人間的活動としての 「療養生活過程」論 |
第一節 歴史的成果としての療養活動概念の成立 第二節 療養活動とその疎外形態 第三節 受療行動の一般化
第四節 医療の「大衆化」と「商業化」 第五節 受療意識の「変容」と歪み 第六節 人格的活動としての療養活動
第一節 療養活動のスペクトル 第二節 矛盾の統一としての療養過程 第三節 擁護=被擁護関係
第四節 病者の自立への模索
第一節 病者から療養者へ 第二節 療養者と療養権 第三節 「生きる条件」と療養権
第四節 療養者のたたかいと連帯 第五節 療養権実現を目指す国民的連帯 第六節 共同のいとなみと民医連
私は第一部「療養権と診療権」で,現在話題となっている「患者の権利」問題への一石を投じようと試みた.そこでは患者というだけでなく病みながら生活を送る「病者たち」の,人間まるごとの権利として「療養権」の考えを提起した.そして療養権は生活者としての権利であり,国民の文化・生存権の柱の一つとして位置づけられるべきものであることをしめした.それは同時に,健康な人々をもふくめた「国民の療養権」としてとらえるべきものと主張した.
医療の場においては,病者は患者となり療養権は「受療権」として具体化される.受療権の基本は「いつでもどこでも親切でよい医療を」というスローガンに集約される.
いっぽう医療者の側には「診療権」が成立するが,それは法により付託された「権限」という以上に,「患者の立場に立ち親切でよい医療」を追求する「診療の権利」として打ち建てられなければならないこと,それは医療実践そのものの論理からも,医療労働者の生活の論理としても要求されていることを指摘した.
さらに現実の場面での療養過程と医療実践過程の共役関係についても,必要な範囲で触れた.
今後医療変革のたたかいの理論を構築するためには,さらに療養活動や医療実践の内実に踏
込む必要がある.そして病者たちや医療者をふくむ国民全体が医療変革の主体となるべき歴史的必然性を論証しなければならない.
なかでも次の点がこの理論的作業の結節点となると考える.
A.病者自身が主体となる「療養活動」の解明
B.療養を通じて「病者」が「療養者」として能動化する過程の解明
病者たちのいとなみのなんたるかを知らずして,「共同のいとなみ」は語れない.これまでも「患者論」は数多く展開されているが,その活動の本質について変革の立場から考察を加えたものは少ない.権利性,共同性ともかかわりながら本論を提示したい.
ここでいう「療養」とは,病者がさまざまな方法を用いて病気を癒しながら,自らの生活を維持・発展させいくことである.それは一つ一つの療養行動を指していう場合もあれば,生活と結びついた一連の活動を指す場合もある.ここでは後者を療養活動とよぶ.
とくに慢性疾患の増加にともない,この考え方がおおきくクローズアップされている.それは日々のいとなみとともに繰りかえされる活動である.たしかに疾病という破壊的状況からの身体的・社会的回復過程は,基本的には一回きりの出来事であり,いとなみの概念では括りきれない実存的なものである.しかし急性期を乗り越えた後の長い回復(あるいは増悪)過程は,闘病主体にとって生活の本質的再生産過程である.
ところで「療養活動」なる言葉は,そもそも私の造語である.なぜこの言葉を用いてなにをカテゴリー化しようとしているのか.以下にその背景となる今日的諸特徴をあげてみたい.
第一節 歴史的成果としての療養活動概念の成立
療養活動が,それ自体は非生産活動,非労働であるにもかかわらず,重要な社会的活動として認識されるようになったのはつい最近のことである.
多少とも事情に通じた人ならば,70年(老人医療無料化)から75年(政府の福祉元年宣言)のあたりに「療養活動元年」の線を引くことに異論はないであろう.
それまでの歴史のなかでは,個別の療養行動はあったが,その積み重ねとしての療養生活過程はほとんど存在しえなかった.療養行動そのものも,生き残るという明確かつ強烈な目的を持っていたにせよ,その手段はあまりにも貧弱であった.
療養が人間的活動の一分野かどうかなどということはあまり議論にはならなかった.病を負ったり傷を負ったりした人間は,自然になおるか死ぬかのいずれかしかなかったからである.
近代社会の発展の中で二つの事態が進行していく.一つは医療技術の進歩により療養活動に具体的な技術手段があたえられたことである.もう一つは,社会を支えていた共同体が分解し,個人がバラバラに切り離されていったこと,その中で生産活動以外のいっさいの活動が私事とみなされるようになったことである.
この結果療養活動は偶発的なものとなり,社会とのかかわりは希薄となり,個々人の私的生活過程のなかに封じ込められていった.しかしそれにもかかわらず,社会的関心はきわめて強かった.だれもが一生のうちにかならず経験する重大な問題であり,生命そのものにかかわる事象であるためである.
いっぽう,医学技術の飛躍的進歩は,高血圧,糖尿病を代表として,疾病の治癒には至らないがコントロールを可能とした. それに伴い「健康とも不健康とも言いがたい」グレー・ゾーンに属する患者が爆発的に増加した.彼らは「慢性疾患」あるいは「成人病」などと呼ばれるようになった.
