前置き プエルトリコとはどんな国か?
=地理=
プエルトリコはカリブ海に浮かぶ小さな島です.といってもカリブ諸国の中では比較的大きいほうで,日本の大きめの県ひとつが島になっていると考えてよいでしょう.
人口は約350万人ですから,こちらも日本の県並みです.
島のほとんどが山で,人々は山あいや,狭い海岸平野にへばりつくようにして生活しています.したがって人口密度はかなりのものです.
国の名前がプエルトリコというのもちょっと変です.プエルトリコという港は実際にはなく,首都はサンフアンという町です.昔はサンフアンをプエルトリコと呼び,国の名前をサンフアンと呼んだこともあるといいます.
プエルトリコにはボリンケンというもうひとつの呼び名があります.むかしこの島に住んでいたタイノ族という先住民が,この島を「勇敢で高貴な君主の偉大な国」という意味でボリケン,あるいはボリンケン(Borinquen)と呼んでいたのだそうです.この言葉はいまでも,プエルトリコの人々が,自分たちの国土,あるいは国民を呼ぶのに用いられています.
=人々の生活=
産業的にはキューバと同じような国の成り立ちですが,キューバに比べるとずっと貧しい国です(今はキューバがひどくなってしまったので,関係が逆転していますが)
かつてチリの詩人パブロ・ネル−ダはプエルトリコをプエルト・ポーブレ(貧者の港)と呼びました.
この国の一人あたり所得は年間6千ドル余り,日本円で80万円ほどです.島民のうち2/3が貧困線以下の生活といわれます.7割の家庭が食料券(フード・スタンプ)を受給する生活保護世帯です.
失業率は常に15%を超えています.このため米本土への出稼ぎが多く,ほとんどの家が本土からの仕送りで生活しているといっても過言ではありません.出稼ぎ者の多くはニューヨーク近辺に集中しています.これはフロリダを中心とするキューバ人とはちょっと違うところです.
これといった産業のないプエルトリコでは,米国から進出した企業にすべてを託しています.これらの企業は安価な労働力,現地政府と本国政府によるさまざまな奨励金,税法上の特典を利用して大もうけしています.その利益は島にはとどまらず,ほとんどが本土に送金されてしまいます.
併合主義者の支配する新進党政府は,本国の言いなりになって利権漁りに精を出しています.労働組合運動はAFL-CIO系の労組委員会の指導下にありますが,本国の組合運動とは一線を画しています.
=ビエケス島問題=
プエルトリコの東南に接してビエケス島という小さな島があります.この島の大部分を海軍が接収し,基地と射撃訓練場を設置しています.ミニ沖縄という感じです.
一昨年あたりからこの島の射撃場を返還するようもとめる運動が大きく盛り上がっています.米本国でもこのたたかいを支援する草の根運動が発展しています.とくにハーバード大学はビエケス基地撤去運動のメッカの様相を呈しています.
それでは,前置きはこのくらいにして,歴史に入っていきましょう.
プエルトリコの歴史
第一章 プエルトリコの『発見』と征服
1493年,第2回航海に出発したコロンブスは,前の年に基地を建設したイスパニョーラ島へ向かっていました.その航海の途中プエルトリコを発見しました.
この島の征服者となったのは,冒険家の一人ポンセ・デ・レオンです.ポンセは島の南側から上陸,あっという間に島を征服してしまいます.
そこまでは良かったのですが,苛酷な金銀の取立てと,強引なキリスト教への改宗強制が災いとなり,先住民タイノ族の反乱を引き起こします.彼はこの反乱に虐殺をもって対処しました.先住民6千人が殺され,残りも山へ逃げ込んだり他の島へと去っていきました.
わずかに金鉱山から金が採掘されましたが,まもなく枯渇してしまいます.山と密林だけのこの小さな島に住み着こうとするスペイン人はいませんでした.あらたに発見されたメキシコのアステカ帝国,そして南米のインカ帝国へと流出していきます.
肝腎のポンセ総督すら,プエルトリコにとどまろうとはしませんでした.この冒険野郎は今度はフロリダ探検へと出かけていきます.そして1521年,フロリダで先住民クリーク族に襲われ重傷を負います.かろうじてハバナに逃げ帰ったものの,そこで息を引き取ります.
第二章 プエルトリコの農業国としての発展
一時はほとんど無人の島となったものの,プエルトリコには二つの特徴がありました.ひとつは海流や風向きの関係で主要航路からは外れていたものの,ヨーロッパに最も近い島という地理的条件です.島の北岸サンフアンの港はカリブの中でも重要な港でした.
