アイヌ民族の歴史年表

2005年11月作成
アイヌ民族は北海道、千島、樺太に住んでいた(現在も北海道に住んでいる)先住民族をさす。「アイヌ」、あるいは「アイヌモシリ」という言葉はアイヌ民族の自称であるが、そのように呼んでいたのは北海道のアイヌ(特に南西部)であり、他がどうだったかは分からない。し かしさまざまな他称は、アイヌ民族を否定的に評価するニュアンスが強いため、ここでは基本的に用いない。
「蝦夷」は日本人(和人)による他称である。古くエミシ、平安末期からはエゾと呼ばれるようになった。さらに古くは毛人と書いてエミシと読まれていた。ここでは広くアイヌ民族と同根の縄文系人として扱っている。
エミシは関東から東北にかけて住み、和人に征服され、同化した縄文系人であるが、当時から北海道の南部地方にも分布していた。

2017年4月 改訂
この年表はあまりに雑多で無思想であり、史料としてすら使えないということがわかってきた。やはりエミシの歴史とは分けなければならない。さらに遡るならば、縄文人が単一民族として日本列島全般(とくに東日本)に分布していた時代と、縄文人が弥生人との接触で「半倭人」化した東北のエミシと北海道の続縄文人に分離した時代とは分けなければならない。
アイヌ人は縄文人の血を濃く残した末裔である。その後朝鮮半島から渡来した人々と縄文人との混血により「日本人」が形成されたが、アイヌ人は渡来人と混血せず、北海道に存在した。しかし北海道の北部・東部に居住したオホーツク人とは強く混血しており、この点で縄文人とは異なる。
ということで、第一部・アイヌ民族の形成(擦文時代のおわりまで) 第二部・アイヌ民族抑圧と戦いの歴史 第三部・東北エミシの戦いと同化の過程 みたいな感じに分けていきたいと思う。

第1部 アイヌ民族の形成

 縄文時代の北海道

6万年前 現世人類の出アフリカ。

3万5千年前 旧石器時代人(古モンゴロイドと呼ばれる先発人)が渡来。マンモスハンターがシベリア・サハリンより進出。石器は残されているが人骨の発見はない。

旧石器捏造事件: 新十津川町総進不動坂(20万年前)、上川郡清水町下美蔓西遺跡(50万年前)が発見されたが、いずれも後に捏造であることが明らかとなる。

約2万年前 最後の氷河期。函館市桔梗、千歳市祝梅三角山、上士幌町嶋木に後期旧石器人の先土器遺跡が発見されている。


 帯広の暁遺跡から細石刃8千点以上が見つかる

1万5千年前 気候の温暖化に伴い、旧石器時代から縄文文化に移行。木の実の採集、煮炊きしての食事が広がる。

現在のところ、青森県外ヶ浜町の大平山元遺跡が16,500年前と算定され、最古の縄文遺跡とされる。土器も石鏃も(98年発見)世界最古とされる。

       縄文遺跡群世界遺産登録推進事務局のサイトより転載

紀元前5千年 縄文前期が始まる。一気に遺跡数が増え、三内丸山遺跡、大船遺跡など大規模な拠点集落が発達する。ヒスイや黒曜石等の交易が盛んとなる。

紀元前2千年 縄文後期に入る。大規模な拠点集落は減少し、集落の拡散化、分散化が進む。

紀元前1500 函館市南茅部町の大船遺跡の集団墓。縄文時代後期後半のものとされる。中空土偶は国宝に指定された。

紀元前1000 九州北部に弥生文化が発生。青森県津軽平野西南部に縄文晩期の亀ヶ岡遺跡。遮光土偶など多数の遺品が出土。

紀元前3世紀 この頃、北方まで温暖化。津軽平野まで稲作が拡大する。

続縄文時代

紀元前2世紀 非農耕社会でありながら、本州から金属器が流入するようになり、北海道独特の続縄文時代が始まる。(恵山文化→江別文化→北大文化に細分される)

西暦0年~ 気候が寒冷化。東北北部での水稲耕作が断絶。無遺物の時代が続く。ほぼ無人の原野と化したと思われる。

4世紀 東北北部は寒冷化し、北海道に起源を持つ続縄文文化が仙台平野と新潟平野を結ぶ線まで進出。帰化縄文人(エミシ)との混住ゾーンが形成される。

交易の結果、続縄文人は狩猟と獣皮の交易に特化した。北海道には鉄器が大量に流入。

4世紀 会津大塚山古墳など東北地方南部に古墳が作られる。

5世紀 漁猟を生業とするオホーツク人(北樺太のニヴフ人と同根)が北海道に南下。オホーツク海沿いに進出。根室、千島方面に固有の文化が広がる。モヨロ貝塚からは宋銭が発見されており、中国大陸との交流を示す。一部は海獣を追って天売、焼尻、奥尻などの島に進出。

