蒙古vs骨嵬(クガイ)戦争(詳細はアイヌ年表へ)

樺太南部には樺太アイヌ、中部にウィルタ、間宮海峡から北部にかけてニブフ(ギリヤーク)などの北方先住民族が狩猟、漁労、交易を営んでいた。

1264年 黒竜江河口に住む吉里迷(ギレミ)人、クビライに対し骨嵬(クガイ)が毎年のように侵入してくると訴える。吉里迷はギリヤーク(ニヴフ)族、骨嵬(苦夷とも)はアイヌ族を指しているとされる。

1264年 蒙古帝国(のちの元)が3000人の軍勢を樺太(古桂)に派兵し、住民を制圧。朝貢を命じる。アイヌ人の侵略に対する対応措置とされる。

1273年 塔匣剌(タヒラ)が征東招討司に任命され、アイヌ攻撃を計画したが、賽哥小海(間宮海峡)の結氷がなく、実施されずに終わる。

1274年 文永の役。元の日本襲来。

1281年 弘安の役。元の日本襲来。

1284年 樺太の武装集団「骨嵬」(くがい)が元に反乱を起こす。元は聶古帯(ニクタイ)を征東招討司に任じ、骨嵬征伐が20年ぶりに実行される。

1285年 征東招討司塔塔児帯(タタルタイ)・楊兀魯帯(ウロタイ)が骨嵬を攻撃。

1286年 元が三度目の骨嵬攻撃。「兵万人・船千艘」を動員したという。

この結果、骨嵬の軍勢は四散。元朝は、樺太南端に前進基地として「果夥(クオフオ)」城を設ける。
西能登呂岬に遺跡が残る白主土城は、アイヌ伝統のチャシとはかなり構造の違う方形土城で中国長城伝統の版築の技法が使われており、ここで言う「果夥」であった可能性がある。(中村和之=ウィキペディア)

1297年 ニヴフ人、元朝に対し、アイヌが海を渡ってニヴフの打鷹人を捕虜にしようとしているとの訴え。

中村はこれについて「日本では鷲羽は、アイヌ交易の代表品として捉えられており、アイヌは鷹羽・鷲羽流通の掌握を狙っていた」と説明している。

1297年5月骨嵬が黒龍江流域に侵攻。キジ湖付近で元と交戦する。

ある文献では次の記載。樺太アイヌで骨蘶の屋英(わいん)、ギリヤーク人の作った船に乗り、沿海州に渡って乱を起こす。また骨蘶の酋長フレンクは北樺太西海岸の果移(カター)から海を渡って攻め込む。いずれも元軍に破られた。
海保嶺夫=ウィキペディアでは、蝦夷沙汰職・蝦夷代官安藤氏が蝦夷(樺太アイヌ)を率いて闘ったとある。これらの記載は?

1308年 「骨嵬」が元に降伏。アイヌの玉善奴・瓦英らが、ニヴフの多伸奴・亦吉奴らを仲介として、毛皮の朝貢を条件に元朝への服属を申し入れる。

以上の経過については、かなり怪しいものも混在している可能性がある。取り扱いに注意が必要。

1411年 元に代わり明が成立。黒竜江下流域まで進出。樺太をふくむ3箇所に衛(役所)を設置し、アイヌ民族と交易する。

松前藩の進出

1485年 樺太アイヌの首長、武田信広に銅雀台の瓦硯を献じ配下となる。(武田信広はこの時点で蝦夷管領・安東氏の代官にすぎなかったが、すでに実権を握っていたようである)

1590年 信広五代の孫の蠣崎慶広、太閤秀吉に会い親藩に加えられ、樺太を含む蝦夷地主として待遇された。

1593年 蠣崎慶広、秀吉から蝦夷地の支配権を許される。

1599年 蠣崎慶広、家康から蝦夷地の統治に関する誓書を受ける。以後姓を松前と改める。(この辺りはアイヌ年表参照のこと)

1602年 イエズス会宣教師マテオ・リッチが北京で作った世界図。日本でこれを基にマテオ・リッチ系世界図が作られた。図柄的には北海道だが、書かれている地名は誤っている。樺太は存在しない。

