第二部 その二

 

第六章 エルサルバドル人民の反撃

第一節 UNTSの結成と労働運動の盛り上がり

85年10月のラ・ウニオン,86年6月のサンミゲルでの攻勢の他,いくつかの単発的な作戦を実行したFMLNでしたが,もはや84年の勢いはありませんでした.なによりも空からの索敵・焦土作戦に対して有効な対抗手段がとれないのが深刻な問題でした.

エルサルバドルの山は,ジャングルというにはほど遠い疎林地帯です.人口ちょう密なこの国では耕せるところはすべて耕し尽くされていました.さらに軍隊がゲリラ活動を押さえ込むために,ジャングルを焼き払う作戦を採ったことも関係しています.メキシコからニカラグアへ飛行機で飛んだとき,乾期だったせいかも知れませんが,エルサルバドルとおぼしきあたりの山々は赤茶けた地肌を晒していました.

戦闘の沈静化は,ドゥアルテにとっては願ってもないチャンスでした.レーガンの全面支援を受け,軍内極右派の排除に成功し,財界などの支持もとりつけたドゥアルテは,さらなる支持基盤の拡大に向け思い切った賭けに出ます.労働運動をもとりこみ,彼らの力で軍部や極右派に対抗しようというのです.

86年2月,ドゥアルテの黙認の下に全国労働者連合(UNTS)が結成されました.国内に貯まっていた変革への願いは一気に爆発します.UNTSはわずかのあいだに50万人の労働者を網羅する大組織に発展しました.

メーデーにはなんと十万人を動員します.もちろんドゥアルテ支持の人民民主連合やエルサルバドル労働者センターが中心でしたが,多くのFMLN活動家が参加していたことは間違いありません.

 

第二節 中米和平会談の進展

ニカラグアの歴史も参照していただきたいのですが,この頃から中米和平への動きが加速されてきました.コンタドーラ・グループの提案を受けて,85年には第一回目の中米首脳会議が持たれます.このサミットの契機は,ニカラグアで大統領選挙が行われ,オルテガが正式に大統領に就任したこと,グアテマラで「民政移管」がおこなわれ,セレソが大統領に就任したことでした.

ビニシオ・セレソはグアテマラのドゥアルテのような人物で,国内にこれといった政治基盤があるわけではなく,米国の圧力だけが頼りの落下傘候補でした.それだけに任期中になんとか実績を上げたいと,中米首脳会議にはことのほか熱心に取り組みました.彼のイニシアチブの下,何回かのサミット会談が持たれ,86年夏には第1回の中米合意が成立します.

この合意は各国国内で話がまとまらず,いったんお流れになりかけました.ところが翌87年2月になると,今度は新たにコスタリカ大統領に就任したアリアスが,各国の調整に取り組みます.そして7月末,グアテマラの保養地エスキプラスで開かれた中米首脳会議で和平合意が成立します.これがいわゆる「エスキプラス2合意」です.

中米和平に関する包括的合意とはいうものの,「合意」の実体は,ニカラグアにおける政府とコントラとの和解をサンディニスタに押しつけるものでした.

FMLNにとってこの和平交渉は,二重の意味で有り難くないものでした.第一に,コントラの武装解除とFMLNの武装解除が,セットで提起されていることです.第二に,交渉のなかで,サンディニスタとFMLNの連帯関係も厳しく制約されるようになります.

この合意を受け入れることは,FMLNにとって苦渋に満ちた選択でした.中米問題に関心を持つ世界中の進歩的な人たちにとっても,思いは同じでした.しかしこれ以外に米国の武力干渉を排して,中米問題を自主的に解決する道は残されていません.

FMLNは7年の闘いのなかで,エスキプラスを受け入れるだけのフトコロの深さを獲得していました.もちろんこれからが闘いです.和平交渉は力の裏付けなしには成立しませんから,必要な反撃は断固やらなければなりません.

決してドゥアルテが権力を掌握しているわけではありません.いざとなれば極右派軍人とARENAはいつでも前面に出てくる構えです.交渉はつねに,ドゥアルテの背後にいるこれら勢力をにらみながら進められなければなりません.和平に軸足を置きつつも,常に相手の出方に即応できる戦闘能力は確保していかなければなりません.

87年以降の闘いは,そういうものとしてみておく必要があります.83年後半からの連戦連勝という派手な闘いはありませんが,間違いなく戦闘能力を取り戻していることが分かります.やるときはがっちり闘って,重点となる作戦は必ず成功させています.

 

第三節 極右の巻き返しとドゥアルテの孤立

話は少し戻ります.86年11月,首都サンサルバドルを中心に大きな地震が襲いました.多くの人が家を失い,疲弊した経済にさらに打撃を与えました.地震に便乗した物価騰貴に対して有効な手が打てない政府に,民衆の怒りは募ります.UNTSは急速に左傾化し,ドゥアルテに対決するようになります.

UNTSの闘争が,極右派をいたく刺激したことは間違いありません.当時ワシントン駐在武官にとばされていたオチョア大佐が,またもやクーデターを企てます.これはCIAの知るところとなり未遂に終わります.87年初頭の会見でドゥアルテは「極右によるクーデターの危険がある」と訴え,自らへの支持を訴えますが,もはや民心はドゥアルテから離れていました.

