2010年8月
日本の植民地支配と朝鮮人民の闘争
第一章 「併合」反対、独立をもとめる闘争
第一節 併合に反対する旧政府有力者の抵抗
①乙巳保護条約への抗議
1905年、日露戦争が終結すると、日本は朝鮮への干渉を強めた。9月5日のポーツマス条約は、朝鮮に対する日本の権益を承認するものとなった。日本は11月には日韓協商条約(乙巳条約)を朝鮮に強要し保護国とした。
一進会と呼ばれる極一握りの親日派以外、誰もこれを喜ぶものはいなかった。清の保護下から日本の保護下に移っただけという人がいるが、まったく「保護」の質が違う。ためにする議論である。
まず立ち上がったのが朝鮮政府の中の抵抗派である。06年5月、高名な政治家の崔益鉉が全羅北道で義兵を起こした。いかにも儒者らしく、鎮圧に来た軍隊が日本軍でなく朝鮮軍だと知ると、戦うことなく投降したという。崔益鉉は蟄居先の対馬で断食ストの末死亡した。暗殺されたともいう。
このほか全羅南道、忠清南道、慶尚道で義兵蜂起が相次いで起きるが、とりあえずは収束に向かう。外交権を奪われ保護国化されたとはいえ、まだ朝鮮王朝政府は残っていたのだから、それを盛り立てていこうとする流れもあった。たとえば「国債報償運動」である。これは日本従属の原因となった対日借款を、国民の醵金により返済しようというキャンペーンで、そのナイーヴさには思わず泣けてしまう。
②当初の抵抗運動
このように前途に暗雲をはらみつつも、乙巳条約から約2年の間は、比較的平穏なときが過ぎた。羅喆と呉基鎬が指導する「自新団」は、「乙巳五賊」暗殺と新政府樹立をとなえ、政府機関への襲撃を繰り返した。これは「君側之奸」を討つことが目標であり、直接日本との対決をもくろんだものではなかった。
朝鮮統監となった伊藤博文は、当初は併合に反対していた。「日本は韓国を併合する必要はない。合併は厄介であり、韓国は自治を必要とする。しかし日本の監督・指導がなければ健全なる自治は難しい」と述べ、統監府幹部に対しては「数千年の歴史と文明を持つ韓国民に対し、併合するという暴論に支配されてはならない」と訓示したという。
裏を返せば、日本国内には韓国を併合せよとの“暴論”がかなり強固に存在したということである。
抵抗運動の主流は独立協会・大韓自強会系の穏健派が占めていた。梁起鐸、安昌浩、李会栄を中心に国権回復運動の拠点として新民会が結成された。国民に民族意識と独立思想を鼓吹し力量を蓄積することを訴えた。しかし当然、日本帝国主義を駆逐せよという潮流も出現する。彼らの多くは国境を越え、鴨緑江の北に新天地を開拓し、民族主義を鼓吹した。
見ておかなけらばならないのは、これらの穏健な民族主義運動さえも取り締まりの対象とされ、地下組織や亡命組織として発足せざるを得なかったことである。
③ハーグ密使事件と「対韓処理」
辛うじて朝鮮政府と統監府による二人三脚は続いたが、日本人の一旗組が続々と侵入し、大資本による支配が強化されれば、朝鮮人民の反感もますます強まる。とくに農地の買占めと朝鮮人農民の締め出しは、広範な大衆の強い怒りを引き起こした。
当時の新聞に載った旅行者の談話にはこう書かれている。「韓国に於る日本官吏は甚だ韓国化して、近来は賄賂も取れば乱暴も遣るよ、月給三十円の巡査が郷里へ五十円づ丶送金して居るは不思議でないか、軍人などは韓人の物をロハで徴発する者が多い」
この怒りを背景に、朝鮮王朝の高宗皇帝は諸外国の支持を背景に独立を回復しようと図った。彼はひそかにハーグ(オランダ)の第2回万国平和会議に使節を送り、日本の保護政策の不当性を糾弾させた。これがハーグ密使事件である。
1907年7月、事件が発覚するや直ちに、日本の元老・内閣会議は対韓処理方針を決定した。「内政全権を掌握し、実行は伊藤統監に一任する」というものである。朝鮮政府から一切の権限を剥奪する事実上の戒厳令である。
国民の怒りは爆発した。各地で高宗の譲位に反対するデモが起こり、たちまちにして暴動化した。高宗を守る近衛兵が反乱の動きを見せた。
これを見た駐留日本軍は直ちに市内に出動、皇居と国防省を占拠し、市内の主要軍事施設を制圧した。高宗は退位させられ、最後の皇帝(第27代)となる純宗が即位した。軍の強い要請により、大韓帝国軍隊も解散させられることとなった。
「軍隊を解散して暴徒蜂起の大原動力を激発したる愚策に至りては~長谷川将軍一代の失策たり」(「朝鮮」明治42年1月号に掲載された日本人居留民の発言)
純宗は統監府との間に新たな条約を結ばされた。この条約によれば、日本の統監が法令制定、重要行政処分、高等官吏を取り仕切ることとなる。保安法が制定され、集会・結社の自由は制限され、新聞は検閲制となった。形ばかりの施政権も奪われ、朝鮮は日本の完全な植民地となってしまった。
抑えておかなければならないのは、事件が発覚してから新条約調印までの過程が、わずか2週間のうちに完了したことである。明らかに、周到に準備された一連の計画である。ハーグ密使事件は単なるきっかけに過ぎず、ほかの何でもよかったのである。