慢性疾患の増加にともなって,「病を負いながら生きる」ということが真剣な生活問題になってきた.国民有病率が15%に達するなかで,療養活動は社会的活動の無視しえない一分野を形成するにいたった.
多くの患者が生み出されるだけでなく,その多くが生き残ることが,療養活動をますます普遍的社会現象としつつある.さらにその多くが正常に近い社会生活を送るということから,病者自身の社会的影響力も大きくなっている.
ここに「療養活動」という概念が必要となった最大の根拠がある.
これらの変化は,社会的生産力が発展したからこそ実現した事実である.それは人類が自然に対して勝ちとった偉大な歴史的成果である.
第二節 療養活動とその疎外形態
あらゆるものの商品化が現代の特徴的傾向である.それはたんなる商品化ではなく,大量生産・大量消費をともなう「欲望の商品化」時代である.それは一方において選択肢の多彩さ,便利さの発展であるが,他方欲望の一面的な肥大がマスコミの統制下に進み,貧富の差が生活の全場面におよぶことを意味する.
生活過程を構成するさまざまな活動と同様,療養活動もこのような資本主義的市場システムに包摂されていく.療養活動のためのさまざまな手段が,すべて商品となっていく.
かくして療養活動の重要な部分である療養のための手段の獲得が,まず購買活動として開始されるようになる.療養活動が購買し消費する活動として仮想されること,これは現実に起きている逆転である.この現実における逆転を基礎として,「療養活動とは健康を買うこと」という逆転した発想が現れてくる.
「健康」という言葉は,もともと諸個人のありようを形容する言葉として用いられてきた.それがいつのまにか名詞化され,独立した「モノ」のように扱われるようになっている.「安心」とか「快適」なども同様である.こういう風潮は健康とはいえない.
第三節 受療行動の一般化
医療機関を受診し,診療を受けるという行為は療養活動上ますます不可欠な要素となっている.こうした「受療行動」は療養活動を構成する諸行動の中でももっとも核心となるものであるために,ときに療養活動そのものと考えられることもある.
そもそも療養活動なる概念は医学医療の技術的発展によってはじめて実現しえたといえる.療養活動は医療サービスから「自立」するのではなく,医療との結びつきを強めることによって,その内容を深くゆたかなものとしてきた.
有病者の増加は受療機会の増大をもたらした.さらに長期通院患者の増大が病者と医療者との関係を変化させつつある.国民にとって医療との接触は特殊な非常事態ではなくなり,日常生活のひとこまとさえなりつつある.
病院は「注射をされる恐ろしいところ」ではなく,世間の常識と変わりのない普通の世界になっている.これに応じて患者と医療者のあいだにも,これまでと違った世間並みの人間関係がもとめられるようになっている.
かつて絶対的にも見えた医療者の診療権限に対する,患者の「寛容」の限界線が揺らぎをみせている.これは民主的な方向に大いに推進されなければならない.
第四節 医療の「大衆化」と「商業化」
受療行動の一般化は,また「医療の大衆化」という側面からも評価される.医療の大衆化は,その歴史的由来からすれば国民の広範な運動の成果として説明される.しかし現実の場面における「大衆化」は,むしろ商品経済やそのもとでの支配的な意識の浸透としてとらえられる.すなわち「民主化なき大衆化」である.
医療は市場経済にたいする「聖域」であることをやめ,「誰もが買える商品」という幻想のもとで本来の姿をゆがめられていく.商品の多彩化という衣をまとって金銭による差別が進行している.無差別医療の原則は崩壊しつつある.耳ざわりのよい横文字をもちいて「選択の自由」こそ医療の根本理念でもあるかのようなキャンペーンが意識的に流されている.
その行きつく先がどうなるか.私たちは何十万円という差額診療がまかり通る一方,医学的な成果が反映されない貧弱な診療レベルに貶められた,歯科の保険診療における無惨な体験を通じて痛感している.
確認しておきたいことは,今日病気の治療を推進しているのは社会全体の力なのだということである.医療資源の供給にせよ療養のための給付にせよ,その圧倒的な部分は社会的な共同責務として担われているのである.少なくとも日本においては,療養活動も医療活動も,例え個人的な色合いをどれほど強く持とうと,まずもって社会的な活動なのである.
第五節 受療意識の「変容」と歪み
医療供給体制における市場経済の浸透と,療養活動をふくむ生活様式の資本主義的変容とが,あいともなって進行している.それは受療行動をめぐる意識構造に変化を与えつつある.
受療行動はあたかも,あれこれの医療サービスを選択し購買する行動のように考えられるようになる.受療権は,生存権にもとづく人間本来の権利としてではなく,サービスを購買したことによって生じる私権=契約上の権利と見る風潮がひろがっている.医療労働はその具体的能動性を剥奪され,たんに支払われた代価にふさわしい量と質をもった無機質な労働,すなわち「良い医療」としてのみ期待される.「善い医療」はそこでは捨象される.
