闘病活動の過程

自然への反逆と自己愛の過程としての闘病

 

  療養活動論の最後に,そのひとつの相面である闘病活動についても触れておきたい.
 実はこれはきわめて難しい理論的課題である.人間的活動の対社会的側面と物質的,対自然的側面との,それは結節点に位置する活動である.
人間的活動の二つの側面がいかに重畳しているか,それは諸個人の内面でどのような心理学的構造を成しているのか,それをめぐってヒューマニズムとリアリズムはどのように適応されるのかなど,考えただけでも頭の痛くなるような理論的課題が山積している.
 以下の考察も試みの域を出ないものである.


第一節 「病い」の現象学

 闘病活動は療養活動の一つを構成する。療養活動の一環でありながら、闘病活動はそれとはかなり形態を異にしている。それは特殊な相面にある療養活動として位置づけられる.

 それは病気の重症度,症状の強さ,社会的援助の必要性などにおいて、療養活動一般とはことなる二つの特殊性を持つ。

 第一に、闘病活動においては、療養活動が内包する“人間対自然の関係”がより前面に出てくる。そのような活動として、闘病活動は、療養活動のバイオフィジカルな基層を形成する.

 第二に、それは療養活動が「営為」としての性格が強いのに比べ、「営為」からの飛躍、あるいは実存的・非日常的「投企」であるかのような外見をとる。

 しかし、それにもかかわらず、次のことが強調されなければならない。

  闘病過程も療養過程の本質的一部であり、人間的活動の一過程である.

 闘病活動を、療養活動=人間的活動の一環として見てみよう。それは医療行為ではない。それは,直接に病気そのものに向けられた対自的活動ではない.それはむしろ,病気の人間的表現たる「病い」の人間的受容と対応をめぐる,諸活動の系列として捉えられるべきものである.

「病い」とは病気の人間的な表現形態である。動物も病気にかかるが、それは苦悩し、克服への情熱をかきたてるべき対象としての「病い」ではない。

 一見奇妙なことであるが,闘病過程は病気を認識し,承認し,受容し,適応する過程として現象する.闘病過程は闘争の過程ではなく屈服の過程であるようにすら見える.

病気は病者の内面に「葛藤」をももたらす。それは自我の分裂から新たな再統一への過程なのだが、どのようにしてその心理学的過程が進行するかは、本論の対象からは外れる。

 しかしその内実は,病いを得た者が二重の意味において人間的主体として再形成される過程なのである.

 諸個人は,みずからが自然に規定されたひとつの自然的存在でしかないことを,苦痛と怒りをもって承認する.そのことによって闘病活動を開始するのである.

 第一に,それは自然に反逆するものとしての闘病意欲=構えの形成である.

 本来人間の持つ「生への衝動」の体現者たる諸個人は,病いを契機として自然への反逆を開始する.

諸個人は人間の持つ普遍的・能動的論理の体現者としてそれに立ち向かい、それを承認しつつ否定するのである。承認しつつ否定する行為をここでは「反逆」と呼ぶ。反逆する過程において人間主体は自己の自然的身体を対象化・客観化する。この対象化という行為が承認と否認とを結ぶ媒辞となるのである。

 人は「病気」をみずからの病いとし,病めることもふくんでその身を我がものとしていとおしむことで自我を形成しようとする.そしてそのことによって「病い」を人間的活動の対象とする.

 闘病活動はたんなる病いへの対応という枠を超え,人間的活動としての意味が与えられる.そして一方では情熱的な活動として,他方では日々くり返される「いとなみ」として,諸個人の活動体系のなかに位置づけられるようになる.

 第二に,自己の身体的自然を客観的な対象となし,それを変革すべき人間的主体として自我を定立することである.

「反逆者」としての人間は、身体的自己の中に閉ざされた系ではなく、類的なものにつながる実存、人間性そのものである。そもそも自然への反逆を行おうとする人間的実存そのものが、自然に由来しながらそれとあらがって存在しているのである。闘病生活は病気と闘うという意味だけではなく、そうやって人間的な生を生き続けるという意味において自然への反逆活動なのである。

 それは「これまでの私」への反省であり,自己の身体もまた自然の一つに過ぎないこと,しかしそこにはさまざまな自然的能力が備わっていることを認識することである.病気の認識や受容は,「病い」に対するまるごとの屈服どころか,みずからを対象として客観化しようとする行動が心理的に表現されたものなのである.

北海道弁で「命根性」という。例えば「あいつは命根性がきたない」という場合、しぶとく長生きしている人へのユーモアを込めた賞賛である。

 

 病者たる自我は,「病い」の自然的過程たる「病気」に積極的に介入することで新たな自我を定立しようとする.それは諸個人が自己の身体的自然に対しても,反逆する主体であろうとすることである.

