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進歩政党の歴史

(民主労働党のパンフより)

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進歩党(1956年創党,チョ・ボンアムの検挙で瓦解)

→第2共和国革新政党(5.16ク―デタ―で消滅)

→軍事政権の下での暗黒期

→民衆の党,ハンギョレ自民党(1988年創党.大衆的の政党建設に失敗)

→民衆党(1990年創党.92年総選挙で1.6% 得票で解散)

→国民勝利21(1997年グォンヤングギルの候補の大統領選挙出馬)

→民主労動党

〓進歩党

進歩党は,1956年1月,創党準備委員会を結成.5月15日に旗揚げ.副大統領の選挙でチョ・ボンアム(曹奉岩)候補が216万票を得る成功をおさめた.その後,これを基盤に1956年11月創党された.中道左翼と韓民党系,および単独政府の樹立に反対した一部の右翼など,複雑な人的構成で出発した.

平和統一を前面に立てた統一政策を除けば,当時の保守政党と政策の上での差はなかった.主にチョ・ボンアムの個人の政治力に依存した上層連合の性格が強かった進歩党は,大統領選挙での成果を大衆的基盤の拡大と結びつけ,発展させる事が出来なかった.(進歩党事件の公判記録によれば57年現在党員数は1千名)

1958年1月,李承晩政権の弾圧でチョ・ボンアムが検挙されたあと,2月には瓦解した.解放以前に共産党員だったチョ・ボンアムは,翌年,スパイとの判決を受け処刑された.

〓第2共和国の革新政党

社会大衆党、韓国社会党、社会革新党、統一社会党などが,1960年4月革命直後の新しい社会的雰囲気の下で現われた.これら4つの革新政党も,急進的な統一政策の外には何らの実践力も見せる事が出来なかった.人物中心の上層の政治活動と,慢性的な分派対立が最後まで続いた.これらの党は7.29選挙で惨敗し,結局5.16ク―デタ―で消滅してしまった.

その後,合法的な活動空間を失ったこれら残存の進歩勢力たちは,分散し孤立し,地下に党を建設した.第一,二次の人民革命党事件,統一革命党事件,解放戦略党事件,南民戦事件などのあと,集中的な弾圧でこれら戦前世代は消えて行った.

〓軍事独裁政権の下での革新政党

5.16ク―デタ―以後,87年大闘争までの軍事独裁政権下では,1967年に統一社会党,1981年に民主社会党,1982年に正月社会党,1985年に社会自民党などが革新政党という名分で建設された.しかし,これらの政党は過去の進歩政党運動の水脈とは断絶された勢力だった.それらは軍事独裁政権の外交的必要によりでっち上げられた政治的置物に過ぎなかった.

〓民衆党,ハンギョレ自民党

1988年3月,進歩ブロックは第13回総選挙を控えて民衆党を創党した.民衆党を創設することは,数十年間の断絶された進歩政治運動の再開を知らせる歴史的意味を持っていた.だが当時,民衆党は進歩的政治勢力を代表できる状態ではなかった.30の地区党組織に1千余名の党員が参加するにとどまった.

民衆党が,より急進的な若い世代,労動運動と学生運動出身者で構成されるのに対し,殆ど同時に創党されたハンギョレ自民党には進歩ブロックのより穏健な勢力が参加した.

民衆党は,1988年の総選挙で議席を獲得する事が出来ず,50日余りの短い生涯を締めたが,出馬した15地方区で平均4.3%の支持を得た.このことで,進歩政党の可能性を証明したと評価される.

〓民衆党

90年11月に,ふたたび民衆党が創党された.51の地区党組織に2千余名の党員が参加した.

民衆党は,1991年地方選挙で42人が出馬した.そして1名の当選者を出した.立候補者が少なく,当選者はさらに少なかったことから,民衆党は自信を失い始めた.13.27%というかなり高い出馬地域における得票率も,彼らにとって慰めとはならなかった.民衆党は,左からは無原則的な柔軟性を批判され,右からは過激なイメ―ジで非難された.

1992年1月,合法的な労動者政党の建設を目標として,韓国ノ−ドングダングチァングダングズンビウィワンフェ(?)が結成された.5千余名の労動運動家が結集したこの勢力は,民衆党が労動者や下層階級から徐々に遠くなっているという問題意識を持ち,別途の政党を作ろうとした.しかし1992年,総選挙を控えて結局民衆党と統合した.

民衆党は1992年3月の第14回総選挙に51人が出馬した.そして出馬地域で平均6.5%の得票率を記録したが,一つの議席も勝ち取ることができないまま,選挙法にのっとって解散させられた.総選挙での敗北で民衆党が解散された後,4年ぶりに実施した1996年第15回総選挙では,進歩政党は再建されないままに終わった.

〓国民勝利21

1996年末から97年初頭にかけて,労動法改悪反対のゼネストを決行した民主労総は,97年の15代大統領選挙を控えて,大統領選挙を足場に進歩政党を創党しようとし,大統領選挙に民主進歩陣営の独自候補を出すことを決定した.全国連合,政治連帯など他の政治勢力も,民主進歩陣営の独自候補を擁立することを決定した.そして民主労総と一緒に,大統領選挙のための登録政党として国民勝利21を結成した.

国民勝利21は,当時の民主労総委員長だった権永吉委員長を大統領選挙候補に選出した.そして選挙に参加するのに「30だけ6天与表(?)の得票に止む」.進歩政党の運動が活性化できない状態で,大統領選挙のために急造された政党である国民勝利21の限界が顕著にあらわされた.

大統領選挙でのささやかな成果を,地道で永続的な政治活動に広げて行くために,国民勝利21は新しい進歩政党を準備する組職に着手した.以後98,99年,進歩政党の創党の過程が続いた.国民勝利21以外に民主労総,全国貧民連合などの大衆組職や多くの政治組職が参加して,今日の民主労動党が結成された.