「共同のいとなみ」と医療労働

日野氏と西田氏の所説に対する若干の疑問

この文章は,1990年頃に執筆したものです.私が,理論活動にのめりこむきっかけとなった,思い出の文章です.ずいぶん手を加えて,何とか発表を狙ったのですが,ついに日の目を見ることなく終わりました.インターネットのおかげで,とにかく不特定多数の目に触れるチャンスができたことは,嬉しいことです.

目次

一 はじめに

二 日野氏の医療労働過程論

三 患者は医療労働の対象か

四 西田周作氏の労働対象論

五 患者は医療労働の労働手段か

六 「自然治癒力」とはなにか

七 患者は医療労働の主体か

八 日野氏の論拠について

九 患者は「医療行為」の主体か

十 たたかってこそ民医連

十一 おわりに

 

一 はじめに

 いま民医連が90年代の医療運動の地平を切り開くうえで、重要な思想課題のひとつとして「共同のいとなみ」の考えが強調されています.わたしはこの点について基本的に賛成です.それと同時に「共同のいとなみ」がより正確に規定された概念となるために、さらにいくつかの理論的作業が必要だろうと思います.それはたとえば「いとなみ」という表現に託された意味を、より正確に理解することであり、誰と誰がなんのためにどのように「共同」するかを明らかにすることです.そしてその「共同」の歴史的必然性と役割を突き出すことです.

 そのためにも医療労働の労働過程や患者の療養過程についての理論的解明がもとめられています.

 日野秀逸氏はいうまでもなく日本の民主的医療戦線を代表する理論家のひとりであり、まさにその医療労働過程の解明において、これまで先駆的な研究を続けてこられた方です.ただ、最近刊行された「講座日本の保健医療」の第五巻「現代の医療と医療労働」の第一章「現代日本の保健・医療運動」ににおける日野氏の見解については、簡単に首肯しえないいくつかの疑問を感ぜざるをえません.

 今回わたしは、日野氏の医療労働過程論に対し率直な疑問を述べさせていただくと同時に、医療労働過程と患者の療養過程の視角からとらえた「共同のいとなみ」の論理構造をわたしなりに解明してみたいと思います.

 

二 日野氏の医療労働過程論

 わたしが疑問とする部分は「保健医療労働における患者の位置」という節で,このうち第一項が「患者は医療労働手段である」、第二項が「患者は医療労働の主体である」と題されています.疑問はこのふたつの項に集中しています.

 第一項「患者は医療労働手段である」で、日野氏は次のように述べています.

 医療労働の過程においても、生産労働の過程とおなじように三つの要素(契機)がある.すなわち労働主体・労働対象・労働手段である.医療労働においては労働の対象は「現象的には」患者である.西田周作氏の意見を借りるなら「生体」である.

 次に日野氏は労働手段にうつり、「患者は医療労働の労働手段である」と定義されます.なぜなら患者には自然治癒力があり、これを手段として病気をなおすからである、と説明しています.この場合、薬や手術などの治療手段は「第二労働手段」で、自然治癒力の働きを助けるものとなります.

 第二項「患者は医療労働の主体である」では、日野氏は患者が医療労働の対象であり労働手段であるだけでなく、労働主体でもあると規定します.この際医療従事者は主体ではないのか、それとも共同の主体なのかは触れられていません.しかし氏の他の著作から医療従事者も医療労働の共同の主体と見ていると考えられます.

 

三 患者は医療労働の対象か

 最初に結論からいうと、わたしは、患者は医療労働の労働対象でもないし、労働手段でもないし、労働の主体でもないと考えています.ただし患者が医療労働の対象ではないという主張には若干の説明が必要でしょう.日野氏も「保健・医療労働において、患者が労働対象であるということは、現象的にきわめて当然のことと受け止められよう」と条件つきの規定をしています.

 たしかに「現象的に」はその対象は患者であると言ってよいでしょう.しかし労働そのものの対象は、直接的には患者さんの中に潜む病気です.あるいはそれと葛藤しつつある病める肉体です.

 日野氏が一五年前に医療労働論を展開した著書「医療の基礎理論」には、五・ページにわたって「医療労働はなにを対象とするか」が述べられています.そしてまさにわたしが言おうとする内容が展開されています.  