日本でも一部でもてはやされている米国の消費者運動には,契約中心の価値観を天与のものと考え,人は生まれながらにまず消費者であるかのように主張する傾向がある.それらがまるごと受療行動の論理として持ち込まれると,「顧客としての権利」によって受療権や療養権を説明しようとする傾向が生じる.これによって社会的権利としての真の療養権のありようが歪められていく可能性がある.
第六節 人格的活動としての療養活動
ところで,人間はその行動を科学的合理性にもとづいてのみおこなうわけではない.その人の作り上げてきた価値観とか人生観とか正義感とかに依拠して,ときには非合理な行動も含めて行動するのである.この点において療養活動は,一定の文化的背景のもとにそれ自身が文化を創造する人間的活動でもある.
最近クオリティー・オプ・ライフなることばがもてはやされている。これは生活(生命)の質と訳されるが、提示されている内容は快適さ、豊かさ、健康などのスコア化にょる計量的処理である。それはむしろ生活の量的な分析 である。
その裏には生活のすべてを商品経済システムに取り込もうとする、貪欲な意図が透けて見えないでもない。しかし真の生活の質は、その人の生きがい、時代の文化などに対応して考慮すべきものである。
それにしても、どだい医療者が他人の生活の「質」までウンヌンするのはおこがましいというほかない。療養生活は灰色一色ではない.それどころか,きわめて高い人格水準のもとに営まれる可能性がある.それは戦争をはさむ数十年間,日本文学の最高傑作のいくつかが,療養生活のなかで書きあげられた事実を指摘するだけで充分であろう.
民医連綱領には「患者の立場にたつ」という言葉がある.それが意味するのはたんなる社会的ポジションの問題だけではない.その言葉のうちには,病を負って,負いながら生きてきたこと,これから生きていくことの意味を理解しようとする姿勢がふくまれている.そこでは病者たちの生活と倫理に,生活者として寄りそい,共鳴し,連帯していくことがうたわれているのである.
全日本民医連はその綱領の最初に「患者の立場に立つ親切で良い医療」を掲げている。そこには個別の患者ではなく、弱者の立場という「階級的」視点が内包されている。
前章にあげたような療養活動のさまざまな特徴を総合的にとらえる枠組みはどのように構成されるのだろうか.
先にも述べたように療養活動は非生産活動,非労働である.しかしそれは目的意識的であると同時に自己発展的な活動,すなわち人間的活動である.
人間的活動の体系をふくめた全体像は,民主的な理論戦線の中でも共通した認識にいたっていない.ここではシュティーラーの理論を元に議論を試みる.
人間の主体的活動は「人間的活動」ということばで総括される.人間的活動は人間の何かある器官ということではなく,人間自身が主体として登場してくる事象であり,その主体の物質的,社会的,観念的な諸客体への作用である.
個別の人間的諸活動は,意識性と合目的性の二つをその特徴としている.逆にいえば,無意識的な本能的行動は人間的活動とはされない.
意識的というのは頑張って努力するという意味ではない.対象の形態変化があらかじめ主体のなかで予想されていて,その予想にしたがって対象に働きかけるということである.それは活動の理論的側面とも関係している.それらの理論的活動はつねに実践的活動とペアーの関係にある.
目的とは,働きかけの対象であるものを,なにかほかの形態に変化させることにとどまるものではない.対象の変化する過程のなかで得られる成果を,「自分のものとして」獲得することにあるのである.
経済学的範疇からいえば,人間的活動は生産的活動と「享受」としての活動に分けられる.
本来「享受」は生産 ではなく労働 の対概念である。本論では医療実践(Praxis)が労働(Labour)概念に無前提的に包摂されるのを避けるために、「労働」ということばを用いるのを意識的に避けている。それについては、いずれ稿をあらためて論じたい。
享受は物質的には消費的活動である.しかしマルクスがいうように消費は生産であり生産は消費である.そこでは家族や地域のきずなが生産される.芸術や文化が生産される.人格の陶冶がおこなわれ,恋愛がおこなわれ,ことのついでに子供も生産される.
人間的活動はこれらの活動の内に自己を実現し発展させる過程としても位置づけられる.そこでは明日の労働に耐えうべき肉体が再生産されるだけではない.諸個人が自己発展を遂げるべくさらにゆたかに再生産されるのである.
それは人間が自然の内に自らの能力を表現し,その成果を取り込むことで,自己をつねに更新しながら自己産出を遂げていく過程である.個々の目的に規定された人間的な諸活動は,一方ではその成果を獲得し消費することで人間的感性を高め,あらたな欲求をうみだす.他方では理論的認識の深まりによって,目的実現のためのより高次の可能性をうみだす.こうして人間的な世界が拡大し自己発展が実現する.ここでは個別の目的は抽象化され,変革と自己発展の過程そのもの(生きがい)が目的となる.
