文献解題

-後書きに代えてー

 

 

T

 わたしが「国民の療養権」に関わる考察を始めたのはすでに8年前になる。この作業に取り組む最初のきっかけは、医療労働論をめぐるいくつかの発言に対する率直な疑問であった。

 それは曰く「患者が医療の主人公」論であり、曰く「医療労働は健康を作り出す生産的労働」論であった。さらにその背景には「診療方針の決定権は患者にあるのであり、医師は良質な医療を提供しさえすればよい」という風潮が、一部の人達から繰り返し提起されていることがあった。

 これらの内には民主的な関係のありようをめぐる、いろいろな思いが込められているのだろう。しかしそこでは、結果として医療者の側の能動性が捨象され、生存権を真に実現するための運動論が欠落してしまったといわざるを得ない。

 医療の労働過程論を自分なりに考えるために、これまでの諸論文を読み返すこととなった。その結果、そもそも医療の実践をまず医療労働として捉えるという考え方が、いろいろな混乱の原因ではないかと思い当たったのである。

 少なくとも医療活動は生産的労働ではない、この確信は西田氏の「自然弁証法と生物科学」との理論的格闘のなかで到達した結論である。

 そこに達するについては古賀氏の「国家・階級論の史的考察」が導きの糸となった。この著作を通じて生産過程と労働過程との区別が自分なりにすっきりしてきた。佐藤氏の「資本論研究序説」は、「経済学批判要綱」と併せ読むとき「労働そのもの」、「労働力能」などプレ資本論的なレベルでの労働概念の形成過程を深く考えさせてくれた。

 西村舘通氏の「社会政策解体論における若干の混乱と後退」は、「反アナーキズム」ともいうべき、論争を見据える視点を提示してくれた。

 だがこの点で最終的な確信の源になったのはマルクスであった。国民文庫に入れられた「直接的生産過程の諸結果」から始まり、「資本論」第一部(とくにマニュファクチャーに関する記述)と「剰余価値学説史」(とくに国民文庫第二分冊)は非生産的労働についてのわたしの想いを確認させてくれるものだった。

 仲村氏の「分業と生産力の理論」は、アダム・スミスまでさかのぽって社会的ストック論と社会的コスト論を考察するうえで、あるいは古典経済学的な生産活動論を学習するうえで大いに参考となった。

 

U

 これらの文献を狩猟するなかで巡り会ったのが牧氏の「教育権と教育の自由」である。そもそも医療労働の意義を教育労働と対比しながら検討してみょうと考えたのは、芝田氏の「現代の精神的労働」がきっかけだった。その中の教育労働と学習労働の共同的過程について記載した一文は、本論中に引用済みである。

 それがきっかけとなって教育論に夢中になる時期がしばらく続いた。「民医連医療」に掲載した「国民の療養権と共同の営み」はその頃の作品である。この本の第一部にあたる。

@教育を受けながら発達するという点に教育の特殊的本質を見る視点、
A憲法25、26、27条を、人として生き、能力を全面的に発達させ、それを全面的に開花させる権利11文化・生存基本権として把握する視点、
B教育の自由を主体的・能動的自由として捉え、厳しく自らを律する姿勢など、
牧氏の所論の核心部分はほとんどそのまま受け継いだつもりである。

 兼子氏の「教育権」も完成度の高さにおいて比類のないものであり感銘を受けた。いささか古い本だが、米国流のプラグマティズム教育との格闘の跡を記録した船山氏の「戦後日本教育論争史」は、その後の考察において常に最良の示唆を与えてくれた。

 その他障害者教育の実践を踏まえた鈴木氏の著書、社会的広がりのなかに教育を位置づけようとする久富氏の「現代教育の社会過程分析」などは、いまや孤独な作業となったわたしの研究に大きな励ましを与えた。

 

V

 「療養活動」のアイデアは療養権を考察するうちに浮かんできた。それは患者=主体、手段、対象論を止揚するうえで必然的なものだったが、概念形成は困難を極めた。それまで漁った経済学関連の本はほとんど役立たなかったからである。

 人間的活動の理論から始めるには哲学のジャングルに分け入らざるを得なかった。とりあえずシュティーラーの簡単な規定を起点にし、「経哲手稿」、「ドイツ・イデオロギー」、「経済学批判要綱」というお定まりのコースをたどることとなった。

 当初はヘーゲルの「仕事」概念が使えるかと思ったが、結局仕事を観念的なものに局限し、人格の陶冶に流し込む彼の観念的「仕事」論にはついていけなかった。もちろん私の乏しい知識では原著の方はとうてい歯が立たず、「概念論の研究」に赤線を引き引き勉強したのだが。

 ジャングルを抜け出すための重要なヒントとなったのが、角田氏の「生活様式の経済学」である。物質的生産活動と並んで消費活動を押し出し、しかも真の意味での人間生活の生産という点では消費活動こそが真実性を持つと主張する。経済学が長年あいまいにしてきたところを衝いていると私は感じた。自分の積み上げてきた方向は間違っていなかったなと思えたのである。