450年~ 帰化縄文人(エミシ)が混住ゾーンを越えて北上。東北北部(現在の岩手北部から八戸にかけて)に進出する。

岩手北部の中半入遺跡では農耕、馬の飼育が行われ、前方後円墳も作られている。また皮なめしの工房跡も見つかっている。

500年ころ 岩手北部・八戸で、続縄文人の痕跡が消え、「帰化人」の遺構のみとなる。

500年~ 道北や道東のオホーツク人遺跡にも本州産の鉄器が流入する。

544年 日本書紀の記事に「粛慎(あしはせ)が佐渡島に来着し、漁撈を営んだ」との記載あり。

粛慎に関しては諸説あり。読み方もミセハシ、アシハセ、ミシハセなどまちまち。南下したオホーツク人であろうと思われる。

600年ころ オホーツク人が奥尻島に拠点建設。夏の間漁撈をおこなったとされる。

650年ころ 唐の史料に、流鬼(オホーツク人?)が黒テンの毛皮を献上したとの記載あり。

655年 難波朝(難波京の朝廷)で北蝦夷99人と東蝦夷95人を饗応する。北蝦夷は出羽、東蝦夷は陸奥を指すとされる。-『日本書紀』斉明天皇元年、柵養蝦夷と津軽蝦夷を叙位。

阿倍比羅夫の蝦夷征服(日本書紀による)

658年(斉明4年)4月 第一回目の北征。軍船180隻を率い日本海を北上。越国内の兵士だけでなく柵戸(さくこ)・柵養(きこう)蝦夷などエミシも動員される。

658年 齶田浦(あぎたのうら)(飽田)に達する。当地の蝦夷の首長の恩荷(オガ)を恭順させる。小乙上(せうおつじやう)の位を授け、渟代(ヌシロ)と津軽(ツカル)の郡領に任命。

658年 陸奥の蝦夷を連れて有間浜に至り、渡島蝦夷(わたりしまのえみし)を招集して饗応する。有間浜は①深浦から鰺ヶ沢付近、②岩木川の河口、十三湖中島付近説がある。

658年7月 ツカル・ヌシロの蝦夷200余人が、飛鳥の朝廷に朝貢。

658年11月 阿倍比羅夫、渡島蝦夷の北方に住む粛慎(ミシハセ)を討ち帰還。熊二頭とクマの皮70枚を献上。(日本書紀 斉明天皇4年)

659年3月 二回目の北征。飽田・渟代・ツカルを制圧。これら三郡のほか胆振鉏(いふりさへ)の蝦夷20人を集めて饗応。

北海道から、他の地域をさしおいて胆振の蝦夷が呼ばれていることは注目に値する。

659年 その後肉入籠(シシリコ)に渡る。先住民の勧めにしたがい、後方羊蹄(しりべし)に郡領(コオリノミヤッコ)を置いたとの記述。(58年と59年の北征は、同じ出来事を別々の原典から取った可能性もあるとされる)

659年 日本書紀では「ある本にいわく」として、この年も粛慎と戦い、捕虜49人を連れ帰ったとする。

659年 中国の史書「新唐書」の「通典」、日本から「使者与蝦夷(夷)人偕朝」と述べる。このとき使者は、「蝦夷(エミシ)には都加留(つがる)・アラ蝦夷(あらえみし)、そして熟蝦夷(にぎえみし)の三種類の蝦夷がいる」と説明したという。

659年 日本書紀ではこれに対応して、遣唐使が「道奥の蝦夷(エミシ)の男女2人を唐の天子に貢した」とある。

660年3月 三回目の北方遠征。200艘の船で日本海を北上。大河のほとりで、渡島(ワタリシマ)の蝦夷の要請を受け粛慎と戦い、これを殲滅する。

海の畔に渡嶋の蝦夷一千余の集落があり、そこに粛慎の船団が攻撃して来る。阿倍比羅夫は絹や武器などを差し出し、相手の出方を探る。粛慎からは長老が出てきて、それらのものをいったん拾い上げるが、そのまま返し、和睦の意思がないことを示す。
その後粛慎は
弊賂弁嶋(へろべのしま)に戻って「柵」に立てこもる。比羅夫はもう一度「和を請う」たあと攻撃を開始。激戦の末、粛慎は敗れ、自分の妻子を殺したのち降伏する。比羅夫の側でも能登臣馬身竜(のとのおみまむたつ)が戦死。

5月 阿倍比羅夫、朝廷に粛慎など50人を献上。

瀬川さんは弊賂弁嶋を奥尻としている。青苗にオホーツク人の遺跡があることから、この説は説得力がある。この際、大河は瀬棚に注ぐ後志利別川に比定される。

696年 大和朝廷、渡島蝦夷の伊奈理武志(イナリムシ)、粛慎の志良守叡草(シラスエソウ)らに錦、斧などを送る。(日本書紀 持統天皇10年)