生産的活動としては,物質的活動の他にさまざまな社会関係の「生産」も挙げられる.物質的生産活動と区別するため,ここではこのような活動を「産出」と呼ぶ.さらに社会関係の改変すなわち階級闘争も,新しい社会を産出するという点では生産的実践にふくまれることがある.いずれにしても物質的生産活動がそれらの根本形態である.
平ったくいえば,人間的活動とは,一つ一つが目的を持った活動であると同時に,それらの積み重ねが人間の「いとなみ」となるような活動なのである.気どって言えば,それは,さまざまなレベルにおいて目的にそって意識的に実践する活動であるとともに,諸活動のくりかえしと蓄積を実在的基礎としながら,自己を発展させていく生活活動でもある.
個別の療養行動を過程としてみた場合,その要素は行動主体としての病者,その対象としての自己の身体,目的を実現するための手段から構成される.
厳密にいえば、これは療養活動の物質的基底をなす闘病 過程である。闘病過程が社会生活のなかで人間的活動として進行する場合、それは養生 過程となる。養生過程が社会の擁護機能と結びついて進行するとき、それは養生過程の特殊形態としての療養 過程となる。
療養行動の主体は病者自身である.ただしその主体性はほかならぬ病気のために制限されている.そして多かれ少なかれ他者の保護を必要としている.ときには病者の保護者も療養行動の共同主体として位置づけられる.これはガンの告知や尊厳死などの問題に直面したとき,寝たきりの老人を往診したときなどに痛感させられることである.
療養行動の対象は,直接的には自身のなかにとりついた病気であり,それと葛藤しつつある病める身体である.自身の身体は自然的存在であり,その限りにおいて物質である.ある獣医学者がいうように,療養活動は「健康な身体を作り出す」物質的生産活動とみることも不可能ではない.しかしその自然は主体的活動を支えるべき有機的な主体の一部であり,客観的自然と向かい合うべき内的自然である.このことは後に獣医労働と医療労働の異同を問うさいに問題となろう.
療養行動の対象は診療活動の対象と基本的に一致する.これは医療活動が療養活動を援助する活動である以上当然のことである.
真に有効な療養活動のためには,何よりも医療機関の受診を通じて現代医学の成果を駆使することが必要である.この場合は施設・スタッフをふくめた医学・医療の全体系が,療養行動の手段となる.
自分で卵酒を飲んで寝て治してしまうという方法もある。この場合、療養の手段は卵酒であり、蒲団である。その合理性は必ずしも確認されたものではないが、経験上ある程度有効なことは分かっているし、それで治らなければ病院にかかるという選択肢を保留しての療養法であるかぎり、納得し得るものである。
怪しげな民間薬を飲んだり、おまじないに頼るとすれば、主観的にはどうあれ今日の社会ではそれはもう療養とはいえない。診療活動と療養行動が,活動のための手段を共有しているということは重要である.芝田進午氏は教育と学習という二つの活動の統一を次のように述べている.
「教育労働の過程は,児童の側からみれば学習労働の過程であり,また教育労働者の労働条件ないし労働手段(学校,教室,教材,実験器具等)は,同時に児童の学習条件ないし学習手段でもある.もちろん,教育労働の過程は学習労働の過程と決して同一ではない.児童の学習労働は教育労働の統制のもとにおかれるのであり,教育労働と学習労働の矛盾は,すべての労働過程にみられる指揮労働と被指揮労働の矛盾に比しうる」
児童の学習までも「労働」と表現することの是非を別にすれば,この論理は診療活動と療養行動の関係にもそのまま適用されるであろう.
それでは療養行動の積み重ね=いとなみとしての療養活動はどのような活動なのだろうか.それは人間的活動の体系のなかでどのような位置を占めるのだろうか.わたしは,療養はまずもって生活であり,療養活動は生活活動の一環として位置づけるべきだと考えている.
生活活動過程をどうとらえるかは,いまだ民主的理論戦線においてホットな話題である.これまでのように非生産活動,非労働という消極的規定だけでは,現在の実践分野からの理論的要請に応えるにはあまりにも漠然としているからである.
生活活動は以下のような特徴を持つ.
(1) 生活活動は資本の側からみればたんなる労働力商品の再生産に過ぎない.しかし本来の人間的活動としては,それはよりゆたかな欲求の創造を内包する,新たな生命力=労働力能の産出活動の一部である.
「経済学批判要綱」(資本論草稿集)には「労働力能」という言葉が頻出する。それは「労働力」概念には包摂しきれない極めて魅力的な内容を含んでいる。マルクス の理論のなかでその後どのような運命をたどったのかは不明である。
(2) それは生活手段を直接に消費するという点で物質的活動そのものである.それは物質的であるがゆえに物質的生産活動とともに「物質的生活そのもの」を構成する.それはさまざまな物質的条件の下で活動する,諸個人の生活過程である.
(3) 物質的生活はまた「物質的な生活創造過程」でもある.生活過程は,その前提である生活手段の生産とその消費をくりかえしながら,その前提や制限を克服し,創造的に自己発展していく.生活手段は,たんに生活の前提であるだけでなく,生活創造のための手段である.
