インフォームド・コンセント(IC)を考える |
ICをめぐる三つの流れと,その階級的評価
目次
第一節 ICをめぐる三つの流れ
医療者=病者関係を考える場合,今日の日本においてはICをめぐる議論を避けては通れない.共同のいとなみを論じていくためにも,ICの評価が必要であろう.誤解を避けるため,ここでは「手続きとしてのIC」と「原理としてのIC論」とを区別して論じることにする.「原理としてのIC論」というのは,ICの基盤となる思想,目的,方法などについておこなわれている議論である.
ICを,合意を得るための手続きと考えるなら,それはすでに日本にも定着しつつある.
廣瀬によればコンセントとは「同意」ではなく「同意書」の意味で、ICは「詳しく説明した上での承諾書」という意味で用いられているという。
従来ムンテラと呼ばれてきた患者への病状説明は,間違いなく相当いい加減なものだった.説明に看護婦などが立ち会うこともなく,説明の内容がカルテに記載されないこともしばしばであった.
ICの考えと同時に導入された同意を得るための手続きは,多くの病院でマニュアル化され具体的に実践されつつある.それは間違いなく患者の情報へのアクセスに画期的進歩をもたらした.
約十年来のこのような変化は,封建的で独善的な医療への市民的抗議の高まり=医事紛争という現象とともに日本にもたらされた.そのときにキーワードとされたのがICである.そしていまやICなしでは夜も日も明けないような仕儀にあいなっている.
その割にはIC論は極めて分かりにくい.その最大の理由は,インフォームとかコンセントとか聞いたこともないような言葉が並ぶことにある.コンセントといえば電気の差込み口というのがこれまでの常識である.もともと法曹界の用語であるICが,果たして医療の場で普遍的に妥当するかどうかは米国でも意見が分かれている.
さらに患者の自律的な意志決定過程を,入口の「説明」と出口の「同意」の二つで表現するということにかんする問題も指摘されている.「説明と同意」という日本医師会の訳語に異議を唱える人がいるが,「IC」という言葉自体には本来それだけの意味しかないのである.
ICが極めて分かりにくい概念であるのは,さまざまな立場の人がさまざまな思いでこの言葉を定義し,それを万人共通の定義であるかのように用いていることにも原因がある.当面する告知の問題,終末期医療や安全性の問題などから医学教育まで,およそあらゆる議論がICの名の下に裁断される傾向がある.だからわれわれは,ICを議論する前にまず,これらを類型化してみなくてはならない.
まず第一は,患者の自律的判断を最大限保障することに主眼をおく流れである.これは米国の法曹界の主流を占める理論とされる.医事訴訟における法理論を集大成したものであり,いわば「法理的IC論」ともいうべき流れである.
二番目は,日本では「法理的IC論」と混同されて論じられることが多いのだが,患者の自発的参加を医療の不可欠の要素として押し出し,そのことを医師の責務として論ずる流れである.
ニュルンベルグ綱領に源を発するこの流れは,米国というより世界の医師の共通の意識となりつつある.この流れは米国においては「法理的IC論」と連動しながら広がっており,ここでは「倫理的IC論」と名付けておく.しかし,本来は医療者の道徳原則にかかわるものなのでIC論とは別の議論である.
廣瀬はこれについて皮肉な見方をしている。ICはむしろ医療訴訟から身を守るための手段であり、医師会・病院協会や保険会社が医師に対し強力に要求したものだと。
三番目は,ICや「患者の権利」法案などを巧みに利用しながら,一方では世論を「自助・自立論」へと誘導し,他方では医療現場での矛盾を医療者対患者の矛盾にすり替えようとする流れである.その典型を大統領委員会の報告に見ることができる.
この報告は全体として「倫理的IC論」に軸足を置きながら,「法理的IC論」との統合を図っている.その限りではきわめてまじめな,それなりに説得力のある文章である.
しかし結局のところ,調停者であるかのようなポーズを取りながら,政府の責任を糊塗しようとする目論見がベースにある.したがって至る所で論理矛盾と安易な折衷主義をもたらさざるをえない.
ただ政府にとって,それはどうでも良いのである.政府にとって肝心なことは,受療行動をふくめた療養活動をあくまでも「私事」にとどめておくことなのだから.