「従来、医療労働の対象は人間であると言われてきました.これは誤りではありませんが、それだけでは教育とか、人間を運ぶ輸送などとの区別が明確になりません.また、ともすると医療労働の対象が人間であり、かつ、その生命に直結するということから、医療労働者の『優越感』をくすぐる傾向の議論もあります」

「それでは、医療労働の対象は何でしょうか.わたしは、人間の健康という観点から把握された人体および環境ではないかと考えています.」

「医療労働対象は、人間の健康という相面からとらえられた人体であり、自然・社会環境である.これは伸縮自在である.……このひろがりは労働手段によって規定される面と、生存権・健康権に基礎をおいた基本的人権の定着度、医療労働力の水準によっても規定される面がある.とくに医療においては、生存権・健康権との関わりが密接なのがその特殊性であろう」

 つまり医療労働の対象を患者=人間と考えるのは現象的なとらえかたであって、それでは不十分だということが強調されているのです.とすると、現在の「保健・医療労働において、患者が労働対象であるということは、現象的にきわめて当然のことと受け止められよう」といういいかたはいささか舌足らずの感を受けます.

 

四 西田周作氏の労働対象論

 日野氏はこの項のなかで何回かにわたって西田周作氏の文章を肯定的に引用しています.しかし引用文をよんでみると、西田氏は患者が医療労働の対象とは言っていません.「このような患者の生体を、健常なものに転化させる医療にとって、対象は不健康な生体であって、これを用いて、手段として、健康を作りだすのである」.

 日野氏の説はひとまずおいて,西田説はまた別な問題をふくんでいます.「労働対象は人体および自然・社会環境である」とする日野氏の旧規定と一見類似しているのですが、ここでは労働対象が「人体」ではなく「生体」として表現されているからです.この引用文だけ見るかぎりでは、両者の違いは些細なもののようにもみえますが、西田氏の著書を直接参照するとそうではないことに気づきます.

 西田氏は「自然弁証法と生物科学・生物技術」という著書のなかで医療労働を次のように規定しています.

医療労働の結果としての、その生産物は健常体であるという意味で、医療もまた一種の生産の営みに属するとみられるのである.生命の再生産、修復、保健などは、その本人(患者)と医療関係者との協力による労働、医療労働によっておこなわれる生産的労働であるとみなされる.(自然弁証法と生物科学・生物技術:八七ページ)

 このように、西田氏は医療労働をはっきりと生産的労働として規定しており、その立場から医療労働過程論を展開しているのです.健康を「作りだす」ことが医療労働の目的とされ、そのための素材、あるいは手段としてのかぎりにおいて「生きた体」が措定されています.ここに西田氏が労働対象をあえて「患者の生体」と表現する必然性があります.

 畜産学に造詣の深い西田氏にしてみれば,獣医学は生産的技術学の一分野とみなされます.それは劣った品種を淘汰し優れた品種を繁殖させる品種改良や,殺した家畜を対象とする食肉処理と対比されるべき技術学です.

 牛も馬も,経済学的に考えれば「生きた商品」です.「生体」であることに商品価値があるのであって,その故にこそ獣医学が社会的に存在しうるわけです.

 「医療労働は生産労働である」という規定は、相当深刻な議論となります.医療労働は、わたしにはすくなくとも西田氏の言われる意味での生産的労働とは考えられません.この点についてはいずれ稿をあらためて論及したいと思います.

 

五 患者は医療労働の労働手段か

 次に「患者は労働手段である」という規定について考えてみたいと思います.まず日野氏の説明を聞きましょう.

 「患者は、医療労働においてみずからの身体を診断や、治療のための手段として用いることが少なくない」これが「患者=労働手段論」の最初のテーマです(傍点筆者).

 かなり分かりにくい文章です.これはじつは次の項で展開されている、患者がみずから自分の体をなおすのが医療労働なのだという「患者=医療労働主体」規定につなぐための表現だからです.

 しかしここでは「患者は労働手段か」どうかということを吟味するので、いったん「普通の言葉」になおしてから検討したいと思います.文章はこうなります.「医療労働者は、医療労働において、患者の身体を診断や治療のための手段として用いることが少なくない」.

 つまり日野氏が具体的に例証としてあげている部分では、労働手段としてあげられているのは人間のもつさまざまな身体的=自然的特質ということです.だとすればなぜ「患者は労働手段である」と表現しなければならないのか?.

 一般的には患者という「人間」が労働手段になるはずがありません.それでは「労働」の定義そのものが崩れ去ってしまいます.これが第一の疑問です.