(4) 生活活動はたんに「物質的」であるだけではなく、「社会的生活活動」としての側面をもつ.それは日常的な行動のなかでかかわりをもつさまざまな対人関係によって規定されると同時に,諸個人の相互関係行為の総体としての社会的生活活動を創造する.
ドイツイデオロギーにおける第三の「生産」範疇。社会関係は物質的社会関係(生産諸関係)と、イデオロギー的社会関係に分けられる。
「哲学の貧困」はこの問題を中心に考察しているが、私見からすれば、イデオロギー的社会関係の生産は別立てにして論じるべきと思う。
いずれにせよ上部構造論論争との関係で複雑な議論になるので、この区別は本論では省略する。(5) 人間はその物質的生活を社会関係のなかでしか実現できない.社会関係はあたかも第二の自然であるかのように存在する.それは人間的活動に対して「恣意から独立したさまざまな制限,前提,条件」となっている.肉体に障害をもつときそれはいっそう痛感される.
(6) 社会的生活活動は社会関係の絶えざる強化と新たな生成をもとめる.諸個人は既存の社会的関係を通じてさらに多彩で広範な社会関係を産出する.それは社会的分業,労働の分割,協業などの生産諸関係だけではなく,交流や協働などを通じても実現される.それは非物質的活動であり物質的対象という契機をもたない.しかし物質的活動における目的関係や自己発展の論理は妥当し得る.それはある種の「生産」的活動である.
(7) ところで社会的活動において,社会関係がその媒介的手段となると同時に,それ自身目的となっていることは,論理の堂々巡りに見える.それは一種の悪無限であり社会関係の自然発生性(統禦不能性)を示している.しかし資本主義的生活が支配的になり,物象化された社会が諸個人に対し敵対的に立ち向かうようになればなるほど,そのような社会関係は変革すべきものとして客観化され,意識されるようになる.
いまや社会関係は徹底的に疎外された社会関係を自らの鏡像として産み出した.そのことによってはじめて,みずからを人間的活動=変革の意識的な対象としつつあるのである.
(8) 疎外に対する抵抗は,ひとつの人間的活動をあらたに産み出す.すなわち疎外の根源に迫る社会変革の実践である.それは新たな社会関係を創出するための活動であるがゆえに,その目的を自覚された「生産」的活動である.社会変革への目的意識性が貫かれているか否かが,それぞれの活動が生産的か否かを決定するのである.
以上が,物質的・社会的生活活動の概要である.
第一節 療養活動のスペクトル
はじめにも述べたように,療養活動が社会的生活過程の一大部分として現実性をもつにいたったのは,ほぼ健常人に近い生活をおくる病者が集団的に登場して以来のことである.
わたしたちの実践的問題意識も,国民の15%を占めるこれらの人々の切実な要求をどのようにくみとり運動化するか,ということに究極的には収斂する.そのために療養活動の全体像を病者自身の視点から構築することが必要となっている.
療養活動は生活活動の一分野としてさまざまな相面を持ち,それは以下のような重層的構造としてとらえられる.
(1)「闘病」活動
物質的療養活動であり,病気を癒し健康な体をとりもどす活動である.その内容は疾患によって異なり,基本的には個別病者の活動である.病気が重症であり,生活が障害されているほど,この活動が前面に立つ.なお闘病活動に関しては補章で詳述する.
(2)狭義の「療養」活動
物質的でもあり社会的でもある活動.療養のための生活手段をつくりだす活動であり,病者であるが故の特殊的生活活動である.これは二つの側面に分けられる.
a,療養のための環境・条件をつくりだす活動
b,その環境・条件を用いながらそこからの自立と発展をめざす活動
(3)「養生」活動
病者が病者として普遍的人間であろうとする活動.病気のあいだにあっても,日々の生活に生きがいを見出しながら,人間たるにふさわしい生活をおくろうとする活動であり,基本としては一般的生活活動である.それは健者が健康を保持しながら,あるいは障害者が障害を保持しながら送る生活と変わりない.
第二節 矛盾の統一としての療養過程
このなかで議論の結節点となるのが狭義の療養活動である.そこにはいくつかの解明すべき論点が存在する.以下に列挙する.
(1)病者の自己実現過程としてとらえる
aとbふたつの活動は,形態的には矛盾した動きのようにみえる.前者は援助と擁護をもとめ,そのための条件を産み出そうとする.後者はその条件を拒否し桎梏からの自立,脱却をめざす.じっさい診療場面でも患者の要求は往々にして矛盾してみえることがある.
しかし病者自身の立場から眺めれば,それは病者という主体の自己発展のための必然的な過程であり,表現の巧拙は別として当然の要求なのである.
(2)手段の獲得が規定的契機となる
この二つの側面をもつ生活過程においては,前者が後者に対して規定的である.社会的生活手段の生産がその享受のありかたを規定しているからである.病者主体はまず自らへの援助を求め,そのための環境・条件を作り上げていかなければならない.療養権要求の具体的内容として受療権が押し出されるのもこのためである.
