第一節 理論活動の必要性 第二節 療養権がキー概念
第一節 「療養」概念の提起 第二節 「療養権」の提起 第三節 療養権の時代背景
第四節 療養権保障の内容 第五節 「療養の自由」のとらえかた 第六節 「受療権」の提起
第一節 診療権限と診療権 第二節 「診療の自由」 第三節 「診療の自由」と「医の倫理」
第四節 医療聖職論の克服 第五節 「診療の自由」から診療権へ
第一節 理論活動の必要性
人口構成の急激な変化,「生活の社会化」の進行などから,国民の医療に対する考えが大きく変わりつつある.それは医療にとどまるものではない.福祉や教育を含む公的サービスのありかたが根本的に問われているといえる.問題の根底はこのような未曾有の社会的変化にある.しかし医療をめぐる矛盾が激化している理由は,直接には臨調行革以来,公的サービスに対して加えられてきている大規模な反動攻勢にある.
市場経済の論理が,そのまま自治体や公共企業体に持ち込まれてきた.そしていま高齢者に対する社会保障をどのようにして切り捨てるかが,支配層の最大の課題の一つになっているのである.
公的サービスのいっそうの充実を願う国民に対し,ただでさえ不十分な現在の保障体制をさらに改悪するのであるから,この攻撃は否応なしにイデオロギー的欺瞞をともなわざるを得ない.かくて医療・福祉における臨調路線はイデオロギー攻撃として開始されている.そこでは国民の要求の「権利性」を否定するか擁護するかが,ますます思想的対決の焦点となっていくことになる.
私たちたたかう医療従事者にとって,反動攻勢をはねかえしいのちと暮らしを守る運動をさらに発展させるうえで,「患者の権利を守る」ということの意味があらためて問われる理由はここにある.
私たちは,あらたな状況のもとで,この「権利性」の内実を原理的につきつめていく必要に迫られている.なぜならそれが従来の患者観,人権意識,医療観,技術観をひきずったままで語られるならば,現在のイデオロギー攻撃に秘められたあらたな狙いを見抜くこともできないからである.さらに具体的な医療実践においても,医療経営困難の打開,医療と福祉の連携などとを,「良い医療」の思想と統一して把握することが困難になってくるからである.
第二節 療養権がキー概念
わたしは,たたかいの発展段階に見合った医療運動論を展開するためには,国民一人ひとりの生活活動と,それに対応する社会的サービスといういちだん広い視点からの見直しが必要と思う.既存の医療保険制度や供給体制,さらにいえば「医療」対「患者」という枠組みでの議論には限界があるのではないだろうか.本論では「患者」という集団を,その生活までふくめたより広い範疇でとらえるため「病者」ということばを用いたい.また病者の生活過程を,医療の場以外での活動もふくめ「療養」と表現したい.
そして今日の医療にかけられた攻撃を,なによりも「国民の療養権」への敵視ととらえたい.さらにさまざまなたたかいを,たんに「権利を守れ」という枠組みではなく,より豊かで積極的な「国民の療養権」実現のたたかいの一部としてとらえたい.
第一節 「療養」概念の提起
病いのなかでも人間たるにふさわしい生活を送る権利,そのために医療サービスを利用する権利は,憲法25条に裏付けられた国民の権利である.ここではこの権利をそれぞれ療養権,受療権と呼ぶ.療養権はたんなる生存権にとどまるものではない.それは人間が自己の能力を高め,自活し,みずからの尊厳を実現し,勤労の喜びを味わう権利(憲法26条及び27条)と分かちがたく結びついた人間的権利である.
療養というのは,病者が病気とたたかい,健康を回復し,あるいは健康回復を願いながら生活を再生産していくいとなみをさす.ここで病者というのは,急性あるいは慢性の疾患をもち,さまざまなやり方で療養をいとなんでいる人たちのことである. 病者が医療機関を受診すれば患者となる.厚生統計では前者は有病率として表わされ,後者は受診率として示される.
