係ないことなど百も承知です.カストロはこれを機に平和共存のための交渉に入るよう呼びかけ,さらに米国が望むなら外交関係,友好関係を結ぶことも考慮すると述べます.しかしこのような条件下でケネディが提案に応じるはずもありません.彼は「西半球における共産主義とは交渉の余地なし」とはねつけます.そしてキューバに対する経済封鎖の強化を発表します.

 ところで侵攻を間近に控えた16日,考えられないような事態が起きています.CIAはマイアミの革命評議会幹部をひとまとめにし,近郊のオパロッカ海軍基地内に閉じこめてしまうのです.この行動にどんな意味があったのか未だに説得力のある解答は出されていません.米西戦争終結にあたってカリスト・ガルシア将軍の停戦協定の調印式への出席を拒否されたことが思い出されます.

 とにかく彼らは戦闘のあいだじゅう外部との接触を一切断たれたままでした.侵攻開始にあたってカルドナが檄を飛ばしたといいましたが,それは彼の肉声ではなかったのです.敗北のその日彼らは基地を脱出しワシントンに向かいます.ケネディと会見したカルドナらは米国の直接介入を強く要求しますが,もはやその時期は過ぎていました.かれらはCIAの援助の不十分さから侵略部隊が見殺しにあったと非難する声明を発表しただけで,すごすごと引き下がるしかありませんでした.

 9月には侵攻部隊捕虜にたいする公開裁判が始まりました.政府は今度は慎重でした.公判そのままをテレビで放映し被告にも十分な反論の機会を与えたのです.裁判の模様はエンツェンスベルガーの著書に詳しいのですが、それは裁判というよりは公開討論会という雰囲気のものでした.部隊のうち国家に対する反逆罪で有罪となったのはわずか14人のみでした.アルティメ総司令官らは禁固30年の刑を受けます.

 裁判の圧巻だったのは,部隊に紛れ込んでいたカルビーニョらバチスタ時代の殺人鬼5人が摘発されたことでした.彼らには侵攻事件とは関係なく死刑の判決が下され,刑はただちに執行されました.裁判と並行して米国との捕虜釈放交渉が始まりました.キューバはトラクター500台を要求しますが,米国はいかなる代償も払う必要はないと拒否します.

 

・CIAへの追及

 作戦失敗の原因を総括するためキューバ政策検討会議が設置されました.通称グリーン委員会とよばれたこの組織は,議長に陸軍のテイラー元参謀総長をおき,弟のロバート・ケネディ司法長官やアレン・ダレスCIA長官らが参加していました.

 会議にはケネディの意向を受け大変厳しい総括が要求されました.何回かの会議はダレス長官に対する詰問の様相を帯びていたといいます.それはそうでしょう,考えれば考えるほどCIAの計画はズサンです.グアテマラのやり方をそのまま真似ただけです.

 しかしグアテマラでは軍部が分裂して,その主流派が米国の立場に立ったためクーデターが成功したのです.キューバではそのような軍部はすでに消滅し,革命と民族の独立に生命を捧げる人民軍が全土を支配していました.このような状況下でたかだか千名あまりの兵力が侵入したとしても,軍事的な勝利を得られるはずもありません.

 市民が間髪おかず一斉蜂起し侵攻軍の下に結集するとでも思ったのでしょうか? だとすれば余りにも楽観的過ぎます.それとも米軍の直接侵攻が続くと思ったのでしょうか? だとすれば余りにも国際政治のイロハを知らなさ過ぎます.

 6月13日テイラー議長は侵攻計画の失敗をきびしく批判する報告書を提出.「政治・軍事・経済・宣伝の全分野にわたってあらたな基準にもとづく作戦が必要となっている」と結びます.ケネディはテイラー報告に基づき国家安全保障活動メモ(NSAM)57号を発令しました.NSAM57号は「軍事的活動の総責任は戦時と否とを問わず統合参謀本部議長にある」と明示しています.

 これによりCIAはたとえ秘密作戦といえども統制原則にしたがい,軍事力行使を伴うものについては統合参謀本部の指示を仰ぐよう厳重に枠をはめられました.以後CIAはカストロ暗殺計画と国内撹乱活動に比重を移していくことになりますが,これについては後の章で触れることになります.

