ハイチ史メモ
はじめに
今の時期,ハイチの歴史を書くのはしんどい作業です.そういうときに限って書かなければならないのが,世のならいです.せめてもの慰めとして「メモ」という言葉を付け加えておきます.
ハイチの音楽はなかなか優れたものです.国際的にはブークマン・エクスペリアンスとかエムリン・ミシェルなどが有名ですが,私はブッカンギネというグループが好きです.彼らの演奏するリズムはきわめて複雑です.
良く分りませんが,8分の6拍子をベースにして8分の9拍子になったり,時には8分の12拍子まで細かく音を刻みます.これだけ音を細かく刻みながら,変拍子で揺らすと,音は一種のうねりのように聞こえるようになります.
これはレゲエのように庶民的ではありませんし,サンバのように舞踏的でもありません.むしろ高踏的というべきでしょう.私が想像するには,カパイシアンにかつてクリストフ皇帝が建てたサンスーシー宮殿での演奏にふさわしいのかもしれません.
ダンスパーティーでガーナの留学生が踊ってくれたダンスも,ほとんど体を動かさず,横に広げた手の指先と足のつま先で微妙な表情を作り出していました.8分の12拍子で踊るとすれば,絶対こうなりますね.
言いたいことは,ハイチが世界の進歩から取り残された貧しい国だという見方は一面的かもしれないということです.南北アメリカ大陸にすむどんな黒人にも増して,「もののふの伝統」をしっかり残した王国の末裔たちの国という側面を持っているのではないかということです.それも一面的かもしれませんが….
T フランス領サンドマングの成立
@コロンブスの上陸
バハマからキューバの沿岸を探索したコロンブスは,ウィンドワード海峡を横切り,1492年12月6日,現ハイチの北西の端サン・ニコラス岬に到達しました.原住民はこの島を「母なる大地」(キスケーヤ)と呼んでいましたが,コロンブスはそんなことにはお構いなく,この島をエスパニョーラ(小スペイン)と命名します.
その後島の北岸を東に向かったコロンブスは,今のカパイシアン近くで,グアカナガリ首長ら現地民約千名の歓迎を受けたといいます.コロンブスはここを新世界探検のための基地と定め,ナビダー砦を建設します.
ナビダーとはスペイン語でクリスマスのこと.コロンブスを乗せたサンタマリア号は,1492年のクリスマスの日,風により座礁し壊れてしまいます.コロンブスはこれを神の啓示と受けとめ,サンタマリア号の残骸を利用して砦を立ててしまいました.どこまで本気で信じていたかは分りませんが,コロンブスの不屈の闘志は,このあと4回の航海を通じて遺憾なく発揮されます.
ところでサンタマリア号は,大西洋を横断したとは思えないほどのこじんまりとした船です.その廃材でできた「砦」ですから,掘建て小屋に毛が生えた程度,タカが知れたものでしょう.コロンブスは,ナビダー砦に守備隊を残し,いったん本国に帰ります.新世界発見の報を受けたスペインは沸きかえります.イサベラ女王はコロンブスに17隻千5百名の船団を預けます.第一回目の航海がわずか3隻であったのと比べるとえらい違いです.
コロンブスを待っていたのは,ナビダー砦の焼け跡でした.住民たちは,「サンタマリア号乗組員は黄金をもとめて,シバオのほうに出かけた.それきり帰ってこない」と伝えました.ディエゴ・デ・アラーナ司令官以下39名は,奥地シグアヨスを支配するカオナボ首長と争い,殺されてしまったのです.
非はどうもスペイン側にあったようで,黄金をもとめ現地の人から金品を略奪したようです.住民たちの話だけでは,ナビダー砦が焼けてしまった原因がわかりません.おそらくこの住民たちも戦闘に関与していたのではないでしょうか.
