東北蝦夷の滅亡史
和人による東北地方の侵略・征服
2022年7月 エミシの年表に入れるのは、さすがに無理があるので。別年表として立てます。一応、基準としては、主として東北地方で起きたことはこちらへ、松前藩で起きたことはエミシ年表に突っ込むことにします。ついでに高橋崇「蝦夷ー古代東北人の歴史」(中公新書)の記事からも編入します。
序に代えて 日本書紀その他における蝦夷の記載
下記は記紀の内容であり、時期を特定できない。しかし相対的な前後関係はわかるので、記紀の順に従って記述しておく。
400AD頃(古墳時代前期) 前方後円墳の北限が、越後平野中部、会津盆地、仙台平野を結ぶラインに到達。
600AD頃(古墳時代終末期) 北限は、日本海沿岸では中越地方まで後退する。内陸では山形県・村山地方中部まで、太平洋側では北上盆地南部まで北進した。
神武東征記に引用された来目歌(クメは神武の親衛隊)の一つに「愛瀰詩」の名で登場する(愛瀰詩を 一人当百人と 人は言へども、手向かひもせず)。ただ神武東征記では、神武によって滅ぼされた畿内の先住勢力の一つとされ、東北エミシとは異なる。
景行天皇条 において。武内宿禰が北陸及び東方諸国を見聞。「東の夷の中に、日高見国有り。その国の人、男女並に椎結け身を文けて、人となり勇みこわし。是をすべて蝦夷という。また土地沃壌えて広し、撃ちて取りつべし」と報告。
488年 中国の史書「宋書」、478年に送られた倭王武の上奏文につき記載。倭王武はこの上奏文のなかで、「東は毛人55国を征し」たと述べる。
また「旧唐書」でも倭王武の上奏文につき記載。ここでは、「東界北界は大山ありて限りをなし、山外は即ち毛人の国なり」と 述べる。大山は箱根を指すといわれる。
540年 蝦夷・隼人、並びに衆を率いて帰順する。
544年 日本書紀の記事に「粛慎(あしはせ)が佐渡島に来着し、漁撈を営んだ」との記載あり。
粛慎に関しては諸説あり。読み方もミセハシ、アシハセ、ミシハセなどまちまちだが、エゾより南下したオホーツク人であろうと思われる。
581年 蝦夷綾糟の反乱。その後蝦夷の服従と朝参が恒例となる。
586年 『日本書紀』によれば、この年、蘇我蝦夷が誕生。「えみし」の名は強者の象徴であったとされる。『上宮聖徳法王帝説』では蘇我豊浦毛人と書かれている。
蝦夷の滅亡史 年表
これ以降は、日本書紀の記述ではあるが、絶対年代として確認できる記述となる。
637年 蝦夷の反乱。上毛君形名の率いる朝廷軍により討伐(日本書紀)。蝦夷たちはことごとく捕虜となる。
642年 「越の蝦夷」が帰順する。蘇我蝦夷がこれを招き歓待する。
645年 大化の改新の勅。辺疆の蝦夷と境を接する所では、引き続き武装して備えるよう指示。東国国司が派遣される。
国司: 中央から配され、国衙において政務に当たった。祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。648年 大和朝廷、「蝦夷に備え、越と信濃の民を選んではじめて柵戸を置く」これが磐船柵(いわふね)である。磐船は石船とも書く。現在の新潟県村上市岩船に相当する。
前年には阿賀野川河口付近に渟足柵(ぬたり)が造営されている。渟足は現在の新潟市。
その後の10年のあいだに、都岐沙羅柵(つきさら)が設置されている。都岐沙羅は念球ヶ関説、最上川河口説、秋田県南部説などがある。649年 高志(北陸)の豪族である阿倍氏の当主、内麻呂が死亡。傍系の引田臣比羅夫が後を引き継ぐ。比羅夫は安倍姓を襲い、越(高志)国の国司に任じられ、北方警護の責任者となる。
650年頃 評、国が設定される。箱根より東方に常陸国を始め8国を置く。この8国の中に道奥が含まれると解される。
7世紀後半の陸奥(Wikiより)
650年ころ 唐の史料に、流鬼(オホーツク人?)が黒テンの毛皮を献上したとの記載あり。
655年 難波朝(難波京の朝廷)で北蝦夷99人と東蝦夷95人を饗応する。北蝦夷は出羽、東蝦夷は陸奥を指すとされる。『日本書紀』斉明天皇元年柵養蝦夷と津軽蝦夷を叙位。
阿倍比羅夫の蝦夷征服(日本書紀による)
第一回目の北征 (日本書紀 斉明天皇4年)
4月 軍船180隻を率い日本海を北上。越国内の兵士だけでなく柵戸(さくこ)・柵養(きこう)蝦夷などエミシも動員される。
齶田浦(あぎたのうら)(飽田)に達する。当地の蝦夷の首長の恩荷(オガ)を恭順させる。小乙上(せうおつじやう)の位を授け、津軽(ツカル)と渟代(ヌシロ)の郡領に任命。
陸奥の蝦夷を連れて有間浜に至り、渡島蝦夷(わたりしまのえみし)を招集して饗応する。有間浜は①深浦から鰺ヶ沢付近、②岩木川の河口、十三湖中島付近説がある。
7月 ツカル・ヌシロの蝦夷200余人が、飛鳥の朝廷に朝貢。
都岐沙羅の名は比羅夫がエミシを連れての帰途、立ち寄った砦の名として記載されている。後にも先にもそれきりであるが、おそらく新潟県内のどこかであろうと言われる。
11月 渡島蝦夷の北方に住む粛慎(ミシハセ)を討ち帰還。熊二頭とクマの皮70枚を献上。
粛慎に関しては諸説あり。読み方もミセハシ、アシハセ、ミシハセなどまちまち。南下したオホーツク人であろうと思われる。またこの征討譚は翌年の記載との重複の可能性あり。
第2回目の北征 (日本書紀 斉明天皇5年)
58年と59年の北征は、同じ出来事を別々の原典から取った可能性もある。
659年 3月 飽田・渟代・ツカルなど三郡のほか胆振鉏(いふりさへ)の蝦夷20人を集めて饗応。
その後肉入籠(シシリコ)に渡る。先住民の勧めにしたがい、後方羊蹄(しりべし)に郡領(コオリノミヤッコ)を置く。
日本書紀では「ある本にいわく」として、この年も粛慎と戦い、捕虜49人を連れ帰ったと記載する。
第3回目の北征 (日本書紀 斉明天皇6年)
660年3月 200艘の船で日本海を北上。大河のほとりで、渡島(ワタリシマ)の蝦夷の要請を受け粛慎と戦い、これを殲滅する。
