統一戦線よさようなら,「非営利・協同」よこんにちは
前田事務局長論文を読む
私が「非営利・協同」批判にのめり込むことになったきっかけが「民医連医療」の7月号,前田論文に対する批判です.最初の文章なので,いま読むと不十分なところ,誤解に基づく批判も含まれています.今回,最小限の手を入れました.
99年3月末頃,知事選挙真っ最中に,私はある小集会に参加しました.そのときは北海道民医連の佐藤誠一事務局長が知事候補として立起しており,その代理弁士としてやってきた北海道社保協の鍋谷さんと話す機会がありました.鍋谷さんの話では,全日本民医連の評議員会で「非営利・協同」が提起され,かなり議論が沸いたが,執行部は断固として提案を引っ込めなかった,とのことでした.
そのときは,さほど興味があるわけでもなく聞き流していたのですが,「民医連医療」誌の七月号が手に入るや否や,それは激しい衝撃に代わりました.これは「葦牙」ではないか!民医連ともあろうものが,こんなネズミ講みたいなものにどうして引っ掛かるんだろう?
第33期第2回評議員会(99年3月)に展開された非営利・協同組織の役割
前田事務局長の文章は,まず評議員会決定の説明から始まります.そして「非営利・協同」路線の提起が,第二回評議員会のもっともだいじな中身であったことを強調し,次のように述べます.
1.医療や福祉の分野で,「市場の失敗」や「政府の失敗」により,営利企業や公的組織が地域住民の社会的要求を充足し得ない場面が出現してきている.それは主として90年代に入ってからの現象である.
2.その場合,それに代わって社会的需要を満たしていく役割を非営利・協同組織が担うようになってきている.
3.これは資本主義の矛盾をある範囲で実践的に克服し,補完するきわめて重要な分野である.その役割は国際的にも認知されている.
きわめて分かりにくい文章です.まず1がどのような「現象」を指しているのかがよく分かりません.バブルが崩壊してから,財政が厳しくなり,住民サービスが低下したことをさしているのでしょうか? それにしては,「市場の失敗」だの「政府の失敗」だの言うことが大袈裟です.「現象」というからには,なんらかの事実を問題にしているのですから,根拠となる統計数字等もあげながら,「こういうことを言っているんだ」と納得させてもらわなければなりません.
もう後のほうに文章を読み進めていくと,さらに分からなくなります.「市場の失敗」はアメリカの話で,「政府の失敗」はソ連の話です.それがどうして「地域住民の社会的要求を充足し得ない場面が出現してきている」ことと関係があるのか,さっぱり分かりません.
もう一つ分からないことがあります.90年代における(そして2000年代においても)日本の支配層は,住民の要求を「充足し得ない」のではなく,そのつもりがないことが問題としか思えません.日本はソ連でも米国でもなく,世界に冠たる経済大国であり,やる気になればいまでも立派に出来るはずです.彼らは社会保障や福祉を切り捨てているとしか思えないのですが.
2と3についても疑問があります.「資本主義の矛盾」というのが,具体的に医療・福祉の切り捨てのことを指しているとすれば,非営利・協同組織がそれを穴埋めするようになって来ているようにも思えないし,穴埋めできるほどの力もないと思います.さらに言えば我々の最大の任務は,医療福祉の切り捨てに反対することであり,「資本主義の矛盾」の穴埋めに没頭すべきではないと思います.
資本主義の矛盾を「克服」することと,「補完」することとは,実践の形態は似ていても,方向がまったく逆です.たとえば勤医協の社員活動は体制「克服」の活動で,日赤の社員活動は体制「補完」の活動です.
したがって,これに続く一文のごとく,「民医連綱領の立場を堅持しつつ,非営利・協同組織についての論議を深める」ことは,極度の「多幸症」にならない限り不可能と思います.無理にやっても思想的股割き状況になります.
アメリカの医療は「市場原理」に任せたために失敗した.それは市場の失敗だった.旧ソ連の医療は非民主的な官僚統制であったため失敗した.それは政府=国家の失敗だった.
たった2行で世界史を総括するという,実に大胆かつ単刀直入な「20世紀論」に関する御評価で,私にはどう応えたらよいのやら分かりません.
私たちは学生時代,一所懸命ソ連の医療制度や教育制度を勉強しました.クルプスカヤの教育論などは,いまでも私の胸に深く残っています.「旧ソ連の医療は非民主的な官僚統制であったため失敗した」と一言で切り捨てられると,いささか釈然としません.キューバにおける医療や公衆衛生のすばらしい到達は,「社会主義」ならではのものと思っています.
