老斤里(ノグンリ)の虐殺
事件の経過
1950年7月,朝鮮戦争が始まって約1ヶ月後のことです.当時,十分な進攻の準備を整えた北朝鮮軍は,38度戦を超えて破竹の勢いで南下していました.逆に不意をつかれた米軍と韓国軍は,混乱の中を一路南へ向け敗走中でした.
忠清北道でも道都の大田市が北側の手に落ちました.ヨンドン郡ファンガン面老斤里(ノグンリ)の一帯は,敵味方入り乱れ,混乱のさなかにありました.
7月26日,ヨンドン郡イムゲ里とジュゴク里の住民約500名に,米軍から避難勧告が出されました.「安全なところに避難させるから南下しろ」との米軍兵士の言葉に従い,住民は荷造りをして避難の途につきました.
午後1時頃,米軍に案内された避難民たちは,ノグン里にある京釜線の鉄橋に集合しました.米軍はこの時,避難民の荷物を検査し,芝刈り用のカマやノコギリなど武器になりそうなものはすべて押収したといわれます.
住民を指揮していた米軍兵士たちは,本部と無線連絡を取った後,その場を離れました.すると間もなく米軍のP51ムスタング戦闘機が現れました.戦闘機は,鉄橋の上にいた避難民をめがけて機銃掃射を始めました.逃げまどう避難民を銃弾が容赦なく襲いました.人々は先を争って鉄橋下の水路用トンネルへと駆け込んでいきました.しかし,そこは避難所ではなく,彼らの墓地になってしまったのです.
米軍はトンネルの両側の出口に機関銃を設置しました.そして一斉射撃を加えました.逃げ場を失った避難民たちは,理由もわからないまま死体の山を築いていくしかありませんでした.銃撃はその後も米軍が撤退するまで,3日間にわたって断続的に続けられました.夜半の闇をついて逃げ出した一部の青・壮年を除いて,老人と子ども,婦人たちのほとんどは殺されてしまいました.
身元が確認された死者の数だけでも121名.実際の犠牲者は300名を下らないと推定されています.死体の間で息をひそめていた人々が自らの生存を確信したのは,7月29日,「米軍たちは後退しました.安心して出てきなさい」という,北朝鮮軍兵士の声によってでした.
なぜ事件が明らかになったか?
ノグン里の事件が韓国内で知られるようになったのは,1994年のことです.虐殺事件で幼い息子と娘を失った鄭ウニョン氏が,『我らの苦痛を誰が知ろう』という本を出版しました.これがきっかけになって,ノグン里の虐殺は『ハンギョレ新聞』や『マル』誌など,一部のマスコミでも取り扱うようになりました.しかし社会的に大きな関心を引くまでには到らず,政府の反応もありませんでした.
昨年,朝鮮戦争関係のアメリカ側秘密文書が,マル秘扱いを解かれました.この中に虐殺事件関係のファイルが発見されました.AP通信は,当時の事情と背景を語る資料を整理しました.そして9月29日,「ノグンリの鉄橋」という記事で事件を報道し,上部の命令で米軍が行った虐殺だという事実を暴露したのです.
レポートは,当時の第1機甲師団と陸軍第25歩兵師団司令部の命令書,及び米第8軍本部の命令書と参戦兵士たちの証言をもとに,生々しく事件を再現されています.7月26日,米軍25師団長であったウィリアム・B・キーン少将は,各方面の野戦軍指揮官たちに,次のような命令書を伝達していました. 「戦闘地域を移動するすべての民間人を敵とみなし,発砲せよ」
そしてノグン里の鉄橋にいた避難民に対しても,「彼らを敵と見なせ」と命令していました.
また第1機甲師団司令部は,7月27日に「避難民が防御線を越えないようにせよ。越えようとする者はだれであれ発砲せよ」との命令を下していました.
第1機甲師団に所属していた6人の将兵が,住民に向かって発砲したことを認める証言を行ないました.またほかの6人は,大量虐殺を目撃したと語りました。機関銃射手のノーマン・ティンクラーは「われわれは彼らを全滅させた」と証言しました.
虐殺現場にいたジェームズ・カンス軍曹は証言しています.
「女性や子供に向けて銃を撃つことがどうしてもできなかった.空に向けて銃を撃った」
またエドワード・テイラー上等兵は,「今でも雨の降る夏になると,子どもたちの泣き叫ぶ声が聞こえる」と証言しています.