これは社会的共同生活手段の存在と充実なしには実現不可能であり,それゆえにこそ療養活動は歴史的に規定された活動なのである.
(3)疾患の重症度と「自立=援助」関係
療養権をめぐる議論の一部には,闘病=療養=養生という異なる療養段階での「自立=援助」関係が混同される傾向がある.ある人は集中治療室の患者を,ある人は老人病院に長期寝たきりの人を,ある人は外来に高血圧と糖尿病でかかっている「元気な」お年寄りを念頭に起きながら,それらの人達の療養権を語っている可能性がある.
CCUや術後患者では,患者はいわば緊急避難の生活を強いられる.活動の主要な側面は闘病であり,自発的な療養生活活動は停止状態となる.「寛容の限界」線は極めて高いものとなる.
そこでは高度で集中的な治療と,さまざまな生活動作の全般にわたる介助が同時にほどこされる.患者の側から見れば,それは一連の受療行動であっても一般的生活過程ではない.
長期寝たきりなど重度の身体障害をもつ場合は,おなじく全面介助が必要であってもそれは生活援助の枠に括られるようになる.それは生活過程ではあっても受療行動ではない.これら両者において共通するのは生活の自立が不可能であるという点である.
ところでわたしたちが対象とする患者の大多数は,外来といわず入院といわず,それなりの程度で自立している.しかも逆になんらかの程度で完全な自立を妨げられている.したがって医療の側には病者の自立を認めつつ,必要な範囲では援助・介入をおこなわなくてはならない状況が存在している.ここに,社会的に見た病者の特殊性が存在する.
第三節 擁護=被擁護関係
一時「社会的入院」ということばが盛んに用いられたが,入院というのは本質的に社会的行為としての側面をもっている.入院とは,一時的にせよ社会的生活からの脱落である.入院生活とは身体的欠陥の結果,社会関係のほぼすべてが欠損した状態である.彼らは入院したから保護を必要とするようになったのではなく,「社会による保護」を必要としたからこそ入院したのである.
彼らをとりまく人々との「擁護=被擁護」の関係は,そこでは当然の前提となっている.それは生活共同体の中での,公的サービスを媒介させる間接的共同関係のひとつの発現形態である.議論をすめるにあたっては,そのことがつねに意識されなければならない.
鈴木政夫氏はこどもの養育について以下のように述べているが,これは本質的には擁護=被擁護の過程一般に共通するものであろう.
こどもはこの世にうまれたときから,自ら育つ力をもっている.このことがなによりもの前提であるが,こども自身が『自ら育つ力』を発揮するには,この『育てる』という行為を必要としている.すなわちこどもは『育てられること』を媒介にして『自ら育つ』存在である.
もちろん親子のような濃密な関係をそのまま社会関係にまで持ち込むのは不正確であるが,医療者に病者の自立をうながす「媒介」的役割がもとめられていることは明らかであろう.
第四節 病者の自立への模索
病者は,被養護者であるからこそ療養活動のまったき主体者となることを目指す.みずからの意志とは独立して存在する客観的状況のもつ必然性を承認すること,だからこそ,その必然性を洞察し意識的な変革の対象とすること,これが自立の前提である.
重症疾患の発症に際して拒絶,怒り,失意,抑うつなどの心理的機転が疾病の受容にいたる一連の経過として出現することは,夙に知られた事実である.それがわずか数日間に過ぎないとしても,おそらく病者はこれらの瞬間を,あたかも時計の針が止まったような濃密な時間として経験する.過去と未来にかかわる一切の喪失,果てしのない孤独と引き裂かれ去っていくもう一つの自己….
病者の内面においては,このような破壊的事態をただしく受け入れ,そこからふたたび立ち上がっていく決意が形成されていく.このような新たな自我の形成は療養過程の出発点としてきわめて重要である.
病者の心理は、病者の負った疾患の如何により著しく異なってくる。その典型がかつて不治の病いと呼ばれた結核である。昭和二十四年、厚生省医務局看護課が発行した「看護の原理と実際」では次のように述べられている。
「結核病棟での看護婦及び医師の仕事の半分は、患者の教育であるということです。それは患者が最初のショックを受け、身も心も打ち砕かれたその時に始まります。
…結核になると、その人の人生がすっかり変わってしまいます。すべてのことをあきらめねぱならず、ときには今までしてきたこと、また計画していることおよぴ節約して溜めてきたものすべてを失わねぱなりません。
…この時期は患者の障害にとって身体的にも感情的にももっとも大切なときです。患者自身が治療の方法を学んでそれを忠実に行うならば、回復することができるのだという希望と確信とを与えてあげねぱなりません」(大段書より引用)闘病の過程は疑似的な個体発生の再現であると同時に,新たな状況に即した新たな社会的自己の形成・発展過程である.それは自己の肉体的自然によって強制された作業ではあるが,自己の社会的自立を求めての活動でもある.