それにしても一気に常備軍の解体まで持っていく度胸には感心する。当然、解体される軍隊も必死になるだろうし、全面戦争突入はまぬがれ得ない。日清・日露と続けざまに大戦争を戦い、しばらくは戦争は真っ平と思うのが普通だろうが。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」ではないが、日露戦争後の日本人は発狂してしまった。不確かな勝利の確かないけにえとして「朝鮮併合」をもとめたのかもしれない。もはや伊藤博文の「訓示」も、聞く耳が失われていたのかもしれない。
第二節 「義兵闘争」という戦争があった
①大韓軍部隊の相次ぐ蜂起
1907年8月1日、一万近くの常備兵を擁する大韓帝国軍隊は解散された。この日、京城で解散式が行われた。そしてこの日、大韓軍と日本軍の本格的衝突が始まった。
解散を受け入れない部隊は西小門洞一帯に集結。鎮圧に向かった日本軍との間で小競り合いがあり、それは鐘路と南大門をはさんだ市街戦となった。この戦闘に参加したのは第一連隊第一大隊、第二連隊第一大隊という精鋭部隊であり、参加者は1千名というから、大韓軍全兵力の1割を超えることになる。(ただし朝鮮の歴史を見るときは、こういう数字は鵜呑みにしてはいけない)
京城での軍決起の報は全国に広がった。原州では守備隊が決起し全市を掌握した。部隊は李麟栄を指導者に指名、全土に決起を促がした。9日には、江華島の守備隊分遣隊が600名が決起、李東輝を指導者とあおぎ戦闘体制を固めた。各地での決起は京城を中心に慶尚、江原、京畿、黄海などに拡大し、総兵力は1万に達した。
注目されるのは、後に闘争の中心部隊となる全羅、平安などはこの時点では入っていないということである。このことは義兵闘争の主役が緒戦と後半戦では異なり、職業軍人の反乱から、大衆的・農民的な「義兵」の戦いへと性格が変化していることを意味する。
こうして始まった義兵闘争は、その参加者数から見ればまさに戦争というべき規模のものであった。それどころか、朝鮮の側から見ればそれは国家と民族をかけた「祖国大戦争」であったといえる。
『朝鮮暴徒討伐誌』という駐留日本軍が発行した報告によれば、2年以上にわたり続いた義兵闘争に参加した義兵数は延べ14万名を越えた。日本軍との衝突は三千回近くに及んだ。これらの戦闘で1万8千名の兵士が死亡した。しかもこれは日本軍の発表だから、かなり内輪の数字と見なければならない。
②冷血漢、長谷川好道
駐留軍司令官、長谷川好道にとってこれらの反乱は手はずのうちだった。「反乱するものは反乱せよ、一族郎党みな殺しにしてやる」というのが当初からの計画だったとか考えようがない。
長谷川好道
反乱が始まると同時に、駐留軍は反乱軍の根城と思われる地域に片っ端から焦土作戦を敢行している。たとえば、8月23日、忠清北道堤川地方で「全村焼夷」作戦が実施されている。駐留軍司令部の発行した『朝鮮暴徒討伐誌』は、「村邑は極目殆んど焦土たるに至り」と報告している。イギリスの「デイリー・メール」紙も、「堤川は地図の上から消え去った」と報道した。
「英国政府が、日本軍隊の行動、往々過酷に渉るとの風聞ありと連絡してきた」と、当時の林外相は伊藤統監に注意を喚起している。伊藤統監は、「苛酷に失する軍事命令ありたるを以て、軍司令官に其の命令を変更せしめ」ると返答している。
9月に入るとさすがに気が引けたのか、駐留軍は声明を発表した。「匪徒にして帰順するものは敢えて其罪を問はず」と述べる。しかしそれは恫喝の枕詞に過ぎなかった。声明は続く。「帰順せざるものに対しては、責を現犯の村邑に帰せしめ部落を挙げて厳重の処置」、具体的には「誅戮を加へ若くは全村を焼夷する等の処置」を講じると恫喝する。
これはただの恫喝ではなかった。長谷川は真剣にその言葉通りに考えていたし、そのとおりに実行したのである。これは狂気である。彼は朝鮮人を人間ではなく虫けらだと思っていた節がある。
長谷川については「朝鮮新報」の具体的な言動紹介がある。そこから彼の言葉を引用しよう(少し現代語化してある)。
「朝鮮人民は概して無知蒙昧で、無気力で、従順で、制御しやすい。一方官吏らは猜疑心に富み、先天的に詭弁家であり、中傷を策するのを習いとしている。品性低劣なるは蛮民と遠からず、武断的手段を伴わなければ到底効果は期待できない」
彼は駐留軍司令官として伊藤博文の先乗りを勤め、伊藤に上記のレポートを提出したのである。伊藤の訓示がにわかに重みを持つ。伊藤は長谷川と精一杯張り合い、彼の面前で彼を批判したことになる。反乱軍は徐々に追い詰められた。11月、李麟栄の率いる原州部隊は朝鮮全土の義兵将に向け檄を飛ばした。「12月中に兵を率いて京畿道楊州に集結せよ」との呼びかけである。楊州は現在は維楊里と呼ばれる。ソウルの北方に位置し、地下鉄1号線の北議政府駅付近の一帯をさすそうだ。
何か変な戦争であるが、とにかく呼びかけにこたえて義兵部隊1万余名が揚州に集結した。そこで会議が開かれ、「十三道倡義軍」を結成することを決定した。総大将に李麟栄、軍師長に許薦(コウィ)を選出し、1月に漢城に進攻することを決議した。李麟栄は「義兵は純然たる愛国血団である」とし、各国領事館に「万国公法上の交戦団体としての承認」を要請した。