 第二の疑問は、もし「患者」を「患者の身体」と言い換えれば、それは医療労働の「主要な労働手段」といえるだろうか、ということです.たとえば「患者さんの、『ヒト』という生命体として持っている自然的特質をも利用しながら」と言うだけではいけないのでしょうか?.

 たしかに自然的素材においてはそれらのもつ多様な性質が利用されるため、ある場合には労働対象となったりある場合には労働手段となったりすることがあります.生命の物質性に由来して人体のもっているさまざまな自然的能力、自然的性質が医療において一種の手段として利用されることもじゅうぶん考えられます.しかしその現象的類似性をもって、人体を労働手段と規定するのはやや早まった見方ではないでしょうか.

 まず第一に人体は、それがいかに機械のように正確に動こうとも機械ではありません.社会科学的な範疇から言えば、労働手段はあくまでも労働主体と労働対象とのあいだに「外挿」されるべきものであり、人体に属する機能は基本的には排除されています.ワープロをうっているわたしの指はわたし自身であって労働手段ではありません.

 労働手段を価値形成過程から規定すれば、事情はさらにはっきりします.労働手段はその価値を徐々に生産物に移転し、みずからは摩耗していきます.これは人体を労働手段とする論理とは両立し得ません.

 第三に技術論との関連で言えば、技術体系としての労働手段は「死んだ労働」、すなわち過去の労働の結晶として労働過程に参加します.西田氏が「家畜は畜産労働の労働手段である」と主張するのは、その点でまったく妥当な見解といえます.なぜなら家畜は、まさに品種改良という過去の畜産労働の結晶として現存しているからです.人体はそのような「過去の労働の産物」ではありません.

 この章を書いたあと、気になって日野氏が以前医療労働論を展開した著書「医療産業と国民医療」を読み返してみました.そこには医療労働の労働手段について以下のように記載されています.

医薬品、医療機器などの医療用品は、医療労働過程における労働手段である.……医療労働手段は、土地・建物、主に物理学的労働手段としての医療機器、主に化学的労働手段としての薬品、資材、入院食、ベッドなどよりなる.……政府や、企業からこれらの労働手段をみれば、それらは商品である.

 十年前に確立されたこの視点から、現在の「患者の身体が容器や装置といった主要な労働手段であるといえよう」という規定はいささか導出しにくいと思います.

 

六 「自然治癒力」とはなにか

 日野氏は患者が労働手段であるということを説明するために「自然治癒力」という考えを提起しています. 「生物にはホメオスタシスを維持しようとする調節機構があり、『自然治癒力』として知られている.この力を発揮させるようにはたらきかけるのが、保健医療労働の重要な内容である」これがテーマです.このテーマはもうすこし後ろにある西田氏からの引用を受けたものです.西田氏は以下のように述べています.「古くから患者には自然な治癒力があることは認められていた.この自然治癒力を助け引きだすことが医療である」

 最初に用語から来る混乱を避けなければなりません.自然治癒という言葉はなんらの治療もせずに治癒するという意味です.それはすでに結核の診療などにおいて定着している言葉です.生命の物質性に由来して人体のもっているさまざまな自然的能力、自然的性質という意味での「自然」とは異なっています.したがって、これに「力」をつけて言葉を造ってもかえって混乱を招く恐れがあると思います.ただ「恢復力」といっておけば十分でしょう.ホメオスターシスは対外環境の変化に対して体内の恒常性を維持する生理的機構を示す概念であり、少し違った意味で用いられるのが普通です.

 日野氏がホメオスターシスの意義を強調するのは、それが人体を「労働手段」と規定するための条件になっているからでしょう.日野氏は人間を装置部分とそうでない部分に分け、装置部分としての人体が化学工場のようにはたらいて病気をなおしていく、したがって人間のもつこの装置部分は医療労働における労働手段なのだといいたいのだと思います.

 しかしその理論には臨床医学的に見ても若干無理があります.臨床医学的には「医療=ホメオスターシスの修復・維持・管理」としたのでは説明できないような領域が余りにも広範にあります.たとえば先端医学分野では、最終的にはあらたな生体バランスの実現と維持を目標にしているにせよ、臓器移植や人工臓器、バイオテクノロジーを利用した骨髄増殖因子の併用による強力な化学療法などは、ホメオスターシスの範疇では説明不可能です.

 なお付言すれば,自然治癒というのは結核が全盛の頃によく使われていた言葉です.抗結核薬のなかった時代には,安静と食事を中心にしながら「自然治癒」を待つ以外にありませんでした.そこには病気をなおすという意味での医療労働は存在せず,患者の療養を手助けする看護労働やケアー労働のみが存在していました.そこは「病院」ではなく「療養所」でした.多くのひとが「自然治癒」できずに不幸な転帰を遂げていきました.