もうひとつは山勝ちで降雨も多いことから,谷あいや扇状地などが格好の農地となったことです.南部を中心に小規模な農業経営が発達し,プエルトリコはラテンアメリカには珍しい,定着型植民の国になりました.生姜(しょうが)が当時最大の輸出品だったというのも肯けます.
失われた先住民に代わり,ここでも多くの黒人奴隷が『輸入』されましたが,その規模はキューバに比べはるかに少なく,古いスペインの文化が残されています.
南部の山間にひとつ,またひとつと村村が形成されていきました.アレシーボ,サン・ヘルマン,ポンセなどがそれです.といっても18世紀末の人口はわずか4万5千人ですから,本当にちっぽけな国です.
ただし,キューバのほうがはるかに白人優勢となった時期があります.これは19世紀末から20世紀はじめにかけて,キューバに大量の白人移民が流入したためです.しかし革命後は白人の米国亡命があいつぎ,今では黒人のほうが多い国になっているようです.
プエルトリコでは白人と黒人の通婚が代を重ねており,多くが混血となっています.また占領初期に,スペイン王朝が先住民との通婚を認めていたことから,プエルトリコ人の中にはタイノ族の血も流れているといわれます.プエルトリコ人が,誇りを持って自らをボリンケンと呼ぶのも,このあたりが根拠になっているようです.いっぽう,サンフアンの町にはかわるがわる海賊がやってきました.フランシス・ドレイク,オランダのハイン提督など,歴史に名を残す海賊なら誰でも一度はやってきています.
サンフアンはコロンビアのカルタヘナと同様ひとつの島からなっていますが,その島を取り巻くようにしてサンクリストバル,モロなどの要塞が作られています.今では貴重な観光資源になっていますが,当時の苦労はいかばかりかと思います.
第3章 独立運動のあけぼの
19世紀に入ると,お隣のキューバは急成長を遂げます.砂糖生産が飛躍的に伸びたためです.いっぽう小規模農業の国プエルトリコには見るべき発展はありませんでした.
ではキューバが幸せだったかというと,そんなことはありません.スペインはお金を生み出す島キューバを決して手放そうとしませんでした.そのために国民が自主的な運動をはじめようとすると徹底的に弾圧しました.独立はもちろんのこと,限定付きの自治すら許しませんでした.例えは悪いのですが,稼ぎの良いホステスについた暴力団のヒモのようなものです.
これに対し,とりたてて稼ぎもない小国プエルトリコに対し,本国政府は比較的寛容でした.またプエルトリコ自身が身を守るため,本国の庇護を求めていた側面もあります.
すでに17世紀半ば,イギリスはハマイカ(現在のジャマイカ)を武力で奪取していました.フランスはエスパニョーラ島の西半分を奪い,ハイチ植民地を作りました.18世紀末にはイギリスの大軍がサンフアンの港を襲いました.
19世紀に入ると今度は米国の脅威が迫ります.モンロー宣言が発せられて翌年1824年,米国海兵隊がプエルトリコに上陸します.国旗を侮辱したとの理由です.
19世紀も半ばに入ると,プエルトリコの有力者は二つの流れに分かれます.この流れはいずれもキューバにおける運動と一致するもので,実際かれらの多くはキューバ人と行動をともにします.
ひとつはスペインのもとにとどまりながら,自治と改革を目指すもので,現地における主流を形成します.
もうひとつは,スペイン政府に弾圧され海外に亡命したグループで,スペイン支配のくびきを逃れ,当時日の出の勢いの米国と結びついて発展しようという『併合主義』の流れです.
併合主義者はフランス人権宣言とアメリカ独立宣言の流れを汲む自由主義者でもありました.折からの米国の南北戦争に刺激された彼らは,ニューヨークにキューバ・プエルトリコ共和主義協会を結成します.その宣言は「人種や皮膚の色にかかわらずすべての住民のための自由」を訴えました.
この二つの流れは,スペイン政府が宥和策をとれば自治主義者が力を伸ばし,強硬策をとれば併合主義が伸張するという関係にありました.
1865年,自由党が支配するスペイン政府は,キューバに16議席,プエルトリコに4議席を与えることを決定しました.しかしその半年後,自由党政権は崩壊し,一切の植民地改革を拒否する反動内閣にとって変わられました.