そして明けて08年1月、十三道倡義軍先発隊の300名が漢城東大門外30里まで進んだ。このとき日本軍の攻撃が開始された。義兵部隊はあっけなく敗退。李麟栄は「父の喪に服すため」戦線を離脱してしまう。この1万人は果たして軍隊だったのか、疑問が残る。統監あての強訴の趣だったのかもしれない。
④日本の経済進出と義兵闘争の激化
この後義兵闘争はゲリラ戦に転じ、戦闘ははるかに険しいものとなる。たとえば湖西倡義大将の李康年将軍は、10月に捕らえられ処刑されるまでに江原、忠清、慶尚北道一帯で30回以上戦い、日本兵200名近くを殺害した。
満州に国境を接する咸鏡道では洪範図らが国境をまたに駆け神出鬼没のゲリラ戦を展開する。洪範図は白頭山の麓で猟師を営んでいた。「飲む、打つ、買う」の生活の中で「任侠の風がある」とされ、次第に多くの子分が集まったという。当時北朝鮮には製紙会社が進出して、森林保護のため焼き畑農業を禁止するなど民衆を苦しめていた。洪範図は一種のロビンフッドだったのだろう。
さらに国境を越えたロシアの沿海州にも義兵軍が組織され、咸鏡北道方面に出撃し、日本軍討伐隊・守備隊と交戦した。安重根が参謀に就任している。08年7月の上海電報によれば、「韓人千人は吉林省と韓国の境上にて日本人と戦ひ、日本兵四十名以上、同士官三名を殺す。韓人は吉林省に避難し、清国は国境を保守し居れり」とある。しかしこの“上海電”というのはあまり当てにはならない。
しかし最大の闘争の場は南部の米作地帯全羅道だった。安圭洪が、全羅南道の宝城で義兵蜂起。奇三衍の統括する全羅道の義兵運動が活発化する。翌年には全海山の義兵部隊も羅州一帯で動き始める。その兵力は最盛時には合計7万人といわれる。まさに戦争である。
なぜ全羅道か。それはこの年東洋拓殖株式会社が設立されたという事実が象徴している。この会社は日本農民の朝鮮移住を推進した。誰もいないところに開拓に入るのではない。当然朝鮮人の土地を奪うことになる。11月には漁業令が公布された。資本力のある日本人が漁業を独占するようになる。
⑤伊藤更迭と湖南大討伐作戦
当初はロシア・中国との緩衝地として軍事的意味合いが強かった朝鮮支配も、経済進出の対象としての意義が強くなった。そうなれば、日本政府は朝鮮政府の存在そのものが疎ましくなる。09年4月、桂首相と小村外相は、直接伊藤統監の下を訪れ、「韓国を適当な時期に併合する」ことを了承させた。それは伊藤退陣を迫るのと同じ意味だった。伊藤は韓国併合を受け入れ、統監職を辞任した。
これを受けた桂内閣は、7月に閣議を開き、「将来の韓国合邦」を議決した。そして韓国が「併合」に応じなければ、「詔勅を以て」併合を宣言すると宣言した。統監府と駐留軍は閣議決定に従い、義兵運動に対し徹底弾圧策を打ち出した。そして9月より大平定作戦を開始した。手持ちの朝鮮軍第一連隊、第二連隊が総動員された。これが「湖南大討伐作戦」である。
義兵闘争の最大の拠点となった全羅南道が集中的に攻撃された。光州南方の綾州と、朝鮮海峡よりの宝城が最大の激戦地となった。駐留軍は義兵と民衆を切り離すため、「攪拌的方法」という新戦法を用いた。これは全羅南道を三期に分けて掃討する作戦で。日本軍は行っては返すのこぎりのような戦闘で、潜伏したゲリラが戻ってくるところを反復攻撃した。
捕らわれた義兵将はみせしめで、公開集団処刑(絞首刑)に処され、それ以外に拷問死も多かった。日本軍は義兵の家族まで殺戮し、それは十万名を超えた。
作戦は1ヶ月に及んだ。焦土作戦も引き続き行われた。駐留軍は村から村へ、手当たり次第に殺戮・放火・暴行をはたらいた。『朝鮮暴徒討伐誌』も、「良民被焼家屋は6800余戸」に及んだと告白している。
義兵部隊は深刻な打撃を受け兵力は1/3に激減し、組織的な戦闘能力を喪失した。多くの義兵は豆満江・鴨緑江を渡り、満洲・ロシア沿海州に移っていった。
⑥安重根の伊藤暗殺
10月26日、ハルビン駅頭で前韓国統監の伊藤博文が暗殺された。射殺犯は当時すでに老境に差し掛かっていた義士、安重根である。詳細は省くが、10月は朝鮮駐留軍が掃討という名の無差別虐殺を続けているさなかであったことを抑えておかなければ片手落ちだろう。法廷でも安重根は「暗殺」ではなく、交戦中の軍人としての本分を果たしたにすぎないと主張している。また自身の心情として、朝中日三国の連携による「東洋平和」を訴える陳述を行っている。長谷川ごときよりはるかに人物は上である。
この暗殺は結果的には日韓併合を促進することになったが、 それはどうでもよいことである。
第三節 日韓併合と新たな抵抗運動のスタート
①日韓合併条約の調印
1910年(明治43年)8月22日、日韓合併条約が調印された。純宗皇帝は退位し大韓帝国は消滅した。併合といっても決して対等合併ではない。日本帝国憲法は朝鮮に適用せず、朝鮮に適用する法律は総督府制令および天皇勅令のみとされた。すなわち「併合」という名の植民地化である。