マテオリッチ

1603年 松前藩(松前公広)、宗谷に役宅を設置。利尻・礼文・樺太を司さどる。

1635年(寛永12) 松前藩、村上掃部左衛門を樺太巡察(島巡り)に派遣。(サハリン・歴史関連年表

この探検については文献により多少の異同がある。「村上掃部左衛門」については「佐藤嘉茂左衛門」との表記がある。ただし佐藤説では「蠣崎蔵人」(蠣崎家の始祖)が同行したとなっており、これは誤情報であろう。最初の上陸地は西能登呂岬ウッシャムである。西能登呂岬から亜庭湾沿いに10キロほど北上したあたりに内砂浜という集落がある。まぁその辺りであろう。
ここで越年し、翌年に探検をこなったのは甲道庄左衛門であり、藩幹部の「村上掃部左衛門」は小便だけして帰ったのだろう。

1636年 甲道がウッシャムで越年。翌年多来加湖に至る。原文では“足香”とあてられているようである。

この後50,79,89年の数次にわたり調査隊が送られる。松前藩は江戸幕府に自藩の領土として樺太を報告。

1643年 オランダの航海者メルテン・ド・フリースが樺太を探検。クシュンコタンに上陸し敷香、北知床岬まで到達。宗谷海峡は発見できず、北海道と陸続きと報告する。

久春古丹は後の大泊であり、その一部をなす。1875年よりコルサコフと改称した。1908年、日本領となり樺太府が置かれた後、大泊と改称された。ただしそれと同時に樺太府は豊原に移された。したがってこの年表で大泊の名を使用する意味はない。

1644年 清が中国を統一。アムール川流域とサハリンの北部を支配下におく。現地に毛皮貢納を義務付ける。

清朝は住民を戸(ボー)、村(ガシャン)、氏族(ハラ)という単位で組織し、1戸当たり毎年1枚のクロテンの毛皮を貢納させるとともに、貢納者には綿織物の衣類や反物などを恩賞として与えました。また、集落や氏族には首長を任じ、彼らには特別に毎年絹製の満洲官吏の制服を1式と綿織物などを恩賞として与えました。そのような支配体制がアムールやサハリンの住民の交易活動を大いに活性化させたのです。(佐々木史郎講演

1644年 江戸幕府が「正保御国絵図」を作成。樺太が北海道の北の大きな島として記載されている。東には千島列島が描かれる。

正保地図

1658年 ロシア黒龍江総督パシコフ、ネルチンスクを建設。武力により版図を拡大。

1669年 松前船、サハリン島に至り、エブリコ(薬用きのこ)を積む。

1679年 松前藩の穴陣屋が久春古丹に設けられ、日本の漁場としての開拓が始まる。ただしこの陣屋は5年ほどで閉鎖される。

1683年 清朝軍、黒龍江沿岸のロシアの要塞を襲撃。

1685年 松前藩、家臣の知行地として宗谷に商場(宗谷場所)を設置。樺太の仕切りが委ねられる。宗谷場所は来航する樺太アイヌと交易を行う。

1689年 清がロシアを撃退。ネルチンスク条約締結。この後、黒竜江下流に進出した清軍は、樺太の住民にも朝貢をもとめる。

1689年 松前藩士、蠣崎伝右衛門が樺太の地図を作成。

1700年 松前藩、樺太を含む蝦夷地の地名を記した松前島郷帳を作成し、幕府に提出。

1709年 清国、イエズス会修道士に命じて清国版図を作成。修道士は黒竜江河口対岸に島があると聞き、現地民の通称であるサハリン・ウラ・アンガ・ハタと記した。

1715年 幕府に対し、松前藩主は「十州島、樺太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。

 

1715年 医師寺島良安、「和漢三才図会」で、カラフトを大陸の一部として描く。

 

つまり、黒竜江河口付近に、間宮海峡を隔ててサハリン島があり、北海道の北に大陸と繋がる樺太(半島)があるという二つの認識が併存していたことになる。この誤解はかなり後まで続いていく。したがって明治の領有権放棄までについては「樺太」との記載がふさわしい。

1732年 清国、樺太を6つのハラ(氏族)に編成し、毛皮貢納民とする。

1739年坂倉源次郎が『北海随筆』を著す。この中に「山丹」が初めて登場。この頃から山丹交易が盛んとなる。山丹は山靼、山旦とも表現され、間宮海峡を挟む樺太および黒竜江下流地域を指す。

サハリン・アイヌの人々は中国製の絹織物(いわゆる蝦夷錦)やガラス玉、ワシやタカの尾羽を持ち込んだ。それらは大陸からやってくる「サンタン人」と呼ばれる人々から手に入れたものだった。
松前藩は密貿易の嫌疑を避けるため,山丹人との直接交易は行わなかった。(
佐々木史郎講演

