한국 현대사  연표  

韓国戦後史年表 1

 

1945年

2.04 米英ソの三カ国首脳がヤルタ会談.朝鮮独立について,「米国を含まず,ソ連・英国・中国の三国による5年間の信託統治後,その独立を保障する」と発表.ルーズベルトは「朝鮮を信託統治するには30ないし40年を要する」と述べる.これに対しスターリンは「期間は短いほど良い」と答えたとされる.

2.16 同志社大学学生の尹東柱、福岡刑務所で獄死。「厳しい植民地支配のなかで書き続けられた彼の詩は、純粋で透明感にあふれている。死後に発表された詩は、今なお韓国で幅広く親しまれている」

4.04 臨時政府, 中華民国政府と新しい軍事協定を締結。独自の軍事行動を認められる。隊員はアメリカ戦略事務局(OSS)の特務工作訓練を受ける。

5.18 国連救助復興委のアメリカ代表ディーン・アチソン、「朝鮮は敵地であるが、カイロ公約に基づき解放地区とみなされるべき」と建議し採択される。

5.28 ルーズベルトの急死とトルーマンの大統領就任に伴い,ハリー・ホプキンス特使がモスクワを訪問しスターリンと会談.「少なくとも5ないし10年にわたり,朝鮮に対する4カ国信託統治が続けられるべき」との内容を再確認.

5月 光復軍とOSS、国内に潜入し後方工作を展開する鷲作戦(Eagle Project)を進めることとなる。

6.15 総督府の閣議。日本政府の藤原銀次郎特使の指示を受けた安倍信行総督は、特別会計予備金のほぼ全額を支出する緊急予算を発令.総督府は円通貨を乱発し、流通量を三倍化。これにより米その他の財貨を買占め日本本土に輸送。この結果、終戦時に国庫は空となり、天井知らずのインフレが見舞った。

6月 トルーマン,「臨時政府使節団議長」の李承晩博士と会見.「朝鮮人民が将来政府を選択する際の権利を侵害しないため,上海臨時政府をはじめ,特定のグループと取引することは避ける」と言明.

7.04 米国務省,ポツダム会談に備え「朝鮮における暫定的行政措置および予想されるソ連の対応」,「大戦後の朝鮮政府の形態」と題する二つの秘密報告を作成.戦後統治の基本指針となる.

7.16 ポツダム会談に臨んだヘンリー・スティムソン陸軍長官,「朝鮮問題は極東に移植されたポーランド問題である」と報告.軍の進駐を含め,あらゆる方法でソ連の全面占領を妨げるよう進言.

7月 第八代総督小磯国昭,首相に任命され東京に戻る.後任に安部信行元首相.

7月末 88特別旅団は党委員会全体会議を開き、旅団の中核部隊の半数を満州に、残りを朝鮮に派遣することに決定。朝鮮工作団を新設し金日成が団長に就く。指導部には崔庸健、金策、安吉、徐哲、金一、崔賢など。周保中旅団長、姜信泰らは満州に戻る。(周保中は、金日成が軍事政治の責任、崔庸健が党の指導責任を担ったと述べている

 

45年8月

8.08 ソ連,対日宣戦布告.メレツコフ元帥の率いる第1極東方面軍(12万5千人)が北満州・朝鮮・樺太に進攻開始.

8.09 ソ連軍が新京を空爆。

8月10日

8.10 日本政府,ポツダム宣言の受諾を通告.朝鮮半島へのソ連の進攻と日本軍の急速な崩壊に直面した米国政府は,急遽国務・陸軍・海軍の三省調整委員会(SWNCC)を開催.38度線を境界とする朝鮮分割占領をふくむ「一般命令第一号」(General Order #1)を決定.

8.10 ソ連軍,国境を越え朝鮮北端の雄基(現先鋒)への攻撃を開始.関東軍第34軍との間に激戦.日本軍はソ連占領を前に北朝鮮における資産破壊を指示。製鉄所、製鋼所、飛行機工場など鉱山64、工場19を使用不能とする。

8.10 ワシントンで国務省、陸軍・海軍省が協議委員会(SWNCC)を開き、38度線をソ連進出の限界とし、以南を米国が管轄することを決定。統合参謀本部に提出。

8月11日

8.11 マッカーサー,「朝鮮半島における権力の空白を避けるため」朝鮮派兵を決定.沖縄の第10軍から第24軍団を選抜.マッカーサー直属とした上で,南朝鮮の占領担当をゆだねる.軍団司令官ホッジは生粋の軍人で政治・外交の知識なく,朝鮮に関してもまったく情報なし.

8.11 ソ連軍の一部が雄基市内に突入.日本軍はなお抵抗を続ける.

8.11 日本のポツダム宣言受諾を知った呂運亨は、独立宣言書の作成に着手。

8月12日

8.12 朝鮮総督府,呂運亨と接触し,行政権の委譲と在留日本人の安全保障を打診.呂運亨は全政治犯の釈放,政治活動の自由など5項目を条件に,治安・行政権移譲に応じる.

8.12 第1極東方面軍に所属するソ連軍第25軍(司令官チスチャコフ大将),羅津に上陸.同軍の第393狙撃師団は、国境を越え朝鮮北部に侵攻。

8.12 スターリン、独立教導旅団あてに指令。東北党委員会を周保中(中国人)の指導する東北党委員会と、金日成の指導する朝鮮工作団に分離。戦後の建設をゆだねる。

8.12 延安の朱徳総指令、山西省太行山の朝鮮義勇軍に対して、東北に進出するよう命令。

8月13日

8.13 トルーマン、統合参謀本部の南北分割統治案を承認。朝鮮半島の分割統治は、朝鮮人には8月末まで知らされなかった。

8.13 総督府の首脳会議,「流血の事態を避けるため,朝鮮人に一定の権限を割譲する」との方針を決定.

8.13 羅津のソ連軍,清津に進出.日本軍守備隊との最後の戦闘が始まる.

8月14日

8.14 日本政府,ポツダム宣言受諾を連合国に通知.朝鮮総督府にも伝達.北朝鮮では18日までソ連軍との戦闘が続く。

8.14 トルーマン大統領,「一般命令第一号」をソ連に通告.ソ連も38度線で分割武装解除することに合意.スターリンは北海道北部の分割占領案を提案するが,米政府により拒否される.

8.14 中ソ友好条約締結.ソ連は満州地域における鉄道,大連・旅順港の使用権などの権益を復活.

8.14 米第十軍司令官スチルウェル(ホッジの上官)、沖縄に打電。「少数の日本人以外はすべて友好国民として遇するべきである」と指示する。

8月15日

8.15 8am 呂運亨,総督府を訪れ遠藤柳作政務総監と会談.遠藤総監は「遅くとも17日午後2時までにソ連軍がソウル入りするだろう」とし,治安維持のための協力を依頼.呂運亨は①政治犯の即時釈放、②京城の食糧を3ヵ月分確保、③自主的治安維持活動への不干渉、などを要求。

8.15正午 日本が無条件降伏.第二次世界大戦終結.

8.15午後 呂運享,行政の受け皿として朝鮮建国準備委員会を立ち上げる.副委員長に中道・保守の安在鴻を据え,独立運動経歴の持ち主を中心に中央執行部を形成.右派の宋鎮禹は政権への参加要請を拒否.

8.15夕方 青年・学生2000名を動員し建国青年治安隊を組織.JODK京城放送局と総督府機関紙「毎日申報」を支配下におさめる。

8月16日

8.16午前9時 西大門刑務所の門が開かれ、政治犯が一斉に釈放される。独立門から刑務所までの大路は数千の朝鮮人が埋め尽くす。全国1万6千の政治犯のうち,この日一千人が釈放される.

8.16午後 建国青年治安隊,ソウル市内を示威行動しつつ,警察署のほとんどを接収.総督府庁舎の接収は拒否される.中央建国治安隊が活動開始。全国の地方治安隊、学徒隊、青年隊などの活動を統制する。その後全国に162の地方治安隊が誕生.

8.16 3:10pm 建国準備委員会副委員長安在鴻,「国内・海外の3千万同胞に告ぐ」と題し、午後3、6、9時の3回にわたってラジオ放送.この中で警衛隊の新設、正規兵の編成、食糧の確保、物資配給の維持、通貨の安定を柱とする「建国準備大綱」を発表.呂運享は「雅量を示さなければならない」として国民の自制を呼びかける.日本人に対する報復は10数件にとどまる.
 

朝日新聞の報道: 赤旗を手にした青年が歓声を上げて走り回り、女子供がそのあとに続いた。集まってきた群衆はついに電車、トラック、自動車を占有し…、しばらくのあいだは、あらゆる政府機関が機能を停止したように見えた。街が静けさを取り戻したのはやっと夕方になってからだった…。恐慌を起こした日本人は避難する準備を急いだ。朝鮮人は日本人の店や住居に群がり、彼らの財産を最低の価格で買い占めた。

8.16 清津の日本軍が降伏.ソ連軍が占領・武装解除.

8.16 鄭柏,高景欽ら元共産党員が「朝鮮共産党」を結成.趙東祐を責任秘書に選出.ソウル市内の長安ビルで旗揚げしたことから,長安派共産党と呼ばれる.まもなく李英らソウル青年会系の活動家も結集。のちに出獄してきた活動家から「娑婆共産主義者」と罵倒される.

8.16 トルーマン,「日本は分割統治せず」との声明をだし、米国の単独占領を言明する。スターリンは「北海道北部のソ連軍占領」を提案するが,アメリカはこれを拒否.

8.16 平壤では曺晩植らプロテスタント系民族主義者が,平安南道治安維持会を結成.曺晩植はキリスト者として神社参拝を拒否し、「朝鮮のガンジー」と呼ばれた。

日本統治期、その非暴力主義の主張により「朝鮮のガンディー」と呼ばれた曺晩植は、一般的な認識とは異なり、その実、朝鮮日報社長もつとめた有能な実務者であり、また、日本統治末期には「学徒動員」に協力した過去さえ有していた。(木村幹氏

8月17日

8.17 建国準備委員会,当面の閣僚名簿を発表.総務部長に崔謹愚,財政部長に李奎甲,組織部長に鄭柏,宣伝部長に趙東祐など.安在鴻は挙国一致政権樹立のため建準を解体し全国有志者大会を開催する提案.

8.17 朝鮮建国準備委員会の呼びかけを受け,各地方で建国準備委員会の支部組織が結成される.地方支部は8月末までに145に達する.平壤では、平安南道治安維持会を母体に建国準備委員会平南道支部が結成される。

8.17 朝鮮共産党,平壤での党再建の責任者に,价川出身の玄俊赫を派遣.玄俊赫は金鎔範,張時雨らとともに平安南道地区委員会を結成.

8.17 上海臨時政府代表の金九,中国駐在米大使を通じトルーマン大統領に,早期の朝鮮帰国を要請.「韓国と韓国国民の現在および将来の運命に影響する全ての会議に参加しなければならない」と訴える.

8.17 ハルピンで反日朝鮮民族独立同盟の北満特別委員会が設立される。

8.17 日本軍大本営、マッカーサー宛てに打電。ソ連軍が38度線以南まで進出することを阻止するよう要請。

8月18日

8.18 ソ連軍,咸鏡北道まで進出.

8.18 総督府,米軍との通信を通してソウル以南を米軍が確保するとの指示を受ける.この情報を得て,建準への行政権委譲の取り消しを決断.(一説では、朝鮮軍管区司令部が「治安は軍が担当する」ことを骨子とした「政治運動取締要領」を総督府に飲ませたとされる

8.18 呂運亨に対するテロ事件が発生.呂運享は一時身を隠す.このあと呂運亨は延べ12回のテロを受ける.

8.18 総督府,安在鴻を呼び出しラジオ演説の内容を非難.建準の解散を命じる.

8.18 朝鮮軍管区,ラジオを通じ「朝鮮軍は厳として健在である.米軍が責任を引き継ぐまで北緯38度線以南の治安を維持し,同時に行政機関を存置する」、「東亜のこの悲劇を奇貨とする匪賊行為に対しては、断固武力を行使する」と発表.建国準備委員会に引き渡した主要機関を再接収.

8.18 満州国皇帝溥儀が退位.満州国は消滅.

8.18 在中国連合国軍司令部の米軍使節団(団長はOSSのバード大佐)が,ソウルの汝矣島飛行場に強行着陸する.米軍の進駐の方針が,はじめて総督府に明らかにされる.光復軍の李範奭らも同行するが、日本軍との交渉がまとまらないまま引き返す。

8月19日

8.19 米軍第24師団の先遣隊が仁川に上陸.

8.19 OSS(戦時諜報部)の18人が、空路ソウルに入る。12人はアメリカ人で6人は朝鮮人。その中に上海政府の一員李範叟も含まれていたという(コンデによる)

8月20日

8.20 ソ連軍と日本軍が停戦合意.朝鮮総督府,ソ連軍への抵抗を停止.ソ連は司令官名で「朝鮮人民に与える赤軍布告文」を発表.

8.20午前 朝鮮軍管区の強硬派将校,建準その他の団体を召集.「各団体が午後5時までに解散しなければ,実力行使する」と宣言.市内各所に兵員を出動させる.総督府は「軍管区の独断である」として一切の責任を回避.

8.20午後 建準が態度を硬化させ,朝鮮軍管区に解散命令の撤回を要求.軍部は結局命令を撤回.

8.20 連合国中国戦区ウェデマイヤー司令官の署名入りのびらが撒かれる.これにより米軍のソウル進駐の方針が公にされる.

8.20 朝鮮共産党再建準備委員会がソウルで結成される.委員長に朴憲永が就任.「現情勢と我々の任務」(八月テーゼ)を報告.長安派共産党の解散を求める.再建委員会の開催を受けた趙東祐は,長安派共産党指導者の地位を辞す.

8.20 間島臨時政府が成立。

8.20 神奈川県の韓徳銖ら,関東地方朝鮮人会を結成する.

8.21 ソ連軍,東海岸の元山・咸興に進駐.

8.21 保守派との合作を嫌う建準左派の一部が建準ソウル支部を結成.鄭柏,高景欽など長安派共産党が指導.

8月22日

8.22 咸興に進駐したソ連軍,咸鏡南道の行政権を道庁から取り上げ,人民委員会(建準道支部)に一任.「朝鮮民族執行委員会」を立ち上げる.

8.22 日本政府内務省より朝鮮総督府への正式な指示.治安維持と日本人の安全確保を要求.これまでの総督府の対処方針を追認.

8.22 建国準備委員会,1局12部に機構を拡大.

8.22 関東軍127師団(古賀竜太郎中将)の武装解除の会談が師団本部で開かれる。ソ連側代表は第25軍参謀長のクズニェツォフ中佐。

8.23 総督府,軍兵士を警官に転任させるなどの措置により,日本人一万二千を治安確保にあてる.

8.23 ソ連軍,38度線を越えて南下.春川と開城を占領.さらに東豆川,議政府まで進出.まもなく38度線以北に撤退.

8月24日

8.24 「浮島丸事件」発生.帰還船浮島丸が舞鶴湾で謎の爆沈.帰還予定だった朝鮮人4000人のうち550人が死亡.これらの人々は,強制連行され下北半島で就労していた.

8.24 金達寛ら,大阪の生野で高麗人中央協議会を結成.

8.24 ソ連第一極東方面軍の第25軍団,咸興に進駐.植民地行政機関を廃棄,憲兵・警察官を武装解除したうえで,「朝鮮民族咸南道執行委員会」に治安・行政権を委譲.

8.24 京城-元山間の鉄道、全谷-東豆川間でソ連軍により遮断される。翌25日には京城-新義州間の鉄道、土城-海州間の鉄道も、38度線を境に遮断される。ソ連軍は日本人知事に対し、38度線を越えた人間・物資の移動を禁止する通達。

8月25日

8.25 ソ連軍,東海岸を38度線近くの襄陽まで南下したところで進撃を停止.

8.25 総督府,米軍当局に十三項目の「希望事項」を提出.「朝鮮人思想主義者」を排除し,総督府の保安・行政機能を活用するよう要請.「建準=アカ」のデマ宣伝を強める.

8.25 建準,いったん62名の拡大中央委員を選出するが,情勢の展開に応じ定数を倍増.釈放された政治犯が次々に結集する中で,建準内で左派の比率が高まる.安在鴻による保守派との合同路線は,力関係が流動する中で破産.安在鴻はこの後別党コースを歩み始める.

8.25 呂運享,指導部に復帰.中央幹部を集め演説.「今なすべきことは政府を組織することではない.ただ新政権が樹立されるまでの準備をすること,そして治安を維持することのみである」と述べる.

8月26日

8.26 ソ連第25軍,ピョンヤンに進駐,軍政司令部を設置.ロマネンコ少将の下に民政部を創設.チスチャコフ司令官は「朝鮮民族の日本帝国主義からの完全解放」を宣言. 平壤をふくむ平南道にも咸興方式を適用.曺晩植の平南人民委員会に一切の行政権を委譲する方針を打ち出す.
 

チスチャコフ声明の要旨
朝鮮人民よ。ソ連軍と同盟国軍は朝鮮から日本略奪者を駆逐した。朝鮮は自由の国となった.朝鮮人よ記憶せよ.幸福はあなたがたの手中にある.あなたがたは自由と独立を取り戻した.朝鮮の労働者たちよ,労力による英雄心と創造的努力を発揮せよ.解放された朝鮮人民万歳!

8.26 建準,全国の会社・工場に対し,職域ごとに自治会を組織して,資源の確保と今後の運営に万全を期すよう要請.

8月27日

8.27 マッカーサー,米第24軍のジョン・リード・.ホッジ中将を韓国駐留軍(USAFIK)司令官に任命.連合国の合意に基づき韓国を占領し,統治することとなる.ホッジは,朝鮮独立の方式や,諸政治勢力への対処,日本からの経済的自立の道筋について,ほとんど何の指示も与えられなかった.

8.27 総督府内に終戦事務処理本部が設置される.

8.27 帰国指導委員会と在留朝鮮人対策委員会が合流して「在日朝鮮人会」を結成.

8月28日

8.28 建国準備委員会,宣言と綱領を決定.自らを進歩的民主勢力の統一機関と位置づけ,「新政権を樹立する産婆の役割」を担うと表明.民主・独立の政府は,全国的な人民代表会議をへて組織されるものとする.発表は9月2日までずれ込む.

8.28 総督府、重光外務大臣宛に打電。ソ連軍の「日本人に対する無法発砲、略奪、暴行、強姦」から始まって「地方民の民政確保に専念している日本人警官、憲兵等を武装解除して拘留するなどの暴行」を非難。米軍当局にその内容を伝達するよう依頼。

8.28 マッカーサーが厚木に入る。総督府の意向を受けた日本政府は,「北朝鮮の治安状況に関する報告」を提出。アメリカ軍の早期朝鮮駐留を訴える.マッカーサーは要請の趣旨を承認した上で、この報告文をホッヂに転送。

「北朝鮮の治安状況に関する報告」のさわり: 北鮮における事態は急激に悪化している。もしこれが放置されれば、事態は南朝鮮にも波及し、治安維持は極めて困難となるだろう。現地日本当局は連合軍の到着を切望し、かつ連合軍が十分現地の実情を考慮に入れることを切に要望する。

8.28 ソ連、平壤に平安南道人民政治委員会を創設.建準の全面的権力は否定され、建国準備委員会と朝鮮共産党平南委員会が半々の構成となる.曺晩植が委員長,玄俊赫が副委員長に就任.

8月29日

8.29 ソ連軍,北朝鮮全域を掌握.

8.31 沖縄の第24師団から総督府あてに無線による指示が出されるようになる.マッカーサーから通告を受けた大本営が「第二十四軍団司令官に直接に無線連絡を開始せよ」と命令したことを受けてのもの。また同じ大本営からの連絡で、「9月7日に米陸軍第二四軍団が京城地区を占領する」ことも明らかにされる。

8.31 この時点で全国145ヵ所に建準支部が結成される。

 

45年9月

9月1日

9.01 米軍のB24機がソウル上空より「近日中に上陸」とのビラを散布.

9.01 尹フ善,白南薫らが韓国国民党準備委員会を旗揚げ.すでに事実上建準を離脱した安在鴻らも加わる.