療養活動の過程においては,その手段として医療をはじめとする各種の公的・私的サービスが利用される.しかし療養活動自体はたんなるサービスの受益にとどまるものではないし,医療実践の過程のなかに解消されるものでもない.
かつて病者がみずからの病をいやし,健康な体をとりもどす営為は,制度的・社会的枠組みの外にある純粋に個人的なことがらと考えられていた.その限りにおいて療養は「自由な活動」ではあったが,その内実はヤセ我慢するか怪しげな民間療法に頼る「自由」でしかなかった.その自由は,金のないひとにとっては「死ぬ自由」と同義であった.
このような「自由」に対する拒否として,そして社会的公正にかかわる要求として,まず受療権を要求するたたかいがひろがるのは当然である.しかし曲がりなりに受療権が実現したとしても,いったん診療を受ける立場におかれるや,そこでは彼はまったく受動的な存在におかれるしかなかった.
ところが最近の技術的発展と患者・疾病構造の変化にともない,医療のスタイルが変わり,患者の自発性を前提とする医療の分野が大きく拡大されるようになった.
療養活動は,医療者の側から要求される指示や制限を活動の前提として受入れながら,それを条件として自主的な判断のもとに展開される社会的活動として考えられるようになってきた.このような活動の制度的認知と保障が,療養権の中核をなす概念となりつつある.
第二節 「療養権」の提起
(1)療養権の範疇
療養権とは,病者たちみずからが療養活動の自由な主体であることを,社会的に承認し支持することである.
療養活動は重層的な内容をふくんでいる.それは主体的意志にもとづいて病気を治していく活動でもあり,社会への復帰と適応を実現する活動でもあり,そのなかで自己をより豊かに実現していく活動でもある.その過程は,それ自体が個人にとって目標をもった生活過程であり,病前状態へのたんなる復帰ではない.なお「療養活動」論については稿をあらためて考察する.
療養権は療養生活権である.
それは「療養の自由」をその基底に踏まえつつも,自由一般にとどまるものではない.あえて「自由」ということばを使うなら,それは諸個人が与えられた条件を活動の前提としながら,精一杯に自己を実現していく「自由」として理解されるべきである.
(2)療養権の前提
療養権の保障は,健康な人々をふくめた生存権・生活権の保障と不可分に結合している.生活権は複合的権利であり,文化・生存基本権ともいうべき枠組みの中でとらえ返されなければならない.すべての国民にとって生存・生活権が確保されることが,病者の療養権の保障にとって不可欠の前提である.
病者の権利は社会的弱者にとっての権利であり,社会一般の支持を受け承認されないかぎり,現実に有効な権利とはならない.歴史的に見ても,病者以外の多くの市民がみずからの要求としてたたかって,それははじめて実現したのである.療養権の実質的な内容は,いやおうなしにその時代の社会的合意の水準,ひいてはその時代の全般的なたたかいの水準に規定される.
療養権を憲法13条の「自由および幸福追求権」から説明することも可能である.しかし上に挙げたような理由から,療養権は主要には階級的・集団的権利として形成されてきたと考えるべきであろう.
第三節 療養権の時代背景
(1)社会と疾病構成の変化
療養権の考えが重要となった背景には,成人病の「国民病化」がある.いまや病者たちが,なんらかの慢性疾患を抱えながら健者に伍して社会生活を続ける,という状況が一般化している.療養生活は,社会から切り離された闘病生活というよりは,病を負いながらの社会生活という性格を強めている.療養に関わる要求は特殊な要求ではなくなり,一般的生活要求と切り離しがたく感じられるようになっている.
病者は,別の場面では自立した生活者であり,自立した生活者としての正当な関係を国に対しても医療機関に対しても要求し得る現実的基盤をそなえている.
最近の医療・福祉を特徴づけるもうひとつの社会的変化が「高齢化社会」である.老人はその多くが病者であると同時に社会的弱者でもある.病者は,別の場面ではなんらかのかたちで自立性を損われ,保護を必要としている存在である.このように療養上の困難と生活の困難が一体化しているところに老人問題の特徴がある.