これが武力による押し付けであったことは間違いない。朝鮮人民からは激しい抗議が巻き起こったが、初代総督の寺内正毅は、「朝鮮人はわが法規に従うか、死か、そのいづれかを選ばなければならない」との恫喝で答えた。
併合が何を意味していたかは、直後の諸政策を見れば明らかである。まず韓国銀行(後に朝鮮銀行)が設立され、中央銀行業務を引き継いだ。日本政府が70%の株を掌握し、重役は日本人のみである。会社令が公布された。法的整備により日本資本の進出を誘導するものであり。これに対し朝鮮人の独自での起業は困難となった。
総督府の下部機関として臨時土地調査局が開設された。国土の収用と整理にむけ調査を開始。完了は18年。義兵闘争の激しかった黄海道と全羅道では闘争参加者の土地は国有地として没収され、東洋拓殖会社や日本人地主・土地会社へ払い下げられた。その面積は7万ヘクタールにたっした。それと引き換えに朝鮮人自作農は土地を失い没落していく。同じ時期、朝鮮人の山林所有を制限する森林令も公布されている
統計だけで見れば、確かに朝鮮は日本統治下で経済発展を遂げている。GNPは4億円から65億円に発展.人口は1300万から2600万に倍増.一次・二次産業比は80対4から32対42に変化,北朝鮮は水力発電と鉄・石炭・マンガン・タングステンを原料に重化学工業,南では安い労働力を基礎とする繊維工業が発達した.米の生産は1200万石から2600万石に倍増(ただしそのうち半分は日本に輸出され,朝鮮人は粟やキビ混じりの主食).しかしその果実が誰のものとなったかは、上記の経過を見れば明らかである。
②日本国内の世論
当時の日本は日露戦争後、大逆事件をはさんで逆風が強く吹いていた。日韓併合に対しても侵略と受け止めるものは少なかった。その中で石川啄木の歌が光っている。有名な「地図の上/朝鮮国にくろぐろと/墨をぬりつつ秋風を聴く 」は、条約締結の直後に作られている。また安重根に共感を寄せ、「雄々しくも/死を恐れざる人のこと/巷にあしき噂する日よ」と歌っている。
いっぽう片山潜は、『社会新聞』に「日韓合併とわれらの責任」を投稿。「意気地の無い、独立心も欠いている朝鮮人は、日韓合併の下、日本帝国の臣民として誘導教育され、新たな日本国民として立派にならなければならない」と主張した。なんともはや開いて口がふさがらない。後にリベラルの代表とみなされる蔵原維郭も、当時は日韓併合を唱導していたという。
③国外での独立運動再建
日本は併合にあたり義兵運動に大虐殺をもって応えただけではなく、合法的・平和的な独立運動にも強硬であった。集会禁止法令を公布し、大韓協会・西北学会など政治結社12団体を全て解散させた。日韓併合を主張してきた御用団体の一進会さえも解散を命じられた。韓国警察は廃止され、軍の憲兵が警察機構を全面的に支えることになった。
平穣を拠点に最も活動的な政治活動を行っていた新民会は、戦闘的民族主義の路線を通じて「完全独立」を目指す「独立戦争戦略」を採択した。そして国外の独立軍基地の建設のために、幹部を海外に亡命させた。彼らは朝鮮人移民の集まるハワイやアメリカ西海岸に赴き、支援組織の結成強化に努めた。
寺内総督は新民会をねらい撃ちした。二度にわたり総督暗殺事件がフレームアップされ、これを理由に政治結社禁止令が公布された。新民会本部が襲われ、600名が検挙された。取調べは苛烈を極めた。拷問で死者4名・発狂者3名を出し、脱臼・骨折・性器の損傷・目玉を抜かれた者など無数と言われている。
さらに屈辱的なのが、12年3月に公布された「朝鮮笞刑令」という前時代的な刑罰である。笞で尻を叩かれた朝鮮人の件数は1万7千余件に及んだという。朝鮮人を日本国民と同等のものとして見ていなかった当時の風潮の象徴であろう。
一方義兵闘争の生き残りは国境を越え満州や沿海州地方へと逃れた。そこにはすでに20万名以上の韓国人が住んでいた。さらに日韓併合以降はその数を増し、1921年には50万人に達した。
このあたりは間島地方と呼ばれ、もともとは高句麗の領土だったこともあり、満州人と朝鮮人の混住地域となっていた。しかし近代法の概念からいえば、彼らは不法移民であり、国家からの保護は受けられない。だから、それぞれの居住区は馬賊・匪賊と呼ばれる強盗集団に対し武装自衛策をとるほかなかった。そこに義兵たちが用心棒として紛れ込んだのである(間島パルチザンについては後述)。
第4節 雌伏十年、闘いの再建
①闘争への萌芽
さまざまな動きはあったものの、全体としては朝鮮人民の独立を目指す運動は10年近くにわたり押さえ込まれていた。寺内に次ぐ第二代総督となったのは、長谷川好道その人であった。その強圧的姿勢に変化はなかった。
しかしその弾圧の目をかいくぐってひそかに抵抗の芽は育っていた。それは旧体制の復活を目標とする義兵集団ではなく、近代国家の建設を究極の目標とする国際的で愛国的な知識人集団を先頭とする運動であった。
1918年は朝鮮独立を目指す闘争にとって画期となる年であった。第一次世界大戦という激動が、ロシア10月革命を生み、それに対抗して米国のウィルソン大統領が「平和14原則」を唱導し、民族自決権の尊重を宣言した年だった。ウィルソン原則は世界の被抑圧民族を大いに励ました。朝鮮でもウィルソン原則を世界秩序の根本にすえ、独立を実現しようという動きがにわかに高まった。