山田は「逸脱行動」が問題になる私事として服装、ホモ、中絶、危険なスポーツ、飲酒・喫煙、輸血拒否、安楽死、自殺などを挙げている。法廷ではこれらは「私事権=プライバシー」として主張される。
私には療養活動がこれらの行動と肩を並べるような「私事」には思えない。彼らの狙いはそれだけではない.自らの責任を回避しつつ,医療に対する法的規制強化にもIC論を利用しようとしている.それは大統領委員会の報告を読むだけでは分からないが,その後の現実の動きを見れば明白である.それはいわば「反動的イデオロギー的IC論」である.
おそらく第二,第三の流れに対しては,今後多くの論者が検討を加えるであろう.ここでは「法理的IC論」の代表とみなされる,フェイドン&ビーチャムの著書「インフォームド・コンセント:患者の選択」について若干の評価を加えてみたい.
第二節 IC論の枠組み
まず最初に結論からいえば,法理的IC論(以下IC論と略す)は,少なくとも日本における医療変革の立場からは,安易に受け入れることのできない理論である.その第一の主張は,医療者が正しいと考えてきた道徳原則を,患者の自律性尊重の思想と根本的に対立するものとして拒否することにある.彼らは,これまでの医療道徳そのものに人権侵害をうみだす本質的な契機があるとし,それを拒否する権利をIC論の核心に置く.同時にこの権利を行政的,法律的に補強することによって医療者を統制しようとする.
その出自,医事紛争で患者側を代弁する経験の中から形成されてきた経過からして,IC論は医療者に対する根底的不信であり,もっとも徹底した医療告発論といえる.
彼らは医療者の持つ本質的性向を「パターナリズム」と規定する.パターナリズムの名において弾劾されるのは,ヒポクラテス以来の医療道徳体系のすべてである.それは「善行の論理」と呼ばれる.ひらたくいえば「人になにか善いことをしてあげる」というお節介な考えであり,本質的に病者の人権への介入を前提とする考えとされる.
第二に,これは第一の主張の裏返しともなっているのだが,医療実践を純粋な技術学的行為と見なし,その枠内に押し込もうとすることである.医療実践は,そこでは神秘のベールを取り払われ,人体の補修という機能においてとらえられている.
この行過ぎた単純化によって,彼らは医療関係という社会的人間関係を,自立した個人同士の抽象的社会関係一般に還元してしまうのである.そこでは医療者=病者関係のもつ具体的個別性や歴史的特殊性は無視される.
これは一面では医療者の社会的責務からの免罪につながる側面を持つ.当然踏むべきいくつかの手続きを踏めば,あとは「良質な医療の提供」に専念するだけで医療者の責任は果たされるのである.医療システムが極度に専門分化したような部面では,このような議論はむしろ歓迎される可能性がある.しかし大多数の医療者はこのような割り切りかたには反対である.前節でも触れたように「倫理的IC論」は,これまでの医療道徳をさらに開かれたかたちで徹底すべく,ICを提起しているのではなかろうか.
第三に,自律性原則の過度の強調である.著者は「自律性を中心価値,唯一の目標とした社会」をモデル化し,徹底した個人主義を基調に議論を展開する.
そこでは医療関係が本質的に内包している(と私は思う)擁護=被擁護の関係は拒否される.擁護されながらそれを通して自立へ向け歩んでいく過程も,そこでは考慮される余地がない.そして病者の療養要求はむしろアメニティー概念のほうに収斂されていく.
病者は最初から最後まで自立した人間として仮想され,自立し続けることを強制される.しかし問題にすべきなのは自立した病者の権利ではなく,病者が病者として自立していく権利なのではないだろうか.
自律性を強調することは,支配者の流す「疾病の自己責任原則」と合致する可能性がある.だからこそ厚生省は一生懸命IC論を宣伝するのかも知れない.
第四に,これほどまでに強調される自律性とはなにか,ということになると極めて漠然としている.まず問題は自律性概念から主体をいっさい排除することである.そして自律性とは自律的行動の集合概念であると論理設定してしまう.プラグマティズムの悪しき伝統にズブズブと浸かっていくのである.