この場合保護主体としての家族,市民たちが,病者とともに療養権を主張し実現させるために結束しなければならない必然性が生じてきている.療養権が生活権のひとつとして語られ,生活要求が療養権の主張というかたちで突きだされる必然性がそこにはある.
(2)療養要求の特徴
これらの動きにはいまひとつの特徴がある.それは病者・家族・市民が一般的に診療を受ける権利を要求するにとどまらず,療養権の内実そのものに具体的にかかわって声をあげ始めたことである.
運動そのものはまだ緒についたばかりであるから,多くの内容的矛盾をかかえている.しかしその動きを発展的に見るならば,そこには療養の本質にかかわるおおきな変化を見てとれる.
これまで患者や市民は国や医療機関の啓蒙の対象でしかなかった.いまや彼らはみずからの療養に責任を負うべき主体として登場し,各種サービスや保障に対する主権者としてふるまい,人権・権利保障の制度化に踏みだそうとしている.
わたしたちはこの動きを歓迎するだけでなく,先行的に理論武装し,運動の方向を積極的に示していくべきであろう.
第四節 療養権保障の内容
制度的に考えれば,療養権とは病者たちの要求の法的・社会的承認である.それは療養活動そのものを人間の根源的権利ととらえることにとどまるものではない.権利は要求に即して具体的であるからである.
病者たちの要求は,生活者として一般市民と共通する要求,病者たちの病者としての特殊的要求,病気の種類や重症度に応じた個別病者の要求に分けられる.
(1)病者の人間としての一般的要求.つまり,病気のあいだにあっても,日々の生活に生きがいを見出し,人間たるにふさわしい生活をおくりたいという要求(生活・生存要求)
(2)病者の病者としての特殊的要求.これはそれ自体矛盾を孕んだふたつの要求に分かれる.
・闘病生活にふさわしい条件・環境への要求(擁護要求)
・病気について知り,受けとめるとともに,療養方針をみずからが主体となって実践したいという要求(自立要求)
(3)病者おのおのの個別的要求.すなわち,病気がなおり健康になりたいという要求(治癒要求)
このうちどの要求が前面に出るかは,治癒・自立の程度により異なる.留意すべきは,いずれの段階においても,これらの要求すべてが病者のうちに内包されているということである.どの要求が具体的に顕在化しているかを的確にとらえるだけでなく,病者の要求は本来全面的なものであることを踏まえ対応すること,これがわれわれに課せられた任務である.
ところで医療実践の観点からみれば,療養権を実現することは病者たちの即自的要求をすべて容認することではない.もちろん,すべてを医療者の保護・管理下におくことでもない.病者が,病気と病者である自己自身とを正しく認識し統禦できるよう,そして医療上要求されるいろいろな制限を自発的に受入れられるよう援助・指導することである.それは「援助からの自立」のための援助である.
病者が自立するにつれて要求内容もゆたかになり,たんなる擁護要求にはとどまらなくなる.それは療養過程の進行により変化する生活状況の主観的反映である.だいじなことは,その要求の根底には病者なりの生きがいと自己実現への願いがあることを確認することである.
第五節 「療養の自由」のとらえかた
療養権には,制限なしに療養をいとなむ権利,すなわち「療養の自由」がふくまれている.第一節でものべたように,これまでの医療と社会保障をめぐるたたかいはその自由をたんなる宣言に終らせず,内実としてかちとっていくたたかいであった.
「療養の自由」も具体的な「自由」としての側面をもっている.そこには自らの療養方針を自由に選択し決定する権利,受診すべき医療機関を自由に選択する権利などがふくまれる.
「療養の自由」を考えるとき,基本的視点としてはっきりさせたいことがいくつかある.
第一に,「療養の自由」はそれ自体療養権のみなもととなる概念であるが,療養権全体をどう実現していくかという変革の立場からみれば,それはこの権利の一部を形成するにすぎない.