第四章 ラーレスの叫び
キューバほどでないにせよ,プエルトリコでも砂糖を中心とした大規模農業が拡大しつつありました.島の人口は60万人を突破,うち白人は半数で,残りはカラードと一括されていました.
スペインの反動的な植民地政策は,もはや国の発展にとって桎梏でしかありません.ここにいたり独立派の勢いが一気に盛んになりました.
当時,スペインから独立したばかりのドミニカは,各国の運動家のアジトの様相を呈していました.ここに亡命していた独立派指導者ベタンセスは,国に向けて独立を目指す蜂起を呼びかけます.
この呼びかけに応え各地で武装蜂起の準備が進みます.なかでも南部の町ラーレスでは運動が盛んでした.現地の革命派はひそかに革命評議会(セントロ・ブラボ)を結成.します.指導者にはベネズエラ出身のマヌエル・ロハスが就任することになりました.
当時のベネズエラは,ボリーバルの衣鉢を継ぐ革命家の一大供給地だったようです.キューバに再三侵入を図った併合主義者ロペスもベネズエラ出身,キューバ独立戦争の英雄マセオ将軍の父も,ベネズエラからサンチアゴに移住してきた商人でした.マタンサスのギテラス博物館で見た写真にも,ギテラスとともに虐殺されたベネズエラ人活動家アポンテが写っていたことを思い出します.
当初,蜂起は当初9月29日の予定でした.しかし内通者が出たため急遽早められます.9月23日,ロハスの農場に数百の反乱兵があつまり,『ラーレスの叫び』を発した後決起します.
反乱軍はラレスの街の軍基地を攻撃しました.反乱軍に呼応して,市内の労働者や黒人奴隷も決起します.町を制圧した反乱軍は,政府の役人や軍人を即決裁判にかけ,絞首刑に処しました.ロハスは臨時政府の樹立を宣言します.
しかし反乱もここまででした.戦闘訓練など受けたことのない,旧式銃と山刀(マチェーテ)だけの反乱軍は,とうていスペイン軍にかないません.数日のうちに反乱は鎮圧され,ロハスも捕らえられます.
それから二週の後,キューバでも武装闘争が開始されます.プエルトリコの独立闘争は敗れたりとはいえ,新大陸の民衆には大きな影響を与えたといえるでしょう.
第五章 自治獲得への動き
その後,プエルトリコでは公然とした武装反乱は起きませんでした.あいかわらず,独立派は海外での活動を余儀なくされ,国内では改革派=自治主義者が圧倒的な勢力を誇っていました.
スペインはキューバの独立戦争を押さえ込むためにプエルトリコを利用しました.そのため,プエルトリコ改革派の要求には割と寛容でした.ロハスも死刑を宣告されましたが,やがて釈放され国外追放となっています.
この間スペインの行ったことは二つあります.ひとつは奴隷解放令を制定したことです.この島は,農業の性格上あまり黒人奴隷がおらず,産業にあたえる影響も比較的軽微だったことがあげられます.
もうひとつは政党組織の公認です.もっとも自治主義者のみで,独立派は排除されていましたが.改革党と保守党が二大政党となり,プエルトリコ人(クリオージョ)有力者は改革党に結集しました.合法化された後も,本土並みの権利獲得を目指す派と,本土からの自立を求める派に分かれ論争が続きました.
改革党総裁バルドリオティは,やがて左派に傾くようになります.彼はポンセで「エル・デレーチョ」紙を発行.「すべての政治的課題に対しプエルトリコ自身が決定権を持つべき」と論陣を張りました.この行動は国政府の逆鱗に触れ,彼も結局亡命を余儀なくされます.
1887年,プエルトリコに戻ったバルドリオティは改革党の左派を結集し,あらたに自治党を結成します.しかし彼のねらいが自治ではなく独立にあったことは,誰の目にも明白でした.やがて彼は再び弾圧を受け,モロ要塞に閉じ込められます.そしてそこで命を落としました.
プエルトリコの歴史はキューバ抜きに語ることはできません.プエルトリコの解放闘争は,常にキューバの独立派と手を携えて進められました.
とくに移民や亡命者が集まるニューヨークでは,両者の共同行動が盛んでした.とくにキューバ革命の父と称えられるホセ・マルティはニューヨークを根城に活動を展開していましたから,両者の関係は密接でした.