 

1 MRR指導者のオルランド・ボッシュはかつてハバナ大学医学部在籍中,MSR候補としてカストロとFEU委員長の座を争った人物でした.彼はケネディ暗殺事件でもスナイパーの一人と見なされ、また76年のキューバ航空機爆破事件の犯人としても知られています。

2 ということになっていますが,この段については,書き写していて自分でも「そうかなぁ?」と思います.映画「JFK」以来いまや第二のケネディ讃美の波が広がっています.ケネディを平和主義者であったように描くのは,昭和天皇をそう描くのと同様にフィクションのような気がしますが.これについては次の章で触れます.

3 シエンフエゴスからトリニダーへ向け車を走らせるとだんだん山が迫ってきます.やがてひときわ高い嶺が姿を見せます.このあたりが第二戦線の本拠地です.道路沿いには反革命と闘った政府軍の英雄たちの記念碑が建てられていました.国内ではプラヤ・ヒロンと並ぶ激戦として語り継がれているようですが,これまでのところまとまった資料は入手できていません.

4 ケネディの態度が彼の「平和主義的な本質」に基づいているとは言えません.現に彼はピッグス湾事件のあとも,新たなキューバ侵攻計画「マングース作戦」の推進を指示しています.おそらくこれだけの重要な計画の実行にあたり最終責任者である大統領が無視され,CIAが独走していることに不快感を持ったのではないでしょうか.

5 ハバナから2時間,ハイウエイの周りには世界最大(とキューバ人は言っていた)のオレンジ農園が広がります.そこにヒロンへ通じる道があります.大きな煙突がオーストラリア製糖工場です.革命前からの建物なのか,全体としていささかくたびれた印象です.工場の壁は「社会主義か死か」などのスローガンが大きく書かれています.ここから南へ真っ直ぐ一本の道路が延びています.まわりは一面の草原,所々に背の低い潅木がのびています.ちょっと脇道を入ると池や沼が散在しています.ここにはカイマンわにが生息していて人を食うのだそうです.ちなみにキューバはカイマンの愛称を持っています.島の形がワニに似ていることからつけられたものです.

6 運転手さんはヒロンの闘いに参加したベテランでした.「向こうから飛行機がやってきて真上を通り過ぎていったんだ.その度に機銃掃射だ.自分の隣でバタバタと人が倒れていったんだ」「恐かったでしょう」….彼は答える代わりにニヤッと笑って片目をつむりました.

7 直線道路の脇には石碑が立ち並んでいます.そこで死んだ兵士たちの記念碑です.この碑はヒロンまでのあいだに百個以上あります.そのほとんどはB26の攻撃により死んだのです.

8 ラルガ海岸は南国の雰囲気いっぱい,風光明媚な観光地です.国民保養地として整備されバンガローが浜辺に立ち並びます.経済崩壊前はハバナから大勢の観光客がやってきたそうですが,いまはそれどころではないと見えてあたりは閑散としています.道路はここで左に大きくカーブしたあと湾の東岸沿いにヒロンへと向かいます.その曲がり角の家が侵攻部隊の司令部だったそうです.いまでは新しい家が建ち当時の面影はまったくありません.

9 ラルガを離れヒロンに向かうにつれて,道ばたの石碑はぞの数を増していきます.サパタの草原とは違い,あたりは森林地帯に変化しています.熱帯雨林ではなく日本にいるのと錯覚しそうな照葉樹林です.木立の間からコチノスの海が見えかくれします.このあたりはダイビングの名所,ダイビングの好きなカストロの別荘もあるそうです.(ただしその場所は極秘とのこと)

10 森林地帯がとぎれたところがヒロン海岸です.真っ白な砂浜の向こうはコバルト色のカリブ海です.砂地の上にエスピノという木のひとむら,その木陰に数十の家がかたまっている,なんの変哲もない集落です.路地を入っていくと一軒の崩壊した大きな家がありました.ここが侵攻軍の本部だったそうです.ほかにリゾート・ホテルが一つ,チッポケなくせにやたら入場料が高い博物館が一つありました.

11 革命前,キューバには多くの貧困者がいましたが,なかでももっとも悲惨だったのがこの地域の炭焼き労働者(カルボネーラ)でした.彼らは潅木を焼いて炭を作ることで生計を立てていましたが,経済的な貧困以上に社会的差別のなかで苦しんでいました.日本でいう「穏亡」です.革命後彼らはこうした差別から解放されるとともに,協同組合を通じて経済的にも前進することができました.こうして彼らは革命のもっとも強固な支持者となりました.プラヤ・ヒロンの闘いは彼らの活躍なくしては語れません.