コロンブスの第二回目の航海は誤算続きでした.そもそも,コロンブスの新世界発見そのものが誤算の上に成り立っていたわけですが,一回目はそれが思わぬ僥倖となり,二回目は裏目裏目と出て行くのです.ただしそれは,「ハイチの歴史」に細かく書き記すものではありませんので,以下は省略します.
A無人の島となったエスパニョーラ島
コロンブスはエスパニョーラ島北岸をもう少し東に進み,現ドミニカ領のイサベリアに,新世界最初の首都を建設します.やがて首都は島の南側サントドミンゴに移され,北岸の地位は低下します.
1519年にメキシコのアステカ帝国が占領され,35年にはインカ帝国が征服されました.スペイン人は先を争うように新大陸へと向かい,エスパニョーラ島は火が消えたように寂れてしまいます.「小スペイン」という呼称はいささか身に余るものとなり,人々は島の首都サントドミンゴの名で島全体を指すようになりました.
もともとハイチという言葉は,島の北西部の先住民のもので「山の国」という意味だそうです.新世界の中でも辺境化したエスパニョーラ島.そのなかでも自他ともに認める辺境地帯です.先住民が疫病やスペイン人による虐殺により絶滅した今,ハイチ地方はまったくの無人の野となりました.
Bトルトゥ−ガ島とフランス人海賊
ハイチの北岸ポール・ド・ペ(Port de Paix)に接してトルトゥ−ガ島という小さな島があります.現在はフランス語でトルテューと呼ばれます.英語呼びすればタートル,つまり亀島です.小さな地図では名前も載っていないほどの島ですが,海賊ものに興味のある人にとっては,いわば聖地のひとつです.
17世紀の初め頃から,フランス人やイギリス人がこの島に住み着くようになりました.その背景としては祖国フランスで聖バーソロミューの大虐殺と呼ばれるユグノー教徒の弾圧があり,これを逃れた人々が「さまよえるフランス人」となり,新世界に出没するようになったとのことです.
フランス人はブラジルやフロリダへの入植を試みますが,そのたびにスペイン人やポルトガル人に追い払われてしまいます.フランス人も黙って追われていただけではありません.海賊となって各地を荒らしまわります.トルテュー島の住民たちも,ときに徒党を組んでスペイン戦を攻撃するなど海賊行為を働くようになります.
海賊というとドレーク船長やモルガン船長などイギリス人が有名ですが,とくに最初の頃は,むしろフランス人海賊のほうが多かったくらいです.とくに有名なのはハバナを数回にわたり攻撃したロベ・バール(Rover-Baal)船長,サンチアゴ・デクーバを1カ月にわたり占領したジャック・ソワール船長などです.
海賊の呼称 フランス人たちは野生化した牛などを捕らえては燻製にし,通り掛かりの船に売ったりして生計を立てていたようです.スペイン人は,食人種カリブ族が人肉を干すのと同じ方法で乾燥牛肉を作っていると噂するようになりました.カリブ族が干し人肉をブカンと呼んだことから,かれらはブカニエ(英語でバカニア)と呼ばれることになります.
ただしこれには諸説紛紛で,もう少し穏当なのには,燻製作りのための炭焼きがまをブカンと呼んだとの説もあります.彼ら自身はブカニエと呼ばれるのは好きでなかったらしく,冒険者を意味するオランダ語源のフィリバスターと自称していたようです.
1633年,フランス本国はトルテュー島の確保を目指して本格的に動き始めます.フランソワーズ・ルヴァシュール(Francois Levassuer)が知事に任命されました.この人は果たして現地に赴任したのかどうか分りませんが,とにかく死ぬまで20年間,トルテューの知事を務めます.そして機会をうかがっては本島への植民を試みます.
フランスがどうしてこの小さな島にこだわったといえば,海賊の保護のためです.この頃カリブで活躍した海賊は,本国からのライセンスをもらった「私掠船」というものでした.海賊行為は,本国同士が戦争している場合は準戦闘行為と見なされたのです.