1742年 清の役人、樺太アイヌが清商人から略奪をはたらいたとし、樺太アイヌを取り締まったとの記録。

1745年 ロシア帝国全図が作成される。(これでは樺太・千島がロシアのものと言われても仕方ない)

ロシア帝国地図

1751年 宗谷場所詰の松前藩士加藤嘉兵衛、藩主の命を受け、海鼠(ナマコ)漁場調査と交易のため白主に出向く。翌年、久春古丹など3カ所に漁場を開く。(森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

 

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北海道・樺太アイヌ語地名サイト カムイミンタラ」から部分拡大。もともとは「樺太庁発行樺太要覧」(昭和2年発行)より転載したもののようである。

明治38年の地図。左図より約30年前。日本領となってまもなくの頃なので、漢字もあてられていない。

1752年 ソウヤ場所から樺太場所が分立。(これは目下のところ疑問)

1772年 松前藩、城下の商人で宗谷場所請負人村山伝兵衛に命じて、交易と漁法の指導のため、二隻の船を樺太に派遣。

1777年 松前藩、藩士新井田隆助を派遣、樺太南部の検分、測量に当たらせる。

1785年7月 幕府、蝦夷地調査隊を派遣。普請役の庵原弥六は、宗谷よりシラヌシに渡海。西はタラントマリ(多蘭泊)、東はシレトコに至る。


白主はロシア領となってからはさびれてしまった。日露戦争後は南白主と呼ばれる一集落に過ぎなかった。白主をふくむ好仁村の役場は南名好(アイヌ名ナヤシ)に置かれた。

9月 林子平、「三国通覧図説」で、欧州の地図を元に、樺太を東韃靼の地つづきである半島と断定。これとは別に「サカリン」を島に描く。

1786年

4月 幕府蝦夷地巡検使の東班(山口、青島、最上)と西班(庵原、佐藤)が松前を出発。

6月 西班、宗谷に至る。庵原は樺太に渡り、最初の本格的な樺太調査。白主を起点に東岸は約三十里、西岸は約六十里ほど検分。

1787年

3月 樺太から戻り宗谷で越年中の庵原が病死。

5月 庵原の後継となった大石逸平が樺太に入る。

 

一隊は、ノトロに着岸し、同日シラヌシに至る。
タラントマリで、山丹人からサハリン奥地の様子を聴取。彼らはアムール下流キジ湖畔から交易のため来島していた。さらにナヨロに至り、現地人から地境・行程を聴取する。さらに久春内に至る。
大石は、西はナツコ、東はタライカに至るまでの多数の地名と土地の特徴を記録した。

 

1787年 フランス人ドウ・ラ・ペルーズ、中国から樺太探検に入る。黄海から日本海と北上し、樺太西岸に達する。その後海岸沿いに北進。海が浅くなり座礁の心配で船を反転させて引き返す。さらに宗谷海峡をぬけてカムチャツカへ向かう。(ロシアでは宗谷海峡をラ・ベルーズ海峡と呼ぶ)

1790年

5月 松前藩、幹部の松前平角らを白主に派遣。

西地コタントル、東地シレトコ(中知床岬)まで調査。ナヨロ、トンナイで山丹人、ロシア人から山丹のみならず、吉林、北京の状況を聴取する。

白主に商場(会所)を設置。藩士が駐在するカラフト場所が開始される。幕府も勤番所を置く。またシラヌシ、ツンナイに番屋、トンナイ、クシュンコタンに荷物小屋を設置。春から秋までのあいだ、勤番を派遣した。

村山伝兵衛がカラフト場所請負人となる。樺太アイヌとの交易を拡大。いっぽう山丹人との直接接触は避けられる。

6月 最上徳内、「蝦夷国風俗人情之沙汰」を発表。(のち、改定して「蝦夷草紙」)カラフトを「樺太」とし1つの島に描く。

1792年 第二回目の幕府調査。最上徳内らが派遣される。白主を起点に、西はクシュンナイ、東はトウブツまで検分。山丹人、ロシア人から樺太北部、山丹、満州、ロシアの地理を尋問。