ニューヨークでスペイン語新聞を発行していたソテロ・フィゲロアは,プエルトリコ出身の自由黒人で,独立運動にも深く関わっていました.ホセ・マルティの依頼を受けたフィゲロアは,キューバ革命党の綱領全文を一面に掲載.以後,この新聞『祖国』は,革命党の事実上の機関紙となっていきます.
第六章 自治の実現と米国の干渉
キューバ独立戦争が始まり,やがてプエルトリコでも小規模な反乱が発生するようになりました.スペイン政府は,事態打開に向け自治憲章を公布します.
第一次独立戦争のときと同様,スペインはプエルトリコ側により大きな自治を保障しました.8人の選出議員と7人の指名議員より構成される上院,住民2万5千に1名の割合で選出される下院の二院制が敷かれました.
98年3月には選挙が行われ,上下両院の過半数を公選された現地人が占めることとなりました.ここまでくると完全な自治まであと一歩です.
このような自治の進展を快く思わない人たちもいました.たとえば独立を目指す人たちは,このような自治はまやかしだと主張しました.彼らは,過去のたくさんの教訓から見ても,状況が変われば平気でスペインは約束を破るだろうと見ていました.
自治の実現を阻止しようとしたもうひとつの勢力は,米国そのものです.この国には二つの権力があります.ひとつは大統領に代表される表の政府です.もうひとつは軍部が独走する裏の顔です.
97年の末,参謀本部は陸軍長官あてに秘密の計画案を提出しています.これによれば米国の,少なくとも軍部は,スペインとの戦いを必至とし,これを機にフィリピン,グアム,プエルトリコを奪取し,ついでにハワイ王国も併合してしまおうと考えていました.
やがてこの計画は,筋書きそのままに実施され,事後に『門戸開放政策』として表の政府により承認されるのです.
98年4月,米国は戦艦メイン号の爆沈事件を奇貨として,強引にスペインとの戦争に踏み切ります.この戦争はスペインにとってとても勝ち目のないものでした.スペイン艦隊の総司令官セルベラ提督は,戦いが始まる前から全滅を覚悟していたといいます.
5月にはいると,サンフアン沖合いに米軍艦船が出現し,艦砲射撃を加えますが,スペイン側は反撃らしい反撃もできません.
第七章 米軍の占領
6月下旬キューバに上陸した米軍は,独立軍の協力のもと,わずか3週間でサンチアゴ・デ・クーバを陥落させます.案の定,スペインの艦隊は一矢も報いることなくサンチアゴ港内で壊滅します.
次はいよいよプエルトリコです.
7月25日,戦艦マサチューセッツと5隻の輸送船に,1万6千名の兵を乗せた部隊が,南部に上陸しました.スペイン軍はほとんど抵抗らしい抵抗もせず,次々と要衝を放棄し撤退していきます.
上陸の三日後には,南部最大の町ポンセが米軍の手に落ちました.上陸部隊司令官マイルス将軍は『占領宣言』を発し,ポンセを臨時首都としました.
部隊の編成と作戦確認に10日間を費やしたあと,8月6日,全軍が前進を開始しました.マイルス将軍は部隊を3手に分け,それぞれにサンフアンを目指し北進するよう命令します.
唯一の戦闘らしい戦闘があったのは8月9日でした.この日東部軍は,ポンセ東方の町コアモでスペイン軍守備隊と戦闘となります.さらにそのあともアイボニート山地で伏兵の激しい抵抗にあいます.同じ頃,西部では第3の都市マジャゲスを目指した米軍部隊が,オルミゲーロスに最後の防衛線を引いたスペイン軍と衝突します.
しかしこの抵抗も一日で終わりました.翌日オルミゲーロスの防衛線を突破した米軍は,11日にはマジャゲスの町に入ります.12日には東部軍がコアモ,グアヤマを制圧し,ポンセからサンフアンへとつながる峠をめぐる攻防に入ります.スペイン軍主力は壊滅状態となり,サンフアンを目指し敗走していきます.
ここで戦いが終わりました.スペインがサンチアゴで降伏文書に調印したのです.ただちに各部隊に停戦命令が発せられました.そしてマイルズ総司令官が,あらためて占領軍総司令官兼執政官に任ぜられました.
第八章 米軍の直接統治
この年の12月,パリで停戦条約が締結されました.キューバは曲がりなりにも独立を保障されましたが,プエルトリコは身もふたもない,完全占領下に置かれることになりました.3月に創設されたばかりの自治政府と評議会は解散させられ,全権力を米軍が掌握することになります.