つまり1950年の7月26日から29日にかけてノグン里で起きたことは,決して偶発的な事件ではなく,意図的で計画的な大量虐殺だったのです.
あいつぐ新証言
AP通信の記事が報道された直後,米軍側はこれを黙殺する姿勢をとりました.米国防省はAP電へのコメントを発表しましたが,それは「陸軍の軍事記録センターで公式記録を調査したが,本件に関する証拠書類は発見されなかった」という型通りのものでした.
しかしAP通信の記事は綿密な調査を経た説得力のあるものでした.記事に追随して『ニューヨーク・タイムズ』や『ワシントン・ポスト』,そしてABC,NBCなど主要な放送局が報道に乗り出しました.こうして取材競争が始まりました.
取材を受けた元米兵テルロ・フリントは,自分たち兵士も米軍機の機銃掃射を受け,避難民といっしょに小川に身を隠したと述べました.
第一機甲師団所属の中尉としてこの作戦に参加したロバート・キャロル予備役大佐は,司令部からの命令を実際に受けたと証言しました.そして命令に基づき,第7連隊の小銃手らが避難民に向かって発砲したと語りました.
キャロルの証言によれば,彼は小銃中隊に銃撃をやめろと命令しました.「彼らが敵なのか、確信が持てなかった」からです.彼は「少なくとも初日には,避難民の中に北朝鮮軍はいなかった.大部分は女性と子ども、老人だった」と述べています.
別の証言によれば,小銃中隊長だったメルボン・チャンドラー大尉は,この後上官と連絡を取りました.そして鉄橋の下の入口に機関銃を設置して発砲するよう指示しました.元米兵ユージン・ヘスルマンは、「チャンドラー大尉が『彼らを皆殺しにしよう』と語った」と述べています.
10月8日付で放映された米CBSのニュース放送は,米軍の事件隠蔽工作に焦点を当てています.これも当時の秘密文書の公開により明らかになりました.米陸軍は,1951年当時の虐殺に関わったトッド一等兵の証言を,「アメリカの立場を困難なものにする恐れがあり,極秘に分類せよ」と指示していたのです.この証言の中でトッド兵士は以下のように述べています.
「…こうして皆殺し作戦が始まった.我々は敵を攻撃するために移動し,女,子どもを問わず,我々の目にふれたものをすべて殺戮した」
この事件を取材したCBSニュースは,次のような言葉で報道を終えています.
「すべての戦争は醜悪である.しかし朝鮮戦争は,我々が思っていたよりもはるかに醜悪なものであったことが明らかになるだろう」
協同調査報告の発表
当初,米政府は虐殺の事実を否定していました.しかし被害者・加害者の生々しい証言や物証、真相調査を求める声に押され,調査団を現地に派遣し,調査することを明らかにしました。
陸軍監察官マイケル・エッカーマン中将を団長とするノグンリ事件真相調査団は,99年10月29日に現地を訪問.虐殺現場などを見て回った後,「老斤里住民虐殺真相対策委員会」代表6人と面談しました.
今年1月12日,両国政府による「ノグンリ調査報告書」が発表されました.結論は次のものです.
「1950年7月,切迫した韓国戦争初期の守勢的な戦闘状況下で,強要によって撤収中だった米軍は,老斤里周辺で数未詳の避難民を殺傷するか,負傷させた.…しかし,これは戦争中にしばしばありうる偶発的な事件であり,当局の命令によって引き起こされた意図的な虐殺ではない」
この報告は,米軍の民間人虐殺行為を公式に認めた点では一歩前進です.しかし,それが意図的・組織的なものであった可能性は否定されました.結果として,元米兵らによる証言は無視されたことになります.直接的な証拠となる第24師団第7騎兵連隊の文書は発表されていません.米軍当局は,第7連隊の文書のうち「核心的な記録は紛失した」ことを明らかにしました.
死傷者数について,韓国側は死亡177人,負傷者51人,行方不明者20人など,計248人と主張しましたた.しかし米国側はこれを認めていません.
共同調査が不十分に終わったのは,米陸軍が米兵証人に免責特権を与えず,十分な証言を得られなかったためといわれています.
クリントン大統領は「老斤里で韓国の民間人が命を落としたことに深い遺憾を表明する」との声明を発表しました.米政府は,老斤里に百万ドル規模の追悼碑を建設し,遺族の大学生ら30人に奨学金を支給すると発表しました.