UNTSは社会諸勢力による新政府の樹立を訴え4万人の動員に成功します.勢いに乗ったUNTSはさらに24時間ゼネストに打って出ます.このゼネストも商業機能の90%が停止するという大成功でした.

80年の時と違う最大の点は,かたやFMLNが陣地を確保し軍部にも圧力をかけ続けていることです.たとえばこんな事件がありました.3月末,ブランドン参謀総長が「ゲリラの戦力は1万2千から4千人に減少し,軍事的勝利の展望を喪失した」と述べます.すると3日後には,8百人のFMLNゲリラがチャラテナンゴのエルパライソ基地を襲撃しました.この作戦で米軍事顧問一人を含め百人近くが死亡するという具合です.

これでは労働者・活動家の監視にだけ力を入れるわけには行きません.死の軍団も拷問・虐殺やり放題という情況ではなくなりました.下手をすればゲリラの手で報復される危険を覚悟しなければなりません.

もちろん,UNTSの活動は命がけでした.私は89年にマナグアでUNTSの活動家と会いましたが,毎日ねぐらを変えて当局の監視を逃れ,同志との連絡も街頭で,そして捕まれば拷問と虐殺が待っているのだそうでした.

 

第四節 闘いと外交の二正面

87年8月7日,エスキプラス合意が成立しました.ドゥアルテは停戦交渉再開をよびかけます.FMLNも政府との対話を受け入れると発表しました.

すべての勢力を網羅した国民和解委員会が設置されました.教会代表としてロベロ大司教,政府代表カスティーヨ副大統領,野党代表としてARENAのクリスティアーニ,民間著名人としてマガーニャ前大統領が参加するなど,かなり実効性の期待される顔ぶれとなりました.

10月開かれた第1回会談は画期的なものでした.FMLNは並々ならぬ決意で会議に臨みました.五つのゲリラ組織を代表する指導者全員が敵地のただ中サンサルバドルに乗り込んだのです.

これはドゥアルテの提起した条件でした.おそらくFMLNは呑むまいと思ったのかも知れません.五人の最高指導者を首都で受け入れた場合,その安全を保証する力がドゥアルテにあるとは到底思えません.

もちろんFMLNの側も最初はこの提案を渋ったのですが,間近になって決断しました.私たちは,かつてFDRの代表6人がサンサルバドル市内で虐殺された事件を知っています.今度もおなじことが起こらないと誰が言えるのでしょうか.

FMLNの組織をかけて今回の会議に臨むという決意は,人々の胸に染み渡りました.これが第一回会談の最大の成果でした.

 

第五節 第二の転換点と軍内の権力移動

第一回交渉を終えたドゥアルテはさっそく米国へ飛び,和平への同意と支持を求めます.しかし米国側の反応はあいまいなものでした.もはやレーガンの関心はサンディニスタ政府を潰すことにあり,エスキプラス合意の枠組みはその妨害となるとみていたからです.

反応がはっきりしない理由は他にもありました.イラン・コントラゲート疑惑が浮上し,その対応に追われていたからです.詳細は「ニカラグア史」の方を参照していただきたいと思いますが,国家安全保障会議の専属武官だったノース中佐が,イランに武器を秘密売却し,その代金をコントラの維持費に充てていたというものです.

国家安全保障会議といえば,軍事にかかわる米国の最高機関です.レーガンその人の関与も十分考えられ,ことと次第によってはウォーターゲートのニクソンのように辞任に追い込まれないとも限りません.エルサルバドルごときにかかわっているヒマなどなかったでしょう.

軍内極右派は情勢の変化に敏感でした.米国がバックにいないドゥアルテは張り子のトラに過ぎません.参謀本部では低水準戦争戦略に反対し全面戦争に入るべきとする強硬派が中枢をにぎりました.

10月26日,人権擁護委員会のアナヤ委員長が暗殺されました.いうまでもなく,和平会談の妨害を狙った極右派の仕業です.これに憤激した市民数千人が抗議のデモを展開します.FMLNは交渉の継続を拒否し,戦闘強化を宣言しました.

11月,ドゥアルテは情勢打開のため15日間の休戦を提起し,軍に停戦を命令します.しかし軍部は,この指令を無視して戦闘を続け,あまつさえチャラテナンゴであらたに掃討作戦を開始します.12月にはいるとドゥアルテの立場はさらに弱体化し,リベラ大司教が呼びかけたクリスマス休戦に応ずることもできなくなりました.

 

第六節 FMRとFMLNにすきま風

アナヤ暗殺をめぐる対応について,FDRとFMLNとのあいだに若干のくいちがいが生じました.交渉中断を宣言したFMLNに対し,FDRは交渉継続を主張しました.

確かにそれも一理あるのですが,とにかく戦争中なのですから,意見の違いは保留して指導に従うのが筋というものです.ただウンゴやサモラにとって,ドゥアルテは苦楽をともにした仲間です.そのドゥアルテが孤立し,和平の芽が摘み取られてしまうのは,なんといっても辛いことでしょう.