フランス人海賊として最も有名なのがロジョノワ(L'Ollonois)船長です,彼はトルテュー知事の公認の下に,カリブのスペイン植民地への襲撃を繰り返しました.キューバの西端ピナル・デル・リオ州を襲撃した作戦は語り草になっています.デ・ロス・カヨスという港を襲撃したのですが,海賊をやっつけるため首都ハバナからフリゲート船がやってきました.ロジョノワはこれを迎え撃ち,逆襲に成功しました.そして金品を掠奪し,乗員をみな殺しにしてしまうのです.
ロジョノワは最後に,ニカラグア海岸で原住民に捕らえられ,生きながら八つ裂きにされたそうです.やはり由緒正しい海賊というのはそうでなくてはなりません.
当時の国際的力関係は,現在とはずいぶん違っていました.スペインのハプスブルグ朝は衰えたりとはいえ世界の覇権を握っていました.とくに新世界における支配は絶対的なものがありました.フランスは17世紀半ばに太陽王ルイ14世が即位するまでは,スペインの後塵を浴びる存在でした.
これが1650年の西仏戦争ではっきりと力の逆転を示すようになります.数回にわたる掃討作戦で甚大な被害を受けてきたトルテューのフランス人は,ピレネー条約で安全を保証されるようになりました.それどころかサンドマングの西半分への入植権を事実上保証され,続々と本島に移住するようになります.
C海賊の島から宝の島へ
1664年,フランスは西インド会社を創設します.狙いはサントドミンゴでの砂糖キビ栽培の開発です.ルイ14世は戦争に勝った勢いでエスパニョーラ島西部に対する領有権を主張,サンドマングと呼ぶようになります.
すでに56年からトルテュー知事をサンドマング知事と改めますが,本格的に植民地建設に乗り出したのは3代目のドジェロン(Bertrand d'Ogeron de la Bouere)が最初です.彼は10年にわたり知事を務め,サンドマングにおけるフランス支配の確立に尽力します.
ドジェロンはまずトルテュー島を要塞化する一方,本島側に進出し,ポ−ル・ド・ぺ周辺を占拠しました.折からフランスとスペインは戦争中です.トルテューの残党は西インド会社の私兵団となりスペイン船を襲撃します.新世界全体を守るスペイン軍に対し,フランスは一点突破ですから気楽です.またたくまに北部3県はフランスの支配下に置かれることとなりました.
ルイ14世はサンドマングへの奴隷貿易を認可.黒人奴隷の労働と西インド会社の旺盛な投資に支えられて,農業が飛躍的に発展します.最初はタバコ栽培が柱となりましたが,まもなく砂糖,コーヒー,カカオ,インディゴ,綿などの栽培がさかんとなります.
Dリュウイック条約の締結
17世紀の末,みたびフランスとスペインが戦争を開始します.もうこの頃はスペインはすっかり落ち目で,戦争をやっても負けてばかりです.今回も負けて,ついに正式にエスパニョーラ島西部をフランスに割譲することになります.
この条約の名前はリュウイック条約と呼ばれます.リュウイックは条約の結ばれたオランダの村の名前です.RystwikとRyswickの二つの表記があり,日本語表記もリュウイックだったりライスウエイクだったりします.オランダならライスウエイクと発音しそうですが,フランスの歴史の上で語るのであれば,リュウイックと読んでおいた方が通りが良いかと思います.
こうしてフランス領サンドマングが成立.ポール・ド・ペーより東側のカプ・フランソアが首都と定められます.砂糖栽培は北部から中部,南部へと拡大していきます.18世紀半ばからは,主として山間部にコーヒーが栽培されるようになり,これも世界の総生産量の半分を占めるようになります.
莫大な儲けをあげるようになったサンドマングは,西インド会社に独占させるわけには行かないと,ルイ一四世は特許を廃止し,国王の直轄植民地にしてしまいます(1724年).その後,国をあげての開発事業により奴隷制砂糖プランテーションが急速に拡大していきます.