ほかにも大量虐殺が
ノグン里の悲劇は,たんにノグン里だけにとどまるものではありません.AP通信の報道を契機に,同じような虐殺事件が相次いで明らかになっています.被害者の遺族や市民団体などからは,真相調査と賠償を求める声が高まっています.
はっきりしているだけでも,慶尚南道の馬山や咸安郡,慶尚北道の醴泉郡,亀尾市など全国24地域にのぼっています.また,米国立記録保管所から入手した記録フィルムには,米軍戦闘機が民間人の村に向けてロケット弾を発射する場面,避難民の乗った渡し舟を攻撃し,川岸に向かって泳ぐ生存者にさらに銃撃を加える場面が収録されていました.
さらに米軍機が全羅北道の裡里駅(現イクサン駅)を爆撃.少なくとも350人の民間人が死傷した事件も明らかになりました.この事件については韓国政府も公式に認めており,「戦略的な観点から強行された」と弁明しています.また1951年1月20日には,忠清北道の永春面上里で,米軍によって300余名の住民と避難民が虐殺される事件が発生しています.
10月26日,金鍾泌首相は国会での質問に答え次のように述べています.
朝鮮戦争時の米軍による住民虐殺は14ヶ所にのぼる.そのほとんどが1950年7月〜8月の戦争初期に集中しており,米軍の最終防御線であった洛東江の周辺地域で発生している.
14カ所という数字はしかし,政府が把握している件数に過ぎません.民間の調査では70〜100ヶ所,死者も数千名から一万名に達するものと推測されています.
また,米軍にとって'友軍地域'とも言える韓国側でこれほどの住民虐殺が行われたのであれば,北朝鮮地域では,さらに大量の虐殺が行われた可能性があります.たとえば北朝鮮の『朝鮮社会科学院歴史研究所』の資料によると,米軍は34の地域で17万2千余人の非戦闘員を虐殺したとされています.米軍の虐殺行為は特定地域に限定された問題ではなく,朝鮮半島全体におよんでいると見るべきでしょう.
米軍命令による政治犯の大量処刑
ノグンリ事件の決着がつかないうちに,もうひとつの衝撃的な事実が浮かび上がってきました.これは2000年1月6日に韓国日報が報じたものです.
報道は「朝鮮戦争時に,忠清南道の大田刑務所に収監されていた政治犯1800人が,韓国軍・警察によって銃殺された.浦項,清州,済州島,慶州,大邱,ソウルなどでも1万人から数千人が集団処刑された」というもので,これも米国の機密文書公開で明らかになりました.
この報道にいたる経過は次のようになっています.済州島4・3事件を追跡していた在米韓国人のイ・ドヨン博士は,関連資料の秘密解除を米政府に要求しました.これに応じて公開された資料の中から,恐るべき歴史的事実が明らかになったのです.
資料によれば、テジョンとテグ刑務所に収監されていた政治犯の虐殺が行われている間、米軍将校がその残忍な虐殺過程を最初から最後まで見守っていました.そして,その過程を詳細に記録してワシントンに送りました.合同参謀本部はその報告書に第2級「秘密文書」の判を押してこれまでその事実を隠ぺいしてきました.
その将校の名は,当時の駐韓米大使館の陸軍武官ボブ・エドワード中佐,文書の名前は「韓国の政治犯処刑」,そして第3級秘密文書「韓国陸軍憲兵による処刑」です.文書には,処刑現場を写した16枚と7枚の写真がそれぞれ添付されていました.
戦争ぼっ発直後の50年7月の第1週,テジョン刑務所では,3日間にわたって政治犯1800人が集団処刑されました.エドワード中佐は「処刑命令は疑いもなく最上層部から下された」と述べています.またテジョン以外にも,テグ刑務所などで政治犯らの処刑が行われていた可能性を示唆しています.
事件を報道した韓国日報は,被害者がどれだけいたのか,テジョン刑務所で犠牲になった政治犯とはどんな人たちなのか,命令を下した「最終責任者」はだれなのか,政治・軍事的に強大な影響力を行使していた米軍が,この惨劇にどのようにかかわっていたのか,現場写真を米軍が撮影していたのはなぜか―などの疑問を呈しました.
全国連合は,報告資料がいままで隠ぺいされてきたこと,虐殺過程を米軍が記録していたことからみて,米軍が虐殺を指示し,その過程を監視していたとしか考えられないと主張しています.そして米国に2・3級資料だけでなく1級報告文書を公表せよと要求しています.