1918年は同時に、東アジアにおける最大のライバルであるロシアの消滅を受けた日本帝国主義が、一段と侵略性と好戦性を高めた年でもあった。さらに日本は米国とともにシベリアに干渉、4月にはウラジオストクに陸軍第十二師団が上陸し、シベリアの東半分を自らの勢力範囲に置こうと狙った。派兵数は10月中旬までに7万人に達した。
朝鮮は中国本土への進出のための前進拠点となった。食糧基地としての位置づけにとどまらず、工業の育成も図られるようになった。大戦景気により日本からの投資が活発化した。工業化の進展に伴い、労働争議も増加するようになり、この年のストライキには約 4千名余が参加したという。また、土地取り上げに対する農民の抵抗も再び激しさを増した。江原道、全羅北道、咸鏡南道など各地で土地調査事業に反対する農民の暴動が起きている。
②新韓青年党を中心とする若い世代の動き
その中でも若手の活動家は上海に結集し、18年8月、独立・共和の朝鮮を目指す「新韓青年党」を結成した.後に建国委員会の議長となる呂運享が中心となり、張徳秀、金奎植、李光沫などのちにさまざまな形で朝鮮人民の運動と関係する人たちが参加した。新韓青年党は、独立の回復とともに、①民族主義、②民主主義、③共和主義、④社会改革主義、⑤国際平和主義の5つの柱を掲げた。これにより旧政府派や米国に根拠地をおく有産者の運動と一線を画し、新たな結集点を形成した。
呂運亨は米政府要人と会見し、ベルサイユの講和会議への韓国代表の参加を要請。さらに金圭植をパリの万国平和会議に派遣した。また東京へは李光沫を派遣し留学生組織との接触を図った。そして朝鮮国内へは張徳秀らを、呂運亨自らは間島へと飛んだ。
新韓青年党へは、日本に留学する多くの学生も結集するようになった。在日留学生会は朝鮮青年独立団を組織。独自の独立運動を計画し上海と連絡をとる一方、国内にも活動家を潜入させ青年・学生の組織に当たった。国内では、当局の厳しい弾圧のもと独立を正面から掲げての運動は不可能となっていた。青年たちは天道教、キリスト教、仏教などの宗教組織内に潜入し決起の準備を進めた。
③満州・沿海州での武装抵抗の動き
朝鮮と国境を接する地帯でも、抵抗運動が拡大して行った。とくにシベリア出兵を受け日本軍が直接進出してくると、民衆は自らの生活を守る戦いとして日本軍との直接対決を決意するようになった。
とくに豆満江流域の龍井村を中心とした「間島地方」は、日本軍進出の拠点とされたこともあり、独立派、中国派、“親日派”が入り乱れての抗争が拡大していた。朝鮮人はこれまでの自警団を独立闘争の部隊として再編成し、旧ロシア軍から武器の横流しを受けて武装を強化した。
4月にはこれらの武装組織代表39人が会談を行い、「大韓独立宣言書」を発表した。「宣言」は、平等と平和、自由を強調し、民族平等を全世界に伝播させることを韓国独立の第一義として強調している。しかしそこには帝国主義に対する批判や階級的な観点は見られない。
さらにこれら組織は、11月には「戊午独立宣言書」を発表。独立戦争を起こし、「肉弾血戦で独立を完成しよう」と訴えている。この宣言で注目されるのは、発起人に安昌浩、李東寧、、李範允、李相竜、李承晩らアメリカ派と、李東輝らロシア派もふくまれていることであり、間島の諸勢力が独立運動の中核となりつつあることを示しているといえる。
これらの部隊の中で異色なのは沿海州ニコリスクを拠点としていた李東輝将軍の部隊である。李東輝は1908年、義兵闘争のさきがけとなる新華島の反乱を率いた人物である。彼は国内の闘争に敗れた後、ウラジオストクに潜入、現地の朝鮮人を「全露韓族会」に組織して独立を目指していた。日本政府はこれを不快に思い、ロシア政府に強行に申し入れ、李東輝を拘留させた。李東輝は獄中でソ連共産党の活動家を知り、大いに感じるところがあった。
やがて革命軍により解放された李東輝は、日本軍がウラジオストクに上陸するとハバロフスクに移り、ロシア共産党極東部との協議のもとに「韓人社会党」(一名を朝鮮人社会主義者同盟)を結成した。その綱領では「ソビエト政権支援、外国武力干渉撃退、土地改革実施、無産階級と民族解放運動との連帯」をうたっている。ただ旧政府の武将として人格を形成した李東輝が、どれほど科学的社会主義についての理解・共感を持っていたかはなかなか判断が難しい。
第五節 三・一独立闘争
①高宗の死と国葬デモ
ハーグ密使事件で退位を迫られた高宗は、徳寿宮の名を与えられ、事実上の蟄居を迫られていたが、19年1月脳溢血にて急逝した。これは朝鮮人民を一大闘争に立ち上がらせるきっかけとなった。天道教、キリスト教、仏教の指導者が集まり、対外的には韓国の独立を請願、対内的には非暴力の大衆行動を呼びかけた。