 非物質的生産活動とか、非生産的労働とかいうわけの分からない桎梏から解き放たれた思いであった。そして物質的消費活動という概念を、「経済学批判序説」の「生産は消費であり、消費は生産である」というテーゼと結びつけつつ確認できたのである。

 角田氏はこのアイデアを理論的に固めている。とくに「概念論の研究」でヘーゲルの生命過程論を下敷きにして人間的生活の生産活動を展開するくだりは見事である。角田氏の生活過程論を下敷きにしながら、一気に療養活動論の原理論的展開を進めることができた。

 「療養活動論」の骨格が固まりかけた頃、岩佐氏の「人間の生と唯物史観」を手に入れた。まさに同じ問題意識のもとに同じような作業をしているな、と分かり(もちろん彼ははるかに精緻に詰めでいるのだが)、「人間的活動」論こそが現在の科学的社会主義の最大の問題意識の一つであることを確認した。

 その後しばらく岩佐氏の文章を集中的に読む日が続いた。岩佐氏を札幌に招いて講演していただいたのもこの頃のことである。講座「史的唯物論と現代(1)」に掲載された市川氏の「人間」論も先駆的なものであろう。

 

W

 第一章の療養活動の資本主義的「歪み」の部分は、後からつけ加えたものである。当初、疎外論からのアプローチを試みたが、三つの疎外形態では括りきれない社会的事象があまりに多いことから挫折してしまった。

 そんなときに、昔買ってそのままになっていた村上氏の本を何気なく手にして、その豊かな内容に驚いた。村上氏に導かれてルカーチに接したとき、とにかくこれだと思わざるを得なかった。

 ルカーチの物象化論には多くの異論があるようだが、私は単純に疎外論プラス貧困化論の複合概念として捉えている。いまのところ私には、物象化論が社会・文化批判のパラダイムとしてもっとも有力であるように思える。

 擁護=支援=連帯という系列は私のアイデアである。神戸の震災の経験から擁護の前に救助ないし救援というレベルがあることも実証されたようである。ただし病者から療養者への転化の過程については十分に展開できなかった。これについては障害者という概念との関連でなお検討を要すると思われる。

 

V

 かくして書き上げた「療養活動論」を「民医連医療」に投稿したのは93年夏のことである。「療養権と共同の営み」が掲載されておよそ1年後であった。

 この原稿は完壁に無視された。しかし私には落胆しているヒマはなかった。一方において医療者の能動性を否定し、よって以て医療変革の運動論に本質的変更を迫る「インフォームド・コンセント論」が横行し、他方では医療者の技術者としての活動に療養権実現を目指すすべての運動を従属させようとする技術至上主義が幅を利かせていたからである。

 IC論の検討にあたって私が読んだ本は決して多くない。というよりたった一冊、米国の法曹界を代表する(と思われる)フェイドンの「インフォームド・コンセント」のみである。かなりの大部の梗概を作成した。

 それは「違う、違う!」とうなりながらの作業であった。フェイドン批判を批判に終わらせず、これに対抗して私たちの理念を対置しょうとして、それがかなりの字数に上った。

そこで療養権と一体となっていた「共同の営み」を独立した章建てとし、共同体の理念と重ね合わせながら別個の展開を行うこととした。

 

Y

 率直に言ってマルクスの描く共同体像は極めて分かりにくい。初期の「経哲手稿」にせよ後期の「ゴータ綱領批判」にせよ、原文を読んでぼっとイメージが広がるという風のものではない。

 そんなときたまたまシッパーゲスの「中世の医学:治療と養生の文化史」を手にとって、その中で修道女ヒルデガルト・フォン・ピンゲンに出会って、その珠玉の言葉に魅了されたのである。12世紀、日本でいえば鎌倉時代を生きた彼女は、それにも関わらず間違いなく現代に通じている。彼女はヘーゲルの母であり、おそらくはマルクスの祖母である。是非一読をお勧めする。

 ヒルデガルトの共同体像を現代の引き裂かれた共同体に重ね合わしつつ、営為論として突き出すためには運動論、組織論が必要である。

 古くはグラムシのヘゲモニー論から、安保闘争の総括を「市民社会論」とつきあわせながら提起した上田耕一郎氏の「現代日本とマルクス主義」、北川氏の論文、不破氏の田口批判などがあるが、かなり生々しいのでこれ以上の紹介は省く。

 共同体的関係を基軸に置きながら、その中に病者=医療者関係を位置づけることは、これまでの考察の必然的な帰結だった。

 坊主主義的に個別の関係を人間的な関係に変えようとしたり、逆に顧客と商店との関係に擬したりする発想は、ここに視点を据えることによって克服可能となる。しかしその具体的なありようについては、今後とも展開が必要であろう。

 シリーズ労働運動の一つとして最近出された「公務員労働論」は、自治労幹部との激しい論争を踏まえて磨き上げられたものだけに、短いが良くそのエッセンスを描き出しており貴重である。