彼らの偉いところは,それを口先でなく態度で示したことです.11月22日,ウンゴとサモラはメキシコより帰国し,国内活動に入りました.まさに決死の覚悟です.FMLNも主張の違いは脇に置いて,ウンゴらの帰国に最大の敬意を払いました.FMLNは24日から3日間一方的停戦に入ると発表し,国民にFDR幹部の安全監視を訴えます.

こうして87年は暮れていきます.内戦開始後の米国による援助の総計は32億ドルに達しました.いっぽうFMLNの発表によれば,87年1年だけで政府軍7千4百人に損害を与えました.少なくともおなじくらいゲリラ側にも被害があったことでしょう.

激烈な競り合いのなかで大きな転機が訪れました.88年3月の国会選挙です.この選挙でARENAが過半数を制しました.キリ民党は惨敗し政治の表舞台から姿を消していくことになります.

極右派の台頭により和解の道は遠ざかり,ふたたび力対力の対決の様相を呈してきます.UNTSも厳しい攻撃のなか,7月の1万人デモを最後に,実質的に休眠状態に追い込まれます.

 

第七節 88年秋期作戦の帰結

こうしたなか,極右派が主導権を握った政府軍は,FMLNの最終的掃討を狙い秋期作戦に出ました.あまり華々しい戦闘もなく目立たない作戦でしたが,この闘いこそが最終的和平へと大きく動き出す原動力になったのです.

チャラテナンゴを中心とする戦闘では,政府軍にとって誤算が続きました.なんといっても,これまでゲリラを圧倒してきたのは航空機の威力にあります.ところがこの航空機は,地対空ミサイルの前には哀れなほど無力でした.とくに戦闘ヘリは飛べば必ず撃墜されるというくらいで,前線に恐慌を来しました.

注目すべきは,88年後半あたりからFMLNが対空能力を飛躍的に増強して来ていることです.じつはこれは,ニカラグア政府軍の一部が対空ロケットを横流しした結果のようです.FMLNの武器は大半がエルサルバドル政府軍から鹵獲したものです.しかし政府軍に対空兵器は必要ありません.ゲリラには航空機などないからです.だからいくら政府軍の兵器庫を襲っても,対空ミサイルは手に入りません.

それが88年後半にはいると,政府軍の戦闘機やヘリがガンガン撃墜されるようになりました.これで戦況はがらりと変わりました.84年以来有効だった政府軍の戦略は,いまや根底から覆されるようになりました.

制空権を失った政府軍は,その力を激減します.至る所で待ち伏せ作戦や奇襲攻撃にあい,戦線はずたずたにされます.政府軍が辛うじて崩壊をせずに済んだのは,ゲリラがそれ以上の追撃をしなかったからに他なりません.

89年はじめ,FMLNは88年度の戦果を発表しました.発表によれば政府軍8千人を死傷,うち3千人は9月からの作戦によるものでした.FMLNは「88年は,対ゲリラ計画の敗北した年であり,人民戦争が決定的な時期に入った年である」と総括します.そして「全国民は蜂起に備えよ」とよびかけます.

 

第八節 FMLNの新和平提案

FMLNが戦闘の拡大に慎重だったのは,おりからレーガンが8年の任期を終え,ブッシュにバトンを引き継いだことにも原因があります.米国の大統領というのは,候補者の時代と就任してからではがらりと言動が変わったりすることもあるからです.

ブッシュはCIA再建の功労者でもあり,ドゥアルテ担ぎ出しに関しては陣頭指揮した経験も持つ人物です.慎重に行動しながら出方をうかがう戦術は十分あり得ます.

89年1月24日,FMLNは最初の本格的な和平案を繰り出しました.6項目からなるこの提案は,これまで掲げていた権力の共有,軍事組織の統合などを取り下げるなど驚くほど柔軟なものでした.それはエスキプラス合意の線にも完全に沿っていました.

また声明は,これまで粉砕の対象としていた選挙についても,国際組織による投票監視などを条件に参加する用意があると述べます.

これに対する政府・権力側の反応にもすばやいものがありました.米国務省は新提案を「真剣で実質的な検討に値するもの」と評価する声明を出しました.キリ民党はFMLNの6項目提案を受諾すると発表します.

驚いたのはあの極右の政権党ARENAが,この提案に並々ならぬ興味を示したことです.クリスティアーニ総裁は,FMLNに議会演説させるため72時間の恩赦を与えるよう提案します.これが2月3日のことです.そしてエルサルバドルでの中米首脳会議を3日後に控えた2月10日,エルサルバドルにある与野党13党が合同会談を開き,FMLNとの会談を持つことで合意します.

これは誰が考えても不思議な話です.こんな短期間にバタバタと各界の合意が進行して行くでしょうか?

おそらくFMLN=CD(ウンゴとサモラがエルサルバドル国内で結成した政党)=キリ民党=米国務省=クリスティアーニとつながる裏のラインが働いたに違いないでしょう.そしてその背後には,おそらく米政府の最高レベルの意思が働いていたと見るべきでしょう.

ブッシュの念頭にはニカラグアしかありませんでした.なんとしてもサンディニスタ政府を打倒すること,これがブッシュの目標でした.そのためにはエルサルバドルについては多少のことは目をつむる,極右派はむしろ押さえ込むべしというのがブッシュの本音ではなかったのでしょうか.今のところ推測の域を出ませんが.