9.01 第十七方面軍の上月司令官、沖縄あて打電。「朝鮮内には混乱状態を悪用し、陰謀をたくらむ共産主義者が横行している。暴徒の警察官に対する暴行行為は目に余るものがあり、武器弾薬を略奪したり、ストライキを煽るなど、情勢が緊迫している。米軍の上陸時には赤色朝鮮人労働組合が破壊工作を行なう可能性がある」と述べる。

9.01 ホッヂ、総督府に対し「武装部隊と行政機関を現状のまま存続させて治安を維持するよう」指示。

9月2日

9.02 ホッヂの布告文「南朝鮮民衆に告ぐ」が、米軍機によってソウルの上空に散布される。「朝鮮を民主主義制度下にあらしめ、国民の秩序維持をはかる」ため、①布告及び諸命令は、現存する諸官庁を通じて発布される。②日本人及び米上陸軍に対する反乱行為、財産と既設機関を破壊するものは厳罰とする。

9.02 連合国最高司令官マッカーサー,対朝鮮指令第1号を発令.38度線を境に,在朝鮮日本軍の米ソ各軍への降伏を指令.初めて朝鮮半島の分割統治が公式に明らかにされる。

9.02 米軍,「朝鮮の民衆に告ぐ」と題する警告ビラを配布.もっぱら旧日本支配層から朝鮮情報を収集したホッジは,8.15以降,共産主義者が南朝鮮の平和と秩序を乱しているとの認識を強める.
 

ただしコンデによれば、ホッジはソウルの日本軍からの報告について、「私が日本軍の総司令だったら、連合国間に不和を作り出すため、同じようなメッセージを送るだろう」と述べたという。

9月3日

9.03 朝鮮軍管区司令部、ホッジ布告を受け声明を発表。「日本軍は、在沖縄第24軍団司令部との連携の下、朝鮮の治安を維持する」とする。

9.03 臨時政府,金九国務委員会首席名の声明を発表.「過渡政権が成立するまでの国内秩序と、対外関係を責任を持って維持する」と宣言。臨時政府の当面の政策を掲げ,国内外の同胞に支持を訴える.

9.03 玄俊赫共産党平南道委員長,曺晩植とともにソ連軍司令部を訪問.帰路,市内で暗殺される (一説に9月28日).親ソ派による指導権確立を狙うソ連軍政部の指示によるといわれる.朴憲永は後任として玄七鍾を派遣するが,ソ連軍はこれを拒否し張時雨を平南道委員長に指名.玄七鍾は平壤市党委員長となる.

9月4日

9.04 ホッヂは麾下の幕僚に対して「朝鮮はアメリカ合衆国の敵であり、従って降服に伴う諸条件と義務を負わされる」と通告。

9.04 チャールズ・ハリス准将以下31人の第24軍先遣隊が、三機の飛行機で沖縄から金浦飛行場に到着。施設の受け渡しについて総督府側と協議。「総督府が引き続き統治にあたり,米軍司令官がこれを管理・監督する」との意向を明らかにする.総督府側はハリスに対し接待攻勢をかける。

9.04 政務に復帰した呂運亨,幹部を招集し中央機構の改変を討議.安在鴻副委員長ら民族主義右派は,重慶の臨時政府を中核とする統一民族国家の建設を主張.話し合いは物別れに終わり,安在鴻は委員会を離脱(まもなく朝鮮国民党を結成).後任副委員長には,同じく民族主義左派の許憲が就任.

建準分裂の背景  この日まで140の地方人民委員会が成立したが,ほとんどが共産党の影響下に置かれる.建国準備会内部で共産党の影響力が強まったことから,これを嫌う民族主義者が離反した. 

9.04 神田YMCAで,在日朝鮮学生青年同盟が結成される.

9.05 金日成をふくむ朝鮮工作団60名は、いったんウラジオストックに出て、ソ連の軍艦に乗船。

9月6日

9.06 米国帰りのジャーナリストらにより、ソウルでコリア・タイムズが創刊される。「ロシアは朝鮮の偉大な隣人であり、信頼できる友人である。すべての朝鮮人はロシア人の友情を受け入れよう」と呼びかける。

9.06 朝鮮建国準備委員会,千名の代表を結集し全国人民代表者大会を開催.「朝鮮人民共和国」樹立を宣言.自主独立,反帝反封建の民主主義実現,生活向上,国際平和共存の4原則を確認.臨時政府組織法案を可決.55名の中央人民委員を選出.

9.06 中央人民委員会,主席に李承晩,副主席に呂運亨,国務総理に許憲,内務部長に金九,外交部長に金奎植,財務部長に曺晩植,軍事部長に金元鳳,司法部長に金炳魯,企画部長に鄭柏を選出.書記長には共産党の李康国が就任.

9.06 海州のソ連駐留軍、南北をつなぐ電話・通信回線を遮断。郵便物の交流も中断される。

9月7日 マッカーサー布告

9.07 ハリスと遠藤政務総監が総督府で会見。ハリスは「現在職者と官庁の諸設備をそのまま使用する」と表明。米軍司令官は行政に対し、ただ管理、監督のみを司ると提案。

9.07 マッカーサー布告第1号.南朝鮮を軍事支配下におくことを明らかにし,事実上,朝鮮人を解放人民ではなく敵国人民として対処する. 

マッカーサー布告の要旨
朝鮮が予定通り自由と独立を実現するまで,あなた方には私への協力と服従が求められる.南朝鮮の全ての人々は,私の当局の下で発表される,全ての私の命令に従われわれなければならない.占領軍に逆らう者,私の命令に従わない者,公共の安寧を乱すものは厳しく罰せられる

9.07 保守派が「国民大会召集準備会」を開催.「大韓民国臨時政府が唯一の存在である」とし,建準に対抗.親日派に通じるものも多く含まれる。委員長に宋鎮禹を選出.声明文では呂運享を「血を流さずに政権を奪取しようとする野望を抱いて乗り出した,日本帝国の走狗である」と非難.

9月8日

9.08午後1時 沖縄第八軍指揮下の第24軍団第7師団が,南朝鮮進駐軍として仁川の月尾島に上陸.第24軍司令官ジョン・ホッジ中将が,米駐留軍司令官として着任.遠藤政務総監らが出迎え、朝鮮人は米軍からの指示に基づいて外出を禁止される。ホッジは出迎えた呂運享ら建準代表を「日本の手先」とし、会見申し入れを拒否。

9.08午後2時 朝鮮人労働者の歓迎デモに日本の特別警察隊が発砲.「建準」保安隊の活動家2名が即死し、十余人が重傷を負う.デモ隊は「朝鮮人民の独立を助けてくださった英雄と握手する」ことをもとめていた。

9月9日

9.09午前 装甲車11台の先遣部隊の後、ホッジ以下5600人の米軍部隊が200台のトラックに分乗してソウルに入る。

9.09 ソウルの総督府で引き渡し式。総督府には日本国旗に代わり星条旗が掲揚される。38度線以南の日本軍の降伏を受理.日本の文武官は免職されない限り現職に留任することとされる.

9月10日

9.10 ホッジ,安部朝鮮総督と会見.安部総督を米軍統制下における朝鮮政府暫定主席に指名.ホッジは「現行政府(総督府)の機構を通じて」統治すると声明.記者会見では「ほかに適当な機関がないので,やむを得ず総督府とその日本人を利用する」と述べる.

のちの公開文書によれば,軍政部は日本総督府と日本人官僚を留任させようとしたが,本国の軍・政幹部の一致した反対により挫折.その後の数ヵ月で7万5千人の朝鮮人が,政府職員として採用されるが,その資質・能力は絶望的に低かったという.

9.10 マッカーサーの「太平洋米陸軍総司令部布告第2号」(9月7日付)がソウルの上空にまかれる。「公衆治安秩序を攪乱するもの、連合軍に対して敵対行為に出るものは、…死刑または他の刑罰に処す」と述べる。事実上、朝鮮人を敵性国民として扱ったもの。

9.10 米軍政部,外出禁止令を公布.米軍歓迎の行事も禁止する.港湾・飛行場・軍用道路・兵舎などを次々に拡張新設.

9.10 在日本朝鮮人連盟中央結成準備委員会が結成される。親日派も名を連ねる。

9月11日 米国の軍政宣言

9.11 アメリカ進駐軍,「軍政庁が南朝鮮における唯一の政府である」とする布告第1号を発令.米国務省は,「可能な限り迅速に」旧総督府幹部を全員更迭するようマッカーサーに指示.

9.11 朴憲泳らの朝鮮共産党,公然活動を開始.李英らのソウル青年会系(長安派)は朴憲永の火曜派(再建派)に合流。

9.12 ホッジ司令官,朝鮮人の反感を前に,安部総督を解任.軍政長官(Military Governor)に第7師団長アーチボールド・アーノルド少将を任命.軍政部の下に政務総監を置きアーチャー・リーチ少将を任命.政務総監はのちに民政長官となり,形式上は軍政長官と並ぶ.

9.13 米軍軍事法廷、「朝鮮人による米軍の歓迎は禁止されていた」として、仁川での建準活動家殺害に関する朝鮮人側の提訴を退ける。

9.13 韓民党関係者,米軍政庁を訪問.「人民共和国は共産主義者の集まりである」とし,これを承認しないよう要請.

9.14 遠藤政務総監をふくむすべての局長クラスの日本人が解任されるが,引き続き米軍政顧問として任命.ホッジは「日本人は私の最も信頼の置ける情報源…日本人の統治機構は現在最も効果的な運営方法」と述べる。

9.15 国務省,ホッジの要請に応え,政治顧問としてメレル・ベニンホフを派遣.ベニンホフは本省あてに,「USAFIKは、2つの大きい困難を抱えている.ひとつはわれわれが連合国の将来の政策に関して、情報を持たないということである.第二の困難は,あまりにもUSAFIKが弱体であるということである」と報告.

9.16 平壌のソ連軍も軍政の開始を布告。

9.16 国内親日派と、全羅地方の「湖南グループ」を中核とする保守派は,宋鎮禹(ソンジヌ)を首席総務として韓国民主党(韓民党)を結成.金炳魯らの朝鮮民族党,張徳秀,許政らの韓国国民党,安在鴻らの朝鮮国民党などが結集.「人民共和国」政府を左翼集団と非難.軍政部は反共政権を構想する立場から民主党を支持.

9.16 韓徳洙ら,朝鮮人聯盟神奈川県本部を結成.全国組織への足がかりとする.

9.18 トルーマン、自由かつ独立した国家を樹立するという目的のために、「時間と忍耐が必要であり、朝鮮人と連合国側との共同の努力が必要である」と述べ、朝鮮を委任統治におく方針を示唆。

9.19 「金日成」,ソ連艦プガチョフ号で元山に到着.

9.20 スターリン,極東軍総司令官ワシレフスキーに親書.ソヴェト路線を排除し,「北朝鮮に民族主義者と社会主義者その他の人々をふくむ広範な連合を基礎とするブルジョア民主主義政権を樹立すること.ソビエト型機関や秩序を導入しないこと」を指示.

9.21 南朝鮮の米軍政府、神社法など朝鮮人弾圧と判断される法令を破棄.

9.21 金日成,「平壌市衛戍司令部副司令官」の任命書を持ち平壤入り.

9.22 韓民党中央執行委員会開催.「軍政長官顧問会議の設置に関する件」を採択し米軍当局に提出.

9.23 済州島で建国準備委員会の呼びかけを受け,人民委員会が組織される.この時点で米占領軍は到達せず.

9.24 金斗ヨウら,東京で政治犯釈放推進同盟を結成.

9.25 米軍政法令第2号が発令される.新韓公社が設立され,日本人の旧所有農地を接収・管理.

9.28 済州島に米軍が初めて上陸。軍政業務を担当する米軍第59軍政中隊が済州島入りした。

9.30 ソ連軍の仲介のもと,平壌市内で金日成と曺晩植が初の接触.

9.30 GHQ、日本政府に対し東洋拓殖会社の閉鎖を命令。

9月末 国務省から進駐軍政治顧問として派遣されたベニングホフ,①建準は共産主義団体であり排除すべきである.呂運享は容共主義者であると同時に,親日派のオポチュニストである.②韓国内には総督府に代わりうる高潔かつ有能な保守派人材が存在する.③重慶の臨時政府指導者を「看板として活用する」ことが適当である,との報告を提出.軍政府はこの報告にもとづき、10月6日に予定された人民共和国会議を禁止。

 

45年10月

10.01 平壤放送,抗日パルチザンの英雄「金日成将軍」の帰国のニュースを流し始める.「人民解放祝賀大会」に向けての動員作戦を開始.

10.02 第25軍司令官チスチャコフ,「スターリン書簡」に基づき,非共産主義政党の結成と共産党をふくむ統一戦線政府の成立を促す.新たに民政部を設立.ロマネンコ少将が長官,イグナチェフ大佐が長官代理に就任.民政部とは独立して司令官直属の政治顧問部(バラサノフ部長)が設けられ,中長期の政策策定にあたる.

10.03 ソ連軍政当局,「金日成将軍が帰ってきた」との宣伝をいっせいに開始する.

10.05 国家顧問会議が設立される。米軍政部は韓民党の提出したリストを丸呑みして,11名を軍政長官顧問に任命.互選で金性洙が議長に就任。

顧問の顔ぶれ: 金性洙、宋鎮禹(本土および満州で憲兵の手先として活動家狩りに協力)、金用淳(日本軍への医薬品販売で富を築く)、李容窩(外科医で軍国主義扇動家)、金炳魯(独立運動からの転向者)、尹基益、金用茂、金東元、諭億兼、呉緯永。呂運享と曺晩植は顧問就任を拒否。

10.05 軍政府、米穀法を布告。米の生産・分配に関するすべての統制と援助を撤廃。たちまち売り惜しみ・買占めが各地に広がる。また同時に公布された最大限小作料制度は、差し当たりの小作料の上限を収穫量の三分の一に制限するが、米以外の収穫物も含めたため、事実上小作料の引き上げにつながる。

10.07 米軍政部,朝鮮建国準備委員会の解散を命令.建国準備委員会は,あらたに「建国同盟」として発足.各地の建国準備委員会の支部は,「人民委員会」と改称し自治活動を継続.

10.08 ソ連軍政部,北朝鮮五道建国準備委員会連絡会議を結成.平南道人民委員会の曺晩植をトップにすえる.

10.08 夕張炭坑で朝鮮人労働者6000余人がストライキ.

10.10 日本共産党中央委員,金天海(本名:金鶴儀)が釈放される.朝鮮人400名が参加する歓迎会が開かれる.

10.10 アーノルド軍政長官,記者会見を開き「命令の効力を持った要請」を発表。人民委員会政府が来年3月に予定している「総選挙」の実施を認めないと述べる.
 

アーノルド声明の要旨
軍政庁は南朝鮮における唯一の政府である.軍政庁は道・市・郡など既設の各機関を通じ政権を掌握する,朝鮮人民は軍政庁の命令に服従しなければならない.彼らのいう総選挙は軍政府に対する最も重大な干渉であり、公然たる敵対行為である。たとえばかげた軽薄な内容でも、言論の自由は認められるが、それを悪用する呂運亨らの人民共和国はただちに解散すべきである。

10.11 人民共和国の中央人民委員会,アーノルド声明に対する抗議の談話を発表.アーノルド声明は朝鮮民衆に対する侮辱であると非難.

10.12 一説によれば,この日平壤市内の料亭で人民委員会幹部と初会合.民政長官に就任したロマネンコ少将が,自ら金日成を紹介するなど,すべてをお膳立てしたという.

10.13 人民委員会、「裏切り者と愛国者」と題する英文パンフを発表配布する。顧問会議メンバーの戦争協力者としての経歴を暴露する。当局はこれを無視。

10.13 米政府,朝鮮に対する「初期基本指令」を作成.軍政から信託統治を経て独立という路線を提示.4大国による信託統治への移行に必要な条件を準備するよう指示。同時に人民共和国を改めて否定.ソ連も信託統治案には基本的に同意.

10.13 ソ連軍政部の要請で,北部五道の共産党員および熱誠者連合大会が召集される.呉淇燮が基調報告.金熔範が「党組織に関する報告」,金日成(?)は,事実上の二党路線となる「朝鮮共産党北朝鮮分局」の開局を提案するが、「一国一党原則」を掲げる呉淇燮らの反対に会い、朴憲永の指導を受け入れることで合意.
 

基調報告の骨子: 「党および共産主義者の政治的任務について」と題される。内容としては①米ソ協調支持、②親日派以外の民族主義者をふくむ統一戦線の結成、③朝鮮政権の樹立、④ブルジョア民主革命の遂行を通じ社会主義を展望。

 

10.14 平壌の牡丹峰公設運動場で,「ソ連解放軍歓迎・朝鮮人民解放祝賀大会」が開かれる.7万の市民が33歳の「金日成将軍」の帰国を歓迎する.「民族の英雄・金日成」が老人と思っていた人々の間からは「ニセモノだ」という声が上がったという。(金日成別人説もあるが、同一人物と見ても年齢的には矛盾しないため、ここでは採らない)

10.15 日比谷公会堂で4千名の代議員が参加して,在日本朝鮮人聯盟(朝聯)が結成される.金斗鎔、朴恩哲、韓徳洙らの左派が親日派を排除し連盟の主導権を握る。各地に青年隊,自治隊,保安隊,自衛隊を組織.

10.16 朝鮮建国準備委員会の主席に推挙された李承晩,米軍用機で米国より帰国.この時すでに73歳。老闘士の帰国に国内の期待高まる.ホッジは李承晩のために朝鮮ホテルのスイートルームを確保。

 

10.16 ソ連,曺晩植らの北朝鮮五道建国準備委員会連絡会議を人民政治委員会と改称させ,北朝鮮全土の行政権を移管.

10.15 在日朝鮮人連盟(朝連)の準備会が結成.時期を同じくして朝鮮建国促進青年同盟準備会,在日本朝鮮学生同盟が結成さる.

10.17 ワシントンの三省調整委員会,マッカーサー宛に「南朝鮮の軍政における特別指針」を送る.
 

自由・独立国家への道筋
韓国での米国の「究極の目的は自由・独立国家の育成」であるとする.それに至る道筋として,まず米ソそれぞれの占領地域において民政を実現する.
続いて両国の合意を経て,4カ国の信託統治機関をおく.その後,適切な時期を置いて独立という道筋を示す.
これは44年の国務省レポートと基本的には変わっていない.
 

10.18 李承晩歓迎会に5万人が集まる。李承晩は「ソ連の北朝鮮からの撤退と反共統一」を強調し、忍耐と、軍政府に対する協力と、個人的自己犠牲を訴える。ホッジは李承晩の紹介役として演壇に立つ。

10.20 ビンセント米国務省極東局長,米ソ英中の4カ国による信託統治構想を初めて公式表明.朝鮮国内では「朝鮮民族に対する侮辱」との抗議.

10.20 米軍政部のラングドン政治顧問代理,信託統治案に代えて政務委員会構想を提示.金九グループ(臨政)を中心に政務委員会を結成し,軍政と合体して臨時政府(暫定政府)を構成するというもの.国務省は南北分裂の固定化につながるとしてラングドン構想に反対.あくまで信託統治案を主張.

10.20 中国共産党東北委員会の承認を受け、中共延辺臨時委員会が設立される。姜信泰(27歳)が書記に就任。フロント組織として延辺人民民主大同盟が成立。池喜謙を委員長とし14万人が組織される。メンバーのほとんどは朝鮮族。これに伴い間島臨時政府は解散。

10.23 李承晩,独立促成中央協議会(Central Council for the Rapid Realization of Korean Independence)を結成し総裁に就任.「人民共和国」に代わる民族統一機構として期待を集める.

10.23 ソ連の指示を受けた朴憲永,北朝鮮分局の創設を承認.金熔範が分局責任者となる.

10.24 長安派共産党,韓国民主党・朝鮮国民党と戦線統一について合意.臨時政府を中心に新たに政府を樹立するとの共同声明を発表.

10.25 人民共和国中央人民委員会,「信託統治制は絶対に看過できないことである」との声明.韓民党も「信託管理制は朝鮮人を侮辱するものであり,あくまでも絶対自主独立を主張する」と声明.米軍政局は国内の反発に対し,軍政当局の意思ではなく,ビンセントの個人的見解と釈明.

10.26 国民党,建国同盟,共産党が統一行動委員会を組織.独促も「断固として共同信託制を拒否し,完全独立以外のあらゆる政策に反対する」との声明を発表.

10.30 アーノルド軍政長官,ホッジ中将,相次いでビンセント発言を個人的なものとする談話.

10.30 朝鮮共産党,李承晩の無原則的野合路線を批判.親日派への態度を明確にするよう要求.「独促」への加盟を保留.李承晩と朴憲永との会談では,親日派に対し厳しく臨むことで一致するが,明文化することでは合意に至らず.

10.31 米国務省のヴィンセント極東部長,信託統治構想を発表.共産党機関紙「解放日報」は構想を激しく非難.

10月下旬 水豊ダムの発電設備撤去作業が開始.7台の発電設備(発電機、水車、変圧器、配電盤など)のうち3台が解体・撤去される.

10月 南朝鮮,国防準備計画に基づき、国防司令部と国防警備隊を組織.各道ごとに1個中隊が組織される.その後の拡充により,半年間に8個連隊が確保される.

10月 趙炳玉,米軍政庁の警務部長に就任.3年間にわたり民族派,共産主義者の弾圧に辣腕を発揮する.

