分かりやすい 「療養権」の話

 

T はじめに この本の書かれた背景

「療養権の考察」を書いてからもう10年近くが過ぎようとしています。民医連でもずいぶん取り上げてもらったのですが、読者からの反応はほとんどありませんでした。最近になって、我が旧友鈴木篤先生が理解者になってくれまして、これから少し広がってくれるのではないかと期待しております。

そうは言っても、文章があまりにも硬い、読んでいるうちに何がなんだか分からなくなる、というご意見は相変わらずです。「読まれることを拒否する本だ」といった人もいます。

文章が難解なのは、概念がまったく新しいものだということ、当時の情勢と、当時の「患者は医療の主体」論との論争を内にふくんでいることが原因です。「結局、何を言わんとしているのかが良く分からない」という意見は、この論争にかかわらなかった人にとっては当然のことと思います。

今日ではすっかり状況も変わっていて、この文章を書いた背景が分からないと思います。当時の事情について若干説明しておきます。

 

A 患者は医療の主体か?

当時、「患者は医療の主体」という言葉が流行しました。それは「患者の権利宣言」という言葉と対になっていました。気持ちとしては分かるものの、私は違和感を感じたものです。

私は、「場としての医療」においてはたしかに患者が主人公であるかもしれないが、医療という行為の主体はあくまでも医療者ではないか、「医療」という言葉の、二つの意味は使い分けないと、議論そのものがおかしくなってしまうのではないか、と考えたのです。

医療という言葉は、本来「医療的な」という形容詞の名詞化したものであり、その下に「施設」とか、「行為」とかがつくことで意味がかなり違ってきます。健康とか快適などという言葉もそうです。実際英語には「医療」にぴったりと当てはまる言葉はなく、メディカルという形容詞が近い関係にあります。

(メディックというPR雑誌があって、なるほどうまいネーミングだな、と感心したことがあります)

たしかに医療(メディカル・ケア)は患者のためにあるのであり、患者の願いが最大限尊重されるべきです。しかし患者が主体となる行為は、「医療行為」ではなく、何かほかの言い方をすべきではないでしょうか。

 

B 守るべきは「患者の権利」なのか?

当時はインフォームド・コンセント論、「患者の権利宣言」などが大きくとりあげられていました。私はこれにも若干の疑問を持ちました。

守るべきは「患者の権利」なのか? 病気の人すべてにとっての権利ではないのか? 病気の人の「患者」としての権利だけではなく、「人間」としての丸ごとの権利を守るのが、私たちの基本的スタンスではないのか? と考えたのです。

よく分からない人にはどうでも良いようなことかもしれませんが、実は私は、そのちょっと前、アメリカの「患者の権利章典」について調べる機会があったのです。ここでは「患者」は、時によりクライアントという言葉で語られます。クライアントというのは顧客という意味で、商店の客と店員の関係のような使われ方をしているのです。(医学書院から出ている拙訳「ナースのための循環器病患者教育マニュアル」をご参照ください)

また、「インフォームド・コンセント」という分厚い本では、まず医療者の親切心や使命感を、「封建的な父親のようなおごり高ぶった恩恵心」と切って捨てるところから始まります。そして、あくまで患者の自立を損なうことなく、必要な情報を過不足なく伝達することに徹せよと説くのです。

これはどうもおかしい、少なくとも民医連綱領の「患者の立場に立った親切でよい医療」というときの「患者」像とはかなり差があるぞ、と思っていたのです。

 

C 「患者」とはなにか?

最初の「医療」という言葉についても、使っている人のあいだに食い違いがありました。「患者」という言葉も、人によって定義の仕方が違っていて、そこを正確にした上で話さないと、いつの間にかつまらないケンカになってしまいそうです。

ふつう「患者」は病院にかかっている病人のことです。ではクイズ、かかっていない人は何でしょう? 「患者」ではないけど病人です。私は患者という括り方との対比を明らかにするために、病人ではなく「病者」という言葉を作りました。

「患者」は「病者」の一部で、病院にかかっている人たちを指すことになります。綱領で「患者の立場…」というときの「患者」は、実はこの「病者」にあたるのではないかと考えています。

 

 

U 療養権を考える

D 病者の権利とは何か?