 抗結核薬の開発により「自然治癒」例は激減し,「人工治癒」が圧倒的となりました.つまり結核の分野における医療労働は「自然治癒」の断固たる拒否から始まったといえます.

 

七 患者は医療労働の主体か

 第二項は、患者が医療労働の主体であることを証明するための文章となっています.わたしは最初にも述べたように患者は医療労働の主体ではないと考えています.患者さんがみずから努力して(「内なる化学装置」も利用しながら)病気をなおそうとするのは療養であり闘病です.それは労働ではなく生活過程です.無論その主体は患者自身です.つまり患者は医療労働、医療サービスをも利用しながら療養活動を遂行する主体であるというのがわたしの見解です.

 この項をめぐる議論はふたつの意味で重要です.一つは労働対象や、労働手段をめぐる議論と違い、この点に関しては日野氏が一貫してその主張を変えていないからです.この点については次節で触れたいとおもいます.

 もうひとつは「医療は共同のいとなみである」という命題をどのように理解するかに直接いやおうなしに関わる議論であることです.患者が労働主体という命題は,「患者の自己決定権」「患者が医療の主人公」などの議論と直接結びつく論理となりかねないからです.

 わたしは恢復過程というものが、医療労働と療養活動に支えられた自然過程であること、医療というものの現場がそれらの複合体であること、しかし労働過程論はそのような医療の現場における社会学を説明するためのパラダイムとはなりえないと考えています.「いとなみの場」としての医療論を展開するためには、機能・機構・構造のレベルでの医療社会学的な複合的視点が要求されるでしょう.

 

八 日野氏の論拠について

 日野氏はまず、患者が医療労働の主体であることを立証するための三つの視点を提起しています.第一は民主主義の視点、第二は医療従事者と患者の統一運動の視点、第三は「日常の保健・医療労働を効果的、効率的に遂行するという視点」です.

 わたしが思うには第一、第二の視点は問題になりません.これらは純粋に労働過程の枠外の事情だからです.労働のあり方は政治体制の如何を問いません.

 第三の視点は、規定部分を読んだだけでは内容がよくわかりません.しかし日野氏は別の著作「医療と社会」でもっと明確に医療労働の主体の構造を規定しています.(傍点筆者).

……このように考えるならば、医療労働者(力)の編成というものは非常に多様であり、一般に医療労働者といわれている人々の周辺に、ほぼ全国民的な半医療労働者を配置しているとみるべきでしょう.これは、生きることや健康度を維持・促進・回復するという活動は、誰もが自ら責任を持ち自発的にとりくむべき普遍人類的なことがらだからであります.(医療と社会三一ページ)

 ここでははっきり「患者=従属的医療労働者」論ともいうべき表現をしています.両者をあわせ読めば、患者自身が日常診療のスキマを埋めたり医療労働が円滑に進むように手助けする労働をになうというように理解されるでしょう.

 例示の部分ではつぎのように記述されています.「とくに慢性疾患の場合、患者が医療専門職のいわば延長として、代行として振る舞うことを前提に、医療労働がなされている」

 こういう規定自体わたしには納得できないところがあります.かりにこれを100%ただしいと仮定してみても、これは「患者が医療従事者にとって手段となりうる」ことの説明であって、「労働主体」であることの説明ではありません.さらにいえば、それは手段であるにしても、労働の手段ではなく医療従事者の労働の外延化の手段にしか過ぎないのではないでしょうか.

 もう一つの例示があります.「また、セルフケアの取り組みも、患者が主体として位置づけられる」.まさしくそのとおりです.だからこそセルフケアなのです.それは医療労働ではなく患者自身の療養活動です.そこでは医療労働はもう完結しているか休止しているのです.

 わたしには、医療労働過程論はあくまでも「医療労働者の労働過程論」にとどめるべきではないかという印象を捨てきれません.

 一般社会からみれば療養活動という生活活動がまずあり、これに規定されたサービスとして医療が存在しているのではないでしょうか.医療労働過程のなかに患者さんを包摂しようとするのは、こうした医療サービスの社会的過程から見れば逆立ちした考えといわざるを得ません.たとえ「患者こそが労働主体」などとカッコよくいっても,そこでは療養活動の医療労働に対する被包摂性が前提となっているからです.この考えを敷延していくとすれば結局患者は自己目的合理性においてではなく、計画性を運用するパトス的エネルギーとして一方的に評価されるしかありません.