10月 朝鮮義勇軍(金武亭司令官と朴一禹・政治委員)が安東(丹東)に到着。一部がソ連軍により武装解除されたのちに入国を許可される。ほかの部隊は満州に引き返す。ソ連は、庇護下においていた第88特別旅団に朝鮮を指導させる方針だったことから、中国共産党系の朝鮮義勇軍が武装したまま入国することを拒否した。

10月 札幌刑務所を釈放された安先浩が「朝鮮民族統一同盟」を結成。炭鉱での争議や交渉などの活動を開始する。

 

45年11月

11.01 朝鮮共産党の北朝鮮分局が中央機関紙「正路」を発刊.第一書記には平南道委員長の金鎔範が就任.人民党との合作を狙う金日成は,自ら前面に立つことなく,腹心の崔庸健を人民党副党首,金策を人民党書記長兼政治部長に送り込む.

11.03 共産党,独促を批判する声明を発表.役員からの親日派の排除を強く要求.

11.03 北部で建準の活動家を中心に朝鮮民主党が結成される.曺晩植が委員長に就任.三大綱領として、民族の独立と南北の統一、民主主義の確立を掲げ,党員はまたたくまに50万人を超える.

11.04 共産党、「ソ連軍が北朝鮮で行なったように」すべての日本の財産を没収し、予想される自由独立の朝鮮政府のために保管すべきである、と主張。

11.05 マッカーサー,マーシャル参謀総長あての書簡.「朝鮮人の第一の希望は独立政府を樹立することにある」と強調.国務省による信託統治路線を間接的に批判.カイライ政権の後見役として軍の影響力保持を狙ったもの.国務省極東部のJ.C.ヴィンセント部長は,マッカーサー提案は南北分裂の固定化と緊張激化をもたらすと批判.

11.05 15の産業、1200の組合、80万人の組合員からなる朝鮮労働組合全国評議会(全評)が結成される.共産党の指導性を公然と認める。南朝鮮における唯一の労働者組織として発展.すべての工業都市に支部(地方協議会)を結成.旧日本人経営の工場の自主管理に乗り出す.

11.07 李承晩,「人民共和国」主席の就任を拒否.共産主義批判を繰り返す一方,親日派との関係強化を図る.共産党はこれに反発し,李承晩との関係を断つ.以後,李承晩への期待は急速に消失.

11.10 済州島に第6師団第20歩兵連隊の一部隊が進駐.

11.11 「建国同盟」,軍政部の指示を受け政党として改組される.建国同盟を中心に高麗国民同盟と人民同志会などが結集し、朝鮮人民党が結成される。委員長に呂運亨が就任.「勤労大衆を中心に、朝鮮の完全独立と民主主義国家の実現をめざす」との創党宣言を発表。

11.13 米軍政庁,法令第28号により国防部、軍務局、朝鮮陸・海軍省を設立.憲兵司令官を国防長官に任命。接収した旧日本軍の装備により軍・警察の編成を急ぐ.

11.15 共産党北朝鮮分局,第二次拡大執行委員会を開催.地方の党は分局への結集を軽視する傾向.

11.19 政党登録法が南朝鮮全土で施行される。「伝統的統治形態の維持を目指す政党のみが登録を許される」(コンデ)

11.19 曺晩植らの対ソ自立を嫌うロマネンコ民政部長官,人民政治委員会とは別に北朝鮮の行政を統括するための五道行政局を発足.行政局内の保安局長には88旅団出身の崔庸健が就任.

11.20 全国人民委員会の第二回全国代表者大会が開かれる.南北朝鮮から650名の代表が出席.アーノルド長官の指示を受けた韓民党は出席を拒否し、右派諸党も途中退席。残された「政治活動統一委員会」は、「人民共和国の死守」を主張.米軍政の要求を拒否し,対決姿勢を強める.

11.20 アルバート・ウェデマイヤー、トルーマン大統領の特使として中国を視察。「我々は負け馬に賭けている可能性がある」とする。①中国東北部を支配する共産党は敗北することはありえない。②蒋介石は政権を維持できない。③アメリカは中国から全兵力を撤退させるべきである。④旧満州と朝鮮は4カ国の信託統治下におき、中立化すべきである。

11.20 日本共産党第1回全国協議会.金天海が朝鮮部代表として報告.その後共産党中央委員・朝鮮部長に指名される.当時,日本共産党員7千名弱のうち1千名が朝鮮人だったといわれる.

11.21 李承晩、反共主義をむき出しにし共産党を激しく非難。両者の対立は決定的となる。

11.23 金九主席ら,重慶の大韓民国臨時政府の首脳15名が金浦飛行場に到着。帰国歓迎の動きはなし.公職への就任は認められず.軍政内の親日派を嫌悪,人民共和国非難の呼びかけにも応ぜず.

11.23 新義州事件発生.ソ連軍の横暴・略奪行為,共産党・人民委の非人道的行為に抗議する学生3千人のデモ.警察の発砲により死者23名,負傷者700名を出す.

11.23 長安派共産党解体.一部は自己批判のうえ再建共産党に合流.李英・鄭柏らは,呂運享の勤労人民党へ合流.

11.24 金日成,新義州駅前のグラウンドで演説.流血事件は党・人民委の過ちであると認める.一方で自らの共産党への帰属を明らかにする.

11.30 全評も北朝鮮総局を創設.

11月 独立同盟の金科奉らが平壤に入る.

 

45年12月

12.01 日本共産党第4回党大会が開催される。金天海が中央委員、政治局員となり、朝鮮人部の部長に就任。副部長には金斗鎔がつく。

12.03 金奎植,金元鳳ら臨時政府左派の20名が金九らと別途に帰国.

12.03 日本系銀行が朝鮮の銀行組織に編入される。

12.07 マッカーサー、ウェデマイヤーと軍幹部を招き「極東政策全般にわたって協議」する。11月のウェデマイヤー報告にもとづき、極東安保政策の軸足を中国から日本に移す可能性が議論されたと言われる。コンデによれば、①日本のアメリカによる単独占領、②朝鮮南部に単独政府を樹立し、アメリカの大陸における基地とする、③南朝鮮は日本防衛の辺境と位置づけられる。

12.08 239の農民組合から545名の代表が集まり,全国農民組合総連盟(全農)が結成される.「人民共和国」の土地改革綱領を支持し地方での運動を展開.

12.08 軍政法令34号公布.全評の計画したストライキを禁止し,中央労働仲裁委員会を設立.委員の多くを親日派が占める.

12.08 ホッジ、統合参謀本部に報告。「アメリカの朝鮮政策は失敗した。アメリカとロシアは,朝鮮から同時に撤退して、朝鮮自身に思いのままに行動を取らせること。旧日本人財産に対して明確な政策を打ち出すこと」を上げる。

12.11 朝鮮民主青年同盟創設される.最大時同盟員は65万に達する.これとは別に青年組織の全国連合体として全国青年団体総同盟(青総)も組織される。

12.12 米軍政部,私設軍事団体に対し解散令.当時,人民委員会の傘下に朝鮮国軍準備隊が組織され,志願の隊員6万人を結集していた.また上海の臨時政府も「光復軍」を編成.ほかに政治団体は200以上に達し,そのうち30以上が暴力組織.

12.12 ホッジ司令官,米軍政庁が南朝鮮を代表する唯一の政府であるとし,人民共和国の「不法」を重ねて宣言.「“政府”として行動を企てるような組織の活動は違法行為となる」と述べる。事実上の行政単位となっていた各地の人民委員会を非合法化する.

12.16 米英ソ3国外相会議がモスクワで開かれる.10日間にわたり,旧枢軸国の占領・講和問題・極東問題を討議.

12.17 バーンズ国務長官,「朝鮮統一行政機構」構想を提案.米ソ軍司令部による統一管理を経て4カ国による信託統治に移行.5~10年後に独立朝鮮政府を樹立する計画.

12.17 朝鮮共産党北朝鮮分局,第三次拡大執行委員会を開催.金鎔範に代わり金日成を第一書記に指名.金日成は「北部朝鮮党工作の錯誤と欠点について」と題する報告.「現段階において,北朝鮮共産党の全般政治および実地活動は,あらゆる反日民主主義諸党と政治的諸団体の幅広い連合の基礎の上に,ブルジョア民主主義政権を樹立すること」と述べる.スターリン書簡とソ連民政当局の意向を反映したもの.

12.19 李承晩、ふたたび「破壊的過激主義者」と激しい共産党攻撃。共産党はこれを機に独立促成中央協議会との関係を断絶。

12.20 モロトフ外相,「朝鮮に関して」と題する提案.米国案とほぼ同内容の提案だが,臨時政府の樹立を明確にし,信託統治を最長5年に限定する点で異なる.米英はこれを支持.

12.22 朝鮮婦女総同盟(婦総)が創設される.最大時同盟員は30万に達する.

12.23 呂運享がUP記者のインタビューを受ける。「アメリカが軍政府を樹立すると知っていれば、人民共和国を創設するようなことはしなかっただろう」と述べる。また自らの思想を自由民主主義と規定。「お互いに譲歩し合い、協力し合ってこそ、朝鮮は文明化され、尊敬される国に発展できる」とする。

12.27 韓民党の事実上の機関紙「東亜日報」,一面トップに「ソ連は信託統治を主張.米国は即時独立を主張」とデマ報道.

12.28 米英ソ3国外相会議が「モスクワ宣言」を発表.臨時朝鮮民主主義政府を樹立,米ソ共同委員会が信託統治した上で,5年以内の適切な時期に総選挙を実施することとなる.

12.28 朴憲永、ひそかに平壤を訪問。信託統治案への賛成を迫られる。

12.28 李承晩派の大韓独立促成全国青年総連盟など42団体が,ソウルで緊急代表者会議を開催.「信託排撃運動に参加しないものは民族反逆者とみなす」と決議.

12.29 ソウルで金九の呼びかけにより「信託管理排撃大会」が開かれる.信託統治反対国民総動員委員会の結成を採択.共産党も代表を派遣.

12.29 金九ら臨時政府派,全国的なストライキを訴える.信託統治に反対するとともに,臨政を朝鮮政府と認めるよう要求.反対デモは反米暴動へと発展.

12.29 アーノルド長官,「私は信託統治という言葉に良くないイメージを持っている」とコメントした上で,「信託統治は朝鮮臨時政府を樹立するのを目的としている.反託運動の自制を求める」との談話を発表.

12.30 ホッジ、全軍に外出禁止令。マッカーサーは日本からの朝鮮人帰還を停止。出港間近のアーンスト号の朝鮮人乗客2500人に下船を命令。

12.30 信託統治を是認した民主党の宋鎮禹,極右分子により暗殺される.

12.30 曺晩植と朝鮮民主党,信託統治に対する反対を決議.

12.31 信託統治反対国民総動員委員会,中央委員など役員を選出.共産党からも朴憲泳ら二名が常任委員に名を連ねる.

12.31 ホッジが記者会見.「個人として,信託統治に反対の意見を持っており,朝鮮人の力でやっていくことを願っている」と述べる.このあとソウルの軍政府は、ワシントンの公式の方針に反して、事実上右派と組んで反託世論をあおる。

ホッジの本国宛報告: 行進団には民族主義と民族への忠誠といった感情が極点にまで沸き立った。信託統治反対の数千のパンフレットが行進途上で撒かれたが、デモ隊はなんら暴力沙汰を起こさずに通過した。

12月 終戦後,左翼系団体は勢力を一気に拡大.全評は160万,全農は300万,朝鮮婦女総同盟が30万,朝鮮民主青年同盟が65万人を組織.

12月 朝鮮義勇軍(延安派)の金武亭司令官が平壌に入る。

 

1946年

46年1月

1.01 ホッジ,金九の反託闘争に対し中止命令.沈黙した金九に代わり李承晩が,「信託統治はソ連の提案.讃託はソ連の手先」と歪曲宣伝し,反託運動を担う.

1.02 ソ連の強い指示を受けた朝鮮共産党,「モスクワ会談の決定を慎重に検討した結果,同協定を支持する」と発表.

1.02 共産党の説得を受けた中央人民委員会も,「目下の国際情勢および国内事情に照らしてもっとも適切な解決策である」との声明を発表.

1.02 金日成と共産党北朝鮮分局,独立同盟などが「宣言」支持を表明.北朝鮮を全朝鮮変革の「民主基地」にするという「先改革・後統一」論を展開.これに対し曺晩植は「先統一・後改革」を主張.直後の信託統治構想に対する立場と絡んで,共産党と民主党の合作は困難となる.

1.03 共産党,「モスクワ協定を支持する民衆大会」を開催.ソウルに50万人(これはちょっと眉唾)を結集.

1.03 クリスチャン・サイエンス・モニター紙、「社会党員と共産党員からなるいわゆる人民共和国派は、他のいかなるグループよりも一般大衆の支持を強く受けている」と報道。

1.03 平南人民委,曺晩植が賛託表明に反対したことから激論となる.曺晩植は人民政治委員会委員長を辞任.

1.04 軍政府、一般命令第一号を発布。すべての行政権限と決定権をソウルの軍政府司令部に集中すると宣言。地方での人民委員会の活動を締め付けることが狙いとされる。この命令で、前総督・政務総監・中枢院メンバーが公職から追放される。

1.05 ソ連占領軍司令部の幹部全員と平安南道人民政治委員会委員との間の最後の交渉が行われた。最後まで信託統治反対を貫いた曺晩植は,反託を「民主主義の敵」と位置づけるソ連軍により,高麗ホテルに連行され閉じこめられる.外部との連絡を完全に遮断され、軟禁状態となる.

1.06 朴憲永が初の外人記者との記者会見を持つ。信託統治に関し、「朝鮮人民が主権国家を建設道が開かれた」と評価。

1.06 ソ連占領軍,人民委員会委員長に康良煜(カンヤンウク)牧師を任命.金日成の母方の遠い親戚にあたる.

1.07 共産党に続き、人民共和国派も信託統治支持を表明。ソウルで6万人のデモを展開。

1.07 国鉄労組の委員長ら幹部6人が、修理工場の運営を妨害したとの容疑で逮捕され、1ヶ月以上にわたり拘束される。信託統治反対のデモに参加するよう求められたのを拒否したためとされる。

1.09 共産党の朴憲永書記、朝鮮における党員数が1万人に達したことを明らかにする。また社会主義建設の機はいまだ熟しておらず、資本主義打倒の計画は持っていないと語る。

1.09 反託学連に対抗し、在京学生行動統一促成会が結成される。

1.10 国連第1回総会がロンドンで開催.連合国51カ国が参加し,2月14日まで続く.

1.12 共産党、人民党、民主党、国民党の4党が共同声明。モスクワ会議の決定を支持し、テロ行為を非難しテロリスト集団をすべて解散させるよう要求。

1.12 モスクワのイズベスチア紙,モスクワ協定の正しさを強調.これに反対する金九・李承晩らを非難.

1.16 第一次米ソ共同委員会のための予備会談がソウルで始まる。統一政府を望む米国と,南北連邦を目指すソ連側が最初から対立.

1.20 金九の「臨時政府」を中心に,反託運動に結集する18の政党・団体が「民族統一会議」を結成。諸政党の結集を呼びかける。左翼政党は呼びかけに応じず。

1.23 スターリン,モスクワの米大使館を通じて,「反託運動の名を借りた反ソキャンペーン」に抗議.

1.23 平南人民委,拡大委員会を開催.基調報告にたった金日成が「曺晩植は反動に転落した」と弾劾.その後,曺晩植はさらに平壌刑務所に収監され,朝鮮戦争中に消息を絶つ.曺晩植に代わる民主党委員長には,金日成腹心(というより後見人)の崔庸健保安局長が就任.崔庸健の後任保安局長には朴一禹が就任.

1.23 米軍政府,朝鮮人による米軍政支持基盤が必要との認識から,非常国民会議準備会を設立.李承晩グループを組織の中心にすえる.「人民委員会は,ソ連で訓練を受けた共産主義者の指導下にある」とし,参加を拒否.

1.25 ソ連,イズベスチャ紙において「モスクワ会談の経過」と題する詳報を掲載.翌日の朝鮮日報が転載.この後反託運動は沈静化する.

1.25 アチソン国務次官,モスクワ会談で信託統治を最初に提案したのは米国であったことを認める.

1.26 信託統治賛成派のデモに5万人が結集。軍政府は、もし信託統治支持のデモが続けば「朝鮮独立の究極的達成を遅延させる恐れ」があると警告。

1.26 ソ連軍代表シュチコフ大将、ソウルでの予備会談で、米軍が右翼のデマ宣伝を放置したことを厳しく非難.会議は緊張の場面を迎える.

1.28 「民族統一会議」の呼びかけで、「非常政治会議」が開かれる。61の「政党」、文化団体や地域代表が参加。

コンデによれば、ホッジはこれを「大韓独立促成国民会」とあわせ、準公式機関として育成を図った。本国への定例報告では、「李承晩博士と金九氏は全会一致で人民の指導者に選ばれ、李博士は大統領、金九氏は副大統領となった」と述べる。

1.31 米が市場から姿を消す。軍政府は法令第5号を発令、隠匿物資摘発作戦を展開。北からの石炭が入らなくなったことから深刻な燃料不足となり、終戦後の半年で森林の35%が採伐される。

1月 ソウルの市電労働者、日本人経営者の解雇を要求してストライキ。警察当局は労働者50人を「共産主義者」として逮捕。

1月 軍政庁,南朝鮮国防警備隊を創設.日本人財産を軍政庁令により没収.日本人資産は南朝鮮全資産の8割を占めていたといわれる.東洋拓殖株式会社は「新韓公社」と改称しそのまま存続される.

1月末 全羅北道で最後まで抵抗した金提郡の人民委員会、米軍部隊と軍警察の手により解散させられる。

46年2月

2.01 独促(李承晩グループ)に,米軍政部の説得を受けた非常政治会議(金九グループ)が合流.非常国民会議を結成.

2.01 金斗鎔,「前衛」第一号に「日本における朝鮮人問題」を寄稿.祖国のブルジョア民主主義革命と日本人民解放闘争との結合を主張.

2.02 ホッジ,予備会談について報告.「米軍の撤退と全土の共産化なしには,統一についてのいかなる話合いの姿勢もソ連にはない」と述べる.

2.04 タス通信、「アメリカ軍司令部はモスクワ外相会議の諸決定に反対する反動デモを鼓吹する立場をとっている」と非難。

2.05 米ソ予備会談,15回の会談の後,成果のないまま休会に入る.臨時政府については議論なし.郵便物交換,ラジオ周波数割当,両軍司令部連絡などで限定的合意がなされるが,北に対する米の供給をアメリカが拒否したことから行き詰まる.

2.05 米軍政部,ソウルの全評本部を強制捜査.指導部11名を逮捕する.

2.08 非常国民会議が組織合同.独促を改組し大韓独立促成国民会を結成.総裁に李承晩,副総裁に金九が就任.米軍政の後押しの下,警察・右翼青年団組織が結集する.信託統治案に懐疑的な米軍政局は,反託派の動きを黙認し,左翼攻撃を奨励.

2.08 北朝鮮で,「北部朝鮮各政党,大衆団体,行政局,各道市郡人民委員会代表拡大協議会」が開かれる.金日成が「目前の朝鮮政治情勢と北朝鮮臨時人民委員会の組織問題に関する報告」をおこなう.
 

拡大協議会の決定
五道行政局を母体に臨時人民委員会を樹立する.人民政治委員会に代わって「朝鮮に統一政府が樹立されるまで」の暫定的行政府となる.金日成が政府主席に,延安帰りの金科奉(独立同盟)が副主席に選出される.幹部はほぼ全員が共産党系.ソ連は臨時人民委員会に行政権を委譲.
 

2.14 米軍政府、全国顧問会議に代わる諮問機関として非常国民会議に「大韓国民代表民主議院」の創設を委嘱。議長に李承晩,副議長に金九と金奎植を選出.
 

民主議院の背景
当初の目的は,極右勢力を孤立させ,穏健派との結びつきを強めるようもとめた国務省の要請に応えたもの.しかし軍政庁の任命した28名の最高政務委員中,24名が右派で,左派は4名にとどまる.
軍政庁は「民主主義臨時政府の樹立を任務とし,米軍政と協議する朝鮮人代表機関」と主張するが,穏健左派・中道勢力と連立できず.呂運亨も最高委員に選ばれるが辞退.ソ連軍は,議員のほとんどがモスクワ協定反対派であることに強く反発.

2.15 朝鮮共産党北部朝鮮分局第4次拡大執行委員会.金日成が「先改革・後統一」論を定式化.「北朝鮮人民委員会は,わが党の指導する政権である」と述べる.分局の指導を拒み続けた呉ら咸鏡南道党委員会グループは、「宗派分子」として公式に批判される。

2.15 赤軍の管理下に北朝鮮中央銀行が設立される。北朝鮮の商品がインフレを続ける南朝鮮に流れていくのを防ぐため、通貨管理体制を敷く。

2.15 ソウルで民主議院に対抗して朝鮮民主主義民族戦線の結成大会.480名の代議員が参加.議長団に呂運亨,許憲,朴憲泳,金元鳳,白南雲を選出.大会事務局長には共産党の李康国が選出される.