これに呼応した東京在留の留学生600人が、神田の朝鮮キリスト教青年会館に集まり「在日本東京朝鮮独立青年団」を結成。李光洙の起草になる「独立宣言文」を発表した。この宣言がその後の万歳闘争の精神となったとされる。その後のデモでは警官隊に蹴散らされ、60余名が逮捕された。しかし日本帝国主義の膝元での公然たる抗議は、多くの朝鮮人の心を突き動かした。
京城でも有力者33人が非暴力による独立を訴える宣言を発表。2万部が全13道に配布されたという。宣言は、「たとえ全朝鮮人がこの精神に殉ずるとも、残る一人がなお独立を求めるであろう」と結んでいる。
2月末には永登浦の朝鮮皮革会社と竜山のスタンダ-ド会社で労働者がストライキに入った。その後ストライキは京城電気会社、釜山電車、南浦製錬所などに拡大していった。
3月1日、高宗の葬儀が行われた。朝鮮全道から集まった多数の人々が夜を徹して大漢門前に集まり、平伏しアイゴ-の敬弔をおこなった。葬送の列には沿道に各学校の生徒など3万人が並んで見送った。これにまぎれてひそかに準備された学生のデモが、午後2時から始まった。パゴタ公園に集まった学生5千人は、「独立万歳」を呼号し、午後11時ごろまで京城市内を示威行進した。不意をつかれた日本官憲は、黙って見守るだけだった。
京城のほかにも平安北道、平安南道、黄海道、咸鏡南道の主要都市で、この日あわせて50万人が「独立万歳」を叫んでデモをおこなった.官憲の隙をついた見事な組織ぶりである。逆に言えば総督府内の情報が漏洩していたとも考えられる。
このときの朝鮮総督はあの冷血漢、長谷川好道である。デモに激怒した長谷川は徹底弾圧の方針を決定。指導者の一斉逮捕に着手した。午後11時と書いたのは、その時刻に官憲が一斉出動したからである。市内で騎馬憲兵と警察の検束が始まった。徒手空拳の群集に対し野蛮な暴力が振るわれた。
②各地に広がる「三・一独立運動」
闘争は瞬く間に全道に広がった。主要都市から郡庁、面事務所所在地に拡大し、里・洞でも発生した。『韓国独立運動之血史』によれば、5月末まで集会或いはデモは全国211府郡、西北間島、サハリンなどの地で1542回起こった。示威に参加した人員は総計2,023,098人にのぼった(ただしこの書は聞き書きを元に編集されているため、細部でかなり怪しいところがある)。
地区別動員数の最も多かったのが京城の57万人、ついで鉄原の7万、郡山と木浦が6.2万、義州が6万、ほか平安道の定州、成川、全羅道の全州、南原などで5万を超えた。なかでも南北平安道は人口当たりの動員率が最も高かった。
闘いの中で、労働独立団・農民独立団・学生独立団・市民独立団など無数の団体が組織された。なかには妓生独立団・乞食独立団などというものまであったという。乞食というのは土地調査事業で耕地を失った農民が自らを乞食と称し、乞食独立団に結集したものだそうだ。妓生(キーサン)というのは芸者のことで、晋州では妓生4百余のデモ行進も行われた。「三・一独立運動」がいかに大衆の心を捉えていたかの傍証であろう。
③銃火で応えた総督府
しかるに日本政府と朝鮮総督府は、朝鮮民衆の切実な願いに、銃火で応えた。その皮切りは3月3日、黄海道遂安のデモだった。天道教徒のデモ隊が憲兵隊を挑発したようだが、これに逆上した憲兵隊が発砲し、死者9名、負傷者16名を出した。ついで4日には平安南道成川で、デモ隊との衝突により憲兵分隊長が死亡。憲兵隊の報復により朝鮮人側死者25名、負傷者23名を出した。
そして8日には、平安北道の定州で官憲がデモ隊に無差別発砲。これにより市民120名余りが殺害された。こうなるともう虐殺は止まらない。9日には平安南道の寧遠でデモ隊と警官が衝突。朝鮮人死者15名・負傷者38名・逮捕者30名を出す。翌日には同じく平安南道孟山で朝鮮人死者54名・負傷者13名と、各地で地獄絵巻が繰り広げられる。
本国政府の原首相は、総督からどういう報告を受けたか不明であるが、結果的には長谷川総督の方針を丸呑みした。そして11日、「三・一事件の厳重な措置」を指示した。お墨付きを得た長谷川総督は朝鮮軍全軍に出動と各地への分散を命令した。
平壤を中心とする平安道のデモが下火になったと思ったら、今度は釜山で大規模なデモが敢行された。全軍出動命令の直後だっただけに、慶尚道への弾圧は苛烈を極めた。慶尚道で参加者数に比し死者の数が多いのはこのためである。
こうなるともぐら叩きである。死をも恐れぬ民衆が非暴力のデモを展開し、日本軍はこれを片端から殺害するしか方法がなくなった。たとえば京城南方の天安では、3千余人がデモを行い、19名が殺され、6百名以上が逮捕された。このデモを組織し指導したのはという当時19歳の女子学生だった。彼女の両親は憲兵隊の銃撃で殺された。その後自らも逮捕された。しかし彼女は獄中でも拷問に耐え節を貫いた。10月に獄死した後、柳寛順は「韓国のジャンヌ=ダルク」と讃えられるようになった。
朝鮮軍の弾圧が直接およばない間島地方では、さらに大規模な抗議運動が展開された。3月13日、間島地方の中心地である龍井村で「独立祝賀会」が挙行された。その会を歴史に刻むべく石碑が建立されているそうだが、そこには「延辺人民3万名余が会集」したとある。朝・中・露三国国境の町、琿春では日本領事館の分館が襲われ、日章旗が引きずりおろされた。