 まずは生活過程(消費過程)の一場面としての療養過程というものを定立させ、そこに医療サービスがどのように組みこまれていくのかをかんがえ、両者の接合面である「場としての医療」を分析し、そしてそのことによって医療労働がどのような合目的性や労働様式をあたえられるかを議論する.こういう順序でけじめをつけていく必要がありそうです.

 自由で意識的な人間の諸活動のなかでも生産的労働は規定的な意味をもっています.しかしそのことがある種の労働に絶対的な意義をあたえたり、さまざまな活動や実践過程を労働の名のもとに還元することを意味するものでもありません.

 芝田進午氏は「労働」の度外れの強調という弱点をもちながらも、ふたつの過程の統一として教育を見るというただしい観点から大変興味深い表現をしています.

「教育労働の過程は、児童の側からみれば学習労働の過程であり、また教育労働者の労働条件ないし労働手段(学校、教室、教材、実験器具等)は、同時に児童の学習条件ないし学習手段でもある.もちろん、教育労働の過程は学習労働の過程と決して同一ではない.児童の学習労働は教育労働の統制のもとにおかれるのであり、教育労働と学習労働の矛盾は、すべての労働過程にみられる指揮労働と被指揮労働の矛盾に比しうる」(現代の精神的労働、二七七ページ)

 共通の活動手段を共有するふたつの社会的実践の結合として教育をとらえるこの視点は、医療を考える上でも貴重な示唆をあたえてくれます.それは両者の共同の行動、たとえば今後どのようにして診療報酬引き上げの闘争を国民の要求としていくかという問題意識にも、重要な示唆をあたえてくれるものです.

 

九 患者は「医療行為」の主体か

 順序が若干前後しますが日野氏が第二の視点として挙げたもののなかに、医療問題に造詣の深い弁護士である池永氏の一文からの引用もあります.これは医療労働ではなく医療行為という使い方となっており、本来医療労働過程論とは無縁のものです.したがってここでとりあげるほどのものではないのですが、医療サービスが受け渡しされる場でのサービス提供行為のあり方について、吟味すべき内容をふくんでいるのでここにも引用します.

 「(医療不信の)理由の一つは、日常的に患者自身が医療行為の主体ではなく、客体になっているからだと思います」

 ここで言っている行為というのは哲学的意味での「行為」ではなく、ある個人が他の個人にたいし行動を起こすという意味であり、池永氏が専門とする法律用語上の「行為」です.したがって哲学的用語としての「主体」や「客体」とを関連させて使うのはちょっと正確でない印象を受けます.また池永氏がここでいっている「行為」は医療労働過程の一つとしての「行為」ではなく、医療サービスというサービスの受け渡しの行為のことをさして、法律的枠組みにおいて表現しているものと思われます.

 生業的な個人開業医制がいまだ優勢を保っている日本においては、サービスとしての医療行為は一種の商行為とも考えられます.つまりくだけていえば、医者は「勤医協商店」の商店主で、患者はそこにくる顧客という関係も成り立ちうるわけです.その限りでは床屋さんやアンマさんとかわるところはありません.そこではひとびとは金を払ってサービスを買い、客としてサービスを受けるということになんら疑問をもつものではありません.

 もし床屋さんの椅子にすわって「僕が理髪労働の主体であり、労働対象であり、労働手段なんだ.君は『第二労働手段』としてハサミを動かしてくれればよい.あとは僕が頭を傾けたり首をひねったりするからね.どうだい、理髪労働は僕と君との共同のいとなみなんだ」などといったら、主人はきっと腰をぬかして逃げ出すでしょう.これではサービス労働が患者の「オナニー労働」になってしまいます.

 肝心なことは、サービスの受け渡しの場において「主」と「客」とのあいだに対等の関係が成立するか、あるいは「客」の優位性が確立するかという点にあります.「主」と「客」の関係の消失とか「止揚」にあるのではありません.アメリカにおける「患者の権利の章典」はこの「顧客の権利」の観点を発展させたものといえましょう.(拙訳「心臓病患者教育マニュアル」あとがき)

 

十 たたかってこそ民医連

 医療労働がその本質において個別性を維持する一方、医療サービスは人民のたたかいのなかで社会的性格としての普遍性を強めてきました.この歴史的に規定された二面性がさまざまな場所でさまざまな行きちがいを起こしています.それは国民の医療に対する権利=受療権が、個別の医療行為に対する「顧客」としての権利と一般的な生存権およびその延長としての「療養権」に由来する権利との二面性をもつこととも照応しています.