国の名前までプエルトリコからポルトリコに変更され,通貨もペソからドルとなりました.誇り高いプエルトリコの民衆にとって,これらの措置は屈辱以外のなにものでもありません.
要請を受けた米議会は,32年にふたたびプエルトリコの呼称に戻しています.
1900年4月,米政府はフォレーカー法(1900年組織法)を制定し,民政に移行します.しかし民政に移行しても,プエルトリコ人民の状況はまったく変わりありませんでした.米国の現地支配者が文民に代わったというだけのことです,
米大統領の指名する11名の評議員よりなる行政評議会が発足しますが,米国大統領が任命する米国人弁務官は行政評議会の決定を拒否できるなど,西領時代以下の属領となってしまいます.さらに弁務官を補佐する執行委員会も,プエルトリコ人5人に対して米国人6人という構成で,プエルトリコ人が自らの意思を貫こうとしても巧妙に阻止されることになりました.
民政府は農場規模を5百エーカー以下とする法律を施行しますが,実際には空文でした.折から史上有数のハリケーンに襲われたプエルトリコでは,困窮した農民から米国資本が土地を買いあさります.
これ以降20年のあいだに急速に島の資本主義化が進み,貧富の差が拡大しました.貧しいながらも,こじんまりと生活していた農民は,土地を失い,貧困のどん底に突き落とされていきます.
第九章 独立を目指す運動の始まり
はやくも98年の10月,バルボーサがプエルトリコ共和党を設立.国家としての独立を主張します.しかしバルボーザはやがて民政府にとり込まれ,米国の代弁者に変質していきます.労働者は労働者自由連合(FLT)を結成しますが,これもAFLの強い影響下に御用組合となっていきます.
これに対し,明確に米政府と対決し民族の独立を勝ち取ることを目標とする政党が誕生します.ルイス・ムニョスの指導するプエルトリコ統一党です.
1910年,住民の強い要求に応えて21歳以上の男性による普通選挙が実施されました.この選挙では統一党が圧倒的な勝利を飾ります.しかし勝利したとたん,統一党も米国にとりこまれることになります.
このあたりから,ルイス・ムニョスの評価に関わって,話は少しづつ微妙になってきます.ムニョスがバルボーサの亜流かといえば,それは間違いなく違います.
ムニョスはプエルトリコの自決という点では非妥協的に戦いました.ただキューバと比べても国力の差は圧倒的です.プエルトリコが自決を果たすためには,まず自治の拡大というところから少しずつ進めていくしかないという.一種の『弱者の知恵』は,プエルトリコの政治家なら誰でも身につけています.
もうひとつのポイントは,米国のひとつの州として完全に一体化すべきだという併合主義の論調がじわじわと広がってきたことです.その典型がハワイです.
しかし先住民としてのハワイ民族は今どうなっているでしょうか? たしかにハワイは米国本土並みの生活水準となり,地上の楽園とまでもてはやされています.しかしカメハメハ王朝を作ったハワイ人は今や政治の片隅に追いやられ,生活保護を受けるか,日本に行って相撲取りにでもなるかしかありません.
アメリカ・インディアンはどうなっているでしょうか? ウーンデッド・ニーを生き延びた人々は,いまフードスタンプで生き延びているだけなのではないでしょうか?
とは言っても,これは難しい問題です.逃げるようですが,住民が決めるしかない問題です.いずれにしても,我々はプエルトリコ人民自身の歴史を見守るしかありません.
統一党の働きかけで,プエルトリコにも一定の自治が認められるようになりました.1916年のジョーンズ法がそれです.プエルトリコは米国の準州となり,住民に制限付きの米国市民権(合衆国議会の選挙権はなし)があたえられました.
基本的には自治の方向に進むと見えたプエルトリコは,その後第一次大戦の中で少し様相を変えていきます.もともと軍役義務は無いのですが,実際は島の青年約2万人が応召されました.
米国のために生命をかけて戦うのですから,米国市民としての権利を要求するのは当然のことです.ところが戦後,合衆国連邦最高裁はプエルトリコは国土の一部ではなく領土であり、合衆国憲法の効力はおよばないと裁定するのです.これでは浮かばれません.
この判決を機にふたたび完全独立を求める動きが強まっていきます.
第十章 国民党の独立運動
29年ウォール街に始まった大恐慌は,たちまちのうちに全島をどん底に突き落としました.労働者のたたかいも激しさを増します.