「三・一独立運動」の高揚と日本政府の強圧的態度は、海外にも知られるようになった。とくにアメリカ政府は、ウィルソン大統領がみずから打ち出した民族自決の原則を支持する運動が抑圧されていることについて、憂慮の念を明らかにした。在米独立運動グループの強い働きかけも影響していたと思われる。
国務省極東部のウィリアムズ前部長の言葉はきわめて印象的である。彼はワシントンで石井駐米大使と会見し説明をもとめた。そして弁明を受けてこう語ったそうだ。
「朝鮮が以前よりよく統治されているというのは事実かもしれな い。しかしそれは、一つの重要な事実、つまり異民族により押しつけられた政府よりも、どんなに悪いものであっても、人びとは自らの政府のほうを選ぷということを、石井子は忘れている」
④堤岩里の虐殺と「三・一独立運動」の終焉
しかし長谷川総督と朝鮮軍の宇都宮朝鮮軍司令官は、アメリカの忠告とは逆の方向に突進した。4月1日、二人は連名で、「さらに一層の強圧手段を用い、鎮圧平定の功を挙げよ」と督促する指示を発令した。要は「殺せ、さらに殺せ、屈服するまで殺しまくれ」ということである。陸軍省は長谷川総督の方針を支持し、「朝鮮の騒擾を鎮圧するため」内地より6個大隊と憲兵400人を増派した。
長谷川は陸軍を牛耳る長州山縣閥の最古参だった。寺内前総督より年は上だが、あまり人望はなかったようである。
軍は指示を忠実に実行した。4月最初の10日間だけで、死者は170名、負傷者346名を数えた。
その最大の標的となったのが水原近くの村、堤岩里である。なだらかな丘と水田地帯が広がるのどかな農村で、教会がやたらと多いほかは日本の風景と大差ない。里は日本の村にあたり、大字に相当する各部落は面と呼ばれる。
この村でもデモがあった。3月28日、村民1千人が独立万歳を叫んでデモ行進したのである。日本人警官がデモ隊に発砲したのも同じだ。しかし違うのは、村民3人が射殺されたのに激怒した民衆が駐在所を襲撃し、日本人家屋に放火するなど暴動に発展したことである。このことを日本軍は決して忘れなかった。
4月13日、第79連隊の1個小隊が堤岩里の掃討に入った。隊はまず天道教徒とキリスト教徒の指導者を集めた。そして6人をデモのリーダーとして即決処刑した。これだけでも無法な行為である。
しかし弾圧はそれで終了したのではなかった。部隊は丸2日をかけて村中をしらみつぶしに捜索した。これは、長谷川総督が「教会を隠れ蓑に暗躍するキリスト教徒の民族主義者」を徹底して排除せよと指示したことに基づく措置である。
そしてクライマックスは4月15日の午後4時にやってきた。日本軍はキリスト教徒の村人を教会に集めた。全員が教会の中に入ったところを見計らって、扉にかんぬきがかけられた。中に閉じ込められた村人が騒ぎ立てるのを聞きながら、軍は建物に火をつけた。教会は紅蓮の炎に包まれた。辛うじて建物から飛び出した人々は、その場で射殺された。教会内部で悶え死んだもの21名、そのほか村全体で29人が殺された。軍はさらに近隣の8面15村落で、虐殺や放火を続けた。
事件を聞きつけた京城のアメリカ領事館館員カ-チスと宣教師アンダ-ウッドが、事件直後の堤岩里を訪れた。アンダ-ウッドは『ジャパン・アドバタイザ-紙』の記者も務めていた。生存者から聞き取り調査したアンダーウッドは、その惨状を世界に向け発信した。
問い詰められた総督府は、しかたなしに京畿道水原郡および安城郡に特別検挙班を派遣する。その報告はアンダーウッドの報道をほぼ裏書するものだった。「焼失戸数328・死者45名・負傷者17名」というのがその数字である。ただし「書類及簿冊の焼却せるもの迄有之、調査資料なきに困る」と、結論を濁している。
5月21日、総督府は「万歳事件の終結」を宣言した。総督府集計によれば、万歳デモ参加者は106万名。死者553名、負傷者1409名に達した。しかし犠牲者の数は内輪に過ぎるだろう。韓国国定教科書によれば、日帝軍警に殺された人は7509人、負傷者は15,961人、逮捕された人は46,948人であり、破壊、放火された民家が715戸、教会が47カ所、学校が2力所であった。すべてのキリスト教会が封鎖され、集会が禁止された。
しかし朝鮮人民はこれで屈することはなかった。さらに国の内外でのさまざまな戦いが、終戦間際まで展開されていく。
これで朝鮮戦前年表のまだ1/4までしか来ていません。とりあえず韓国併合100年に間に合わせるためにはじめましたが、マンセー闘争のところで時間切れです。まぁ、ここまでやっておけば何とかなるでしょう。
やってみて気づきましたが、延辺関係のトリビアルな記述が不必要に多すぎます。これでは全体の流れが追えません。戦前史年表の「別表」として別途保管したほうがよさそうです(いずれその気になったら、たぶんならないと思うけど…)。
ここまで8月23日了
第二部 朝鮮共産党の闘い
第一章 韓人社会党と高麗共産党
第一節 李東輝将軍と韓人社会党
李東輝将軍は江華島の守備隊を率いて義兵闘争の烽火を上げた人物です。戦い敗れた彼は国境を越えウラジオストクに亡命していました。