フランス料理が盛んになった背景にも,ふんだんに使えるようになった砂糖が関係しているのでしょうね.
U 黒人反乱の開始
@黒人奴隷の「輸入」
サンドマングの気候・環境はヨーロッパ人にとっては過酷です.さらにマラリア・黄熱病・デング熱など熱帯病がはびこっています.ハイチ独立戦争に干渉するため派遣された白人部隊は,その7〜8割が病死してしまいました.砂糖キビの栽培も過酷な農業です.どうしても暑さに強い黒人奴隷の労働が必要になって来ます.
17世紀半ばまで無人の野山だったサンドマングは,100年後には50万人の人口を擁する大国となります.その9割は黒人奴隷でした.これは多民族国家というより,白人が統制する黒人国家です.しかも両者の関係は極端に反民主的なものです.これで反乱が起きないほうが不思議です.
85年に制定された黒人法(CODE NOIR)では,すべての黒人をカトリックに入信させ,ブードゥー教を禁止しました.奴隷はプランテーションからの外出を禁止され,奴隷主の許可のない結婚,私有財産の保有も許されませんでした.
人間のできの良し悪しを言うのもなんですが,白人支配層は,祖国では食い詰め者か余され者.それに対し黒人奴隷には,アフリカで威を張っていた層もまじえています.土俗宗教だけでなく,イスラムに改宗したものも少なくありません.部族間戦争で負けた側の戦士が捕らえられ,売り飛ばされるケースもたくさんありました.
仕事がきついのも辛いですが,愚劣なボスの下で働く辛さは,耐えがたいものがあるでしょう.
A逃亡奴隷(マルーン)の集団
すでに1671年には最初の黒人奴隷の反乱が起きています.その20年後にははるかに大規模な黒人暴動が全島規模で発生しています.そのあいだおとなしくしていたかとうと,そうではありません.多くの逃亡奴隷(マルーン)が山に逃れ,自給自足をしながらアフリカ風の生活と文化を取り戻していました.
もちろん山でとれるものだけでは生きて行けませんから,農園の近辺に出没しては襲撃を繰り返します.大きなものでは数千の規模に達したといいますから,ひとつの立派な部族国家であり,ゲリラ軍であります.
Bマッカンダルの反乱
このような黒人の反乱の中でもっとも名高いのが,1751年に発生した,マッカンダル(Mackandal)の反乱です.指導者フランソワ・マッカンダルはモスレムの医術師で,逃亡奴隷の一群を率いていました.彼はただ白人に反抗するだけではなく,白人を駆逐し独立した「アフリカ王国」を建設しようと目指しました.
マッカンダルの毒:何も武器を持たぬ逃亡奴隷にとって最大の武器は「頭」でした.マッカンダルは医術師としての知恵を元に強力な毒物を開発します.これを数百人の奴隷主に飲ませ,その水道に流し,家畜に与えたといいます.
サンドマングの首都カプフランソア周辺は砂糖キビの大農園が広がります.マッカンダルはここを舞台に,神出鬼没の大活躍を続けます.農園を襲っては黒人奴隷を解放し,それをゲリラ部隊に訓練していくわけですから,人的資源は無尽蔵です.
57年に捕らえられたマッカンダルは,カプフランソアの広場で火あぶりの刑に処せられます.これまでの死者は6千人に達しました.これは当時のサンドマング人口の1%にあたります.その後もマッカンダル生存説がブードゥーのあいだで語り継がれたといいます.
V フランス革命とサンドマング
@サンドマングにおける地域・人種・階級構成の変化
急速な産業発展にともない,サンドマングには大きな地殻変動が起きていました.それはフランス革命が起きようと起きまいと,いずれ決着を迫られるものでした.
まず開発が北部から南部へと拡大していったことです.これは多様な意味を持ちます.