アメリカの医療に関しては,「誰にとって失敗だったのか」を考えなければなりません.支配者にとっては,それはむしろ成功だったのかも知れません.いづれにしても,この議論を突き詰めていくと「日本は良くやった」論に帰結しかねません.
まさに前田さんの言うとおり「市場の失敗や国家の失敗を医療や社会保障の分野から見るのでなく,政治や経済……など,社会をとりまく全体像から見てみる」ことが大事でしょう.
世界で,国家でも営利企業でもない,非営利・協同の経済組織が注目されるようになりました.民医連も大きな枠組みとしてはこの非営利・協同のなかに入ります.
分からないことを持ち出すときに,「世界では」という言葉を持ち出すのは,一種のおまじないです.
民医連はこんな概念が出来る前から民医連でした.前田さん風の言い方をすれば,いま民医連の存在こそが世界から注目されているのです.「よらば大樹の陰」ではなく,もっと世界に胸を張って良いのではないでしょうか.
今日の情勢は「人権か,営利か」という対決軸にある.90年代後半は,医療そのもののあり方に関わる重大な転換期である.
この争点設定は,承認されているのでしょうか? そもそもどんな意味でしょうか? 人権に基づく医療と,営利的医療の二つの道の選択ということでしょうか? 「医療そのもの」というのは医療供給システムのことを指しているのでしょうか?
資本主義の一般的傾向として,社会コストの切り下げ=低医療費政策は貫徹しています.しかし局面において,そこから利益が上がる可能性があれば,資本の一斉参入はあり得るし,その際参入した資本が営利を追求することも自然です.
90年代後半にそういう局面が出現しつつあるという認識でしょうか? すくなくとも医療・福祉全般の情況としてみる限り,私にはそのような認識を持てません.あえていえば,それは「幻の対決点」ではないでしょうか.
むしろ私の認識としては,これまでの医療切り捨て路線そのものは一貫しており,その規模がはるかに大規模になり,加速されていること,その内容が生活破壊攻撃と一体となり,はるかに深刻になってきているところに,90年代後半の最大の特徴を見るべきではないか,と思います.だから医療切り捨てとウラハラの関係にある,大企業とゼネコン優先型の公共事業をすすめるか,国民生活優先の政策に切り替えるかが,まさしく焦眉の課題として提起されているのではないでしょうか!
「人権と非営利」のキーワードは,たたかいの標語でもあります.それは「医療戦線の統一」というスローガンを発展させ,それに代わるものとなります.それは平和・人権・福祉の新たな日本を作り上げる壮大な提起です.
私にとって,ここが一番かちんときた表現です.統一戦線の旗印を捨てて「人権と非営利」に乗り換えよという主張は,ほとんど反国民的な主張です.いい加減にしないと,「人権と非営利」は日本革命のスローガンにもなりかねません.
そもそも,「人権と非営利」は民医連の経営理念に関わって打ち出された考えではないでしょうか.それですら「民主経営」論との関係で,まだ吟味しないとならないところがあるように思えます.まして,それを天まで持ち上げて,医療戦線統一の課題にとって代わるものまで強調するのなら,もはや民医連とは別の世界の話になります.
ヘルパー事業やグループ・ホームなど「非営利・協同」の事業が広がりつつあります.
「非営利・協同」とは,こういう採算ベースに乗りにくい「事業」のことを言っているのでしょうか? 確かにこういう事業で営利を追求するのは困難ですから,いやおうなしに「非営利」とならざるを得ません.
しかし,もしそういう事業を指すのなら,何も「非営利・協同」と,あえて言上げしなくても良いのではないでしょうか.たとえば,私たち団塊の世代は,すでに「無認可保育所」や「学童保育」などの素晴らしい経験を持っています.まさに非営利・協同です.
ただ私たちはそれを国や各種施設のシステムにとって代わるものとしては展望しなかったし,国と資本家による保育行政の責任の問題を決してうやむやにはしてきませんでした.
その運動は,まさしく人民の創意的な抵抗形態の一つとして,とらえられていたのではないでしょうか.
初期の段階は新しい挑戦であり,試行錯誤です.でもみんなが知恵を出し,民主的に論議する中でこそ,地域の中に連帯が生まれてきます.
どうも民医連のことを議論しているのではなさそうです.民医連の経営はすでに「初期の段階」ではありません.なんでも試行錯誤では困ります.「民主的に論議」しているだけでも困ります.多数の合意に基づく一定の方針のもと,断固やるべきことはやらなければなりません.その結果生じた事実については経営幹部が責任を持たなければなりません.