「療養の自由」は基本的に市民的自由の枠にとどまるが,療養権は能力の全面開花と全面発揮を要求する,いわば未来へ向かって開かれた権利である.その内には人間を不具的発達へと導き,たんなる資本再生産の手段にとどめようとするものへの抗議が含まれている.
病者たちの権利を尊重するという考えは「自由な診療契約にもとづく平等」からは説明できない.病者の権利尊重は,根本的には,病者たちを社会的弱者ととらえ,弱者であるからこそその人権を完全に保障しなければならない,という社会的共同の思想に由来している.
第二に,それは医療者から加えられる制限の拒否という「消極的自由」ではないということである.「療養の自由」は人間的自由に向けての自由である.それは療養活動の遂行のために要求されている能動的・自律的自由である.なぜなら療養という生活活動全体の内容・方法は自らが責任をもって決めるほかないものであり,これを他者に委ねたままでは有効な活動は期待できないからである.
第三に,「療養の自由」を議論するにあたっては,後に述べる「診療の自由」と対立するような発想から出発するべきではない.後者は根本的には療養権に由来する自由であるがゆえに,本来は「療養の自由」と重なり合うべき自由であり,「療養の自由」同様に国民が擁護すべき「自由」である.療養の自由をまもりながら二つの自由を実質的にも合致させていく努力がもとめられている.すくなくとも行政的な規制は望ましいものとはいえない.
第四に,それは国民全体が歴史的にかちとってきたものであり,集団的に享受すべき自由だということである.患者の「顧客としての権利」のように一人ひとりの問題にすべてを還元してしまえば,療養はまったくの「私事」となり,療養権はただの「私権」となってしまう.そこでは医療システムを,共同体をふくむ社会的過程のうちで管理・統制していく問題が,軽視もしくは否定されてしまう.
療養権と「療養の自由」との関係は,療養活動・医療実践の普遍性と個別性とをめぐる問題に帰結する.この関係を理論的に解き明かす作業が今後さらにだいじになってくるであろう.
第六節 「受療権」の提起
病者たちが患者として病院をはじめとする各種施設・制度に向きあう際には,療養権は診療を受ける権利すなわち受療権として特殊化される.民医連においては,それはしばしば「患者になる権利」として表現される.
ここで強調しておきたいのは,療養権を受療権に限定してはならないということである.なぜなら
第一に,療養権が人間まるごとの権利であるのに対し,サービスを受ける権利は,それ自体は「受動態的権利」にとどまっているからである.療養権は何よりも能動的な権利として突き出されなければならない.
第二に,受療権の視点からの政府批判は,権利侵害に対する抗議にとどまり,文化・生存権への展望につながる呼びかけとはなり得ないからである.第三に,医療者の主体的な活動を受療権からだけでは説明できないからである.それは国民的療養権の不可欠な構成部分として初めてその由来を証明できるのである.したがって
第四に,それは,真の共同体実現をめざして国民的統一戦線への結集を促すスローガンとはならないからである.
受療権は,療養権を条件的に保障するための制度を要求している.それは「受療の機会均等」を重要な柱とする社会権と位置づけられる.したがって受療権は,私的な医療供給体制を介在させつつも基本的には国との関係において理解されなければならない.
受療権の保障は社会的諸機構の総体に責任がある.それは原理的には国民全体であり,制度的には国や自治体であり,受療権を保障するための医療をふくむ各種機構・サービスである.同時にそれはたんなる制度保障にとどまるものではない.療養権のゆたかな実現のためには,病者たちを中心として医療者,家族をふくむ市民の連帯が必須の条件となっている.
「受療権」という概念もまた複合的である.それはまず病者たちの「よい医療を,すくなくともまともな医療を受けたい」という要求の社会的承認である.それは社会に対する平等と公正,正義の実現の要求である.