海の畔に渡嶋の蝦夷一千余の集落があり、そこに粛慎の船団が攻撃して来る。阿倍比羅夫は絹や武器などを差し出し、相手の出方を探る。粛慎からは長老が出てきて、それらのものをいったん拾い上げるが、そのまま返し、和睦の意思がないことを示す。
その後粛慎は弊賂弁嶋(へろべのしま)に戻って「柵」に立てこもる。比羅夫はもう一度「和を請う」たあと攻撃を開始。激戦の末、粛慎は敗れ、自分の妻子を殺したのち降伏する。比羅夫の側でも能登臣馬身竜(のとのおみまむたつ)が戦死。
5月 阿倍比羅夫、朝廷に粛慎など50人を献上。
瀬川さんは弊賂弁嶋を奥尻としている。青苗にオホーツク人の遺跡があることから、この説は説得力がある。この際、大河は瀬棚に注ぐ後志利別川に比定される。
659年 「新唐書」の「通典」に、日本から「使者与蝦夷(夷)人偕朝」と述べる。このとき使者はこう言った。「蝦夷は穀物を食べず、家を建てず、樹の下に住んでいる。蝦夷には三種類ある。大和朝廷に毎年入朝してくる熟蝦夷(にきえみし。おとなしい蝦夷)、麁蝦夷(あらえみし。荒々しい蝦夷)がそれより遠く、最遠方に都加留(つがる)だ」
日本書紀ではこれに対応して、遣唐使が「道奥の蝦夷の男女2人を唐の天子に貢した」とある。
この会見の経過は新唐書のみならず日本書紀にも詳しい記載がある。
660年 百済、唐=新羅連合軍の攻撃を受け滅亡。朝廷は阿倍比羅夫の船団による北方進出を中断し、すべての水軍を百済復興に振り向ける。
661年 阿倍比羅夫、百済救援軍の後将軍に任じられる。
663年 阿倍比羅夫、筑紫大宰府帥にも任命される。
663年 日本水軍、白村江の戦いで唐・新羅連合軍の水軍に惨敗。壊滅状態となる。このあと、船団を組んでの蝦夷征伐はなくなる。
668年(天智7年) 天智天皇が即位する。唐の侵攻に備え、防衛網を強化。
672年 唐軍船団が難波に入り、対新羅開戦を迫る。これをめぐり朝廷は混乱。
672年 壬申の乱。北方への進出は一時停滞。
大和のエミシ領域への進出再開
689年 優嗜曇柵(うきたみ)が設置される。優嗜曇柵は米沢盆地のある置賜郡。同じ頃仙台(郡山地区)にも柵が形成された。
696年 大和朝廷、渡島蝦夷の伊奈理武志(イナリムシ)、粛慎の志良守叡草(シラスエソウ)らに錦、斧などを送る。(日本書紀 持統天皇10年)
698年 靺鞨の一族である震国が唐朝の冊封を受け、渤海国と称する。一説では高句麗の末裔で豆満江流域を中心に交易国家を建設。
和人の東北地方への大量侵入
701年 大宝律令が制定される。
708年 越後の国の一部として新たに出羽郡が造られる。出羽郡以北は日本海側もふくめすべて陸奥の国の管轄となる。出羽柵(後出)が建てられ、新潟県内の柵の役割は終わった。
708年 朝廷、陸奥への進出を本格化。史上初めての陸奥守として上毛野朝臣小足が任命される。遠江、駿河、甲斐、信濃、上野から兵士を徴発し軍団を編成。陸奥国の南半分(現在の福島県)が朝廷の直接影響下に入る。
709年3月 蝦夷が越後に侵入。これに対し朝廷は、「越後・陸奥二国の蝦夷は野蛮な心があって馴れ難く、しばしば良民を害する」とし征討を指示。陸奥鎮東将軍に巨勢朝臣麻呂(こせあそんのまろ)を、征越後蝦夷将軍に佐伯宿禰石湯(いわゆ)を任命。関東と北陸の兵士を集め、8月までの約5ヶ月間行なわれた。陸奥鎮東軍は東山道を、征越後軍は北陸道を北上。
出羽出兵: 佐伯宿禰石湯(いわゆ)の率いる征越後蝦夷軍は越前、越中、越後、佐渡の4国から100艘の船を徴発。船団は最上川河口まで進み、ここに拠点として出羽柵(イデハノキ)を造設。
4月 初代陸奥守である上毛野朝臣小足が卒する。後任として上毛野朝臣安麻呂が就任。
710年 都が飛鳥から平城京に遷される。
710年 陸奥の蝦夷らが「君の姓を賜り、編戸の数に入り、公民の扱いを受けたい」と申請する。安麻呂の慰撫が奏功したものとされる。
712年 越後の国出羽郡、陸奥ノ國から最上・置賜の二郡を分割・併合し出羽の国(山形と秋田)が設立される。渡嶋(蝦夷が島)は出羽国の管轄となる。このあと、太平洋側(海道)のエミシは蝦夷、日本海側(北道)のエミシは蝦狄と表記されるようになる。(ただしそれほど厳密な使い分けはしていない)
これについて太政官は、「國を建て、領土を拡げることは武功として貴ぶ所である。官軍は雷のように撃ち、北道の凶賊蝦狄(エミシ)は霧のように消えた。狄部は晏然(アンゼン)になり、皇民はもう憂えることはない」とし、これを承認。
713年 古川を中心とする大崎平野に丹取郡が置かれる。玉造の柵が造設される。玉造の柵は現在の古川市名生館(みょうだて)遺跡と目される。
714年 尾張・上野・信濃・越後の国の民200戸が、出羽柵にはいる。このあと諸国農民が数千戸の規模で蝦夷の土地を奪い入植。移住は総計で1300戸におよんだ。
715年 陸奥の蝦夷、邑良志別君宇蘇弥奈と須賀君古麻比留の要請により、香河村(不明)と閇村(宮古市付近)に郡家を立てる。
716年 巨勢朝臣麻呂が朝廷に建白。「出羽国においては和人が少なく狄徒も未だ十分に従っていない。土地が肥沃で田野も広大であるから、近国の人民を移住させ、狄徒を教え諭すと共に、土地の利益を確保すべきである」
この建言に基づき、陸奥国の置賜・最上の2郡と、信濃・上野・越前・越後の4国の百姓それぞれ100戸を出羽国に移す。718年 陸奥の南部を分割し、常陸国菊多から亘理までの海岸沿いを石城国(石城、標葉、行方、宇太、曰理)、会津をふくめ白河から信夫郡までを石背国(白河、石背、会津、安積、信夫)とする。
陸奥の国は現在の宮城県に縮小される。仙台市南部の第二期郡山官衙遺跡は寺院を付設し、多賀城建設までのあいだの国府と目される。ただし数年後(いくつかの説)に石城、岩背は陸奥国に復したとされる。718年 渡度島蝦夷87人が大和朝廷に馬千匹を贈る。(信じがたい!)
