第五章 ソモサ時代の始まり

 

第一節 ソモサ,大統領に

ソモサの行動は迅速でした.サンディーノの農園を急襲し,元兵士たちを一網打尽にしました.ついで保守党が優位をしめる議会に武装デモをかけ,強引に解散させました.それはイタリアの独裁者ムッソリーニが権力を握った方法を真似たものでした.そして最後にサカサを辞任に追い込むと,事実上自らを唯一の候補とする茶番選挙で大統領に就任します.

ここまでのプロセスはすべてマナグアの米大使館と打ち合わせ済みのものでした.ソモサ新大統領はさっそくワシントンにご機嫌伺いに参上します.米国内でのソモサの評判は至って悪いものでした.国際的ヒーローのサンディーノを虐殺し,議会をないがしろにし,大統領を放逐したファシストということになれば,いい評判があろう筈がありません.当時の大統領ルーズベルトはこういってソモサを弁護します.「ソモサは売女の子だ(Son of a Bitch) しかし売女たる我々の息子だ」

 

第二節 第一次ソモサ王朝

ワシントンの雰囲気を敏感に感じとったソモサは,さっそく子飼いのファシスト暴力部隊「青シャツ団」を解散させます.そして反ファシズムの姿勢を打ち出し,労組や左翼政党の活動に対する弾圧の手もゆるめます.一方でドイツ人入植者の資産を没収し,捨て値で自分の会社に売却するなど蓄財にも余念がありません.

3期12年にわたり大統領を務めたあと,さすがに国内外の批判が強まりました.彼は穏健野党である独立自由党のアルゲージョを身代わり候補にたて,院政を敷こうとします.しかしその大統領がソモサに反旗を翻しました.

これに対するソモサの反応にはすばやいものがありました.48年4月,彼は国家警備隊を動員して政府を転覆します.身内を臨時大統領に据え,積年のライバル,チャモロと密約を結びます.「将軍の協定」と呼ばれるものです.これにより議会の1/3が自動的に保守党のものとなり,そのほか政府にかかわるさまざまな利権を山分けすることで手打ちしました.

この合意を元にソモサはまたもや大統領に返り咲きます.これが「50年体制」と呼ばれるものです.この体制は折からの好況,綿花ブームの到来により支えられました.こうしてソモサ支配の時代はサンディーノ殺害から20年以上も続くことになるのです.

 

第三節 ソモサの暗殺

この間,ニカラグア人民は沈黙を続けていたわけではありません.40年には学生による独裁反対の暴動が起きました.この闘争を指導したのはチャモロ家の一員,ペドロ・ホアキン・チャモロです.48年にはソモサに反旗を翻したアルゲージョ大統領と呼応して,各地で独立自由党の反乱が起きました.マタガルパでは,後にFSLNを創設することになるカルロス・フォンセカも反乱に加わったといいますが,計算するとこの頃はまだ小学生です.

54年には軍や政府の幹部子弟がソモサ打倒の謀議を企てていたことが発覚し,大問題になります.この謀議に加わったフェルナンド・カルディナルは,その後出家し詩人として一家をなすことになります.その一方,聖職者としてのカルディナルは,ニカラグア湖に浮かぶ小島ソレンティナメで貧困者の共同体づくりに励みます.ソレンティナメの人々はやがてFSLNに結集.76年には,反ソモサ大衆反乱の先駆けとなったサンカルロス兵営襲撃事件を担うことになります.

55年頃からは,長いこと弾圧されていた共産党(ニカラグア社会党と改称していた)も組織活動を開始しました.社会党は御用組合が幅を利かせていた労働者よりも,とりわけ学生のなかに影響力を拡大していきます.

このような状況のもと,ニカラグアは一人の革命的テロリストを生み出すことになります.ニカラグア革命の4人の英雄の一人,レオン出身の若き詩人,リゴベルト・ロペス・ペレスです.ロペスは48年の反乱にも参加した独立自由党の活動家でした.ホンデュラスに亡命していたロペスは,果然,ソモサ暗殺を決意します.

彼は一丁のレボルバーを手に入れると,レオンに潜入しました.折からソモサは次期大統領選に出馬すべくレオンを遊説中でした.演説が終わってパーティーが始まりました.会場で談笑するソモサの周りにそっと近づいたロペスは,その胸めがけ必殺弾を御見舞しました.ガードがたちまちロペスを取り囲み,その体が蜂の巣になるまで銃弾を撃ち込みます.ロペスは即死でした.

一方ソモサは,時の米大統領アイゼンハワーの指示により,パナマの米軍病院に輸送されました.そこで必死の救命治療がおこなわれますが,数日後ついにソモサは息を引き取ります.第一次ソモサ王朝の終焉です.

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