今日,日本における受療の権利は,国民皆保険体制によって平等を実現したかのように見える.しかし残念ながら,実際の生活の現場ではおよそ平等とはいいがたい事態が進行している.生活保護世帯,障害者医療,一人暮らし・寝たきり老人,母子家庭など医療と福祉の境界領域的な問題が山積し解決を迫られている.したがって依然として「受療の機会均等」を声高に主張しなければならないのが実態である.
しかしこうした実態があるからといって,受療権を制度的側面だけからとらえるとすれば,それは一面的であろう.「いつでもどこでも親切でよい医療を」のスローガンを,事実上「いつでもどこでも」に限定してしまうとすれば,それは医療制度の貧困を指摘するにとどまるものであり,医療者の受療権実現への主体的かかわりは等閑視されているからである.
受療とは,みずから療養するものとしての病者主体が,みずからの活動の条件・手段としての制度・施設や専門職にたいする協力・援助を依頼する行為でもある.受療権とは一面では「ガンバッてよい医療をしてもらう」ことを期待し要求する権利として医療者につきつけられている.受療権をたんなるシステム上の問題にとどまらせず,質的にも保障していく課題がそこには提起されているのである.そのためには,受療権の全面実現にかかわって医療者集団の質的変革の課題が避けて通れないものとなっている.
病者たちはさまざまな制約を負いながら,それぞれにふさわしいしかたで生きがいのある生活を送ろうとしている.そういう過程がひとつひとつ理解され尊重される医療が,そこには必要である.「いつでもどこでも親切でよい医療を」とはこのような文脈でこそ理解されるべきである.
診療権は,診療権限と医療従事者の自律性という,ふたつの異なった原理を基盤としている.
第一節 診療権限と診療権
診療権限は国の行政権限の一部として生じる.国には療養権保護のために各種の制度を創設・運用する義務があり,そのかぎりで権限が発生する.これは医療行政権であり医療権ではない.その権限の一部付託されたものとして,医療者に対して診療の執行権限あるいは医療機関の運営権限があたえられる.それは各種のライセンスとして規定された権限である.その場合の診療権は,無限定なものではなく,当初よりその範囲と力を限定された権限である.
行政は,原理的には市民的共同体の意思の表現としてとらえられる.市民的共同体は医療者と共同して,直接病者の権利の保護に責任を負うと同時に,その集団的権利を行政に反映させるべく主権者として行動する.行政の権限は本来,この主権者集団の集団的意思に由来するものであるからこそ有効なのである.
とはいってもそれは行政の現実の姿ではなく,われわれの実践によって変えうる可能態としてのみある.現実には行政は本来の限定を越えてひとつの権力となり,病者の権利を制限したり干渉したりする危険性すらある.いっぽうにおいて療養権保護の責務を出来うるかぎり回避しようとする国の意思も一貫してつらぬかれている.
第二節 「診療の自由」
医療専門職には,その任務の専門性に由来して,診療行為に大幅な自律性が保障されている.その任務の遂行のために周囲からの妨害を断固として排除し,自己の良心にのみしたがい診療をおこなおうとする態度の社会的承認が,「診療の自由」の概念を形成している.診療権は,診療権限だけではなく,このような医療専門職の自律性という考えをもふくんでいる.
専門職の自律性は「プロフェッショナル・フリーダム」と表現される.専門職の自律性はその専門分野の持つ科学的本性に規定されている.だから専門職の自律性を擁護するということは,ときどきの状況に左右されず,科学的真理や人類共通の価値を断固として擁護することである.医療専門職の自律性は「診療の自由」と表現される.医療専門職というプロフェッションが,医療ということがらの本質との関わりにおいて,それを要請しているのである.
ところで,伝統的考え方では,「診療の自由」は主として医師の身分にかかわる自由である.診療を乞うものに対しては貴賎を問わず応需する,というのが医療者の基本理念であるとするなら,医師は時の権力に隷属してはならず,全面的に自立して自由でなければならない.この思想は,いつでも誰でも自由に(ただし金さえあればだが)診療を受けてしかるべきであって,君主や教会による医療への干渉や制限などまっぴらという有産市民階級の個人思想の反映でもある.