エミシの抵抗開始
720年 渡島津軽の津の司の諸君鞍男(もろのきみくらお)ら6人を靺鞨に派遣し、その風俗を観察させる。(渤海国のことか?)
720年(養老4年)9月 蝦夷(えみし)の叛乱。按察使の上毛野朝臣広人が殺される。持節征夷将軍と鎮狄将軍が率いる征討軍が出動。
721年4月 征討軍、蝦夷を1400人余り、斬首・捕虜にし都に帰還。
721年 出羽の国が陸奥按察使の管轄下に置かれる。
724年3月(神亀元年) 海道の蝦夷が反乱。陸奥大橡(国司の三等官)の佐伯宿祢児屋麻呂(こやまろ)を殺害する。勢力範囲は気仙・桃生地方や牡鹿地方とされる。
724年 朝廷は藤原宇合(うまかい)を持節大将軍に任命。関東地方から三万人の兵士を徴発し、これを鎮圧。
724年 大野東人(あずまひと)により陸奥鎮所が設営される。東人は鎮守将軍(東北地方の最高責任者)として、郡山に駐在していたものと思われる(石碑によって確認される)。陸奥鎮所はのちに多賀柵と改名される。
724年 出羽の蝦狄の叛乱。小野朝臣牛養が鎮狄将軍として派遣される。
725年 陸奥国の俘囚を伊予国に144人、筑紫に578人、和泉監に15人配す。この後和人に抵抗する蝦夷が数千人規模で諸国に配流される。
727年 渤海より最初の使者が派遣される。出羽の海岸に漂着。蝦夷に殺害されるが生存者8名が聖武天皇との会見。その後200年にわたり使者を交流する。
733年 大野東人、出羽地方の本格的平定に乗り出す。蝦夷との境界となる出羽柵が、山形庄内地方から秋田村高清水岡(現秋田市)に移設される(続日本紀)。
736年 朝廷は、出羽平定作戦を承認。藤原不比等の息子である藤原麻呂を持節大使に任命。関東6国から騎兵1千人が配備されるなど大規模な征討軍を編成する。
736年 陸奥の国では出羽出陣後の保安のために色麻柵、新田柵、牡鹿柵などが造営される。また田夷で遠田郡領の遠田君雄人(とおだのきみおひと)を海道に、帰服の狄である和賀君計安塁(けあるい)を山道に派遣し、住民慰撫を計る。
737年早春 大野東人がみずから大軍を率い、多賀城を出発。日本海側の出羽柵(秋田)にいたるルート確立を目指す。騎兵196人、鎮兵499人、陸奥の国の兵5千人、帰服した蝦夷249人の陣容。
737年早春 出羽討伐軍、奥羽山脈を越え大室駅(現在の尾花沢近く?)に至る。ここで出羽国守の田辺難破の軍と合流。田辺軍は兵500人、帰服した蝦夷140人の陣容。
737年春 討伐軍、雄勝峠(有屋峠?)を越え比羅保許(ひらほこ)山まで進出するが、蝦夷が反撃の姿勢を示したため撤退を決断。出羽の国司が撤退を勧め、討伐軍がこれを受け入れたことになっている。
740年 大野東人、九州の藤原広嗣の乱に際し持節大将軍として出兵。
749年 百済王敬福が涌谷町の黄金山で黄金を発見。その後陸奥の国に複数の金山が発見される。朝廷は「多賀郡よりも北の地方からは、税金として黄金を納める」よう命令。
750年 大和朝廷、桃生柵・雄勝柵などの城柵をあいついで設置。桃生柵は現在の桃生郡河北町飯野。
757年 藤原恵美朝臣朝獦が陸奥の守に就任。
757年 桃生柵でさらに本格的な築城が始まる。
760年 雄勝城(おかちのき)が藤原朝獦(朝狩)により確立。没官奴233人・女卑277人が雄勝の柵戸として送られる(現横手市雄物川町)。雄勝城の後身である払田柵の規模は多賀城を遥かに凌ぐとされる。
760年 出羽柵は秋田城へと改変される。
762年 多賀城の大改修が始まる。「不孝・不恭・不友・不順の者」が数千の規模で捕えられ、陸奥に送り込まれる。
767年 伊治城の建設が完了する。伊治は現在の栗原郡築館町。
東北大戦争(38年戦争)
1.宇屈波宇(うくはう)と呰麻呂(あざまろ)の戦い
エミシの第二の抵抗(新野直吉): 大和政権の進出目的は農業開発にあった。当初は先住狩猟民のエミシを排除し、和人の大量移入により農業化を図ろうとした。
しかしエミシは夷俘・俘囚となり安堵を受けた上で、武装反乱を含む体制内抵抗を継続するようになる。これが東北大戦争の本質である。770年(宝亀元年) 海道の蝦夷の宇漢迷公(ウカンメノキミ)宇屈波宇(ウクハウ)、桃生城下を逃亡し賊地にこもる。大和朝廷への朝貢を停止。呼び出しに応じず、「同族を率いて必ず城柵を侵さん」と宣言。「賊地」は登米郡遠山村とされる。朝廷は道嶋嶋足を派遣して虚実を検問したとされるが、その後の経過は不明。
772年 下野国から「課役」を逃れるため、農民870人が陸奥へ逃げ込む。
774 蝦夷・俘囚を結集し桃生城を攻略。宇屈波宇が反乱を率いたとの伝聞もあり。
774年 大和朝廷の大伴駿河麻呂、二万の軍勢を率いて東北に侵攻。遠山村(登米郡)を攻撃。東北地方全土を巻き込む「38年戦争」が始まる。
776年 大伴駿河麻呂、海道を制圧しさらに山道に進出。出羽国志波(岩手県紫波郡)で蝦夷軍と対決。蝦夷軍は一時これを押し返すが、駿河麻呂は陸奥軍三千人を動員してこれを撃破。胆沢(水沢市付近)までを確保する。(岩手県は陸奥ではなく出羽に属していたようです)