集団指導と個人責任は,民主集中制を維持する上で根幹となる組織原理です.とくにお金と職員の生活がかかる課題ですから,仲良しクラブのようなわけには行きません.それは無認可保育所にあっても学童保育にあっても同じです.
(共同組織の)運動に,新婦人などの市民戦線と労働戦線が合流したとき,(日本の政治に)新たな局面を切り開くのではないかと予感しました.
大変な「予感」です.背筋に戦慄を憶えるくらいです.「人権と非営利」が壮大な提起だとする根拠はここにあったのです.
この一節は,北海道で開かれた共同組織の交流会が大成功に終わったのを受けて,その感想に引き続いて述べられています.ひょっとしたら少しアルコールが入っているのかしら?
これからの日本人民の闘いは,民医連=共同組織を基軸とし,市民戦線,労働戦線の三つの戦線によって担われ,しかもそれらの戦線は民医連=共同組織の旗の下に合流しなければならないのです.そう,これからは民医連が日本革命を指導するのです.
「非営利・協同」組織を研究している学者・研究者は「参加」を重視しています.
「非営利・協同」を研究している学者・研究者がどんな人たちなのかは,後で明らかにします.この言い方も,「世界では」と同じ,なまずるいレトリックです.
「参加」はむずかしい議論です.街作り活動や行政機構への関与など,実践的には確かに直面している課題でもあります.昔のように「暴露と宣伝の場」などといって済ましているわけには行きません.しかし下手をすれば,支配層にとっての「イチジクの葉」になりかねません.「公開」の原則を優先させ,大衆的参加を常に保障し,代表者任せにしないこと,その場その場での彼我の力関係を把握し,限界をわきまえた上で行動することが求められます.
もちろん,実践的参加はどんどん進めていかなければなりません.それと同時に,参加の条件,基準などが個別課題について慎重に議論され,それが一定の経験となって蓄積されたとき,はじめて確信を持って「参加」について語ることが出来るようになるでしょう.いずれにせよ「参加」は階級闘争のあらゆる局面に出現する一つの戦術的課題であり,力関係の変化に応じた過渡的形態ですから,絶えず創造性がもとめられる問題です.
「参加」論を展開する論者のかなりの部分には,「参加」そのものを極端に強調する傾向があります.「参加」することで参加の対象が変質し,民主主義あるいは人民の優位が実現するかのような言い方がされます.
「参加」論は大学紛争の時にも盛んに叫ばれました.もともとフランスで学生が大学を占拠したときの彼らの要求が「参加」でした.大学紛争初期の全共闘のスローガンにも「参加」が謳われていましたが,それは急速に大学解体へと「深化」していきました.要するに「参加=乗っ取りか,しからずんば解体」という二者択一が彼らの信条でした.
この「参加」は他人から強制された参加でなく,主体性を持った参加としてとらえるべきだろうと考えます.
おそらく「参加」の意味を分かっていないのだろうと思います.「参加」は,もともと経営協議会への参加であり,労働者の主体的権利にかかわる問題です.それは工場の労働者管理や,工場評議会の樹立へと連なる文脈の下でも語られてきました.それはグラムシからトリアッティの構造改革論へと深化していきます.
さらに地方自治体や各種諮問機関への参加なども, 「参加」の名の下に語られることがありますが,これについては問題となるようなことはひとつもありません.大いにやってくださいということです.
いずれにしても,「参加」は,夕方の署名行動に動員されるのとはわけが違います.
最後に
いま,「民医連宣言」があらためて実践的課題として提起されています.
私の考えでは,「民医連」運動そのものが,現代日本における人民独自の抵抗形態です.日本人民の抵抗は,その特殊なきびしさ,特殊な強さ,特殊な激しさを持っています.その特殊性の中に民医連を位置づける理論的作業が必要であり,それこそが「宣言」の核心となるでしょう.
階級闘争は,まずもって搾取・収奪するものと,されるものの闘いです.この闘いの場では,人権と抑圧,進歩と反動の二つの陣営がぶつかりあっています.少なくとも資本主義が続く限り,この対立が消滅することはありません.
国民の諸闘争は,個別には階級闘争における多面的な戦場の一分野を形成しています.これらは相対的に独立しており,そこには独自の闘いの論理が発生してきます.そのひとつとして「非営利」事業という場,「共同」という場などが設定しうるのですが,それらの闘いの成否は,階級間の力関係によって究極的には規定されるのです.逆に言えば,それらの場での闘いは,国政革新の闘いを有利にするために貢献してこそ,勝利の展望をつかめるのです.
「協同」に関するいくつかの論文を読みましたが,こういう視点の欠落,ないし軽視が目に付きます.それらについても機会があれば批判的に紹介したいと思います.