徹底して患者に自立性を要求する彼らの議論は、児童の主体性にすべての教育を従属させるかつてのプラグマチズム教育の理論と瓜二つである。この点については「戦後教育論争史」を参照されたい。
第7章以後,著者は,自律性概念を確立しようと堂々巡り,同義反復,定義不能などをくりかえし,挫折に挫折を積み重ねていくのである.彼らは決して実存の高みに登っていこうとはしない.それは迷路に入れられたネズミのごとく,地べたを這いずり回るリアリズムである.
こうしてかれらは最終的には論理的アナーキズムに陥る.「自律だ,ワッショイ」である.そして最終章ではうってかわって,穏やかで物分かりのよい表現が脈絡なく出現する.その間無惨な理論的苦闘の跡がうかがえ,それなりにおもしろい.
第三節 「決断」の真正性ところで,彼らが自律性の議論を闘わすのは,とくに告知や,癌の治療法決定に関する場面である.これらは医療の中でも特殊な場面であり,特殊な議論を要するし,逆にその議論を医療一般に普遍化することもできない.
彼らは「決断の真正性」を問題にするが,そもそも「決断」という非過程的過程に真正性を問うこと自体がまちがいである.
ちょっとまともに考えれば当たり前のことなのだが,「決断」は不条理な状況と自己自身の孤立化を前提としている.それによってもたらされる「可能的実存」への衝動と自己否定=投企が「決断」なのである.
「決断」とは意識の不連続な跳躍であり,あえていえば本質的に非合理なものである.そのような発想の延長上にあるのは,常識的な判断からの「乗り越え」であり「破滅の自由」である.例えば一切の治療を拒否する自由であり,「安楽死」であり,自殺する自由である.
法理的IC論は一見,カント主義であり合理主義であるように見えながら実際は形式的合理主義である.そのために不連続点における判断=決断は,そこまでの論理に対して合理的であろうとすればするほど主観主義,非合理主義に陥ることになる.
それは機械的唯物論と実存主義の接ぎ木であり,不様な二元論である.彼らの決意形成過程論はサルトルそのままに非合理である.
私達の視点からすれば,実践という日々の行いこそが現存在の否定であり,否定されたものとして外化された存在の肯定である.すなわち擁護をもとめつつ自己を確立しようとする主体としての自己確認である.
そこでは極限状況をアプリオリに設定するのではなく,ICをふくむ全経過を通じて形成される共同的かつ個性的な療養主体と,その過程を探っていくことこそが課題となる.「決断」はそのようないとなみの射程のうちに捉えられるべきものとしてあるのである.
これはそんなに難しい話ではない。「日本泥棒物語」という映画があった。三国連太郎の扮する泥棒が犯行のさなかに松川事件の犯行現場を目撃した。
彼は鈴木瑞穂扮する民主的弁護士に促され、ついに証言台に立つ決意をする。この時の泥棒の決意形成過程を哲学的に表現したのがサルトルである。ところでわれわれが問題にしているのは鈴木瑞穂がなぜ民主的弁謹士になったのかという点である。
第四節 カントの強調と読み違い
著者は患者をみる視点として,しばしば「カント的倫理」を肯定的に持ち出してくる.その場合「カント哲学に表現されているように,自立的人間の目的は自分の運命を自分で決めながら,自己表現することであり,人はたんに他人の目的のための手段としてあつかわれるべき存在ではない」などと表現される.要するに,人に支配されない独立性こそがカントの求めていた普遍的道徳なのだということなのだろう.
しかし著者のいう「自律性」こそは,カントが批判する「外的自由」に留まるものではないだろうか.
第一にカントは,生きていくうえでのさまざまな障害を,自己の自由を妨害するものとして単純に排斥することはしない.
確かに彼にとっては自己意識の全面的表現こそが至上の価値を占め,自然的条件はあくまでも自己意識に対する所与として提示されている.
しかしカントが人間を「動物的な、しかしそれにも関わらず理性的な存在者」と規定するとき、すでにそこには人間の弁証法的理解への想いがある。カントは、動物的であるがゆえに理性的であろうとする過程を人間的存在と捉えるのである。
しかしカントは人間主体を唯一の出発点とし,外的自然性を条件的なものと見なしつつも,その外的自然性を取り込みつつ自己を豊かに実現していくことを自立=内的自由の内容とみている.