776年 出羽国の俘囚358人が、大宰管内と讃岐國に配流される。うち78人が諸司と参議に献上され、賤の身分におとされる。
778年 出羽の蝦夷が大和朝廷軍を打ち破る。朝廷軍は俘囚から編成した俘軍を編制し蝦夷軍と対抗。俘囚の長で陸奥国上治郡の大領、伊治公呰麻呂(いじのきみ・あざまろ)が伊治柵の司令官となる。
780(宝亀11) 呰麻呂が蜂起。伊治柵の参議で陸奥国按察使(あぜち)の紀広純(きのひろずみ)らを殺害。さらに多賀城を略奪し焼き落とす。同僚の道嶋大楯(みちしまのおおだて)からの差別や、城作の造営への地域住民の酷使への反感から決起したといわれる。
780年 朝廷は藤原継縄(つぐただ)を征東大使に、大伴益立・ 紀古佐美(紀広純のいとこ)を征東副使とする討伐隊を編制。数万の兵力で多賀城を奪回するが、伊治公呰麻呂は1年にわたり抵抗を続ける。主な指導者として伊佐西古、諸絞、八十嶋、乙代らの名が残されている。
780年 反乱は出羽地方の蝦夷へも拡大。朝廷は出羽鎮狄将軍に阿倍家麻呂を任命。
784 大伴家持、征東将軍として陸奥に派遣される。高齢の為にまもなく死亡。
786 蝦夷征伐と東北平定を命じる。
2.アテルイの奮戦
788年7月 桓武天皇、紀古佐美を征夷大将軍に任命。東海・東山・板東から兵員を集める。日高見国のえみしは、胆沢の大墓公阿弖流為(たものきみ・あてるい)と磐具公母礼(いわぐのきみ・もれい)を指導者として防衛体制を固める。
789年3月 5万の大軍を与えられた紀古佐美は、多賀城を出発。エミシの集落14村・家800戸を焼き払いながら侵攻。アテルイは遅滞攻撃をかけながら徐々に後退。(以下は紀古佐美の報告にもとづいた「続日本紀」の記載による)
3月 紀古佐美軍、胆沢の入り口にあたる衣川に軍を駐屯。賊軍の激しい抵抗の前に前進を阻まれる。
5月末 紀古佐美軍、桓武天皇の叱責を受けて行動を再開。中軍と後軍の4千人が北上川西岸の三ヶ所の駐屯地から、川を渡って東岸を進む。
5月末 中軍と後軍は、「賊帥夷、阿弖流爲居」を過ぎたところでアテルイ軍約300人を見て交戦を開始。アテルイ軍を追いながら巣伏村に至る。
5月末 アテルイ軍、巣伏村で渡河を試みた前軍を撃退。前線に800人の増援部隊を送り込む一方、後方の東山に400名を送り、紀古佐美軍の退路を断つ。
5月末 朝廷軍は急襲にあい惨敗。部隊の半分が死傷。このうち別将の丈部善理ら戦死者25人・矢にあたったもの245人・河で溺死したもの1036人・河を泳ぎ逃げたもの1217人とされる。アテルイ側の兵力はわずか1500名、戦死者は89人だったとされる。
9月19日 帰京した紀古佐美は喚問され、征夷大将軍の位を剥奪される。
791年7月 大伴弟麻呂が征夷大使に任命される。百済王俊哲、坂上田村麻呂ら4人が征夷副使となる。侵攻に備え10万の大軍が編制され、26万石の食料が準備される。(この年と794年の2回征討作戦があったとは考えにくいので、とりあえずあいまいに書いておきます)
792年 征東大使大伴弟麻呂、副使坂上田村麻呂に率いられた第二次征東軍が侵攻。十万余に及ぶ兵力で攻撃をかけるが制圧に失敗。(794年の攻勢との異同は不明)
792年 斯波村の蝦夷の胆沢公阿奴志己らが朝廷に帰順。伊治村の俘に遮られて王化に帰することが出来ないので、これと闘って陸路を開きたいと申し出る。
794年4月 朝廷軍10万が日高見へ侵攻開始。蝦夷側は75の村を焼かれ、馬85匹を奪われた。朝廷軍は首457級を上げ1501人を捕虜とする。アテルイは攻撃をしのぎ生き延びる。
6月 副将軍坂上田村麻呂ら、蝦夷を征すと報告。
11月 大伴弟麻呂が帰京して戦果を奏上。
795年11月 渤海の国使が蝦夷の志理波村に漂着。現地で略奪されるが出羽国の出先に保護される。志理波村は余市のシリパ岬周辺とみられる。
796年 この年だけで関東一円を中心に、9000人の諸国民が伊治城下の旧蝦夷領に入植。おそらく日高見侵攻作戦の参加者が褒賞として与えられたものと思われる。
日高見国の滅亡
797年11月 蝦夷征伐で戦功を上げた田村麻呂が征夷大将軍に任命される。田村麻呂は各族長に対する「懐柔工作」によって抵抗力を削ぐ。
801年2月 征夷大将軍坂上田村麻呂、第三回目の日高見国攻略作戦。4万の軍が胆沢のアテルイ軍を破る。アテルイとモレイは度重なる物量作戦により弱体化。
801年9月 坂上田村麿、「遠く閉伊村を極めて」夷賊を討伏したと報告。
802年1月 田村麻呂、アテルイの本拠地に胆沢城を造築。多賀城から鎮守府を遷す。住民を追放した土地に、関東・甲信越から4000人が胆沢城下におくり込まれ、柵戸(きのへ)として警備にあたる。
4月15日 アテルイとモレ、生命の安全を条件とし、500余人を率いて田村麻呂に降伏。二人は平安京に連行される(日本紀略)。
7月10日 アテルイとモレ、田村麻呂に従って平安京に入る。田村麻呂は、願いに任せて2人を返し、仲間を降伏させるよう提言する。
8月13日 朝廷、「蝦夷は野生獣心、裏切って定まりない」とし、アテルイとモレを河内国杜山で斬刑に処す。(写本により椙山、植山、杜山との記載があるが、どの地名も現在の旧河内国内には存在しない)
エミシ俘囚の配流