北部は砂糖キビ大農場を基盤とするグラン・ブランと呼ばれるフランス人地主の世界でした.同時に黒人奴隷のほとんどもそこに住み働いていました.これに対して,既得権のおすそ分けに預かれなかったプティ・ブランと呼ばれる下層白人,解放奴隷の黒人やさまざまな色合いのムラート(混血児)たちは新天地を目指して南ヘ向かいました.
とくに山ばかりのサンドマングには珍しく平野の広がるポルトープランスは,1749年に建設されてから急速に発展を遂げました.ムラートはさらに南に進み,カリブ海岸のジャクメルに根拠地を形成します.多量の奴隷労働力を要する砂糖キビの代わりにコーヒーなどの栽培が主流となっていきます.
もちろん,これとても,それなりに奴隷労働を必要とするのですが,とにかく儲けが大きい.輸出額では砂糖と肩を並べるまでに至ります.こうして人口は南部で爆発的に増加し,ポルトープランスはカプフランソワをしのぐ規模に成長します.
つぎに黒人の地位向上をもとめる運動の高揚です.87年,英国でトーマス・クラークソンらが奴隷貿易制限委員会を結成しました.白人たちによる奴隷制廃止運動は,黒人当事者を排除したいわば上からの運動であり,撤廃主義(アボリショニズム)と呼ばれていました.
これに呼応する形でパリでも奴隷制反対協会(Les Amis des Noirs)が結成されます.メンバーにはラファイエット,ミラボー,ロベスピエールなどすごい顔ぶれがそろいました.メンバーからも分るように,フランスにおけるアボリショニズムは,フランス革命と分かちがたく結びついていました.
サンドマング国内では,奴隷制廃止などとんでもないという白人がほとんどでした.しかしポルトープランスを中心に,奴隷制廃止に理解を示す白人がいなかったわけではありません.
この時期黒人(というより有色人種)への差別撤廃を求める運動の先頭に立ったのは,主にムラート富裕層でした.
サンドマングにおける4つの問題
@フランス革命に対する態度(王道派か共和派か),Aサンドマングの独立をめぐる態度(残留か独立か),B有色人の権利をめぐる態度,C奴隷制度の撤廃をめぐる態度,
サンドマングの植民地では,砂糖,コーヒーのほかカカオ,インディゴ,タバコ,綿,サイザル麻が栽培された.
奴隷労働と肥沃な土地,理想的な気候により,西インド諸島そして世界の歴史のなかで,おそらく最も豊かな植民地であった.
フランス革命の時,ハイチ国内には4つの集団があった.
@白人,
白人は二つのグループに分けられた.
(A)グラン・ブラン,
グランブランの要求は米国独立戦争の指導者たちと同じだった.地位向上より自由貿易と独立を願った.彼らは本国より米国との経済関係を重視した.グランプランは自由貿易のために自由有色人と連合した.しかし彼らの同等な政治的地位を認めようとはしなかった.
b,プティ・ブラン
プティブランは数においても力においても重要ではなかった.彼らは数人の奴隷を抱えることはあっても,グランブランほど裕福ではなかった.独立志向は乏しく,フランス革命を支持する傾向をもっていた.しかし自由有色人への対抗意識は強く,自由有色人が増えれば,彼らの生活を脅かすものと見ていた.したがって奴隷制度を強く支持していた.
A自由有色人,
自由有色人は89年時点で約3万人であった.彼ら自身が奴隷所有者であり,奴隷制維持の立場にたった.
彼らは総じてプティブランより豊かであった.時にグランブラン並みの財力を持つものもあった.そのことがプティブランの憎悪を掻き立てた.
(A)ムラート
その半分は白人が黒人奴隷に生ませたムラートだった.彼らは白人のように扱われることもあったし,まったく無視されることもあった.彼らを奴隷に地位に置くことはシステムの危機を生み出す可能性があるため,奴隷の環境からは外された.
