第七章 反ソモサ闘争の高揚

 

第一節 パンカサンの闘い

国内の反ソモサ勢力がソモサの野蛮な弾圧により抵抗の道を見失ったとき,国民の前に解放の旗を高く掲げ,行く道を指し示したのがFSLNでした.

この年までにFSLNはさまざまの試行錯誤を経てゲリラとしての体裁を整えるようになってきました.彼らはマタガルパ東方30キロのパンカサンに根拠地を形成し,付近の農民の支援も受けるようになってきました.

彼らはソモサの暴挙に対し敢然と抗議の声を上げます.そしてマタガルパ周辺での武装宣伝作戦,破壊工作を開始しました.しかしパンカサンをシエラ・マエストラに見立て,断固死守の作戦に出たことは間違いでした.

5月,掃討作戦に出た軍によりゲリラ部隊は徹底的に蹴り散らされます.敵の奇襲により隊員の過半数が戦死,残りも命辛々逃げ出すという結果になりました.

これは確かに惨敗には違いないのですが,ソモサと真っ向からたたかう唯一の集団ということで,青年層の支持は一気に高まりました.それまでキリスト教系の政党が執行部を握っていた大学自治会はサンディニスタ系がとって代わりました.なによりもキリスト教系の学生が一気に左翼化してきました.

それまでニカラグアにはたった一つの大学国立自治大学しかありませんでした.この大学はレオンに本部をおいていますが,法学部はマナグアに配置されているようです.このほか,60年代に入ってカトリック系の中米大学も創設されました.オルテガ元大統領はこちらのほうの出身です.

 

第二節 マナグア大地震

初めてニカラグアを訪れた人は,マナグアの荒廃ぶりに驚きます.壊れかけ朽ち果てたビルディング,がれきの山,これらはすべてマナグア大地震の爪痕です.

72年12月,マナグアを襲った大地震は数万の死者を出しました.煉瓦づくりの建物が多いこの国は,いったん地震が来ると,多くの人が倒壊した建物の下敷きになって死んでいきます.神戸大地震の数倍という規模の大地震には,当時世界中から多くの支援物資が寄せられました.ソモサはその資金のほとんどを着服してしまったのです.だから,倒壊した建物を整理することすら出来ず,未だにその残骸をさらしているのです.

当時ソモサは大統領ではありませんでした.71年にすでに任期が切れ,再選を果たすのが難しいとみた彼は,父に倣って保守党と手を結び,三人執行体制をでっち上げました.クピア・クミ協定と呼ばれます.

ソモサは大地震を期に非常事態を宣言.まんまと独裁権力を手にします.そしてそのまま第二期目の大統領になってしまいます.このようなえげつないやり口が国民の憤激を呼ばないはずはありません.保守党は分裂し,チャモロの率いる民主保守党は公然とソモサ批判のキャンペーンを開始します.

 

第三節 パーティー襲撃事件と戒厳令

このような国民のうっぷんを晴らしたのが,FSLNによるパーティー襲撃事件でした.75年12月25日,ソモサ内閣で農務大臣を務める大立物がクリスマス・パーティーをおこないました.各国大使や大臣をふくめ大物が勢揃いしました.ソモサ一族も多数参加しています.

そこへ飛び込んだのが覆面姿の若者およそ十名です.リマの日本大使館占拠事件を思い出していただければ想像つくでしょう.彼らは参加者を人質に取り,次のことを要求します.仲間と政治犯の釈放,身代金,ハバナまでの飛行機,彼らの声明の新聞掲載です.

彼らの要求はほぼ認められ,無事ハバナへ逃亡することが出来ました.この時解放されたのが,のちの大統領ダニエル・オルテガ,日本にも来たドリス・ティヘリーノなどです.ティへリーノは自らの身につけられた拷問のあとを公開し,全世界に衝撃を与えます.

まんまとしてやられたソモサは怒り心頭に達しました.彼はただちに戒厳令を公布,FSLNといわず野党指導者までも片っ端から捕まえ,パラミリタリーを使って労組や農民活動家を誘拐,殺害しました.最高指導者フォンセカの他,パーティー襲撃事件を指揮したコントレーラス(コマンダンテ・セロ),70年に華々しいハイジャック事件を引き起こしたペドロ・アラウスらが次々と犠牲になっていきます.

 

第四節 FSLNの分裂

空前のきびしさに直面し,FSLNは運動の建て直しを迫られます.このときあらたな運動の方向をめぐって深刻な対立が生まれました.カストロがそうしたように,ふたたび山にこもり強力な陣地を構築すべきなのか,都市ゲリラ活動を強め若者の動員をかち取るべきか…

亡きフォンセカを始め主流派は「長期人民戦争」=山岳ゲリラ路線に傾いていました.彼らはヘペペ (GPP) 派と呼ばれました.いっぽう長年都市ゲリラ活動をおこなってきたオルテガ兄弟たちは,彼らの経験を元に,ニカラグアにおいては山岳ゲリラだけではなく都市ゲリラをも組み合わせ,市民の蜂起にまで高めていかなければならないという意識を持っていました.彼らは「蜂起派」と呼ばれることになります.

両者の対立は,一時ヘペペがオルテガ粛清を指示するほどにまで深刻なものとなりますが,情勢の厳しさはそのような内輪もめを許すはずもありません.両派ともに幹部が次々と倒れ,捕らえられるなかで,ふたたび共闘の道を探るほかありませんでした.

両派の抗争に飽きたらない一世代下の活動家たちは,労働者地区や都市スラムにFSLN生き残りの道を探ろうとします.彼らはスラムの若者に一定の思想教育を施しながら,武装自衛の組織化を図ります.

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