802年 律令政府は三次にわたる戦役で捕虜となった蝦夷を、夷俘として各地に移配する。風俗習慣に慣れていないという理由で田租の納入を免除されるなど一定の配慮。
802年6月 朝廷の出羽太政官、渡島蝦夷との私交易を禁止。熊やアシカの皮の品質確保を狙ったものとされる。
803年3月 坂上田村麻呂、造志波(しわ)城使に任じられ、造設にあたる。志波城は北上盆地のほぼ北端に位置し、それから北は奥深い山林となる。
804年 第4次の征夷作戦が計画される。目標は岩手県の北から青森県にかけて。坂上田村麻呂は再び征夷大将軍に任じられる。板東・陸奥7カ国に動員令がだされ、兵糧が小田郡中山柵に運び込まれる。
805年12月 桓武天皇の御前で「天下徳政」相論。北進継続を主張する菅野眞道に対し、藤原緒嗣は「方今、天下の苦しむ所、軍事と造作なり。この 両方の事を停(とど)めれば百姓安んぜん」と主張。帝は藤原緒嗣の意見を採り、第4次の征夷作戦が中止になる。「衆の推服する所のもの一人を撰び之が長と せよ」との触れが出される。
805年 播磨国に配されたエミシ人俘囚が反抗。吉弥侯部兼麻呂・吉弥侯部色雄ら十人が、「野心を改めず、しばしば朝憲に背く」ため、遠島に流される。
806年 近江國の夷俘の六百册人が大宰府に派遣され防人となる。「平民と同じくするなかれ」とされ、一段低い身分を押し付けられる。
809年 藤原緒嗣、東山道顴察使に加えて陸奥出羽按察使に任命され多賀国府に赴任。緒嗣は三度に渡って「自分の任ではない」と辞退したという。
811年(弘仁2年)
2月5日 文室(ふんや 文屋とも書く)綿麻呂、紫波城より北方の爾薩体(にさったい)、弊伊(へい)の2村の蝦夷を攻撃することを上申。「出羽国の夷が邑良志閇村を攻撃。同村の降俘の代表、吉弥侯部都留岐が国府に救援を要請」したとされる。
綿麻呂は810年の薬子(くすこ)の変に巻き込まれ幽囚の身となるが、坂上田村麻呂の助命嘆願により救われ、藤原緒嗣に代わる陸奥・出羽按察使に任命される。
4月17日 綿麻呂は征夷将軍に任ぜられる。2万5千の兵力を要請するが、実際には1万人足らずにとどまる。現地の俘囚の同盟軍を加え2万の軍を編制。爾薩体、弊伊、都母の村を侵略。
10月13日 文室綿麻呂の38年戦争終結宣言。戦功が認められ征夷将軍に任命される。陸奥國の公民の内、征夷の戦いに参加した者に対しては調庸(税金または使役)を免除。
812年 陸奥国胆澤に鎮守府を設置。和我(和賀)・稗縫(稗貫)・斯波(紫波) の三郡を設置。占領地を律令政府の行政区画に組み入れる。盛岡には志波城を移転した徳丹城を建設。
エミシ俘囚の反乱
813年5月13日 陸奥で止波須可牟多知(トヒスカムタチ)の反乱。トヒスカムタチは帰順した蝦夷で吉弥侯部の姓を持つ。綿麻呂がふたたび征夷将軍に任ぜられる。
814年 出雲国意宇でエミシ俘囚の乱。この反乱で米が奪われたため、神門三郡の未納稲は十六万束になる。甲斐國でエミシ俘囚の乱。賊首とされた吉弥侯部井出麿ら男女13人が伊豆に流される。
815年 文室綿麻呂、按察使を離任し京に戻る。これに代わり、小野岑守が陸奥守に任ぜられる。
815年 小野篁、父・岑守に従って陸奥国へ下る。その詩に「反覆は単干(匈奴の王)の性にして、辺城いまだ兵を解かず」と、従軍のきびしさを託す。(827年作成の「経国集」に掲載)
830年 大地震により秋田城が損壊。
847年 日向国の記録に「俘囚死に尽くし、存するもの少なし」との記載。
848年 上総国でエミシ俘囚の乱。丸子廻毛らが反乱。まもなく当局により57人が捕らえられ処刑される。
855年 陸奥国の奥地で俘囚が互いに殺傷しあったため、非常に備えるために援助の兵2千人を発し、さらに近くの城の兵1千人を選んで危急に備える(また口実を作っては攻撃を仕掛けて、和人を送り込んだということでしょう)
875年 渡島の荒狄が水軍80隻で秋田・飽海(酒田)地方に襲来、百姓21名を殺害。
875年 下総国でエミシ俘囚の乱。「官寺を焼き討ちし、良民を殺戮」する。 朝廷は「官兵を発して以って鋒鋭を止め」よう指示。さらに武蔵・上總・常陸・下野の国に各三百人の兵を派遣するよう命じる。まもなく反乱は鎮圧され、 100人以上が処刑される。朝廷は行過ぎた弾圧を批判。
秋田エミシによる元慶の反乱
878年(元慶2年)
東北地方に飢饉。出羽の国では苛政に対し不満が高まる。
2月 元慶の乱が発生。秋田の蝦夷が反乱。秋田城を攻める。出羽国守の藤原興世は城を捨てて逃げ走る。城司の良岑近は「身を脱れて草莽(く さむら)の間に伏し竄(かく)れ」たという。逆徒(げきと)は蟻のごとくに聚り、兵営や要塞を囲み、城と周辺の民家に火を放つ。
3月 朝廷は陸奥国に出羽を救援するよう指令。陸奥の守は精騎千人歩兵二千人を編制し、藤原梶長を押領使とする軍を派遣。
4月 陸奥の軍勢と出羽軍2千が、秋田川のほとりに達する。このとき霧にまぎれて、賊徒千余人が早船で奇襲攻撃。同時に数百人が背後より攻める。官軍は狼狽して散じ走った。
戦闘の顛末: この戦闘で500余人が殺され虜となる。逃げ道では互いに踏み敷かれて、死するもの数え切れず。軍実甲冑は悉くに鹵獲される。