朝鮮民主主義民族戦線(民戦)
右翼の攻撃に直面した中道・左翼が,民主議院の創設に対抗して結成.呂運亨の人民党と共産党などが,信託統治に対する意見の違いを保留し手を結ぶ.これに長安派共産党(崔益翰,鄭栢ら),民族革命党(金元鳳ら),新民党の延安派(韓斌・白南雲ら)が加わる.これに加えて
全評(朝鮮労働組合全国評議会)、全農(全国農民組合総連盟)など左翼、中道派を網羅する29個の団体が結集。実体としては人民共和国の後継であるが,共産党の影響力がさらに増大.

2.15 日本の朝連も民戦結成大会に参加.金天海,金斗鎔らの日本共産党幹部も中央議員に選出される.

2.16 民戦大会,朝鮮民族の唯一の正式代表を自認.モスクワ協定を支持し,米ソ共同委員会に積極参加する方針を確認.北で人民委員会に行政権が委譲されたのを受け,南でも臨時政府を組織するうえで同様の措置をとるよう米軍にもとめる.

2.16 華北朝鮮独立同盟の金科奉ら,朝鮮新民党を結成.延安派と呼ばれる.一般兵士はそのまま満州に残り国共内戦に参加.

2.20 合同委員会に臨むアメリカ代表団が、基本的態度に関する声明を発表。

目的に関する声明: 「南朝鮮におけるアメリカの政策は、すべてのグループが、何の検閲も制限もなしに、自らの政党を結成し会合を持ち、自らの思想・哲学を宣伝することを許可することである。これらの自由は、アメリカの民主主義思想において基礎的なものである」と述べる。ただし「たとえどれほど声が大きく、良く組織されていようとも、どれほど精力的に政府活動をやろうとも少数派による朝鮮支配は阻止されなければならない」とする。

2.23 軍政府、法令第55号を発令。党員すべての署名・捺印を添えたリストの提出を義務付けるなど、「包括的な政党規制」が強制される。

2.23 北朝鮮臨時人民委員会、20項目からなる政綱を発表。

2.24 北朝鮮民主党第一回大会,金日成腹心の崔庸健が委員長に就任.民主党の右傾化を防ぎ,党員の共産党への移籍を促進.

2.27 朝連第二回臨時大会.信託統治反対を叫ぶ右派民族派が分裂.残った主流派は,信託統治案の支持を決議.

2月 地主層による米の買占めと投機.物価は終戦後の半年で10倍に高騰.日本からの帰国者を含め100万人の失業者が町に溢れる.軍政部は米の供出制度と配給制度を復活.供出強制を旧警察にゆだねたことから,親日派が息を吹き返す.

2月 北朝鮮独自の士官養成を目指す「平壌学院」が設置される。6月には中央保安幹部学校が設置される。中央保安幹部学校の下に、第一=平安南道价川、第二=咸鏡北道羅南、第三=平壌(のち元山)の3「訓練所」が設置され、後の「師団」の母体となる。

2月 通化事件が発生。満州の朝鮮人居住地区で旧日本軍と日本人市民が国民党軍とともに暴動。八路軍の鎮圧行動で、2千人の日本人が虐殺される。(2千人という数には? ただし朝鮮系八路軍は気が荒いことはたしかでしょう)

ある証言: 終戦前から通化に駐屯していた関東軍で参謀長をしていた藤田実彦大佐という人物が存在しました。彼が国民党と図り、通化の街を奪回しようと、旧日本軍将兵を中心に、血気盛んな若者たちを400名ほどを募って、武器になりそうなものなら何でも集めて、八路軍司令部を襲うという事件でした。この反乱は失敗に終わったのでした。なぜなら、情報が漏れていて、八路軍の待ち伏せ攻撃に遭い、攻撃をしかけた方は大敗北を喫したのです。その後、周囲のどの家でも、老人に至るまで皆連行されたのです。連行された人々は狭い家にギュウギュウ詰めにされ、取調べの結果、疑いのある人は全員銃殺されたのです。「少年は見た通化事件の真実」佐藤和明

46年3月

3.01 釜山で労働組合が独立運動記念式典。武装集団が群衆を襲撃。現場に到着した警察は組合員200人を逮捕するが、暴力集団はそのまま放置される。近郊の安東町でも、農民1千名のデモに対し、地主の雇った暴力団が襲撃。

3.02 合同委員会が開かれる。ソ連代表のシュティコフは「将来朝鮮がソ連と友好的な民主国家になること、ソ連に対する攻撃基地にならないよう望む」と挨拶。

3.01 平壌駅前で「3.1記念式典」が開かれる.演説中の金日成に手投げ弾が投げつけられる.上海臨時政府系の申翼煕(シンイツキ)が組織した「白衣社」の行動隊によるもの.時を同じくして,崔庸健と金策,康良煜の自宅にも一連の爆弾テロ.

3.05 北朝鮮臨時人民委員会,5町歩以上の土地を無償接収する土地改革法令を発布.①旧日本人所有地、②親日派の土地、③逃亡地主の土地を中心に100万町歩が接収され,小作70万戸に無償分配されることとなる.農家の土地所有面積は0.2町歩から2町歩に拡大.その後の2年間で農業生産は飛躍的に拡大し,総生産量・反収ともに戦前の最高水準を突破.

3.05 チャーチル,訪問先のアメリカで「鉄のカーテン」演説.反共連合の必要性を力説.スターリンはチャーチル演説を対ソ戦争を挑発する行為と非難.

3.07 北朝鮮で,親日派・民族反逆者の規定が制定され,人民裁判で社会的地位剥奪,財産没収.ソ連型社会を嫌う民衆は,ソ連の警備をかいくぐり,毎日5千~6千人が南に避難.

3.18 民主議院,過渡政府樹立を目標とする「臨時政策大綱」を発表.親日派への対処や,農地改革に関してはあいまいなまま.

3.20 第一次米ソ共同委員会が開催される.臨時政府樹立に向けて占領軍と協議する「朝鮮の民主的政党および社会団体」の定義をめぐり議論となる。

3.23 北朝鮮臨時人民委員会,親日派一掃と重要産業国有化,8時間労働制,教育改革などを柱とする「20か条政綱」を決定.

3.29 米ソ共同委員会,第三号声明を発表。朝鮮共産党中央委員会は、「民主主義的臨時政府の創設で両国が合意した」と評価。

3.30 米ソ共同委員会,朝鮮半島の38度線は当面維持されるとの中間報告.

3.31 北朝鮮で土地改革が完了.農民の生産意欲が上昇.1949年までに穀物が39%,綿花・繭・豚が3倍,牛が1.6倍に増える.

3月上旬 コンデによれば、世論調査分析担当官は、軍政府支持率が最低に落ち込んだと報告。

3月 右派労働組合が「大韓独立促成労働総連盟」(大韓労総)を結成,全評に対抗.

46年4月

4.05 朴憲永が放送演説。「三千万同胞は政府樹立にあらゆる力を集中させよう」と呼びかける。

4.06 軍政府の発表によれば、「李承晩暗殺計画」が発覚。7人が武器の不法所持で逮捕される。首謀者2人は逃亡。

4.07 AP通信,米占領軍当局が南部朝鮮に限った朝鮮政府の樹立に着手したと配信.国務省はこの報道に関し,「軍政当局の単独の計画であれば預かり知るところではない」とコメント.

4.09 米ソ共同委員会,協議対象団体の範囲・資格をめぐり紛糾.ソ連はモスクワ宣言を支持するものだけを臨時政府への参加対象とするよう主張.アメリカは言論の自由に反するとしてこれに反対.共同声明第五号では、各種団体に「モスクワ宣言の目的を支持し協力することを求める」と表現される。

4.09 共産党、「共同声明は朝鮮民族の栄光であり、感激にたえない」と最大級の賛辞を贈る。

4.10 朝鮮共産党北部朝鮮分局第6次拡大執行委員会.金日成は,「北朝鮮臨時人民委員会が統一臨時政府の核心とならなければならない」と述べる.

4.11 呂運享が記者会見、「新政府は朝鮮人によって支配されねばならない。そこには親日分子、テロ分子、商人をふくんではならない」と語る。

4.11 金九、大韓独立労働総同盟の結成を発表。「工場労働者200万」を代表すると豪語。

4.17 朝鮮共産党が創立21周年記念集会を開催。集会には5千人が参加し、軍政府代表も列席する。集会では合同委員会のソ連代表シュティコフのメッセージが披露される。

4.18 米ソ共同委員会,「臨時朝鮮政府の創設を助けるため,諸政党・団体と協議する」という第5号共同コミュニケを発表.モスクワ協定に対する協力を約束した個人・団体のみを協議対象とする.右派の中でも金九,李承晩らの独立党は協議をボイコット.

4.18 共産党緊急中央委員会、第五号共同声明を支持する宣言書を採択。

4.21 民戦中央委員会、臨時政府の樹立について集中討議。人民委員会が人民政権の唯一の形態であると決議。

4.27 ホッジ司令官,特別談話を発表.「(第五号コミュニケに定められた)宣言書に署名しても,信託統治に賛成したことにはならない」と述べ,反託派の参加を促す.

4月 法令第68号が公布される。すべての映画や演劇が検閲制となる。

46年5月

5.01 朝鮮の政党・社会団体に設問する項目を決定した共同声明第7号が発表される。共産党は「米ソ両国の援助と誠意に感謝する」との談話を発表。臨時政府の指導者として朴憲永、呂運亨、許憲、金科奉を推薦。李承晩、金九、安在鴻、金性洙らを右翼反信託派と攻撃する。

5.01 最初のメーデー祭典。ソウルで1万人、大邱で6千人が参加。

5.01 韓民党と民主議院は,共同委に参加しても反託は主張できるとするホッジの説得を受け入れ,協議に参加の意向を表明.

5.04 精版社偽札事件が発生.解放日報(朝鮮共産党機関紙)を印刷する精版社の印刷工金昌善が偽札づくりに関与したとして検挙される.

精版社: 日本統治時代に朝鮮銀行券を印刷していた近澤印刷の後身で、紙幣偽造にはこの時の原版が使われたとされる。解放後は朝鮮共産党が本部として使用。機関紙「解放日報」の編集部などもおかれていた。

5.06 ソ連は米軍トップの共同声明歪曲に抗議.協定反対の団体を排除するよう要求.アメリカ代表団は、この提案が「政党に対する専断的追放に等しく、民主的な活動についてのアメリカの概念と相容れない」と反論。

5.08 第24回会談。交渉は決裂し無期休会となる.スチコフ代表はソウルを離れる。

5.08 警察当局,共産党中央本部のある精版社ビルに強制捜査.精版社社長の朴洛鐘、同庶務課長・宋彦弼ら共産党員14人を逮捕したほか、朝鮮共産党財政部長の李觀述、党中央委員で「解放日報」主幹の權五稷の幹部2人を手配する。

5.08 朝鮮共産党、「事件と共産党を関連づけるのは意図的な捏造」との声明を発表。①李觀述、權五稷の2人は事件に無関係、②検挙された精版社職員14人は党員でない、とする。

5.10 米政府,国務省と陸・海軍の担当者会議を開き,新たな朝鮮政策を提示.

新朝鮮政策の要旨  米ソ共同委員会の再開を目指す立場から,米軍政そのものが朝鮮人の不平・不満の対象となっていると批判.民主議院の失敗に学び,可能な限り広範な人々を行政へ参加させるよう指示.さらに金九・李承晩に対し,「朝鮮の民主主義の建設にも米国の政策目標の実現にも役に立たない.彼らの振る舞いが米ソ共同委員会を紛糾させた」と断罪.「一時的に政治の場から退場させる」よう指示. 

5.12 ソウル競技場で反託派の政治集会。李承晩、「朝鮮の独立を速やかに実現する勢力の結集」を呼びかける。集会後参加者は、共産党本部や左翼系新聞三社を襲撃。逮捕者はなし。

5.14 軍政府、布告第72号を公布。占領軍に逆らう犯罪として82の行為をあげ、あらゆる抵抗運動を根こそぎ弾圧。82の行為の内容は公表されず、当局の恣意にゆだねられる。

コンデによれば、GIを自分の家に招くことや占領軍当局に何らかの提議をすることも違法とされる。軍政府に敵対的だとみなされると、言葉を口にし、身振りで示し、歌を歌い、音楽を演奏し、劇を上演し、もしくは絵画、旗、またはプラカードを掲示するだけで禁固2年に処せられる。

5.15 米軍政庁は国内親共派への弾圧を強化.解放日報に対し停刊処分.

5.15 右翼三政党が統一のアピールを発表。

5.15 米軍政庁、朝鮮製版社による「偽札印刷疑惑」の真相を発表。これによると、党員で印刷工場の労働者だった金昌善ら七人が、李觀述、權五稷の指示をうけ、1945年10月から46年2月にかけて、精版社ビルの地下印刷場で6回にわたり100ウォン券を偽造した疑い。額面上の総額は1200万ウォンに達する。

5.18 米軍政庁、精版社ビルを閉鎖。朝鮮共産党機関紙「解放日報」は無期停刊(事実上の廃刊)となる。朝鮮共産党は「解放軍」規定を破棄し、反米・反軍政路線へと転換。

5月中旬 レオナード・バーチ中尉がホッジの政治顧問として着任.国務省の新政策にもとづき,中間派を中心とする親米的政権の樹立をめざし活動を開始.

5.25 バーチの立会いの下で,金奎植(民主議院副議長)と呂運亨(勤労人民党党首)が非公式に接触.

5月 米大統領賠償問題特別補佐官のエドウィン・ポーレイが朝鮮を視察。「朝鮮はアジアにおいてアメリカのすべての成功がかかっている思想戦の舞台になるだろう」と報告。

5月 慶南地方を襲った激しい豪雨のために,交通は麻痺状態となる。コレラが流行し全国で1万5,644名が罹病,その中1万181名が死亡した。

5月 米軍政府、「38度線の無許可越境を禁止する政令」を公布。7月には「北部への船舶の航行を禁止する政令」を公布。

5月 北朝鮮臨時人民委員会,労働法を制定,労働組合活動を合法化.

1946年6月

6.03 李承晩,全羅北道井邑(チョンウブ)で演説.北朝鮮臨時人民委員会に対抗する臨時政府を南にも作るべきと主張.さらに,38度線以北からソ連が撤退するよう,世界の公論に訴えねばならないと発言.

6.03 プラウダ紙,「朝鮮が真に民主主義的国家になることは,ソ連にとって死活的利害を持っている.即時独立を認めれば,大地主と大資本家の後援を受けた政治的冒険家が主権を握ることは明白である.南朝鮮に反動勢力がいる限り,朝鮮にはすぐに独立を与えることはない」と述べる.

6.04 米軍政部も李承晩発言に対し反対の立場を表明。

6.10 民戦、ソウル運動場で「共同委員会続開をもとめる市民大会」を開催。単独政府樹立の策謀を人民の力で粉砕しようと呼びかける。

6.11 呂運享が記者会見.「真の統一は左右の完全合作で樹立されるだろう.右派全体が非民主的なのではなく,その封建的・ファッショ的部分が問題だ」と述べる.

6.14 左右合作の会談.バーチの立会いの下で右派の金奎植・元世勲,左派の呂運享・許憲が参加.基本原則について大筋の合意に達する.①ブルジョア民主主義体制と不偏不党の善隣外交,②相互排撃と中傷の停止,③北朝鮮の共産党一党独裁を排し,言論・集会・思想の自由を実現したのち統一が可能となること.

6.18 朴憲永、共同委員会分裂がアメリカ側にあったとして非難。初めて反米の態度を示唆する。

6.22 光復軍の李範錫らが朝鮮に戻る。

6.24 呂運亨,金奎植,許憲らが左右合作のための会談を開始することで合意.

6.24 ソ連、ソウル駐在の領事館を撤去。事実上、南北分離の方向を明らかにする。朴憲永は「モスクワ宣言は国際公約であり、連合国の共通綱領である」と主張。共同委員会の再開を求める。

6.24 北朝鮮,「労働者の民主的自由と権利を全面的に保障する労働法令」を施行.その他8時間労働制,有給休暇・産休・社会保険などが相次いで制定される.

6.27 朴憲永、ひそかに北に入る。7月初め、朴憲永と金日成が連れだってモスクワを訪れ、スターリンの指示を受けたと言われる。このときスターリンは金日成を朝鮮革命の指導者であると示唆したという。(徐容奎証言)

6.28 馬山で人委・民戦・労協・婦女同盟・『人民解放報』総局など7つの団体が右翼団体によって襲撃される。

6.30 バーチの働きかけを受けたホッジ,「両氏の努力を全面的に評価し,左右合作を全面的に支持する」との特別声明.共産党抜きの権力体制作りを強化する。

6月 朝鮮労働党北朝鮮分局,北朝鮮共産党に改称.

46年7月

7.06 公安当局、精版社事件の主犯として李觀述を検挙。權五稷は北朝鮮に逃げる。

7.06 AP電、アーチャー・ラーチ軍政長官が「朝鮮人が完全な自由を回復する」ための機構を南朝鮮に設立するために動いていると報道。

7.10 朝鮮共産党,「喜んで合作運動に参加したい」との談話を発表.その条件として親日派排除,テロの停止,モスクワ協定の「総体的」支持をあげる.この後,朴憲永は平壤を訪問.訪問中に,左右合作反対と左翼総結集路線に転換.

7.12 国府軍50万人が,満州中国人民解放軍への攻撃を開始.全面内戦が始まる.

7.15 三つの共産党系の新聞社に一斉捜索。発刊を禁止。共産党指導者を大量検挙。

7.17 北朝鮮のソ連軍、38度線を遮断。

7.20 金日成,モスクワを訪問.スターリンは金日成を最高指導者に指名.(この項,不確実)

7.22 北朝鮮で北朝鮮民主主義民族戦線(北民戦)が結成される.

7.22 左右合作委員会の第一回会談が開かれる.右翼から金奎植,元世勲,安在鴻ら五名,左翼から呂運亨(朝鮮人民党),許憲(中央人民委員会),金元鳳(民族革命党),李康国(共産党)ら五名が参加.「左右合作7原則」を元に共通の政綱作成をめざす.

7.25 左右合作委員会、「基本原則」で合意。①モスクワ宣言の全面支持、合同委員会の再開、②農地改革、大工業の国有化、③反動分子の追放と民主的愛国者の釈放などを掲げる。

7.27 共産党の朴憲永書記長,米軍政主導の左右合作に反対し,民戦合作5原則を打ち出す.内容としては,①土地改革と重要産業の国有化,②親日派・民族反逆者,反動巨頭(李承晩・金九ら)の完全排除,③人民委員会政権の正統性承認など.

7.29 右派,共産党に対抗して8原則の提案.信託統治,親日派処罰問題は後回しし,臨時政府樹立を優先するよう主張.両者の対立により第二回会談は延期される.

7.29 精版社事件の裁判が始まる。デッチアゲを非難する4千人の抗議集会。

7.30 北朝鮮で女性を社会的に解放する男女平等権法令.

7月 米軍政部,合作運動を支持するポーズをとりながら,一方で米軍政の「朝鮮人化」構想の実現を図り,民主議院の改編・強化を狙う. 親日派が主流を占める韓民党は左右合作に反対し,李承晩を推戴.

46年8月

8.02 木浦近くのハイ島で農民暴動が発生。警察署と新韓公社(東洋拓殖の後身)の建物が焼き討ちされる。派遣された米軍将校が米の配給量を増やし、警察の蛮行を抑えたことから問題は解決。

8.09 北朝鮮,公民証の保持を義務付ける.

8.10 北朝鮮、主要産業の国有化を実施。臨時人民委員会は,「産業、交通運輸、逓信、銀行などの国有化にかんする法令」を公布.日本などの所有していたすべての工場、鉱山、発電所、鉄道運輸、逓信、銀行、商業および文化機関などを国有化.全産業の90%以上に及ぶ1,000余の産業施設が国家的・全人民的所有となる.以後,工業生産高は急増.三年間で三倍に達する.