第二に,このような自立と人々との共同とは相補的である.人間を尊重するということを,自立への要求やその過程を尊重することと考える人々の共同体,そのような道徳的共同体が彼のもとめる社会である.だからこそカントは,人間の自然性にもとづく根源的な衝動として「他の人間との共同生活を求める素質」を強調しているのである.
さらにカントは進んで,共同への志向と独立への志向の「敵対」の内にみずからを発展させるものとして人間を規定している.擁護=自立関係こそカントの思想そのものなのである.
第三に,このような共同は構成員の自立を前提にしてなり立っているが,その自立はさしあたり可能性としてあるのであり,諸個人の能動的・悟性的実践の中で現実化するのである.カントにとって個人的自律は自立のための最終目標ではない.それは「外的自由」のレベルから理性的共同体への発展を遂げる上でのキー概念であり,出発点となっているのである.共同の実践こそは共同的自律の母であり,自立した諸個人の結合としての共同体の基礎をなすのである.
要するに,カントは著者のような考えをこそ批判しているのである.
第五節 法理的IC論の具体的展開
先に挙げた法理的IC論に関する四つの懸念は,米国での動きのなかで現実のものとなっている.その実状は廣瀬の「アメリカが大変だ」「アメリカ医療はどこへ行く」に詳しい.
まず徹底した医療者に対する不信である.医療裁判はすさまじい件数に達している.弁護士は患者に訴訟を起こすよう積極的に働きかけている.
ニューヨークでは少なくとも10以上の弁護士団体が、テレビで「いっさい費用なしに、ただちに調査を開始し賠償金を獲得してあげます」と宣伝しているという。
医師はつねに裁判のリスクを負いながら仕事しなければならない.およそありとあらゆる不満が,直接医療者にぶつけられている。
訴訟理由の1/4は院内での転倒事故であるという。
いまや裁判を抱えていない医師はいなくなるほどである.
現状では10人中7人の医師は訴訟歴を持っており、ニューヨークでは毎年医師の2割が訴えられている。すべての外科医、産婦人科医が2年にl度は訴えられる計算という。
訴訟の多発は保険料の引き上げとなって跳ね返っている.
2/3は医療側の勝訴になるが、裁判に勝っても弁護士費用が平均3万ドル、負けると平均100万ドルの賠償金という。
いまや医師の実収入の多くが保険料として支払われ,生活を圧迫するほどになっている.
ニューヨークにおける保険料は医師の実収入の2〜4割、外科医の年間保険料は5万ドルに達する。それでも保険会社は大幅な赤字という。
それは結局医療費となって病者にしわ寄せされていくのである.
訴訟を避けるために必要以上の検査を行う、いわゆる防衛医療に使う費用などの総額は130億ドルに達するという。
政府機関や医療保険会社は,このような動向を利用して診療マニュアルや病名別定額制度を医療機関に押しつけている.このため医療の統制化が極度に進みつつある.同僚監視という名の下に診療内容が常時監視され,ミスは医師資格の喪失につながる.
1年半で全医師の4%が調査され、133人が当局に書類を送られた。内容は例えば入院中の床ずれ、抗生物質の副作用、患者の自殺企図、病院内転倒による骨折や切傷などという。
その失策は犯罪歴のごとくコンピュータに永久保存され,全国に周知徹底される.
病院は医師を新規に麗用するとき、コンピュータで前歴照会をすることが義務づけられているという。
医療者はマニュアル以外の行為には手を出さず,ひたすら保身に専念するようになった.訴えられる確率の高い貧困者層に対しては診療を拒否するようになった. 貧困地区では医療機関そのものが消失しつつある.
私立病院は救急患者に対し「財布生検」を行い、費用回収の見込めない患者は公立病院に転送するという。
一連の事態の背景には余りにも高い医療費,特権的な医師(とくに専門医)の収入,療養費払い制などがあり,医療側に対する不信を募らせるだけの土壌があったかも知れない.しかしもう少し歴史的に見れば全国民を網羅するような公的保険制度の欠如が究極的な問題であろう.
経済困窮患者の未払い医療費は127憶ドル(約1兆5千万円)に達するという。
その背景にはあくまでも療養活動を私事に押し込んでおこうとする政治的な動きがあるとみなければならない.