文室有房(副官)は瀕死の重傷を負い、小野春泉(副官)は死せる人の中に潜伏してかろうじて死を免れる。藤原梶長は深草の間に隠れ、5日間も飲まず食わずに送り、賊去りし後、徒歩で陸奥まで逃れた。
5月 陸奥軍大敗の報を受けた朝廷は、藤原保則を出羽権守に任命。小野春風を朝廷軍指令官とする。陸奥・上野・下野に動員をかけ、4000人の兵で秋田に入る。陸奥権介の坂上当道(坂上田村麻呂の曾孫)も討伐軍に加わる。(一説に孫の坂上好蔭)5月 秋田の北東12か村が反乱。秋田城が急襲され、朝廷軍は大敗。食料・軍備を奪われる。「賊虜強く盛にして、官軍頻に敗れ、城或は守を失ひて群隊陥没」する。
6月 小野春風の率いる陸奥=俘囚の軍、反乱集団の多くを懐柔することに成功。「夷虜は叩頭拝謝し、態度を改めて幕府に帰命」する。その証として、帰順を拒否する首長二人の首を斬って献上する。秋田城を包囲して攻撃。反乱軍2000人が逃亡。
12月 鹿角の反乱軍300余人が降伏。元慶の乱が終結。
879年1月 渡島蝦夷首103人が3千人を率いて秋田城に詣でた。朝廷はこれを歓迎する(日本三代実録)。この頃のものとみられる夷の印入りの土師器の杯が札幌、余市から出土している。
883年 上総国市原郡で俘囚の乱。40人あまりの集団が「官物を盗み取り、人民を殺略。民家を焼き、山中に逃げ入」る。当局は「国内の兵千人で追討」する許可をもとめる。朝廷は「群盗の罪を懼れて逃鼠した」に過ぎず、人夫による 捜索・逮捕で十分であるとし、国当局の申請を棄却する。
883年 結局、俘囚は全員が処刑される。太政官は討伐隊の戦功をたたえつつも、①渠魁を滅ぼし、梟性を悛めることがあれば務めて撫育せよ。②事態が急変したのでなければ、律令に勘據し太政官に上奏せよ、と注文。
893年 出羽でふたたび反乱が発生。国司は中央には「出羽の俘囚と渡島の狄との戦い」が発生したと報告。城塞を固めて万一に備える。
901年 出羽国司がエゾについて報告。「津軽の夷俘は、その党多種にして幾千人なるを知らず、天性勇壮にして常に習戦を事とす。もし逆賊に招かば、その鋒当り難し」(この年完成した「三代実録」に記載)
天慶の乱 エミシ、最後の蜂起
939年 4月 出羽国で、俘囚による反乱。秋田城軍と合戦。天慶の乱と呼ばれる。
5月6日 賊徒が秋田郡に到来し、官舎を占拠し官稲を掠め取り、百姓の財物を焼き亡くす。朝廷は陸奥の守に鎮圧を指示。
6月 平将門の謀反。平将門が兵1万3千人を引き連れて陸奥・出羽を襲撃するとのうわさが流れる。将門の父良将は征夷大将軍として陸奥国に出征している。
940年2月 将門追討の官符を受けた平貞盛、下野の豪族藤原秀郷を味方につけ平将門軍を破る。
947年 陸奥国の狄坂丸の一党が鎮守府の使者並茂を殺害。
前九年後三年の役
1000年頃 陸奥国奥六郡(岩手県北上川流域)の土着豪族(俘囚長)の安倍忠頼、厨川柵(現盛岡市)を築き、半独立的な勢力を形成。
1050年 多賀城の国司、陸奥守藤原登任は朝廷に安倍氏討伐をもとめる。安倍頼良(忠頼の孫)は役務を怠り、税金も納めず、奥六郡の境界である衣川を越えて南に支配を拡げようとしていたとされる。
1051年 前九年の役が始まる。藤原登任、安倍氏の頭領である安倍頼良を懲罰するため、数千の兵を陸奥国奥六郡に派遣。秋田城介の平繁成も国司軍に加勢する。
1051年11月 玉造郡鬼切部(おにきりべ)で朝廷軍と安倍軍が衝突。官軍は散を乱して壊走。安倍頼良の圧勝に終わる。大和朝廷は藤原登任を解任し、河内源氏の源頼義を陸奥守に任命。
1052年 朝廷、上東門院の病気快癒祈願の為に大赦をおこなう。安倍頼良は朝廷に逆らった罪を赦される。
1052年 源頼義が陸奥に着任。安倍頼良は、頼義と同音であることを遠慮して名を頼時と改める。
1053年 源頼義、陸奥守のまま鎮守府将軍を兼任。鎮守府の場所は不明だが、奥六郡に境を接する衣川あたりと思われる。
1056年2月 阿久利川事件が発生する。源頼義の支隊を安倍貞任(頼時の嫡子)が攻撃。ふたたび戦闘が再開される。
1056年 安倍頼時の女婿でありながら源頼義の重臣であった藤原経清は、頼義の粛清を恐れ安倍側に寝返る。
藤原経清の話はややこしいが大事なので、ここにまとめて書いておく。
経清は安倍氏と同じ俘囚の身分で、朝廷に協力し。亘理の権大夫の官名を受けていた。藤原の名は下総からの流人の流れを引いているためとされる。
妻は安倍頼時の娘であり、息子が清衡である。自らは厨川で朝廷軍に捕らえられ斬罪となるが、妻は安倍氏に代わる清原氏に嫁し、清衡は清原家養子となった。これは前九年の役が最終的には安倍氏と清原氏の出来レースであったためである。
清衡は後三年の役で源義家に就き、清原家の権力を一身に集めた。その上で、実父の藤原の家名を復活させ、奥州藤原氏の始祖となった。1057年5月 源頼義、安倍富忠ら津軽の俘囚と結び、頼時軍の挟撃を図る。頼時は津軽説得に向かうが、伏兵に攻撃を受け横死。安部貞任が後継者となる。