8.15 解放一周年。ソウルでは15万人のパレ ードが繰り広げられる。慶州では民主民族戦線の式典に対し米軍が解散を命令。数千人の参加者に発砲し死者1人、負傷者70名を出す。

8.15 和順炭鉱の労働者千人が政治囚の釈放を要求し光州まで行進。米軍は光州への進入を武力で阻止。康津では農民が警察に抗議行動、二人が殺され数人が怪我。慶尚北道ではタバコ専売局の労働者のストライキ。40人が逮捕される。

8.23 朝鮮労働組合全国評議会の集会に2万人が結集。米軍はこれに介入を図るが追い返される。米国務省は「朝鮮共産党の背後にロシアがいる」とし、「米軍は、朝鮮が代議制の暫定政府を持つまでそこにとどまる」と述べる。

8.24 米軍政部,過渡立法議院の選挙を発表.官選45,民選45の90名より構成し,臨時政府樹立までの立法機関と説明するが,事実上,南朝鮮だけの独立政府樹立を模索するもの.

8.24 朴憲永、雑誌「建国」に「合党工作促進のために」と題する論文を発表。「新戦術」を提起する。

8.28 共産党北朝鮮分局と新民党(延安派)が合同大会を開催。北朝鮮労働党結成.事実上の別党・別政府構想が承認され、南朝鮮の民主化を目指す「民主基地論」が定式化される。北朝鮮はブルジョア民主主義革命、資産性革命の段階として位置づけられる。委員長に新民党委員長金科奉が就任.金日成は副委員長となる.(一説に7.28)

8.28 馬山の1,000余名の帰還同胞が、市庁舎を包囲し抗議行動。警察はこれを実力排除する。

8.31 右翼新聞「朝鮮日報」」が軍政部を非難する社説を掲載。「軍政に成果があったとは認められない。失敗の原因は貴国の朝鮮に対する理解の欠如、通訳行政、不用意な自由経済の許可、動揺的な政策にある。これは中傷ではなく真実である」

8月 南で北朝鮮労働党に呼応して共産党,人民党,新民党が合体の動き.しかし合党については共産党の中でも抵抗が強く、党大会の開催を要求する大会派と、朴憲永ら「幹部派」の対立が明らかになる。

8月 このころ全評の組織人員は58万に達し,ピークを迎える.同じ時期全農は330万人に達する.

8月 済州島が全羅南道の郡から独立した州へ昇格。これに伴い警察機構の改編、第9連隊の創設・配備などが進む。

8月 「解放1周年」を記念して、北朝鮮人民委員会内に保安訓練大隊部と保安幹部訓練所が創設される。7千~8千規模といわれ、朝鮮人民軍の前身となる。

46年9月 鉄道スト

9.06 軍政庁,「駐留米軍の安全を危うくした」という理由で、左派系新聞三紙を弾圧。停刊命令を発すると同時に社屋を占拠.編集長や多数の社員を逮捕。「中央新聞」の編集主幹は、「さまざまな扇動的記事」を掲載したという理由で重労働18年の刑を受ける。

9.06 共産党に対する一斉逮捕作戦.朴憲永,李康国,李舟河にも逮捕状.

9.07 李舟河が逮捕される。指導者の多くは地下に潜る.

9.08 仁川の鉄道修理工場と24の工場で労働者が職場を放棄。ゼネストのさきがけとなる。

9.09 地下の朴憲永、全党にゼネストへの取り組みを指令。

9.10 軍政当局、労働運動への一斉摘発。指導者50人を逮捕。

9.13 鉄道局ソウル工場従業員大会.日給制導入と人員の25%削減に反対,食糧配給増加をもとめサボタージュ闘争に入ることを決議.

9.23 釜山で鉄道労働者8千人がスト入り.ソウルの鉄道労働者もただちに呼応.さらに仁川、全州、大邱にも広がる。

9.24 全国鉄道ストライキに4万人が参加.南朝鮮全域の鉄道輸送がマヒする.ソウル市内の路面電車も同情ストに入る。

9.24 全評,南朝鮮ゼネストを指示.ゼネスト闘争委員会を結成.「米よこせ、テロ反対、民主主義的愛国者に対する指名手配の解除」をもとめる。数日内に印刷工,電気労働者,電報局・郵便局従業員,海員その他も決起.南朝鮮全体で25万以上が参加する全国的なゼネストに発展.

9.29 この日までに釜山、仁川、全州の鉄道ストライキは敗北。ソウルと大邱の鉄道労働者だけがストを続ける。

9.30 労働者が立てこもる龍山鉄道操車場の鉄道スト団本部を、3000名の警官,数千名の右翼団体が襲撃.争議団幹部16名,組合員1200名を検挙する.この衝突で2名が死亡.

9.30 仁川で5つの工場がストライキに入る。

9月 下院軍事委員会のシェリダン副委員長が朝鮮を視察。「ホッジ将軍はそのポストから解任すべきである」と勧告。

 


46年10月 「10月抗争」

10.01 大邱駅前で学生と労働者が合同集会。生鉄道・郵便などゼネストに参加する労働者数千名(一説に1万5千人)が参加し、活条件の改善と警察の横暴糾弾を訴える。このあと女性を先頭に立て、千名の米よこせデモ.このデモに警官隊が突入、学生ら3人を射殺する。

10.01夜 学生殺害に怒る自然発生的暴動が市内南部で発生。右翼や自治体役員の住宅が焼き討ちされる。

10.02朝 労働者・学生が,遺体を先頭に抗議デモ.群集の一部が警察を占拠.市内各所で衝突が同時多発し,無政府状態となる.38名の死者を含め,左右双方で千名を越える死傷者.

10.02 3:00pm 米軍は非常警戒令を発令。戦車と装甲車を市内に繰り出し鎮圧にあたる.解散させられた群集は別の警察署や警官の住宅を襲う。多くの警官が殴り殺される。

その夜、米軍パトロールが暗い通りや空き地で警官の死体を捜し始めた。ある公園に7人が倒されていて、うち二人はまだ息があった。7人とも四肢を切断されていた。数人は睾丸を抜かれていた(コンデによる)

10.02 仁川鉄道操業場に警察部隊が突入.このあと鉄道ストは急速に終焉に向かう.

10.02夜 倭館と金泉を結ぶ鉄橋が爆破される。永川では数万人の参加するデモ。

10.03 警官隊の援軍1100人が市内に入る。残虐な報復行動が行なわれる。教師や弁護士、労働・農民運動や人民党の指導者がことごとく捕えられ拷問を受ける。

10.03 大邱の暴動が慶北道全域に拡大.22郡中19郡で合計32万名が蜂起,農民の「秋収暴動」も同時に発生。官庁・警察署等を破壊・占拠.

10.03 慶州でも警察署4箇所が同時攻撃される。高霊郡では警察官が襲撃され6人が死亡、17人が重傷を負う。警察官の自宅107軒が破壊される。

10.04 ホッジ、戒厳令を布告。ストライキに参加する労働者をことごとく拘留。1300人が逮捕され、16人が軍事法廷で死刑判決を受ける。

10.05 漣川で住民の暴動。1万人の群集が駅を襲撃・占拠。その後警察署を攻撃。59人の警官が殺され、60人が負傷。

10.07 暴動は慶北から慶南道に波及.穀物の強制供出に抗議する農民や、不十分な配給に不満の声を上げる都市住民も、労働者の闘争に加わる。12月まで南朝鮮すべての地方に暴動が拡大する.

10.06 馬山で民戦系の率いる民衆抗争。1,500名の群衆が警察を包囲。警察の実力行使により4名が死亡。港湾労働者はスト入りを通告。

10.07 馬山市内の4ヶ所で同時に集会を開催。一部が城南洞の派出所を攻撃し、8丁の小銃と200余発の弾薬を奪う。6,000名に膨れ上がった群集に戦車の米兵が発砲。12名が死亡し,20余名が負傷する。

10.12 鉄道ゼネストが終結。ホッジは賃上げと食料増配などの要求を受諾する。

10.14 晋州で群衆と警察が衝突。10名が死亡。

10.17 馬山で約千名の群集が再び城南洞の派出所を襲う。右翼青年団が警察とともに対抗。右翼は米軍政の庇護を受け暴力支配を拡大する。

10.21 開城で民衆が警官を襲撃。派出所に放火し警官五人を殺害。張沢相ソウル首都警察長官の家には20発の弾丸が打ち込まれ、国家警察長官趙炳玉の家には手榴弾が投げ込まれる。

10.31 羅州で群衆とアメリカ軍・警察が衝突。アメリカは飛行機を動員し暴動を鎮圧。10名が死亡。

11.04 羅南の和順炭鉱でストライキが発生。鉱夫2千人とアメリカ軍が衝突。アメリカは炭鉱を閉鎖し、国防警備隊を投入。


 

46年10月(再掲)

10.03 在日朝鮮人保守派が,在日朝鮮人連盟(朝連)に対抗して在日本朝鮮居留民団(民団)を結成.

10.07 合作委員会の呂運亨と金奎植,左右合作7原則を提示.①信託統治は直接問題とせず,②漸進的な土地改革,③親日派・民族反逆者の処断は厳格に行うとする.金九系を含め比較的広範な支持を得るが,共産党は機会主義的方針と批判.

10.10 ホッジ、合作委員会の原則は「彼らの自薦したものであって、立法機関の決議や行動の自由を束縛したり禁止したりするものではない」と述べる。

10.11 ソウルのソ連代表団が引き揚げる.ソ連軍司令官,ホッジあての書簡で交渉の中断を通告.政治トップのレベルで新たな決定がなされない限り,軍政レベルではいかなる交渉もありえないとする.

10.13 李範錫ら、朝鮮民族青年党を結成。

10.15 呂運亨の人民党に新民党と共産党の反主流派(姜進ら労働者派)が加わり,社会労働党結成.呂運享が党首に就任。(10月21日から11月23日にかけての合同の動きには異説がある)

10.24 布告第118号が公布される。立法議院の創設を認可する。議員の半数が選挙で選ばれ、半数が軍政府により指名される。南朝鮮労働党の許憲は「民主的愛国的指導者がすべて投獄され、反動的な弾圧が行なわれている以上、現状の下では民主的な選挙は施行されえない」と批判。

10.26 朴憲永,7原則を厳しく批判.「問題は反動か進歩か,独立か隷属化かであり,中間路線の存在は許されない」と宣言.人民党の切り崩し工作を本格化.

10.26 過渡立法議会選挙が実施される.民選議員は総督府時代の選挙法に則り,多額納税者と地主のみに投票権.共産党は選挙をボイコット.呂運亨は落選.多くの朝鮮人は選挙の存在そのものさえ知らずに終わる.ホッジの指名した官選議員は,左右のバランスをとるため左右合作派中心に選ばれる.済州島人民委員会は選挙に参加.全国で唯一の人民委出身議員を送り出す.

10.26 駐韓米軍司令部情報参謀部、「ゼネストには、9月に予定されていた党大会で、非主流派をけん制しようと狙った朴憲永の判断も含まれていた」と報告。

10.30 第一回国連総会開催.国連監視下に全朝鮮の総選挙を行い,その結果に基づいて統一政府を樹立すると決定.大筋で米国側の主張に沿ったもの.

10月 指導部の弾圧で力を失った人民委員会の統制は及ばなくなり,各地方で暴動鎮圧後に大弾圧をこうむる.朴憲泳書記長,1ヶ月の国内潜伏ののち北に逃れる.国境付近の黄海南道の海州に指導部を置き南部の闘争を指導。

46年11月

11月初め ソウルと京畿道、全羅南道に暴動が拡大。

11.03 北朝鮮で道,市,郡の人民委員会代表委員の一斉選挙を実施.

11.04 金奎植、ホッジ宛の書簡で李承晩一派を「目に余るペテン師、テロリスト」と非難。選挙結果を無効にするよう要求。

11.13 国連総会,朝鮮の統一政府樹立後,米ソ両軍を撤退させるとの方針を採択.

11月 この時点で韓国全体の失業者は約110万人に達する。

11月 精版社事件の主犯とされた李觀述被告、無期懲役の宣告を受ける。

11.23 新民党と共産党が合併.南朝鮮労働党を結成.委員長に許憲が就任。人民党反主流派を加え,党員数は60万まで拡大.左右合作を拒否し,実力闘争路線に傾く.このときをピークに左翼勢力は急速に衰退.(コンデはこのとき共産、人民、新民の三党が合同したと記載している)

46年12月

12月 全羅北道と忠清南道で暴動が発生。ここまでに全国で100万人を超える群集がデモや警察・右翼に対する襲撃に加わる。

12.02 李承晩,アメリカ各地を巡演し,南単独の臨時政府樹立を訴える.

12.04 呂運享,左右合作を断念する談話を発表.社会労働党は事実上崩壊.呂運亨はあらたに勤労人民党を組織.

12.12 南朝鮮に過渡立法院が設置される.民選45人,官選45人の議員より構成される.議長には軍政庁の支持を受けた金奎植が就任.初代の朝鮮人民政長官には安在鴻が選ばれる.これを機に,合作委は事実上解消.

12.12 マッカーサー、過渡立法院に「南朝鮮が民主的自治の確立途上で最大の一歩前進を行なった」とのメッセージを送る。

12.12 金九は単独政府樹立を訴える李承晩と断絶.南北の統一政府の実現を目指す.金奎植と連絡をとりながら,北との接触を模索.

12.15 GHQ,日本にいる朝鮮人の帰還計画を終了.

12.20 フランス軍、ホー・チ・ミン政権との暫定協定を破棄してハノイを占領.ホー・チ・ミン主席は対仏徹底抗戦を宣言.第1次インドシナ戦争に突入する。  

 

1947年

47年1月

1.09 過渡立法院,「附日協力者、民族反逆者、戦犯、奸商輩に対する特別法律」(反民法)に関する法令起草委員会を発足させる.

1.15 南朝鮮の過渡立法院,朝鮮信託統治反対を決議.

1.18 南朝鮮各地に反信託統治デモ広がる.ソウルに非常警戒軍政法令発布.

1.20 立法議院、信託統治に反対の立場からホッジ非難決議を採択。ホッジはこの決議を軍政府に対する反乱であると非難。ラーチは、信託統治の是非は立法議院の権限を越えている。立法議員は選挙法、農地法などの議論を早急に開始するべきだと反論。

47年2月

2.11 公民証制度が施行される。左翼への弾圧がいっそう強化される。

2.17 北朝鮮で道・市・郡の人民委員会大会が開催される.「朝鮮に民主主義臨時政府が樹立されるまで人民政権の最高機関」となる北朝鮮人民会議の創設を決議.その代議委員を選出.

2.22 第一次北朝鮮人民会議が開催される.行政府にあたる臨時人民委員会を北朝鮮人民委員会に改組.委員長に金日成,副委員長に金策(パルチザン以来の金日成の同志)と朝鮮民主党の洪箕疇が就任.

2月 北朝鮮で経済計画(単年度)に基づく経済運営が始まる。金日成は「重要産業の国有化により、人民経済を計画的に管理する条件が作られた。経済の植民地的性格を克服し自立・発展させる」と述べる。

2月 立法議院で選出された安在鴻民政長官が執務を開始.ただし実権なし.

47年3月

3.01 「三・一節」28周年記念式典.左右両派が分かれて行う。南大門の前で両勢力が衝突。

3.01 「三・一節」式典.済州島では人口の1/3にあたる10万人が参加.州都済州では観徳亭前の集会に2万名が参加.集会後のデモに警察が発砲,6人が殺される.

3.10 済州島で市民虐殺に抗議するゼネスト.官公庁、学校、企業、交通・通信機関など160の機関・団体あわせて4万人が参加.米占領軍は島の人口の大半が共産党と報告。

3月 済州島のゼネストに危機感を抱いた趙炳玉警務局長は,済州島を「アカの島」と呼び弾圧。島民2千人が検挙され、警官66人が罷免される。これに代わり400名の保安部隊と西北青年会を本土から派遣し、白色テロにより大衆運動の押さえ込みを計る.

西北青年会の悪行: 西北青年会は、略称を西青(ソチョン)といい、北朝鮮からの亡命者からなる右翼団体。「赤狩り」を名目に、ゆすり・婦女暴行など非道の限りを尽くす。拷問により殺された島民が3人。警察を恐れる島民は漢拏山に避難.

3.12 トルーマン大統領,両院合同会議で冷戦を宣言.「共産主義的全体主義の拡大に対抗することを目標とし,自由と独立の維持に努力する」と述べる(トルーマン・ドクトリン).このあとギリシャ・トルコへの経済・軍事援助を開始.

3.22 南朝鮮全土で24時間ゼネスト.ソウルで大デモ.南朝鮮労働党を中心に民主主義民族戦線が結成される.

3.29 米駐留軍,スト参加者2000人を検挙.

3月 中国共産党の拠点である延安が、国民党軍の手により陥落。満州の八路軍のみが、旧日本軍兵器の獲得により勢力を保つ。蒋介石は「半年以内に戦争を終結させる」と豪語。

47年4月

4.19 徐潤福、ボストンマラソン大会で優勝。

4.21 李承晩,半年にわたる米国での反共工作を終え帰国.「南部のみの政権樹立」を唱え、トルーマン大統領の支持を獲得.

4月 マーシャル米国務長官とモロトフ外相,朝鮮問題での交渉再開で合意.

4月 朝鮮人部隊3万人、北朝鮮から中国東北部に移動。国民党軍との戦闘に参加。

4月末 李青天が個人資格で朝鮮に戻る。大同青年団の団長になって反共運動を主導。

47年5月

5.02 日本政府,在日朝鮮人取締りを目的に外国人登録令・同施行令を公布.即日施行される.

5.16 李承晩、マーシャル国務長官宛に書簡。合同委員会の開催に反対の立場を強調。

5.21 米ソ共同委員会,一年ぶりに再開される.アメリカは南北朝鮮で国連監視下に選挙を実施するよう主張.国連に朝鮮問題の審議を要求.ソ連のグロムイコ国連代表は「米ソ両軍が朝鮮から撤退し,朝鮮人民代表が主体となって審議しない限り,国連での討議に反対する」と主張.

5.22 米ソ軍政当局の合意に基づき、「南北交易」が開始される。南北が物々交換貿易を始める。南から北へはペニシリンなどの医薬品、電気製品,自動車部品など。北から南へは明太子・するめなどの海産物、朝鮮人参、肥料・セメントなどの工業製品。許可権を持つ軍当局の救済が目的となり、当初より不正が指摘される。

47年6月

6.03 軍政庁、立法議院で選出された民政庁を‘南朝鮮過渡政府’と呼称することとする。

6.07 共同委員会がコミュニケ発表.協議対象団体は,協定を支持するか否かの質問に回答すればよいこととなる.ソウルではソ連糾弾を叫ぶ右翼のデモが連日展開される.

6.20 軍政庁、徐載弼を特別議定官に招聘。

6.23 協議対象団体の登録締め切り.北の38,南の425,あわせて463団体が登録をすます.

6月 軍政部,全評を非合法化.このころまでに左翼組織は著しく弱体化.大衆行動の組織はほぼ不可能となり,武装闘争路線への移行を余儀なくされる.一部は追っ手を逃れゲリラ戦に入る.

47年7月

7.01 北朝鮮で親日分子、地主、宗教家、知識人に対する攻撃が強化される。韓国民政府は、越境者のソウル居住を禁止し、各道に避難先を割り当てる。

7.02 過渡立法議院で反民法が通過.軍政長官は法律制定の決裁を拒否.

7.07 「京郷新聞」、ソウルに北からの避難民が殺到していると報道。

7.10 協議対象団体の資格をめぐり,米ソが対立.反託委員会加盟団体の排除を要求するソ連は,席を立つ.第二次米ソ共同委員会はこのまま最終的に決裂.ホッジは「共同委員会はクレムリンからの指示があり次第,いつでも崩壊するだろう」と報告.

7.19 元建国同盟指導者で勤労人民党党首の呂運亨が,ソウル市内恵化洞ロータリーの路上で凶弾を浴び暗殺される.この頃,民族派指導者へのテロ横行.

7.25 トルーマン,南朝鮮における民政移管の準備作業開始を指示.陸軍省はマッカーサー将軍に,「国務省が徐々に民政に関する責任を引き継ぐことになるだろう」との通達を送る.

7月 ジョージ・ケナン,フォーリン・アフェアーズ誌に寄稿.「共産主義勢力が一定の地域から拡大しないよう封じ込めるべきである」と主張.「封じ込め政策」を訴える.

47年8月

8.03 呂運亨の国民葬が執り行われる。

8.06 朝鮮臨時政府の「憲章」が立法会議を通過。

8.12 南朝鮮で,民主主義民族戦線に結集する政党・団体幹部・左翼言論人への大量検挙が始まる.

8.15 金日成,モスクワ協定にもとづく朝鮮民主主義臨時政府の樹立を提唱.

8.21 大同青年団が結成される。

8.26 ロベット米国務次官,4カ国会議を再開しモスクワ合意の実行について再度協議するよう提案.南北各々に臨時立法機関を設立し,両者の代表が統一臨時政府を構成.独立国家を樹立するというもの.

8.26 ソ連は,南北別個の立法機関樹立は南北分割を助長するものとして米提案を拒否.実際は,南北代表の数がそれぞれの人口によって決まるならば,人口比率で劣る北朝鮮が負ける可能性があるため反対したといわれる.