野党国民党の総裁に就任したペドロ・アルビス・カンポスは,ファシスト的傾向をもつポピュリスト政治家でした.国民党は反米独立を標榜し,砂糖労働者のゼネストを成功させるなど,大きな影響力を持つようになります.
いっぽう米国共産党の援助を受けた活動家は,33年9月,ラレス蜂起の日を記念してプエルトリコ勤労者解放党を創立します.この党も独立と社会主義を旗印に掲げました.同時にCIOのオルグも,沖仲仕などを中心に影響力を広げます.37年にはサンフアンの港から始まった港湾労働者のストライキが,全島を巻き込むゼネストに発展します.
このような状況を見た米国政府はアメとムチによる干渉をかけてきました.ルーズベルトはプエルトリコ再建計画を発表します.この計画には農業の技術改革,公共事業の推進,島の電化などが盛り込まれていました.
この計画は島の労働運動に大きな影響を与えました.砂糖キビ農業の近代化により大量の失業者が出現,さらに小規模・零細農家の破産が相次ぎました.彼らの多くはニューヨークやニュージャージーへと大量に流出していきます.
一方この事業で甘い汁を吸った新興資本家は,熱心な州昇格論者となっていきます.
急進化した国民党へは暴力的な弾圧が待っていました.35年には大学の学生が当局の手により虐殺されます.国民党はこれにテロをもって対抗しました.サンフアン警察長官リッグスを暗殺.さらに南部を中心にテロ活動を展開します.警察はカンポス総裁ら幹部を一斉逮捕,最高10年の禁固刑に処します.
37年,国民党は南部の拠点ポンセで抗議デモを展開しました.やがてデモ行進は暴動化,警察の弾圧により20名が死亡し100名が負傷するという惨事になりました.これを機に国民党は人々の支持を失っていきますが,地下に潜行した活動家はますますテロ活動を強化するようになりました.
第十一章 ムニョス・マリンの再登場と国民党の抵抗
崩壊した国民党に代わりムニョス・マリンが復活してきました.かれはあらたにプエルトリコ人民民主党を設立,「土地とパンと自由を」のスローガンをかかげ自治権の拡大を目指しました.
州昇格論と独立論との暴力的対決に疲れていた島民の多くは,この自治主義論を受け入れました.40年の議会選挙では,有力な対抗馬のないまま地滑り的な勝利を飾ります.
ムニョス・マリンは自治権獲得の運動を着実に進めました.独立運動の再燃を恐れる米政府と,現地の保守層はムニョス・マリンの全面支援に回りました.47年にはプエルトリコ知事が公選制となり,初代知事にムニョス・マリンが選出されました.
新政府は米国企業の誘致政策を軸に工業化をはかりました.誘致に応じた企業のほとんどが,安い労働力をあてにした家内工業的なもので,この誘致策は「靴ヒモ作戦」と酷評されました.
51年,米議会は法令600号を可決しました.この法律により,プエルトリコは独自の憲法を持つ政府を樹立する権利を与えられました.
これを受けたプエルトリコ議会では,「米国と自由意志により連合した独立国」と規定する憲法を制定しました.もちろん,独立派は属国の地位を固定化するような憲法には猛反対しますが,数の力で推しきられてしまいます.
彼らに残された手段は,もはや要人テロしかありませんでした.ワシントン在住のプエルトリコ独立活動家トレソラは,ホワイトハウスを襲撃.トルーマン大統領の生命を狙います.しかしあえなくトレソラはその場で射殺されてしまいました.
54年3月,国民党総裁アルビス・カンポスら4人は,みずから行動に立ち上がります.国旗と銃をかざした一味は,ワシントンの議会に乱入.下院議員5名を狙撃,負傷させたうえ逮捕されました.ほとんど自殺行為です.
同じ頃,勤労者解放党(共産党)も壊滅的な状況に追い込まれていました.第4回大会で国民党に民族解放戦線の結成を呼びかけますが,すでにそのチャンスは去っていました.米議会乱入事件に関連して共産党幹部も根こそぎ逮捕されてしまいます.
これを機にプエルトリコの解放運動は雌伏の時期に入ります.
有吉佐和子の『プエルトリコ日記』という小説があります.私の持っているのは新潮社版の選集で,解説も何もついていないので,何時のものかは分かりません.しかし文章の中にプリンセス・ミチコの結婚の話が出てくるので,おそらく60年か61年の話でしょう.