「患者の権利」は分かりました。では病者の権利はどうなのでしょうか? それは「患者の権利」とは違って、医療従事者に対する権利ではありません。うんと広く言ってしまえば、憲法に書かれたように「健康で文化的な生活を営む」権利で、社会に対する国民としての権利です。

しかしこれは健康な人も含めた日本国民一般の権利であり、病者に特有な権利ではありません。

とりあえず、私は「病者が病者として病者なりの、健康で文化的な生活を営む」権利ととらえてはどうかと考えました。一口で言ってしまえば「病者の生存・生活権」です。

しかしそれだけでは、何を言わんとしているのか良く分かりません。でも分からないなりに、すくなくとも、病者の権利が基本的に国民の権利としての「生存権」に由来し、その一部をなすものだということは分かります。

そういう国民の生存権との共通性、そして同時に病者であるがゆえの特殊性とを明らかにする作業が必要だということも分かります。それ以上は、病者の営みというものを具体的に探ってみないと、はっきりしません。

たとえば障害者、たとえばアイヌ人の人々の生活の営みというのは、見たところ普通の人とそれほど変わっている訳ではありません。それぞれの「生存権」の概念は、「病者」を「障害者」、「アイヌ人」と置き換えてみれば分かります。

現在、世界では、グローバリゼーションに対抗して「多様性」という考えが強調されています。ともすればゲイだとか勝手気ままな生き方が注目されてしまうのですが、実態としてはもっと差し迫ったものです。「多様性」の考えの基本にあるのは、スマップの歌ではないが、「いろいろな生き方が尊重される」という発想の共通化です。

 

E 病者の「営み」とは何か?

健康な人にはない、病者特有の活動とはどんなものでしょう? 薬を飲むこと、食事に気をつけること、規則的な生活と運動などを心がけることなどでしょうか。でもこれらのことは、健康な人でもやっていることです。何とかエキスとか何とかサプリとやらを飲んでいる健康そのものの方も、その辺にゴロゴロいます。

そうすると、病者の営みというのは、そのような目に見える表面的なものではなく、もう少し内面的なものと考えたほうがよいようです。「病者の営み」の定義は、その形態よりも、その目的によって定められていると考えるべきでしょう。

分かりやすい例を挙げると、たとえば労働という活動は、給料をもらうための仕事です。食事を作るのも、洗濯をするのもたしかに仕事には違いありませんが、それだけでは労働にはなりません。逆に、本を読んだり歌を歌ったり、スポーツをしたりするのも、その道のプロにとっては労働になります。

病者の営みというのは、ここでいう場合の「仕事」ではなく、「労働」のほうの枠組みに近い概念でしょう。

私は、病者の営みの目的を次のように考えています。第一に、病いや病いのもたらす苦しみと向き合い、それを克服しようとすること、第二に、病いによってもたらされる生活上の障害に対応すること、第三に、病いの中にあっても健常者に伍して生きがいを追求しようとすること。

言い換えると、病者の営みとは、上記のような目的を達成するためのさまざまな活動の総称ということになります。

(本の中ではもう少しかっこよく書いています。「療養活動は重層的な内容をふくんでいる。それは主体的意志にもとづいて病気を治していく活動でもあり、社会への復帰と適応を実現する活動でもあり、その中で自己をより豊かに実現していく活動でもある。その過程は、それ自体が個人にとって目標を持った生活過程であり、病前状態へのたんなる復帰ではない」)

これらの営みを「療養」の営みという言葉で括ることにしました。いわば病者の営みは、生活のどの部分、どの部分というのではなく、生活過程のすべてがトータルとして「療養の営み」という側面を持っていることになります。これが、「病者が病者として病者なりの、健康で文化的な生活を営む」権利ということにつながっていくわけです。

急に話が難しくなってしまいましたが、ここではとりあえず、なんとなく分かって置いてください。

 

F 療養の営みの特徴

病者には助けが必要です。第一の営み、闘病過程には医療者の診断と治療、家族や友人の心の支え、社会の理解が必要です。第二の営みには病院など医療供給システムや、医療保険など社会的バックアップが必要です。第三の営みには、弱者の持つハンディキャップを補い、正常生活に出来るだけ近い生活条件を作り出す必要があります。

これらの助けがあって初めて、病者は療養の営みを実行できるのです。そして病気が治ることによって周りの支えなしに自活できるようになり、療養の営みを終えるのです。

そういう風に考えると、療養という営みの最大の特徴は、他人の助けを前提とする営みであるということになります。(さらにいえば、他人の助けを借りながら、他人の助けなしに生活できるようになることをめざす営みでもあります。これについては、本の第二部で割りと七面倒くさく考えています)