 最近、医療の現場での患者さんの個別的要求と医療労働者との原理的関係がいかにあるべきかをめぐって多くの意見が出されています.とりわけ医療専門職が国民から委託されている「権限」あるいは「診療の自由」の根拠および範囲についての民主主義的な視点の確立がもとめられています.これらについては、今後時間をかけてじゅうぶん議論を深めなければなりません.

 しかしいま肝心なのは、トータルな社会的生活過程から医療サービスを見つめる視点です.そして医療サービスが労働者階級とすべての人民にとってもっとも根源的要求のひとつなのだという点で、大きな国民的合意をかちとることです.そしてその要求を憲法にさだめられた国民の権利として高くかかげることです.

 それは医療サービスを本質的に個別生業的サービスであると前提する「アメニティー」論者や、「消費者の権利」論者の一部にかいま見られる現象的・感覚的な認識を乗り越えて、公共的・社会的サービスとしての側面を主要な側面として押し出し、それを全体の確認としていくことでもあります.

 このためにも医療労働と患者の療養活動の結合を実体的な基礎とした、両者の運動の統一と連帯が重要な作業となるでしょう.この統一と連帯は「心のかよいあう医療」を無前提的に展開するだけで達成されるものではありません.本論とは外れるので詳細はふれませんが、わたしには国民的レベルでの「共同のたたかい」を前提にしてこそ、はじめて個別院所レベルでの「共同のいとなみ」が意味をもってくるのではないかという思いを捨てきれません.

 民医連にはたらくわたしたちは医療変革を射程においた日々の「いとなみ=たたかい」のなかで、この「共同のたたかい」を医療の現場にもういちど引きつけていきます.そして「学び、調査し、行動する」過程をへて、真に患者さんを信頼し患者さんに依拠する「目と構え」を鍛えていきます.これらの営為によってはじめて「共同のいとなみ」の前提を形成することができます.

 まさしく「たたかってこそ民医連」なのです.

 

十一 おわりに

この小論は3年前に書いたものですが未発表でした.すでに一部古くなっているところもありますが,こんにち医療における主体性をめぐる議論がますます重要になっていることもありあえて掲載していただくことにしました.医療ということばがあるときはシステム概念として語られ,あるときは実践概念として語られることからさまざまな混乱が生じています.その意味で「医療労働」というかたちで問題を突き出したことの意義はおおきいと思います.

ただ実践としての医療の概念は,すでに戦前から明確な規定が与えられており決着ずみの議論です(たとえば宮本忍).したがって「医療労働論」として残された問題はこの実践過程がいかに一般的労働として包摂されていくか,あるいは本来非医療的な労働がどのように医療経営のなかで特殊性をあたえられていくかの分析です.

一部で「患者が医療の主人公」ということばが頻繁に使われているようです.思いは非常によく分かるのですが,言葉の使い方としてはやや不正確の感を免れません.原理的には主人公たるべきは「患者」ではなく「国民」であります.さらにここで「医療」とは社会的医療システムのことであり,「主人公」というのは実践の主体ではなく権利主体であるということを押さえておく必要があります.この点については民医連医療誌に拙文を載せてもらいましたのであわせてご参照ください.

 

参考文献

マルクス:資本論:大月書店

服部文男ほか:講座「史的唯物論と現在」第二巻、理論構造と基本概念:青木書店、一九七七

仲村政文:分業と生産力の理論:青木書店、一九七九

西田周作:自然弁証法と生物科学・生物技術:新日本出版社、一九八九

日野秀逸:医療の基礎理論:労働旬報社、一九八三

日野秀逸:医療と社会:日本生協連医療部会、一九七九

日野秀逸、金森雅夫:医療産業と国民医療:医療図書出版社、一九八一

中村静治:技術論論争史:青木書店、一九七五

村上嘉隆:自由論の構造:啓隆閣、一九七六

布施鉄治ほか:社会学方法論ー現代における生産・労働生活分析ー:御茶ノ水書房、一九八三

芝田進午:現代の精神的労働:三一書房、一九六九

久富善之:現代教育の社会過程分析:労働旬報社、一九八五

北田寛二:かれらの越えようとするものはなにか、「葦牙」第八号の本質:文化評論、一九八七

宮本忍:社会医学(復刻版)