8月 国民党軍が旧満州地方への制圧作戦を開始。林彪の率いる八路軍は巧みな戦術によりこれを翻弄し、国民党軍を壊滅に追い込む。

47年9月

9.17 米国、モスクワ協定に基づく統一朝鮮の樹立を「断念」し,独立・統一問題を国連に提訴通告.決議草案で米国は「南北双方で48年3月に,国連の監視下でそれぞれ挙国一致政府の選挙を施行,このあと米ソ両軍が撤退する」と主張.

9.23 国連総会,アメリカの提案した朝鮮統一問題を議題として採択.第一委員会に審議を付託する. グロムイコ代表は,朝鮮人民代表が参加しない審議には反対すると表明.

9月 新設された統合参謀本部(レイヒイ,アイク,ニミッツ,スパーツ),大統領あてに国際戦略に関する報告を提出.「米国は朝鮮に現在の軍隊と基地を維持することに,ほとんど戦略的利益を持っていない」と述べる.

47年10月

10.17 国連第一委員会が開かれる.米国は来年3月までに南北それぞれで立法機関の選挙を行うよう主張.

10.21 ソ連代表,米ソ共同委員会から引揚げる.会議は無期休会に入る.

10.28 第一委員会でソ連が対抗提案.南北朝鮮から占領軍が同時撤退し,朝鮮人が自らの国民政府を樹立する機会を与えるよう主張.また国連の審議の場に朝鮮人代表を招請するよう提案.

10月 北朝鮮人民会議,憲法起草を決議.国連の動きを無視し,別国家建設に向け動き出す.

47年11月

11.05 国連第一委員会,米国提案を可決しソ連提案を否決.ソ連など6カ国は採決に不参加.

11.14 国連総会,米国提出の「朝鮮問題小委員会」(UNCURK)設置決議を採択.「48年5月10日に朝鮮臨時委員団(UNTCOK)の監督の下に南北同時総選挙を実施する」と決議(総会決議112号Ⅱ).事実上,南単独の選挙を承認.

11.26 南労党中央委員会,ソ連提案を支持し,米提案の単選・単政に反対する声明を発表.朝鮮全域で分断政権樹立に反対する闘争が展開される.

11.28 金日成,内務局に対し国内引き締めと情報組織の強化を指示.

11月 ソ連,UNTCOKの設立に抗議し,南朝鮮への送電量を半分にカット.

47年12月

12.16 北朝鮮で貨幤改革が実施される。

12.20 金奎植ら,民主自主連盟を結成.金九系もこれに合流.左右合作委の右翼側の後身的役割を担う.金九はこれを機に南北協商の立場に動く.

12月 韓民党幹部で軍政庁の支持を受けていた張徳秀が,金九派の手により暗殺される.

12 全評,二次にわたるゼネストに敗北.組織は壊滅的打撃を受ける.

 

1948年

48年1月

1.06 米陸軍長官ロイヤル、日本を共産主義に対する防壁にすると演説。朝鮮についてはコメントなし。

1.08 インドのメノン外相を団長とする朝鮮臨時委員団(UNTCOK)一行がソウル到着.

1.09 北朝鮮人民委員会は「国連朝鮮委の38度線以北立入りを拒否する」と言明.

1.12 朝鮮問題小委員会,第1回会議ひらく.北朝鮮の拒否のもと,南で単独選挙を行う方向で動き始める.

1.22 ソ連,国連総会で朝鮮臨時委員団への参加を拒否する声明.

1.24 文部省,朝鮮人学校設立不承認,日本人小学校への就学義務などを通達.

1.27 金九と金奎植,南北要人会議を推進せよとの談話を発表.

1.28 金九,南朝鮮単独政府の樹立に対する反対の意思を表明.

1月 韓国国防部の「韓国戦争史」によれば、解放後この時点までに80万人が北から南へと逃れる。「越南民」の多くは徹底した反共主義者として左翼攻撃の先頭に立った。

48年2月 単独選挙反対闘争

2.01 国連,5月10日に南朝鮮の単独選挙を行うと決定.

2.07 「2.7救国闘争」開始.南朝鮮労働党と民主戦線傘下の労働者が「国連臨時朝鮮委に反対する朝鮮総罷業委員会」を結成.ゼネストを決行.農民・学生200万人が反対行動にたちあがる.

2.08 北朝鮮人民会議,朝鮮民主主義人民共和国憲法草案を起草.人民軍創設を決定.崔庸健が司令官に就任。師団長はすべて,金日成直属の満州派が占める.

2.08 「朝鮮人民軍」が兵力6万を数える正規軍として正式に発足。3個師団(各3個歩兵連隊と1個砲兵連隊、人員各1万1千名)、1個独立旅団(1個直轄大隊、3個歩兵大隊、1個砲兵大隊)、1個戦車連隊から成る。独立旅団は翌年第4師団に格上げされる。ソ連軍は全面撤退しすべての兵器、装備品を人民軍に残す。さらに3千人の軍事顧問団が残留する。

2.09 単独選挙に反対する運動が全国化する.検挙者・死者・負傷者は各数万を数える.

2.10 独立党の党首金九,「三千万同胞に泣いて訴える」を発表.単独選挙に断固反対する立場を表明.中間派の金奎植らも単独選挙に反対.選挙ボイコットを発表.

2.15 協商派が連名で総選挙ボイコットを訴える。金九、金奎植のほか趙素昂、趙琬九、金昌淑、洪命熹が署名。「南だけの単独政権を樹立することは、北半分を永遠に他国の衛星国とし、その結果が跳ね返って南半分に及ぶことになる。朝鮮人の問題は南北朝鮮人が集まって自主的に決めるべきで、それには南北要人の会談が先決である」とする。

2.16 金九と金奎植,北の金科奉・金日成あてに書簡を送り,南北の政治指導者間の協商を提議.

2.25 単独選挙に反対するスト・デモが再燃.延べ30万人が1週間にわたり各地で闘争展開.警察との衝突で百名以上が死亡.

2.26 国連朝鮮委員会,米国提出の選挙実施案を可決.UNTCOKに「立ち入り可能な限りの地域」での選挙実施,監視を求める.カナダは「UNTCOKの活動を南朝鮮だけに制限できない」として反対,オーストラリアも「分断を永久化するもの」とし反対.ソ連など社会主義諸国はボイコット.

2.28 UNTCOK,選挙実施に消極的なメノン議長不在のまま,南朝鮮のみの選挙実施を声明.カナダは,「議長不在でUNTCOKで正式決定されていない」として反対.オーストラリアは,「金九,金奎植をふくめ,朝鮮の政治勢力のほとんどがボイコットを表明している」として反対に回る.

48年3月 金九の南北会談提唱

3月初旬 済州島で学生3人が捕らえられ,拷問の末虐殺される.「三・一節事件」後の1年間で約2500名の島民が拘禁される.南労党済州島委員会は、単独選挙への対応を協議する総会を開催。12対7で分断選挙阻止を主張する強硬派が勝利。武装闘争への移行を決定する。

3.08 金九と金奎植が,北朝鮮に南北会談を要請.北朝鮮,金九提案の会談要請を受諾.実際には北朝鮮は,金九や金奎植を宣伝に利用する以上の意図はなかったといわれる.

3.12 国連朝鮮委員会,5月9日に南朝鮮で単独選挙を実施することを決定.小選挙区制により200名の国会議員が選ばれることとなる.韓民党有志63名,「外国軍隊が撤退しない限り,委員会の目的は失敗するだろう」と述べ,米軍の撤退を要求.

3.16 北朝鮮と中国が秘密軍事協定を締結。

3.25 北朝鮮の民主主義民族戦線,単独選挙に反対するあらゆる政党・団体の連席会議を,4月に平壤で開催するよう提案.現状に関する意見交換,統一政府樹立のための対策についての研究などを提案.

3.26 国民会議派と韓国民主党を除く南の全政党が,金九と金日成による南北会談を支持.

3.28 北朝鮮労働党第二回大会を開催.金日成は呉淇燮ら国内派幹部を名指しで批判.呉淇燮は「海外から帰国した同志たちに対して半信半疑の独善的態度をとった」と自己批判.

3.31 米軍政部,山口県で朝鮮人学校に閉鎖命令.4月にかけ兵庫・大阪・東京などで同様の命令.

3月 在日学生の統一団体「朝鮮学生同盟」,左右に分裂.左派学生は朝連分裂後、在日朝鮮人団体中央協議会に加入.在日朝鮮学生同盟を結成.

3月 トルーマン大統領,英・仏・ベネルクス三国により西欧軍事同盟を結成するよう勧告.

3月 八路軍は長春の包囲作戦を開始。数十万にのぼる一般市民が餓死したという。朝鮮義勇軍第3支隊は東北人民解放軍独立11師第2団に改編される。

48年4月 済州島蜂起

4.03 午前2時 済州島で南労党済州島委員会の主導する「四・三蜂起」が始まる.三千名の島民が,14の警察署や右翼青年団の宿舎を襲撃・占拠.米軍政当局は、警察隊1700人、国防警備隊第9連隊に鎮圧作戦を指令。

4.15 南労党済州委,長期的な遊撃闘争へ方針転換.金達三に指導された「武装自衛隊」グループが漢ド山にこもり「遊撃闘争」を展開。島内に隠匿された旧日本軍武器を手に、警察や右翼団体関係者の宿舎などを襲撃する.その後の6年間にわたる弾圧で,犠牲者は島民の1割,3万人を越えると推定される.

4.16 総選挙立候補が締め切られる。934人が登録。

4.19 金九,38度線を越え北に入る.2日後には金奎植も北朝鮮に入る.(写真は金九を歓迎する金日成)

 4.19 平壌で全朝鮮政党・社会団体代表者連席会議の予備会議.5日間にわたり南北朝鮮政党,社会団体代表者が会議.

4.20 平壌で全朝鮮政党社会団体代表者連席会議の本会議が始まる.56の南北政党・団体代表から545人(695名?)が参加する.金日成が北朝鮮情勢を報告.朴憲永と白南雲が南朝鮮情勢を報告.金九は米ソ両軍の即時撤兵,単政反対全国闘争委の結成を訴える演説.

4.19 南北連席会議に参加した洪命熹(元東亜日報主筆)は北に残留。朝鮮民主主義人民共和国建国とともに副首相に就任する。

 

4.22 米軍政部,新韓公社を解体.あらたに中央土地行政処を設置.24万町歩を有償払い下げ.その後新政府のサボタージュにより骨抜きにされる.

4.24 阪神地区で,朝鮮人学校の閉鎖に反対する「阪神教育闘争」が展開される.米軍は反対デモ弾圧のため,神戸地区に初の非常事態宣言,多数の朝鮮人を検挙.

4.28 済州島で,武装隊と国防警備隊の間に休戦協定が結ばれる.蜂起側の武装解除と首謀者の身辺保障などで合意。「4・28協商」と呼ばれる.蜂起開始以来の犠牲者は、この時点で65人。警察と右翼青年団はこの協定を無視しテロを繰り返す。

4.29 北朝鮮人民会議,特別会議を開催し,朝鮮民主主義人民共和国憲法草案を採択.北中心の統一政府の樹立を確保しようとする意図をあらわにする.

4.30 四金による南北協商会談,米軍非難・南朝鮮単独選挙反対・米ソ軍即時撤退・統一政府樹立要求を発表して終了.南15人・北4人の「南北朝鮮諸政党・社会団体指導者協議会」で合意.

4月 単独選挙反対闘争による4月1ヶ月間の死亡者は154名にのぼる.

48年5月 単独選挙強行

5.01 警察の謀略による放火事件をきっかけに、済州島パルチザンへの弾圧が強化される。済州島の後方部隊として、麗水に第14連隊(光州の第5旅団所属)が新設される。

5.04 ディーン軍政長官みずから乗り込みゲリラ掃討作戦を指揮.増派された国家警備隊と右翼暴力組織の手により,島民への暴行が繰り返される.パルチザンの中核は島の中央の漢拏山に立てこもる.

5.05 ソウルにもどった金九と金奎植,南北協商の経緯と合意事項を説明した共同声明を発表.あらためて選挙のボイコットを宣言する.

5.05 文部省・在日朝鮮人連盟代表間で私立学校として認可申請の線で妥結.

5.08 単独選挙反対を訴える全国ゼネストが始まる.全国各地の投票所57カ所と選挙事務所134カ所が襲撃され,警察7名・民間人72名が死亡する.米軍政部は内戦状態と判断.非常事態宣言を発表.

5.10 国連朝鮮委員会の監視のもとに,制憲議会議員の単独選挙が強行される.右翼団体・警察による動員,強制駆り出し,棄権するものには米配給票を支給しない,あるいは「アカ」のレッテル貼りなどで脅迫.米軍は戦闘準備態勢に入る.

5.10 済州島では武装隊(金達三司令官)の激しい抵抗により、3つの選挙区のうち2つで,投票率が50%に到達せず.

5.11 UNTCOK,選挙は成功と発表.李承晩らの大韓独立促成国民会が,200議席中53議席を獲得し第一党となる.韓国民主党は29議席で第二党.李範セキの率いる右翼が18議席。少壮派と呼ばれる改革志向の無所属議員が85議席を占める.

5.14 北朝鮮,単独選挙に抗議し,南朝鮮への送電を停止.北からの電力は毎月5万キロワットに達し,南の需要の8割以上を供給していた.

5.24 米軍政部,済州島での選挙は無効と判定.6.23の再選挙を告示.

5.31 制憲議会が開催される.互選により李承晩(当時73歳)が議長、申翼煕が副議長に選出される.

48年6月

6.24 ベルリン封鎖事件が発生.ソ連がベルリンと西ドイツとの陸上交通を全面的に遮断.西側諸国は大空輸作戦を開始.

6.25 UNTCOK,南朝鮮の国会を朝鮮国家を代表するものと認定.

6.29 第二次南北連席会議が開催される.大韓民国政府を否定.外国軍隊を即時・同時に撤退させ,南北を通じた総選挙による最高人民会議で中央政府の樹立をめざす.

6月 済州島暴動鎮圧に派遣された第11連隊の司令官朴珍景大佐が暗殺される。

6月 米国防部,国防警備隊(のち韓国軍)を大量動員し済州島弾圧を開始.三千名を無差別逮捕.遊撃隊はさらに山奥深くへ入り抵抗を続ける.

48年7月

7.10 制憲議会,国号を「大韓民国」と決定.

7.10 第5次北朝鮮人民会議が開かれる.独自の「朝鮮民主主義人民共和国憲法」の施行と,朝鮮最高人民会議代議員選挙の実施を決定.金九・金奎植は北だけの政権樹立に反対する声明を発表.南北協商の可能性は消失.

7.12 大韓民国憲法制定.全朝鮮半島を領土とする.実効支配は38度線以南だが,以北は共産主義集団が不法占拠しているものと評価.

7.20 制憲議会,憲法を承認.大統領に李承晩,副大統領に李始栄を選出.連立与党の韓民党は,議院内閣制を採用することを条件に,李承晩派と妥協するが,李承晩が推薦した李允栄国務総理の指名を拒否.自党の李允栄を推挙する。

7月 北朝鮮で南朝鮮人民代表者大会が開催され、最高人民会議の代議員を選出することとなる。南朝鮮各地で、当局の弾圧をかいくぐり代表者大会への代議員を選ぶ選挙が施行される。有権者の77%にあたる673万人が投票に参加したといわれる.

48年8月 南北両政府の成立

8.01 李承晩は,韓民党との合意を破棄し,総理兼国防部長官に右翼で元光復軍将軍の李範奭(りはんせき)を指名.また農林部長官には左翼の曺奉岩を起用.韓民党の基盤である地主層の力を削ぐため,農地改革を推進する.

8.04 国会、議長に申翼煕、副議長に金若水を選出。金炳魯の大法院長就任を承認。

8.05 議会の若手議員が中心となり、反民族行為の処罰に関する特別法を制定するための、特別基礎委員会を設置するための緊急動議を提出。これに対し保守派は、親日派処断を主張するものは共産主義者(commie or communist)だと非難。李承晩も支持基盤への配慮から、この法案を拒否する。

8.10 ホッジ司令官は米軍政廃止を宣言,USAFIK司令官を辞任し帰国する.副司令官のクートラー大将が韓国独立までの暫定司令官を勤める.

8.15 マッカーサー臨席の下に大韓民国樹立.

8.21 北朝鮮の海州(ヘジョン)で南朝鮮人民代表者大会が開催される.選挙により全権委任を受けた千名の代表者が出席.南労党系のほか民主韓国独立党,社会民主党,金奎植の民衆同盟など協商派も参加する.

8.24 アメリカと李承晩政権が米韓軍事安全暫定協定を締結.韓国軍の指揮権は駐韓米軍司令官が引き続き掌握。アメリカの事実上の支配権が法定化される.

8.25 北朝鮮,最高人民会議の代議員212名の選挙を施行.

8.26 海州の南朝鮮人民代表者大会,最高人民会議に向け,360名の代議員を選出し閉幕.

8.26 米韓軍事協定に基づき、駐韓米軍顧問使節団と臨時軍事顧問団(PMAG)が設置される。

8月 ジョンJ. ムツィオが米国務省特別代表として着任.

8月 「大韓独立促成労働総連盟」(大韓労総)が韓国労働総同盟(韓国労総)と改称.

48年9月

9.01 大韓民国軍が発足。5個旅団、15個連隊が編制される。日本軍が残置した軍服や兵器を支給されたのみで、米軍のライフル銃やカービン銃を支給された警察より火力は弱体だった。

9.02 朝鮮最高人民会議第一次会議が開かれる.議長には元建準副委員長の許憲(南労党),副議長には北朝鮮青友党の金達鉱と,勤労人民党の李英が就任.

9.07 反民族行為者処罰特別法(反民法)が制定される.国会が中心となって「親日派」処罰に乗り出す.

9.08 朝鮮最高人民会議,「朝鮮民主主義人民共和国憲法」を採択.

9.09 「朝鮮民主主義人民共和国」が樹立される.首府をソウルにおき,全朝鮮を領土とする(実効支配は38度線以北のみ).金日成が首相に就任.朴憲永は副首相兼外相としてナンバー2の地位につく.金策が副首相兼産業相,洪命熹(ホンミョンヒ)が副首相兼無任所相に就任.軍事を担当する民族保衛相には人民軍司令官の崔庸健が就任.

9.24 第三回国連総会本会議,韓国選挙が成功したとのUNTCOK報告を受け,今後の朝鮮問題の審議を第一委員会に付託.アメリカは大韓民国を正統政府として承認するよう求める.

9月 国会,反民族行為者処罰特別法を制定.

48年10月 

10.17 新政府,済州島のゲリラ根絶のため鎮圧部隊を送り込む.済州島を管轄する第9連隊は、全島の海岸線から5キロ以上離れた地域、および山岳地帯の無許可通行を禁止。該当地域の住民に避難命令.北朝鮮に送られた金達三に代わり李徳九が司令官に就任。

麗水(ヨス)・順天(スンチョン)事件

48年10月 (麗水・順天の反乱については、政府側資料が基本となっており、細部の真偽は不明)

10.19 麗水の第14連隊に出動命令。済州島鎮定のため1個大隊を派遣し済州道地区警備司令官指揮下に入るようもとめる。これに反対する軍内南労党員40名が反乱.上級将校を監禁し武器弾薬を奪う.反乱部隊は全連隊三千の兵の結集に成功。

10.19 部隊の一部は南労党麗水地区委員会の指揮下で市内に進軍する。麗水市内では、労働者・学生ら600人が官公署を襲撃し、半日で全市を制圧。

10.20 反乱軍,麗水市内の各地に人民委員会組織.人民大会を開き,共和国支持,土地改革実施,反動的法令廃止を決議.警察や右翼など1200人を人民裁判にかけ処刑。

10.20 反乱軍の2個大隊,麗水から列車で順天に進出.駐在する2個中隊と合流。さらに光州から派遣された部隊のうち1個中隊も反乱に加わる。順天中学生や「市内の貧困分子」も加わり「順天人民委員会」を設置する。

10.21 反乱軍が順天から東北の光陽、西北の鶴口方面へと進軍を開始する。討伐軍の中からも反乱に加わるものが続出. 全羅南道の海岸部一帯が反乱軍の支配下に入る.

10.22 新政府と国軍当局、麗水・順天地域一帯に戒厳令を公布。宋虎声陸軍総司令官の指揮下に「叛軍討伐軍」10個大隊が編成される。米軍事顧問ハウスマンが鎮圧作戦を陣頭指揮。

10.22 反民法に基づいて10名の委員からなる反民族行為特別調査委員会(反民特委)が成立.親日派の逮捕に乗り出す.その後559名を検察に送致.内221名が起訴される.

10.22 マッカーサー元帥,NYタイムスと記者会見.「南朝鮮は米本土と同じ位置づけで防衛されるだろう」と述べる.