1057年11月 源頼義、兵隊1800余りを率いて国府より出撃(一説では2500)。北上川沿いに北上。貞任は河崎柵に4000名の兵を集め待機。川崎は東磐井郡川崎村、現在は一関市。
11月 川崎の柵近くの黄海(きのみ)で両軍が衝突。頼義軍は寡兵の上に食料不足で惨敗。戦死者は数百人に達する。源頼義・義家父子はわずか7騎になって、貞任軍の重囲に陥るが、かろうじて隙をついて脱出。
1062年春 源頼義の陸奥守の任期が切れる。高階経重が着任したが、郡司らは経重に従わなかったため、再び頼義が陸奥守に任ぜられる。
7月 源頼義、出羽国仙北(秋田県)の狄賊の清原光頼を味方に引き入れ、安倍一族に再挑戦。朝廷側の兵力はおよそ1万人と推定され、うち源頼義の軍は3千人ほどであった。
9月17日 安倍氏の最後の拠点、厨川柵(岩手県盛岡市天昌寺町)、嫗戸柵(盛岡市安倍館町)が陥落する。安倍貞任の遺児高星は津軽藤代に逃れて安東太郎と称する。
1063年 源頼義、伊予守に転ずる。奥六郡は清原氏に与えられる。
1065年(治暦3) 「衣曾別嶋」(えぞのわけしま?)の荒夷(あらえびす)と、閉伊7村の山徒が反乱。多賀城の源頼俊が制圧。衣曾別嶋は青森から下北あたりを指すと考えられている。
1086年 陸奥守義家、分裂した一方に味方し、出羽に侵攻するが、沼柵(横手市雄物川町沼館)の戦いに敗れ撤退。
1087年12月 義家軍がふたたび出羽に侵攻。金沢柵(横手市金沢中野)の戦いに勝利する。これにより後三年の役が終結。
朝廷はこれを頼家の私戦と判断。戦費の支払いを拒否し、義家の陸奥守職を解任する。義家は自らの裁量で私財をもって将士に恩賞したため、関東における源氏の名声を高める結果となった。
1087年 義家についた清原清衡は実父藤原経清に従い藤原姓を名乗る。奥州藤原氏の統治が始まる。清衡は、朝廷や藤原摂関家に砂金や馬などの献上品や貢物を続け、信頼を勝ち取る。
1094 藤原清衡、白河より外ヶ浜(現青森市)まで道を開く。奥州藤原氏の支配が津軽にも及ぶ。
1110 この頃成立した「今昔物語」に「今昔、陸奥の国に阿部頼時という兵ありけり。その国の奥にエゾというものあり」と記載。「エゾ」の初出とされる。陸奥の奥はツカロ(津軽)と呼ばれる。
『今昔物語集』第31巻第11「陸奥国の安倍頼時胡国へ行きて空しく返ること」の説話は、筑紫に流された貞任の弟宗任が語った物語とされる。誰かが行ったことは間違いないが、頼時本人ではなかったと思われる。
1111 出羽国の守護源光国は他家領を荒らしたうえ、任務を無断放棄し美濃の所領に帰る。自己中を貫いた武将として有名。
1111年 陸奥守兼鎮守府将軍の藤原基頼、北国の凶賊を討つ。こちらの藤原は京都の名門出。
1124年 清衡によって中尊寺金色堂が建立される。平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市となる。
1131 藤原氏はエミシの物産を京に運ぶことで財を成す。京都の朝廷、清衡を「獄長」と表現。「奥六郡」における「俘囚の長」としての扱いを貫く。
1143 琵琶の袋としてエゾ錦が用いられたとの表現など、エミシ民族(エゾ)との交易が文献上で確認されるようになる。この時点ではエゾ地は東北地方北部にまで及んでいた。
1150 藤原親隆、歌の中に「えそがすむつかろ」(蝦夷が住む津軽)と表現。
1153 平泉政権の二代藤原基衡、年貢としてアザラシの皮5枚ほかを上納する。北海道まで交易・支配が及んでいたことが示唆される。その後秀衡の時には鎮守府将軍・陸奥の守に任官される。その兵は奥羽17万騎と称される。
1185年 奥州藤原家、源頼朝に追われた義経を秘匿。後、頼朝の圧力を受け殺害。
1189年7月 頼朝軍が奥州に侵攻。藤原氏を滅ぼす。泰衡は糠部郡に脱出。出羽方面から夷狄島を目指すが、肥内郡贄柵(現大館市仁井田)で討たれる。
安東家が蝦夷管領に
1189 幕府は奥州惣奉行を設置。秀衡の弟藤原秀栄は十三湊藤原氏の継承を許される。
1189年12月 安平の郎党だった大河兼任が、出羽(秋田)で反乱。一時平泉を占拠、兵力1万騎に及ぶ。
1190年3月 大河軍、栗原郡一迫の戦いで敗れ、兼任は敗死。
1190年 藤原氏が滅亡。安藤季信が、津軽外三郡(興法・馬・江流末)守護・蝦夷官領を命ぜられる。季信は安倍氏の末裔で、頼朝の奥州攻めで先導をつとめた安藤小太郎季俊の子。(実体的支配は1217年以降と思われる)
1191 頼朝軍の代官南部氏が、甲斐の南部から陸奥九戸、糠部へ移住。
1204 北条義時、執権に任ぜられる。
1216 鎌倉幕府が、強盗海賊の類50余名を蝦夷島(夷島)に追放する。その後1235年、1251年にも関西方面の罪人を蝦夷島送りにしている。
1217年 執権・北条義時、陸奥の守を兼任。安東太郎(堯秀)を蝦夷管領(蝦夷沙汰代官)に任命。「東夷を守護して津軽に住す」。安東家が交易船からの収益を徴税し、それを北条得宗家に上納する仕組み。
1223年頃 十三湊、西の博多に匹敵する北海交易の中心となる。エミシの交易舟や京からの交易船などが多数往来した。廻船式目によれば、十三湊は「三津七湊」の一つに数えられる。「夷船京船群集し、へ先を並べ舳(とも)を調え、湊市をなす」賑わいを見せる。