 

第七章 キリ民党からアレーナ政権へ

第一節 虚々実々の駆け引き

FMLNが選挙に参加するとなれば,3月に予定されている大統領選に焦点が集中します.FMLNは選挙準備のため6ヶ月間の投票延期を提案しました.メキシコで選挙実施のための予備会談が持たれ,FMLNの他8政党が参加し,検討を進めました.会議はいったん投票日の延期で合意に達しますが,突然,選挙とは関係のない双方の軍事力削減の規模についての議論が持ち出され,けっっきょくもの別れに終わりました.

超スピードで進んできた和解への道は,ここでストップしました.これも裏の理由がありそうですが,現在のところ分かりません.

国会議員選挙の結果を考えれば,大統領選でもARENAの勝利は確実です.ただCDのウンゴの得票次第では,決選投票でキリ民党と組んでARENAと対決,という可能性もあります.おそらくそれは,米国の望まないところでした.

ブッシュはキリ民党が勝利するよりは,ARENAの単独支配を選びました.ただしARENAがダビュイソンの路線を継承するのでは困ります.そこでクリスティアーニをダビュイソンから切り離し,和平路線に立たせるよう強烈な圧力をかけました.Anyone but d'Aubuisson というわけです.

結局大統領選挙は当初の予定通りおこなわれました.そしてFMLNとの全面戦争を掲げるARENAのクリスティアーニが,53%を獲得し,一発で当選を決めました.要するに米国はARENAの進出を抑える手段をいっさいとらなかったということです.それはクリスティアーニを完全に取り込み,ダビュイソンとの切り離しに成功した自信の表れだったのかもしれません.キリ民党候補は36%,CDのウンゴはわずか3.8%の得票に終りました.

FMLNはこれに抗議して各地で行動を起こしますが,必ずしも本格的な戦闘ではなく,爆弾テロとか悪質軍人暗殺(彼らは「処刑」と呼ぶ)などの,比較的抑制されたものでした.

選挙後,ウンゴはFMLNのボイコット政策に不満の意を表明しますが,これは見当違いというものでしょう.おそらくFMLNは,当選後のクリスティアーニがどういう態度に出てくるかを注意深く見守っていたものと思われます.

私は,ちょうどこの選挙のあいだマナグアに滞在していました.ニュースそのものはリアルタイムで耳にはいるのですが,その意味についてはさっぱり分かりませんでした.ただウンゴがFMLNを批判したというので,両者の決裂が心配だったことを憶えています.

マナグアでのロメロ暗殺9周年記念日の集会とデモには私も参加しましたが,大統領選の直後にもかかわらず,亡命者や活動家の表情が平静だったことが印象的でした.「ベンセレーモス」というFARNの機関紙?には,「最終攻勢の日は近い」というシエンフエゴス司令官の談話が大きく取り上げられていました.

 

第二節 和平交渉の頓挫

クリスティアーニはさっそく米国に飛びブッシュと会談.ARENAに対する米国の支持を確認しました.6月,大統領に就任したクリスティアーニの下で,統合参謀本部議長に就任したのは,軍内最強硬派のポンセ大佐でした.

クリスティアーニが極右としての本性をむき出しにした,とみたFMLNは一連の破壊行動に出ます.送電塔の爆破により全土の9割が停電となりました.サンミゲルでは第三歩兵師団の司令官が襲撃されました.

この間,何回かの和平交渉が持たれますが,話し合いはまったく進展しませんでした.クリスティアーニとしては,FMLNをなめていたというよりは,米国とダビュイソンや軍内極右派とのあいだで動きがとれなかった,と見るべきでしょう.事実,CIA文書によれば,ダビュイソンはこの頃すでにクリスティアーニ暗殺を画策していました.

10月にはいると情勢はさらに険悪となります.サモラ宅に爆弾が投げ込まれました.幸い本人は無事だったのですが,和平の象徴としてのサモラが襲われるとあってはただ事ではありません.

そして10月31日,重大なテロが発生しました.サルバドル労働者連合全国委員会の本部前で車爆弾が爆発します.建物のなかにいた幹部十名が死亡,30人が負傷するという惨事になりました.おなじ日「政治囚,行方不明者母の会(COMADRES)」事務所にも爆弾が投げ込まれます.

FMLNはこれに抗議し,政府との和平交渉の停止を発表します.サンサルバドル市内でおこなわれた葬儀デモの先頭にはリベラ大司教がたちました.このデモにすら軍のヘリコプターが低空飛行で威嚇します.もはや80年の大弾圧そのままです.

 

第三節 「最終攻勢:ファシスト出て行け!」作戦

もはや大規模な軍事攻勢以外に活路は開けないとみたFMLNは,首都サンサルバドルの総攻撃を決断します. 11月11日,首都サンサルバドルを中心にサンミゲル,ウスルタン,サンタアナ,ラパス,モラサンの4つの都市で4千名の大攻勢が開始されます.

一週間にわたる戦闘のあいだ,サンサルバドル市内はまったくの無政府状態となりました.軍放送局,空軍基地は連日ロケット砲撃にさらされました.