再起をもくろむ李将軍は手兵を集め、延辺地区の農民と連携しながら国境地帯でゲリラ戦を展開します。しかし戦い利あらず、日本の要請を受けた帝政ロシア政府の弾圧によりウラジオを追われ、国境に近いニコリスクの「新韓村」に逃げ込んでいました。
このニコリスクは現在はウスリースクと呼ばれていますが、その昔は渤海王朝の首都のあったところで、日本道あるいは東京府と呼ばれ、対日交易の拠点だったそうです。
1917年2月、革命により帝政ロシアが打倒されケレンスキー政権が登場すると、新政府は李東輝を危険人物とみなし刑務所に押し込めます。刑務所にはボルシェビキの活動家が大勢収容されていました。李東輝は彼らと意気投合し、社会主義に急接近します。
10月革命が成功し社会主義ロシアが成立すると李東輝は解放され、ボリシェビキと共同歩調をとるようになります。そして18年の6月、ハバロフスクで会議が持たれ、李東輝を会長とする「韓人社会党」が設立されました。
党綱領は「ソビエト政権支援、外国武力干渉撃退、土地改革実施、無産階級と民族解放運動との連帯」をうたっています。
この会議を実質的に指導したのは在露朝鮮人二世のアレクサンドラ・金でした。彼女はウラジオストクで小学校教員を勤めたが、離婚に伴いウラル地方に移住し、現地で16年にボルシェビキに入党しました。朝鮮人として初めての共産党員といわれています。
彼女は革命政権樹立後、朝鮮人組織のためハバロフスクに派遣されました。3ヶ月後には白軍に捕らえられ、銃殺刑となっています。
事態は風雲急を告げていました。8月日本軍はシベリア出兵を開始、1個師団がウラジオストクに上陸しました。2ヵ月後に軍勢は7万人に達します。そして沿海州全域、さらに北満方面まで影響力を拡大します。
日本軍の支援を受けたロシア帝国軍の残党はウラジオを支配しました。革命軍は各地でゲリラ戦を展開しながら日本軍に抵抗しました。韓人社会党もこれに加わり後方撹乱を展開します。
その大衆組織である「大韓国民議会」は沿海州のみならず、間島地方にも影響力を広げ、組織は100支部8千人まで拡大します。
第2節 二つの党の並立
しかし李東輝の勢力は朝鮮独立運動全体を代表するにはあまりに弱小すぎました。ボリシェビキも内乱のさなか、利用できるものは何でも利用します。
アムール川の河口近くニコラエフスクに定住した朝鮮人は、ボリシェビキそのものに参加し、その指示の下に反日闘争を展開した。彼らはイルクーツクに移り、当時シベリア戦争の司令部として創設されたシベリア・ビューローの指導下に入り、「自由大隊」に編制されます。
これから先は相当ややこしいのです。シベリア・ビューローは戦闘の最前線に立つボリシェビキ組織です。しかし日本との闘いをどう勝利させるか、東アジアの人民解放をどう実現するかの戦略はモスクワが決定します。
レーニンは二つの戦略を立てます。ひとつはシベリアのイルクーツク以東に緩衝国家「極東共和国:を創設することです。そして資本主義国にも受け入れられるエスエルやメンシェビキを指導者を政権に据えることによって、日本や米国との妥協を図ろうとします。シベリア・ビューローの本部はイルクーツクから西シベリアのオムスクに移されました。
もうひとつはソ連に隣接する諸国家で友党を形成し、それをソ連を守る防壁にしようとするものです。これは後にコミンテルンとなります。
モスクワは当初、韓人社会党を朝鮮人の主要組織として捉えていました。コミンテルンが上海に極東支部を置くことを決定したとき、その代表となったのは韓人社会党の幹部で李東輝の右腕といわれた金立でした。
これに対しオムスクのシベリア・ビューローは自らの配下の「自由大隊」の共産主義者こそ、朝鮮解放の担い手と考えていました。
19年9月、イルクーツクでボルシェビキに結集した朝鮮人グループが全露高麗共産党を結成しました。韓人社会党に対し、イルクーツク派と呼ばれるようになります。彼らは李東輝を、共産主義を利用するだけのたんなる民族主義者と批判、労働者・農民の利益を前面に押し出すようになります。
このボタンのかけ違いが後々まで尾を引くことになります。
シベリア・ビューローは「極東共和国」も実質的に無視しました。白軍や日本軍とのゲリラ闘争をシベリア全土で展開し、貧農や労働者の決起を呼びかけました。
闘いは徐々にシベリア・ビューローの優位に傾きました。日本軍は撤退し極東共和国は廃止され、コミンテルン極東委員会はシベリア・ビューローと行動を共にするようになりました。
結果的にはモスクワの意向は反故にされ、現地部隊の判断がそのまま既成事実化され、受け入れられて行くことになります。そしてそれが二つの党の対立という事態を招くことになりました。
後に朝鮮の共産党は自己主張が強く分裂ばかりすると批判されますが、その大元はソ連が作り出したのです。このころはまだ日本にも中国にも共産党などなかったのですから、朝鮮人民ははるかに早くから社会主義に接近していたことになります。先駆者であるがゆえに負わなければならなかった困難というべきでしょう。