小説の中で,サンフアンのプエルトリコ大学を訪問した際に,独立党の学生活動家が演説する場面があります.その中身を引用しておきましょう.
プエルトリコ人はアラスカやハワイの二の舞はしたくないと心の底から願っている.アメリカ合衆国の一部に加入したことを表面では喜びながら,実質的には何の進歩も向上もなく,国は華美に走って栄えたかに見えながら,アラスカ人もハワイ人もどんどん追い詰められて原住民は減少する一方ではないか.しかし断じてプエルトリコはアラスカにもハワイにもならないであろう.我々には独自の伝統があり,どんなにアメリカが接近しようとしても,伝統の壁は強固であって,彼らと言動をともにすることは我々には恐らくできないだろう.
なおここに出てくる独立党は,正式にはプエルトリコ独立運動(MPI)のことでしょう.当時国民党は非合法化され,59年にマリ・ブラスらが旧国民党員を集めてMPIを結成しています.
第十二章 現在のプエルトリコ
プエルトリコでは州昇格派,自治派,独立派の三つ巴の争いが今でも続いています.三者の力関係は時々の景気に左右されて揺れ動いています.一般的には,景気が良いときは州昇格派が優勢となり,不況になると独立派が勢いを増すようです.
ただ独立派は,どう見ても長期低落傾向にあります.これは独立派の依拠する貧困層が,米国本土に絶え間なく流出していることと関係しているのかもしれません.1990年の時点で,プエルトリコ人の35%が米本土で生活しているといいますからすごいものです.
プエルトリコの現在を考える上で忘れてはならないのが,キューバのことでしょう.キューバが社会主義になって以来,プエルトリコは米国の砂糖需要をまかなう最大の生産地となりました.ポンセを中心とする南部の小農経営は完全に崩壊し,いまや全島が砂糖キビの畑になっています.これが60年代後半から70年代にかけてのプエルトリコの経済発展を支えてきました.
新興資本家は共和党に結集し,州昇格を主張するようになります.68年の選挙では共和党が人民民主党を破り政権の座につきました.州昇格運動に一気に弾みがつきます.これに焦燥感を強めたMPIは,プエルトリコ社会主義党という政党に再編成される一方,解放武装隊(CAL)というゲリラ部隊を創設し,テロ作戦を再開します.
このゲリラ部隊はまもなく四分五裂し,それぞれがマスコミ受けを狙った派手な作戦を展開するようになります.
たとえば81年1月には,「マチェテロス」(別名ボリンケン人民軍)を名乗る部隊が州兵空軍基地を連続爆破.航空機10機に4千万ドルの被害をあたえています.同じ年の4月には,組織名不祥のゲリラがワシントンの将校クラブを爆破しています.
この間,何回か島の帰属をめぐる国民投票が行われてきました.最近では98年12月の国民投票があります.すでにプエルトリコにおける安定与党となった共和党は,今度こそ州昇格の実現を,と意気込んでいましたが,開票の結果僅差で自治派に敗れました.
第十三章 ビエケス闘争と今後のプエルトリコ
去年はじめ,ビエケス島住民にガンの発生率が高いという衝撃的な報道がありました.事態を重視した米政府は,ただちに公衆衛生院の専門家を派遣し調査に当たらせました.
その後の運動の中で,いくつか重大な問題が明らかになりました.ここを射撃訓練場にしている海軍が劣化ウラン弾を実弾で使用していたのです.
すでに81年に,米議会はビエケス島基地の使用停止と,プエルトリコへの返還を決議していました.それを承知で海軍は20年近くも訓練を続けていたのです.
11月末,クリントン大統領は訓練の中止と基地返還の方向を打ち出しました.東部を中心に百万を超えるプエルトリコ出身者に配慮してのことでしょう.
しかし今後の情勢は予断を許しません.20年も頬かむりしつづけた海軍が,またどんな手を使って引き伸ばしをかけてくるかもしれません.さらに監視を強めたいところです.
プエルトリコ,三つのオプション
自治領 | 州 | 独立 |
---|---|---|
1998年現在、プエルトリコは自治領の地位を有している。その特徴は:
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プエルト・リコが合衆国の一州となれば、以下のような特徴を持つであろう:
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もしプエルト・リコが独立したら、それは主権国家であり、どの主権国家とも同様、自国のことについて決定できる。それは以下のような特徴を持つ:
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一応おわり