この攻撃には,ファクンド・グアルダード司令官の冒険話もつけ加えられました.彼の率いるFMLNコマンドが,米国人のたまり場シェラトン・ホテルを占拠します.包囲されたグアルダードは奇策を考え出しました.その夜,捕虜としたグリンベレー隊員を窓際に武装して立たせたのです.政府軍が包囲を続けるあいだ,彼らは密かに闇にまぎれ姿を消してしまいました.

いうまでもなく,この作戦の目的は首都の軍事的制圧にあった訳ではありません.意義と目的を限定した闘いでした.クラウゼビッツではありませんが,まさに政治・外交の延長としての戦争です.

この作戦は「必要とあればくり返すこともできるぞ」という圧力に最大の狙いがありました.したがって引き際がもっとも肝心で,その点でも見事なものでした.それは67年のサイゴンのテト攻勢と似ていましたが,はるかに水際立っていました.

84年以降はニカラグアに隠れて,国際舞台の注目を浴びなかったのが,にわかに連帯の動きが起こってきました.中米各国の司教50人が和平交渉再開を大統領によびかけました.

 

第四節 聖職者虐殺事件

クリスチアーニ大統領は30日間の戒厳令を布告.軍はかねて準備された「ジャカルタ作戦」を発動しました.この作戦は,ゲリラが根拠地とすると思われる市内の貧困者の住宅密集地を無差別攻撃するという非人道的なものです.

なぜかラテンアメリカの極右はジャカルタが大好きなようです.チリのクーデターの時も,街のあちこちに,「ジャカルタを忘れるな」というスローガンが書きなぐられました.

1965年,インドネシアでスカルノ政権をクーデターで打倒したのがジャカルタ事件です.クーデター後政権についたスハルト司令官はインドネシア共産党員100万人を虐殺したといわれます.それにしても「死の軍団」の脅し文句なら未だ分かりますが,正規軍の重要作戦にこんな名前をつけるとは狂気の沙汰です.

作戦はその名称そのままに「狂気の沙汰」でした.空から戦闘機が無差別爆撃,地上部隊はめくら撃ちでロケット砲を打ち込みます.この攻撃で680人が死亡,5万人が家を失なったといわれます.

狂気の象徴となったのが聖職者集団虐殺事件です.戦闘さなかの16日,完全武装の兵士四,五十名が中米大学の本部を襲います.ポンセ参謀総長の指示を受けたベナビデス大佐のひきいる特殊部隊です.なお93年公開資料によれば,襲撃を指示したのは空軍司令官ブスティージョ将軍ということになっていますが,ポンセが関与していないわけはありません.

中米大学とは,1960年ころ,「アカの巣窟」だった国立自治大学に対抗して,保守派の牙城だったカトリック教会が資金を供出,中米各国に大学を建設したものです.案に相違して,こちらも「アカの巣窟」になってしまいました.ニカラグアのオルテガ元大統領も,マナグアの中米大学の出身です.もっとも教会自身が「アカ」になってしまったのですから仕方ありません.

その時,大学にはエジャクリア学長ら関係者が詰めていました.彼らはいずれも聖職者でもありました.軍隊は幹部6人を中庭に連れだし次々と射殺したのです.この際すべてFMLNのせいにしてまえという魂胆でしょう.一緒にいた女性二人も口封じのために殺されました.とんでもない「罰当たり」な話です.


第五節 サン・イシドロの屈辱

11月22日,はやくもFMLNは,国連監視下での即時停戦と政府との直接交渉を提案します.しかしこの時点で政府側に受け入れる余地があるわけがありません.交渉を始めなければならない,ということは痛感したものの,このままでは糸口がつかめません.何か一本とって相手を押し返してからでないと,極右派を納得させることはできません.

そのクリスティアーニにとって,助け船となるような事件が発生しました.11月26日,一機の飛行機がエルサルバドル東部で故障を起こし墜落します.機体からはニカラグア人とキューバ人パイロットの遺体の他,地対空ミサイルが見つかりました.発見された飛行記録から,この飛行機がマナグア近郊のモンテリマール基地を出発したことが判明しました.これはエルサルバドル当局の発表ですが,ニカラグア側はこれを否定しませんでした.

ちょうど二年前にハーゼンファス事件というのがありました.ハーゼンファスという米国人パイロットが,コントラ向けの軍事物資を積んでイロパンゴ基地を出発,ニカラグア領内で撃ち落とされた事件です.今回はちょうどその逆でした.

ハーゼンファス事件の際は知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいたエルサルバドルが,今度は色めき立ちます.クリスティアーニはニカラグアとの国交,通商関係を無期限停止すると発表,事件を12月の中米首脳会談に持ち込むと息巻きます.

その中米サミットが12月10日からコスタリカの首都サンホセの近郊サン・イシドロ・デ・コロナドで開かれました.会議はのっけから緊迫したものとなりました.他の参加国がエルサルバドルに同調するなかでオルテガは孤立.最後にエルサルバドル政府への敵対行動をとらないこと,FMLNの解体を目指すクリスティアーニの政策を支持することを約束させられます.

 

第八章 和平に向けての前進

第一節 クリスティアーニの変身

クリスティアーニは大統領就任の際,和平会談を続け内戦終結への道を探ることを米政府から強く示唆されていました.しかし大統領就任後は極右派を登用し,和平の進行をサボる強硬路線を続けました.