闘病過程は,生活過程論の視点から見れば療養手段の利用=享受でもある.そこでは病者が医療者に依拠しつつ,病気と病者である自己自身とを正しく認識し統禦できるよう「自己変革」することが活動の目的となる.さらに医療上要求されるいろいろな制限を自発的に受け入れられるように,「成熟する」ことももうひとつの目標となる.
療養のための物質的,社会的手段が有効に用いられれば,病者の自立度は高まっていく.自立がすすめば生活は多彩となり要求はゆたかになる.それにもとづいてさらに多彩な社会的関係が産出されるようになる.
前章では諸個人における物質的療養活動の過程を見てきた.ついで社会的過程としての療養活動においても共同性が貫徹することを論じておきたい.
第一節 病者から療養者へ
物質的生活過程からみれば,病者とは生活能力の一部を傷病により欠損した存在である.したがって援助要求の内容はその欠損部の補填である.
しかし病者が「自然治癒力」により,あるいは残された能力をフルに発揮し欠損部を自力でカバー出来るようになれば,社会復帰をふくむ自立が展望されるようになる.
こうして健常者に伍して生活をいとなむ場合は,彼らは「療養者」とよばれるほうがふさわしい.有病者のおそらく大多数がこの範疇に属すると思われる.したがって彼らこそは,私たちがもっとも集中的に議論しなければならない対象である.
療養者においては主たる苦痛は欠損そのものというより,欠損部をカバーすべく健常部が過剰に負わなければならない「負荷」である.「病い」は彼らが担うべき重荷として感じられるようになる.
国連の「障害者行動計画」では次のように述べられている。
「障害者は、その社会のほかの者と異なったニーズを持つ特別な集団と考えられるべきではなく、その通常の人間的ニーズを満たすのに特別の困難を持つ普通の市民と考えられるべきである」この場合療養者の活動は,負荷を軽減するための手段の獲得=環境・条件の実現を目的とするようになる.それらの条件は健康者が生活する条件と共通する.狭義の療養過程において医療労働とその手段を共有したように,社会的療養活動は健康者の「養生」活動(健康を守る活動)と,その手段を共用することになる.
第二節 療養者と療養権
自立した療養者たちは,やまいを生活していくうえでの「重荷」としてとらえ,これを支えるための援助をもとめている.そこではもはや療養者たちはなんらかの操作の対象ではなく,ともに歩む生活者同志である.
それは療養者のみならず貧困者,障害者など社会的弱者のになうべき「重荷」との質的共通性をもつ.もとめられているのは生活共同体としての機能を発揮し,トータルに彼を援助することである.
ところで類似の概念として「ノーマライゼーション」ということばがある。そこに込められた善意をあえて否定するわけではないが、「ノーマル」ということばの危うさ、市民的連帯意識まで包括しての「〜ライズ」の表現、病いを「重荷」としてはなく「欠損」と捉える「医学的」視点には若干の疑義なしとしない。
療養者たちの援助要求は権利性をもっている.しかしこれは無条件に現実化されるものではない.「ケガと弁当は自分もち」という社会にあっては,社会的療養活動はそもそも成立しえない.療養権は,他者もその活動を当然と考える社会環境のもとにあってはじめて成立する.病者たちと彼を直接養護する人々,そして広く市民が,病者たちの要求を当然のものとして承認してはじめて,それは実体的権利となる.
第三節 「生きる条件」と療養権
療養者たちの活動は,療養に対する援助をもとめる活動だけではない.むしろ「重荷」をにないながら,普遍的に生きるための条件をもとめ,実現していく活動である.
療養権の普遍性は生活の普遍性,要求の普遍性,たたかいの普遍性に規定されている.人間として働くのにふさわしい仕事の確保,人並みに暮らせる最低賃金,健康を損なうことのない労働時間,職場の衛生と安全,社会保険や公的サービスの充実など,働く人々の社会条件の獲得は,そのまま療養者たちの生活と健康を守るための条件でもある.療養権は,憲法第25条だけではなく,第27条「勤労権」を視座においたものとしても語られなければならない.
これらの物質的・社会的生活手段は黙っていて得られるものではない.歴史的に見ればそれらは労働者の血と涙と汗であがなわれたものである.逆に,黙っていればそれらの権利はふたたび奪い取られ,さらなる健康破壊の攻撃がかけられてくる可能性がある.
第四節 療養者のたたかいと連帯
療養活動は本質的に共同をもとめる活動である.それは療養生活にかかわる擁護や支援をもとめている.しかし療養者たちが訴えているのはそのような市民的共同だけではない.それはさらに療養をふくめた社会的生活のためのよりよい条件を獲得すべく「階級的」連帯を呼びかけてもいる.
病者・療養者たちこそがもっとも激しく,資本家と結びついた政府・厚生省の攻撃にさらされている.それだけ彼らの連帯のよびかけは切実で深刻である.療養者たちのまわりでは,広範な人々がその願いを受けとめ,生き生きとした社会関係を作り出すための制度的保障をもとめて,実践を積み重ねている.
このように,健康者もふくめた国民全体が療養生活の全面性実現をもとめ「たたかう権利」としてとらえるとき,はじめて療養権はまったき権利となる.