 

Z

 共同体の思想を展開してきた後では、法理的IC論批判の視座を固めることは比較的容易だった。しかしlC論の最大の典拠としてカントを持ち出されたのにはいささか参った。

 本論でのカント評価は、カントの精神を深く理解したうえでのものではなく、かなりおざなりのものである。どちらかといえば私のカント像は「カント・ヘーゲル・マルクス」における岩佐氏らの所論、「現代と倫理」における高田氏の著述、それに古在氏の新カント派批判(著作集第二巻)を学ぶなかで形成されたものである。

  医療活動論はなお未定稿として手元に残されている。身体自然に直接関わる診療活動には、病気を持つ人間を擁護する活動としての医療活動という嬢では括りきれないものがある。

 さらに医療活動は経済学的・社会学的な分析、運動論・組織論の視点からの分析をも必要としている。これらについては残念ながら次の機会にまわすほかなかった。

  とりあえず私は、医療活動論への足がかりとして闘病過程論を考察してみた。第二部の補章に展開されたものである。

 主体と客体をめぐる藤野氏の議論は、回転性めまいを起こすに十分なほどめまぐるしいものであった。「主体は客体であることによって主体となる」という表現などその典型である。それは、議論の持つ深さ、高さ、厚みという縦方向のベクトル意識を持たないと、回転性めまいを起こすという好例である。それは60年代後半に私たちが突き当たっていた理論的限界だったのかも知れない。

 岩佐氏らの社会・人間・自然のトリアード論は、人間的活動の起動力を受苦=情熱関係で説明するのか充足=欲望関係で説明するのか、で悩んでいた私への触発となった。受苦=情熱関係はフォイエルバッハの残滓であり、「経哲手稿」を最後に放棄されたとする主張もあるからである。

 ここでは人間対自然の関係が主要な側面となる闘病・診療活動を受苦=情熱関係から、それを包合する社会的関係の説明においては充足=欲求関係を基軸として捉えてみた。賢明なる読者のご教示をお願いしたい。

 「病い」をきっかけにして自己が分裂し、一方が主体として他方が客体としてそれぞれに対象化されるというアイデアは、ワロンから得たものである。ワロンの(というより浜田氏の?)身体・自我・社会のトリアード提起は、社会・人間・自然のトリアードと重層化して理解されるとき果てしない興味を掻き立てる。

 彼は情動的自我を社会的自我に由来するものととらえ、これを自我の基層として措定する。この基層の上に、能動的実践を経て個性的自我が「析出」されるのである。このように自我を二重に構造化するというアイデアは、リビドー的本性の上に抑制的・社会的自我が構築されるというこれまでの「常識」を覆すものだけに、極めて魅力的である。

 そこでは「能動性」はリアルで実践的な主体として把握される。ところで問題なのは「姿勢」と呼ばれる情動的な構えである。社会的動物として人類史的に形成された「人間性」というものは、ワロンにあっては、個性的主体の陰に隠れた辺緑的主体として把握される。

 この情動的自我は、それ自体が身体的・衝動的自我と、人類史的にインプリントされた「記憶としての自我」とのなんらかの統一体と思われる。そうしないとワロンの情動的自我は最終的に説明がつかないのである。

 ムィスリフチェンコの「人間概念」には、これと関連して輿味ある記述が多いが、これ以上はさすがに別の分野に入ることになるので省略する。ただ、いくつか紹介しておくと、

例えばグラムシは「社会関係のアンサンブル」というマルクスの規定を「現存する諸関係のみならず、その形成に到る歴史を含めての総体」と読み込んでいるようだが、「記憶としての自我」に近い考えだと思われる。旧ソ連ではこれを「第二の遺伝系列」と想定する学者もいたようである。いずれにしても「人間は社会的動物である」というような還元主義的規定では汲み尽くせない、リアルでダイナミックな人間観がそこから導き出されそうな気がする。

 

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 闘病活動を始めるにあたっては、「病い」という不条理と人間的実存との対決というプロセスが避けて通れない。局限的状況の現象学的、実存主義的理解はそれなりに摂取されるべきである。

 ただし、ただしである。われわれは「決断」のブロである。自分自身が「決断」して民主陣営の一員として生きる道を選んだのみならず、多くの人に「決断」を促し我らが陣営に迎え入れてきたし、いまでもそうしている。その時にどういう筋立てで説得したか、それがまさしく「決断」の論理ではないか。

 かつて小林多喜二は拷問を極度に恐れたという。「自分は小樽の労働者のように耐えられるだろうか? 佐野や鍋山のように組織を裏切ったりしないだろうか?」

彼はこの疑問への回答を自らの日々の実践のなかに見い出した。そしてその文学のなかに表現した。そうして見事に凄絶な「虐殺」を遂げたのである。

 小樽に住む一人の初老活動家にとって、多喜二のイメージは不思議に伸び縮みする。しかし「決断」という当為において、彼の手は私の襟首をつかんで離さないのである。