その結果11月の「最終攻撃」となったわけです.軍内強硬派は,弱いものいじめは得意ですが,本格的な戦闘となるとからっきしダメなことが立証されました.おまけに米国はニカラグア以外のもめ事からはすっかり逃げ腰になっています.

やるとすれば,中米首脳会談で一本とったいましかありません.ここで乾坤一擲,クリスティアーニは大勝負をかけることになります.

年が明けた90年1月7日,クリスティアーニは内外記者団を集め重大発表をおこないます.軍部が11月の神父殺害に関与していたことが明らかになったという内容です.発表によれば「情報に基づいて英,西,米の警察関係スタッフの援助を得て捜査.その結果,ベナビデス大佐の他中佐4人を含む軍人47人を逮捕した」というから驚きです.

いったいに中米諸国の軍隊には少将以上の「将軍」はいません.なぜか知らないが,そうなっています.つまり大佐というのはわれわれの感覚でいえば大将です.

しかもベナビデスという男,ただの大佐ではありません.「ヘラルド・バリオス将軍記念軍事学校」の校長であり,ポンセ統合参謀本部議長と同期にあたります.彼らの期は「タンドーナ」(大物の期)と呼ばれていました.日本でいうと「花の陸士14期」などというのでしょうか,古い話は私もよく知りませんが.

このタンドーナ・グループは軍内で一種のマフィアを形成していました.カサノバやガルシアなどと比べると一回り若く,FMLNとの関係では最強硬派でした.クリスティアーニが大統領に就任すると,まずポンセが参謀総長につき,ついで重要ポストを次々と支配することになります.

彼らの背後にはダビュイソンがおり,さらにそのバックにはコー米国大使がいます.こうなれば向かうところ敵なし,まさに肩で風を切る勢いでした.

クリスティアーニは軍内の主流で,若くてもっとも凶暴な連中に,真っ向勝負を挑んだことになります.もちろんブッシュが背後にあったればこその話でしょうが. (最初はブッシュのプッシュと書きましたが、コンピュータでブとプの違いは老眼の目には区別がつかないことがわかり、やめました)

そのあとの顛末はよく分かりません.最初タンドーナが猛反発したことは間違いありません.たとえば実行責任者とされたメヒア中佐は,そもそも報告書提出自体を拒否しました.この時点ではクリスティアーニを舐めきっていたことが分かります.コー米大使は事情を知ってか知らずか「聖職者虐殺はFMLNによるもので,軍の責任ではない」と擁護します.

こういう声はだんだん小さくなっていきました.ダビュイソンも音なしの構えです.ダビュイソンといえば,米政府筋に軍部の関与をリークしたのはダビュイソン自身だったという情報もあります.おなじ極右でもタンドーナとのあいだにはなんらかの確執があったのかも知れません.

 

第二節 和平会談の本格的再開

軍幹部逮捕をめぐる騒動がようやく治まりかけた4月,クリスティアーニは和平交渉進展の意思を表明しました.年末のサミットの結論がそうなのだから当然といえないこともありませんが,後から考えるとこの意思表明は重要な意味を持っていたことが分かります.

軍極右派との訣別を決意したクリスティアーニにとって,ニカラグアでの選挙におけるサンディニスタの敗北,反対派の代表チャモロ大統領の下でのコントラの武装解除は心強い追い風となりました.

5月5日,メキシコ市内で,FMLNとARENA,これにキリ民党,MNRなどをくわえた8政党が,和平会談を再開します.ついで2週間後に開かれたカラカス会談で,FMLNは5項目提案を発展させた「91年中旬までに内戦終結させるための和平案」を提起しました.会議はFMLN提案を中心に展開され,「9月までの政治合意」を確認して終わります.

いよいよ和平が間近に近づいたという期待が広がりました.殺人鬼ダビュイソンにとっては,クリスティアーニという飼い犬に手を噛まれたようなもので,はなはだ面白くありません.93年のCIA文書公開で明らかになったのですが,この頃彼はクリスティアーニ暗殺計画の具体化に着手しています.

 

第三節 政府軍,最後の大規模平定作戦

FMLNが和平に応じ武装解除するためには,政府軍や警察の大幅な縮小と,「清浄化」が絶対に必要です.彼らの暴力こそが,エルサルバドルをここまで惨憺たる状態にしたのです.処罰は別としても,少なくとも権力の中枢から遠ざける必要があります.それがなければ,帰順したFMLNの兵士はなぶり殺しにされてしまいます.

逆に言えば,極右暴力派にとっては,軍部こそが唯一無二の拠り所ですから,なんとしても譲り渡すことはできません.和平を唱えるクリスティアーニにとっても,その背後の米政府にとっても,これが一番頭の痛い問題でした.

7月から9月にかけ,和平交渉が一気に進行します.まず「人権侵犯行為の中止」が合意されました.つづいてFMLNは18項目の「清浄化」要求を提案しました.これには軍の2百人の将校をパージすること,死の部隊などのパラミリタリー組織を全面解体することなどがふくまれていました.

この提案は政府により拒否されますが,それが会議の内容として公表されたということは,少なくとも政府代表が200名の氏名を聞き,その名簿を受け取ったと考えられます.ここまで話が具体化すれば将校連中には脅威そのものです.