沈黙を強要された被害者たち
遺族や負傷者たちは,アメリカはもちろん,韓国政府からも一切の謝罪や賠償を受けていません.アメリカ政府がこれまで表明してきた立場は,
@虐殺に関わったとされている第1機甲師団が,ノグン里周辺に駐屯していたとの証拠は存在しない.
A虐殺が行われたとしても,「韓米軍隊地位協定」の民事請求権条項によって,戦闘中に発生した事件に対しては賠償する義務はない,
というものでした.
ノグン里の被害者たちはその間,沈黙を守ってきたわけではありません.「ノグン里米軍虐殺事件の真相究明対策委員会」を結成し,アメリカ大統領・議会・国防省などに対し,繰り返し賠償請求や嘆願書を提出してきました.しかし「虐殺の証拠はない」という返信が2回あっただけだそうです.
被害者たちの訴えに全く耳を貸そうとしなかったのは,韓国政府も同様です.97年に,被害者たちは政府の損害賠償を求める申請を出しました.しかしこの訴えは,何らの調査も行われることなく却下されています.法務部の関係者は,「加害者が確認されてから5年の時効が過ぎているので,調査する必要性はない」との見解でした.
被害者の運動には特殊な困難がつきまとっていました.ある遺族は次のように心情を吐露しています.
「むごたらしく家族を奪われた無念さをはらせぬまま,まるで罪人みたいに,一言も抗議できずに生きるしかなかった.'米軍に殺された'と叫ぼうものなら,'アカだから殺されたんだろう'と言われるのがオチだった」
「米軍の手でこんな酷いことが起きたといえば,思想的に問題のある人のように思われる.だから虐殺事件の話を切り出すことはできなかった」
韓国軍による住民虐殺
朝鮮戦争の最中には,米軍だけではなく韓国軍自身による集団虐殺も行われていたことが明らかになっています.全羅北道居昌郡コンウム面の西山村落は,最大規模の住民虐殺が行われた地域です.
1951年1月5日,西山村民に「パルチザン部隊と内通している」との嫌疑をかけられました.村民全員が,縛られたまま50〜60名の韓国軍と警察隊によって機関銃の一斉射撃にさらされました.生存者の有無を確認するために射撃を中断した軍隊は,「生き残ったやつらは運がいい.助けてやるから起きろ!」と命令しました.恐る恐る立ち上がった住民はその場で撲殺されました.さらに,死体の間で息をひそめていた人々を見つけ出し,5人ずつ1列に縛ったうえで射殺しました.蛮行は午前11時から午後6時頃まで続き,500人を越える村民が虐殺されたといわれます.
村人たちの犠牲はそれだけにはとどまりませんでした.生存者と遺族たちは政府当局に真相の究明を要求し始めました.しかし逆に"栄誉ある国軍"の蛮行を暴露した"容共分子"として迫害され,運動の中心人物たちは投獄されていきました.合同墓地は軍靴に荒らされ,慰霊碑の文字すら削り取られるありさまでした.居昌の虐殺に関しては,公式文書も,非公式記録も,何一つ残されていないのが実情です.
虐殺を指揮した軍と警察の幹部たちは,その後警察署長や治安局長,国会議員として表舞台を歩きつづけました.その一方で,'アカの家族'と罵倒された被害者たちは,災いを恐れて子どもたちにも事件の真相を語ることなく,はらせぬ恨みを抱いて生きるしかありませんでした.
韓国軍の住民虐殺は朝鮮戦争を機に始まったものではありません.米軍の占領に抗議し,分断に反対する民族解放運動の高揚に対抗し,戦後すぐから始まっています.1948年済州島で起こった4・3民衆蜂起に対する血の弾圧では島民約5万名が虐殺されました.麗水・順天の反乱事件では2500名が犠牲となりました.その他にも慶北ムンギョン市の虐殺(1949年12月24日,86名が犠牲)など一連の住民虐殺があげられます.
なかでも,済州島の4・3蜂起に対する虐殺は,「虐殺の原型」とも言えるものです.済州島ではノグン里のような集団虐殺が繰り返され,犠牲者の大部分は女性・子ども・老人でした.犠牲者たちは'アカ'のレッテルを貼られ,ノグン里のように沈黙を強要されてきました.
住民はたたかい続ける
老斤里米軍住民虐殺事件対策委員会は,調査報告へのコメントを発表しました,このなかで「共同発表文は老斤里事件の真相究明に不十分だ」と厳しく批判しました.そして「民事訴訟など多角的な法的対応とともに,可能なかぎりの方法を動員して継続して真実を明らかにする」との決意を述べています.