療養の営みを語る上で留意しておきたいのは、現代人の社会生活が大なり小なり、資本主義システムによって「疏外」されているのと同様に、療養生活もゆがめられているということです。そのゆがめられた形態だけを見て、本質を見誤ることは避けなければなりません。

 

G なぜ、病者の営みが権利という性格を持つのか

病者が療養活動のために医療者、家族、友人、そして社会に助けを求めるのは不当なことでしょうか? こう聞かれて「不当だ」と答える人はほとんどいないでしょう。苦しいときはお互いさま、助け合うというのが社会というものです。

しかし、かつては「ケガと弁当は自分持ち」といって、病者に責任が押し付けられていた時代がありました。今でもお金持ちやお役人の中にはそう思っている人がいます。

そもそも、社会の人々がみんな、病者の要求を当然だと考えているなら、その要求が「権利」だなどと改めて叫ばれる必要はないはずです。そうではないから、それとは逆の事態が進行しているから、私たちはその要求を「権利」として声高に主張しなければならないのです。そしてそうやって、この権利は少しずつ実現してきたのです。

病者の営みが権利性を帯びるのは、もうひとつ理由があります。人間は病いを負わされることにより病者となるのですが、病者は療養活動の主体となることによって、たんに支援をもとめる「か弱い被害者」にとどまることなく、能動的な「療養者」となっていくからです。そして自らの要求を、国民としての当然の権利として突き出すからです。

病者を取り巻く人々も、はじめは病者を支えるものとして病者に向き合いますが、「病者を支える営み」の当事者となることによって、自らの要求を権利として自覚し、主張するようになります。「看護する権利」は、育児休業などの形で部分的に権利として認められるようになりました。家族を介護する労働者が、遠距離配転を拒否してたたかうケースも各地で生まれています。

医療者の行なう生活改善などの闘いも、広い意味でここにふくまれてくるでしょう(病者を支える活動については第三部、「診療権」については第一部)。

このことによって、社会を支配する人たちも病者たちの要求を「不承不承」認めざるを得なくなります。そしてその積み重ねが権利として定着していくのです。

 

V ちょっぴり薀蓄を

全日本民医連の第35回総会後の第3回評議員会で、「受療権の擁護」が高々と掲げられました。この文章の中には、「学習し、調査し、連帯し、行動する」を合言葉に活動を強めようという表現があって、私の本の「学び、調査し、告発し、行動し、組織する」というくだりを参照しているようなのですが、療養権までは踏み込まずに終わっています。

そして第36回総会では、ただ一言、次のように療養権という言葉が用いられていますが、療養権についての説明はありません。

徹底的に地域・患者に寄り添い、現場・地域から具体的な受療権をまもるとりくみを強めます。私たちの「目とかまえ」「人権のアンテナの感度をたかめる」ことが重要です。医療・福祉の現場から受療権、療養権をまもるとりくみなどを日常化させ、定着させることに、こだわり続けましょう。

療養というと、古い人は結核療養所を思い出します。療養権は、療養所の入所者にとって切実な権利でした。そもそも朝日茂さんのいわゆる「人間裁判」は療養権をめぐる訴えそのものです。それは直接、憲法25条の生存権と結びついていました。ただし「療養権」という言葉はここでは用いられていません。これに対し、らい病患者さんの組織では療養権という言葉がはっきりと語られていました。

いずれにしても療養権といえば療養者、つまり療養所に入っている人の権利であって、娑婆の世界とは隔絶したものというとらえ方があったと思います。そういうイメージがあるだけに、現代医療に古臭い「療養」という言葉を持ち出すのには抵抗があるのかもしれません。

もうひとつ、療養という言葉は大体が官庁言葉で、その響きもあまりいいニュアンスではありません。療養型病床群、療養給付、療養費払い制度、高額療養…

しかし、今日、古い人たちの思いを乗り越えて、療養という言葉がどんどん用いられるようになっています。在宅療養、療養型ヘルスケア、生活療養など枚挙に暇ありません。いわば「療養」という結核全盛時代の言葉が、新たな形でよみがえりつつある、そういう時代といえます。若い世代には、むしろ新鮮な提起として受け止められるのではないでしょうか。

 

W とりあえずの結論

H 「療養」という言葉を使うと何が分かるのか

高校の幾何の時間で、外挿線というのを習ったことがあります。難しい図形の面積がこの線を一本引くことですらすらと解けてしまうのです。「療養」という新しい言葉も、このような性格を持っています。