軍部はパニックに陥りました.和平交渉が開かれているあいだから,反政府要人殺害を実行し始めます.10月にはいると,もう和平交渉などお構いなしに全土で一斉攻撃を開始します.FMLNは去年の「最終攻撃」で勢力を使い果たし,弱体化しているとみたのです.

こんな甘い見通しで,しかも心理的に追いつめられた状況の下で,FMLN相手に戦争を仕掛けても勝てるわけがありません.政府軍の戦闘ヘリは次々に撃ち落とされます.自慢の機動部隊も補給が切れればただのお荷物です.これほど厄介な部隊はありません.

11月にはいると,今度はFMLN側がサンサルバドル攻撃1周年を期して全土で反攻に出ます.90年末には,勝敗の帰趨はもはや誰の目にも明らかでした.ただFMLNが正規戦による武力解放路線をとらないから,辛うじて都市部を確保しているだけです.

 

第四節 国際的力関係の判断

FMLNは常に,サンディニスタ政府とコントラの闘いを横目で見ながら,闘い続けてきました.FMLNはこの闘いに勝てたとしても勝ってはいけないことを承知していました.少なくとも87年のエスキプラス2合意のあとは,そういう覚悟はできていたと思われます.

ただ,それがFMLN側の一方的な武装解除に終わるとまでは予想していませんでした.89年の5項目提案の時点では,最低でも国軍の一部として編入されると考えていました.

結果的には,コントラと同列扱いされ,一方的に武装解除される.一方で政府軍はそのまま維持されるというのでは,なんのために闘ってきたのか分かりません.

しかしそれが国際情勢というものです.89年のサン・イシドロ会談後は,ニカラグアのオルテガ大統領に当たり散らしてみたものの,オルテガとてない袖は振れません.90年の春以降ニカラグアで進行したコントラの武装解除は,FMLNに武装解除の具体的イメージを与えたことでしょう.

いずれにせよ,エスキプラス合意の線で行かない限り,FMLNに政治的活路はありません.そのラインの行方に,選挙での勝利と民主的・合法的な政権の樹立を目指すほかありません.この路線を守る限り国際世論はFMLNの味方です.そしてFMLNにはこの路線で勝利するだけの自信もありました.

 

第五節 90年3月選挙の特徴

91年3月,エルサルバドルで総選挙が実施されました.これまでと違いFMLNは投票を妨害しませんでした.もともと90年の9月,政府軍の攻撃が始まるまでは,3月の選挙には参加するといっていたくらいです.

FMLNには,テロなしに選挙をやれば勝てるという自信があります.一度くらいアレーナに勝たせたとしても,どうということはないということでしょう.それより国連監視団が投票を監視するという今回の方式が定着すれば,次の選挙ではおおいに力になります.

国連事務総長のデクエヤルは,ペルー出身ということもあり,エルサルバドル和平にはことのほか熱心でした.和平が大詰めを迎えたとき,これを最終合意にまで持っていったことについては,デクエヤルを大いに讃えてしかるべきでしょう.

もちろん,FMLNとしては,選挙活動の安全が保障されないままでおこなわれる今度の選挙に,正式な態度としては賛成するわけには行きません.したがって支配区においては投票ボイコットを呼びかけました.同時に政府軍支配地域では,あえてボイコットやサボタージュ作戦は採らず,立候補したCDを支援するという,両面政策を採りました.

開票結果はなかなか味なものでした.ARENAは84議席中43議席を獲得し過半数に達しましたが,思いのほか伸びません.これに対し中道・左翼三党で構成するCDは13%の得票を獲得.議会内に8議席を占めることになりました.すごいといえばすごいし,こんなものかといえば,こんなものかという感じです.すくなくともこの開票結果は,和平への動きを妨げるものとはなりません.

軍と極右派はなおも抵抗を試みます.左翼候補者の殺害があいつぎました.またも大規模な掃討作戦が実行され,サポテ村では農民15人が虐殺されました.ダマス大司教は一連の虐殺の背後に存在する企みを糾弾します.

ブッシュにとって,エルサルバドルの内戦が長引くことは都合の良い話ではありませんでした.4月はじめ,湾岸戦争で一躍ときの人となったパウエル統合参謀本部議長を,中米に送り込みます.パウエルの中米歴訪は,直接的にはニカラグアの事態への警告と考えられます.このころニカラグアでの保守派の巻き返しに対し,サンディニスタ派が激しく抵抗し,内戦再発かという事態になっていました.

彼は中米諸国の軍部との協議のなかで,「エルサルバドル交渉決裂の際は軍事介入もあり得る」との考えを示唆します.すなわち「第二のパナマにするぞ」ということです.パウエルこそはパナマ侵攻作戦の総司令官でもありました.ブッシュはこれに対応して,クリスティアーニ政権に対する軍事援助再開を決定すると発表します.

 

第六節 最初の身のある合意

90年4月末,和平会談で重要な進展がありました.政府管轄下の「真相委員会」の設置で合意したことです.この委員会は,極右・軍部の人権侵害を具体的に究明し,責任を追及する機関となります.同時に憲法を改定し軍の文民政権への従属を明確にすることでも合意されました.