10.23 軍艦船が麗水・順天に対し艦砲射撃を開始。

10.25 順天が馬山から派遣された部隊により鎮圧される.

10.26  討伐軍、麗水を奪回。24時間にわたり市内の「暴徒」を掃討する。市民ら2634人(一説に9450人)が殺害される.反乱部隊の残党約千名は,小白山地南端の智異山に逃げ込み、以前より山岳ゲリラ作戦を展開していた野山隊と合流。ゲリラ戦を展開.

10月 ソ連,北朝鮮を承認.外交関係を締結.

48年11月

11.01 麗水反乱を指導した将校27人を含む関係者89人が,即決裁判で処刑される.軍中央情報部を中心に全軍的な思想調査(粛軍)を施行。

11.02 大邱駐屯第6連隊で南労党員下士官らによる反乱未遂事件が発生。反乱兵士数百名が脱走し太白山にたてこもる。

11.02 林彪の率いる東北人民解放軍(八路軍)が瀋陽を占領.遼瀋戦役は人民軍の決定的勝利に終わる.八路軍は第4野戦軍と改称。林彪軍には多くの朝鮮人部隊が参加.

11.17 済州島全域に戒厳令が公布.中山間部では「焦土化作戦」が実行にうつされ,84の村が焼き尽くされ、18歳から40歳までの男性住民は皆殺しになる.女性も性的な凌辱を受けた後,虐殺されたといわれる.

11月 180人の遊撃隊が襄陽から江原道五台山地区に潜入。「第一次浸透」と呼ばれる。半年間に600人が潜入するが、大部分は殲滅され、残党は太白山方面に南下する。

11月 国会で無所属議員のイニシアチブにより、反民族行為特別調査機関組織法(反民特委)が成立。

親日派: 新政府の行政、法曺、警察には日帝時代の下級官吏7万人あまりが再登用され、政府の要職にも反民特委の告発対象となる植民地時代の高級官僚30人あまりが含まれていた。

48年12月 国家保安法の成立

12.01 韓国で国家保安法公布.「日帝」植民地時代の治安維持法をそのまま法制化.北朝鮮を「反国家団体」と規定,一切の接触を禁じたほか,反米・反政府活動も処罰対象とする.その後の1年で12万人が検挙.陸軍では特務部長金昌竜が中心となり,国軍の一割以上,8千人の将兵を「アカ」と認定し粛清.

12.08 国連第一委員会,朝鮮委員会監視下の南朝鮮選挙を追認し,韓国を正統政府とする米豪中の共同決議案を採択.ソ連は「モスクワ協定違反の選挙は無効であり,大韓民国は旧日本協力者と米軍による傀儡政権に過ぎない」とし,その廃止を要求.さらに「朝鮮民主主義人民共和国こそが朝鮮人民の意志を代表する組織」と主張するが,否決される.

12.10 8月の軍事協定に次ぎ,米韓経済援助協定が締結される.ECA援助からSEC援助へ切り替え,無償援助を継続.食料品・原綿など消費財中心.韓国における資本主義体制の安定に寄与する一方で,農業の発展停滞など自立的経済構造の形成を阻害.原綿加工を基礎に特恵的な繊維工業財閥が生成される.
 

戦後三年間で,工業生産は19%まで低下.米の生産は6割に低下.総人口の1割が失業.卸売り物価は2倍以上となる.

12.12 第三回国連総会,第一委員会の決定を受け,「朝鮮の人民の大多数が居住している朝鮮の部分に、有効な支配と管轄権を及ぼす合法な政府が樹立された」とし、韓国政府を朝鮮における唯一の合法政府として承認.賛成48・反対6.朝鮮委員会がUNTCOKの任務を引き継ぎ,米ソ両軍撤退後に再度選挙を行うよう努力するなど,朝鮮統一に向け活動を継続すると決議(総会決議第195号Ⅲ).

12.26 ソ連軍,北朝鮮から撤退完了.

12月 北朝鮮の中央保安幹部学校が、人民軍第一軍官学校に改組される。翌年1月には平壌学院が、人民軍第二軍官学校に改組される。

12月 南労党指導部,人民遊撃隊の組織を指示.李鉉相幹部部長を智異山に派遣し叛軍主力部隊350名と連絡。「智異山遊撃隊」を結成し5連隊、約500名でパルチザン活動を展開。そのほか地方小都市を中心に3市78郡で遊撃隊が組織される.最大時3千500人から6千人を数える。軍はパルチザン行動地域の焦土作戦.45万戸が焼かれ,400万人が家を失ったといわれる.

 

1949年

49年1月

1.01 アメリカ,韓国を独立国家として正式に承認.

1.01 中国から北朝鮮への部隊引渡しに関する会議がハルピンで開かれる。中国軍に所属していた方虎山(独立第四師団長)、周保中(人民解放軍吉林省軍区司令員)、李立三(中国共産党東北局政治委員)、朱徳海(ハルピン保安隊旅団政治委員)らが参加。会談後、金日成は,「南北統一の基礎条件は完全に整った」と声明.

1.06 反民族処罰特別委員会が活動を開始。警察に巣食う親日派がさまざまな手段で妨害。

1.14 T・F・シュチコフ大使が赴任。

シュチコフ: レニングラードの党第二書記としてキャリアを開始。第一書記ジュダーノフの女婿となる。独ソ戦争では赤軍第七軍の政治委員を務め、レニングラード防衛戦に功績をあげる。第七軍司令官のメレチェコフ元帥が、極東第一戦線軍司令官に就任したのにともない、政治委員・上将として同行し、対日戦の軍最高当局者となる。北朝鮮占領後には、88特別旅団の金日成大尉の朝鮮受け入れと擁立を工作。46年3月の米ソ共同委員会では、ソ連軍代表団長として交渉を決裂に至らしめた。この間、一貫してスターリンとの直接ラインで指示を受けていたと見られる。

1.26 韓国民主党、反李承晩勢力を糾合した民主国民党へ再編。李承晩政権に対する野党としての立場を鮮明にする。

1.31 北津戦役が終結.中国人民解放軍が北京を解放.

1月 済州島北村里では村民400人が集団虐殺される。済州島で闘った多くの島民が日本に逃れ,朝鮮総連主力となる.この時に九死に一生を得て生存した「順伊おばさん」が、自殺するに至る経過をえがいた玄基栄の小説(1979年)は、金石範により翻訳され、済州島事件が再発見されるきっかけとなる。

49年2月

2.01 北朝鮮,工業発展を図る2カ年計画を開始.

2.05 韓国政府,有償接収・有償払い下げを原則とする農地改革法を提出.地主層が多数を占める国会は,新法案に猛反発.

2.22 金日成,朴憲泳をともないソ連を訪問.4月7日までソ連にとどまる.

2月 ソ朝間に「秘密軍事協定」が締結。新規6個師団分の装備が提供される。T-34型戦車500両により2個戦車師団が編成されることとなる。また空軍建設にむけ戦闘機100、爆撃機30、偵察機20機が提供されることになる。

49年3月

3.05 金日成、朴憲永がスターリンと会談。南進を主張する。スターリンは基本的に準備不足であること、米国との全面戦争にソ連が巻き込まれる恐れがあることをあげて自重を促す。

和田によれば、金日成は「全国土を武力解放する機が熟した」と主張するが、スターリンは大義名分がないとしてこれに反対。 南進の際、アメリカの干渉は必至と見たスターリンは,南進戦略に関し慎重な態度を崩さなかった.

3.17 北朝鮮とソ連の間で,経済文化協力協定,貿易支払協定,2億1千万ルーブルの借款契約と軍事秘密協定が結ばれる.ソ連は協定に基づき6個歩兵師団,3個機械化部隊,飛行機150台を援助.

3.18 中国共産党軍と朝鮮人民軍が軍事秘密協定を締結.蒋介石軍との内戦のため,中共軍に参加していた5万名の朝鮮人兵士を朝鮮人民軍に編入することで合意.

3.21 ムツィオ国務省特別代表,初代の駐韓米国大使として発令される.

3.31 韓国政府、南北の民間物資交流を全面的に禁止。

3月末 国防・治安支出により国家財政悪化.歳出総額の4分の1が財政赤字となる.

49年4月

4.04 西側12カ国,北大西洋条約機構(NATO)を結成.

4.08 国連安保理,韓国の国連加盟案を否決.

4.22 ソ連から戻った金日成,最高人民会議第三次会議で交渉経過を報告.「この協定は祖国の統一と独立と自由と国土完整のために巨大な力となるだろう」と述べる.

4.28 北朝鮮の金一(民族保衛省副相兼人民軍総政治部主任)が訪中。毛沢東に対して朝鮮族兵士の朝鮮派遣を要請する金日成の親書を渡す。毛沢東は中国革命未完で十分な支援を提供できないことを理由に北の軍事行動を制止する。

4.28 ほとんど内容のない農地「改革」法が国会で成立するが,財政難から結局実施されずに終わる.

4月 李承晩,済州島を視察.抵抗の根絶を宣言.

4月 陸軍本部情報局所属の朴正熙大尉,麗水・順天事件に連座し,軍法会議で執行猶予つきの無期懲役を宣告される.

4月 北大西洋条約機構(NATO)が発足。米・英・仏はじめ西欧12カ国が参加。まもなくトルコ、ギリシャ、西ドイツも加わる。

49年5月

5.10 済州島の二議席が再選挙で選ばれる.

5.15 済州島地区戦闘司令部が解散.済州島の抵抗運動はほぼ消滅.

5.18 「国会フラクション事件」が発生.国会議員の中に秘密南労党員が潜入しているとする。李承晩政府は国家保安法に基づき,反民族特別委員会活動に参加した「少壮派」議員の一斉逮捕を開始.金若水副議長を含む少壮派議員9名(13名?)を,南労党の工作員にでっちあげ検挙.

5月 開城(ケソン)付近で南北軍の大規模な衝突。当時、開城は南に属していた。萩原によれば、北朝鮮の歩兵・砲兵部隊が攻撃をしかけたものとされる.

5月 朝鮮人民軍に9千人規模の第105戦車旅団(機械化旅団)が設けられる。3個戦車連隊(保有戦車120台)、1個機械化歩兵連隊、1個自走砲大隊など本格的な攻撃戦力を保有。

5月 中国解放軍が上海,南京を占領.中国革命の大勢が定まる。

49年6月

6.01 極東軍における情報活動の指揮者ウィロビー少将,ソウルに韓国連絡事務所(KLO)を設置.所長にレオナード・アボット中佐.南北朝鮮におけるスパイ活動の元締めとなる.

6.06 「六六事件」発生.ソウル警察が,反民特委内に「アカ」がいるとの理由で,委員会本部を襲撃,委員・スタッフ全員を逮捕・連行する.これにより親日派の追及は事実上終了.当時,警察高級幹部の7割は親日派が占めていた

6.07 済州島武装隊の総責任者,李徳九が射殺される.遺体は済州市内で晒される。この段階でゲリラ部隊はほぼ壊滅.

6.25 南北朝鮮の72政党・社会団体の代表704人が,平壌で統一会議を開催.

6.26 韓国独立党の党首金九,安斗熙砲兵少尉により白昼暗殺される.李承晩の差し金といわれる.享年73歳.金九暗殺に怒る韓民党の「少壮派」議員は,二度にわたり内閣総辞職を要求.

6.27 平壤会議で南北の民主主義戦線が合同,祖国統一民主主義戦線を結成.

6.27 在韓米軍が韓国撤退を完了.ウィリアム・ロバーツ准将の率いる軍事顧問団(K-MAG)500人が残り,韓国軍の指導にあたる.韓国軍の全8個師団と首都警備司令部が整備される。単に「旅団」を「師団」に名称を変えただけで、内容は貧弱。装備はきわめて劣悪だった。

6.28 祖国統一民主主義戦線,「朝鮮人民自身による平和統一案」を発表.アメリカ軍と国連朝鮮委員会の即時撤退,統一選挙の9月実施,新政府の樹立と現在の南北政府の解散などを柱とする.

6.30 「両党」間の秘密会談で南北朝鮮労働党が合党し朝鮮労働党となる.事実上,北朝鮮労働党が南労党を併合.委員長に金日成,副委員長に朴憲永と許哥誼.南朝鮮の組織は,朝鮮労働党南半部党に改編.責任者:金三龍,副責任者:李舟河らがパルチザン闘争を指導.

6月 新政府,「有償買い上げ有償割当」の米軍政当局案を骨子とする農地改革法を制定.地主層出身者が多数を占める国会は,数回にわたる改正で完全に骨抜き化.

6月 北朝鮮政府内務省内に防諜活動を専門とする政治保衛部が設立される.

6月 米軍占領終結にともない,対韓援助の窓口として経済協力局(ECA)が設置される.トルーマンは議会に対し「韓国は民主主義の共産主義に対抗する一つの実験場となり,その復興と進歩がアジアの人民に広範な影響力を持っている」と強調.

6月 劉少奇中共副主席がモスクワを長期訪問。スターリンは「われわれはヨーロッパ革命に力を注ぐから、アジアの革命は中国の指導に委ねたい」と意思表示する。(しかし朝鮮戦争の準備は中国抜きにスターリンのイニシアチブで進められたことが明らかになっている)

49年7月

7.05 下山事件.この後15日には三鷹事件,8月17日には松川事件が発生.ウィロビーら米軍情報部が,朝鮮戦争に備え,国鉄の安全を確保するためたくらんだ陰謀といわれる.

7.05 金九の国民葬が行われる。

7.29 中国人民解放軍166師が新義州に入る。金日成、帰還朝鮮人将兵を歓迎する演説。「諸君の気高いプロレタリア国際主義精神と貴い業績は、朝鮮人民と中国人民の革命史に永久に記録されるでありましょう」と述べる。

第6師団: 解放軍166師は瀋陽に拠点を置き、方虎山が師長を務めていた。部隊は10月末までに安州地区に移動。補充兵800人を入れ、第13、第14、第15の各連隊及び砲兵隊からなる朝鮮人民軍第6師団になる。

7月 北朝鮮の指令を受けたゲリラ活動が,ふたたび活発となる.1万ないし2万といわれる武装工作隊が,山村部で祖国統一民主戦線と全朝鮮統一選挙の武装宣伝活動を展開.智異山遊撃隊は「第二兵団」と改称。

7月 「粛軍」が完了。粛正された将兵は4749人にのぼる。これは全兵力の約5%にあたる。

7月 米国防総省,議会外交委員会で韓国政府への軍事援助が1億1千万ドルに達したと報告.

7月 米議会,勧告に対するECA援助計画を否決.米政府は1.2億ドルを極東地域に割り当てる援助法を成立させ,その半額を韓国に回すことで切り抜ける.アチソン国務長官は「この援助計画が認められなければ,朝鮮は三ヶ月以内に破綻する」と警告.

49年8月

8.06 蒋介石が韓国を訪問。鎭海で李承晩と会談。

8.14 シュチコフ大使は休暇の名目でモスクワに帰国。スターリンに対して「意見書」を提出し、北朝鮮軍の南進は米国の介入を引き起こす危険があり見合わせるべきだと主張する。当面、南におけるパルチザン活動の強化を想定する。

8.23 中国解放軍所属の朝鮮人部隊4万人以上が,新たに創設された北朝鮮軍への移籍を完了.これに中国東北地方から朝鮮人義勇兵2000人、ソ連軍内の朝鮮人将兵2500人も加わる。(第7師団の創設は50年4月まで遅れる)

第5師団: 長春の東北軍区第164師が会寧から羅南に入る。第10、第11、第12の各連隊を編成し朝鮮人民軍第5師団になる。師団長は金昌徳(中国名は李徳山)
第12師団: 中南軍区第15独立師を母体として編制。師団長は陶克夫。

8.25 韓国公報処、北からの避難民が200万人に上ると発表。

8.29 ソ連が原爆実験に成功(発表は9月).

8.31 反民法の公訴時効を迎える.起訴された親日派のうち7名のみが実刑判決.さらにそのうち5名には執行猶予がつく.

8月 韓国内の遊撃隊が3個兵団に再編・統合される。第一兵団は五台山地区、第二兵団は智異山地区、第三兵団は太白山地区で活動。南労党幹部の李承が統括し、「江東政治学院」で訓練を受けたあと、開戦までに2千名以上が送り込まれたとされる。そのほかに甕津半島でも小規模な遊撃隊が米軍哨所や警察署を襲撃。

8月 北朝鮮を出撃した人民遊撃隊,38度線を越え南進.散発的なゲリラ戦を展開するがまもなく消滅.北朝鮮正規軍が甕津を攻撃するが撃退される.

8月 北朝鮮,ソ連に韓国を武力統一する意思を表示.ソ連は反対の意向を明らかにする.

8月 米国務省,「中国白書」を発表.国民党の敗北と中国政策の誤りを認める.

49年9月

9.08 GHQの指示を受けた法務府,在日朝鮮人連盟,民青(在日本朝鮮民主青年同盟)など朝鮮人4団体に対し告示第51号を発令.「団体等規正令」第4条を適用して強制解散.朝聯中央総本部議長団の尹槿と韓徳銖,顧問の金天海,民青の南廷揚委員長ら幹部36人にたいし公職追放処分.

9.08 北朝鮮で全般的初等義務教育制実施を採択.

9月上旬 スターリンの慎重論を受けた金日成、全面南進は「得策ではない」と判断。「甕津半島作戦計画」を検討する。これは甕津半島でゲリラ紛争を頻発させ、その後出兵し全半島を占領、これに対する敵の出方をみようという計画。

9月中旬 5月の開城での戦闘に続き、甕津半島(オンチン)でも数千人規模の正規軍が衝突。国境地帯は一触即発の雰囲気となる。萩原によれば、北朝鮮正規軍の直接侵攻に端を発したもの.

これら朝鮮戦争の前哨戦をどちらが仕掛けたかについては、意見が分かれている。萩原はこれらすべてを北側の侵攻準備作戦としているが、文は、「奇襲攻撃のほとんどは韓国軍によるものだった」と述べている。たしかに、北側が朝鮮戦争の緒戦における奇襲を成功させようと考えていたとすれば、北側からの事前の挑発は考えにくいと思われるが、逆に本格侵攻を隠すためのカモフラージュとも考えられる。

9.24 ソ連共産党中央委政治局、「北朝鮮の南進禁止決議」を採択。甕津半島などでの「局地的作戦」も危険なゲームとして退ける。当面の戦略として、①パルチザン活動の展開と解放区の設置、全人民的規模の武装蜂起の準備。②朝鮮人民軍のよりいっそうの強化、を指示する。この決定はシュチコフが平壌に持ち帰る。

9.25 タス通信,ソ連がすでに原爆を保有していると報道.

9月 韓国軍,大掛かりなゲリラ討伐作戦を開始.

9月 国会,反民族行為特別調査委員会(反民特委)の設置を決定.親日派処罰のレールが敷かれる.李承晩政権は反民特委の活動を陰に陽に妨害.朝鮮戦争の勃発により事実上活動は消滅.

9月 南朝鮮で農地改革法が制定される.有償没収・有償分配を基本とし,年収穫量の150%にあたる地価証券が交付される.

9月 第4回国連総会.朝鮮委員会は「38度線を巡る境界紛争は激化しつつあり,重大な内戦の危機となっている.米ソ両国が統一について合意に達しない限り,なんらの進歩もありえない」と報告.

49年10月

10.01 「中華人民共和国」が樹立される。

10.06 中華人民共和国と北朝鮮が国交を樹立.

10.07 東ドイツで「ドイツ民主共和国」が成立を宣言。9月7日に「ドイツ連邦共和国」が成立宣言したことを受けてのもの。

10.14 人民軍が対南挑発行動を起こす。スターリンはこの件で二度にわたりシュチコフ大使を叱責。「38度線の状況を複雑化させてはならない。貴殿に警告する」と書き記す。

10.19 李承晩政権,133の政党・団体にたいし一斉に強制解散を命令.

10.19 日本政府,教育基本法・学校教育法違反等を理由に朝鮮人学校(朝鮮総連系)93校に閉鎖命令.建物財産を接収.さらに245校に改組を命令する.

10月 このころ人民遊撃隊の活動がピークとなる.1330回の出動に9万人が動員される.多くの犠牲をともない,次第に消耗.

10月 「南北交易事件」が発覚。韓国側からは米国製の薬品、自動車タイヤ、電線などが送られているが、北朝鮮が送るのはメンタイ(辛子入りたらこ)ばかりであることが、第一師団長の捜査により判明。政府は第一師団長を解任。これにともない蔡参謀長も辞任する。

10月 米国で反共国家支援のための「相互防衛援助法」が成立。

49年11月

11.16 北京で「アジア・太平洋労働組合代表者会議」が開かれる.「世界労連」が主催し、南北朝鮮はじめモンゴル、ベトナム、インドネシア、ビルマ、タイ、マレーシア、フィリピン、スリランカ、インド、イランなど14カ国の代表が参加する。日本代表は占領軍当局の禁止措置で出席できず。

11.16 挨拶に立った劉少奇国家副主席は,中国革命の勝利を前提に、「武装闘争が多くの植民地・半植民地の民族解放闘争の主要な形態となる」と述べ、反帝武装解放闘争の活発化をよびかかける.