療養という言葉は、「患者が主体となる」行為・活動を一言で表す動詞(動名詞)です。これまでは「治療を受ける」とか「病を癒す」とか、もって回った言い方をするしかありませんでした。この言葉によって、「患者の権利」は受動的な権利ではなく、能動的な、主体的な権利となります。

(民主的教育者のあいだでは、教育を受ける権利を主張するだけでは「受動態的権利」にとどまっており、教育を受ける中で発達する権利こそが主体的権利であり、本質的に重要なのだと主張されていますが、卓見です)

もうひとつは、「療養」活動は、患者としての活動ではなく、病者の活動だということです。それによって活動の枠は、病院という場所だけではなく地域や職場での活動も含めて広がり、時間的にも病者の全生活をふくむようになります。

この二つのことから、「病者の療養する権利」は憲法25条の「健康で文化的な生活を送る権利」に直接つながるものとなり、国民的な広がりを持つようになります。また、教育を受け、学習し、発達する権利や、人としてふさわしい労働をおこなう権利と結びついて、ひっくるめた「人間として生きていく権利」の一部を構成するようになります。

(本では故久保全雄先生の著書「生きる条件」を参考にしながら、次のように書いています。「療養者の療養活動の手段は、健康者が健康に生活するための手段と一致する。人間として働くのにふさわしい仕事の確保、人並みに暮らせる最低賃金、健康を損なうことのない労働時間、職場の衛生と安全、社会保険や公的サービスの充実など、働く人々の社会条件の獲得は、そのまま療養者たちの生活と健康を守るための条件でもある」)

また医療や介護の活動は、病者の療養活動を助け、国民の療養権を保障する活動、そのために社会から付託された活動として位置づけられるようになります。私たちが目指す「共同の営み」の拠って立つ基盤が極めて分かりやすくなります。

さらに、そのことから、私たちが「良い医療を」と願うことは、患者さんに対する義務としてだけではなく、国家に対するひとつの権利でもあるのだ、ということが明瞭になります。

最後にもうひとつ、いま、民医連は医療だけでなく訪問看護、在宅介護、グループホーム、デイケアから薬局までその業務を大きく拡大しています。それは民医連だけではなく、多くの医療機関が患者さんの日常生活にまでウイングを伸ばしています。

そうなると「民医連とは何か?」というのが、大上段に振りかざした質問ではなく、「民医連て何屋さん?」という風な素朴な形でも問われることになります。やはり「患者の受療権を守る」というだけでは、少し具合が悪いので、「病を負った人々の立場に立ち、国民の療養権を守るための諸活動を行なう組織なんだ」とでもいうと、もうちょっとサマになるのではないかと感じます。

 

I これからの実践的・理論的課題

一時期ずいぶん叫ばれた「患者の権利」論は最近下火になっているようです。これはこれとして大事な権利のひとつではありますが、それだけでは、病者の権利をどう守り、医療制度をどう変えていくのかという国民的な問題意識にはつながりません。

これに代わって、最近民医連では「受療権」という言葉が多く使われているようです。これは療養権の本質的な一部をなす大事な権利です。病者の営みの核心となる闘病過程は、病院での診療という助けを借りなくては実現できないからです。(受療権の位置づけについては私の本の第一部で詳しく説明していますのでご参照ください)

しかし病者は生活の大半を、病院ではなく家庭やコミュニティーの中で送っています。したがって、それらの生活過程をひっくるめて「療養」活動という視点で見ていかなくてはなりません。とくにお年寄りや障害者などの場合は、身の回りのお世話や介護、生活援助もふくめて見ていく必要があります。(これについては第二部で具体的に述べています)

つらつら鑑みるに、むしろそういうトータルな療養生活の一部として受療活動もあるのだと見るべきでしょう。そして受療活動に対応するものとして、私たち医療者の医療活動も存在しているのだと考えるべきでしょう。

これは発想の転換です。医療者と患者との関係も、これにもとづいてもう一度、根本から考え直さなければなりません。そのなかから「共同の営み」の理論も練り直す必要があるでしょう。(それは私の本の第三部にあたるのですが、いずれ別の機会に述べたいと思います)

とりあえず、そういった枠組みだけは作り上げましたが、療養権と療養活動の内容を豊かなものに仕上げていくことはこれからの課題です。皆さんの積極的なかかわりをぜひ期待したいと思います。

2005.10.03