 それは病気を排除するための具体的な手だてをたてる過程でもある.彼は身体内外の防禦システムが最大限に力を発揮するよう,身体環境や社会環境を整えることにその人間的能力を集中する.これらの構えと具体的行動の形成の内に闘病活動の本質があるのである.

この点で闘病過程を労働過程に擬して、その主体は人間であり、対象も人間であり、手段も人間である、という意見がある。しかしそれはことば遊び以上の意味を持たない空疎な「定義」である。


第二節 近代的リアリストとしての病者

 注意しなければならないのは,これは一つの主体形成モデルに過ぎないということである.

 時代によって,地域・民族によってさまざまな主体形成モデルが存在し得るし,それぞれに存在理由が成立しうる.闘病主体を形成すること自体は確かに個人的営為に属することだからである.

 それは一種の心理的自己操作(マインド・コントロール)としての側面を持つゆえに,すぐれて文化的,イデオロギー的事象でもある.

 しかし病者は「病い」の博物誌を描く民俗学者ではないし,そこから「病い」の構造を定立しようとする文化人類学者でもない.病者は病いからの克服を目指す限りにおいて熱狂的なリアリストなのである.

 熱狂的であるが故の振幅の大きさを別にすれば,彼の行為は自然科学の発展に直接規定された歴史的・社会的な行為として収斂されていく.

 近代的リアリストたる病者の主体形成モデルは,一方において近代的人間観を,他方において近代医学の疾病観を前提として初めて成立する.

 もう一つ指摘しておきたいのは,このような闘病主体が完成されてのち,初めて診療活動が開始されるのではないということである.実際上はまず受療という行為があり,その後の医療者などとの交流のなかで,近代的病者としての主体が形成されていくのである.

 

第三節 「病い」の概念化と疾病観

 これまで述べたように,闘病過程は対自然的な活動を社会的活動へとつなぐ過程であり,内面的には「病い」の概念化という行為をふくんでいる.

 人間にとって「病気」とは,古今東西を問わず自然の摂理の暴力的貫徹である.それはある日突然出現し,さまざまな苦痛を通じて彼の肉体的現実を突きつける.それは直接苦痛をもたらすだけではなく,仕事や生活の不安をもたらし,生命そのものの危機をももたらす.

 生活主体としての諸個人にとっては,それは「災難」であり,概念の枠を超えた感覚的所与である.しかもその「災難」はとりあえず受容するほかないものである.

 この「受容」たるや決して観念的なものにはとどまらない.もちろん生まれてこのかた培ってきた人生観や宗教なども関係するであろうが,真剣に病気の克服を望むなら,まさにその違いを乗り越えて統一的な志向に到達しなければならない.すなわち近代的疾病観に基づく「病いの概念化」である.なによりもせっぱ詰まった現実がそのように要請するのである.

 とはいえ「病い」をイメージ化する作業は決して容易なものではない.人間は,自己の存在が身体的条件を前提としていることを自然科学的事実として知ってはいるが,決して日々のいとなみをそのような思想の上に構築しているのではないからである.

 「病い」の概念化という作業は優れて歴史的な行為である.概念形成に規定的な影響を与えるのは,その時代における疾病観である.

 歴史的に見れば人類はまず,さまざまな症状と身体的所見の複合体として「病気」を現象的に認識し,それをさまざまに解釈し対応してきた.

 この時点では病める主体とその身体は未分化であり,それぞれの症状が直接に何らかの「原因」と結びつけられていた.その疾病観は自然科学上の未発達に制限されてきわめて観念的なものであった.

 近代医学の発展により,人間は初めて科学的な疾病観に基づく身体イメージを描くことができるようになった.病者は,「病い」に対してリアルであろうとする限り,このような近代医学の立場に立つほかなくなったのである.

 

第四節 近代医学の発達と疾病観

  近代医学の疾病観の根本をなすのは,それが原因ではなく,誘因(引き金因子)であったり素因(遺伝子に仕組まれた病因)であったとしても,とにかく「発症を規定する因子は究極的には身体外部からもたらされている」ということへの確信である.フィルヒョウの組織病理学とパストゥール=コッホ以来確立された疾病外因説である.

この確信は、例えば老化の理論においては必ずしも該当しない可能性がある。しかし老化=病気ではないことも自明である。免疫疾患や精神疾患も、いずれ外因が明らかとなるかもしれない。

 19世紀の後半に入り,フィルヒョウが細胞や組織レベルでの病変を実証し,さまざまな症状が身体諸組織そのものの障害に由来していることを証明した.それまで病気そのものの仕業と考えられてきたさまざまな症状が,病いに侵された人体の発する二次信号系として理解されるようになった.

 「場」としての身体は,外的自然と人間的主体とのあいだに挿入された内的自然として,実践的認識の媒体として客観化・対象化されることになった.