11月 元山・南浦にそれぞれ1個大隊の海兵隊が新設される。

49年12月

12.07 国民政府が台北を首都にすると発表.蒋介石総統は10日に台北到着.

12.15 北朝鮮全軍が5ヶ月にわたる冬季戦闘訓練に入る.侵攻に備えての準備が急速に進む。

12.16 毛沢東、大規模な代表団を率いて初めて訪ソ。2カ月間にわたりモスクワ滞在。

12.21 国連総会本会議,朝鮮委員会を引き続き朝鮮に派遣.「軍事衝突の危機を回避させ,分断による経済的・社会的な障害を取り除き,適当な時期に統一を支援する」との決議を採択.ソ連提案の朝鮮委員会廃止案は否決される.

12.24 李承晩,総選挙に向け自らの与党として大韓国民党を結成.

12.24 慶北道ムンギョン市で,住民86名がゲリラ協力者の疑いをかけられ虐殺される.

12月 李承晩の10月団体解散令により50万人近くが逮捕される.15万人が投獄され,刑死・獄死者は10万人におよぶ.

12月 智異山の第二兵団、第三兵団残存勢力100名や、大邱第六連隊脱走兵約80名を迎え入れ、計600名の部隊となって抗戦を続ける。

ゲリラ戦の結末: 人民遊撃隊3兵団のうち、北からの浸透部隊を主力とする第一、第三兵団は、地元民衆との接点を持たず、山中の地理に不案内でもあった。加えて北から同道してきた北労党系政治委員の生硬な指導にも災いされ、49年中には次々に壊滅した。

12月 朝鮮人民軍、航空連隊を拡大改編し、約100機を保有する「航空師団」を創立。開戦時には保有機200機規模に拡大。ソ連軍の IL 10型機、YAK 9型機などを主力とし、パイロット200人、整備士400人をふくむ2000人の部隊となる。

12月 韓国労総,国際自由労連に創立メンバーとして加入.

12月 韓国財政が深刻な危機を迎える。一般会計の4割を韓国銀行からの借り入れに依存する赤字財政。

12月後半 米側資料では、東京のソ連代表部が共産党幹部に路線転換を指示したが受け入れられなかったという。

 

1950年

50年1月

1.01 金日成,新年の辞で「50年こそ祖国統一の年」と強調。軍民一丸となって戦闘準備を強化するよう訴える.北朝鮮側の主張によれば、南からの侵犯は49年度だけで1836回を数える。韓国側も北の侵犯が300回あまりに達したと発表。

1.01 マ元帥、「日本が自衛権を保持することは否定されるものではない」と言明.

1.05 トルーマン大統領,米国は台湾問題に軍事介入はせず,経済援助にとどめると言明.「中国内戦不介入」の意志を明示する。声明にあたって協議がなかったことから,共和党首脳の反感を呼ぶ.

1.06 「相互防衛援助法」にもとづく米韓軍事援助協定が調印される。ムチオ駐韓大使とロバーツ軍事顧問団長がもとめた1千万ドルの援助は放置される。

1.06 コミンフォルム機関紙『恒久平和と人民民主主義のために』が、オブザーバー名で「日本の情勢について」と題する論文を発表する。野坂参三が唱える「占領下の平和革命」論を、「反マルクス主義的、反社会主義的理論」、「帝国主義的占領者を美化する理論」「反愛国的、反日本的理論」と非難。日本共産党が決定的な反帝闘争路線を採用するようもとめる

1.08 周恩来中国外相、国連に国府代表追放の実施を迫る「覚書」を送る。

1.12 アチソン国務長官,ナショナル・プレスクラブで演説。「西太平洋におけるアメリカの防衛線」を「日本と沖縄を含むアリューシャン列島からフィリピンにかけて走る」線と発言.「アチソン・ライン」と呼ばれる。中国革命への不干渉を表明するだけでなく,朝鮮半島と台湾の放棄をも示唆する.同時に「韓国は国連が樹立した独立主権国家であるから」援助を続けるべきだと指摘する。

1.12 日本共産党政治局、「所感」を発表。コミンフォルム論文は実情を無視した外からの高踏的批判であって「受け入れがたい」と拒否する。

1.13 ソ連のマリク代表が安全保障理事会に提出した国府追放決議案、賛成3、反対6、棄権2で否決される。マリクは抗議して退場。その後ソ連は29週間にわたって極東委員会、対日理事会などの国際機関をボイコットする。

1.16 米下院は韓国への6000万ドル追加援助法案を否決。半月後、次年度会計に対韓援助1億ドルを支出することを承認。

1.17 「人民日報」紙、「日本人民解放の道」と題する社説を掲載。「勇気を持ってコミンフォルム批判を受け入れる」よう勧告する。日本共産党拡大中央委員会、批判の全面受け入れに転換。野坂は文書で「自己批判」を提出する。

1.19 北朝鮮の最高人民会議常任委員会,最高人民会議と韓国の国会を単一な立法機関として連合する方法で統一実現しようと提案.

1.19 米下院、政府提出の対韓援助法案を1票差で否決。

1.22 北朝鮮人民軍の作戦部長の金光侠、北京を訪れ、朝鮮籍兵士の第二次移籍を要請。中国軍は北朝鮮側の要請を受諾。兵士が武器を携帯したまま帰国することを許す。移籍部隊は1万4千に達し,北朝鮮人民軍7師団中の3師団,全兵力の1/3を占める.

1.26 米韓軍事援助相互協定が調印される.韓国側はいっそうの軍事支援を求めるが,アメリカはこれに応ぜず.

1.26 インド,新憲法を施行し独立記念式典.

1.31 トルーマン米大統領、水爆製造を正式命令.

1.31 中国人民軍、台湾とチベットを除く全土の解放完了を宣言.

1.31 アメリカ下院,対韓および対台湾経済援助案を承認.いったん原案は否決されるが,アチソンは「経済援助がなければ,韓国は2,3ヶ月で崩壊する」と述べ,予算案の復活を説得した.

1月 マッカーサーの特使シーボルト外交部長,ソウルを訪れ李承晩と会見.有事に際しては,在日空軍と海軍が直接戦闘に参加することを確約したという.

50年2月

2.02 スターリン、朝鮮のシュチコフ大使宛に指示。「問題は現時点では極秘にしておかねばならない。しばらくは中国の同志たちにも知らせてはならない」と訓令。

2.09 マッカーシー上院議員,「国務省が共産党員57人を抱え,アカに牛耳られている」と発言.「マッカーシー旋風」始まる.国務省への攻撃が続くなかで好戦勢力が伸張.

2.10 GHQ、沖縄に恒久的基地を建設する計画を発表.

2.14 モスクワで「中ソ友好同盟相互援助条約」が調印される。日本の「攻撃を受け戦争に入った場合」の限定的軍事同盟条項を含む。長春鉄道・旅順港および大連の早期返還協定、対中借款協定も締結される。

2.16 韓国大統領李承晩来日.マッカーサーと会談.国内の左翼・民族派弾圧の方針につき検討.

2月 国連朝鮮委員会がふたたび朝鮮入り.38度線の視察,韓国総選挙の監視などを行う.北朝鮮は委員会の立ち入りを拒否.

2月 中国とソ連が友好同盟・相互援助条約,長期経済借款協定を締結.ソ連は長春鉄道,旅順・大連を中国に返還.

50年3月

3月初め ソ連軍事顧問団要員が総入れ替え。総顧問にはスミルノフ少将に代わり歴戦の英雄ワシリエフ中将が就任。人民軍総参謀部作戦局の南進作戦計画を破棄し、新作戦計画を策定。

3.10 韓国で農地改革法が制定される.小作地と3町歩以上の自作地を政府が有償接収.買入・分配価格は年平均生産価格の1.5倍とされ,地主には地価相当の証券が交付される.実際に分配されたのは,全150万町歩中38%のみ.

3.13 国会、内閣責任制を柱とする第1次改憲案を否決。

3.14 人民遊撃隊の指導者,金三龍と李舟河が逮捕される.これを機に南でのゲリラ活動はほぼ終息.左翼は公然活動の場からも姿を消す.

3月中旬 朝鮮族の東北義勇軍(李紅光部隊)約1万人が元山に入り、第12師団となる。これにより朝鮮人民軍は、歩兵10個師団、戦車1旅団。航空1師団、警備3旅団を擁する約18万の一大兵力となった。

3.15 米議会、米韓軍事援助相互協定にもとづき1千万ドルの対韓軍事援助を承認。

3.19 世界平和協議会,ストックホルム・アピールを発表.核兵器に反対する国際的な署名行動を訴える.

われわれは、人民にとっての恐怖と大量殺害の兵器である、原子兵器の絶対禁止を要求する。
われわれは、この禁止措置の履行を確保するための、厳格な国際管理の確立を要求する。
どのような国に対してであれ、最初に原子兵器を使用する政府は、人道に対する罪を犯すものであり、戦争犯罪者として取り扱われるべきである。
われわれは、世界中のすべての善意の人々に対し、このアピールに署名するよう求める

3.20 警察当局,在日朝鮮人の拠点「台東会館」の実力接収.警官600人が出動.守備隊との衝突で負傷数百人,検挙130人.

3.30 金日成と朴憲永,特別機でにモスクワに入りスターリンとの会見.スターリンに対し侵攻時の支援を要請する.スターリンは,毛沢東の承諾を条件に金日成の要請を受諾.金日成は4月25日までモスクワに滞在し、スターリンと3回会談したという。

スターリンは「ワシントンが戦いに介入することはない」と保証。同時に「ソ連の直接参加を期待すべきでない。アジア情勢に通じた毛沢東を頼れ」と念を押した。さらに①38度線付近へ部隊を集結する、②平和統一提案で南朝鮮側の拒否と攻撃を誘発する、③甕津半島攻撃により真の攻撃側を隠ぺいしつつ電撃戦に移る、という「3段階作戦」を教示したという(トルクノフ『朝鮮戦争の謎と真実―金日成、スターリン、毛沢東の機密電報による』草思社)

3月 野党,大統領権限を大幅に縮小する憲法改正案を提出.過半数に達するが憲法改正に必要な2/3には達せずに終わる.李承晩支持派は33名にまで減少.

3月 南浦の第4独立旅団が拡大改編されて第4師団となる。民主青年同盟の訓練所で軍事訓練を受けた国内精鋭が、第10師団(粛川)、第13師団(新義州)、第15師団(会寧)に編制される。

3月 アチソン国務長官,サンフランシスコで演説.「アジアの基礎的な事実は,アジア諸民族が悲惨と窮乏に対し,また長年の外国支配に対して反抗の運動を起こし,民族独立を達成しつつあることである.アメリカは過去・将来を通じ民族独立運動を支持する.そのために必要な援助をそれぞれの場合に応じた形で与える」と述べる.また共産中国に対しても「国際慣行を遵守するのなら米国は貿易を望む」とする.

3月 米下院,国務省の説得を容れ,1億ドルの対韓援助を承認.援助の条件として、韓国政府に均衡財政の確立など経済安定15原則の履行を求める.

50年4月

4.06 トルーマン,挙国一致外交の推進を図るため,共和党タカ派のダレス議員を国務省顧問に指名.アチソンに代わり国務省の実権を掌握するようになる.

4月中旬 軍需品を満載したソ連輸送船が、清津(6隻)、羅津(2隻)に続々と入港。T34型戦車や SU 型自走砲をはじめ、数百門の各種口径火砲、迫撃砲、曲射砲、対戦車砲、高射砲などほぼ3個師団を装備するに足る量の新鋭兵器が運び込まれる。

4.18 河南省の第四野戦軍第165師団に朝鮮族将兵を加えた約1万5000名が元山港にはいる。人民軍第7師団となる。

4.28 北朝鮮の崔庸健民族保衛相,命令0285号を発し,6月1日より夏季戦闘文化訓練を開始すると発表.

4月 政府の放漫財政の下で,韓国のインフレは年間200%に達する.米国務省は「このままではアメリカの軍事・経済援助は再検討と修正を必要とすることになる」と警告.李承晩は選挙延期を狙うが,アメリカの強い圧力にあう.

50年5月

5.02 李承晩、「たとえ海のかなたの友人たちが説得しても、我々は立ち上がるだろう」と述べ、北進統一を主張。

5月上旬 人民解放軍第20師団内の義勇軍と中国各地の義勇軍1万人が元山に到着。人民軍第7師団(全宇師団長)を編成する。

5.07 金日成、平和的祖国統一を訴える。15日には南北統一最高立法機関を設立するよう訴えるなど、一連の平和攻勢。

5.09 極東軍のジョンソン韓国部長,下院歳出委員会で証言.「10万の韓国軍がアメリカの武器により装備され,軍事顧問団による訓練を終了した」と証言.

5.10 韓国の申国防相、北朝鮮軍が38度線付近に兵力を集結させていると発表。李承晩も「北辺に危機が迫っている」と強調。

5.13 金日成が中国を訪問し毛沢東と会談。南進計画を毛沢東に伝える。

5.30 韓国で総選挙実施.前回ボイコットした民族協商派が210議席中130議席を獲得.与党の大韓国民党は34議席,党外支持者を入れても48議席にとどまり惨敗.李承晩は反対派候補220人を国家保安法で検挙,66人を立候補辞退させたが逆効果に終わる.

5.30 金日成,中国を訪問.南侵問題について協議.毛沢東は南北開戦を支持し最大限の支援を約束.

5月 北朝鮮軍,ふたたび開城に攻撃を加える.米軍事顧問団は,ジョン・ムチオ大使に「韓国軍の装備は北に比べ圧倒的に劣勢であり早急に補充が必要」と報告.

報告によれば、北朝鮮は火砲600門、戦車・装甲車270台、飛行機168機、兵員18万人とされる。これに対し韓国軍は砲91門、装甲車l27台、戦車なし、練習機10機、兵員10万人であった。

 

50年6月

6.01 トルーマンが記者会見。「世界はいまや、過去5年間のいかなる時期よりも平和に近づいている。今後5年間は戦争の危険はないだろう」と述べる。

6.03 ダレス新国務長官、メモの中で「日本人が中朝両国に抱く優越感を活用するならば、日本は自由世界の一員として、共産世界に優越する西方諸国並みの待遇が受けられるだろう」と述べる。

6.06 マッカーサー,日本政府あてに書簡.共産党中央委員24名の追放を指定.

マッカーサー書簡の要旨
占領軍の基本目的は、ポツダム宣言に基く義務を果たすよう日本国民を助けるにある.ポツダム宣言は平和と安全と正義の新秩序を日本に確立することを要求している。この目的のために日本政府は、民主主義にたいする一切の障害を除去する義務がある。
最近、新たに凶悪な集団が日本の政界に害毒を流し、平和で静かな国土を無秩序と闘争の修羅場に化そうとしている.彼等は法秩序を軽侮し、デマ宣伝などの破壊的手段により公衆を混乱させ,終には暴力による日本の破壊を導こうとしている.彼等の目的が達成されれば、日本をさらに不幸に突き落とすことになるだろう.
たとえ現在は,未だ兆しの段階にあるように見えても、このような無法行為の扇動を放置し続けることはできない.よって,日本共産党中央委員会を構成する以下の人物を公職から追放することを指令する.

6.07 平壤放送、南北の平和統一のために代表会議を開く用意があると述べる。北朝鮮の曺晩植親子と韓国の南労党幹部の金三龍、李舟河との交換も提案。この交換に関しては、李承晩も条件付で受諾したが、結局成立せず。

6.07 祖国統一戦線の拡大委員会,「平和的な祖国統一の方策推進に関する訴え」を採択.8月の南北総選挙,ソウルでの最高立法会議開催などを提起.三人の伝達連絡員を南に送り込むが,ただちに逮捕される.(一説ではそのまま亡命)

6.10 トルーマン大統領が演説。「ソ連の支配者たちが企図する全体主義的な支配」の拡大に対処するため、米国は孤立主義をとらず「自由の強固な砦となる」と述べる。

6.10 ソ連の政府機関紙イズベスチア,「北朝鮮共産主義者は、8月5日から8日の間に、南北朝鮮を通ずる総選挙を実施し、15日にソウルで統一国会を開くであろう」と報道.

6.10 北朝鮮,攻撃に関与する兵力をニ軍団に編成。秘密大機動演習を開始.全師団が南部国境地帯への移動を開始.

開戦時の北朝鮮軍の布陣: 第一軍団は第一、第三、第四、第六師団などソ連軍出身者が指導(ただし第六は八路軍出身の方虎山)。第二軍団は第二、第五、第七師団(後に第12師団)など中国軍出身者が幹部となる。これらとは独立してT34戦車120台からなる第105機甲旅団が編成される。開戦後の7月、38度線の警備に当っていた「38警備旅団」(第1、第2、第7の3個旅団)が、第8師団に改編される。一部は第7師団に編入される。
第一軍団は西部海岸よりを、第二軍団は半島中央部を進撃。東海岸はゲリラ的に海上より進むこととなる。

6.10 韓国陸軍,師団長・連隊長級幹部の人事異動をおこなう.

6.11 韓国陸軍本部,非常警戒令を発令.38度線の警戒を強化。

6.12 北朝鮮軍第二軍団が、攻撃開始地点の華川に移動し司令部を設置。

6.16 朝聯系幹部60余名が集まり,「在日本朝鮮民主民族戦線準備委員会(民戦準備委)」を結成.北朝鮮の「祖国統一民主主義戦線(祖国戦線)」の路線に従う.

6.17 北朝鮮軍、全軍部隊に国境地帯への移動命令.

6.19 第2期国会が開院される。議長に申翼煕, 副議長に曺奉岩を選出。

6.19 ジョンソン国防長官,ブラッドレー統合参謀本部議長,ダレス国務省顧問が東京入り.マッカーサーと会談.

6.19 CIA現地本部,東京のGHQに対し「38度線の北側で大規模な部隊移動が展開され,全住民が北側2キロ以遠へ撤収している.鉄道は北朝鮮軍が接収し,国境地帯への部隊・兵器・弾薬の大量の輸送が行われている」と報告.GHQは事実上この報告を握りつぶし,本国へは「ゲリラ戦が重大な失敗に直面して以来,ソビエト顧問団は政治的手段により南朝鮮政府を打倒しようとしている」と報告.

6.19 北朝鮮最高人民会議,全朝鮮立法機関設置を含む統一案を採択.平和攻勢の延長ともとれるが、案の中には李承晩,李範スクを反逆者として逮捕する条項が含まれており,事実上の戦争宣言ともとれる.

6月20日

6.20 米国務省のダレス顧問,38度線を視察.李承晩あての手紙で,「韓国は前途洋洋たる民主主義の実験であり,共産主義が内部から征服することができないほど健全な歩みを続けている.いま始まろうとしている偉大なドラマで,貴国が果たすことができる決定的な役割を大いに重視している」と述べ,南への援助を約束.

6.20 北朝鮮政府,「人民経済のより高い段階への発展を目指す三カ年計画」を決定.

6.20  ジョンソン国防長官とブラドレー統合参謀本部議長が来日.極東軍関係者と情勢協議.極東軍当局者は「中国が共産化したことで、ソ連はアジア最大の基地を獲得した.米国は侵略の危険に対処するため、日本、沖縄およびフィリピンの基地を保持しなければならない.また台湾がソ連の手中に入れば、沖縄およびフィリピンにたいして脅威となるだろう」と発言.日本の基地を引き続き保有することを強く主張.

6月22日

6.22 ダレス顧問が来日.ジョンソン長官、ブラドレー統合参謀本部議長と前後して日本を訪問.羽田空港ではマッカーサー元帥をはじめシーボルド外交局長らに出迎えられる.

6.22 ダレス顧問,マッカーサー元帥と協議.「日本に軍事基地を求める考えは支持できない.しかし情勢は流動的であり,この点についてはさまざまな角度から検討した」と述べる.また台湾問題に関する政策が変化する可能性を示唆.

6.22 沖縄基地視察中のジョンソン国防長官,「沖縄を米国の難攻不落の要塞とする.一切の攻撃に耐え得る恒久的な作戦施設を建設する」と発言.

6.22 米議会、選抜徴兵法の延長を承認。

6.22 北朝鮮軍最高司令官金日成,「戦闘命令第一号」を発し、全面的南進作戦の発動を命令.

6.24 韓国陸軍本部,午前0時を期して非常警戒令を解除.

6.24 ソウルで陸軍会館の落成式開催.午後7時からダンスパーティーが始まる。この頃から雨が降り始める。