和平交渉が始まって以来,初めての内容のある合意です.FMLNのアンダル司令官(共産党書記長)は会議後の記者会見で,「この合意は構造的な変化をうむ機会となるだろう」と論評しました.

和平のための最大の難関は,FMLN活動家の身の安全の保障です.これは8月に一定の決着を見ました.国連が監視団(ONUSAL)を送り,軍・警察の動きについて監視し,重要な場面では監視団を送り込むという内容です.これで果たして安全が保障されるか,保障はできません.

しかし,この問題をこれ以上議論しても解決の方向は出てきません.FMLN側が一定のリスクを承知の上で決断するほかありません.むしろこの問題をクリアすることで,その後の話が具体的になってきます.

次の議論は,FMLNの武装部隊をどう武装解除するか,武装解除したあとの兵士をどう扱うかということです.FMLNは国軍への編入を強く求めました.FMLN側が重要な妥協をしたのですから,次はクリスティアーニの側です.しかしこの問題ではクリスティアーニは譲りませんでした.譲れなかったという方が正確かも知れません.

交渉が暗礁に乗りかけた時,デクエヤルが助け船を出しました.FMLN兵士の問題を軍事力の問題ではなく,退役兵士の生活問題として考えようという提起です.彼は,国軍とは別にあらたに全国市民警察を創設し,そこにFMLN兵士を編入するという提案をおこないました.もちろん,国軍にとって脅威とならない程度の軽武装という条件です.クリスティアーニ(と米政府)は熟慮の上この提案を受け入れました.これで決定的な事項について妥結が成立しました.

9月中旬から,ニューヨークの国連本部で,最後の詰めの会議がおこなわれました.FMLNからはハンダル司令官,政府側からはサンタマリア法相が出席,これにデクエヤルがつきっきりで対応しました.ついに25日最終合意書が締結されます.この合意書では,和平プロセスを監督する平和促進全国委員会(COPAZ)の設置,軍改革など和平達成のための条件と保障処置などももりこまれました.

合意書では,FMLN支配区での農地改革の実績をどう継承するかなど,いくつかの重要問題が残されていました.それと両派ともに,この合意について関係者の了解と支持をとりつける必要がありました.

1カ月半のあいだをおいて,まずFMLNが全土で一方的停戦措置を命じました.ついで11月21日,今度はクリスティアーニ政府が,政府軍の空軍作戦と砲撃を中止するよう指令を発します.さあ,政府軍と極右はどう反応するでしょうか.みんなが固唾を呑んで見守っていました.

ここまで追いつめられると,政府軍も手を出せません.おまけに極右の領袖ダビュイソンは胃ガンとなり,末期を迎えるようになります.ついに和平が実現したのです.

12月,国連本部で和平協定作成の作業が急ピッチで進みます.これまでの遅々とした道のりに比べ,それは信じられないほどの早さでした.FMLNであろうとアレーナであろうと,みんなが,この時期を逃したくないと懸命だったのでしょう.

協定の柱は次のようになっています. (1)人権擁護弁務官と人権侵害の真相解明委員会の設置 (2)政府軍の全面改組縮少(5万から1万に)と政府への従属 (3)DINAの解散,警察の再編と国家市民警察(文民統制下におかれて治安維持の任務を果たす)の創設 (4)FMLNの武装解除と政党への転換,ゲリラ戦士の社会復帰と人権の尊重 (5)土地改革の実施,国家再建計画のための経済社会協約会議の設立.

 

第七節 ついに和平協定調印

明けて1991年1月16日,メキシコ市で和平協定が調印されました.2月1日,和平協定が発効し,この日を期して「恒久停戦過程」に入りました.内戦は事実上終結しました.FMLNは「武装闘争の時代の終了」を宣言します.そして政治・市民運動により民主主義革命を深化させると宣言します.

協定成立を見届けたかのようにダビュイソンが息を引き取りました.畳の上で大往生というのは,彼には似合いません.断頭台の露と消えるべきだったと思います.

ともあれ内戦は終了しました.12年のあいだに7万5千人が死亡しました.百万人が亡命しました.FMLN内にも1万4千の犠牲者を出しました.

この内戦,世間一般にはFMLNの負け戦と思われているようですが,実体はそうではありません.さすがに勝ち戦とは言えませんが,勝てなかったのは直接戦闘において軍事的に勝てなかったのではなく,国際環境との関連で勝ってはいけないことになってしまったからです.

いままでこの文章を読んでくださった方には,そのことが分かっていただけたと思います.

これはFMLNへの思い入れのあまり,さまざまなできごとのなかから都合の良いところを抜き取って文章を構成したわけではなく,基本的な事例を素直に並べ直しただけで自ずと浮かび上がってくる事実です.

もし必要に迫られてエルサルバドルにかかわるようになった人は,この点を踏まえてものを見ていただけると,いろんな出来事が,私の観点とぴったり符合していることに気づくでしょう.

とりあえず,この文章を閉じさせていただきますが,もちろんFMLNの闘いは現在もなお進行中です.ニカラグアと同じように党分裂の危機にも直面しました.しかしFMLNにはそれを乗り越える力が,未だ十分残っていると思います.

2000.3.16 

この項とりあえず完