  「症状=二次信号」の立場をとるならば,「病気」とは攻撃因子と防禦因子の闘いの過程であり,「病い」とはその闘いの場となった我が身体諸組織の被害として理解される.

 みずからの身体が攻撃因子と防禦因子の闘争の場であることを理解したとき,攻撃因子が外部から挿入されたものであり,防禦諸因子がこれに逆らって生命を維持しようとものであること,後者は身体に備わった生得的なものであると直感するのは,論理の必然的な成りゆきである.

 近代医学はこの直感を元に,さまざまな観察・実験・推理を駆使しつつ,ついに「病い」の真実=病因的理解に行き着くのである.

 ここから得られる結論はきわめて複雑なものである.

 外的な病因に対し自己の生きた身体は,実体としての肉体と能動性としての自己防衛=生命維持機能という二重のイメージの統一として理解される.後者は生命体の生命たる本質をなしている.

 いっぽう「病い」を人間的主体に対する自然の脅威ととらえたとき,人間はそれ自体が二つの契機の統一である身体的自然と,人間的「生の実存」たる自我との二重イメージとして把握されることになる.

さらにその自我たるや、ワロンによれば、能動性・意識性としての個性的自我と、集団性に起源を持つ情動的自我との二重構造として把握しなければならないのである。この二重構造は擁護・自立要求の心理学的成立過程を見る上で興味深い仮説である。

 このように二重に二重化された「病い」と自己の構造を心象として受け入れるのは大変なことだが,近代的病者はその作業をこなさなければならないのである.

 ところで医師や科学者たちが描く闘病過程は大抵書き出しが間違っている.彼らはまず病気の発症をウィルスや細胞膜や遺伝子構造の揺らぎから書き起こし,物質代謝の破綻,免疫システムの発動,修復機転へと筆を進める.

しかしそれらは人間的な活動としての闘病過程の起点をなすものではなく,物質的生命活動の擬人化に過ぎない.

多田富雄氏が流行の遺伝子=オールマイティー論に対抗して「免疫こそ生命の本態」というとき、彼は正しい。彼は物質的生命そのものをも自然への反逆として、「それぞれの生命体を陣地とする防衛戦」の形態において捉えている。しかし免疫が盲目的であること、少なくとも人間的な意味での自己イメージを持たないことも、幾多の研究が証明していることではある。


第五節 診療活動の位置づけと性格

  闘病活動に触れた以上,診療活動についても若干触れねばなるまい.

 医療活動の一環としての診療活動は,まずもって闘病活動を支援する活動として定立される.

 しかし医療活動一般と診療活動(行為)とを隔てる根本的な違いは,病者の身体的自然とその病的過程に直接介入することである.

 その際,医療者と病者とのあいだには,病者が主体と肉体的自然とに分離されることによって一種奇妙な三角関係が成立する.医療者と病者主体とが共闘関係を結んで,病者の身体的過程を対象として行動を起こすのである.

 この行為を医療者の立場から眺めるとどうなるか.

 医療者はまず医療活動=病者の擁護を行うために病者と接する.この場合の病者は身体もふくめた病者全体である.いったん病者との合意が成立するや,医療者は,身体への操作を承認するほどに病者主体が形成されているかどうかはお構いなしに,患者の身体を直接対象とする活動を始める.

 やばいことだが,物質的活動としての診療活動は,療養活動のありようによって直接に規定されるものではない.いったんこの活動が開始されるや,一連の行為が完了するまでのあいだ病者の身体は医療者の管理のもとに置かれるほかないのである.

このような関係は実はサービス業においては普遍的に見られるものである。レストランに入ってメニューを見て料理を注文したら、後はできあがるのを待つほかない。
レストランの存在価値は客に満足を与えることにあるのだが、それはおいしい料理を作って出すことに由来する。だからインフォームド・コンセントを実行するコックなどあまり見たことがないのである。ただ調理の対象が我と我が身であるために、複雑な想いが出てきて議論をややこしくしてしまうのであるが。

 患者による病気の訴えはそのまま診療活動の対象となるわけではない.患者の病いの構造は取捨選択され,いったん諸要素の集合として分解され,診断論理のなかに整序される.そしてそれぞれが医学体系の対応する場所で過去の経験とつきあわされ,治療方針が選択され実施される.

 そこには一種の自然科学としての自己完結性があり,その故に病者に対して排他的・独善的ともいえる傾向を生じる.

 診療活動は,自立の過程が成功的に進行して初めてその意義が実現する.それは社会的な視点から見ても媒介的で条件的な活動であり,その目的を他律的に定められた活動である.診療活動はその社会的意味を与えられたとき初めて成立する.共同体主体の持つ人間観や医療観などを我らが思想として,活動の中にその実現を目指さないかぎり,自らの活動に意味を持たすことはできないのである.

この項 了