療養活動はそれ自体社会的生活過程として重層的な構造を持っている.その活動は市民的共同関係の中でいとなまれており,この関係の中で直接・間接に支えられている.このような社会全体の関係の中で医療サービスを見つめる視点が,いま何よりも求められている.
かちとるべき国民的合意とは,療養権・受療権がすべての人々にとって根源的要求であり無差別的権利なのだという点にある.
レーニンを指導者とするロシア革命が20世紀はじめに実現した,国民の権利=国家の責務としての社会保障の理念は,人類の偉大な遺産として引き継ぐべきものである.これを「冷戦が終わった」といっていとも簡単に放棄し,「ジャングルのおきて」が支配する世界へ引き戻すのは許されることではない.
医療活動を個別生業的サービスであると前提する現象的・感覚的な認識は乗り越えられなければならない.そして市民的共同関係を媒介し,これをシステムとして支える公共的サービスとしてとらえる観点を断固として守りぬかなければならない.
国民の療養権の豊かな実現のため、社会のさまざまな人たちが協力し合うことが、「共同の営み」ということである。
営みの主体としては、病者・療養者たちを中心として、一方では生活共同体の構成員があり、他方では社会に付託されて共同関係を具体的に媒介する医療者の集団がある。
第五節 療養権実現を目指す国民的連帯
療養権は,擁護すべきものとしてすでに存在しているわけではない.それは国民的合意の下に「創造すべき権利」として仮想されているにすぎない.そこでは療養権は「国民の療養権」としてとらえ返される.
さまざまな国民的運動が統一してたたかわれるようになったとき,療養者の多面的要求がはじめて全面的に実現し,真の「患者の権利」が実現することとなる.それはたたかいの歴史が証明するところである.
「国民の療養権」実現を目指す運動は,それが国家に対する権利要求である以上,否応なしに政治的性格をもたざるをえない.
第二に,療養権は病者の権利ではなく国民の権利として突き出されなくてはならず,その闘いはつねに全国的,全人民的な性格を持たざるを得ない.
第三に,この運動の過程に引き寄せられて,すべての療養活動と擁護活動=医療活動が真の共同性を獲得していくということである.すなわち,即自的ではない「腰のすわった共同性」は,国民の療養権という考えを媒介として初めて成立しうるのである.
共同性は,たたかいと連帯のなかで統一戦線の実現を目指すとき,はじめて巨大な意味をもってくるのである.
第六節 共同のいとなみと民医連
国民の療養権のゆたかな実現のため,社会のさまざまな人たちが協力しあうことが「共同のいとなみ」ということである.
民医連では医療運動の中心的視点として、医療者・病者・市民の「共同の営み」としての医療を提起している。
「いとなみ」の主体としては病者=療養者たちを中心として一方では生活共同体の構成員があり,他方では社会に依託されて共同関係を具体的に媒介する医療者の集団がある.
病者が受療することにより展開される医療の場においては,一方において診療=受療という関係が,他方において擁護=自立の関係が成立する.これらの関係の総体が「共同のいとなみ」の考えにはふくまれている.
そのような「共同のいとなみ」はアプリオリに存在するものではない.なぜなら,療養活動のいとなみも診療活動のいとなみも,即自的には資本主義社会のもとでの疎外されたそれとしていとなまれているからである.
療養活動は「自由」の幻想の下にアトム化された孤独ないとなみであり,診療活動は資本の下に包摂された価値生み労働として措定されている.その結果として,両者の関係もまた疎外されている.
したがって共同のいとなみは,各々がこの疎外された状況を克服しつつ,両者の関係を共同的なものに作り変えて行く作業として提示されなければならない.
疎外された関係を,その限りにおいて合理的なものに変えようとしても,それは疎外そのものを克服する方向に進むものではない.共同のいとなみは日々のいとなみを無前提的に展開するだけで達成されるものではない.
私たちの「いとなみ」は療養権の実現を目指すいとなみである.それは労働・生活の全面にわたる「抵抗とたたかい」抜きには語れないものである.「共同のたたかい」を展開してこそ,はじめて「共同のいとなみ」が意味をもってくるのである.
民医連にはたらくわたしたちは,医療変革を射程においた日々の「いとなみ=たたかい」のなかで,この「共同のたたかい」を医療の現場にもういちど引きつけてとらえなおす.そして「学び,調査し,告発し,行動し,組織する」過程をへて運動を発展させ、自らも成長していく。
私が別論文(北海道勤医協報八六号)で医療活動を前進させるための実践過程として提示したもの。
そして真に患者さんを信頼し、患者さんに依拠する「目と構え」 を鍛えていく.
民医連で医療変革者のありかたを示すものとして古くから使われてきた合いことば。「目」はリアリズム、「構え」はヒューマニズムを表すとも考えられる。
たたかうからこそ「患者の立場」に立つことができる,たたかうからこそ「良い医療」が心から理解される.ここに「良い医療」の弁証法がある.まさしく「たたかってこそ民医連」なのである.