擦文文化

7世紀 続縄文時代に代わり、本州の土師器の影響を受けた擦文文化が発生。擦文土器が道内各地に普及。竪穴住居だが、中央の炉に代わり壁際にかまどがすえられる。部分的に農耕もおこなわれた。

712年 渡嶋(蝦夷が島)が出羽国の管轄となる。このあと、太平洋側(海道)のアイヌは蝦夷、日本海側(北道)のアイヌは蝦狄と表記されるようになる。(ただしそれほど厳密な使い分けはしていない)

718年 渡度島蝦夷87人が大和朝廷に馬千匹を贈る。(信じがたい!)

720年 渡島津軽の津の司の諸君鞍男(もろのきみくらお)ら6人を靺鞨に派遣し、その風俗を観察させる。

774年 東北地方全土を巻き込む「38年戦争」が始まる。

8世紀 江別市、恵庭市に「北海道式古墳」が出現。土師器や須恵器、蕨手刀などが副葬され、大和文化の強い影響が窺われる。古墳文化は1世紀ほどで消滅。

801年 坂上田村麻呂がエミシの反乱を鎮圧。

802年6月 朝廷の出羽太政官、渡島蝦夷との私交易を禁止。エミシの財政的弱体化が狙いか?

879年1月 渡島蝦夷首103人が3千人を率いて秋田城に詣でた。朝廷はこれを歓迎する(日本三代実録)。この頃のものとみられる夷の印入りの土師器の杯が札幌、余市から出土している。

9世紀 オホーツク文化が衰退、消滅。東部にはトビニタイ文化として残存したとされる。(トビニタイの名は羅臼町飛仁帯で発見された土器にちなむ)

1087年 前7年、後3年の役が終わる。エミシの長である清原家が陸奥の実権を掌握。奥州藤原氏を名乗る。蝦夷錦が交易品となるなど、アイヌ交易で富をなす。

1190年 藤原氏が滅亡。安東氏(これもおそらくエミシ系)が津軽外三郡(興法・馬・江流末)守護・蝦夷官領を命ぜられる。


1200年頃 擦文文化(土器)の時代が終わりを遂げるとともに、大和文化(鉄器と漆器)の影響を色濃く受けたアイヌ文化が登場。

1200年頃 交易による商品経済を背景に集団の組織化を進め、海浜を含めた大きな河川流域に強力な結束力を持つ地域集団を形づくった。つの独立した部族グループがあったと考えられている。オホーツク文化領域までアイヌの居住域が拡大。

東エンジウ

西エンジウ

シュムクル

ペニウンクル

メナシクル

サムンクル

南樺太の東海岸

樺太西海岸と余市、枝幸、網走

道南

石狩川上流

道東から日高

室蘭から静内


樺太アイヌ(骨嵬)の元帝国との戦い

1250年頃、蒙古は黒龍江の河口の奴児干(ヌルガン)に東征元帥府を置いて、河口から樺太にかけての吉烈迷(ギレミ)を支配下に置く。樺太に住む骨嵬(クイ)は蒙古に従わず。

ギレミはギリャーク族。ニヴフ人とされる。彼らはかつてのオホーツク人と遺伝学的には同根とされる。これに対しクイは樺太まで進出したアイヌとされる。

1264年11月 骨嵬が吉烈迷を攻撃。吉烈迷は蒙古に救援を求める。蒙古軍は骨嵬を攻撃し樺太を占領。骨嵬は蒙古への朝貢を約束。

1283年 元、骨嵬に対して兵糧用の租税を免除。阿塔海が日本を攻撃するための造船を進める。

1284年 骨嵬は元に反旗を翻す。戦いは86年まで続き、元は数次にわたり数千艘の軍船と1万以上の兵力を投入し鎮圧。

1297年5月 瓦英・玉不廉古らが指揮する骨鬼軍が反乱。海を渡りアムール川下流域のキジ湖付近で元軍と衝突。

1308年 骨嵬が元に降伏。これ以後、樺太アイヌは元に安堵され、臣属・朝貢する関係となる。

海保氏は、考古学的事実から、当時樺太にそれほど強大なアイヌ武装集団は存在していなかったとし、元軍二万と対決したのは安藤氏だったと推理している。とすれば、終戦処理をめぐり安東軍内部に鎌倉派と元派の分裂が起きた可能性もある。

1411年 中国を制覇した明がアムール川下流域まで進出。出先機関をカラフトなどに設置、苦夷(アイヌ)と交易する。

1423年 「安藤陸奥守」が室町将軍にラッコ毛皮30枚を献上。

1430年 南部義政が下国十三湊安藤氏を攻略。 安東家は海を渡って松前に逃がれる。 これにともない多くの和人が移住。