歴史的に見れば,「診療の自由」は国家の干渉にたいする医療専門職の抵抗という側面をもっている.しかしいっぽうにおいて市民による統制をも排する孤高の原理である.権力からの自由を主張する根拠としてのみ「診療の自由」が位置づけられ,その背景となっている病者への責務が等閑視されるならば,この主張は無力となる.現に医師会保守派によって,「診療の自由」ということばが「依らしむべし,知らしむべからず」の事大主義思想の代名詞として用いられていることを見ても,そのことは明らかである.
伝統的な「診療の自由」論は,医療へのアンビバレントな感情が国民のあいだに広がっていることについて,責任の一半を負うべきであろう.
病者・国民は治療しなければならない場合はそのことをきちんと納得し,しっかり医療をおこなってもらわなくてはならないと感じ始めている.一方においてはまだ,医療者が社会的規範からまったく自由であれば,勝手な医療をされはしないかという不安を感じたりもしている.このような矛盾する意識を,政府は医療の統制に有利な条件だと考え利用してきた歴史がある.いま国民・病者・医療者が手を結んで立ち上がろうとするとき,「診療の自由」という概念については,より積極的な方向での国民的なコンセンサスが必要となっている.
第三節 「診療の自由」と「医の倫理」
「診療の自由」は診療権限とはことなり,本質的な限定をもたない.
患者にとってもっともよいと思われる治療方針を選択することは,医療専門職の内的自由の問題ではあっても患者の自由そのものではない.
病者との個別的関係においては,診療の自由は,必要な限りにおいて患者の身体を侵害し,患者の自由に抵触する自由と事実上同一のものとなる.このような自由にたいする侵害が,どのようにして患者に受け入れられ積極的に支持されるか,ということがそこでは問われている.
この点で「診療の自由」と「医の倫理」は表裏一体の関係にある.命を預かるということに関して要求される倫理性には厳しいものがある.最近では医療事故や院内感染,さらに臓器移植や脳死問題とも関連して倫理性が問題となることが多い.
かしそれは医療が踏み越えてはならない一線,あるいは医療が当然守らなければならない一線として,消極的な意味で論じられることが多い.
医療における倫理性は,「医療聖職論」として強調されることもある.医療従事者は専門職という点でみるならば「聖職」といっていい.すくなくともそういう誇りをもってもいいと思う.しかしそれにとどまる限りでは,医療を「恩恵」として病者に押しつけ,一方において低賃金,重労働,無権利の医療労働を強いるイデオロギーとしての「医療聖職論」を克服することはできない.
第四節 医療聖職論の克服
病者がますます「病いを負った生活者」となっていくのと同様,医療者も働く人々としてその階級的性格を急変させつつある.病者たちと医療者とは,いまや「生活者・勤労者」同士として,たがいに支えあう関係を形成しつつある.病者たちを病いを負った仲間と見,「連帯の論理」にしたがって対応していくこと,ここからあらたな医療の倫理が生まれつつある.この新しい倫理は,伝統的な「診療の自由」観の枠にとどまらない集団的・能動的な自律性をもたらしつつある.
これらの変化は,個人開業医制から病院中心型医療への劇的な構造変化を迎えたこの30年のあいだに出現した.医療を支えるのは孤立した医師と孤立した看護婦たちではなくなった.若手医師の大多数は勤務医となり勤労者としての意識を強めている.診療現場を担うのは,これら医師集団を中心とする多職種からなるチームとなり,医療労働者集団となった.
いっぽうでは,医療攻撃のもとで日毎に医療従事者から「自由」が奪われ,「よい医療をしたい」という要求が極度に切り詰められ,選択の幅が狭まりつつある.「自由」を奪ってきたものにたいして,マニュアルや療養担当規則にしばられない良心的な「診療の自由」を,医療従事者の生活が雑事に追いかけ回されないような自由を,と要求をかかげたたかうことは,ますますだいじな差し迫った課題になっている.