1229年 安東氏、十三湊藤原氏を征服。藤原秀直は渡島に追放される。安東氏は出羽の湊(土崎)と能代川流域の檜山、 宇曾利(下北)および萬堂満犬(まつまえ)も勢力下に納めた。鎌倉末期には安藤氏所有の「関東御免」(幕府公認)の津軽船は20隻を数え、若狭や越前まで 蝦夷産の鮭や昆布を運んでいた。
1268年 津軽で蝦夷の蜂起がおこる。 蝦夷管領安藤五郎が殺される。仏教を夷島に持ち込み強制したのが原因とされる。元との講和を巡る方針争いとの説もある。
1300年頃 『吾妻鏡』に、強盗や山賊などを捕えて蝦夷が島に流したとの記載。
1318 北条高時、称名寺に蝦夷鎮圧を感謝する書状を奉納。
津軽大乱・安藤氏の内紛
1320年 津軽大乱が始まる。出羽の蝦夷が蜂起。戦いは2年におよぶ。惣領安藤又太郎(季長)が鎮圧に乗り出すが、蝦夷に返り討ちにされる。
1322年 安藤氏で内紛。季長と従弟の五郎三郎(季久)が対立。季長は西が浜に、季久は外が浜(青森市)に拠点を構え対峙する。
1322年 得宗家公文所の裁定。裁定役の長崎高資が双方から賄賂を受けたため、かえって紛糾。
1324年 鎌倉幕府、蝦夷降伏を願い祈祷を行う。翌25年にも同様の記載あり。
1325年7月 北条得宗家、安藤季長を蝦夷管領から更迭。これに代わり五郎三郎季久が管領となり、又太郎宗季を名乗る。
1326年 季長は季久に従わず反乱。鎌倉幕府、陸奥蝦夷の鎮圧のため御内侍所の工藤祐貞を派遣。あらためて宗季を蝦夷管領に任命する。
1326年7月 工藤祐貞、西が浜の合戦で安藤季長を捕縛し鎌倉に帰還。季長郎従の季兼は「悪党」を集めて抵抗を続ける。
1326年? 十三湊の下の国安東氏(宗家)と大光寺城に拠点を置く上の国安東氏(分家)に分かれる。
1327年 幕府は宇都宮高貞・小田高知を「蝦夷追討使」として派遣。1年後に安東家の和議に成功。季久の地位を安堵する。安藤季長は鎌倉に連行される。
1331年 元弘の乱。津軽で大光寺・石川・持寄等の合戦起こる。
東北地方における覇権争い
1333年 鎌倉幕府が滅亡。建武中興。鎮守府将軍には足利尊氏が任じられる。外浜・糠部郡らの北条氏領を与えられ、蝦夷沙汰に着手。
1335 足利尊氏が建武政府に反旗。南北朝の対立がはじまる。南朝側は北畠顕家を陸奥守兼鎮守府将軍に指名。
1335年 曽我・安藤家は足利につき南部師行・政長・成田泰二と戦う。
1338年 足利尊氏、征夷大将軍となる。北畠顕信は陸奥の国司となる。南部政長が糖部の国代となる。(南部藩がらみの記載は他の事項との食い違いが多く、相当眉唾と思われる)
1340年 興国の大津波。颱風により十三の地が壊滅して、住居地・城郭・寺社なども一挙に流失。10万人(?)が死亡。十三氏は十三の地を捨てて大光寺に移る。
1356 諏訪大明神絵詞が成立。奥州戦争の従軍兵士の見聞を基にしており、信憑性が高いとされる。
絵詞の要旨: エゾは日の本、唐子、渡党からなる。日の本、唐子は和人と異なり夜叉の如き様相で、獣や魚を主食とし農耕をまったく知らない。言葉はまったく通じない。住むところは外国につながっている。一方、渡党は津軽に頻繁に往来し交易を行う。和人と似ていて言葉も何とか通じる。髭や髪が多く、全身に毛が生えている。乗馬の習慣はなく、骨鏃を使った毒矢を用いた。
1361 青森県東部での南部氏と曽我氏の戦いは南部氏の勝利に終わる。
1395年 安藤盛季の弟鹿季が足利義満の認可を得て秋田湊家を創設。鹿季は南朝側の秋田城介を駆逐し、支配を確立。これ以後、湊家を上の国、そして津軽の安藤氏を下の国というようになる。
1410年 南部守行と湊の鹿季、出羽の刈和野で戦火をまじえる。
1411年 新たに中国大陸を制覇した明は、アムール川下流域まで進出。出先機関の「衛」をカラフトなど3箇所に設置、苦夷(くい?)と交易する。日本資料では「応永の蝦夷の乱」と記録されている。
津軽の安東家の滅亡
1418年 南部藩の攻撃により大光寺城と藤崎城が落城。安藤氏は津軽平原の支配権を失う。
1423年 安東鹿季 兄盛季から分かれ、湊安東家を起こし、秋田湯河湊(秋田市)を本拠とする。
1423年 「安藤陸奥守」が室町将軍にラッコ毛皮30枚を献上。
1430年 南部義政が下国十三湊安藤氏を攻略。義政は和睦の申し出を行い、安藤氏と協議するため城内に入ったあと突然攻撃。安藤盛季は敗れて唐川城に逃れる。
1432年 安東盛季、唐川城、柴崎城であいついで敗れ、海を渡って松前に逃がれる。 これにともない多くの和人が移住。
1432年 盛季の舎弟安藤重季の嫡男である安東政季も捕らえられ、八戸南部藩に送られる。八戸南部藩当主の南部助政は、彼の武勇を惜しんで命を助け、宇曽利(下北半島)の田名部に知行を与える。(この後まゆつば物の記載が続きます)
1435年 後花園院、羽賀寺の再建を「奥州十三湊日の本将軍安部康季」に命じる。安部は安藤氏の官称。
1445年 安藤盛季の子康季、十三湊日下奨軍となる。十三奪回をめざし津軽に渡る。鰺ケ沢 (西津軽郡) 付近で戦闘を交えるが、引根城で病死。