彼らは黒人奴隷を階級的と見なし,アフリカ文化を拒否し,白人文化との同一化を求めた.戦略目標はグランブランと完全に一致するが,プティブランの圧力を受けたグランブランは自由有色人の政治的権利を認めなかった.
b解放奴隷
残りの半分は,持ち主から解放されたか,自ら自由を買い取った元黒人奴隷だった.一部の解放奴隷は奴隷制廃止に向かった.
自由有色人は,白人と同等の権利を求めたが入れられなかった.彼らはフランスからの独立と奴隷制国家の樹立を求めた.
B黒人奴隷,
革命直前にサンドマングには50万の黒人奴隷.うち40万人が農場奴隷,10万人がドメスティック奴隷だった.
(A)ドメスティック奴隷
彼らはコック,召使,庭や建物の職人として働いた.彼らは農場奴隷たちの革命に反対し,所有者に対し忠誠を守った.
b 農場奴隷
サンドマングでの奴隷システムは、新世界の中でも特に残酷だったといわれます。奴隷と奴隷主との比率がきわめて高かったことが原因とされます.奴隷主は常に奴隷の反乱におびえていました.
彼らは一般的に家畜よりはるかにひどい扱いだった.日の出から日没まで農場で働かされ,不十分な食事しか与えられなかった.医療はまったくない.読み書きは禁止された.
農場主は彼らの健康に気を使うよりは,新しい奴隷を買って取り替えたほうが簡単だと思っていた.
したがって反抗にたいする弾圧もきわめて過酷だった.逆に逃亡奴隷に対しては,社会秩序を壊さない限りは,比較的鷹揚だった.
C逃亡奴隷.
多くの学者は数万人が逃亡奴隷として生活していたと推定している.逃亡奴隷は山奥で自耕自給農業を営み,アフリカの建築様式,社会関係,宗教や習慣などを保ち続けた.
彼らは過去二回にわたり大規模な反乱を起こした.彼らは奴隷制にはもちろん反対だったが,自らが,お目こぼしにあずかった逃亡者であることもわきまえており,単独で自由と解放のために闘う気持ちはなかった.
「排他制度」(exclusif):サンドマングは、輸出も輸入もフランスのみを相手に行わなければならないという規制.これによりフランス側は価格を意のままに決め,国際競争に打ち勝つことができた.
この影で密貿易が横行した.米国にはラム酒の原料となる糖蜜が輸出され,奴隷の食料となる干し魚が輸入された.密貿易に携わったのは,グランブランと富裕な自由有色人だった.
Crête à Pierrotに関しては,WEB上にすごいサイトがあります.Madison Smartt Bell という小説家のページでThe Stone That the Builder Refusedという自作小説の紹介をしていますが,その第28章がCrête à Pierrotの戦いにあてられています.この章はインターネットで全文読むことができます.もちろん小説ですから虚実織り交ぜられていますが,よくこれだけ!と感心するほど詳しいものです.写真だけ拝借させてもらいます.
もうひとつ,とんでもないサイトを見つけてしまいました.Toussaint L'Ouverture: A Biography and Autobiography: Electronic Edition. というものです.University of North Carolina at Chapel Hill という大学が無料で公開しているものです.ダウンロードはしてみたものの,とても読む気は起きないくらいものすごい量(テキストファイルで400キロ)です.
フランス革命大解剖というサイトがあります.ここに「出来事・用語」のページがあり,大変重宝します.
フランスの国旗。赤と青はパリ市の色。その中間にブルボン王家の白をはさんだ。考案したのは立憲王制派のラファイエット将軍で、国王と市民との間の橋渡し役を演じていた彼の立場をも象徴しいている。当時誰も共和制を考えるものはなく、白色を挿入することはむしろ歓迎され、国王も3色の構成を拒否しようとはしなかった。
フランス革命大解剖
アメリカ独立戦争とハイチ