このような自由と権利を要求する医療労働者の闘争は,病者たちの受療条件を改善するたたかいともならざるをえない.看護婦の大幅増員,労働時間の短縮,待遇の改善,診療研究における自律性の保障などは,患者がより充実した医療を受けるための不可欠の条件である.
「診療の自由」は,医療労働者のそれとしてあらためて問い直されるようになった.いまではつぎのようなことがいえる.すなわち医療労働者の労働条件は患者の受療条件の重要な一部である.それはかつて有産市民階級が,「よい医療」のため医師の身分の自由を擁護したのと似ている.
医療者の労働条件と病者たちの受療条件とのあいだにこのような関係があるからこそ,医療労働者のたたかいの意味がよく理解されるときは,市民もそのたたかいを支持・激励してきたのである.
第五節 「診療の自由」から医療者の診療権へ
(1)能動的権利としての「診療の自由」
そもそも診療権は,病者の療養権をまもる責務と表裏一体のものとして提示されている.医療実践は,狭い意味では患者の病気をなおす活動であるが,広い意味では療養権実現過程の一翼をになう実践である.したがって「診療の自由」は,療養権と同様,より能動的な内容をふくむ権利ととらえるべきであろう.
「診療の自由」を真に追求するならば
(1) 施設・設備・スタッフなどの診療条件が療養活動の実現に必要な前提を満たしているか
(2) 医療機関のありかたが「病を負いながら生きがいのある生活を送る」という療養の究極目的に沿ったものになっているか
(3) 医療をふくむ公的サービスの制度が国民生活の必要にふさわしく整備されているか
などについての判断を避けてとおれない.医療者の労働条件は国民にとっては療養の条件であり,その改善は国民的課題でもある.それらの判断をふくんだうえで,医療者集団の労働主体としての良心が問われなくてはならない.すなわち「診療の自由」は「良心の自由」,「主体形成の自由」の一部として階級的にとらえかえされるのである.
(2)診療権のあらたな地平
療養活動は多面的かつ重層的である.さまざまなシステムや個人と関係を結びながら,それらを媒介として自己を発展させていく活動である.多くの社会的支援活動がこれと結びつきながら展開されて,はじめて療養活動は実質的な内容を獲得する.医療従事者はこの結合した実践過程に引き寄せられて,ひとつの主体としても療養権の保護者となる.
医療の内容とその環境を,より科学的にかつ人間的に変革しようとすることは,医療に従事するものの専門職としての要求でもある.医療者の,この根本的な「要求」に支えられた運動としてこそ民主的医療運動は発展してきた,ともいえる.
一方で,差し迫る医療総改悪の動きを,診療権の重大な侵害としてみる視点が重要となっている.たしかにそれは直接的には病者の療養権や受療権を制限することに狙いがあるのだが,その故に医療者がその能力を発揮して国民のために奉仕する役割をも制限してしまうのである.
今日,国民との連帯と医療者の集団的倫理とに支えられ,普遍化された診療権の考えを闘いの前面に押し出すことがますます重要になっている.診療報酬改善の闘いもそのような視点で位置づけられる.
療養活動が生活全般にわたる活動として展開しつつある現在,医療への市民の期待や要求も様変わりしつつある.市民は旧来の「診療の自由」を全面否定するのではなく,国民の立場に立って民主的に発展させることを望んでいる.さらに療養活動の全面性に対応した多様な診療機能の発揮とあらたな質の医療活動の展開を要求しているのである.
「民医連医療」誌に掲載したときにも断ったように,この論文は牧先生の著書に触発されたものである.あらためて感謝の意を表したい.
初稿では「拡張された診療の自由」という表現を用いたが,ここでは「診療権」という言葉に改めている.しかしこれらの概念については今後さらに検討を必要とされるであろう.