1797年 板垣豊四郎、カラフト場所の支配人となるが、経営は数年で失敗に終わる。

1797年 村上島之丞、「蝦夷見聞記」を著す。カラフトを半島とし、ほかに「サカレン島」を描く。

1798年 幕府、東蝦夷地(北海道太平洋岸および千島)を公議御料(幕府直轄領)とする。樺太は松前藩の手に残される。

1799年1月 幕府、松平忠明を蝦夷地取締御用掛に任命し、蝦夷地の開拓を命じた。

1799年 間宮林蔵、村上島之允の従者として初めて蝦夷地に渡る。函館において伊能忠敬と師弟の約を結ぶ。翌年、普請役の雇となり蝦夷各地の測量に従事。

1800年

1800年 松前藩、カラフト経営を藩士の手から取り上げ、領主手捌(直轄)とする。摂州兵庫津の商人柴屋長太夫が仕入れ方を担当。

この頃から樺太経営の中心は久春古丹に移動したようだ。久春古丹には勤番設所や運上屋のほか,多数の倉庫や番屋があり,アイヌの住居、数十棟を数えた。
松前藷は毎春勤番の藩士を派遣して漁場や山丹交易の監督をおこない,秋には引揚げるのが通例であった。8月末には謹かに越冬番人37人を残すばかりであった。
アイヌは僅かばかりの米,酒,煙草,古着のほか日用品を代償として酷使され、とくに漁場周辺のアイヌの立場は物品の貸付により殆んど負漬奴隷と化しつつあった。

1801年

5月 第三回目の幕府調査。普請役を中村小市郎が務める。小市郎は東海岸をナイブツまで、隊員(小人目付)の高橋次太夫は西海岸をショウヤ崎まで検分。山丹交易事情などを報告。「樺太見分図」では、カラフトを大陸の半島、あるいは島と二通りを併記する。

探索は南部にとどまり、北部については交易にきた東韃靼の山丹人に砂の上に地図を描かせて地勢を聞く程度だったという。

1801年 近藤重蔵、「辺要分界図考」を発表。半島説と独立島説を併記。

これについては次の異説あり。1804年 近藤重蔵、「今所考定分界之図」で、カラフトを離島にし、さらに「サカリン」を離島に描く。森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

1803年 間宮、国後をふくむ東蝦夷地の測量に従事する。05年には天文地理御用掛として蝦夷地日高のシツナイに勤務。06年からはエトロフ島に渡り、沿岸実測や新道開発に当る。

1804年(文化1) ロシア使節のニコライ・レザーノフが長崎に来航し通商をもとめる。幕府は通商を拒絶しレザーノフは事実上の幽閉状態に置かれる。(交渉時、レザーノフは樺太南部が日本人のものであるとの認識を示した)

1804年 イギリス人のブロートン、ドウ・ラ・ペルーズと同様のコースを探索。「北部太平洋探検航海記」で樺太が半島であると断定する。ラ・ペルーズ、ブロートンの探検により、サハリンと樺太が同一の半島であるとの説が流布する。

1804年 ロシアのクルーゼンシュテルン、ナデシュダ号で樺太探査。調査結果を「世界周航記」として発表した。樺太は黒竜江河口の南で大陸と接続している半島と判断。

1806年 「文化露寇」

10月22日(旧暦では9月11日) レザノフ、日本との通商を拒否された報復のため、フボストフに命じ久春古丹を襲撃。

ロシア兵約30名がボートで上陸。運上屋で米六百俵と雑貨を略奪し11の家屋を焼き、弁天社を焼き払い、焼け残った鳥居にロシア語を彫った真鍮板2枚を掲げた。魚網及び船にも火を放ったあと海上に去る。その後択捉に回り幕府軍を攻撃。船を失った居留民は翌春まで藩との連絡が不能となった。

1807年

3月 幕府は西蝦夷地も公議御料とし、奉行所を箱館から松前に移す。

4月初め 久春古丹との連絡が取れ、松前藩および幕府はロシア軍襲撃の事実を知る。

4月16日 松前藩家老松前左膳と蝦夷地奉行新谷六左衛門、藩兵200人余を率いて福山を出発。5月12日に樺太上陸。

4月 フボストフ、択捉のナイホに上陸し沙那会所を襲撃・略奪。南部藩・津軽藩よりなる守備隊は敗走する。

間宮はこのとき択捉勤務中で事件に遭遇した。逃亡罪で江戸送りとなるが、徹底抗戦を主張した事実が認められ、お咎めなし。

5月 幕府、東北諸藩(津軽藩、南部藩、庄内藩、久保田藩)から3千の兵士を徴集(翌年には4千人に増強)。松前奉行の統括下で蝦夷地警備を命じる。クシュンコタンには南部藩が配置されることとなる。

5月22日 フボストフ、久春古丹の西隣の留多加に上陸。弁天社、運上屋、倉庫などを焼き払う。

6月 フボストフ、利尻島に上陸。島周囲の海域で日本船を襲撃。事件の後、会津藩士ら252名が利尻で警備にあたる。

12月 幕府、ロシア船打ち払い令を発す。